「いき」と「いなせ 」 [ ] 「いなせ」とは、「男気があって粋なさま」 ないし「勇み肌でいきな若者、また、その様子」 を表す語。 「いき」を意味に含むが、主に男性の気風についていう語である。 寛政期に日本橋魚河岸の若者の間で流行した「」というに由来する とも、「往なせとも」と上方言葉で唄う勇み肌の地回りがいたことから ともされるが、未詳。 魚河岸などの江戸職人やなど、履いた鼻緒の長いとともに、短気で喧嘩早い若者が好んで使った。 の落語『』では「刺繡(ほりもの)だらけの鯔背な哥々(あにい)が」と表したように、いなせはいきとともに江戸市中の気っ風(きっぷ) を表した言葉として定着した。 唄の『佃節』では「いきな、いなせな、人の悪いは」と唄われており、左官、大工、土方の多かった神田の気風が「いなせ」と見られていたことがわかる。 九鬼による「いき」 [ ] 『』(1930)では、「いき」という江戸特有の美意識が初めて哲学的に考察された。 は『「いき」の構造』において、いきを「他の言語に全く同義の語句が見られない」ことから日本独自の美意識として位置付けた。 外国語で意味が近いものに「coquetterie」「esprit」などを挙げたが、形式を抽象化することによって導き出される類似・共通点をもって文化の理解としてはならないとし、経験的具体的に意識できることをもっていきという文化を理解するべきであると唱えた。 また別の面として、いきの要諦には江戸の人々の道徳的理想が色濃く反映されており、それは「いき」のうちの「意気地」に集約される。 いわゆるやせ我慢と反骨精神にそれが表れており、「宵越しの金を持たぬ」と言う気風と誇りが「いき」であるとされた。 九鬼周造はその著書において端的に「理想主義の生んだ『意気地』によって霊化されていることが『いき』の特色である。 」と述べている。 九鬼の議論では、「いき」が町人の文化であることを軽視している点、西洋哲学での理屈付けをしている点には批判もある。 同じ漢字の「粋」を当てる「すい」があり、どちらも「つう(通)」とならぶ江戸時代から始まる美意識の理念である。 「いき」が江戸時代を通じて用いられているのに対し、「すい」や「つう(通)」は、近世後期に文化の中心が江戸に移っていくに従って育った、地域的、時代的な限定を伴う。 文学での比較において「通」の文学であるより後の発生であるに多く用いらることから、女性中心の美意識であるとの見方もある。 は「いき」の概念に「諦め」も加えている。 『』には、「京坂は男女ともに艶麗優美を専らとし、かねて粋を欲す。 江戸は意気を専らとして美を次として、風姿自づから異あり。 これを花に比するに艶麗は牡丹なり。 優美は桜花なり。 粋と意気は梅なり。 しかも京坂の粋は紅梅にして、江戸の意気は白梅に比して可ならん」と書かれている。 一方で、「いき」と「粋(すい)」の内容に大差はないという説もある。 前出の九鬼周造は「いき」と「粋(すい)」は同一の意味内容を持つと論じている。 脚注 [ ] []• 『日本国語大辞典』小学館• 山口佳紀編『暮らしのことば語源辞典』講談社、1998年• 『日本国語大辞典』小学館• 辞林 第三版『鯔背』• 山口佳紀編『暮らしのことば語源辞典』講談社、1998年• 『日本国語大辞典』小学館• 山口佳紀『暮らしのことば語源辞典』では、上方言葉である「往なせ」を江戸の言葉である「イナセ」の語源とするのは無理があるとしている。 気風から転じて、「いき」な風情の場合に「気っ風がいい」と言った。 したがって「気っ風が悪い」とは用いられない。 『日本国語大辞典』小学館•
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次のそこは編集工学研究所が借りていて、1階の井寸房(せいすんぼう)や本楼(ほんろう)、2階のイシス編集学校の事務局にあたる学林と制作チーム、3階の企画プロデューサー・チームと総務・経理などに分かれている。 その3階に松岡正剛事務所も入っていて、ここに太田・和泉・寺平・西村の机、そしてぼくの作業用書斎がある。 部屋ではなく書棚で囲んだ領土(領分)になっていて、8畳まで広くない。 ふだんは、この「囲い」の中の大きめの机の上にシャープの書院とDELLのパソコンが並んでいて、二つを同時に使って執筆する。 両方とも通信回線は切ってある。 だからぼくへの通信は松岡正剛事務所のスタッフを通してもらわなければならない。 ケータイ(スマホは持たない)も番号を知る者はごく少数なので、めったに鳴らない。 メールも切ってある(メールは30年間、使っていない)。 思想系の本と新着本と贈呈本ばかりで、選書の基準は「できるだけ複雑に」というものだ。 「面倒がかかる本」ばかりが集まっているのだ。 ただ、すでに満杯である。 だからときどき棚卸しをして、各階に配架して隙間をあける。 配架といっても、全館の書棚にはすでにおそらく6万冊以上の本が入っているので、こちらももはや溢れ出ている状態だ。 だから二重置きしているほうが圧倒的に多い。 それでも、たいていの本の位置は太田と寺平がおぼえている。 