令和改元という節目の年に、歴代天皇の事績をふりかえります。 今回は「履中天皇」と「反正天皇」をお届けします。 第17代・履中天皇 世系22、即位65歳、在位6年、宝算70歳 皇紀996年=仁徳24年(336年)、先帝・仁徳天皇の第一皇子として誕生された。 諱は大兄去来穂別命(おおえいのいざほわけのみこと)で、母は葛城襲津彦(かずらぎのそつひこ)の娘で先帝仁徳天皇の皇后・磐之媛である。 外祖父となった葛城襲津彦は武内宿禰の子、葛城氏の祖であり、葛城氏は大和葛城地方(奈良県御所市 葛城市)に本拠を置いていた有力な古代在地豪族である。 皇紀1003年=仁徳31年(343年)1月15日、大兄去来穂別命が8歳で立太子された。 先帝崩御の56年前で、仁徳天皇は早くからこの第一皇子・大兄去来穂別命を後嗣として決めておられたことになる。 住吉仲皇子事件 ところが、先帝崩御の直後、即位直前に大事件が発生した。 皇紀1059年=仁徳87年(399年)、大兄去来穂別命は羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)の娘・黒姫を妃にしようと、その婚礼の日取りを告げに、同母弟で第二皇子の住吉仲皇子(すみのよしえのなかつみこ)を黒姫のもとに遣わされた。 ところが皇子は太子と偽って黒姫を犯す。 そして帰りにたまたま持っておられた鈴を忘れて帰られた。 翌日、太子・大兄去来穂別命が来られ、「これは何の鈴か」と問われるので、「昨日持ってこられたではないですか」と答えられ、太子は事情をお知りになる。 住吉仲皇子は発覚を恐れ、先手を打って太子を殺そうと密かに兵を挙げ、太子の邸(難波)を包囲する。 そこで平群木菟宿禰(へぐぢのつくのすくね)らが酔った太子を担ぎ出し、馬に乗せて連れ去る。 住吉仲皇子の軍は邸を焼き払うが、太子は石上神宮(奈良県天理市)へと無事逃れられる。 逃げる途中、出会した少女に「伏兵が居るので遠回りし当麻道を越えて行け」と教えられ、簡単に越えられる穴虫峠(大阪府南河内郡太子町と奈良県香芝市の間)を避け、遠くて、標高も高い竹之内峠を越えて行かれた。 太子の安否を気遣って追って来られた同母弟の瑞歯別皇子(みずはわけのみこ 反正天皇)に命じて住吉仲皇子を誅殺させる。 瑞歯別皇子も住吉仲皇子と通じているのではと、太子は疑われたようで、敢えて瑞歯別皇子に住吉仲皇子の討伐を命じられた。 この事件は、住吉仲皇子が皇位継承を争った事件ではないので、先帝の後嗣決定に直接影響を与えたわけではない。 しかし、平群木菟宿禰らが太子を拉致し連れ去らなかったら、あるいは逃亡途中で少女が情報をくれなかったら、太子は殺害されていた。 そうなったとしたら誰が後嗣として即位しておられたか全く予想もつかない。 大乱に発展していた可能性もある。 住吉仲皇子は大兄去来穂別命の同母弟で、第二皇子であるから即位も充分あり得たものと思われる。 皇紀1060年=履中元年(400年)2月1日、大兄去来穂別命が磐余稚桜宮(いわれのわかさくらのみや、奈良県桜井市池之内)にて65歳で即位される。 住吉仲皇子の事件で即位が1年遅れた。 翌年の履中2年春1月4日、即位が65歳と遅かったので、早々に同母弟の瑞歯別皇子を皇太子(皇太弟)に立てられた。 履中天皇には皇后・黒姫との間に皇子の磐坂市辺押磐皇子(いわさかのいちべのおしはのみこ)と御馬皇子がおられたが、天皇は弟皇子・瑞歯別皇子を立太子させられた。 ここでは皇子を差し置いての立太子であった。 皇紀1064年=履中5年(404年)9月19日、皇妃・黒姫が薨去される。 皇紀1065年=履中6年(405年)春1月6日、黒姫の薨去を受け、応神天皇の皇女・草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ、幡日之若郎女:はたびのわかいらつめ)を皇后に立てられた。 父帝・仁徳天皇の異母妹であるから叔母に当たる。 草香幡梭姫皇女との間に中磯皇女(なかしのひめみこ 中蒂姫命)が誕生され、大草香皇子(おおくさかのみこ)の妃となられ、後に「眉輪王の変」のあと安康天皇の皇后となられた。 皇紀1065年=履中6年(405年)3月15日、在位6年、70歳で崩御される。
