2004年9月8日夜、この日加藤さんは会社で残業していた。 午後11時に加藤さんは自宅に電話に入れている。 やがて日付が代わる。 それまでこんな時間まで残業していたことはなかったが、下半期の利益計画書を締切が10日だったため加藤さんは同僚とともに夜通しで作成にあたらなければならなかった。 9日午前4時5分頃、加藤さんの自宅で火災が起こる。 加藤さんは近所に住む兄から家の火災を知らせる第一報が会社に届き、同僚に「家が燃えているから戻る」とパソコンを起動したまま飛び出していった。 5時半過ぎ、火がほとんど消えかけた頃、加藤さんが作業着姿のままフラフラした足取りで自宅に戻ってきた。 加藤さんは変わり果てた家を見て「子どもはー、子どもはー」「利代ー」などと泣き叫んだ。 加藤さんは家族を助けようとまだ煙のたちこめる家の中に入ろうとしたが、消防団員や兄らに制止された。 まもなく1階の居間で正悟君が、2階の各寝室で利代さんと里奈さんと佑基君が遺体となって発見された。 事件後まもなく、これがただの火災でないことが判明。 加藤さん一家の母子4人は殺害されたのちに火をつけられたことがわかった。 この事件の不審な点として、一家の男女がそれぞれ別々の凶器で殺されていたことがある。 利代さんと里奈さんはともに刃物で刺されており、里奈さんは背中を中心に顔や頬など十数ヶ所、里奈さんは肋骨が折れるほど上半身を何度も刺されていた。 いずれも執拗とも思えるほど繰り返し刃物を振り落としている。 一方、佑基君と正悟君は鈍器で撲殺されていた。 バールのようなもので頭部を一撃されていたという。 4人とも抵抗した形跡は見られず、就寝中に襲いかかったと見られる。 現場からは凶器は発見されず、庭や周囲の道路からもルミノール反応は出なかった。 このため犯人は殺害後、加藤さん宅内で着替えた可能性もある。 遺体の肺からは微量のすすが検出されており、これは放火した後も家族に息があったことを意味する。 犯人はおそらく、一家惨殺後に間髪入れず大量の灯油でを撒き火をつけたと見られている。 襲われた4人が息絶えるまでに吸い込んだすすの量は、1階の正悟君がもっとも少なく、2階の佑基君が一番多かった。 このことから正悟君が真っ先に襲われた可能性が高く、続いて利代さん、里奈さん、佑基君の順に死亡したとみられる。 不明なのが侵入経路で、この夜は2階の佑基くんの窓が網戸だった以外はきちんと施錠されていた。 だが前述の通り、2階の佑基君宅から侵入したのなら、1階の正悟君が真っ先に殺された点で矛盾が生じる。 加藤さんは家の鍵を持ち歩く習慣がなく、深夜に帰宅した時は勝手口の傍に隠してある合鍵で出入りしていた。 だが、事件当日も鍵はそのままの状態で隠されていた。 自宅にあった貴金属や通帳、カード類は残されており、物盗りが目的ではなさそうだ。 犯人は凶器や放火の準備もしていることから、複数による殺害目的の犯行と言う見方が強い。 一家は数年前、「物騒だから」と番犬に柴犬の「ジャッキー」を飼いはじめた。 だが事件当日、ジャッキーが吠える声を聞いた人はいない。 消火活動の間、利代さんの愛車「エスティマ」の下に隠れて、ふるえて燃える家を見ていたという。 性別によって殺害方法が異なっていた。 母親と長女は刃渡り約20センチのサバイバルナイフで顔や背中など十か所以上を執拗に刺されたことによる出血性および外傷性ショック死とみられる。 刺創幅は3センチ程だが、母親は一部には肺に到達している深い傷もあり、長女は刺されたときの強い衝撃で肋骨が折れていた。 刃こぼれの形跡はない。 長男と次男には刺し傷がなく、金属製(バールなど)の鈍器のようなもので殴られたことによる頭部の損傷(数センチほどの陥没骨折あり)が確認され、それぞれ急性クモ膜下出血、脳挫傷が死因となっている。 