高円寺氷川神社。 高円寺氷川神社(杉並区)の御朱印と見どころ

高円寺氷川神社(杉並区)の御朱印と見どころ

高円寺氷川神社

概要 [ ] ・の流域、特に旧を中心にしてに基づく氷川神社が多数分布しており、当社はその中心である。 「大宮」の地名は、当社を「大いなる宮居」と称えたことに由来する普通名詞から転じたものである。 埼玉県周辺の広域から参拝者を集め、正月三が日の初詣の参拝者数(調べ)は全国10位以内に数えられる。 特に全国的に初詣客が増加した(20年)以降は毎年200万人以上が訪れている。 神社の境内は、(中期まで存在した広大な沼)の畔に立ち、もとは見沼の水神を祀っていたと考えられている。 神社の南側に広がる神池(かみいけ)は、神社の西側から涌き出た地下水が溜まったものであり、かつて見沼の一部であった。 神社に隣接する埼玉県営は、期に神社周辺の森を取得して整備したものであり、神社のある小山を見沼の入江が囲んでいた、という地形の特徴をよく保存している。 大宮の氷川神社、中川の中氷川神社(現 )、三室のは、いずれも見沼の畔にあり、かつ一直線に並んでいる。 この三氷川とかつて大宮の氷川神社境内にあった三社(男体社・女体社・簸王子社)がよく混同されるが、別のものである。 祭神 [ ] 現在の主祭神は以下の3柱。 (すさのお の みこと)• (いなだひめ の みこと)• (おおなむち の みこと) 現在の祭神は、(4年)当時の神主・角井惟臣が著した『氷川大宮縁起』に拠る。 祭神の変遷 [ ] 祭神がどの神であるかは、以下のように多くの議論がなされてきた。 中期の『』では一座として記載されている。 の東征時、須佐之男命を勧請したとする説()。 須佐之男命とする説(『大日本神祇史』)。 男体社:須佐之男命(相殿に、日本武尊、)、女体社:奇稲田姫命(相殿に天照太神宮、、、)、簸王子社:大己貴とする説(『風土記稿』)。 男体社:伊弉諾、女体社:伊弉冉、簸王子社:とする説(『大宮氷川太明神縁起之書』)。 歴史 [ ] 前史 [ ] 社伝によれば、3年4月の創建という。 「」によると、初代のは(第13代天皇)の時代にをひきつれてこの地に移住し 、祖神を祀って氏神として、当社を奉崇したという。 この一帯はが開拓した地であり、武蔵国造(无邪志国造)はと同族とされ、社名の「氷川」も出雲の(ひかわ)に由来するという説がある。 一方、氷川神社の摂社に「」がある(現在も氷川神社社殿の東隣に鎮座)。 元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていたもので、が「客人神」として祀られている。 このアラハバキ社は氷川神社のである。 現在祀られている出雲系の神は、一族とともにこの地に乗り込んできたもので 、先住の神がアラハバキとみられる。 このほか、景行天皇の皇子・が東征の際に負傷し、夢枕に現れた老人の教えに従って当社へ詣でたところ、立てるようになったという伝説が残されている。 このことから本地域を「」と称するようになったとされる。 古代 [ ] 前期に編纂された『』に「武蔵国氷川神」の名で神階授与の記載がある。 数年の間に位が上がっていることから、から崇敬されていたことが分かる。 元年()1月27日、従五位下から従五位上• 貞観5年()6月8日、正五位下• 貞観7年()12月21日、従四位下• 貞観11年()11月19日、正四位下• 2年()12月2日、正四位上 平安時代中期の『』には「武蔵国足立郡 氷川神社 名神大 月次新嘗」と記載され、に列している。 中世 [ ] 後期、武蔵国の高位の神社とされ、国司からも崇敬を受けた。 がにおいて当社で戦勝を祈願し乱を平定したことから、のに幅広く信仰され、流域に数多くの分社が建てられ、武蔵国中に広がった。 4年()にはがに命じ社殿を再建して社領3000貫を寄進、8年()には神馬神剣を奉納している。 