次のこの項目では、1985年から1994年に大阪府を中心に発生した殺人事件(警察庁広域重要指定事件第122号)について説明しています。 1992年に大阪府で発生した殺人事件については「」をご覧ください。 少女以外のはすべてバラバラにされた()。 一連の連続殺人事件はにより(平成7年)6月12日付で「」に指定された。 事件 [ ] 加害者の男Kは(昭和60年)5月下旬 - 1994年3月下旬にかけて大阪市内の自宅で女性5人を相次いで絞殺し、遺体を山中に遺棄した。 この間、Kは約20軒のマンション・アパートを転々としていたが、A・B・Cの3事件では当時居住していた の同じマンションが、D・Eの2事件ではの同じアパートがそれぞれ被害者の殺害現場となった。 A事件・B事件 [ ] 第1の被害者は当時46歳・主婦A(大阪市二丁目在住)で 、Aは夫と子供3人がいたが、1985年5月14日に家出してから西成区内の立ち飲み店で偽名で働いていた。 加害者Kは1985年5月下旬ごろに被害者Aが働いていた立ち飲み店を客として訪れ、Aを食事に誘い2人で店外に出たが 、自宅マンションでAに飲酒を注意したところ、反抗されたため絞殺した。 被害者Aの遺体は被疑者Kの逮捕後(1995年5月29日)に平野町の雑木林(から西へ入った林道沿い)でバラバラ遺体として発見された。 第2の被害者は当時19歳・女性B(大阪府の知的障害者施設寮生)で 、1985年4月16日17時ごろに施設の寮を出てから行方不明になっていた。 KはA殺害から1か月後となる1985年6月16日に付近で被害者Bと出会い、同日14時ごろに2人で浪速区内の寿司店を訪れた。 その後、KはBを自宅へ連れ帰ったが、被害者Bから小遣いとして10,000円を要求されたことに立腹し、15時ごろに室内で馬乗りになってBの首を両手で絞め、Bを殺害。 室内にカーペット・ビニールシートなどを敷き、部屋にあったのこぎり・包丁などで被害者Bの遺体をバラバラに切断し、段ボール箱に入れてレンタカーで運び遺棄した。 1985年6月17日18時30分ごろに三吉の農道脇で切断された被害者Bの遺体が発見され、が・事件と断定してに捜査本部を設置し捜査していた。 一方で加害者Kは事件発覚から3か月後の1985年9月、を模倣して「怪人22面相」の署名入りの挑戦状を高田署の宛てに送った。 一方でその後、自身の行きつけのスナックに奈良県警の捜査員が聞き込みに来たことを知って方面に逃げ 、挑戦状の消印日に使用された(発行き)の使用済み切符を同封した釈明状を実名で送った。 先述の手紙の内容は「捕まえられるものなら捕まえてみろ」などと警察を挑発する文言のほか、殺害前に被害者Bを連れて行った寿司店の名前、遺体をどの部分から切断したかなど 、犯人しか知り得ない情報が含まれていた。 奈良県警が被害者Bの足取りを捜査したところ、実際にBは遺体で発見される前に中年男性(後に加害者Kと判明)とともに浪速区内の寿司店を訪れていたほか、遺体切断の状況も「挑戦状」に書かれた内容と一致していたため、県警は「手紙は犯人からの物」として捜査していた。 C事件 [ ] (昭和62年)1月22日17時30分ごろ、加害者Kはそろばん塾から帰宅途中の当時9歳・女児C(大阪市在住・3年生)を見かけ 、わいせつ行為目的で誘拐した。 Kは自宅にCを連れ込んでわいせつ行為をしようとしたが 、Cが泣き叫んだために犯行の発覚を恐れ 、18時ごろにCを絞殺した。 殺害後、Kは女児C遺体を山中に遺棄したほか、Cの自宅やCが通学していた墨江小学校に対し、計5回 にわたり「3,000万円用意しろ」などと電話してを要求した。 被害者Cの遺体は1987年5月4日14時ごろに大阪府川尻北山の山中 で発見された。 5事件の被害者では唯一バラバラにされていなかったが 、Kはその理由を「小さかったので切断せず、段ボール箱に入れて運んだ」と供述した。 D事件 [ ] C事件後、加害者Kは(平成元年)10月・(平成3年)8月とで2度の実刑判決を受け、(平成5年)3月まで刑務所に服役したが、出所後に2件の殺人を犯した。 