何度も殴られた痕跡はない。 被害者の遺体には抵抗した痕跡(防御傷など)がなく、寝ているときに襲われた可能性が高い。 肺に溜まった煤の状況から4人は放火後もある程度生きていた可能性がある。 また、同じく煤の状況から次男・母親・長女・長男の順に死亡したと考えられるが、上記殺害行為がこの順序で行われたかは不明である。 午前4時頃、女性の悲鳴が近隣住人に聞かれたとする報道もある。 犯行は30分ほどと比較的短時間で行われたものと思われる。 この他、2階で発見された母親・長男・長女の遺体には発見時、布団がかけられていた(次男の遺体は1階の居間で発見されている)。 03年7月下旬午後8時半頃、に何者かが加藤さん宅のドアを無理やり開けようとする出来事があったという。 当時、地域の夜間パトロールに出ていた利代さんの携帯電話に自宅にいた正悟君から「誰かがドアをがちゃがちゃしてる」と連絡が入った。 利代さんは「開けちゃダメ」と話し、パトロールをつづけた。 この事件の後、利代さんが今年に入っても自宅の様子をうかがう不審者の存在を周りの人に漏らしていた。 利代さんは次第にそうした不審な人物に用心深くなり、家の施錠はきちんとしていた。 事件当日には消防団員や近所の住民が普段は見かけない尾張小牧ナンバーでハイエースのスーパーGL(モスグリーンカラー)を見かけた。 また午後4時ごろには加藤さん方から女性の悲鳴が聞こえたという証言もあった。
次の無期懲役で服役中の「日野不倫殺人事件」北村有紀恵受刑者から先日、手紙が届いた。 事件は24年前、1993年12月に日野市で放火があり、子ども2人が焼死。 94年2月に逮捕されたのが、夫の不倫相手の当時27歳の女性だったというものだ。 後にこの事件をヒントに書かれた小説が、角田光代さんの『八日目の蝉』だ。 小説の中では女性が子どもを誘拐して自分の子として育てようとするのだが、ドラマ化・映画化もされ、ミリオンセラーとなった。 実際に北村受刑者も子どもを誘拐しようかと考えたことがあったのだが、小説は現実の事件をベースにしつつも基本的にはフィクションだ。 前回の手紙で有紀恵さんにこの小説と映画のことを知っているかと尋ねたら、獄中で小説も読み、映画もドラマも見たという返事だった。 ドラマを見た後、精神的に辛くなり数日間体調を崩したという。 私はその北村受刑者とは、もう20年近くにわたって手紙をやりとりしている。 2002年3月号から数回にわたって『創』に彼女の手記を掲載したのだが、接触を始めたのはその何年か前で、未決の時期に東京拘置所に何度か面会にも行っていた。 彼女が刑務所に移送される直前、彼女の家族と一緒に面会した時のことは覚えている。 移送の時に身に着ける衣類などについて家族と細かい話がなされた後、彼女の妹が泣き出した。 アクリル板の向こうで有紀恵さんは「泣かないで。 辛くなるから」と言った。 服役すると、これまでのように頻繁に会うこともできなくなる。 無期懲役という重たい判決に、家族もこれから自分たちがどうなるのか、不安のどん底につき落とされていたと思う。 さて、24年も前のその事件のことを今回持ち出したのはほかでもない。 この半年ほど、彼女の知人の間で、彼女の仮釈放を何とか実現できないかという話が出ているからだ。 そのことがきっかけになって、私も無期懲役受刑者をめぐる現実などを調べ始めたのだった。 特に5月15日に開かれた日本弁護士連合会主催のシンポジウム「死刑廃止後の最高刑・代替刑を考える」にはかなり触発された。 その時のパネラーの一人であった古畑恒雄弁護士の事務所を後日訪ねた。 古畑弁護士は元法務省保護局長という異色の経歴で、これまで堀江貴文さんや鈴木宗男さんらの「刑務所弁護人」を務めてきた。 