般若心経 般若心経は、非常に有名なで、「 天下第一のお経」ともいわれます。 を開いたは、「 簡にして要、約にして深し」と言っています。 と以外なら、でもでも、でもでもでもよく読まれたり、写経されます。 大変親しまれているため、あのラフカディオ・ハーンの「 耳無芳一」の体に書かれた経文も般若心経です。 しかしその内容は初心者向けではなく、まるで仏教の教えを否定しているかのような危険な側面もあります。 一体どんなお経なのでしょうか? 般若心経の特徴 『 般若心経』は詳しく言うと『 般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみったしんぎょう)』です。 略して『 心経(しんぎょう)』ともいわれます。 まず、タイトルの『 般若波羅蜜多心経』はどんな意味かというと、「 般若」とは、のことです。 「 波羅蜜多」はの「 波羅蜜」と同じことで、意味は「 に到る」ということです。 「 彼岸」とはのことですから、浄土へ渡る、ということです。 「 心」とは、要を抜き出したということです。 実際、『 大品般若経』30巻や『 大般若波羅蜜多経』600巻の中には、大変よく似たところがあります。 それらの膨大な般若経の核心を簡潔に説き明かされたお経であり、私たちを彼岸へ導こうとされたお経なのです。 般若心経の種類 漢文の『 般若心経』には、実は8種類の異なった翻訳が現存しています。 翻訳された時代順に並べると以下のようになります。 1.『 摩訶般若波羅蜜大明呪経』鳩摩羅什訳 2.『 般若波羅蜜多心経』玄奘訳 3.『 仏説般若波羅蜜多心経』義浄訳 4.『 普遍智藏般若波羅蜜多心経』法月 5.『 般若波羅蜜多心経』般若・利言譯 6.『 般若波羅蜜多心経』智慧輪訳 7.『 聖佛母般若波羅蜜多経』施護訳 8.『 般若波羅蜜多心経』法成訳 この中で、普通『 般若心経』として広まっているのは、2番目の(げんじょう)が翻訳したものです。 インドのサンスクリット語の般若心経には、最澄が中国から伝えた小本と、ネパールで発見された大本の2つがあります。 大本というのは、小本にはない最初と最後の部分があります。 漢訳経典の1と2は小本に対応し、4から8は、大本に対応しています。 ここでは、一番一般的な玄奘訳の『 般若心経』を解説していきます。 般若心経の全文 まず最初に、以下が『 般若心経』の全文です。 仏説・摩訶般若波羅蜜多心経 ・行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。 色不異空、空不異色、、空即是色。 受・想・行・識・亦復如是。 舎利子。 是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。 是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。 無眼界、乃至、無意識界。 無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。 無苦・集・滅・道。 無智、亦無得。 以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離・一切・顛倒夢想、究竟涅槃。 三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。 故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。 故説、般若波羅蜜多呪。 即説呪曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。 般若心経 玄奘の翻訳には「 遠離・一切」の所の一切がなく、260字ですが、よく広まっているのは、上記のような、一切を加えた262字です。 これを書き下すと以下のように読みます。 般若心経の書き下し文 、深般若波羅蜜多を行じし時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり。 、色は空に異ならず、空は色に異ならず。 色はすなわちこれ空なり、空はこれすなわち色なり。 受想行識もまたまたかくのごとし。 舎利子、この諸法の空相は、不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。 この故に、空の中には、色もなく、受想行識もなし。 眼耳鼻舌身意もなく、色声香味触法もなし。 眼界もなく、乃至、意識界もなし。 無明もなく、また無明の尽くることもなし。 乃至、老死もなく、また老死の尽くることもなし。 苦集滅道もなし。 智もなく、また得もなし。 無所得を以ての故に。 菩提薩埵の、般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙なし。 罣礙なきが故に、恐怖あることなし。 一切の顚倒夢想を遠離し究竟涅槃す。 三世諸佛も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。 故に知るべし、般若波羅蜜多のこの大神呪、この大明呪、この無上呪、この無等等呪を。 よく一切の苦を除き、真実にして虚しからず。 故に般若波羅蜜多の呪を説く。 すなわち呪を説いて曰く、 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経 般若心経が説かれた場面 この『 般若心経』はどんな意味なのでしょうか? まず『 般若心経』がどのようなときに説かれたのかというと、そのことが『 般若心経』の大本の冒頭部分に説かれています。 お釈迦さまが、お弟子たちやと共に、当時インド最強だったマガダ国の首都・王舎城の、霊鷲山という山におられたときのことです。 お釈迦さまは、三昧という心を一つにした状態にに入っておられました。 そのとき、のを表す菩薩であるが、般若の智慧を実践して一切は空であると見抜き、一切の苦しみから救われました。 すると、釈迦の一人である尊者が、「 般若の智慧を完成したいときにはどうすればいいのでしょうか」と観音菩薩に質問します。 その時、観音菩薩が舎利弗尊者に説かれたのが、『 般若心経』です。 般若心経の目的 まず最初に、「 観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行じし時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり」と説かれています。 まず、「 観自在菩薩」とは、観音菩薩といっても同じです。 インドの言葉で説かれているお経を中国の言葉にするときの翻訳の違いです。 (くまらじゅう)の翻訳では「 観音菩薩」といわれますが、の翻訳では「 観自在菩薩」といわれます。 観音菩薩は、阿弥陀如来のを表す菩薩です。 「 深般若波羅蜜多を行ずる」とは、般若の智慧を完成されたということですが、それは、六波羅蜜を実践されたということです。 「 六波羅蜜」とは、 1.(ふせ)、 2.(じかい)、 3.(にんにく)、 4.(しょうじん)、 5.(ぜんじょう)、 6.(ちえ)の6つです。 その結果が、「 五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり」ということです。 『 般若心経』が目的としているのは、ここに説かれているように、「 一切の苦厄を度する」ことです。 つまり、一切の苦しみを救う、ということです。 そもそも仏教の目的が、すべての人の苦しみを救うことなのです。 『 般若心経』もそのために説かれているのです。 これを忘れてしまうと、お経の表面的な意味を理解したとしても、要の抜けた頭だけの遊びになってしまいます。 このことをよく心に置いて、意味を理解するようにしてください。 般若心経の心臓部分 この「 五蘊皆空(ごうんかいくう)」が、般若心経に説かれる内容を一言で表した心臓部です。 有名な「 」もこの一部分に過ぎません。 五蘊(ごうん)とは 五蘊とは、人間を構成している5つのものです。 「 蘊」とは、積集(しゃくじゅう)ということで、集まりのことです。 その5つとは、色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊の5つです。 「 色蘊(しきうん)」とは、肉体や、その他の物質のことです。 「 受蘊(じゅうん)」とは、苦楽を感受する働きです。 「 想蘊(そううん)」とは、認識する働きです。 「 行蘊(ぎょううん)」とは、意思をはじめとする、受蘊、想蘊以外の心の働きすべてです。 「 識蘊(しきうん)」とは、心のことです。 このように、色蘊は肉体や世界、受蘊・想蘊・行蘊は心の働き、識蘊は心のことですので、五蘊とは、心身のことです。 その五蘊は、「 皆空」である、というのが「 五蘊皆空」です。 皆空とは 「 空」とはどんなことでしょうか? それを知るには、仏教の根幹である、因果の道理を知らなければなりません。 因果の道理とは、この世のすべては、因と縁がそろって生じている、ということです。 これをお釈迦さまは、 「 一切法は因縁生なり」(大乗入楞伽経) と説かれています。 「 一切法」とは万物のことです。 因縁生とは、因と縁がそろって生じている、ということです。 「 因」とは直接的な原因で、 「 縁」とは間接的な原因のことです。 例えば、米という結果を得るためには、因はモミダネです。 ところが、モミダネを机の上に置いていても、米にはなりません。 他にも、水や土、温度、栄養など、色々なものが必要です。 これらを縁といいます。 因だけでも結果は起きませんし、縁だけでも結果は起きません。 すべてのものは、因と縁が結合して生じている、ということです。 したがって、一切に固有の実体はありません。 これを分かり易く教えた歌が、 「 引き寄せて 結べば柴の庵にて 解くれば 元の野原なりけり」 「 庵」とは、テントのようなものです。 野原で草を引き寄せて、上の部分を縛ると、簡単な庵を作ることができます。 ところが、その庵には、固有の実体はありません。 草という因と縛られたという縁がそろって、一時的に庵になっているだけで、上の部分がほどかれると庵はなくなります。 しかし、無になるのではありません。 元の野原になります。 これは、どんなものでも同じです。 例えばパソコンにも固有の実体はありません。 色々な部品が組み立てられて、一時的にパソコンになっていますが、分解すると、パソコンはなくなります。 しかし無になるのではありません。 ディスプレイやキーボード、演算処理装置、記憶媒体などの部品になります。 それらの部品も、一時的にディスプレイやキーボードなだけで、分解すると、ディスプレイもキーボードもなくなります。 しかし無になるのではなく、別の何かになります。 現代物理学では、そうやって分解していった一番小さい要素は、素粒子になります。 素粒子には大きさはありません。 ではなぜこの世に大きさがあるのかというと、大きさのない素粒子の相互関係によって、大きさのある世界ができています。 つまり、物理学でもこの世に実体はないのです。 従って、五蘊にも実体はありません。 私たちの心にも体にも、実体はないのです。 これは仏教の根幹である因果の道理から必然的に出てくることです。 観音菩薩は因果の道理にしたがって六波羅蜜を実践し、五蘊皆空と知らされ、一切の苦しみの解決を体験されたのです。 色即是空とは? 次に、有名な「 色即是空」が出てくるところです。 ここで「 五蘊皆空」を、このように詳しく説明しています。 「 舎利子、色は空に異ならず、空は色に異ならず。 色はすなわちこれ空なり、空はこれすなわち色なり。 受想行識もまたまたかくのごとし」 「 舎利子(しゃりし)」とは、釈迦十大弟子の一人、智慧第一の舎利弗(しゃりほつ)尊者のことです。 観音菩薩が、舎利弗から質問を受けたので、呼びかけられたのです。 「 色」とは、色蘊のことで、物質的なものです。 「 色は空に異ならず」というのは、物質的なものに実体はないということです。 では何も無いのかというと、そうではありません。 次に「 空は色に異ならず」といわれています。 によって物質的なものが生じているということです。 このことを言葉を変えて、「 色はすなわちこれ空なり、空はこれすなわち色なり」と解かれています。 「 受想行識もまたまたかくのごとし」とは、色蘊以外の、受蘊も想蘊も行蘊も識蘊も同じことである、ということです。 例えば受蘊でいえば、 「 受は空に異ならず、空は受に異ならず。 受はすなわちこれ空なり、空はこれすなわち受なり」 ということです。 識蘊でいえば、 「 識は空に異ならず、空は識に異ならず。 識はすなわちこれ空なり、空はこれすなわち識なり」 ということです。 一切は生ずることも滅することもない 次に、この五蘊皆空を別の側面からこのように教えられています。 「 舎利子、この諸法の空相は、不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり」 「 諸法」とは、万物のことで、五蘊と同じです。 万物の空である姿は、生ずることも滅することもないというのは、因縁が結合したり離れたりするだけで、無から有が生じたり、有ったものが無くなったりしているわけではない、ということです。 「 不垢にして不浄」とは、汚いとかきよらかということも因縁によるもので、汚い実体とかきよらかな実体はないということです。 例えば、唾液は、吐き出すとみんな汚いと思いますが、口の中にあるときは、殺菌作用で口の中をきれいにするものです。 