一宮・三宮に関する議論 [ ] 氷川神社自体は「 武蔵一宮 氷川神社」の社標を掲げているが、内における氷川神社の位置付けには、と三宮の2説がある(「」も参照)。 平安時代中期の『延喜式神名帳』では氷川神社を「名神大社」と記しているものの、現在のところ、中世まで氷川神社を「一宮」とする資料は見つかっていない。 の歴史書『』には、現在のに所在する(延喜式神名帳では「小社」)を指すと思われる「多磨郡吉富に一宮」の記述があり、平安時代の内に、すでに社格の逆転があったとも考えられる。 武蔵国である東京都の(六所宮)では、に編纂された『』を基にして、武蔵国内の一宮から六宮までを「武州六大明神」として祀っており、公式に「一宮」を小野神社、「三宮」を氷川神社としている。 現在も大國魂神社の(・武蔵)の祈祷に、氷川神社の神官が「三宮」として参じている。 一方、後半に編纂されたと思われる『』は氷川神社を一宮とした。 上記を基に、室町時代以降に当社が小野神社に替わって一宮の地位を確立したとする説がある。 これとは別に「氷川女躰宮」が一宮ともされている。 近世 [ ] が関東に入ると、5年()8月に関東郡代を奉行として社頭を造営した。 にはから社地三百石が寄進されていた。 江戸初期のはの南で参道を使用していたが、この地を治めていた関東郡司が、参道を街道とすることは恐れ多いとする宿の意見を受け、5年()に西側に街道を付け替え、参道沿いの宿や家およそ40軒を新設街道沿いに移転させ、これが現在に至る大宮の町となった。 7年()3月には、阿部豊後守を奉行として社殿を建立した。 近世には男体社、女体社、簸王子社の三社に別れ、それぞれ岩井家・内倉家(のち断絶、角井家が継承して西角井家を称する)・角井家(後に東角井家を称する)がとして神主を世襲した。 三社の祭神や順位を巡る論争もあったが、(12年)三社・三社家を同格とする裁定が下った。 (4年)当時の神主・角井惟臣が著した『氷川大宮縁起』に拠り、現在の祭神が定められている。 近代以降 [ ] 元年()10月17日、の4日目には当社を武蔵国の・と定めた。 10日目には大宮にし、に関東の神社の中で最初に親祭を行った。 以来、にはの参向があり、によるがされる。 明治天皇は(明治3年)にも再度親拝され、も皇太子時代の(6年)、天皇に即位した(9年)11月に、それぞれ軍事演習視察の帰途に親拝され、(昭和42年)10月に夫妻で参拝された。 も皇太子時代の(昭和38年)9月に参拝され、(昭和62年)7月と天皇に即位した(5年)5月には夫妻で親拝されている。 明治初頭の寺院整理神社統合により、供僧観音寺は本地仏とともに下加村の満福寺(現・さいたま市日進町)へ退転した。 また、である社有林が開かれて、埼玉県で最初の近代公園「」として整備された。 (明治15年)に社殿を改造し、簸王子社と女体社を廃して男体社に三神を祀るようになり、さらに(15年)に国費で社殿・楼門等を改築し、現在の姿になった。 また、(昭和4年)9月には埼玉縣が境内に建立され、県内の戦死者2000余柱が祀られた。 招魂社は(昭和14年)3月に分離してとなり、同4月には国指定護国神社となった。 (昭和41年)にの大鳥居(第二鳥居(木造鳥居では国内最大級))が落雷によって破損したため、新たな鳥居が(昭和50年)に竣功。 落雷した鳥居は移設され、(昭和51年)に氷川神社に竣功された。 これが現在の二の鳥居で、2019年までのの前にある。 このとき、もともとの石造の二の鳥居は大宮公園との境界へ移設されていたが、で基礎が破損したため一旦撤去された。 その後、撤去した柱を新たに整備された摂社寄りの参道と公園との境界の標として再建されている。 (昭和57年)の開業を祝い、この年からが毎年5月に催されている。 境内 [ ]• 一の鳥居 に近いの(旧)から神社まで、およそ2の表参道が、ほぼ南北一直線に延びており、 氷川参道と呼ばれている。 