佐藤しのぶが死去!死因は?激やせの声あり 佐藤さんの死去について「KYODO」は次のように報じています。 日本を代表するソプラノ歌手として活躍した声楽家の佐藤しのぶさんが、3日までに死去した。 61歳。 東京都出身。 (2019年10月3日配信) 上記の通り、佐藤さんは61歳という若さで死去されていました。 しかし、現在までに 死因は公表されておらず不明となっています。 彼女の病気について調べてみても、持病や病歴は確認されていません。 ただ、 「近年は痩せていた」という情報が確認されています。 ふくよかな体型から 素晴らしいソプラノを披露される方という印象でしたが、 近年目に見えてお痩せになられていたので、 ご病気かなとは思ってました。 詳細が出ないのはご本人の遺志なのかな。 ご冥福をお祈りいたします。 コメント」より引用 「激やせ」という状況からか、一部からは 「癌」を疑う声も上がっています。 追記 体調不良により公演を中止していた。 その後の調査により、佐藤さんが 公演を中止していたことが分かりました。 公演をキャンセルした理由は 「体調不良」でした。 2019年10月6日(日)に予定しておりました「佐藤しのぶソプラノ・リサイタル」公演は、 佐藤しのぶ氏の 健康上の理由により、 やむを得ず中止とさせていただくことになりました。 佐藤しのぶ氏は、 医師による検査と診察の結果、 一定期間の治療が必要であると診断されており、 当ホールといたしましては、 早期の回復を心より願っております。 この事実から、佐藤さんは病気をおしてリサイタルに参加するつもりだったのでしょう。 子供(娘)の名前や画像は? Wikipediaによると、娘さんは 1991年に誕生しているようです。 「トスカ」で指揮助手を務めていた夫と知り合い結婚、 1991年に長女を出産。 つまり、現在の年齢は 28歳前後だと思われます。 娘さんの素性は一切公表されていないため、恐らくは一般人として暮らしているのでしょう。 ただ、名前については 「かれん」さんであることが分かりました。 ちなみに、 佐藤しのぶさんの一人娘の かれんちゃんと、 うちの長男のマズルカは同じ年です。 実は、かれんさんは幼い頃に母親と共にCDのジャケットを飾っていたのです。 問題のCDがこちらです。 この写真に写る子供こそ、幼い頃の娘さんなのです。 佐藤しのぶさんが急逝されて驚いています。 思えばあれだけ世界的に有名なソプラノ歌手であったにもかかわらず 目線は常に我々と同じでした。 まず声がすばらしい。 これはオペラに全く縁のない者にもわかります。 それにスタイル。 特に50代の容姿は歌う時の表情も加えて、最高でしたね。 さらに人生観がしっかりしていて、 おごることもなく、 自分の環境を受け入れて生きている姿は、 我々にも模範を呈されているようで、 楯もありがたかったですね。 佐藤さんのような生き方をすればいいのだという、 自信を与えてくれました。 佐藤しのぶさんのご冥福を祈っています。 一年ほど前に立て続けに佐藤さんのリサイタルに行ったのですが、 奇跡というほかはないですね。
次の核なき世界 実現誓う 広島原爆投下71年 平和宣言 オバマ氏演説引用 連帯呼びかけ - 広島 平和記念式典ー 2016年8月6日朝日新聞(夕刊) 「広島平和宣言(全文)」 ー平和祈念式典ー 広島市長、首相あいさつ 2016年8月6日朝日新聞(夕刊) 広島 平和宣言 広島市長 松井和實 (私が10月22日に広島平和資料館を訪問した際に、いただいた資料です) 継ぐ平和の思い 「悲しみちっとも変わらない」 ー長崎の平和式典ー 2016年8月9日朝日新聞(夕刊) 2015年10月15日更新分 核の廃絶を! (3) なかにし礼さん、ガンで死を覚悟 墓や葬儀の段取り自分で決めていた デイリースポーツ 10 月 19日 月 13時 1分配信 がんで死を覚悟したなかにし礼氏 2012年に患った食道がんが今年3月、気管支周辺のリンパ節に再発し、大手術を受けた 作詞家のなかにし礼さん(77)が19日、由利子夫人とともにテレビ朝日系「徹子の部屋」 (月~金曜正午)に出演し、一時は自分で葬儀や墓の段取りまでしたことを明かした。 