遺棄現場は箕面市上止々呂美のヒノキ林で、C事件の遺棄現場付近を走る林道 を約3キロメートル南に下った場所に位置していた。 1993年(平成5年)7月24日ごろ 、加害者Kは自宅アパートでスナック従業員の女性D(当時45歳・大阪市西成区天下茶屋東一丁目に在住) から金銭支払いを求められ、両手でDの首を絞めて絞殺。 被害者Dの遺体をのこぎりなどで切断し、大阪府上止々呂美の山中に遺棄した。 1994年4月4日 、E事件の遺体発見を受けて遺棄現場周囲を捜索していた捜査本部の捜査員が E発見現場から約150メートル北側の府道脇林内で白骨死体を発見し 、7月24日に歯の治療痕などから身元を特定された。 E事件 [ ] (平成6年)3月下旬ごろ、Nは自宅アパートで飲食店員女性E(当時38歳・大阪市在住)から金銭支払いを求められ、Eを絞殺。 Eの遺体をバラバラにして 箕面市上止々呂美の山林(沿いのヒノキ林斜面)に遺棄した。 Kは盗品の洋服を破格の値段で販売していて、女性Eはなじみの客という関係だった。 遺体は1994年4月3日に発見され 、11月4日に被害者Eと断定された。 逮捕・起訴 [ ] 加害者Kは(平成7年)2月23日に大阪市内の倉庫で段ボール箱に入った衣類を盗み 、同年4月に容疑でされ、容疑を否認したがそのままされた。 KはB事件の被害者が訪れた寿司店周辺の土地に詳しかったことに加え、事件当時借りたレンタカーの走行距離もBの遺体発見現場までと一致していたため、大阪府警がを照合したところ、B事件の犯人から奈良県警宛に送られてきた挑戦状から検出されたものと一致した。 さらに被疑者Kは仕事上D・E両被害者との接点が疑われたほか 、B事件とD・E両事件はいずれも被害者女性の遺体がのこぎり・鋭利な刃物で頭部・胴体・両手・両脚とほぼ6つに切断された状態で遺棄されていたため 、1995年5月10日に大阪府警・奈良県警は連携して捜査に当たるため連続女性バラバラ殺人・死体遺棄事件の合同捜査本部を箕面署に設置した。 合同捜査本部が追及したところ、被疑者Kは「Bを殺して遺体をバラバラにした」と自供したため、捜査本部は1995年5月12日に被疑者・被告人Kを殺人容疑で再逮捕した。 その後、KはC・D・Eの各被害者のほか 、まだ判明していなかった被害者Aの殺害・遺棄も自供した。 犯行の動機 [ ] 加害者 K・Yは1940年(昭和15年)7月10日生まれ ・出身。 旅館経営者の息子として生まれ、地元で結婚して割り箸を旅館に卸す仕事などをしていたが、妻と死別してからは2人の子供を連れて事件の約15年前に西成区へ移住した。 盗品を飲食業の女性たちに破格の値段で販売して生計を立てていた。 普段は温和で愛想がよく口も上手で、仕事上付き合いのあった飲食店・スナックの女性から評判が良かったが、知人たちからは「酒に酔うと金額のことで腹を立てる」「腕っぷしが強く急に怒り出す」「すぐに首を絞める癖がある」などの二面性も指摘されていた。 刑事裁判 [ ] 捜査段階では女児C殺害事件における身代金要求を除きすべて犯行を認めたが、では一転して「殺害したのは知人で、自分は遺体の遺棄などを手伝っただけだ」とを主張した。 1995年10月25日にで初公判が開かれ、同日は連続殺人事件で逮捕されるきっかけとなった窃盗事件に関する審理が行われたが、被告人Kは起訴事実を「身に覚えがない」と全面的に否認した。 同事件はその後、後述の殺人事件の公判に併合された。 (平成8年)3月13日に大阪地裁(島敏男裁判長)で連続殺人事件に関する初公判が開かれたが 、被告人Kは起訴事実を「全く身に覚えがない」と全面的に否認し、特にC事件については「起訴状に書いてあることはでたらめだ」と明言した。 (平成11年)1月8日に大阪地裁(横田信之裁判長)で公判が開かれた。 被告人Kは一連の事件の途中(3件目・C事件と4件目・D事件の間)に別の窃盗罪で2件の有罪判決が確定していたため、はの規定() により今回起訴されていた5事件を確定判決の前後で「A・B・Cの殺人3件」(甲事件)と「D・Eの殺人2件+窃盗」(乙事件)に事件を分離し、甲・乙両事件について死刑をした。 