古畑さんのその仕事を紹介した『創』2015年12月号は獄中者の関心を呼び、いろいろ問い合わせがあった。 記事は現在、ヤフーニュース雑誌に全文公開している。 《異色の「刑務所弁護人」古畑恒雄弁護士の素顔》 その古畑弁護士を訪ねた時は、実は北村有紀恵さんの86歳になる父親と一緒だった。 この父親、北村嘉一郎さんと私はこの1カ月ほど頻繁に会い、連絡をとってきた。 そしてさらに古畑弁護士に会ったのは、有紀恵さんの仮釈放へ向けて何かできないかという相談のためだった。 日弁連としても2010年12月に「無期刑受刑者に対する仮釈放の改善を求める意見書」をまとめ、無期懲役をめぐる現状を改革する取り組みを行っていた。 古畑弁護士もその推進役の一人だ。 死刑問題については近年、多くの人が関わるようになり、その実態もかなり知られるようになりつつある。 ただ無期懲役の実情については、私も詳しいことはほとんど知らなかった。 知れば知るほど、大きな問題が横たわっていることを痛感した。 その後、古畑弁護士は正式に有紀恵さんに弁護士として委任状を書いてもらい、本格的に関わることになった。 事件から24年目にして、いろいろなことが動き始めた。 まだ気が遠くなるくらい出口ははるか彼方だが、有紀恵さんが入信しているキリスト教の支援グループを始め、いろいろな人が取り組みを開始した。 80代半ばの両親が健在なうちに、彼女の戻る場所があるうちに仮釈放を実現できないか。 その取り組みを通して、多くの人に無期懲役の現状について一緒に考えてもらう。 そういう意志が少しずつ連携しながら回り始めた。 そのとっかかりとして、私は7月7日発売の『創』8月号に、12ページにわたる「日野不倫殺人事件の24年目の現実」という記事を書いた。 今後もこの問題に取り組みながらその経緯を公開していくつもりだ。 ぜひ多くの人に一緒に考えてほしいと思う。 これまで何人もの死刑囚を含む獄中者と関わってきて私がいつも思うのは、「罪を償う」とはどういうことなのかという問いだ。 死刑というのが本当に罪を償うことになるのかどうか。 それについては、例えば奈良女児殺害事件の小林薫死刑囚(既に執行)との関りを通して感じたことをヤフーニュースでも書いてきた。 下記の記事もそのひとつだ。 《11月17日、奈良女児殺害事件12年、小林薫死刑囚の直筆の手紙を公開する》 無期懲役をめぐる現状はどうなっていて、どういう問題を抱えているのか。 その前に、まず彼女の事件について少し書いておこう。 もう昔の事件で忘れている人も多いと思うからだ。 二度の中絶でひどく傷ついた 有紀恵さんが会社の上司だった高田さん(仮名)と交際を始めたのは1990年頃だった。 彼は当時、妻と子どもがいたのだが、2人は深い関係になり、有紀恵さんに、妻と別れて結婚する約束をするまでになった。 有紀恵さんは92年、彼の子どもを身ごもったのだが、中絶を余儀なくされる。 その後有紀恵さんは93年にも再び妊娠。 二度にわたって中絶する結果になって、ひどく傷つくことになった。 93年5月、二人の関係が妻に発覚する。 妻は夫を追及して、目の前で有紀恵さんに別れを告げる電話をするように迫った。 そして、その電話によって、有紀恵さんは、妻と離婚の話を進めているという男性の言葉が全て嘘だったことを知らされたのだった。 妻と有紀恵さんの間に立って男性も動揺を繰り返すのだが、男性からの別れの電話に有紀恵さんが納得しないでいたところ、妻が電話を代わり、女性ふたりが激しく口論となった。 そうした電話での応酬はその後、何度も繰り返され、時には何時間もなされることもあった。 修羅場が繰り返されるうちに、男性は次第に、有紀恵さんと別れるしかないと思うようになっていった。 