誰もが汚いと思う排泄物も、体内にあるときは、食べ物だったり、腸内環境をよくする善玉菌だったりします。 体の外に出た途端、みんな汚いと思います。 このように、すべては因縁によって生じているのであって、汚いとかきよらかな実体というものもないのです。 「 不増にして不減」というのも、「 不生にして不滅」と同じように、すべては因縁がくっついたり離れたりしているだけで、何かが増えたり減ったりしているのではない、ということです。 その結果、どうなるのでしょうか? この世のすべて(十八界)に実体はない 次に、このように説かれています。 「 この故に、空の中には、色もなく、受想行識もなし。 眼耳鼻舌身意もなく、色声香味触法もなし。 眼界もなく、乃至、意識界もなし」 まず、「 この故に、空の中には、色もなく、受想行識もなし」は、五蘊皆空を繰り返されています。 「 空の中には」とは、すべては因縁によって生じているのだから、ということです。 「 色もなく」とは、今あると思っている物質(色蘊)も、因縁が離れたら別のものになるので、なくなってしまう、ということです。 「 受想行識もなし」とは、今あると思っている苦楽の感覚(受蘊)も、イメージ(想蘊)も、意思(行蘊)も、心(識蘊)も、因縁が離れたら別のものになるので、なくなってしまう、ということです。 この世のすべてに実体はないのです。 次の「 眼耳鼻舌身意もなく、色声香味触法もなし。 眼界もなく、乃至、意識界もなし」も、この世のすべてに実体はないということを、少し別の角度からさらに詳しく説かれたものです。 一言でいうと、認識の働きも、認識の対象も、認識の主体も、実体がないということです。 まず「 眼耳鼻舌身意」とは、認識する働きである六根のことです。 次の6つです。 眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根 「 眼耳鼻舌身意もなく」とは、これらの認識する働きも、たまたま因縁がそろって存在しているだけで、因縁が離れるとなくなる、ということです。 たとえば、視神経が損傷して目が見えなくなったり、聴覚神経がやられて耳が聞こえなくなったりします。 認識の働きにも実体はないということです。 次に、「 色声香味触法」とは、六根が認識する対象の六境のことです。 次の6つです。 色境・声境・香境・味境・触境・法境 「 色声香味触法もなし」とは、これらの六境も、たまたま因縁がそろって存在しているだけで。 因縁が離れるとなくなります。 目に見えるものも、耳に聞こえるものも、実体はないことを「 色声香味触法もなし」といわれているのです。 次に、「 眼界もなく、乃至、意識界もなし」の眼界とか意識界とは、六根と六境に、認識する主体である、六識を加えたものです。 六識とは次の6つです。 眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識 これらの18は、以下のように対応しています。 例えば目が見えなくなれば眼識はなくなりますし、耳が聞こえなくなれば耳識はなくなります。 死ぬと、これらの心はすべて滅びます。 このように、これらの十八界すべてに実体はないことを「 眼界もなく、乃至、意識界もなし」といわれているのです。 12の迷いの原因(十二因縁)にも実体がない 次に「 無明もなく、また無明の尽くることもなし。 乃至、老死もなく、また老死の尽くることもなし」といわれています。 「 無明」とか「 老死」とは「 」のことです。 十二因縁とは、私たちの12の迷いの原因を教えられたものです。 お釈迦さまは、この十二因縁を発見され、さとりを開かれた、と説かれています。 その十二因縁とは、1無明・2行・3識・4名色・5六処・6触・7受・8愛・9取・10有・11生・12老死のことです。 この一番最初の「 無明」と最後の「 老死」を挙げて、途中を「 乃至」で省略して、十二因縁を表しているのです。 「 無明もなく、老死もない」というのは、これらの「 十二因縁」に実体がないということです。 すでに五蘊皆空と説かれ、識にも受にも想にも行にも色にも、この世のすべてに実体がないことを明らかにされましたので、十二因縁にも実体はありません。 十二因縁に実体がない以上、十二因縁が尽きるということにも実体がありません。 そのことを「 無明もなく、また無明の尽くることもなし。 乃至、老死もなく、また老死の尽くることもなし」と説かれているのです。 4つの真理(四聖諦)にも実体がない 次に「 苦集滅道もなし」と説かれています。 「 苦集滅道」とは、のことです。 四聖諦とは、4つののことで、 「 苦諦」……「 人生は苦なり」という真理 「 集諦」……苦しみの原因を明かした真理 「 滅諦」……真の幸福を明かした真理 「 道諦」……真の幸福になる道を明かした真理 の4つです。 略して「 苦集滅道」といいます。 「 苦集滅道もなし」とは、これら四聖諦にも実体はない、ということです。 智慧も所得もない 次に「 智もなく、また得もなし。 無所得を以ての故に」と説かれています。 「 智」とは智慧のことです。 『 般若心経』の「 般若」は、智慧のことですから、ここまで説かれてきた、十八界も十二因縁も四聖諦も実体がないという五蘊皆空が智慧だろうと思います。 ところが智慧は、六波羅蜜を行じて体得するものであり、もせずに頭だけで考えてイメージするようなものではありません。 知る私が空なのです。 それで「 智もなく」と否定されているのです。 智慧ばかりではありません。 次の「 得もなし、無所得を以ての故に」とは、五蘊皆空ですから、何かを知ったり得たりする私も空なら、得る対象も空なので、得るということもない、ということです。 六波羅蜜を実践して高い悟りを開くと、無所得の境地に至るのです。 般若波羅蜜多の功徳 次に「 菩提薩埵の、般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙なし。 罣礙なきが故に、恐怖あることなし。 一切の顚倒夢想を遠離し究竟涅槃す。 三世諸佛も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり」 と説かれています。 「 菩提薩埵」とは、菩薩のことです。 「 般若波羅蜜多」とは、「 般若」とは智慧のことで、「 波羅蜜多」とは、彼岸に到ることですから、彼岸に渡る智慧です。 菩薩は六波羅蜜を行じて、彼岸に渡る智慧が完成すると、心に罣礙がなくなるということです。 罣礙とは、さわりということで、のことです。 「 罣礙なきが故に、恐怖あることなし」とは、煩悩がなくなると恐怖がなくなるということです。 恐怖の中でも最大の恐怖は、かという恐怖です。 その死のもなくなります。 「 一切の顚倒夢想を遠離し究竟涅槃す」からです。 「 顚倒」とは逆立ちしていることで、間違った考えです。 「 夢想」も同じことで、妄想であり間違った考えです。 智慧を完成すれば、一切の間違った考えを離れて、死ぬと究極のに入ると教えられています。 次に「 三世諸佛も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり」と説かれています。 三世の諸仏とは、過去、現在、未来の一切の仏のことです。 地球上ではを開かれた方は、お釈迦さまただお一人ですが、大宇宙には、数え切れないほどのたくさんの仏様がおられるとお釈迦さまは説かれています。 それらの沢山の仏方を三世諸仏といわれています。 「 阿耨多羅三藐三菩提」とは、仏のさとりのことです。 過去、現在、未来のすべての仏さまも、彼岸に渡る智慧によって、仏のさとりを開かれたのだ、ということです。 般若波羅蜜多のまことの言葉の素晴らしさとは? 最後に、般若波羅蜜多のまことの言葉を説かれています。 「 故に知るべし、般若波羅蜜多の この大神呪(だいじんしゅ)、 この大明呪(だいみょうしゅ)、 この無上呪(むじょうしゅ)、 この無等等呪(むとうどうしゅ) を。 よく一切の苦を除き、真実にして虚しからず」 まず、「 呪」というのは、のことではありません。 真言のことです。 真言とは、まことの言葉ということです。 私たち人間の言葉は嘘偽りばかりですが、仏の言葉には「 仏語に虚妄なし」といわれるように、決してはないのです。 「般若波羅蜜多のまことの言葉」を4通りにすばらしいといわれています。 「 大神呪」とは、なまことの言葉 「 大明呪」とは、明らかなまことの言葉 「 無上呪」とは、この上ないまことの言葉 「 無等等呪」とは、並ぶもののないまことの言葉 ということです。 「 般若波羅蜜多」とは、彼岸に渡る智慧ということですから、次の 「 よく一切の苦を除き、真実にして虚しからず」とは、観音菩薩のように六波羅蜜を実践し、彼岸に渡る智慧を完成すれば、自分の苦しみも他人の苦しみも本当に除くことができる、ということです。 般若心経の結論とは? では、般若波羅蜜多のまことの言葉とは具体的には何でしょうか? 次にこのように説かれます。 「 故に般若波羅蜜多の呪を説く。 すなわち呪を説いて曰く、 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」 これは「 般若波羅蜜多のまことの言葉」とは、「 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」である、ということです。 「 羯諦」とは行くということです。 「 波羅」とは、向こうへ、ということです。 般若波羅蜜のまことの言葉ですから、向こうというのは彼岸であり浄土のことです。 ですから「 波羅羯諦」は彼岸へ往くことです。 次の「 波羅僧羯諦」の「 僧羯諦」は、到達するということですから、浄土へ往くということです。 「 菩提薩婆訶」の「 菩提」は仏のさとり、「 薩婆訶」は成就ということです。 ですから、このまことの言葉の意味は、「 仏道を求め、完成して、浄土へ往って仏に生まれた」ということです。 こうして観音菩薩は、舎利弗のどのように般若の智慧を完成すればいいのかという質問に答え終わったのです。 それは、五蘊皆空の因果の道理を信じて、彼岸へ向かって布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六波羅蜜を実践しなさい、ということです。 それを聞かれたお釈迦さまは「その通りだ、そのように実践しなさい」といわれています。 これが般若心経の結論です。 般若心経の位置づけ この『 般若心経』で気をつけなければならないのは、「 十二因縁」や「 四聖諦」などの仏教の基本的な教えをあたかも否定しているかのように誤解しやすい所です。 ですから『 般若心経』は、仏教を初めて学ぶ人に対して説かれたお経ではありません。 お釈迦さまは、まず『 阿含経(あごんきょう)』で、因果の道理を説かれ、十二因縁や四聖諦を教えられます。 これを幼稚園のようなものだとすれば、いつまでもそこに留まっていればいいのではありません。 次にお釈迦さまは「 方等経(ほうどうきょう)」を説かれます。 これは小学校のようなものです。 その次に説かれるのが「 般若経」です。 これは中学校のようなものですが、そのエッセンスが『 般若心経』なのです。 ですから、一番初歩的な『 阿含経』よりは高度ですが、まだ高校、大学があります。 お釈迦さまは六波羅蜜の実践を勧めて、私たちに苦悩の根元を知らせ、断ち切られて本当の幸福になるところに導こうとされているのです。 では、ブッダが導こうとされている本当のとはどんなものなのか、 どうすれば本当の幸せになれるのかについては、小冊子とメール講座にまとめておきました。 一度見てみてください。 メニュー•
次の般若心経 般若心経は、非常に有名なで、「 天下第一のお経」ともいわれます。 を開いたは、「 簡にして要、約にして深し」と言っています。 と以外なら、でもでも、でもでもでもよく読まれたり、写経されます。 大変親しまれているため、あのラフカディオ・ハーンの「 耳無芳一」の体に書かれた経文も般若心経です。 しかしその内容は初心者向けではなく、まるで仏教の教えを否定しているかのような危険な側面もあります。 一体どんなお経なのでしょうか? 般若心経の特徴 『 般若心経』は詳しく言うと『 般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみったしんぎょう)』です。 略して『 心経(しんぎょう)』ともいわれます。 まず、タイトルの『 般若波羅蜜多心経』はどんな意味かというと、「 般若」とは、のことです。 「 波羅蜜多」はの「 波羅蜜」と同じことで、意味は「 に到る」ということです。 「 彼岸」とはのことですから、浄土へ渡る、ということです。 「 心」とは、要を抜き出したということです。 実際、『 大品般若経』30巻や『 大般若波羅蜜多経』600巻の中には、大変よく似たところがあります。 それらの膨大な般若経の核心を簡潔に説き明かされたお経であり、私たちを彼岸へ導こうとされたお経なのです。 般若心経の種類 漢文の『 般若心経』には、実は8種類の異なった翻訳が現存しています。 翻訳された時代順に並べると以下のようになります。 1.『 摩訶般若波羅蜜大明呪経』鳩摩羅什訳 2.『 般若波羅蜜多心経』玄奘訳 3.『 仏説般若波羅蜜多心経』義浄訳 4.『 普遍智藏般若波羅蜜多心経』法月 5.『 般若波羅蜜多心経』般若・利言譯 6.『 般若波羅蜜多心経』智慧輪訳 7.『 聖佛母般若波羅蜜多経』施護訳 8.『 般若波羅蜜多心経』法成訳 この中で、普通『 般若心経』として広まっているのは、2番目の(げんじょう)が翻訳したものです。 インドのサンスクリット語の般若心経には、最澄が中国から伝えた小本と、ネパールで発見された大本の2つがあります。 