第一審は1999年2月4日の第44回公判で結審し、最終弁論で被告人Kの弁護人は「各事件の犯人と被告人Kを結びつける客観的証拠が極めて乏しく、捜査段階での自白は警察官による暴行・脅迫によって得られたもので、証拠能力はない」と無罪を主張した。 1999年3月24日に第一審・公判が開かれ、大阪地裁(横田信之裁判長)は殺人5件をすべて有罪と認定して被告人Kに対し、甲・乙両事件についてそれぞれ判決を言い渡した。 ただし、C事件で被害者女児Cを殺害した後で身代金を要求した事件については「第三者による便乗的犯行の疑いがある」として無罪とした。 被告人Kは判決直後にへした一方、量刑に関しては求刑通りの判決を勝ち取った大阪地検も「身代金要求の事実認定を無罪としたことは証拠評価を誤った重大な事実誤認だ」と事実誤認の旨を主張して1999年4月6日付で控訴した。 (平成12年)10月3日に大阪高裁(福島裕裁判長)で控訴審初公判が開かれ 、被告人K側は改めて起訴事実のうち4件の殺人を「殺害実行犯は知人で、被告人Kの単独犯ではない」と主張したほか、1件の殺人と誘拐・身代金要求については全面的に否認した。 その上で「捜査段階の自白は捜査員の暴行により強要されたものだ」と主張した一方 、検察官は被害者女児Cの身代金要求を無罪と認定した第一審判決について「『身代金要求犯と被告人Kの声紋が一致している』とした声紋鑑定の結果は信用できる」 「第一審判決は証拠の評価を誤っており破棄されるべきだ」と主張した。 控訴審は(平成13年)2月27日に結審し、同日の最終弁論で弁護人は「被告人は警察官に自白を強要された」などと第一審と同様に無罪を主張した。 2001年3月27日に大阪高裁(福島裕裁判長)はC事件の身代金要求に関しても有罪と認定し、一審判決のうち同部分を無罪とした甲事件の死刑判決を破棄した上で、改めて甲・乙両事件について死刑判決を言い渡した。 被告人Kは控訴審判決を不服として2001年4月13日までにへした。 2005年7月8日に最高裁第二小法廷(裁判長)は控訴審判決を支持して被告人Kの上告を棄却する判決を言い渡し、死刑が確定した。 死刑執行 [ ] 死刑確定者らを対象に実施されたアンケートに対し、Kは以下のように回答していた。 2008年(平成20年)7月 - 8月にかけて「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90」が実施したアンケート - 「国は法律で殺人を禁じているにも拘らず死刑を執行しているが、これこそ明確な殺人行為だと思えてならない。 警察官・検察官が作成する調書は『こいつを犯人にしよう』との意図を持って作られたもので、法廷で『調書は真実ではない』と主張しても裁判官は聞いてくれない」(2008年8月7日付)• 2011年6月20日 - 8月31日に・が実施したアンケート - 「書きたいことが多くあるが、で右手が使えなくなり、左手では思うようにペンが進まない。 頭の中がどうかなってしまった」• 2015年7月に福島瑞穂が実施したアンケート - 「ボケ()が進行したために難しいことがわからない。 字が思うように書けないことが一番辛い」 (:)の死刑執行命令に基づき、死刑囚K(75歳没)は収監先・にて(平成28年)に死刑を執行された。 同日には(の題材)の死刑囚(在監)にも死刑が執行された。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 西成区聖天下一丁目のマンション居室内。 行方不明になった際、Bは勤務先(富田林市のクリーニング店)から知的障害者施設へ帰宅途中だった。 挑戦状は1985年9月6日に高田署へ届き、消印は大阪府近辺だった。 Kは筆跡を隠すために定規を当てながら文字を書いたほか、自宅(西成区)から離れた堺市近辺で手紙を出したが、封筒にはKの指紋が1つ残っていた。 この時、KはCに「へはどう行くのか」と声を掛けて200円を渡していた。 うち小学校には計4回電話した。 