ひとつは肺癌手術をしたあと、事務所が導入してくれたリクライニングチェアだ。 食後や疲れたときにここに坐り、たいてい本を読む。 ほどなくして疲れて背を倒して寝る。 これはほぼ日課になってきた。 ここで着替えるのだが、この作業がぼくには必須なのである。 本を摘読することと着替えることとは、まったく同義のことであるからだ。 「本」と「服」とは、ぼくにはぴったり同じものなのだ。 実はもうひとつ同義なものがある。 それは「煙草」と「お茶」(あるいは珈琲)だ。 ちなみに自宅の書斎はもっと小さい。 書院とipad、それに書棚が二つで、本の数はごく少量だ。 いつも300冊くらいが少しずつ着替えているくらいだと思う。 戦時中ではないのだから過剰な自制は必要ないし、相互監視などもってのほかだけれど、逆にお気楽なユーチューブ・ラリーが続いているのも、いただけない。 仮にそれが「はげまし」の連鎖だとしても、自粛解除のあとはどうするのか。 きっとライブやドラマ撮影や小屋打ちが再開して、ふだんの平時に戻るだけなのだろう。 もっとも自粛中のテレワークはけっこう便利そうだったので、うまくリモート・コミュニケーションをまぜるだけになるのだろう。 思うに、ニューノーマルなんて幻想なのである。 その宿命を背負っているのは、なんといっても病院などの医事現場である。 感染治療も感染対策もたいへんだし、治療や看護にあたる従事者の心労も続く。 経営もしだいに逼迫していくだろう。 なぜこうなっているかといえば、原因はいろいろあるけれど、細菌やウイルスがもたらす疾病が「個人治療」だけではなく「人類治療」にかかわるからである。 人間一人ずつに対処して治療する。 これに対してウイルス対策は「究極要因」を相手にする。 いわば人類が相手なのである。 人類が相手だということは「生きもの」全部が相手だということで、人間も「生きもの」として見なければならないということになる。 これについては長谷川眞理子さんの『生き物をめぐる4つの「なぜ」』(集英社新書)という好著がある。 ゼツヒツの1冊だ。 進化医学では感染症の発熱を感染熱とはみなさない。 ウイルスなどの病原菌が生育する条件を悪化(劣化)させるために、われわれの体がおこしている現象だとみなす。 免疫系の細胞のほうが病原菌よりも高温性に耐性があることを活用して発熱をもたらしたのである。 だからすぐさま解熱剤を投与したり、体を冷却しすぎたりすることは、かえって感染症を広げてしまうことになりかねない。 ウイルスは血中の鉄分を減少させることも知られているが、これもあえてそういう対策を体のほうが選択したためだった。 「苦労する免疫」仮説を唱えて話題を呼んだ。 そういえば、かつてパラサイト・シングルといった用語をつくり、その後もフリーターや家族社会学について独自の見解を発表していた山田昌弘が、2004年に『希望格差社会』(筑摩書房)で、ネシーの「苦労する免疫」仮説をうまくとりあげていたことを思い出した。 いずれも大いに考えさせられた。 イーワルドはTED(2007)で急性感染症をとりあげ、「われわれは、細菌を飼いならせるのか」というユニークなトークを展開している。 イーワルドの言い分から今回のCOVID19のことを類推すると、武漢での飲料水や糞尿や補水がカギを握っていたということになる。 COVID19パンデミックの渦中の4月25日、HCU(ハイパーコーポレート・ユニバーシティ)第15期目の最終回をハイブリッド・スタイルで開催した。 本楼をキースタジオにして、80人を越えるネット参加者に同時視聴してもらうというスタイルだ。 リアル参加も受け付けたので、三菱の福元くん、リクルートの奥本くん、大津からの中山くんら、5人の塾生が本楼に駆けつけた。 さあ、これだけの参加者とぼくのレクチャーを、どういうふうにAIDAをとるか。 「顔」と「言葉」と「本」を現場と送信画面をスイッチングしながらつなげたのである。 まずは本楼で5台のカメラを動かし、チャット担当に2人(八田・衣笠さん)をあて、記事中継者(上杉くん)が付きっきりで事態のコンテンツ推移の様子をエディティングしつづけるようにした。 スイッチャー(穂積くん)にも立ってもらった。 かくしてハイブリッドHCUは、昼下がり1時の参加チェック開始からざっと7時間に及んだのである。 だからテレワークをしたわけではない。 ぼくは最近のテレワークにはほとんど関心がない。 当時はFAXもなく、オートバイで資料やダミーや原稿を運びあって、制作編集をしつづけたものだった。 最近のテレワークは適用機材の仕様に依存しすぎて、かえって何かを「死なせて」いるか、大事なことを「減殺しすぎて」いるように思う。 プロクセミックスとアフォーダンスがおバカになってしまうのだ。 テレビもネット参加の映像を試みているけれど、いまのところ芸がない。 はたしてうまくいったかどうか。 それは参加者の感想を聞かないとわからないが、ディレクターには小森康仁に当たってもらい、1週間前にラフプランをつくり、前日は映像・音声・照明のリハーサルもした。 こういう時にいつも絶対フォロアーになってくれてきた渡辺文子は自宅でその一部始終をモニターし、コメントしてくれた。 