大本というのは、小本にはない最初と最後の部分があります。 漢訳経典の1と2は小本に対応し、4から8は、大本に対応しています。 ここでは、一番一般的な玄奘訳の『 般若心経』を解説していきます。 般若心経の全文 まず最初に、以下が『 般若心経』の全文です。 仏説・摩訶般若波羅蜜多心経 ・行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。 色不異空、空不異色、、空即是色。 受・想・行・識・亦復如是。 舎利子。 是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。 是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。 無眼界、乃至、無意識界。 無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。 無苦・集・滅・道。 無智、亦無得。 以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離・一切・顛倒夢想、究竟涅槃。 三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。 故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。 故説、般若波羅蜜多呪。 即説呪曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。 般若心経 玄奘の翻訳には「 遠離・一切」の所の一切がなく、260字ですが、よく広まっているのは、上記のような、一切を加えた262字です。 これを書き下すと以下のように読みます。 般若心経の書き下し文 、深般若波羅蜜多を行じし時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり。 、色は空に異ならず、空は色に異ならず。 色はすなわちこれ空なり、空はこれすなわち色なり。 受想行識もまたまたかくのごとし。 舎利子、この諸法の空相は、不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。 この故に、空の中には、色もなく、受想行識もなし。 眼耳鼻舌身意もなく、色声香味触法もなし。 眼界もなく、乃至、意識界もなし。 無明もなく、また無明の尽くることもなし。 乃至、老死もなく、また老死の尽くることもなし。 苦集滅道もなし。 智もなく、また得もなし。 無所得を以ての故に。 菩提薩埵の、般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙なし。 罣礙なきが故に、恐怖あることなし。 一切の顚倒夢想を遠離し究竟涅槃す。 三世諸佛も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。 故に知るべし、般若波羅蜜多のこの大神呪、この大明呪、この無上呪、この無等等呪を。 よく一切の苦を除き、真実にして虚しからず。 故に般若波羅蜜多の呪を説く。 すなわち呪を説いて曰く、 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経 般若心経が説かれた場面 この『 般若心経』はどんな意味なのでしょうか? まず『 般若心経』がどのようなときに説かれたのかというと、そのことが『 般若心経』の大本の冒頭部分に説かれています。 お釈迦さまが、お弟子たちやと共に、当時インド最強だったマガダ国の首都・王舎城の、霊鷲山という山におられたときのことです。 お釈迦さまは、三昧という心を一つにした状態にに入っておられました。 そのとき、のを表す菩薩であるが、般若の智慧を実践して一切は空であると見抜き、一切の苦しみから救われました。 すると、釈迦の一人である尊者が、「 般若の智慧を完成したいときにはどうすればいいのでしょうか」と観音菩薩に質問します。 その時、観音菩薩が舎利弗尊者に説かれたのが、『 般若心経』です。 般若心経の目的 まず最初に、「 観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行じし時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり」と説かれています。 まず、「 観自在菩薩」とは、観音菩薩といっても同じです。 インドの言葉で説かれているお経を中国の言葉にするときの翻訳の違いです。 (くまらじゅう)の翻訳では「 観音菩薩」といわれますが、の翻訳では「 観自在菩薩」といわれます。 観音菩薩は、阿弥陀如来のを表す菩薩です。 「 深般若波羅蜜多を行ずる」とは、般若の智慧を完成されたということですが、それは、六波羅蜜を実践されたということです。 「 六波羅蜜」とは、 1.(ふせ)、 2.(じかい)、 3.(にんにく)、 4.(しょうじん)、 5.(ぜんじょう)、 6.(ちえ)の6つです。 その結果が、「 五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり」ということです。 『 般若心経』が目的としているのは、ここに説かれているように、「 一切の苦厄を度する」ことです。 つまり、一切の苦しみを救う、ということです。 そもそも仏教の目的が、すべての人の苦しみを救うことなのです。 『 般若心経』もそのために説かれているのです。 これを忘れてしまうと、お経の表面的な意味を理解したとしても、要の抜けた頭だけの遊びになってしまいます。 このことをよく心に置いて、意味を理解するようにしてください。 般若心経の心臓部分 この「 五蘊皆空(ごうんかいくう)」が、般若心経に説かれる内容を一言で表した心臓部です。 有名な「 」もこの一部分に過ぎません。 五蘊(ごうん)とは 五蘊とは、人間を構成している5つのものです。 「 蘊」とは、積集(しゃくじゅう)ということで、集まりのことです。 その5つとは、色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊の5つです。 「 色蘊(しきうん)」とは、肉体や、その他の物質のことです。 「 受蘊(じゅうん)」とは、苦楽を感受する働きです。 「 想蘊(そううん)」とは、認識する働きです。 「 行蘊(ぎょううん)」とは、意思をはじめとする、受蘊、想蘊以外の心の働きすべてです。 「 識蘊(しきうん)」とは、心のことです。 このように、色蘊は肉体や世界、受蘊・想蘊・行蘊は心の働き、識蘊は心のことですので、五蘊とは、心身のことです。 その五蘊は、「 皆空」である、というのが「 五蘊皆空」です。 皆空とは 「 空」とはどんなことでしょうか? それを知るには、仏教の根幹である、因果の道理を知らなければなりません。 因果の道理とは、この世のすべては、因と縁がそろって生じている、ということです。 これをお釈迦さまは、 「 一切法は因縁生なり」(大乗入楞伽経) と説かれています。 「 一切法」とは万物のことです。 因縁生とは、因と縁がそろって生じている、ということです。 「 因」とは直接的な原因で、 「 縁」とは間接的な原因のことです。 例えば、米という結果を得るためには、因はモミダネです。 ところが、モミダネを机の上に置いていても、米にはなりません。 他にも、水や土、温度、栄養など、色々なものが必要です。 これらを縁といいます。 因だけでも結果は起きませんし、縁だけでも結果は起きません。 すべてのものは、因と縁が結合して生じている、ということです。 したがって、一切に固有の実体はありません。 これを分かり易く教えた歌が、 「 引き寄せて 結べば柴の庵にて 解くれば 元の野原なりけり」 「 庵」とは、テントのようなものです。 野原で草を引き寄せて、上の部分を縛ると、簡単な庵を作ることができます。 ところが、その庵には、固有の実体はありません。 草という因と縛られたという縁がそろって、一時的に庵になっているだけで、上の部分がほどかれると庵はなくなります。 しかし、無になるのではありません。 元の野原になります。 これは、どんなものでも同じです。 例えばパソコンにも固有の実体はありません。 色々な部品が組み立てられて、一時的にパソコンになっていますが、分解すると、パソコンはなくなります。 しかし無になるのではありません。 ディスプレイやキーボード、演算処理装置、記憶媒体などの部品になります。 それらの部品も、一時的にディスプレイやキーボードなだけで、分解すると、ディスプレイもキーボードもなくなります。 しかし無になるのではなく、別の何かになります。 現代物理学では、そうやって分解していった一番小さい要素は、素粒子になります。 素粒子には大きさはありません。 ではなぜこの世に大きさがあるのかというと、大きさのない素粒子の相互関係によって、大きさのある世界ができています。 つまり、物理学でもこの世に実体はないのです。 従って、五蘊にも実体はありません。 私たちの心にも体にも、実体はないのです。 これは仏教の根幹である因果の道理から必然的に出てくることです。 観音菩薩は因果の道理にしたがって六波羅蜜を実践し、五蘊皆空と知らされ、一切の苦しみの解決を体験されたのです。 色即是空とは? 次に、有名な「 色即是空」が出てくるところです。 ここで「 五蘊皆空」を、このように詳しく説明しています。 「 舎利子、色は空に異ならず、空は色に異ならず。 色はすなわちこれ空なり、空はこれすなわち色なり。 受想行識もまたまたかくのごとし」 「 舎利子(しゃりし)」とは、釈迦十大弟子の一人、智慧第一の舎利弗(しゃりほつ)尊者のことです。 観音菩薩が、舎利弗から質問を受けたので、呼びかけられたのです。 「 色」とは、色蘊のことで、物質的なものです。 「 色は空に異ならず」というのは、物質的なものに実体はないということです。 では何も無いのかというと、そうではありません。 次に「 空は色に異ならず」といわれています。 によって物質的なものが生じているということです。 このことを言葉を変えて、「 色はすなわちこれ空なり、空はこれすなわち色なり」と解かれています。 「 受想行識もまたまたかくのごとし」とは、色蘊以外の、受蘊も想蘊も行蘊も識蘊も同じことである、ということです。 例えば受蘊でいえば、 「 受は空に異ならず、空は受に異ならず。 受はすなわちこれ空なり、空はこれすなわち受なり」 ということです。 識蘊でいえば、 「 識は空に異ならず、空は識に異ならず。 識はすなわちこれ空なり、空はこれすなわち識なり」 ということです。 一切は生ずることも滅することもない 次に、この五蘊皆空を別の側面からこのように教えられています。 「 舎利子、この諸法の空相は、不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり」 「 諸法」とは、万物のことで、五蘊と同じです。 万物の空である姿は、生ずることも滅することもないというのは、因縁が結合したり離れたりするだけで、無から有が生じたり、有ったものが無くなったりしているわけではない、ということです。 「 不垢にして不浄」とは、汚いとかきよらかということも因縁によるもので、汚い実体とかきよらかな実体はないということです。 例えば、唾液は、吐き出すとみんな汚いと思いますが、口の中にあるときは、殺菌作用で口の中をきれいにするものです。 誰もが汚いと思う排泄物も、体内にあるときは、食べ物だったり、腸内環境をよくする善玉菌だったりします。 体の外に出た途端、みんな汚いと思います。 このように、すべては因縁によって生じているのであって、汚いとかきよらかな実体というものもないのです。 「 不増にして不減」というのも、「 不生にして不滅」と同じように、すべては因縁がくっついたり離れたりしているだけで、何かが増えたり減ったりしているのではない、ということです。 その結果、どうなるのでしょうか? この世のすべて(十八界)に実体はない 次に、このように説かれています。 「 この故に、空の中には、色もなく、受想行識もなし。 眼耳鼻舌身意もなく、色声香味触法もなし。 眼界もなく、乃至、意識界もなし」 まず、「 この故に、空の中には、色もなく、受想行識もなし」は、五蘊皆空を繰り返されています。 「 空の中には」とは、すべては因縁によって生じているのだから、ということです。 「 色もなく」とは、今あると思っている物質(色蘊)も、因縁が離れたら別のものになるので、なくなってしまう、ということです。 「 受想行識もなし」とは、今あると思っている苦楽の感覚(受蘊)も、イメージ(想蘊)も、意思(行蘊)も、心(識蘊)も、因縁が離れたら別のものになるので、なくなってしまう、ということです。 この世のすべてに実体はないのです。 次の「 眼耳鼻舌身意もなく、色声香味触法もなし。 眼界もなく、乃至、意識界もなし」も、この世のすべてに実体はないということを、少し別の角度からさらに詳しく説かれたものです。 一言でいうと、認識の働きも、認識の対象も、認識の主体も、実体がないということです。 まず「 眼耳鼻舌身意」とは、認識する働きである六根のことです。 次の6つです。 眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根 「 眼耳鼻舌身意もなく」とは、これらの認識する働きも、たまたま因縁がそろって存在しているだけで、因縁が離れるとなくなる、ということです。 