天台山の北東斜面で、車1台分の幅の林道から約300メートル入ったヒノキ林の中。 Kは衣類を車で運ぶため、この林道(C・D・Eの各事件遺体発見現場沿い)や国道423号を通って京都府福知山市方面まで出向くこともあった。 - 「 確定裁判を経ていない二個以上の罪を併合罪とする。 ある罪について禁錮以上の刑に処する確定裁判があったときは、その罪とその裁判が確定する前に犯した罪とに限り、併合罪とする」。 この規定により、確定判決を間に挟んだ罪を併合することはできない。 同様に起訴された罪状と罪状の間に確定判決を挟んでいたため、その確定判決の前後で罪状を分割した上でそれぞれの罪状に対し判決を言い渡した事例には(確定判決前の事件・判決後の事件とも死刑)がある。 死刑判決に対し、事実誤認を理由に検察側が控訴した事例としてはがある。 同事件では主犯の被告人3人(2人への殺人罪・2人への強盗殺人罪で起訴)に対し、第一審・が殺人事件1件を傷害致死事件と認定して1人を死刑・2人を無期懲役とする判決を言い渡したが、検察側は無期懲役とされた2人への量刑不当に加え、死刑とされた1人も含めて「全員について控訴しなければ、犯罪事実が被告人の間で異なることになるため放置できない」として事実誤認を理由に控訴。 結果、控訴審・は検察側の控訴を受け入れ、第一審判決を破棄して3被告人全員を死刑とする判決を言い渡した。 『毎日新聞』は「第一審判決を支持して被告人K側の控訴を棄却する判決を言い渡した」と報道しているが 、厳密には「一審判決のうち無罪とした部分(C事件の身代金要求・検察側が控訴していた理由)を事実誤認を理由に破棄した上で、改めて(第一審と同じ量刑の)死刑を言い渡した」ものである。 最高裁第二小法廷 2005 では控訴審判決について「『第1審判決判示第1ないし第3及び原判決判示第3の2の各罪』(=甲事件)につき被告人を死刑に処するとともに、『第1審判決判示第4ないし第6の各罪』(=乙事件)につき被告人を死刑に処した第1審判決を維持した原判断」と述べられている。 2011年12月時点で新たな死刑確定者にも同様のアンケートを送付している。 出典 [ ]• 『読売新聞』1995年5月25日大阪朝刊第一社会面31頁「バラバラ殺人 2か所でやった K容疑者が全容を供述/大阪・奈良府県警」(読売新聞大阪本社)• 『読売新聞』1995年8月16日東京朝刊第一社会面27頁「連続女性バラバラ殺人事件 5人目の被害者は大阪の主婦と断定/合同捜査本部」(読売新聞東京本社)• 『朝日新聞』1995年8月16日大阪朝刊第一社会面29頁「大阪の主婦と判明 K被告再逮捕へ 122号連続女性殺人 【大阪】」(朝日新聞大阪本社)• 『』1995年5月29日大阪夕刊第一社会面15頁「近畿管区指定6号事件 神戸市の雑木林で5人目の遺体を発見」()• 『』1995年5月13日朝刊第一社会面35頁「別の殺人3件認める 奈良の女性バラバラ事件 容疑者を再逮捕」()• 『中日新聞』1995年5月10日夕刊第一社会面「奈良の女性バラバラ事件 窃盗容疑の男関与か 大阪 別の2被害者とも面識」(中日新聞社)• 『朝日新聞』1985年6月18日大阪朝刊第14版第一社会面23頁「奈良・広陵町 女性バラバラ死体 よそで犯行、運ぶ?」(朝日新聞大阪本社)• 1-2. 『毎日新聞』1995年10月18日大阪朝刊第一社会面25頁「連続女性殺人捜査に終結 Cちゃん事件でK被告を追起訴--大阪地検」(毎日新聞大阪本社)• 『朝日新聞』1987年5月5日大阪朝刊第14版第一社会面21頁「能勢山中に女児白骨死体 身長120~130センチ Cちゃんか」(朝日新聞大阪本社)• 『読売新聞』1995年5月19日大阪夕刊第一社会面11頁「大阪、奈良女性バラバラ殺人 K容疑者、猟奇的な手口 遺体の一部切り取る」(読売新聞大阪本社)• 『朝日新聞』1994年7月25日大阪朝刊第一社会面23頁「一人は西成区の主婦と府警断定 箕面で発見のバラバラ死体【大阪】」(朝日新聞大阪本社)• 『読売新聞』1994年4月5日大阪夕刊第一社会面13頁「女性バラバラ事件 捜査で別の女性白骨体発見/大阪・箕面市」(読売新聞大阪本社)• 