当日の現場のほうは佐々木千佳・安藤昭子・吉村堅樹が舞台まわしを仕切った。 安藤の胸のエンジンがしだいに唸りはじめていたので、この反応を目印に進めようと思った。 書物というもの、表紙がすべてを断固として集約表現しているし、それなりの厚みとボリュームもあるので、見せようによっては、ぼくの「語り」を凌駕する力をもつ。 けれどもやってみると、けっこう忙しく、目配りも届ききれず、自分が多次元リアル・ヴァーチャルの同時送受の浸透力にしだいに負けてくるのがよくわかった。 76歳には過剰だったのかもしれない。 まあ、それはともかく、やってのけたのだ。 すでに昨年10月から演劇ではこまつ座の座長の井上麻矢ちゃんが(井上ひさしのお嬢さん)が、スポーツからは昔なじみのアメフトのスター並河研さんとヘッドコーチの大橋誠さんが、ビリヤードからは大井直幸プロと岡田将輝協会理事が、文楽からは2日にわたって吉田玉男さんのご一門(3役すべて総勢10人余)が、そして茶道から遠州流の小堀宗実家元以下の御一党が(宗家のスペースも提供していただいた)、いったい稽古と本番とのAIDAにあるものは何なのか、いろいろ見せたり、話したり、濃ゆ~く演じてみせてくれたので、これをあらためて振り返るのはたいへん楽しかった。 たとえばベンヤミンやポランニーやエドワード・ホールだ。 ついでに最新刊の『日本文化の核心』(講談社現代新書)からのフリップも入れた。 とくに日本株式会社の多くが平時に有事を入れ込まないようになって、久しく低迷したままなので(いざというとお金とマスクをばらまくだけなので)、こちらについてはかなりキツイ苦言を呈してみた。 このことを前提にしておかない日本なんて、あるいはグローバルスタンダードにのみ追随している日本なんて、かなりの体たらくなのである。 そのことに苦言を呈した。 もっと早々にデュアルスタンダードにとりくんでいなければならなかったのである。 つまり地球生命系のアントロポセンな危機が到来しているということなのだが、そのことがちっとも交わされていない日本をどうするのか、そこを問うた。 ぐったりしたけれど、そのあとの参加者の声はすばらしいものだったので、ちょっとホッとした。 そのうち別のかたちで、「顔」と「言葉」と「本」を「世界と日本」のために、強くつなげてみたいものである。 RNAウイルスの暴風が吹き荒れているのである。 新型コロナウイルスがSARSやMARSや新型インフルエンザの「変異体」であることを、もっと早くに中国は発表すべきだったのだろう。 そのうえで感染症を抑える薬剤開発やワクチンづくりに臨んでみたかった。 せめてフランク・ライアンの『破壊する創造者』(ハヤカワ文庫)、フレデリック・ケックの『流感世界』(水声社)を読んでほしい。 千夜千冊ではカール・ジンマーの『ウイルス・プラネット』を紹介したが、中身はたいしたことがなく、武村政春さんの何冊かを下敷きにしたので(講談社ブルーバックスが多い)、そちらを入手されるのがいいだろう。 「自粛嫌い」のぼくも、さすがに家族からもスタッフからも「自制」を勧告されていて、この2週間の仕事の半分近くがネット・コミュニケーションになってきた(リアル2・5割、ネット参加7・5割のハイブリッド型)。 それはそれ、松岡正剛はマスクが嫌い、歩きタバコ大好き派なので、もはや東京からは排除されてしかるべき宿命の持ち主になりつつあるらしい。 そのうち放逐されるだろう。 学生時代に、このコンベンションに付き合うのは勘弁してもらいたいと思って以来のことだ。 下戸でもある。 だから結婚式や葬儀がひどく苦手で、とっくに親戚づきあいも遠のいたままにある。 たいへん申し訳ない。 レイ・ブラッドベリの家に行ったとき、地下室にミッキーマウスとディズニーグッズが所狭しと飾ってあったので、この天下のSF作家のものも読まなくなったほどだ。 これについては亡きナムジュン・パイクと意見が一致した。 かつての豊島園には少し心が動いたが、明るい改装が続いてからは行っていない。 格闘技はリングスが好きだったけれど、横浜アリーナで前田日明がアレクサンダー・カレリンに強烈なバックドロップを食らって引退して以来、行かなくなった。 ごめんなさい。 子供時代はバスケットの会場と競泳大会の観戦によく行っていた。 それは7割がたは「本」による散策だ(残りはノートの中での散策)。 実は、その脳内散歩ではマスクもするし、消毒もする。 感染を遮断するのではなく、つまらない感染に出会うときに消毒をする。 これがわが「ほん・ほん」の自衛策である。 ぼくとしてはめずらしくかなり明快に日本文化のスタイルと、そのスタイルを読み解くためのジャパン・フィルターを明示した。 パンデミックのど真ん中、本屋さんに行くのも躊らわれる中での刊行だったけれど、なんとか息吹いてくれているようだ。 デヴィッド・ノーブルさんが上手に訳してくれた。 出版文化産業振興財団の発行である。 いろいろ参考になるのではないかと思う。 中井久夫ファンだったぼくの考え方も随所に洩しておいた。 次の千夜千冊エディションは4月半ばに『大アジア』が出る。 