有紀恵さんは精神的においつめられて93年11月、家事調停に踏み切る。 そして思いつめるあまり、彼と刺し違えて無理心中しようかなどと考えるようになる。 また高田氏の長男が自分が妊娠中絶した子と懐妊の時期が近いことから、自分の子の魂が入っているような気がして、誘拐を考えたこともあったという。 高田夫妻の住むアパートの部屋が放火されたのは93年12月14日の早朝だった。 有紀恵さんは、妻が夫を駅まで送りに出たのを見届けた後、合鍵を使って侵入。 ガソリンをまいて火を放ったのだった。 直後に起きた爆発に彼女は吹き飛ばされ、スニーカーを片方現場に残したまま逃走した。 高田夫妻の子ども二人が焼死するという凄惨な事件は、こうして起きたのだった。 昨今、不倫というのがいささか安易に取りざたされる風潮のなかで、この深刻な事件は、いまだに重たい問題を提起していると思う。 有紀恵さんは裁判で罪を認めながらも、1審判決を不服として控訴した。 子どもたちに対する殺意を認定されたことに納得がいかなかったのと、事件当時心神耗弱に陥っていたと主張したからだ。 当時、女性週刊誌などには、有紀恵さんが寝ている子どもにもガソリンをまいたという誤った記事も掲載され、彼女をひどく傷つけた。 最高裁で無期懲役の判決が確定したのは2001年のことだった。 彼女は『創』02年3月号の手記にこう書いていた。 《私は、刑を受けることにはなんの不満もありません。 結果を見れば当然ですし、事件を起こす前から、中絶をしたことで私は死刑になっても当然だという深い罪悪感を持っていました。 事件によってたくさんの方にご迷惑をおかけし、辛い思いをさせました。 無論、無実でもありません。 ですから刑を受けることには不満はないのです。 ただ審理の内容にはまったく納得していません》 家族もその後の人生を贖罪に費やした 有紀恵さんのその後の状況などについてはぜひ『創』最新号を読んでいただきたいのだが、今回、私はその後、彼女の家族がどんな人生を送ることになったか詳しく書いた。 マスコミが事件を報じる時に、刑が確定するとパタッと報道が止まってしまうのだが、もちろん過酷な現実はその後も続いていくわけだ。 しかも本人だけでなく、家族もまた、大変な苦しみに突き落とされる。 娘が逮捕されて大々的な報道が始まってからは、有紀恵さんの家族は外出もままならないような生活を余儀なくされた。 父親が自宅で経営していた製版所は、その後、閉鎖することになった。 娘2人の結婚資金としてためていた財産は、裁判費用や被害者遺族などへの補償にあてられた。 火災にあった団地住民へもお詫びと金銭的補償が行われた。 刑事裁判と別に被害者遺族から民事訴訟も起こされ、1000万円以上を既に納めているのだが、まだ賠償金は3000万円以上残ったままだ。 私財を全て投げうっても、十分な補償はできなかった。 家計も破たんし、両親はその後の半生を償いのために費やすことになった。 家族が八王子の大恩寺を訪れたのは1審の公判が開かれている94年9月だった。 高田夫妻の亡くなった子ども2人が納骨されているお寺だった。 死なせてしまった子どもたちにお詫びし、冥福を祈ったのだが、母と妹は涙が止まらなかったという。 それを見た住職に事情を尋ねられ、「犯人の家族です」と名乗った。 北村夫妻はその後もお詫びのために何度も同寺を訪れたが、それが高田夫妻の知るところとなって翌年、子どもたちの遺骨は別の場所へ移されてしまう。 しかしその後も有紀恵さんの両親はお参りに訪れ、住職がその気持ちに打たれて、有紀恵さんが仮出所したら身元引受人になってもよいと申し出るまでになった。 両親がお詫びのために足を運んだのはそのお寺だけではない。 都内だけでなく関西など地方も含めて各地のお寺へお詫び行脚を行った。 