『読売新聞』1994年7月25日大阪朝刊第一社会面25頁「箕面市のバラバラ白骨体 スナック従業員と断定/大阪府警」(読売新聞大阪本社)• 『朝日新聞』1994年11月5日大阪朝刊第一社会面29頁「西成の飲食店従業員と断定 箕面の切断死体身元【大阪】」(朝日新聞大阪本社)• 『朝日新聞』1995年5月10日大阪夕刊第一社会面13頁「大阪の窃盗被告、奈良のバラバラ殺人関与か 手紙と指紋一致【大阪】」(朝日新聞大阪本社)• 『朝日新聞』1995年5月12日大阪夕刊第一社会面13頁「奈良・箕面、手口が酷似 同一犯?6つに切断 バラバラ殺人 【大阪】」(朝日新聞大阪本社)• 『読売新聞』1995年5月13日東京夕刊第一社会面11頁「窃盗で起訴の無職男、『5人目』の女性殺害など自供/大阪」(読売新聞東京本社)• , p. 259. 『読売新聞』1995年5月19日大阪朝刊第一社会面31頁「女性連続殺人のK容疑者供述 カッとなり5人絞殺 『激高』『温厚』二つの顔」(読売新聞大阪本社)• 『読売新聞』1996年3月14日大阪朝刊第二社会面34頁「連続殺人容疑のK被告 初公判で5女性殺害を全面否認/大阪地裁」(読売新聞大阪本社)• 『読売新聞』1999年2月4日大阪朝刊第一社会面31頁「5女性殺害事件最終弁論 K被告が無罪主張/大阪地裁」• 『中日新聞』2001年7月24日朝刊第一社会面25頁「連続リンチ殺人 殺人罪求め控訴 名地検『3被告共通の事実』」(中日新聞社)• 『中日新聞』2005年10月15日朝刊一面1頁「元少年3人に死刑判決 連続リンチ殺人 『役割に大差ない』名高裁 2人無期の一審破棄」(中日新聞社)• 『』1999年4月6日大阪夕刊第二社会面18頁「女性5人殺害のK被告 身代金要求無罪は『事実誤認』 大阪地検が控訴」()• 『朝日新聞』1999年4月6日大阪夕刊第一社会面15頁「身代金要求無罪は『事実誤認』と控訴 K被告判決で地検【大阪】」(朝日新聞大阪本社)• 『読売新聞』2000年10月4日大阪朝刊第一社会面31頁「5女性連続殺人事件の控訴審初公判 K被告が殺害を改めて全面否認/大阪高裁」(読売新聞大阪本社)• 『』2000年10月4日大阪朝刊第一社会面25頁「大阪・女性連続殺人事件控訴審初公判 K被告弁護側が再び無罪を主張-大阪高裁」( 記者:一色昭宏)• 『毎日新聞』2001年2月28日大阪朝刊第一社会面31頁「女児ら5人殺害控訴審が結審 来月27日判決--大阪高裁」(毎日新聞大阪本社 記者:一色昭宏)• 『毎日新聞』2001年3月28日大阪朝刊第一社会面「女性5人殺害事件控訴審判決 被告の控訴棄却 Cちゃん事件も有罪-大阪高裁」(毎日新聞大阪本社 記者:一色昭宏)• , pp. 2-3. 『読売新聞』2001年4月13日大阪夕刊第二社会面18頁「女性5人殺害事件 死刑判決のK被告が上告」(読売新聞大阪本社)• 『朝日新聞』2005年7月9日大阪朝刊第三社会面37頁「K被告、死刑確定へ 最高裁『異常かつ残虐』 5女性殺害【大阪】」(朝日新聞大阪本社)• , p. , p. , p. , pp. 10-12. , pp. 65-66. , pp. 39-40. , p. : 2016年3月25日 , 日本語 プレスリリース , , の2020年5月6日時点におけるアーカイブ。 , 2020年5月6日閲覧。 第二 2005年(平成17年)7月8日 『最高裁判所裁判集刑事編』(集刑) 第287号519頁、、『殺人,死体損壊,死体遺棄,拐取者身の代金要求,窃盗被告事件』「死刑の量刑が維持された事例(大阪の女性5人殺害等事件)」。 :(裁判長)・・・・• 判決内容:K・(庭山英雄・持田秀樹)の(死刑判決支持・確定)• 検察官:戸田信久• 年報・死刑廃止編集委員会『』インパクト出版会、2015年10月10日、初版第1刷発行。 年報・死刑廃止編集委員会『』(編集委員:岩井信・可知亮・笹原恵・島谷直子・高田章子・永井迅・安田好弘・深田卓)、インパクト出版会、2019年10月25日、初版第1刷発行、259頁。 関連項目 [ ] 女性を標的にした連続殺人犯• (小平義雄):1945年 - 1946年• :1968年 - 1974年• :1971年• :1975年 - 1989年• :1996年• :2017年.