たとえば、視神経が損傷して目が見えなくなったり、聴覚神経がやられて耳が聞こえなくなったりします。 認識の働きにも実体はないということです。 次に、「 色声香味触法」とは、六根が認識する対象の六境のことです。 次の6つです。 色境・声境・香境・味境・触境・法境 「 色声香味触法もなし」とは、これらの六境も、たまたま因縁がそろって存在しているだけで。 因縁が離れるとなくなります。 目に見えるものも、耳に聞こえるものも、実体はないことを「 色声香味触法もなし」といわれているのです。 次に、「 眼界もなく、乃至、意識界もなし」の眼界とか意識界とは、六根と六境に、認識する主体である、六識を加えたものです。 六識とは次の6つです。 眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識 これらの18は、以下のように対応しています。 例えば目が見えなくなれば眼識はなくなりますし、耳が聞こえなくなれば耳識はなくなります。 死ぬと、これらの心はすべて滅びます。 このように、これらの十八界すべてに実体はないことを「 眼界もなく、乃至、意識界もなし」といわれているのです。 12の迷いの原因(十二因縁)にも実体がない 次に「 無明もなく、また無明の尽くることもなし。 乃至、老死もなく、また老死の尽くることもなし」といわれています。 「 無明」とか「 老死」とは「 」のことです。 十二因縁とは、私たちの12の迷いの原因を教えられたものです。 お釈迦さまは、この十二因縁を発見され、さとりを開かれた、と説かれています。 その十二因縁とは、1無明・2行・3識・4名色・5六処・6触・7受・8愛・9取・10有・11生・12老死のことです。 この一番最初の「 無明」と最後の「 老死」を挙げて、途中を「 乃至」で省略して、十二因縁を表しているのです。 「 無明もなく、老死もない」というのは、これらの「 十二因縁」に実体がないということです。 すでに五蘊皆空と説かれ、識にも受にも想にも行にも色にも、この世のすべてに実体がないことを明らかにされましたので、十二因縁にも実体はありません。 十二因縁に実体がない以上、十二因縁が尽きるということにも実体がありません。 そのことを「 無明もなく、また無明の尽くることもなし。 乃至、老死もなく、また老死の尽くることもなし」と説かれているのです。 4つの真理(四聖諦)にも実体がない 次に「 苦集滅道もなし」と説かれています。 「 苦集滅道」とは、のことです。 四聖諦とは、4つののことで、 「 苦諦」……「 人生は苦なり」という真理 「 集諦」……苦しみの原因を明かした真理 「 滅諦」……真の幸福を明かした真理 「 道諦」……真の幸福になる道を明かした真理 の4つです。 略して「 苦集滅道」といいます。 「 苦集滅道もなし」とは、これら四聖諦にも実体はない、ということです。 智慧も所得もない 次に「 智もなく、また得もなし。 無所得を以ての故に」と説かれています。 「 智」とは智慧のことです。 『 般若心経』の「 般若」は、智慧のことですから、ここまで説かれてきた、十八界も十二因縁も四聖諦も実体がないという五蘊皆空が智慧だろうと思います。 ところが智慧は、六波羅蜜を行じて体得するものであり、もせずに頭だけで考えてイメージするようなものではありません。 知る私が空なのです。 それで「 智もなく」と否定されているのです。 智慧ばかりではありません。 次の「 得もなし、無所得を以ての故に」とは、五蘊皆空ですから、何かを知ったり得たりする私も空なら、得る対象も空なので、得るということもない、ということです。 六波羅蜜を実践して高い悟りを開くと、無所得の境地に至るのです。 般若波羅蜜多の功徳 次に「 菩提薩埵の、般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙なし。 罣礙なきが故に、恐怖あることなし。 一切の顚倒夢想を遠離し究竟涅槃す。 三世諸佛も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり」 と説かれています。 「 菩提薩埵」とは、菩薩のことです。 「 般若波羅蜜多」とは、「 般若」とは智慧のことで、「 波羅蜜多」とは、彼岸に到ることですから、彼岸に渡る智慧です。 菩薩は六波羅蜜を行じて、彼岸に渡る智慧が完成すると、心に罣礙がなくなるということです。 罣礙とは、さわりということで、のことです。 「 罣礙なきが故に、恐怖あることなし」とは、煩悩がなくなると恐怖がなくなるということです。 恐怖の中でも最大の恐怖は、かという恐怖です。 その死のもなくなります。 「 一切の顚倒夢想を遠離し究竟涅槃す」からです。 「 顚倒」とは逆立ちしていることで、間違った考えです。 「 夢想」も同じことで、妄想であり間違った考えです。 智慧を完成すれば、一切の間違った考えを離れて、死ぬと究極のに入ると教えられています。 次に「 三世諸佛も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり」と説かれています。 三世の諸仏とは、過去、現在、未来の一切の仏のことです。 地球上ではを開かれた方は、お釈迦さまただお一人ですが、大宇宙には、数え切れないほどのたくさんの仏様がおられるとお釈迦さまは説かれています。 それらの沢山の仏方を三世諸仏といわれています。 「 阿耨多羅三藐三菩提」とは、仏のさとりのことです。 過去、現在、未来のすべての仏さまも、彼岸に渡る智慧によって、仏のさとりを開かれたのだ、ということです。 般若波羅蜜多のまことの言葉の素晴らしさとは? 最後に、般若波羅蜜多のまことの言葉を説かれています。 「 故に知るべし、般若波羅蜜多の この大神呪(だいじんしゅ)、 この大明呪(だいみょうしゅ)、 この無上呪(むじょうしゅ)、 この無等等呪(むとうどうしゅ) を。 よく一切の苦を除き、真実にして虚しからず」 まず、「 呪」というのは、のことではありません。 真言のことです。 真言とは、まことの言葉ということです。 私たち人間の言葉は嘘偽りばかりですが、仏の言葉には「 仏語に虚妄なし」といわれるように、決してはないのです。 「般若波羅蜜多のまことの言葉」を4通りにすばらしいといわれています。 「 大神呪」とは、なまことの言葉 「 大明呪」とは、明らかなまことの言葉 「 無上呪」とは、この上ないまことの言葉 「 無等等呪」とは、並ぶもののないまことの言葉 ということです。 「 般若波羅蜜多」とは、彼岸に渡る智慧ということですから、次の 「 よく一切の苦を除き、真実にして虚しからず」とは、観音菩薩のように六波羅蜜を実践し、彼岸に渡る智慧を完成すれば、自分の苦しみも他人の苦しみも本当に除くことができる、ということです。 般若心経の結論とは? では、般若波羅蜜多のまことの言葉とは具体的には何でしょうか? 次にこのように説かれます。 「 故に般若波羅蜜多の呪を説く。 すなわち呪を説いて曰く、 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」 これは「 般若波羅蜜多のまことの言葉」とは、「 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」である、ということです。 「 羯諦」とは行くということです。 「 波羅」とは、向こうへ、ということです。 般若波羅蜜のまことの言葉ですから、向こうというのは彼岸であり浄土のことです。 ですから「 波羅羯諦」は彼岸へ往くことです。 次の「 波羅僧羯諦」の「 僧羯諦」は、到達するということですから、浄土へ往くということです。 「 菩提薩婆訶」の「 菩提」は仏のさとり、「 薩婆訶」は成就ということです。 ですから、このまことの言葉の意味は、「 仏道を求め、完成して、浄土へ往って仏に生まれた」ということです。 こうして観音菩薩は、舎利弗のどのように般若の智慧を完成すればいいのかという質問に答え終わったのです。 それは、五蘊皆空の因果の道理を信じて、彼岸へ向かって布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六波羅蜜を実践しなさい、ということです。 それを聞かれたお釈迦さまは「その通りだ、そのように実践しなさい」といわれています。 これが般若心経の結論です。 般若心経の位置づけ この『 般若心経』で気をつけなければならないのは、「 十二因縁」や「 四聖諦」などの仏教の基本的な教えをあたかも否定しているかのように誤解しやすい所です。 ですから『 般若心経』は、仏教を初めて学ぶ人に対して説かれたお経ではありません。 お釈迦さまは、まず『 阿含経(あごんきょう)』で、因果の道理を説かれ、十二因縁や四聖諦を教えられます。 これを幼稚園のようなものだとすれば、いつまでもそこに留まっていればいいのではありません。 次にお釈迦さまは「 方等経(ほうどうきょう)」を説かれます。 これは小学校のようなものです。 その次に説かれるのが「 般若経」です。 これは中学校のようなものですが、そのエッセンスが『 般若心経』なのです。 ですから、一番初歩的な『 阿含経』よりは高度ですが、まだ高校、大学があります。 お釈迦さまは六波羅蜜の実践を勧めて、私たちに苦悩の根元を知らせ、断ち切られて本当の幸福になるところに導こうとされているのです。 では、ブッダが導こうとされている本当のとはどんなものなのか、 どうすれば本当の幸せになれるのかについては、小冊子とメール講座にまとめておきました。 一度見てみてください。 メニュー•
次の般若心経とは|全文の意味がわかるとお経は面白い 般若心経とは全文で260字ほどのお経です。 たった260文字ですが、般若心経には仏教の神髄が説かれています。 仏教の神髄とは、「 苦しみから解放され、安らかに生きるためにはどうしたらいいのか?」 ということです。 般若心経以外のお経では何万文字で、仏教の教えを説いているのですが、般若心経はとてもコンパクトに、重要なエッセンスだけを抽出しているのです。 般若心経とは仏教各宗派で読まれる大事なお経 そんなお経ですから、日本の仏教のほとんどの宗派で般若心経は唱えられます。 仏教の宗派はそれぞれにお経の理解や教義に少しずつ違いがあります。 そんな違いがある宗派の垣根を超えて読まれるということは般若心経は、 「苦しみから解放され、安らかに生きる」為に必要な考え方について最もわかりやすいようにまとめられていると言えますね。 般若心経 般若波羅密多心経 の意味は「智慧の完成」 般若心経、正式には般若波羅密多心経 はんにゃはらみったしんぎょう と読む、このお経の名前の意味は、 「 智慧の完成」です。 と言うのは、仏教の最終目標である「苦しみから解放され、安らかに生きる」ために必要なものです。 その智慧を完成させると言うのは、私たちの人生の苦しみを取り除く方法を知るということです。 今回はそんな般若心経の意味について、お釈迦様の言葉や仏教を研究してこられた人達のお言葉で解説していきます。 ここでは、なるべくわかりやすい表現を使って、仏教用語は使わず、コンパクトに解説していきます。 お釈迦様が仏教を最初に教えた頃、つまり2500年ほど前ですが、仏教の教えはとてもシンプルでした。 今は仏教の言葉は漢字が並び、一見複雑に見えてしまうようになってしまいましたが、本来は一般の人にもわかるように、とてもわかりやすい身近な例を用いて解説してくださっていたのです。 今回の般若心経の意味の解説でも、なるべくそういったわかりやすい表現を使いつつ、仏教の専門家による深い解釈も交えながらご紹介いたします。 般若心経 全文 ふりがな付 仏説 ぶっせつ 摩訶般若波羅蜜多心経 まかはんにゃはらみたしんぎょう 観自在菩薩 かんじーざいぼーさー 行深般若波羅蜜多時 ぎょうじんはんにゃーはーらーみーたーじー 照見五蘊皆空 しょうけんごーおんかいくう 度一切苦厄 どいっさいくーやく 舎利子 しゃーりーしー 色不異空 しきふーいーくう 空不異色 くうふーいーしき 色即是空 しきそくぜーくう 空即是色 くうそくぜーしき 受想行識 じゅそうぎょうしき 亦復如是 やくぶーにょーぜー 舎利子 しゃーりーしー 是諸法空相 ぜーしょーほうくうそう 不生不滅 ふーしょうふーめつ 不垢不浄 ふーくーふーじょう 不増不減 ふーぞーふーげん 是故空中 ぜーこーくうちゅう 無色無受想行識 むーしきむーじゅーそうぎょうしき 無眼耳鼻舌身意 むーげんにーびーぜっしんにー 無色声香味触法 むーしきしょうこうみーそくほう 無眼界 むーげんかい 乃至 ないしー 無意識界 むーいーしきかい 無無明亦無無明尽 むーむーみょうやくむーむーみょうじん 乃至 ないしー 無老死 むーろうしー 亦無老死尽 やくむーろうしーじん 無苦集滅道 むーくーしゅうめつどう 無智亦無得 むーちーやくむーとく 以無所得故 いーむーしょとくこー 菩提薩埵 ぼーだいさったー 依般若波羅蜜多故 えーはんにゃはーらーみーたーこー 心無罣礙 しんむーけいげ 無罣礙故 むーけいげーこー 無有恐怖 むーうーくーふー 遠離一切 おんりーいっさい 顛倒夢想 てんどうむーそう 究竟涅槃 くーぎょうねーはん 三世諸仏 さんぜーしょぶつ 依般若波羅蜜多故 えーはんにゃはーらーみーたーこー 得阿耨多羅 とくあーのくたーらー 三藐 さんみゃく 三菩提 さんぼーだい 故知般若波羅蜜多 こーちーはんにゃはーらーみーたー 是大神呪 ぜーだいじんしゅー 是大明呪 ぜーだいみょうしゅー 是無上呪 ぜーむーじょうしゅー 是無等等呪 ぜーむーとうどうしゅー 能除一切苦 のうじょいっさいくー 真実不虚 しんじつふーこー 故説般若波羅蜜多呪 こーせつはんにゃはーらーみーたーしゅー 即説呪曰 そくせつしゅーわつ 羯諦 ぎゃーてい 羯諦 ぎゃーてい 波羅羯諦 はーらーぎゃーてい 波羅僧羯諦 はらそうぎゃーてい 菩提薩婆訶 ぼーじーそわか 般若心経 はんにゃしんぎょう 般若心経の全文の印刷用PDFファイルはこちらの寺院公式サイトで無料でダウンロードさせていただけるそうですので、印刷されたい方はこちらへどうぞ。 