「秩父巡礼とか、坂東三十三カ所、それに西国三十三カ所など、女房とふたりで回りました。 今も毎月、自宅にお坊さんに来ていただいてお経をあげてもらっていますし、12月のふたりの子どもの命日には毎年大恩寺に伺って法要をしています。 それから朝晩欠かさず近くの9カ所のお寺にお参りしているし、夜も近所のお地蔵さんにお祈りしてくるんです。 何をやったらいいのかわからなかったし、そんなことしかできることはないので、とにかく祈る気持ちでやってきました」 父親の嘉一郎さんがそう語る。 朝晩のお寺や地蔵参りはもう20年以上欠かさず続けているという。 有紀恵さん本人も、キリスト教に入信して祈りを行っているほか、作業報奨金から年に1万円ほどを、高田夫妻の代理人弁護士を通じて送っている。 注:この記事を公開した時、有紀恵さんの作業報奨金を「1カ月1000円ほどしかもらえない」と書いたが、その後、本人から手紙が届き、月1000円というのは、そういう時期もあったが、今はもっと多くの金額を得ているということだった。 よって、「1カ月1000円ほどしかもらえない」という記述を削除しました) その後、高田夫妻は東京を離れ、東北南部に移住する。 有紀恵さんの親は一時、そこへも何度も足を運び、会ってもらえない時は祈念と線香やお供えをして帰るということを行っていた。 無期懲役の受刑者をめぐる厳しい現実 無期懲役とは、本来の意味は服役が無期限に続くということだが、実際には更生の可能性を信じて、条件が整えば仮釈放で社会復帰を認めるという制度だ。 罪を犯した人間も変わり得るし、また変わらねばならないという考え方に基づくものだ。 あくまでも仮釈放だから刑務所を出た後も保護観察がつくのだが、かつては20年で仮釈放可能とされてきたのが近年は30年に延びている。 近年の重罰化の流れの中で、05年に有期刑の最長期が懲役30年に引き上げられたため、それとの整合性をとるためにそうなったらしい。 でもこの10年という月日は当事者や関係者にとっては極めて重いものだ。 ある程度の年齢で犯罪を犯した人にとって30年は相当長い。 その結果、刑務所で生涯を終える人が珍しくないという。 法務省のデータによると、例えば94年、95年に仮釈放された人数はそれぞれ7人、11人。 一方で獄死した人数は23人、22人。 つまり仮釈放で社会に復帰する人の倍以上の無期懲役囚が獄死しているのだ。 95年の法務省データでは、在所年数が50年を超える人も12人いるという。 そんなふうに服役期間が長くなった結果、仮釈放されても受け皿がない、つまり家族や知人が亡くなってしまうという問題が深刻になりつつあるという。 北村有紀恵さんもまさにそのケースだ。 最高裁まで争ったこともあって、確定までに7年半を費やし、現在はもう事件から24年。 ただ確定からまだ16年だから、平均30年という基準から考えると、あとまだ14年もある。 既に80代半ばの両親がそれまで健在でいることは困難だろう。 本人だってそれまで刑務所で健康でいられる保証はない。 有紀恵さんは刑務所で2016年9月に2種2類という区分に昇格した。 刑務所というのは受刑者を等級制度のもとに置き、更生が進めば等級が上がり自由度が増すというシステムだ。 2種2類になると、親との接見も優遇されるし、月に一度、刑務所から家族に電話をすることが許される。 その30分間の電話を家族は毎月楽しみにしている。 面会の制限も緩和され、月に何度も刑務所を訪れることが可能になった。 有紀恵さんにとっても、今はまだ親が健在で帰る場所があるからこそ将来のことや罪と向き合うことに思いをはせることができる。 そういう環境が消滅し、釈放されても帰る家も親もないという絶望的な状況に置かれた時には、へたをすると生きる希望さえ失ってしまいかねない。 