次の事件・捜査の概要 [ ] 1995年7月22日、大阪府大阪市東住吉区の住宅の建物に組み込まれたシャッター付き駐車場で火災が発生し、住人である母親の青木惠子(当時31歳)、内縁の夫のX(同29歳)、長男(同8歳)は屋外に脱出したが、駐車場に隣接する浴室で入浴中だった長女(同11歳)は焼死した。 青木とXは死亡した長女に死亡時支払金1500万円の契約をしていたこと、長女の死亡に対して保険金支払いを請求したこと、2人に約200万円のがあったことから、警察は借金返済のための保険金詐取目的の殺人との疑いを持ち、1995年9月10日に2人を逮捕した。 (以下「警察」)は、2人が住宅の建物に組み込まれたシャッター付き駐車場(火災発生当時はシャッターを閉めた密閉空間状態)で、自動車の燃料タンクから、手動式ポンプでガソリンを吸引して駐車場の床に散布し、ライターで火をつけて火災を発生させ、その結果として住宅を全焼させ、入浴中の長女を殺害したと推定した。 警察は2人が長女を殺害したとして取調べ、連れ子保険金詐取目的で長女を殺害したとの供述調書を作成し、その旨を報道機関に公表。 これに対し、2人はこの取調べの際に拷問による自白の強要があり、警察の推定に合致する供述をさせられたと主張した。 弁護人・支援者の主張 [ ] 青木とXと弁護人・支援者が主張する、2人の無実の根拠、検察が主張する証拠の不証明、動機の不自然性は下記のとおりである。 犯行に使用したとされるを吸引した手動ポンプ、放火したは発見されていない。 散布したガソリンの量、2人が犯行を共謀した時期・内容について、自白調書の内容に不自然・不整合な変遷が多数存在する。 大阪府警科学捜査研究所員が行なった火災の再現実験の結果、火災発生当時はシャッターを閉めた密閉空間状態だった駐車場内に駐車されていたの燃料タンクの不具合によりガソリンが燃料タンクから漏出して気化し、それが駐車場に接する風呂釜の種火に燃え移り発火した可能性が高いと判断された。 2人の借金額は約200万円であった。 2人と長男及び長女はいずれも円満な家族関係を形成していて、家族間に感情的な紛争・不和などの問題点は無かった(ただしX自身は、長女に対して性的虐待を行なっていた事実を取り調べの供述 や支援する会へのメッセージでも「性的虐待をした重い自責」と認めている )。 Xは、自分が軟弱で臆病だったため「否認したら死刑になる」との刑事の主張を真に受けて自白したとしている。 裁判の経過・結果 [ ] (手記「ママは殺人犯じゃない」より) 裁判で青木とXは、「捜査段階で警察に拷問され、虚偽の供述をさせられたが、自分はこの事件にいかなる関与もしていない、無実である」と主張した。 裁判は下記のとおりの経過・結果になった。 1999年3月30日、5月18日 - は物証の証拠調べ請求を却下して、2人に対して無期懲役の判決をした。 両名は無実・無罪を主張して控訴した。 2004年12月20日 - は控訴を棄却した。 被告側は無実・無罪を主張して上告した。 2006年11月7日、12月11日 - は上告を棄却し、両名に無期懲役刑が確定した。 この事件の裁判長(主任裁判官)であったは、当初から被告人達を無罪であると確信しており、滝井は有罪判決を破棄して差し戻すべきと考えていたが、多数意見にはならなかったため反対意見を準備していた。 しかし、滝井の反対意見を不満とするの妨害により、この反対意見は判決に採用されることなく 、滝井本人も10月30日に定年退官を迎えてしまい、実際の判決は残りの4人の裁判官による全員一致の有罪判決となった。 滝井の反対意見は、再審開始前の2011年に出版された書籍 で存在が明らかにされ、再審無罪確定後の2017年にが詳しい内容を報じている。 再審請求 [ ] 2012年3月7日、大阪地裁は青木とXの請求を認め、再審を開始する決定をした。 科学的にみて被告の自白が不自然、不合理で信用性に欠けることが判断の要因の1つとなった。 