【写真】なかにし氏 治療に公的保険の適用なく240~290万円の自己負担 なかにしさんは今年3月に「徹子の部屋」に出演した直後、再発が分かったガンと闘って いることを黒柳にメールで知らせてきた。 開胸手術を受けたものの、ガンは取り切れなかった。 一時は家族が「一週間以内に亡く なる可能性が80%」という宣告さえ受けたという。 当時、その宣告は本人には知らされなかったが、その気配に気付いたなかにしさんは 「もう死ぬだろうということで、葬儀委員長を決めて、お寺行って、焼き場も決めてね」 と、終末に備えた。 墓を決め、葬儀でかける音楽などの演出も自分で決めてしまった。 しかし抗がん剤治療は劇的な効果を上げてガン細胞はどんどん小さくなり、ついに消滅。 念のため陽子線治療も受けて回復し、テレビ出演できるまでになった。 由利子夫人は「秋 を迎えられるとは思っていませんでした」と声を詰まらせた。 なかにし礼氏 がんから復帰&激白 がんから復帰を激白したなかにし礼氏 なかにし礼 戦後70年、日本の今語る 2015年08月15日 今後の日本社会や芸能活動を語るなかにし礼氏=東京・虎ノ門の日本コロムビア本社 今年3月にがんの再発を公表し、治療に専念していた作詩家・作家のなかにし礼氏(76)が、がん からの復帰を果たし、スポーツ紙では初となるインタビューに応じた。 自分自身を形成したという戦争体験を、戦後70年を機にあらためて振り返ったなかにし氏。 昭和の 歌謡界を華やかに彩った作家は、大きな転換期に差し掛かっている日本の現状に迫り、生きること への率直な心境を語った。 また、作詩家生活50年の節目に描いている、新たな構想も明かした。 -がんの再発が判明してから約半年。 現在の状態は。 「がんは現段階ではほぼ消えました。 腫瘍マーカーも正常値以下。 一般的に言えば、治ったとなる。 よく死な ないでここまで来たと実は思っています」 最初に食道がんが見つかったのは12年2月。 陽子線治療が実り、同10月に仕事復帰。 だが、今年2月に 食道横のリンパ節に再発。 手術は不完全に終わっていたという。 「リンパ節が気管支にくっつき一時は穿破(せんぱ=がんが壁膜を破って他臓器に侵食すること)の心配が ありました。 壁を破ったら最期と随分切迫した状態を過ごしたのですが、現状は危険性もうせたであろうと。 抗がん剤は4回やり、衰弱しましたが立ち直っているところです」 -戦後70年。 闘病を続けながら安保関連法案などをめぐる、日本の動きを、どう見ていたのか。 「第2次安倍政権は、日本の歴史上、類を見ないほど、政治の上でルール違反を犯しています。 安倍さん の時代になり戦前の日本が唱えていた国家主義のようなものが突然、言い出され始めた。 政治が迷路と いうか、悪路に入り込んでいる」 自民党議員が、安保法案反対デモを展開する若者たちを「利己主義だ」と批判したことにも話題は及んだ。 「戦争に行きたくないから反対と言う。 それでいいわけですよ。 ばかな議員は利己主義だと言うけど、個人が 主人公。 利己主義だろうがエゴイズムだろうが放っておいてくれ、ですよ。 これが今の自民党の党内意識。 居酒屋の会話のように党内でしゃべっていることでしょう」 -70年前の8月9日、ソ連が満州に侵攻し、暮らしていた牡丹江から軍用列車でハルピンに脱出 した。 壮絶な体験をどう捉えているのか 「今、サンデー毎日に連載中の『夜の歌』という小説は、戦争体験が自分をどう作り上げてきたかを書いて います。 僕が書いた歌や小説に色濃く映っているわけですから」 「えげつなさ、浅ましさ、裏切り、暴力、残虐性、卑怯(ひきょう)、戦争は人間の悪い面すべてを見せる。 それを心の中の開かずの部屋に密閉して生きてきましたが、徹底的に思い出さないと、と自分に命じて います」 爆撃に襲われ、炎が迫る街から逃れようと、牡丹江駅は何万もの人であふれ返った。 一家はツテを頼り に列車に乗ることができた。 「列車に乗れない人たちは、ソ連軍の戦車の下敷きになったり、歩いてハルピンに向かったりした。 そう いう人たちを尻目に、自分たちは列車に乗った。 乗せてくれと来る人たちの手を振り落とした。 残酷なこと を僕自身やっているんです」 体験から得た真理をなかにし氏は説く。 「戦争は人間の存在を根底から覆す、いろんな場面を人間に教える。 