全文縦書きでフリガナ付です。 般若心経の意味をわかりやすい例を入れて解説 ここからは般若心経を部分部分に分けてその意味を解説いたします。 まずは、厳密な現代語訳ではなく、大事な言葉の意味などを例を交えて解説し、その後専門家の現代語訳を参考に全文の現代語訳もご紹介します。 解説に入る前に背景知識として、般若心経には2人の人物が出て来ているとイメージしてください。 一人は智慧を完成した人、もう一人は修行中で智慧を完成する方法を聞いている人です。 修行中の人が、智慧を完成させた人にどうやったら智慧を完成させられるのかということを聞いているという状況です。 仏説 ぶっせつ 摩訶般若波羅蜜多心経 まかはんにゃはらみたしんぎょう 日本で多く読まれる般若心経には、この部分がないこともあるのですが、ある場合を想定して、解説いたします。 この部分は「仏となったお釈迦様が説いてくださった、非常に素晴らしい智慧の完成のための教え」という意味です。 「仏」という言葉は、「悟りを開いたもの」つまり、「苦しみから解放され、安らかな世界にたどり着いた人」を意味します。 お釈迦様はこの世の苦しみから解放されるための方法を考えに考えた結果、というこの世の絶対のルール、そして苦しみから解放されるために必要な智慧を得て仏・仏陀 ブッダ となりました。 その素晴らしい智慧を完成させた仏であるお釈迦様がこのように教えてくださったのですと言うところからスタートします。 観自在菩薩 かんじーざいぼーさー 行深般若波羅蜜多時 ぎょうじんはんにゃーはーらーみーたーじー 「さんが智慧を完成させるすごい修行をしていた時に」という意味です。 観自在菩薩とは、観音様と親しみを込めて呼ばれる、菩薩 ぼさつ です。 菩薩とは、仏になる直前の「智慧を完成させる修行中の人」を意味する言葉です。 修行中ではあるのですが、観自在菩薩さんは智慧を完成させていて、仏になれるのに仏にはならず、衆生と呼ばれる苦しみ惑う私たち人間等を救ってくださる有難い存在なのです。 観自在菩薩さんについてはこちらで詳しく解説しています。 そんな観自在菩薩さんが、智慧を完成させるすごい修行をしていた際に、次のようなことに気づいたのです。 照見五蘊皆空 しょうけんごーおんかいくう 「 観自在菩薩さんは 私たちの心と体は全部『 空 くう 』だということがはっきりとわかった」という意味です。 というのは私たちの心と体のことです。 お釈迦様は深い観察の結果、私たち人間は「5つの蘊」というもので成り立っているということに気づきます。 五蘊は具体的には「色・受・想・行・識」のことで、般若心経の途中に何度も出てくる漢字です。 「色」とは この世のあらゆるモノや現象を意味します。 五蘊の中で言うと「色」とは私たちの体、つまりモノ 肉体 とその肉体から発する音や臭いなどの私たちが感じることができる現象を意味します。 「受想行識」とは私たちの心を4つの段階に分けたものを意味します。 観自在菩薩さんは智慧の完成の修行中に私たちの心と体が『 空』ということをはっきりと分かったというのです。 『 空』という漢字一文字で表現されるこの言葉は、 般若心経というお経、ひいては仏教の中で最も大事な言葉です。 つまり、苦しみから解放されるための智慧を完成させるには、この 空の意味が分からないといけないということです。 空の意味について、後程詳しく触れるところがあるので、そこで詳解説します。 度一切苦厄 どいっさいくーやく 「この世のありとあらゆる苦しみから解放された」という意味です。 観自在菩薩さんは、「五蘊が空だとわかった」時にこの世のあらゆる苦しみから解放されたのです。 それほど 空というのは大事な言葉なのです。 ここから般若心経の最も味わい深いところに入っていきます。 舎利子 しゃーりーしー 「舎利子さんよ」 ここは、観自在菩薩さんが智慧の完成のための修行をしている舎利子さんに声をかけているところです。 般若心経は、智慧を完成させきった観自在菩薩が修行中の舎利子さんに智慧を完成させるために必要な講義をしてくださっている場面です。 ここからが観自在菩薩さんが智慧を完成させるためにはどうしたらいいのか?を教えてくれている部分になります。 ちなみに、舎利子さんというのは、実在したお釈迦様の弟子でシャーリプトラという人のことです。 智慧第一と呼ばれ、数多くいたお弟子さんたちの中で最も智慧を持った人だったそうです。 その舎利子さんが智慧を完成するためにはどうしたらと観自在菩薩さんに尋ねているのですね。 色不異空 しきふーいーくう 空不異色 くうふーいーしき 色即是空 しきそくぜーくう 空即是色 くうそくぜーしき 「 色と空は同じなんです」という意味です。 先ほどの五蘊でも出てきた「色」と「空」がまた出てきました。 しかも今回は、「 色と空が同じ」ということを、4回も別の言い方で強調しています。 いかに「 色と空が同じ」ということが智慧の完成のために大事かということがわかりますね。 「色」は先ほど解説した通り、「 この世のあらゆるモノや現象」という意味でした。 般若心経で最も大事な言葉の『空』の意味を解説いたします。 『 空』とは『 実体がない』という意味です。 「色と空が同じ」ということは 「 この世のあらゆるモノや現象には実体がないんです」という意味になります。 言い換えると、「私たちの触ることができる体や、体から発する臭いを含め、この世のあらゆるモノやあらゆる現象は実体がない」ということです。 琵琶という楽器を想像してみてください。 琵琶は触ることができて、弦を引くと私たちの耳で感じる音を奏でる楽器です。 琵琶は「色」です。 この世に存在しているモノです。 この琵琶は「空」、実体がないのです。 「実体がない」という言葉をかみ砕くと、「唯一無二の存在・他のものから完全に独立した不変の実体がない」ということになります。 「琵琶というモノは他のものから完全に独立した不変の実体がない」と言えないから「空」なのです。 琵琶という楽器を分解してみたところを想像してみて下さい。 木でできた本体と弦とその他様々な部品に分解されます。 分解したそれぞれの部品の中に、「琵琶」という存在はありませんね。 分解したところに残るのは、木と弦などの部品です。 琵琶というモノを分解したところ、「琵琶という完全に独立した不変の実体」は見当たらないです。 つまり、木や弦などが集まって琵琶というモノが形作られていたのです。 この 「この世のあらゆるモノや現象は実体はない。 あらゆるモノや現象とは様々な何かが集まって影響しあって形作られたもの」この考え方が「色と空が同じ」、つまり「 」なのです。 別の例を上げてこの「 様々な何かが集まって影響しあって何かを形作る」ということをイメージしてみます。 私たちの体を考えてみてください。 この体は、「唯一無二の存在・他のものから完全に独立した不変の実体」からできているかと言うと、できていませんね。 琵琶と同じように体を分解してみるとしましょう。 小さく小さく分解してみると、私たちの体を形作る最小単位の細胞にたどり着きました。 さらに細胞を分解して、核の中にある、DNAという私たち人間一人一人が他の人と絶対に違うというモノが出てきました。 DNAは私たちの唯一無二のものだと思われますが、DNAはみんな4つの構成要素で形作られています。 どんな人もです。 たった4つの構成要素が集まり組み合わさった結果が、一人一人違う人を形作っています。 どこまで分解してみても、私たちが「唯一無二の存在・他のものから完全に独立した不変の実体」と言うことができないのです。 実体がないという私たちの体や琵琶はどうやって存在しているのか? それは「 様々な何かが集まって影響しあって何かを形作る」その結果たまたま今いるのが私たちや琵琶という色なのです。 物理に強い人であれば、このことは素粒子物理学でイメージできますね。 理系でない人も簡単な話ですので安心してください 素粒子物理学というのは、この世のあらゆるモノの最小単位となる粒のことです。 中学校で習った原子や電子を形作るさらに小さな粒のことを素粒子といいます。 現在素粒子は17種類観察されています。 つまり、今これを読んでいるあなた 色 も、見ているスマホ 色 やパソコン 色 もこの世のあらゆるモノや現象全部、17種類の粒が集まって形作られただけなのです。 そうなると、この世のあらゆるモノや現象 色 の唯一無二の存在・他のものから完全に独立した不変の実体がない 空 と言えると感じませんか。 では「琵琶やスマホという色が空とわかった!でも、今この文章を見て何かを感じている心、意識、思考が空というのは意味が分からない」という人もいるかもしれません。 ちょうど次の段では、それらもまた空と説いているのです。 まだ「色と空が同じ」ということがピンと来ていない人は、「色即是空 空即是色」と同じ意味を持つ、別の仏教用語の「」について解説したこちらをご覧ください。 こちらでは、仏教に精通し東大でも仏教講義をするほどのお笑い芸人さんが、色と空の関係についてとても分かりやすく解説してくださった例を引用して解説しています。 受想行識 じゅそうぎょうしき 亦復如是 やくぶーにょーぜー 「私たちの心もまた空なんです」という意味です。 私たちの心、別の表現をすると、意識やら意思やらマインドやら… 唯一無二と感じる私たちの心は他のものから完全に独立した不変の実体のあるものに感じます。 物事を判断するのが脳なので、きっと脳の中に、私たちの不変の実体である心があると考えてみましょう。 では脳を分解してみましょう。 脳細胞一個一個までに分解してみましょう。 脳細胞一個一個に私たちの心はあるでしょうか? 残念ながらありません。 私たちの心と呼べる意識は、この脳細胞が何兆個も集まって、それらが電気を流しながらお互いに作用していることで生まれます。 脳細胞一個一個では何も考えることはできず、心はないのです。 私たちの心もまた、分解しても実体は見当たらず空でした。 空であると同時に、脳細胞が集まって、心・意識を形作っていました。 またもや「 様々な何かが集まって、影響しあって何かを形作る」というルールに則っていますね。 この「何かが集まって影響しあって何かを形作る」ということを仏教用語で「」と言います。 この世のあらゆるモノや現象、さらには心でさえも、唯一無二の実体があるのではなくて、因と縁とが集まって生じている存在しているのです。 仏教用語でと言います 結論「色は空だし、受想行識という心も空」なのです。 最初に観自在菩薩さんが智慧の完成の修行をしている時に「照見五蘊皆空」と言って「私たちの五蘊 心と体 はみんな空だとはっきりわかった」というところが理解できました。 さて心とまとめていましたが、「受想行識」の意味とはなにか簡単に解説いたします。 受:眼や耳や鼻やという感覚器官で何かを感じること ここでは何かというのは判断ついていません• 想:眼や耳や鼻等で感じる景色や音や臭いを感じること• 行:眼や耳や鼻等で感じた景色や音や臭いから、どういう行動をとるか考えること、意志と言えます。 識:眼や耳や鼻等で感じた景色や音や臭いがどういうものかを認識すること 少し長ったらしい説明になりましたが、こちら後の理解のためにこのように表現しています。 まだ、想行識の部分など五蘊について若干イメージついていないと感じた人はこちらで詳しく、例をもって解説していますのでぜひご覧ください。 とりあえずここでは受想行識は心の働きを4つのステップに分けているとの理解で大丈夫です。 舎利子 しゃーりーしー 是諸法空相 ぜーしょーほうくうそう 「舎利子さんよ、この世のあらゆることは空なんだよ」という意味です。 観自在菩薩さんが舎利子さんに、もう一度この世の色 あらゆるモノや現象 や受想行識 私たちの心 もすべては空なんだと強調しています。 不生不滅 ふーしょうふーめつ 不垢不浄 ふーくーふーじょう 不増不減 ふーぞーふーげん 「 この世のあらゆることが空だから 生まれることも減ることもない、汚れることも綺麗になることもない、増えることも減ることもない」 そもそも全部が実体がない 空 であるから、生まれたり減ったりという現象もないんだということを言っています。 是故空中 ぜーこーくうちゅう 無色無受想行識 むーしきむーじゅーそうぎょうしき 「この世のすべてが空なんだから、私たちの心も体もない」 くどいですが、を言い換えているということです。 さらに、観自在菩薩さんは「空」というのが、どういうことなのか私たちがイメージできるように、具体的に説明してくださる部分がこの後に続いていきます。 無眼耳鼻舌身意 むーげんにーびーぜっしんにー 無色声香味触法 むーしきしょうこうみーそくほう 「 この世のすべてが空なんだから 私たちの体についている眼・耳・鼻・舌・体・心はない。 またそれらで感じる、色 いろ ・声や音・香り・味・触感・心で感じるものもない」 ここまで読んでいただいたら、この部分の意味もわかると思います。 色受想行識という私たちの感覚を司る眼や鼻という器官も、その器官で感じるも景色やにおいも実体がないものなんだということを言っています。 無眼界 むーげんかい 乃至 ないしー 無意識界 むーいーしきかい 「 この世のあらゆることが空なんだから 眼に見えるこの世界も、心の中の世界もないんだ」 ここも先ほどのところにつながっています。 