この決定に対し大阪地検は3月12日、大阪高裁に即時した。 2012年3月29日、大阪地裁は職権で刑の執行停止を認めた。 検察側は大阪高裁に抗告し、高裁は「執行を止めなければ正義に反するような状況ではない」として決定を取り消した。 弁護側は最高裁に特別抗告したが、最高裁第3小法廷(裁判長)は2012年9月18日に特別抗告を棄却し、執行停止を認めなかった高裁決定が確定した。 2015年10月23日、大阪高裁は再審開始を認めた大阪地裁決定を支持し、検察側の即時抗告を棄却した。 また「拘束が20年に及ぶことに照らすと、刑の執行を今後も続けることは正義に反する」として、刑の執行を10月26日午後2時で停止する決定を出した。 これに対し、検察側は「誠に遺憾」として、刑の執行停止に対する異議申し立てを大阪高裁に行った。 しかし、大阪高裁はこの申し立てを棄却し、10月26日に両受刑者は、およびから仮釈放された。 再審の開始に関する高裁の決定に対しては、10月28日まで最高裁への特別抗告ができるが、10月27日に検察側は特別抗告を断念する方針を固めた。 有罪を立証するに足る新証拠は発見されておらず、再審無罪判決となる可能性が高かった。 再審 [ ] 2016年4月28日、Xの再審初公判が大阪地裁で始まった。 Xによる無罪の主張と弁護団による燃焼実験の結果が示された。 検察側は「すべての証拠を検討した結果、有罪の主張・立証は行わない」と告げて「しかるべき判断」を裁判長に求めるのみとなった。 2016年5月2日、青木の再審初公判が大阪地裁で始まった。 Xと同様、無罪の主張が行われた。 検察側は「有罪主張をしない。 裁判所において、しかるべき判断を」とするのみとした。 2016年8月10日、2人に無罪が言い渡されて 、検察は控訴権を放棄し、即日確定した。 12月、青木は「無罪判決後も警察と検察は謝罪しない。 一連の捜査の問題点を浮き彫りにしたい」と国家賠償を求めて提訴。 関連ルポ [ ]• 「時間が止まった私 えん罪が奪った7352日」(2017年12月18日) 脚注 [ ]• 『借金苦で保険金狙い 母親を逮捕 大阪・東住吉の小6焼死』 朝日新聞朝刊 1995年9月11日1面• 2015年10月29日. 2015年12月8日閲覧。 最高裁判所(判決文は大阪地方裁判所). 2015年10月27日閲覧。 「東住吉冤罪事件」を支援する会 2006年1月. 2015年5月3日時点の [ ]よりアーカイブ。 2017年9月閲覧。 岩瀬達哉著「裁判官よ、あなたに人が裁けるか」第2部第2回:『週刊現代』2018年3月3日号148ページ。 山口進・宮地ゆう共著『最高裁の暗闘』 朝日新聞出版〈朝日新書〉、2011年、77ページ。 「再審無罪の大阪女児焼死 最高裁判事が「冤罪」書面」:『中日新聞』2017年2月27日付朝刊、1面・2面。 毎日新聞 ()• 2012年3月7日. の2012年3月8日時点におけるアーカイブ。 日本弁護士連合会2015年10月23日• の2012年9月20日時点におけるアーカイブ。 2012年9月20日閲覧。 毎日新聞. 2015年10月23日. の2015年12月28日時点におけるアーカイブ。 2016年1月4日閲覧。 日テレNEWS24. 2015年10月23日. の2015年10月29日時点におけるアーカイブ。 時事通信. 2015年10月26日. の2015年10月26日時点におけるアーカイブ。 2016年1月4日閲覧。 朝日新聞. 2015年10月27日. 朝日新聞. 2016年4月28日. 朝日新聞. 2016年5月2日. ハフィントン・ポスト. 2016年8月10日14時36分. 2016年8月11日閲覧。 毎日新聞. 2016年12月10日. 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• NHKテレビ 2015年10月29日• 2017年12月18日.
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