だから戦争を知らないと いけない。 逆に、知らない人はいじっちゃいけない。 「日本は、戦争を知らない政治家がトップにいる。 戦争を知らないで、今、戦争を画策するような 法律をいじっているわけで、本当に危険です。 まして、憲法解釈、解釈改憲なんてのは最悪。 作家 の大岡昇平が言ったように『戦争を知らない人間は半分は子供である』(「野火」より)ですよ」 -今年は作詩家生活50年。 戦争体験を原点に、シャンソンの訳詩を始め、石原裕次郎氏に誘われ 歌謡曲を手がけて一時代を築いた。 「全盛期は昭和42、43、44、45年、この4年間が僕にとっては一番華やかだった時期じゃないですか。 町を歩けば、どこへ行っても、自分の歌が流れていましたね」 -数多く歌っている恋愛やエロスは、ご自身の戦争体験とどうつながるのか。 「恋だの、愛だの、キスだの、そんなばかなことを書くことが平和。 だから僕は、戦後、ばかなことを書き まくった。 それが平和の象徴であり、自由の象徴であるわけです」 具体的に曲名を挙げて説明した。 「『恋の奴隷』は、公序良俗に反すると言われましたが、反しない芸術がこの世にあるとしたら恥ずかしい。 世の中の価値を疑い、疑問を呈すのが芸術のあるべき姿。 『時には娼婦のように』は放送禁止にならない とつまらない、と思ってたから、なって良かったと思いましたね」 -最近は平和を訴える曲も。 「去年、『平和の申し子たちへ』という詩集を出したら結構、反響があった。 『どうしたの?硬派になって』と 言われましたが、平和を訴えるのは、実は軟派な作業。 裸でふるちんでいい。 それを分かってもらうため に作詩家もやり、作家もやり、エロも書き、笑いも書く」 -今は窮屈な時代になったのでは。 「芸能界も窒息寸前ですよ。 みんな自由にものを書けない。 僕たちは戦後の自由と平等、平和を謳歌 (おうか)しながら作品を書いた。 戦前に対する甘美な復讐という表現もできる。 自由を謳歌した楽しい 成果でもある」 「今の人たちは謳歌する自由もない。 日本は非常に暗くて何もない時期。 言葉が政治家にぶっ壊された というのはある。 積極的平和主義だとか、憲法すら法的根拠はいらないと言われる時代。 日本人の精神 的価値は崩壊してしまった。 もう一度、立て直さないと」 -今後、何をなすべきと考えているのか。 「1回目のがんの治療から生き返った時、最初に考えたのは、やり残したことがあるんじゃないかという ことでした」 そう打ち明け、新たなアルバム制作を公表した。 「作詩家がいて作曲家がいて歌がありますが、歌手の存在感は大きくて、結果、誰々が歌った歌になる。 それで、歌手への敬意、ありがとうを伝えるために、アルバムを作ろうと考えています」 -小説、アルバム制作と意欲は尽きない。 「僕は歌を通して昭和と関わり合った。 昭和という時代の関わり合いの深さに、自分で納得がいけば、存在 価値を持てるんじゃないかな。 その後は、命があるか分からないから。 何とか死なないで、今年いっぱい。 小説を書き上げる、来年の夏まで持たせようという感じですよ」 (強い決意をにじませるように) 「今、いる所が最終ベースキャンプ。 ここで闘うしかない。 元芸術家、元作家なんて言葉はない。 引退はない わけですから、頑張りますよ」 以下は2014.08.15更新分 (2) 核と命を考える 「 国際平和シンポジウム2014 核兵器廃絶への道 」 主催:長崎市、長崎平和推進協議会、朝日新聞社 8月2日、長崎ブリックホール国際会議場で上記のシンポジウムが開催されました。 シンポジウムに 先立ち 佐藤しのぶさんの歌 「リメンバー」が手話を交えて披露されました。 以下は、その内容を伝える2014年8月9日、朝日新聞の記事です 特別講演: なかにし礼さん 「前進 ゆるぎない気持ちで」 「ナガサキノート」朗読: 群家徳郎さん 「原爆ほど罪なものはない」 A. 「 」 satosinobu2 YouTube 5:24 歌 :佐藤しのぶ 子供の合唱つき ピアノ演奏バージョン版 B. 「 」 YouTube 1. 06 作詞:なかにし礼、 歌:佐藤しのぶ CD発売 記者会見 佐藤しのぶの歌あり(約40分以降)オーケストラ演奏版 時間が長いので、つまみ食いでごらんください! (私は全部視聴しました。 