私たちが眼で見ているこの世界、そして眼で感じた景色、景色を見て生じた心の動きこれも全部、空なんだということです。 少し、仏教の専門的な用語を使って解説すると、この「無眼界」は、先ほどの「眼耳鼻舌身意 六根 」と「色声香味触法 六境 」のことを意味しています。 六根と六境を足して十二処と言い、この十二処を「眼界」とまとめていると考えます。 界の中に耳鼻舌身意色声香味触法が込められてる そして、「無意識界」と言うのは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識という言葉をまとめていて、要は心の動きも空だから実体がないといっています。 ちなみに眼識~意識までをまとめて「六識」と表現します。 要はこの世界も心の世界も無いんだということです。 無無明亦無無明尽 むーむーみょうやくむーむーみょうじん 乃至 ないしー 無老死亦無老死尽 むーろうしーやくむーろうしーじん 「 この世のあらゆることが空とわかれば 人生の苦しみの原因が無くなったり、苦しみの原因が無くなることが無くなったり、人生の究極の苦しみが無くなったり、無くなることが無くなったり」という意味です。 この部分はかなり周りくどい表現をしていますが、仏教の「空」に並ぶ非常に大事な教えを表現しています。 「」と言うのは、仏教の教える「苦しみの究極の原因である心が迷うこと」です。 「老死」と言うのは、仏教の教える「究極の苦しみの老いて死ぬこと」です。 この世のすべてが空という考え方を持てば、人生の苦しさの究極の原因自体も空だし、人生の究極の苦しみだって空なんだという意味です。 さらに、この部分には、「悟りという苦しみから解放された世界が無いし、その世界が無くなることもない」と言う言葉がついているバージョンがあります。 一般に知られないですが この「悟りがない」というのは、法隆寺やその他日本に残る世界最古のサンスクリット語で書かれた般若心経の中にはあって、中国やチベットという般若心経が広まった国には見られない表記です。 そのため、「悟りがない」という文言は誤って書かれたものと考えられるのですが、このような表現が存在するのは、悟りというものさえも「空」なのだという考えからだと考えられるのです。 この部分については、仏教研究の第一人者である中村元先生は、 空観の極致においては、迷いが無いとともに、さとりも無いのである。 だからこのような余分なものが付加されたということは、深い意義をもっている。 参照:般若心経 金剛般若心経 中村元 紀野一義 岩波文庫 このように仰っています。 空の奥深さを物語っているのですね。 ただこの部分はお釈迦様の教えをわざわざ否定していることになります。 それはなぜか? 「空」であることを強調するためであること、それに加え仏教の大事な教えである「 中道」を強調するためです。 中道とは「極端なことはせず、ちょうど間ぐらいが良い」という考え方です。 中道のイメージは、人前でスピーチをする時にうまくいくために必要な「程よい緊張」とでも言えます。 過度な緊張をしてしまうと、噛み噛みでうまくいきません。 でも緊張をしなさすぎると、スピーチをする以前に練習をしなかったりして本番で最も良いパフォーマンスが出せなくなります。 他の例を挙げるならスポーツの「程よく力が抜けた状態」にも通じるところがあるでしょう。 お釈迦様は中道で物事を考え、行動するのが良いと考えていました。 だからお釈迦様の教えを否定したような、否定していないような表現をしているのです。 無明についてはこちらで詳しく解説しています。 このお釈迦様の教えを一見否定しているのは次の部分も続きます。 無苦集滅道 むーくーしゅうめつどう 「 この世のあらゆることが空だとわかれば お釈迦様が説いたこの世の4つの真理もないんだ」という意味です。 観自在菩薩さんは自分の大師匠であるお釈迦様が仰ったことを否定しています。 お釈迦様が説いた4つの真理とは、 したい と言い「苦諦・集諦・滅諦・道諦」という「この世の苦しみから解放するために知るべき、苦しみの原因と考え方、苦をなくす方法」のことを言います。 この四諦はお釈迦様が智慧を完成させた後、一番最初に教えを説いた時に言ったものとされ、仏教の基本中の基本の教えです。 この部分も先ほどの部分と同様に完全に否定をしたのではなく、「 空」というこの世の最上級の教えがあるからこそ、お釈迦様の言った言葉だって無いんだということを言っています。 無無明亦無無明尽 むーむーみょうやくむーむーみょうじん 乃至 ないしー 無老死亦無老死尽 むーろうしーやくむーろうしーじん 無苦集滅道 むーくーしゅうめつどう 無無明~苦集滅道はお釈迦様の教えを否定する形ではありますが、それは先ほども解説した「空」と「中道」を強調するためです。 それらを否定したことについて、前述の日本の仏教研究の第一人者の中村元先生は、 仏教の根本である死体を否定するような文句を述べているのは、四諦への執着を破って、四諦の真意を生かすためである。 参照:般若心経 金剛般若心経 中村元 紀野一義 岩波文庫 このように推察しておられます。 お釈迦様の教えは大事ですが、それよりも大事なのは、この世は全部空と言う考え方です。 ちなみにお釈迦様自身も自分を含む仏 如来とも言う という悟りを得たものよりも、この世の絶対のルール 仏教用語で真理 の方が上位であると教えています。 つまり、仏様や神様を含むどんな存在も、この世の絶対のルールは変えられず、そのルールに則ります。 仏 如来 という存在は、そのルールが何なのかをはっきりと理解したことで苦しみから解放された存在です。 ルールありきですので、お釈迦様の言葉に執着するのではなく、この世の絶対のルールである「空」や「中道」を重視しなさいという教えと解釈できます。 無智亦無得 むーちーやくむーとく 以無所得故 いーむーしょとくこー 「 この世のあらゆることが空とわかれば、お釈迦様が説いた苦しみから解放される方法 知ることも得ることも無いのだ。 なぜならそのお釈迦様が説いた方法自体が無いのだから」 これは先ほどの「無苦集滅道」の部分を強調しているということです。 結局あらゆることが空だから、お釈迦様が説いた教えを得ようと思っても、その得ようと思う対象が無いのです。 いうなれば、1億円稼ぐ方法を教えます!と言う広告は信用するなと言っているようなものです。 そもそもそんな方法があるのならこの世のみんながお金持ちですが、実際はそうなっていません。 誰もが絶対にその方法なら1億円を稼げるというものは存在していないのでしょう。 でも1億円稼いでいる人は現実にいますね。 1億円稼ぐ方法はあるけれど、ないようなものでもあって、その教えに固執してはいけませんよと言うことです。 菩提薩埵 ぼーだいさったー 依般若波羅蜜多故 えーはんにゃはーらーみーたーこー 心無罣礙 しんむーけいげ 「菩薩は智慧の完成させているので、心を迷わすものがない」 観自在菩薩さんを含む、苦しみから解放された安らかに生きる世界を目指して修行する菩薩さんたちは、『 この世のあらゆることが空』という智慧をマスターしているので、心に迷いをもたらし、人生の苦しみに陥れてくる事はもはやないのです。 繰り返しになりますが、お釈迦様が「苦しみから解放される方法」を説いた四諦などのたくさんの教えは、「智慧の完成」という目的を達成するための手段です。 でも、この四諦などの教え、修行法に固執してしまい、本来の「智慧の完成」という目的が見えなくなってしまい、智慧の完成はせず「苦しみから解放される」ことができなくなります。 大事なのは、文字で表現されるお釈迦様の教えとかに固執することではなく、 お釈迦様がこの世界をどのように見ていたか? つまり 「この世のあらゆることが空である」と気づき智慧の完成をすることが大事なんだよと強調してくれているのですね。 例えるなら、野球をしていて、ボールを打てるようになるという目的があって、素振りを1000回するという手段があります。 目的を達成するための手段が目的となってしまっています。 ボールを打てるようになるという目的を達成するためには、素振りの回数も大事かもしれないですが、きちんとしたフォームを体に叩きつけるということも大事で、ただやみくもにバットを振っても変な癖がついてしまい、目的を達成するための手段が逆に目的の達成から遠ざけてしまっています。 何かを一生懸命することも大事ですが、目的を忘れず、「中道」という程よい状態で努力をしないといけないということです。 無罣礙故 むーけいげーこー 無有恐怖 むーうーくーふー 「 智慧を完成させたなら 心を迷わすものがないのだから、恐れることは何一つない」 心を迷わすものというのは、生死や善悪の意識など心を縛ってしまうような何かと言うことです。 死ぬことは怖いと思います。 けど、この世のあらゆることが空だとわかれば、生死など私たちを苦しめる、怖い存在だってもはやないのだということです。 遠離一切 おんりーいっさい 顛倒夢想 てんどうむーそう 「 智慧を完成させたなら あらゆるネガティブな感情を生む、悪い妄想はしないようになる」 将来が不安で、すごく心配になり、だんだんネガティブな方向に物事を考えてしまうことはありませんか。 何が起こるかわからないから、心を迷わせるような様々な感情が沸き上がってきます。 現実には何も起きていないのに、苦しみを感じてしまいます。 でも、あらゆることが空であることがわかり智慧を完成させたら、そもそもそんな妄想なんてしなくなって、怖い・苦しいという感情や悩みなんてなくなるんだと言っているのです。 ちなみに、先ほど出てきましたが、お釈迦様は人生の苦しみの根本的な原因は「無明」つまり「知らないこと」だとおっしゃっていました。 「何が起こるかわからない」という無明が苦しみを生むと考えたお釈迦様は本当に私たちの心の動きを細かに分析をしていると感動します。 ただ、「無無明亦無無明尽」です。 「無明がないし、無明がないことがない」のです。 大事なのは『 空』です。 究竟涅槃 くーぎょうねーはん 「 智慧を完成させると心を迷わす悪い妄想はなくなるから 苦しみから解放された安らかな境地にたどり着くんだ」という意味です。 ねはん と言うのは、「苦しみから解放された安らかな境地」のことを意味します。 仏教は涅槃にたどり着くための考え方と方法を教えてくれています。 要は涅槃は仏教の究極のゴール地点です。 般若心経のここまで書いてあることが本当の意味で理解出来たら、智慧が完成し、涅槃という究極のゴール地点にたどり着くのです。 涅槃という言葉についてはこちらでも詳しく解説しています。 三世諸仏 さんぜーしょぶつ 依般若波羅蜜多故 えーはんにゃはーらーみーたーこー 「様々な仏様や菩薩さんたちは、言葉で表現される智慧ではなく、本当の意味の智慧が理解でき、それをよりどころとしている」という意味です。 三世というのは、過去現在未来の3つの世界を意味していて、それらの世界にいらっしゃる仏様や菩薩さんについてお話しています。 様々な仏様や菩薩さんは完全に智慧を完成させ、その智慧をよりどころにしているから、次に続く「 阿耨多羅 あーのくたーらー 三藐 さんみゃく 三菩提 さんぼーだい」を得ていると次の部分につながります。 ここまで、「空」について、お釈迦様や専門家の方の言葉を参考にご説明しましたが、文字でただ空がわかってもダメなんです。 本当の意味で、「空」ということを理解しないといけないんです。 本当の意味で「空」を理解し、智慧が完成すれば、「 阿耨多羅 あーのくたーらー 三藐 さんみゃく 三菩提 さんぼーだい」が得られるんです。 得 阿耨多羅 とく あーのくたーらー 三藐 さんみゃく 三菩提 さんぼーだい 「完全なる悟りを得て、苦しみから解放されている」 阿耨多羅 あーのくたーらー 三藐 さんみゃく 三菩提 さんぼーだい というのはサンスクリット語という般若心経が元々書かれていた言語を音のまま訳したもので漢字に意味はありません。 この部分の元のサンスクリット語と、その解説を専門家によると、 阿耨多羅三藐三菩提 ー 原語アヌッタラー・サムヤックサンボーディ anuttara sam-yak-sambodhi の音訳。 中略 「この上もない、正しく平等な目覚め」「完全なさとり」の意である。 出典:般若心経 金剛般若心経 中村元 紀野一義 岩波文庫 故知般若波羅蜜多 こーちーはんにゃはーらーみーたー 「 人々は苦しみから解放さえるの だから、智慧の完成とはどんなものかを知るべきだ」 ここから、智慧の完成とはどんなものなのかと言うことを詳しく解説しています。 是大神呪 ぜーだいじんしゅー 是大明呪 ぜーだいみょうしゅー 是無上呪 ぜーむーじょうしゅー 是無等等呪 ぜーむーとうどうしゅー 「 智慧の完成とは 計り知れない力を持った、他に比べるものがないほど最上のご真言なのです」 もしくは 「 智慧の完成 のための計り知れない力を持った、他に比べるものがないほど最上のご真言」という意味です。 ご真言と言うのは、サンスクリット語でマントラと言い、唱えることだけで、様々な効果をもたらしてくれるという呪文のことです。 お釈迦様は、仏教でそういった、唱えるだけで効果があるという言葉を意外にも認めていて、毒蛇除け、歯痛、腹痛に聞くご真言がお釈迦様の時代からありました。 「呪」の漢字が現在では「呪い」と良くない時に使われますが、本来は「咒」と訳され、不思議な力を持った言葉のことを意味します。 「神」や「明」、「無上」「無等等」とついているのは、この唱えるだけで、効果があるご真言をひたすらに褒めているのです。 神と言うのは、Godの神ではなく、不思議な霊力を持ったということを強調するための言葉と考えられていて、「明」は悟りのこと、「無上」はこの上ないということで、「無等等」とは比べられるものはないということ。 