生きることへの執着や希望があってこそ、罪と向き合うという気持ちも出て来るのだと思う。 私も彼女が服役する前から、出所したら創出版で雇うからと言明してきた。 自分の事件を考えるためにも社会科学を学びたいという彼女の希望は、獄の中でなく現実社会に身を置いてこそ実現できるのではないかと思う。 だから有紀恵さんには、両親が健在なうちに、そして『創』が発行されているうちに、社会に戻ってほしいと思う。 2016年6月から日本では「刑の一部執行猶予」という制度が取り入れられた(16年8月号参照)。 現状では主に薬物犯に適用されているのだが、治療に専心することを条件に満期になる前に保護観察付きの釈放を認めようというシステムだ。 刑務所に閉じ込めるのでなく、社会の中で更生を図ろうという考え方で、日本は今、重罰化の一方で、そういう取り組みを始めているのだ。 法務省の公開したデータを見ると、服役約20年で仮釈放が認められた事例はこの10年間1件もない。 そうした実情を知るたびに絶望的な思いになりかねないのだが、同時に、このままではいけないのではないかという思いも強くなる。 古畑弁護士の言葉を借りれば、何とかしてこの現実に「風穴をあけなければならない」。 果たして何ができるのか。 現実は変わり得るのか。 前述した日弁連のシンポでは、弁護士などからも現状を何とかしたいという思いが語られた。 私もこの問題のためにしばらくの間、それなりのエネルギーを費やしていくつもりだ。 その経緯は、随時、『創』やヤフーニュースで公開していくことにしよう。 大きな制度を変える時には、多くの人の知恵と力が必要だ。 それは一部の関係者だけでなく、多くの人たちに一緒に考え協力してもらうことによって初めて可能になるのだと思う。
次の事件の概要 [ ] 1993年12月14日、東京都日野市に在住するBは、出社するために妻が運転するでの最寄駅に向かった。 Bの日常の生活習慣と出社するための経路・時間帯を熟知している、Bの職場の部下でBの相手だったA(当時27歳)は、B夫妻の不在時間帯にAが保有していたBの自宅の玄関ドアの鍵を使用してBの自宅に侵入し、Bの自宅室内と就寝中だったBの長女(当時6歳)、長男(当時1歳)にを散布して放火し、幼児2人を殺害しBの自宅を全焼させた。 Bと元交際相手Aとの不倫関係は、Bの妻に関係が発覚した後に終了していた。 しかし、元不倫交際相手AのBに対する恋愛感情や、AとB夫妻との間に発生した紛争から、はAはBに対して怨恨感情を持っていたと推測。 Aが真犯人の可能性が高いと推定していた。 しかし、警察はを維持し有罪判決を獲得するために必要で十分なを集積できず、Aのに踏み切れない状況だった。 が、Aは父親に説得され、警察のが身辺に迫ったことを察知して、翌年の1994年2月6日午後、警察に出頭。 事件発生から出頭前日まで、Aはいつも通り出勤していた。 被疑者の逮捕後の報道 [ ] 被疑者Aと、Aの元上司であるB、二人の出会いと放火殺人に至るまでの経緯が明らかになると、多くのメディアは、Aを騙したBへの非難と、「Bの妻は、Aが精神的に耐えられなくなって暴発するまで追い込んだ。 よってBの妻には根本的な原因と責任があり、Aは被害者である」と評価するような、Aに対して同情的な報道を繰り返した。 また、「ガソリンを散布して放火し、子供2人を焼殺し、自宅や周辺家屋も延焼させたこと」に関してメディアはAを非難せず、「成人の男女がお互いの身上を認識して不倫関係になり、結果として家庭の平穏を侵害したこと」「BだけでなくAも避妊の努力をしなかったこと」「そもそも避妊を拒否したのはAである」「(Bに要求されたとしても)最終的にはAの判断でしたこと」「二度目の中絶はAが独断で決めたこと」など、メディアは責任を十分に問うことなく、Aに共感・同情した報道・評論を繰り返した。 