その価値は充分あると思いました) 2014.06.15更新分 (1) 声楽家、佐藤しのぶ氏と作詞家、なかにし礼氏のコンビで、この度、反核と平和を訴える「リメンバー」と いう歌詞が発表されました。 私は、なかにし礼氏と同じく満州生まれであり、同氏の作品「赤い月」という小説を読んだこともあります。 そんな縁もありますが、それ以上に、今回の新聞記事の内容に大きな刺激を受けました!ヒロシマ・ ナガサキの原爆や戦争に対する考え方や、福島原発事故や原子力発電に対する考え方がまったく 同じであり、また、同じ危機感を痛感していました。 自分のホームページを通じて日本人のみならず、 中国や韓国をはじめ、世界中の人にこの歌を広めるお手伝いをしたいと考えたしだいです。 旧満州の戦争体験を語り継ぐ使命感から 「赤い月」を書いた私にも、核廃絶の歌を書いてみたいという思いがありました。 では、どう書くか。 そんな時でした。 オノ・ヨーコ さんが「『リメンバー・ヒロシマ、ナガサキ』ね」と語る朝日新聞の 記事に出会ったのは。 いま、 被爆国 日本が世界に発信できる言葉はこれしかないと思いました。 2009年の オバマ米大統領 のプラハ演説で、世界は核廃絶に多少なりとも進むのではとの淡い希望もあった。 このフレーズを軸に歌詞作りを進めました。 「リメンバー」の曲が完成したのは11年2月。 その直後の翌3月、 東日本大震災 と福島第一 原発事故 が起き ました。 「なぜ今、広島・長崎なの」と思われないか。 そんな心配から、発表の無期延期を決めました。 でも、時は流れ、人間の手に負えない核の姿があらわになりました。 広島・長崎を1次とすれば、福島は2度目 の被曝(ひばく)です。 核そのものの存在に対して物言うべき時ではないか、と作品を世に出すことにしたのです。 3・11があったがために、歌には 核兵器 廃絶だけでなく、 脱原発 のメッセージも宿りました。 運命的なものを感じます。 旧満州で国家による「棄民」を体験した私は、福島の事故対応にも同じものを予想できました。 「原子力帝国」の 著者ロベルト・ユンクは「核エネルギーを持ってはいけない。 政治権力者にウソをつかせるから」と述べています。 脱原発 を決めた ドイツ のように、日本も方向転換すべきです。 若い人たちに伝えたい。 あなた方の未来はあなた方のものです。 それを核で危険にさらすのでしょうか。 ヒットメーカーの作詞家として活躍後、 小説「長崎ぶらぶら節」で 直木賞 受賞。 引き揚げ体験を描いた「赤い月」は映画化され、ロングセラーに。 「平和の歌をぜひ」という 佐藤しのぶ さんの決意に動かされました。 こうした歌をはっきりとした意思を 持って歌うということは、日本という風土ではやりにくいし、珍しいこと。 歌手という立場でそれが可能かと 確認しました。 彼女は「ぜひやりたい」と答えました。 そういう歌を歌わないで安閑と過ごしている人生は 認めがたいと。 それは僕も同じでね。 僕自身も満州での戦争体験があって、そのことを「赤い月」という小説で書いた。 戦争体験を語り継がないでいては、ものを表現する人間としては使命感に欠けているのではないかと。 そう思っているところに、佐藤さんから歌の話が来て反応した。 僕の中にもずっと歌を書いてみたいという 思いがあったんですね。 さて、どう書くか。 家の 日本人が世界に向けて核廃絶を歌うとなると、何か日本から発信する言葉が必要だとずっと考えていました。 そんな時、朝日新聞で オ ノ・ヨーコ さんが「『リメンバー・ヒロシマ、ナガサキ』ね」と語っている記事に出会った。 さすが オノ・ヨーコ さんだなと思って。 今、日本が世界に向けて発信できる言葉はこれしかない。 それによって 平和国家・日本を証明できるし、核廃絶を、平和を願う日本も主張できる。 世界が核廃絶に向かって多少なりとも進んでいるとの淡い希望もあって、「リメンバー・ヒロシマ・ナガサキ」 という言葉で発信しようと決めて、歌詞作りに入ったんですよ。 「リメンバー・ヒロシマ・ナガサキ」という以上、情緒にまみれて感傷的であってはいけない。 核というものが、 いかに人間の悲惨を招くものか。 核兵器 そのものを人間が持っていること、またそれを使用することがいか に愚かしいか。 