能除一切苦 のうじょいっさいくー 真実不虚 しんじつふーこー 「 最強のご真言は 全ての私たちの苦しみを取り除いてくれる、偽りのない真実である。 」 智慧の完成とは「最強のご真言」のことと言った後、その最強のご真言は、私たちの苦しみを取り除いてくれる効果があると教えてくれています。 故説般若波羅蜜多呪 こーせつはんにゃはーらーみーたーしゅー 即説呪曰 そくせつしゅーわつ 「 最強のご真言は 智慧の完成する上で、次のように教えられたのです」 ついに観自在菩薩さんが、最強のご真言を教えてくれます。 羯諦 ぎゃーてい 羯諦 ぎゃーてい 波羅羯諦 はーらーぎゃーてい 波羅僧羯諦 はらそうぎゃーてい 菩提薩婆訶 ぼーじーそわか 「ぎゃーてい ぎゃーてい はーらーぎゃーてい はらそうぎゃーてい ぼーじそわか」 ここは訳しません。 なぜなら、仏様が教えてくれた、最強のご真言にして、唱えるだけで様々な効果を与えてくれる、不思議な力を持った 大神呪 、悟りの 大明呪 言葉だからです。 手を加えず、そのまま唱えるものなのです。 訳をしないからこそ、神秘的な力を持つ表現になるそうです。 ちなみに、般若心経は日本以外でも中国やチベット、韓国でも好まれるとても有名なお経ですが、どの国でも訳されることはなく、そのまま読まれています。 無理に訳すことはできるそうですが、この部分について専門家の方は、 この真言は文法的には正規のサンスクリットではない。 俗語的な用法であって種々に訳し得るが、決定的な訳出は困難である。 出典:般若心経 金剛般若心経 中村元 紀野一義 岩波文庫 と仰っています。 それでも、様々な解釈をもって、 羯諦 ぎゃーてい 羯諦 ぎゃーてい 波羅羯諦 はーらーぎゃーてい 波羅僧羯諦 はらそうぎゃーてい 菩提薩婆訶 ぼーじーそわか を次のように訳しています。 往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。 出典:般若心経 金剛般若心経 中村元 紀野一義 岩波文庫 と言うのは、「苦しみから解放された安らかな境地」のことを意味しています。 般若心経 はんにゃしんぎょう 「以上が智慧の完成の神髄である」 「般若心経」というお経の名前の意味である、「智慧の完成」についてまとめましたということです。 ここで般若心経の「心」と言うのは、サンスクリット語では「心臓」の意味を持つ言葉です。 私たちが心臓を体の臓器の中でも重要視するように、古代のインドでも心臓を重要視していました。 先ほどのご真言の 羯諦 ぎゃーてい 羯諦 ぎゃーてい 波羅羯諦 はーらーぎゃーてい 波羅僧羯諦 はらそうぎゃーてい 菩提薩婆訶 ぼーじーそわか この言葉は智慧の完成の心臓のような、最も大事な教えだということ強調していると考えられます。 以上、長くなりましたが、般若心経の意味について簡単にご紹介いたしました。 続いて、ここまでの般若心経の意味をすべてまとめて、般若心経の現代語訳をご紹介いたします。 般若心経 現代語訳 悟りを得た観自在菩薩さんは、深遠な智慧の完成の修行を実践していた時に、この世に存在するモノには、5つの構成要素があると見極めました。 さらに、観自在菩薩さんは、これらの構成要素は、実体のない『空』であると見抜いたのです。 これを見抜いた時、観自在菩薩さんはあらゆる苦しみから解放されたのです。 観自在菩薩さんが呼びかけました。 「舎利子さんよ、 この世では、あらゆるモノや現象は実体がないということから異なることはなく、実体がないと言っても、あらゆるモノや現象として存在しているのです。 つまり、 あらゆるモノや現象は実体がなく、実体がないということは、あらゆるモノや現象であるということです。 モノや現象以外にも、私たちの心も実体はないのです。 舎利子さんよ この世のあらゆることは「空」、つまり実体がないのです。 生まれることも消えることもなく、汚れることもきれいになることもなく、増えることも減ることもないのです。 この世のすべてに実体がないという世界においては、モノや現象、私たちの心なんてものはないのです。 ということは、私たちの眼や耳や鼻や舌や体や心もなくて、景色や声や香りや味や触れるモノや心で感じるものも本当はないのです。 私たちの見えている世界も、心の世界も全部ないのです。 この世のあらゆることが空だとわかれば、迷うことが無くなり、迷いが無くなることも無くなります。 さらに老いること・死ぬことが無くなり、老いること死ぬことが無くなることも無くなるという境地に至ることができます。 そして、この世のあらゆることが空だとわかれば、苦しみ、苦しみの原因、苦しみをなくすこと、苦しみをなくすための方法というお釈迦様の教えもないのです。 つまりこのお釈迦様が説いた教えを知ることもなく、得る事もないのです。 なぜならそもそも得る対象がないのだから。 悟りを得た多くの菩薩さん達は、智慧の完成をよりどころとしているので、心を迷わすことはなく安らかにいるのです。 心を迷わすものがないから、恐れることはなく、良くない妄想をする心から遠く離れ、苦しみのない安らかな境地にいるのです。 過去現在未来にいる菩薩さんたちは皆、智慧の完成をよりどころとしているので、正しい悟りを得たのです。 だから、人々は知るべきなんです。 智慧の完成と言うのは、とても不思議な力を持った大いなる真言、大いなるさとりの真言、この上ない最上の真言、他に比べるものはない真言のことであり、この世のあらゆる苦しみを鎮めてくれる偽りのない真実なんだと。 だから智慧の完成という真言について教えるのです。 その真言というのは、智慧の完成において、次のように説かれました。 羯諦 ぎゃーてい 羯諦 ぎゃーてい 波羅羯諦 はーらーぎゃーてい 波羅僧羯諦 はらそうぎゃーてい 菩提薩婆訶 ぼーじーそわか 以上が智慧の完成の神髄です。 」 般若心経の現代語訳について 般若心経の現代語訳は、サンスクリット語という般若心経が元々書かれていた言葉を研究している人、瀬戸内寂聴さんなど有名な僧侶の方、仏教を研究している多くの人によって様々あります。 今回は、中村元先生という仏教研究の第一人者が、サンスクリット語からの般若心経の現代語訳、解釈を解説してくださっている本の内容を参考に、解説しました。 少し、それでも伝わりにくかったところもあるかもしれません。 そこで、もしさらに分かりやすく般若心経の入門本を読んでみたいと考えた方は、「えてこでもわかる 笑い飯哲夫訳 般若心経」という本を読んでみることをおすすめします。 今回はあまり漢字一つ一つの意味から解釈をせず、大まかな流れで意味を解説したのですが、笑い飯の哲夫さんは、一文字一文字の意味をしっかり吟味し、身近な例で般若心経の現代語訳をしています。 般若心経にまつわるお話 般若心経を唱える際の作法や、般若心経の意味は間違いだという説についてなど、様々な説をご紹介いたします。 般若心経の読み方や唱える際の注意点 般若心経を唱えることについてですが、お仏壇の前や寺院にお参りに行った時、お墓の前、お葬式の際にのみ読まれるものという決まりはなく色んな場面で唱えられます。 座禅体験なんかで寺院に行くと、座禅前に般若心経を唱えることがあったり、般若心経の写経をしたりと、色んな場面で般若心経がでてきます。 そんな時、気づくと思いますが、お坊さんによって、般若心経の読み方は少しずつ違いがあります。 大体息継ぎするところも同じですが、時々自分の息継ぎのタイミングと違ったりします。 要は、これでなければいけないという読み方はないのです。 ただ仏壇の前で読む際は、読み方以外の部分で宗派によって作法があるので、その点気になる方は菩提寺となるお寺さんや近くのお寺さんに聞いて見てもいいでしょう。 般若心経を唱える回数は、普通に一回で良いと考えますが、回数を読めば読むほどその功徳 ご利益 に預かることができると考えます。 般若心経を10回、100回、1000回と唱えることで、功徳が大きくなるというのですが、このあたりは皆さんが何を信じるかですので、参考にしてみてください。 個人的におすすめの般若心経の覚え方 般若心経の覚え方はシンプルで、ひたすらに毎日聞いて、唱えてを繰り返すのが良いと思います。 私の場合は、般若心経を唱えるようになる前から、毎日父や祖母がお仏壇に向かって般若心経を唱えていたその音が耳についていたので、般若心経を覚える時、そのリズム感を元に比較的スムーズに覚えることができるようになりました。 最初から毎日練習で唱える時間を取るよりも、まず毎日般若心経を聞いて、そのリズム感を覚えると楽かもしれません。 最初は詰まってしまい読むのに時間がかかるということもあって少し面倒に感じやすいかもしれないからです。 般若心経の音声 お寺さんのyoutube動画です 般若心経を覚えたい、もしくは般若心経を聞いて心を落ち着けたいのなら、上記のyoutube動画をご覧ください。 お坊さんが実際に唱えている般若心経の音声が流れます。 他にもyoutube上では様々な般若心経の音声動画があるので、ご覧になってみてもいいかもしれませんね。 仏壇に向かって唱える際は 家に仏壇があって、毎朝唱えるご家庭もあります。 私はそういった家に育ったのですが、お仏壇の前で般若心経を唱える際には、お供え物のお水やろうそく、線香を灯して、般若心経を唱えます。 ちなみに、お供え物には、実は意味があって、智慧の完成 般若波羅蜜 をするための修行法である、の6つの修行項目を表していると言います。 宗派によって違いはありますが、般若心経を仏壇の前で唱えるなどお勤めの作法について、天台宗の公式ページで解説してくださっているので、参考にしてみてください。 参考: ただ一番いいのは、菩提寺の宗派にあったお勤めの作法を行うことと思います。 参考の天台宗のサイトでは、天台宗に特有のお経についても紹介います。 般若心経の効果について 般若心経の効果については、様々話があります。 多くの経典の中で繰り返し強調されていて、とても多くの挿話があります。 また現代でも、• 1000回読んで願い事が叶う• 除霊の効果がある• 般若心経を読めば、聞けば、落ち着く などなど、それらはお坊さんが話していることもあれば、個人のエピソードとして語られこともあります。 般若心経がそれら現実に起きたことと因果関係があるのかは置いておいて、有名な般若心経のエピソードについて少しばかりご紹介します。 耳なし芳一|除霊の呪文としての般若心経のエピソード 琵琶を弾いたら腕随一と言われた芳一という法師のお話です。 この耳なし芳一の話は般若心経によって幽霊から助けられるという物語です。 こちらのyoutube動画でその内容がありますので気にある方はご覧ください。 般若心経を唱え救われた奇跡の話 般若心経を唱えていたら、願い事を成就してもらった、救われたという話はたくさんあるようですが、まんが日本昔ばなしにあったお話をご紹介しておきます。 その話は「山の神とかしき」と言い、かしきが「般若心経」と唱えていたことで、救われたというお話です。 こちらに詳細があるので気になる方はご覧ください。 参考: 般若心経を写経し開運や願い事の成就のためにお供えした 今でもこれは行われていますが、古くから般若心経を読むのではなく、写経し、書いたものをお寺に奉納して様々な願い事成就、開運の祈願をしてきました。 病気平癒、その他様々な願望成就のために般若心経を何遍も写経しお供えしていたのです。 般若心経の功徳については、科学的根拠はなく、信じるかどうかのお話になってきますので、あまり突っ込んではご紹介しません。 ただ、読むだけで効果があるということから、文字が読むことができない人が多くいた時代には、般若心経の音を絵で表現して、般若心経を文字が読めない人でも読めるようにした、絵心経、絵般若心経というお経も作られました。 とても多くの人が、般若心経を読んで願いを叶えようとしてきたのです。 般若心経は間違いという説 般若心経の中に書いている内容は間違いという説があります。 「」の「空即是色は間違いだ」と仰った上座部仏教の権威の一人、スマナサーラ長老の説は有名です。 また、内容が間違っているという以外にも般若心経というお経の存在自体、誰が作ったのかはっきりせず、偽経と言い、お釈迦様の言葉ではない後の世の創作されたそもそも正しくないお経だという説など様々な意見があります。 この般若心経が偽物のお経だという説について、般若心経の歴史を踏まえて解説いたします。 般若心経の歴史 まずは般若心経の歴史の最も通説とされるものから解説いたします。 般若心経が成立した時期ははっきりしません。 紀元後すぐ~紀元後350年という間で様々な説が存在しています。 お釈迦様がブッダ 悟りを開いたもの となり、仏教の教えを説いて、 亡くなって 後500年以上経った、インドで成立したと言われます。 500年も経つと、お釈迦様の教えに対して大きく二つの解釈が生まれます。 それが大乗仏教と上座部仏教 小乗仏教 というものです。 般若心経はこの大乗仏教という仏教宗派側のお経です。 この大乗仏教では空という考え方をとても大事にしていました。 大乗仏教の教えをまとめる般若経という600巻にも及ぶ膨大なお経が作られ、この般若経のエッセンスを抽出して般若心経というお経が作られます。 サンスクリット語名はプラジャニューパーラミターフリダヤスートラと言います そして、作成された原典となる「プラジャニューパーラミターフリダヤスートラ」は大乗仏教が広まった、チベット、中国の僧侶たちがインドの当時の言葉のサンスクリット語で書かれたお経をチベット語・中国語に訳し私たちの知る般若心経ができます。 そして中国の僧侶の方の苦労の結晶とも言うべき般若心経が日本にもたらされるようになるのです。 