これも特異な「変異体」の思想を扱ったもので、竹内好から中島岳志に及ぶアジア主義議論とは少しく別の見方を導入した。 日本人がアジア人であるかどうか、今後も問われていくだろう。 1月~2月はガリレオやヘルマン・ワイルなどの物理や数学の古典にはまっていた。 この、隙間読書の深度が突き刺すようにおもしろくなる理由については、うまく説明できない。 「間食」の誘惑? 「別腹」のせい? 「脇見」のグッドパフォーマンス? それとも「気晴らし演奏」の醍醐味? などと考えてみるのだが、実はよくわからない。 新型コロナウィルス騒ぎでもちきりなのだ。 パンデミック間近かな勢いがじわじわ報道されていて、それなのに対策と現実とがそぐわないと感じている市民が、世界中にいる。 何をどうしていくと、何がどうなるはかわからないけれど、これはどう見ても「ウィルスとは何か」ということなのである。 けれどもいわゆる細菌や病原菌などの「バイキン」とは異なって、正体が説明しにくい。 まさに隙間だけで動く。 ところがウィルスはこれらをもってない。 自分はタンパク質でできているのに、その合成はできない。 生物は細胞があれば、生きるのに必要なエネルギーをつくる製造ラインが自前でもてるのだが、ウィルスにはその代謝力がないのである。 だから他の生物に寄生する。 宿主を選ぶわけだ、宿主の細胞に入って仮のジンセーを生きながらえる。 ところがこれらは自立していない。 他の環境だけで躍如する。 べつだん「悪さ」をするためではなく、さまざまな生物に宿を借りて、鳥インフルエンザ・ウィルスなどとなる。 もっとはっきり予想していえば「借りの情報活動体」なのだ。 鍵と鍵穴のどちらとは言わないが、半分ずつの鍵と鍵穴をつくったところで、つまり一丁「前」のところで「仮の宿」にトランジットする宿命(情報活動)を選んだのだろうと思う。 たとえば一人の肺の中には、平均174種類ほどのウィルスが寝泊まりしているのである。 さまざまな情報イデオロギーや情報スタイルがどのように感染してきたのか、感染しうるのか、そのプロセスを追いかけてきたようにも思うのだ。 まあ、幽閉老人みたいなものだが、何をしていたかといえば、猫と遊び、仕事をしていたわけだ。 千夜千冊エディションを連続的に仕上げていたに近い。 木村久美子の乾坤一擲で準備が進められてきたイシス編集学校20周年を記念して組まれたとびきり特別講座だ。 開講から104名が一斉に本を読み、その感想を綴り始めた。 なかなか壮観だ。 壮観なだけでなく、おもしろい。 やっぱり本をめぐる呟きには格別なものがある。 ツイッターでは及びもつかない。 参加資格は編集学校の受講者にかぎられているのが、実はミソなのである。 ちょっと摘まんでみると、こんなふうだ。 赤坂真理の天皇モンダイへの迫り方も、大竹伸朗のアートの絶景化もいいからね。 イーガンや大澤君のものはどうしても読んでおいてほしいからね。 これらの感想について、冊師たちが交わしている対応が、またまた読ませる。 カトめぐ、よくやっている。 穂村弘『絶叫委員会』、原田マハ『リーチ先生』、上野千鶴子『女ぎらい』、畑中章宏『天災と日本人』、藤田紘一郎『脳はバカ、腸はかしこい』、ボルヘス『詩という仕事について』、松岡正剛『白川静』、モラスキー『占領の記憶・記憶の占領』、柄谷行人『隠喩としての建築』、藤野英人『投資家みたいに生きろ』、バウマン『コミュニティ』、酒井順子『本が多すぎる』、バラード『沈んだ世界』、堀江敏幸『回送電車』、アーサー・ビナード『日々の非常口』、島田ゆか『ハムとケロ』、ダマシオ『意識と自己』、荒俣宏『帝都物語』、白州正子『縁あって』、野地秩嘉『キャンティ物語』、ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡』、國分功一郎『原子力時代における哲学』、ミハル・アイヴァス『黄金時代』、ウェイツキン『習得への情熱』、江國香織『絵本を抱えて部屋のすみへ』、内田樹『身体の言い分』。 このへんも嬉しいね、アイヴァスを読んでくれている。 ぼくが読んでいない本はいくらもあるけれど、イシスな諸君の読み方を読んでいると、伊藤美誠のミマパンチを見たり、中邑真輔のケリが跳んだときの快感もあって、それで充分だよと思える。 もともとはモルフェウスのしからしむ誘眠幻覚との戯れなのだけれど、これを共読(ともよみ)に変じたとたんに、世界化がおこるのだ。 こんな快楽、ほかにはめったにやってこない。 満を持してのエディションというわけではないが(それはいつものことなので)、みなさんが想像するような構成ではない。 現代思想の歴々の編集力がいかに卓抜なものか、これまでのポストモダンな見方をいったん離れて、敷居をまたぐ編集、対角線を斜めに折る編集、エノンセによる編集、テキスト多様性による編集、スタンツェ(あらゆる技法を収納するに足る小部屋もしくは容器)を動かす編集、アナモルフィック・リーディングによる編集を、思う存分つなげたのだ。 かなり気にいっている。 なかでポランニーが「不意の確証」は「ダイナモ・オブジェクティブ・カップリング」(動的対象結合)によっておこる、それがわれわれに「見えない連鎖」を告知しているんだと展望しているところが、ぼくは大好きなのである。 