被爆経験のある日本人だからこそ、それが言える。 地震・津波だけでなく 原発事故 まで起きた。 広島・長崎を第一次とすると、福島は2回目の被曝(ひばく) 経験でもあるわけです。 爆弾が落ちた時のような悲惨な状況ではないけれど、事実、 メルトダウン が起き、 人も住めなくなった。 こんなに国が大わらわになっているときに「なぜ今、広島・長崎なの」と思われないか。 そんな心配から、発表の無期延期を決めました。 その時はもう永久にないだろうなという感じでした。 時が流れて見えてきたのは、日本を含め世界中が原発を持ち、世界の主要5カ国以外にも核を持つ国 があり、核廃絶どころではなく 核兵器 は拡散していく、そして原発は増えていく姿です。 原発とは、人間の 手に負えない悪魔の火のようなもの。 これらが縮小されない現実に向かって、あえてリメンバー・ヒロシマ・ ナガサキという歌をキーにして、原発反対も含めて言うべきだろうと。 それで世に出すことにしたのです。 当初は 核兵器 反対を訴えているつもりだったけど、発売の時には 反原発 の思いも込められた。 3・11 が あったがために、核そのものへと対象が広がった、運命的なものを感じます。 ドイツ は 3・11 の後、猛烈な議論をし、政治的な闘争を経て、原発廃止を決定した。 そうした国も出てきて いるので、日本も不可能ではない。 夢を持って、理想は遠いけれども核なき世界をめざすんです。 哲学者の 梅原猛 さんは「人類哲学序説」という最近の本で、核問題の解決策があると書いている。 ゲーテが ファウストの第2部でいうところの「美しき天然の哲学」というのかな、彼が生まれ変わって、生の喜びを再び味 わったときに、鳥や花や水や大自然と一緒にあることを歌っている。 それと照応しているわけですよ。 森の思想 というのかな、美しき天然の哲学があればこそ、 ドイツ は原発全廃に向かって進んだと思う。 日本も ドイツ ととも に方向転換すべきだ。 もちろん。 満州という日本がつくった傀儡(かいらい)国家に生まれ、そこでの実態というものを子供心にも目 の当たりにしてきました。 ソ連軍が対日参戦し、 関東軍 は一部を除いて満州から消えていなくなった。 国の方針は朝鮮だけは守れと いうことで、満州は捨てる。 そして、引き揚げと避難民生活をしながら、日本も大変な 食糧危機 にあるから帰 ってきても十分に食べさせることができない、帰ってこないでくれという通達が来る。 棄民ですね。 これはそのまま今回の福島の事故にも当てはまる。 福島の人々は、国の責任ある政策をきちっと受けて いない。 スピーディーの情報すら公開しないのだから、人々は放射線濃度の高い方に逃げていった。 そして、 住めないところに「帰れ」と言われている。 常に棄民されているわけです。 福島の事故が起きたとき、僕は 今の状況を予想できた。 そういうことをもたらすから、 核兵器 と原発は持ってはいけない。 「原子力帝国」を書いたロベルト・ユンク が言っている。 「核エネルギーは政治権力者にウソをつかせるから。 まず民主主義を壊すから」と。 情報を 隠蔽してウソをつき、ウソを上塗りしながら国民を危険にさらすのです。 まずは日本の若者たちに考えてもらいたい。 自分たちの今後の人生はたっぷりある。 その人生が、 核エネルギーを所有し、原発を再稼働することで危険にさらされる。 そんな政治を、なぜ認めるのか。 今、原発は動いていない。 それでもやっていけている。 あなた方の未来はあなた方のものだ、なんであなた方の未来を破壊するんだと。 若者には、自分 たちの人生を大事にしてほしい。 それが、 なかにし礼 さんに作詞をお願いした「リメンバー」です。 平和への思いが強くなったきっかけは、小学5年の時に家族旅行で行った広島の 平和記念資料館。 亡くなった 子を抱く母の写真がありました。 その母の目は絶望に染まっていました。 今も忘れられません。 18年前には、 ベラルーシ に行きました。 原発事故 が起きた チェルノブイリ ( 旧ソ連 、現 ウクライナ )の北側 にある国です。 被曝した子どもたちの療養所で歌った後、所長さんに聞きました。 「歌より医療を充実させたほうが子ども を救えるのではないでしょうか」と。 