実は般若心経は複数の中国の僧侶の方がサンスクリット語から漢訳しているので、複数存在しています。 今回、全文をご紹介した般若心経は小本 しょうほん と言い、少しばかり短くなっていて、もう一つ大本 だいほん と言い、小本の般若心経の前後に少しばかり追加で内容があるものがあります。 小本は玄奘三蔵という1400年ほどまえの偉い中国のお坊さんがインドに苦労してたどり着いて漢字に訳して下さったものです。 西遊記のモデルとなった三蔵法師は実はこの玄奘三蔵のことです。 実際に猿・豚・河童がお連れにいたとは考えられませんが、玄奘三蔵がインドに行ったのは、般若心経にも西遊記の話にも出てくる、観自在菩薩さんのお導きがあったからだそうです。 さて、ここまでは現在一般に知られる般若心経の歴史です。 ここからは般若心経が間違いだといわれる説について解説いたします。 般若心経の作者は不明で偽経という説 まず般若心経はだれがまとめたのかがはっきりとしません。 そして、この世に存在する最も古い般若心経は中国語に漢訳されたものです。 それは玄奘三蔵が漢訳したよりも前の鳩摩羅什が漢訳したと伝わるものですが、それも定かではありません。 アメリカのジャン・ナティエ教授は、般若心経は元々中国の人が作ったもので、サンスクリット語のお経は最初にあった中国のお経をサンスクリット語に訳したものだと唱えました。 つまりお釈迦様の直接の教えを書いたお経ではない、偽経であるという説を唱えました。 ちなみに般若心経のサンスクリット語で書かれた原典は、日本の法隆寺にあったものが最古と言われます。 この法隆寺にあったサンスクリット語の般若心経は、遣隋使で609年に小野妹子が隋から持ち帰ったものと伝えられています。 本当かどうかわかりませんが、それ以上前のサンスクリット語で書かれた般若心経が無いために偽経説に対する反論はあっても決定的な答えはまだ見つかっていません。 ちなみに、般若心経で強調されていた「空」という大乗仏教で最も大事な教えとする概念は、大乗仏教に特有のものという説を唱える人もいますが、お釈迦様が実際に発していたであろう言葉をまとめた原始仏教経典の中でも、似たような概念が出てきます。 そのため、「空」は後の世の創作ではなく、仏教にとって大事な概念と考えて大丈夫です。 ただ、浄土真宗では読まれません。 また日蓮宗でも読まれないと言います。 それは、重要視するお経が般若心経以外にあるからです。 浄土真宗では浄土三部経というお経を、日蓮宗では法華経 妙法蓮華経 というお経を重要視するので、般若心経を読まないのです。 ただ、お釈迦様の教えを説くという点ではどちらも同じことを教えています。 ただ教え方が違うだけです。 これは山の頂上を目指して登る時、ルートが一つしかないのではなく、複数あるのと同じようなものです。 頂上 お釈迦様の教え は一つだけですが、その教えを伝える方法にはいくつかあるということです。 ちなみに、時代の影響からか神社 神道 でも般若心経を唱えるところはあるそうです。 般若心経の意味を理解すると、苦しみから解放されるための智慧の完成について書いたお経をなんで先祖供養の場で唱えるのかと不思議になりませんか。 これは色んな解釈があるので、代表的な説をご紹介します。 亡くなった方、ご先祖様が彼岸に行く きちんと成仏する ため• お経を読んでいる、聞いている自分達の考えをご先祖様に聞いていただくため• そもそも理由は後付けで、日本にあった祖霊信仰という信仰形態を仏教が踏襲した。 日本の神道では死を忌むことから仏教が亡くなった方の供養を役割を持ちます などなど、お寺さんの法話を聞いて見ても色んな解釈があると思います。 どのように考えるかは皆さんの考え方次第です。 ちなみに亡くなった方の供養のためにお経を読むと言うのは日本に特有の文化です。 般若心経は英語で「Heart Sutra」 ちなみに、般若心経という言葉は海外でも研究が盛んに行われていたもので英語訳もあります。 海外の仏教学者によって般若心経の英訳も存在しています。 般若心経は英語でHeart Sutra 心経の意味 と訳され、たくさんの本もあります。 興味がある人はぜひそちらもご覧ください。 般若心経の写経について 般若心経の写経は幾年かに一度、注目を集めていますね。 般若心経の写経は、色んな寺院で写経会をしていますし、一般にも写経用のセットなどが売られていたり、さらにネット上で印刷して写経をできる無料のPDFファイルをダウンロードできたり、本当に身近になっています。 写経をすると、脳がリラックス状態になり、さらには脳を活性化することが実験観察で明らかになっていますので、実際に良い効果が得られるようです。 般若心経の写経用のPDFはこちらの寺院のHPで無料でダウンロードできます。 筆を使わず簡単にできるものですので、構えず、ぜひ一度やってみてはいかがでしょうか。 また、寺院によっては持参品なしで参加でき、本格的な写経ができる写経会もあります。 また、寺院から写経用の用紙を送っていただき、そこに願文などを書き入れお寺に奉納するということも行われています。 少し改まった気持ちで写経を行う際の心得などのご作法については、曹洞宗の公式サイトにて解説してくださっていますので、ぜひご覧ください。 参考: 般若心経の意味は意外とわわかりやすい 般若心経に書かれている内容は意外とわかりやすいと感じた方もいたのではないでしょうか。 仏教には2500年の歴史があり、たくさんの人が研究を重ねてきたものですから、たくさんの解釈、言葉が生まれています。 般若心経の教え、つまり仏教の教えを説明する時、それらたくさんの言葉を使って説明されるからわかりやすい教えもわかりにくくなっているかもしれません。 例えば、般若心経の意味を解説している時にもいくつか出てきましたが、は、智慧の完成の目的の「苦しみから解放され安らかに生きる」このことを仏教では、• の境地に至る• 悟りの境地に至る• 解脱 げだつ• 寂静 じゃくじょう• と別の言葉でも表現します。 同じことを聞きなれないいろんな言葉で表現されているので、わかりにくくなってしまいそうです。 しかし、どの言葉も意味するところは同じです。 お釈迦様の言葉を借りると、「智慧の完成」やら「涅槃の境地に至る」やら「彼岸に至る」と言うのは、筏 いかだ に乗って川を渡るようなものと簡単な例えで教えてくださっています。 川に面していると考えてください。 自分のいる岸、これを仏教用語で此岸 しがん と言うのですが、こちらは苦しみが多い世界です。 一方自分のいない岸、向こう側の彼岸 ひがん は苦しみのない安らかな世界です。 般若心経の意味、つまり仏教の教えというのは、この川を渡ってより良い世界に行くための筏を作って、自力で渡りましょうということなのです。 般若心経を本当の意味で理解するのは難しい 般若心経の現代語訳を見て、意味がわかったとしても、誰もがすぐに苦しみから解放された涅槃の境地に至れるのかと言うと、そうではありません。 様々な専門家がわかりやすい例えで般若心経の意味を解説してくれているので頭では理解できると思います。 しかし、解説の途中でも書きましたが、般若心経を本当の意味で理解することは非常に難しく、それゆえにお釈迦様ほど悟った人間、つまりブッダになった人は歴史上出ていません。 それでも、般若心経の意味を読んでみることで、少しは考え方に変化が生まれていたら幸いです。 様々な般若心経の解説本がある中で、中には、読みやすいけど般若心経の本当の意味を解釈しているのかと疑問を持つものもあります。 残念ながら私も本当の意味での「空」を理解し、智慧を完成させている人間とは言えませんので、それらを批判する立場にはないのかもしれませんが。 日本人で仏教の神髄に最も近づいた人であろう空海も般若心経についての解説書を出しています。 分かりやすさより、般若心経の奥深さを知りたい方は、空海の「般若心経秘鍵」という本か解説書を読んでみてはいかがでしょうか。 ちなみに空海が教えた真言宗という仏教は、空の概念は大事にしていますが、 羯諦 ぎゃーてい 羯諦 ぎゃーてい 波羅羯諦 はーらーぎゃーてい 波羅僧羯諦 はらそうぎゃーてい 菩提薩婆訶 ぼーじーそわかのような真言を唱えることで、苦しみから解放されるという教えを説いています。 空の概念を理解することと同様に、真言を唱えることを重要視しています。 このように仏教にはたくさんの教えが生まれていて、とても奥深いものになっています。 般若心経の意味を知って仏教に興味を持ったなら 般若心経について長々とご紹介し、最後までお付き合いくださりありがとうございます。 最後に、般若心経の意味を知って、仏教の教えってなんだか面白そうだなということを感じたなら、ぜひ般若心経以外の仏教の重要な教えを知らない方は、般若心経以外の教えもご覧になってみてください。 仏教は「この世のあらゆる苦しみからどうやったら解放されるのか」ということを、お釈迦様というこの上なく賢い方が、考えに考えて生まれたものです。 般若心経は呪文的要素もありましたが、仏教の教え自体はとても現実的であり、合理的な考え方は、般若心経がわかると気持ちが楽になるというのと同じように、この現実世界の見方を変える、とてもよい薬のようなものです。 お釈迦様は自らのことを医者だと言っておられました。 人は「人生の苦しみという病気」に悩んでいて、お釈迦様の役割は医者で、その病気を取り除くことです。 お医者さんは患者一人一人にあった治療をしますね。 お釈迦様も同じです。 「人生の苦しみという病気を取り除く」という目標があるからこそ、お釈迦様に教えを乞う人達一人一人にあった方法で薬 教え を与えていました。 それゆえに後の世では矛盾していると考えられるような教えがあったりもするわけですが、すべては「人生の苦しみ」を取り除くためのことなのです。 後の世がどうとか考えず、いかに今目の前の現実を苦しみ無く生きるかに集中したお釈迦様の考え方、教えにぜひ触れてみてください。 仏教の最も大事な3つの教え三法印 仏教の教えとは?をたった3つに言いまとめたものを三法印と言います。 しょぎょうむじょう• しょほうむが• ねはんじゃくじょう という三つです。 空という教えは、この諸行無常と諸法無我を言い表したようなものです。 また、この仏教の最も大事な3つの教えにもう一つ大事な教えを足して、四法印という言葉もあります。 四法印とは、上記の三つに いっさいかいく を入れたものです。 これらについてはそれぞれこちらで詳しく解説していますのでぜひご覧ください。 また真理という言葉についてはこちらで詳しく解説しています。 般若心経に書いていない悟りを得る方法 般若心経では、具体的に悟りを得る修行法は書かれていませんでした。 むしろ、それらの修行法に執着しないように、否定的な表現までしていましたね。 ただ、仏教ではこれら修行法もとても大事な教えです。 それらについても簡単に解説いたします。 般若心経で「無苦集滅道」と言い、お釈迦様が説いた四諦を否定していましたが、四諦という教えは以下の4つの教えです。 苦諦:この世は苦しみばかりの世界• 集諦:苦しみばかりの世界である原因について• 滅諦:苦しみから解放されるには、原因を滅したらよい• 道諦:苦しみから解放されるための道 四諦という仏教の根本の教えについてはこちらで詳しく解説しています。 この四諦の道諦に当たる、具体的な苦しみから解放されるための道 修行法 はと言われます。 八正道とは以下の8つの要素です。 正見 しょうけん :正しいものの見方・考え方を持つこと。 偏った見方 自己中心的な考えなど で物事を見ないこと• 正思惟 しょうしゆい :怒りや憎しみ等の感情にとらわれず、正しい考え方で判断をすること• 正語 しょうご :嘘や悪口、二枚舌は言わず、正しい言葉を発すること• 正業 しょうごう :殺生や盗みなど道にそれたことはせず、正しく生きること。 のままの行動を慎むこと• 正命 しょうみょう :規則正しい生活を送ること• 正精進 しょうしょうじん :正しい努力をすること• 正しく善悪を見極め、善行する努力をすること• 正念 しょうねん :正しい志、意識を持つこと• 正定 しょうじょう :正しい心の状態を保つこと。 正しい禅定 座禅 を行うこと 八正道についてはこちらで詳しく解説しています。 また、お仏壇のお供え物がこの教えを意味しているというところで一度出てきましたが、六波羅蜜という修行法があります。 大乗仏教ではこのを「苦しみから解放されるために」行うべき実践項目と言います。 六波羅蜜とは以下の6つの要素です。 布施 ふせ :人のために善行すること。 ほどこすこと。 持戒 じかい :自らを戒め生活すること。 つつしむこと。 忍辱 にんにく :困難に耐えて生きること。 しのぶこと。 精進 しょうじん :最善を尽くし努力をし向上心を持ち続けること。 はげむこと。 禅定 ぜんじょう :心を落ち着け、動揺しないこと。 しずけさを保つこと。 智慧 ちえ :心理を見極め、真実を見抜く心眼を養い知恵に溺れないこと。 学ぶこと。 六波羅蜜という教えについてはこちらで詳しく解説しています。 ちなみに、仏教の教えのゴール地点である「苦しみから解放された安らかな境地」をと言うと言いましたが、日本の春と秋にやってくるがとを中心にして1週間あるのは、この六波羅蜜が由来なんです。 般若心経・仏教の教えはは私たちの年中行事にまで影響をしているのですね。 と六波羅蜜の関係についてはこちらで詳しく解説しています。 また般若心経の意味である「智慧の完成」の智慧についてはこちらで詳しく解説しています。
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