鍵は「準同型」「擬同型」のもちまわりにある。 「世界は本である」「なぜなら世界はメタフォリカル・リーディングでしか読めないからだ」と喝破した有名な著作だ。 最後にキエラン・イーガンの唯一無比の学習論である『想像力を触発する教育』にお出まし願った。 この1冊は天才ヴィゴツキーの再来だった。 あしからず。 編集力のヒントとしては『情報生命』も自画自賛したいけれど、あれはちょっとぶっ飛んでいた。 『編集力』は本気本格をめざしたのだ。 ぜひ手にとっていただきたい。 あしからず。 ところが、気持ちのほうはそういうみなさんとぐだぐたしたいという願望のほうが募っていて、これではまったくもって「やっさもっさ」なのである。 やっぱりCOPD(肺気腫)が進行しているらしい。 それでもタバコをやめないのだから、以上つまりは、万事は自業自得なのであります。 来年、それでもなんだかえらそうなことを言っていたら、どうぞお目こぼしをお願いします。 それではみなさん、今夜もほんほん、明日もほんほん。 最近読んだいくつかを紹介する。 ジョン・ホロウェイの『権力を取らずに世界を変える』(同時代社)は、革命思想の成長と目標をめぐって自己陶冶か外部注入かを議論する。 「する」のか「させる」のか、そこが問題なのである。 同時代社は日共から除名された川上徹がおこした版元で、孤立無援を闘っている。 2年前、『川上徹《終末》日記』が刊行された。 コールサック社をほぼ一人で切り盛りしている鈴木比佐雄にも注目したい。 現代詩・短歌・俳諧の作品集をずうっと刊行しつづけて、なおその勢いがとまらない。 ずいぶんたくさんの未知の詩人を教えてもらった。 注文が多い日々がくることを祈る。 ぼくは鷲津繁男に触発されてビザンチンに惑溺したのだが、その後は涸れていた。 知泉書館は教父哲学やクザーヌスやオッカムを読むには欠かせない。 リアム・ドリューの『わたしは哺乳類です』とジョン・ヒッグスの『人類の意識を変えた20世紀』(インターシフト)などがその一例。 ドリューはわれわれの中にひそむ哺乳類をうまく浮き出させ、ヒッグスは巧みに20世紀の思想と文化を圧縮展望した。 インターシフトは工作舎時代の編集スタッフだった宮野尾充晴がやっている版元で、『プルーストとイカ』などが話題になった。 原研哉と及川仁が表紙デザインをしている。 最近、太田光の「芸人人語」という連載が始まっているのだが、なかなか読ませる。 今月は現代アートへのいちゃもんで、イイところを突いていた。 さらにきわどい芸談に向かってほしい。 佐藤優の連載「混沌とした時代のはじまり」(今月は北村尚と今井尚哉の官邸人事の話)とともに愉しみにしている。 ついでながら大阪大学と京阪電鉄が組んでいる「鉄道芸術祭」が9回目を迎えて、またまたヴァージョンアツプをしているようだ。 「都市の身体」を掲げた。 仕掛け人は木ノ下智恵子さんで、いろいろ工夫し、かなりの努力を払っている。 ぼくも数年前にナビゲーターを依頼されたが、その情熱に煽られた。 いろいろ呆れた。 とくに国語と数学の記述試験の採点にムラができるという議論は、情けない。 人員が揃わないからとか、教員の負担が大きいからとかの問題ではない。 教員が記述型の採点ができないこと自体が由々しいことなのである。 ふだんの大学教員が文脈評価のレベルを維持できていないということだ。 碁敵の別役実に勧められて読んだとき、つまらなかった。 こんなことで「粋」が説明されてたまるもんかよと、すぐに思った。 早稲田小劇場が生まれる前後のころである。 いまとなってはそのときの読感を正確に思い出せるわけではないが、薄っぺらなんじゃないかとか、和の美学の頓珍漢のほうに入りこんで理屈っぽいという感じだったのだろうと憶う。 それまでぼくが生意気に感じてきた「粋」とは違うのだ。 それがいつだったか、九鬼の『偶然の諸相』を読んで、格段の新鮮なものを感じた。 あいかわらず定言的偶然とか因果と目的によって偶然を分類しているところなど、少しうるさいのだが、 そこで、岩波の全集をとりよせてあれこれ拾い読んでみると、おお、おお、なんだ、胸が詰まるほどに、いい。 最初に『風流に関する一考察』や『日本詩の押韻』を読んだのだったと思うが、これはどうも日本人がなんとなく了解していながら、ついに誰一人として説明を省いてきたことにさしかかっている。 気持ちがしゃんとした。 ふたたび『「いき」の構造』に戻った。 目に活字が入ってくるところがまったく違っていた。 ぼくは何も読んではいやしないのだと愕然とした。 たとえば着物の「抜き衣紋」。 そういうことか。 こんなことが書いてあるとは思わなかった。 うーん、京紫と江戸紫のちがい、ねぇ。 もっと感服したのは、これはもっとあとになって気がついたのであるが、浮世絵で粋を持ち出すのなら鈴木春信は欠かせないだろうに、九鬼は春信の「いき」については触れてはいない。 どうしてだろうと思っていたところ、草稿にはちゃんと春信のことを書いていたと安田武が言っていた。 ということは、本番で春信をきっぱり捨てたのだ。 こういうことをする人だったのである。 