すると、こんな答えが返ってきました。 「生の演奏は人間の精神に強く訴 えかけてきます。 そんな気持ちが高まった瞬間でした。 ところ が、3年前。 日本でも 原発事故 が起きてしまいました。 核はひとたび過ちが起きれば、きれいな水や土、命を 根こそぎ奪う。 人間には到底扱いきれないものなんです。 いま、日本は 集団的自衛権 を始めとしたさまざまな議論が起きています。 戦争が近づいているようにも感 じますが、私たちは戦争の悲惨さを十分に学んできたはずです。 8月の長崎でのシンポジウムでは、戦争のない平和な未来を願って歌います。 そしていつか、リメンバーの 歌詞が世界中の言語に翻訳され、たくさんの人が歌ってくれるようになってほしい。 文化庁 オペラ研修所を首席で卒業後、 イタリア ・ミラノに留学。 「椿姫」の主役で注目を集め、87~90年にはNHK 紅白歌合戦 にも出場した。 問い合わせはメール( sq-sybox asahi. com)か、FAX(06・6232・2347)で。
次の佐藤しのぶが死去!死因は?激やせの声あり 佐藤さんの死去について「KYODO」は次のように報じています。 日本を代表するソプラノ歌手として活躍した声楽家の佐藤しのぶさんが、3日までに死去した。 61歳。 東京都出身。 (2019年10月3日配信) 上記の通り、佐藤さんは61歳という若さで死去されていました。 しかし、現在までに 死因は公表されておらず不明となっています。 彼女の病気について調べてみても、持病や病歴は確認されていません。 ただ、 「近年は痩せていた」という情報が確認されています。 ふくよかな体型から 素晴らしいソプラノを披露される方という印象でしたが、 近年目に見えてお痩せになられていたので、 ご病気かなとは思ってました。 詳細が出ないのはご本人の遺志なのかな。 ご冥福をお祈りいたします。 コメント」より引用 「激やせ」という状況からか、一部からは 「癌」を疑う声も上がっています。 追記 体調不良により公演を中止していた。 その後の調査により、佐藤さんが 公演を中止していたことが分かりました。 公演をキャンセルした理由は 「体調不良」でした。 2019年10月6日(日)に予定しておりました「佐藤しのぶソプラノ・リサイタル」公演は、 佐藤しのぶ氏の 健康上の理由により、 やむを得ず中止とさせていただくことになりました。 佐藤しのぶ氏は、 医師による検査と診察の結果、 一定期間の治療が必要であると診断されており、 当ホールといたしましては、 早期の回復を心より願っております。 この事実から、佐藤さんは病気をおしてリサイタルに参加するつもりだったのでしょう。 子供(娘)の名前や画像は? Wikipediaによると、娘さんは 1991年に誕生しているようです。 「トスカ」で指揮助手を務めていた夫と知り合い結婚、 1991年に長女を出産。 つまり、現在の年齢は 28歳前後だと思われます。 娘さんの素性は一切公表されていないため、恐らくは一般人として暮らしているのでしょう。 ただ、名前については 「かれん」さんであることが分かりました。 ちなみに、 佐藤しのぶさんの一人娘の かれんちゃんと、 うちの長男のマズルカは同じ年です。 実は、かれんさんは幼い頃に母親と共にCDのジャケットを飾っていたのです。 問題のCDがこちらです。 この写真に写る子供こそ、幼い頃の娘さんなのです。 佐藤しのぶさんが急逝されて驚いています。 思えばあれだけ世界的に有名なソプラノ歌手であったにもかかわらず 目線は常に我々と同じでした。 まず声がすばらしい。 これはオペラに全く縁のない者にもわかります。 それにスタイル。 特に50代の容姿は歌う時の表情も加えて、最高でしたね。 さらに人生観がしっかりしていて、 おごることもなく、 自分の環境を受け入れて生きている姿は、 我々にも模範を呈されているようで、 楯もありがたかったですね。 佐藤さんのような生き方をすればいいのだという、 自信を与えてくれました。 佐藤しのぶさんのご冥福を祈っています。 一年ほど前に立て続けに佐藤さんのリサイタルに行ったのですが、 奇跡というほかはないですね。
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