加害者Aの経歴・性格・考え方 [ ] Aは内で出生・成育した。 Aは几帳面、何事に対しても真摯に取り組む、他人を安易に信用する、願望を現実と思い込む、自己と他者の性格・感受性・考え方を客観的に認識・考察する能力が低い、物事に対する執着心が強い、決断に時間がかかる優柔不断性、開放的、社交的などの・感受性・考え方の傾向を持っていた。 からまで学業優秀であり、大学を浪人して就職するまで特定の男性と恋愛関係になった経験はなく、男性とを持った経験もなかった。 Aは後に出会ったBに対して恋愛感情を抱き、Bに妻子がいることを知りながら不倫関係になった。 犯行の経緯・動機 [ ] Aは大学卒業後、東京都にがあるにし、にある事業所の部門に配属された。 BはAの配属先の直属の上司であり、配属されてから間もなくお互いに恋愛感情を抱くようになった。 Bは妻子がおり、Aは独身だったが、お互いの家族状況を認識しながら不倫関係になった。 1991年4月、Bの妻がしたのを機に、二人はますます親密になり、二人だけで酒を飲み歩くようになる。 同年8月6日、AはBを自宅に招き入れ性関係を持った。 不倫関係・性関係が継続する状況で、1992年、Bの妻がした。 妻の妊娠を知ったAは、しながら肉体関係を持つ自分に比べて、避妊を選ぶことなく妊娠できる妻に激しく嫉妬して、2回ほど自ら避妊を拒否する。 やがて同年4月にAの妊娠発覚。 BはAに対して「いずれ妻とは離婚してAと結婚するつもりだ」と虚偽の意志を伝え、「今はまだ妻との離婚が成立していないので中絶するように」とAに要求。 Aはこの要求を受け入れて中絶した。 手術後、AはBにもう二度と中絶手術を受けたくないから、今後は必ず避妊するよう要求した。 Bは「わかった」と言うものの、実際は避妊を拒否することも度々あった。 Bの妻が臨月に入ると、Bの妻はのために自分の両親宅に滞在。 その間、AとBはBの自宅で同棲生活をしていた。 Bは妻が第二子を出産した後も、Aに対して「来年になったら妻と離婚してAと結婚する」と言ったが、実行しなかった。 その後、Aは2回目の妊娠。 しかしBから再度の中絶を要求される前に自らの意志で中絶を決意。 (後年に送った手紙によると、2回目の中絶理由は、Bと再婚して2人の子供を引き取るためでもあったと告白している) 1993年5月18日、不倫関係がBの妻に発覚。 Bの妻はBを激しく非難し、Bに対して「Aとの関係を選択して自分に慰謝料を支払って離婚するか、それともAとの関係を解消して自分との夫婦関係を継続するか」と、どちらかの選択を要求した。 BはAとの不倫関係を解消し、夫婦関係を修復して継続すると表明した。 Bは妻の要求にしたがってAに不倫関係の解消を電話で伝えた。 この電話の際、Bの妻はAに対して不倫関係に及んだことを責め、自分たち夫婦と家庭の平穏をAに侵害されたことを厳しく非難した。 これを受けてAは謝罪したが、電話での厳しい抗議はその後も続き、Aは精神的に不安定な状態になっていた。 Bの妻から「私は子を2人生んで育てているが、Aは2回妊娠して2回とも胎内から掻きだす女だ」と嘲笑されたことがきっかけで、Aは中絶したことに対する自責の念がB家族に対する憎悪に転化し、「B夫妻にも子供を失う感情を体験させてやる」という報復感情に支配されて、B夫妻の自宅に放火し子供2人を焼殺した。 裁判の経過・結果 [ ] においてAのは、この事件は、犯罪的・暴力的・破壊的な性格・感受性・考え方の傾向が全く無かったAが、Aをの対象としてもてあそぶことしか考えないBに、虚言により騙されて心と体を傷つけられたことが原因だと主張し、は犯行当時はだったと主張し、情状酌量による減刑を主張した。 ・・のいずれも、BがAを性欲の発散の対象としか考えず、Aの尊厳を侵害し、Aに対する思いやりがなく、Aを虚言で騙し、Aの心と体をもてあそび、結果としてAの心と体を傷つけたことを認定し、Bを人道・道徳・倫理の観点から非難はしたが、法的な観点からBの責任を問うことはなく、この事件の犯行の根本的な原因・責任は、Aの性格・感受性・考え方の短所・欠点が現象形態として作用したと認識するの主張を認定し、AはBの虚言による騙し、Bにより心と体をもてあそばれ、心と体を傷つけられた被害者で犯行時は心神耗弱状態だったので減刑が妥当であるという弁護人の主張は認定しなかった。 1996年1月19日、はAに対して、検察の主張を全面的に認定して、検察のどおりの判決を下した。 被告人と弁護人は、裁判所が検察の主張を全面的に認定し、被告人がBの虚言に騙され、もてあそばれて心と体を傷つけられた被害を考慮せず、量刑が重過ぎると言う理由で6日後にした。 1997年10月2日、は地裁の判決を維持し、被告人・弁護人の控訴を棄却した。 被告人と弁護人は、裁判所が検察官の主張を全面的に認定し、被告人がBの虚言に騙され、もてあそばれて心と体を傷つけられた被害を考慮せず、量刑が重過ぎると言う理由でした。 2001年7月17日、最高裁は地裁の判決を維持し、被告人・弁護人の上告をし、Aの無期懲役が確定した。 B夫妻が子供2人を殺害されたことに関して、Aにを求めた裁判では、Aの両親がB夫妻に1500万円を賠償金として支払ったことに加えて、AがB夫妻に3000万円の賠償金を支払うことでが成立した。 その他 [ ] Aは裁判中にが発行する雑誌『』で、弁護士に宛てた私信を公表。 「獄中手記 私が落ちた愛欲の地獄」というタイトルがあったが、「タイトルは現代編集部がつけたもので、本文はAが書いたものではなく編集部がまとめたもの」という断り書きがあった。 やがてAは受刑開始後、が発行する雑誌「」において、「不倫放火殺人OLと呼ばれて」という手記を発表して、自分がB夫妻の自宅に放火し、B夫妻の子供2人を焼殺し、B夫妻の自宅を全焼させたことは深く反省していること、自分が焼殺したB夫妻の子供2人に対しては毎日冥福を祈願していることを表明したが、自分がBに騙され、もてあそばれて、心と体を傷つけられた被害者だという面もあることを理解してほしいと訴えている。 Bはこの事件で勤務先を実質的に(形式としては)された。 B夫妻の間には事件後、1男1女が生まれた。 関連作品 [ ] この事件をがにTHE DIVERにて劇化し、で上演された。 また、でも公演を行った。 映画 [ ]• この際、消火のため日野のが出動したものの、火災現場周辺の違法駐車のため現場への到着が遅れたことから延焼を食い止められず、この件が翌12月15日にで番組テーマとして取り上げられた。 参考文献 [ ]• 『月刊現代1997年9月号・10月号 獄中手記 私が落ちた愛欲の地獄』講談社• (著者が受刑者のため省略)『月刊創2002年3月号・4月号 不倫放火殺人OLと呼ばれて』創出版• 中尾幸司『新潮45 - 2003年1月号 日野OL不倫放火殺人被害者夫妻10年目の初告白』新潮社• 新潮45編集部『その時殺しの手が動く 引き寄せた炎、必然の9事件』新潮社• 犯罪心理追跡斑、町沢静夫、宮台真司『報道できない 超異常殺人の真実』竹書房• 事件犯罪研究会『明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典』東京法経学院出版.
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