これでは何も読めていなかったと言われても仕方がない。 いつもこういう体験をするのも困ったことだが、一冊の本というもの、読み方ひとつでどうにもならなくなってくる。 帯の締め方、筆の持ち方、「かな」か「けり」かの選び方なのだ。 『「いき」の構造』については、ぼくはあきらかに失敗の巻。 もっとも、だからこそ再読が身に染みた。 白状すれば、ぼくにはそのころもっと決定的な欠陥もあった。 東京には来ていたものの、「江戸」がほとんどわかっていなかったのである。 たとえば「婀娜(あだ)は深川、勇みは神田」なんて、そんなカッコいい風情があつたことが、まったく見えていなかった。 実は「浮世」も「浮世絵」もわかっていなかった。 さきほどの春信云々を引きとっていうのなら、『「いき」の構造』には「意気地や媚態の霊化が粋なのである」と書いてあるところがあるのだが、春信のあの時代の絵では、たしかに浮世絵のもつ意気も媚態も、まだ霊化までには進んでいなかったのだ。 それにしても、媚態の霊化、なのである。 こういうことがわかるまでに、ざっと二〇年くらいの損をした。 でも、それが損じゃなかったのだ。 では、あたらためて九鬼周造を評価しておきたいのだが、この人はよほどの人である。 異例の人である。 二度目の夫人は祇園の芸者である。 ようするに九鬼は、「江戸の鉄火」と「ヨーロッパの形而上学」と「京のはんなり」を、その土地からもその言葉からも吸いこんでいた。 次は血の遍歴のこと。 周造の父は九鬼水軍の流れをくむ九鬼隆一で、近代日本の最初の文部官僚であって、最初の駐米特命全権公使だった。 フェノロサとの東京美術学校の開設を後押した。 母は祇園出身の星崎初子(はつ・波津)。 アメリカ滞在中にその初子が身ごもったので、隆一は同行していた若い天心に付き添わせて、日本で出産できるようにはからった。 けれども横浜までの船旅はあまりに長い。 どうやら二人は交わるようになり、これがスキャンダルとして発覚し、天心はつくったばかりの東京美術学校の校長の座を追われた。 もっともそれがため天心は孤立しながらも奮起して、大観・春草らと日本美術院をおこすのだが、この事件によって九鬼夫婦は別居する。 母の初子はやがて発狂、精神病院に入っていく。 さらに九鬼その人の境涯について言っておく。 そのほうが九鬼のいう「いき」がよくわかる。 今度は知の遍歴だ。 日露戦争のさなか、九鬼は一高に入って天野貞祐・岩下壮一・和辻哲郎・谷崎潤一郎と知り合い、最初はだが、やがて哲学に向かい、東京帝大の哲学科に入る。 途中、キリスト教の洗礼をうけ、岩下壮一の妹に痛恨の失恋をして、大学院に進んでいく。 卒業論文がすでに九鬼らしい。 名付けて「物心相互の関係」というものだった。 しかし、大学院は途中で放棄、九鬼は颯爽とハイデルベルク大学に留学して、リッケルトや新カント派に師事をする。 ところがその哲学があまりに、フランスへ飛んでサルトルにフランス語を習い、かつベルグソンを知ると、直観的な純粋持続の可能性こそ思索を深めるものだと了解して、むしろ「異質性」の重要性に向かうようになる。 ヨーロッパで九鬼がしきりに考えたことは、「寂しさ」と「恋しさ」とは何かというものだった。 「寂しさ」とは他者との同一性が得られないという感覚、「恋しさ」は対象の欠如によって生まれる根源的なものへの思慕である。 これらはすなわち「異質性」への憧れを孕んでいる。 つまりは清元なのである。 九鬼はそのような感覚が「何かを失って芽生えること」「そこに欠けているものがあること」によって卒然と成立することに思いいたり、ついにの大切を知る。 ふたたびドイツに戻ってハイデガーをしばしば訪れるようになるのは、この大切な「無」をめぐる東西の橋梁を求めてのこと、このあたりから九鬼には何かのミッションが芽生えていた。 九鬼はこうして、人間という存在がすでに何かを失ってこの世界に生をうけているという「被投性」をもっていることに深い関心を寄せた。 では、どうすれば生きられるのか。 何かに出会う必要がある。 出会ってどうするか。 恋をする。 どのように恋の相手に出会えるか。 そして恋だけを持続できるのか。 そんなことばかりを考えた。 こんな思索がのちにやがて、ぼくが瞠目した「偶然性」の問題にとりくむあの九鬼周造になっていく背景になっている。 しかしここまでのことは、九鬼周造という一個の存在が「二人の父のあいだ」と「不在の母」によってこの世に投げ出されていたという「血の事情」を、どこかで暗示するような「知の行方」そのものだったように思われる。 8年におよんだヨーロッパの日々を終えて日本に戻った九鬼は、いまのべたように、「寂しさ」を本質的に抱えた者こそが、その喪失感覚がゆえに何かに出会うことで、きっと新たな異質の快感を得るのではないかという期待をもちはじめる。 その期待の思いを結実させようとしたのが、帰国後1年にして書きあげた『「いき」の構造』なのである。 どうだろうか、これで何が「いき」になったのか感得できるのではないだろうか。 そもそもヨーロッパでは、哲学においてすら、恋愛の基底に自己同一性や自己発見をおいている。 せっかく「無」に到達したハイデガーの哲学ですら西欧の論理に邪魔をされ、来たるべき相手を求められないものになっている。 そこでは美の堪能が塞がれている。 九鬼はそれがおかしいと考えていた。 男女の関係はもっともっと自由でなければならないのではないか。 そこからはもっと新たなものが創発してもよいのではないか。 そう考えた。 それが見えれば、恋愛によって精神と肉体を分断する必要はなく、結婚と結びつける必要もない。 では、その美の堪能をどこに求めるべきか。 それでいて「無の堪能」にもなるものを、では、どこに求めるか。 日本の美が浮世の片隅において磨きに磨いた「いき」こそが、あるいはその「いき」の感覚を交わしうる相手との出会いこそが、美の堪能であって、無の堪能だったのである。 九鬼の新たな哲学は、いや存在学は、こうして一気に「婀娜な深川、勇の神田」に向かっていく。 九鬼が持ち出した「いき」は、既存の男女の関係を超越する自由のための根拠の概念であり、そのアクティヴィティだったようだ。 だから九鬼は、「いき」は恋愛をさえ越えるものではないかと考えていた。 この結論は、かなりおもしろい。 「いき」がそういうものなら、ぼくだって粋がりたい。 ハイデガーだって、ヘルダーリンの詩には「無」と「美」の両方を見いだしていたはずなのだ。 ただしすぐさま付け加えなくてはならないが、九鬼その人は「いき」の何たるかを、これ以上のかたちでは身につけるのは不可能であろうとおもうほど、身につけていた。 けっして論理で生きている人ではなかったのである。 そこが哲学者としての九鬼周造が「異例の人」であったという理由になってくる。 さて九鬼の言葉によると、「いき」の契機は「媚態」「意気地」「諦め」によって成立しているという。 それらは、わが国の道徳的理想主義と宗教的非現実性によって支えられ、前者はによって、後者は仏教によって育まれてきたという。 九鬼はこの見方にもとづいて「いき」の説明に緻密に入っていこうとしてしまう。 先にも書いたように、九鬼にとっては人間が「自己」であるのは「寂しさ」や「恋しさ」のせいである。 けれどもそのような自己はいまだ「一元的の自己」であって、それを脱するには異性との出会いによって二元的な関係に入らなければならない。 それを九鬼は「可能的関係」とよぶ。 この可能的関係は、当初はきっと互いの「媚態」のうちに予想しあったものである。 もし、両者が媚態を感じつづけ、可能的関係を持続できれば、人間はかなり自由になれるはずである。 しかし、、そこから媚態がたちまちなくなっていく。 そこで媚態をぎりぎりにさせつつ、共同的な二元関係を感じあっていくには、いくら男女が快楽を交わそうとも、そこには適当な「距離」が必要になる。 この媚態と距離との両方をキリリと表象しているのが、どうやら「いき」なのだ。 わかったような、虫のいいような、男女の身体性を度外視したような、いかにも男っぽい説明に聞こえるのだが、しかしこれらがそもそも「寂しさ」を決定的な端緒として生じていることに気がつくと、やはりこの説明には初期の九鬼周造がまるごと表出されているということになる。 次の「意気地」は、一言でいえば媚態のテンションを持続させ、距離をおいても媚態が朽ちないために、そこにさらに磨きをかける「心の強み」のことをいう。 こう説明している。 「意気地」は理想主義のもたらした心の強味で、媚態の二元的可能性に一層の緊張と一層の持久力とを呈供し、可能性を可能性として終始せしめようとする。 この「心の強味」としての意気地は、おそらく養って絞って削って身につくものだろう。 だから九鬼は、日本においては意気地が生まれてきたのは武士道によっていると見た。 もっとも九鬼のいう武士道は、新渡戸稲造や奈良本辰也が解説してきた武士道とはずいぶん異なっている。 献身や礼儀の武士道ではなくて、とうてい実現することのない理想を求める心意気を武士道とよんだ。 そこを九鬼は、「無際限」の中に「真無限」を求めよ、というふうに書いた。 けれども男女のあいだに、こんな武士道を重ねていくなんて、これはよほどのことである。 まず、できまい。 そこで九鬼は、むしろ「いき」の振舞や「いき」な存在をまっとうしようとする心意気こそが、意気地をつくっていくとみなしていった。 ふつうは、これを「はり」(張り)という。 かくて「いき」を心意気にしつづける最後の契機として、九鬼は「諦め」を持ち出した。 これは諦念というよりも「恬淡無碍の心」というもので、意気地や張りの対極にありながら、それを対角線で重ねるものである。 それゆえにこそそこを、大胆にも「諦めと意気地とは、無力と超力として、唯一不二」とも書いてみた。 つまり二つは反しあうようでいて、どこかがつながっているひとつの覚悟というものなのだ。 そうそう、春信をきっぱり諦めるのも、張りのうちなのだ。 エッセンシャルには、『「いき」の構造』の構成要素はこういうものなのだが、こんなぼくの拙(つたな)い要約でもなんとなく予感ができるだろうように、このような「論理」だけでは、なかなか「いき」は説明しきれない。 九鬼もそれは重々わかっていて、そこで随所に具体例を入れていく。 それが抜き衣紋や江戸紫の例だった。 しかしぼくが読み返してさらに気がついたのは、「いき」を「苦界」(くがい)と結びつけていること、そこにこそこの時期の九鬼周造の最も哀しい「いき」の存在学が吐露されていたということである。 端的には、次のような文章に九鬼が最も言っておきたい「いき」の発生がひそんでいる。 「いき」は『浮かみもやらぬ、流れのうき身』といふ「苦界」にその起源をもつてゐる。 そこは遊郭であって、この世に戻るために出遊してきた彼岸の場所である。 芸も身もやりとりする曲輪であって、心は売れない岡場所である。 流れているから、止まり、抜けられないから、何かを抜いてみせる意気の帳場である。 冬でも黒塗の下駄を裸足で履いてみせ、野暮を蹴散らし、左褄(ひだりづま)とって、 九鬼は、結局、そのようなところでしか「いき」は授受できないのではないかと考えていたふうなのだ。 しかし、それでは九鬼の哲学者としての行方を、あまりに「小指の反り」のような極点へ向かわせてしまうのではあるまいか。 西田幾多郎や和辻哲郎や友人たちが心配しはじめたのも、当然だった。 けれども九鬼はすでにミッションを意識していたようだ。 敢然と、こう言い放ちたいというところまで、進みすぎていた。 私は端唄や小唄を聞くと、全人格を根底から震撼するとでもいうような迫力を感じる。 この言葉はのちの『小唄のレコード』から採ったものだが、まさに九鬼の気持ちはそこまで進みすぎていたようなのだ。 友人知人たちが、それならおまえがいるところは、すでに都であることをもぎ取られた京都なんじゃないか、京都に来たらどうだと思ったのも当然だった。 ここから先、九鬼周造は一気に異例の人となり、伝説の人となっていく。 最初の妻を捨て、二度目に選んだのは祇園の芸妓の中西きくえであった。 失った母を近づかせたとはいえないだろうものの、京都帝国大学の教授としては、かなりきわどい選択だ。 祇園から人力車で帝大に乗り付けているという噂も、しきりにとんだ。 むろん、そんなことは覚悟のうえのことである。 こうして九鬼はにとりくんでいく。 「もののはずみ」や「たまたま」の問題にとりくんでいく。 「ふと」や「それから」の世界に入っていく。 いったいそんな覚束(おぼつか)ないものばかりをあげて、どうしてそこまで真剣に賭けられるのかというほどに。 それは『「いき」の構造』にはまだ残っていた原因と結果をめぐる「因果の理屈」さえ打擲しようというほどの、そういう「せつなさ」がいっぱいの考察である。 ぼくにはそういう覚悟が痛いほど伝わってきた。 満州事変は悪化して、日本はどんどん泥沼に突っこんでいった時期である。 昭和10年、1935年、そういうときに九鬼周造は『偶然性の問題』という結晶を発表する。 ここまでくると、その九鬼周造独得の偶然の存在学をあえて説明するのは、どうもその香りが伝わらない。 それほど九鬼自身が自分が遣った言葉をも、その葩(はな)から揮発させていくような気分になっている。 実際にも、そこには重たい言葉もひしめいていて、それを引用しなければその九鬼の推理の説明もつかないのだが、その言葉をすぐに揮発させ、投企しなければ、やはり九鬼の推理を感じさせることはできないという、そういうものなのだ。 そこでかえって、次のような文章こそが、その偶然の存在学を告示しているようにぼくには思われる。 『日本流』にもそこを引いたのだが、また引いてみたい。 松茸の季節は来たかと思ふと過ぎてしまふ。 その崩落性がまたよいのである。 (中略)人間は偶然に地球の表面の何処か一点へ投げ出されたものである。 如何にして投げ出されたか、何処に投げ出されたかは知る由もない。 ただ生まれ出でて死んで行くのである。 人生の味も美しさもそこにある。 これが、偶然であり、「いき」なのである。 未練はもたない。 鼻緒が切れれば、紬(つむぎ)の袖だって破るということなのだ。 しかし、そんなところへひたすら突進していく哲学などというものが、あっていいのだろうか。 それが芝とハイデルベルクとパリと祇園を学んだ末の結論なのか。 そうなのである。 よござんすか。 九鬼周造はそれを断固として選びきったのである。 それが哲学というものなのだ。 そしてこの人は、その後、『日本的性格』や『風流に関する一考察』のほうへと、どんどんと一人で歩いていってしまったのである。 そこは「逢ひ見てののちの心にくらぶれば」の方角、だからこそ「昔はものを思はざりけり」の、その「ざりけり」の哲学の彼方というものだった。 それを九鬼の大好きな言葉でいえば、「可能が、可能の、そういうふうになるところ」という彼方だ。 そこはもとより寂しくて、恋しいところではあるけれど、だからこそ、どこよりも「いき」で、「粋」(すい)なところなのである。 では、諸君、こんな文章で終えてみる。 私は秋になって、しめやかな日に庭の木犀の匂を書斎の窓で嗅ぐのを好むやうになつた。 私はただひとりでしみじみと嗅ぐ。 さうすると私は遠い遠いところへ運ばれてしまふ。 私が生まれたよりももつと遠いところへ。 そこではまだ可能が可能のままであつたところへ。
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