参道上に三つの大鳥居があり、旧中山道と分かれる位置に「一の鳥居」、(旧、新道)と交差した近くに「二の鳥居」、境内入り口に「三の鳥居」がある。 参道は2kmに及ぶ南北直線だが、神社の拝殿、本殿は参道の直線から西にずれており、また南北に対して約30度傾いている。 境内に入ると、参道は左手に弧を描き、「神池」を橋で渡って拝殿に至る。 参道はを中心にした並木に覆われている。 30種類680本の木々があり、幹回りが2メートルを超える古木20本を市の天然記念物に指定している。 にはが多かったが、以降はが主体となる樹木で覆われた。 中から戦後にかけて燃料として伐採され、また参道に自動車を走らせたことから排気ガスで枯死し、汚染に強いケヤキが6割を占めるようになった。 歩行者により、根本が踏み固められて木々は弱っているため、保全活動が行われている。 2kmに及ぶ参道は3つの区間に分かれている。 旧中山道と分岐する 一の鳥居から(大宮中央通り、東口の駅前通り)までの約1000mは道幅が狭く、参道を車道として開放している。 歩道と車道は分離されており、自動車は北向きの一方通行である。 将来構想として、自動車を完全に排除して、往事の参道に再生することが考えられている。 この区間は、かつて自動車の違法駐車が後を絶たず、また一の鳥居から南大通り(4車線の大通り)まで380mは狭いながら対面通行であり、歩行者、自転車、双方向の自動車、路上駐車で混乱していた。 さいたま新都心が街開きし、参道南部を歩く人が飛躍的に増えたことから、参道再生の一環として、車道部分を通過できるだけの広さにし、残りを御影石風のブロックを敷き詰めた歩道にした。 (平成14年)に第一期(南大通りより北の450m)が完成、(平成18年)に第二期(上記の380m)が完成した。 特に第二期は自動車を一方通行に変更するため、数次に亘る社会実験を経て実現した。 (平成21年)に第三期(中央通りより南の約200m)が完成、全区間の歩車分離が完了した。 近隣の代替道路整備が行われたことから、(平成31年)より、第一期区間が自動車通行止めとなる。 大宮中央通りから県道2号までの約300mは「平成ひろば」と名づけられた公園になっている。 中央が歩行者用の広い参道であり、その周囲が公園となっている。 自動車は「平成ひろば」の両側を南北方向とも一方通行で走ることができる。 「平成ひろば」は、参道を利用していた住宅・店舗の跡地に、(平成元年)に造られた。 この住宅や店舗はもともと、敗戦後に大宮駅東口に集まっていた闇市やバラック街であり、(昭和22年)にが排除命令を出したため、警察と、氷川神社の間での取り決めにより参道の一部に移転したものだった。 その後40年にわたって生活の場となったために樹木は荒れ、往事の面影は失われた。 昭和の終わりに大宮市によって参道の再生事業が進められ、住宅や店舗は下町の市営住宅へ移転した。 県道2号の北に 二の鳥居があり、神社境内の入り口である 三の鳥居までの約500mは往事の面影が残された広い参道が延びている。 中央に歩行者用の広い参道があり、東側に対面通行の自動車道がある。 参道では毎年に「十日市(とおかまち)」という祭が開催され賑わう。 正月三が日にも、多くの出店が立ち並ぶ。 参道の周辺は、二の鳥居の南側では、参道を挟んで西側が官民のビルや大型マンションが建ち並ぶ大宮の中心市街地、東側が区画された住宅地と、街並みが大きく異なっている。 神社に近い二の鳥居の北側では、勅使斎館等の行事施設や市立博物館が並ぶほかは閑静な住宅地であり、特に神社と参道の周辺は風致地区として、建築制限が課せられている。 このほか、大宮区土手町の旧中山道から神社北側に至る「裏参道」があり、こちらにも鳥居が立つ。 交差する主な道路 [ ]• (旧)• (大宮中央通り)• (旧、岩槻新道)(氷川神社入口交差点) 沿道の主な施設 [ ]• 氷川参道出張所• 大宮区役所・(埼玉県大宮合同庁舎跡、2019年5月7日移転)• 市民会館おおみや・山丸公園• 埼玉県自動車税事務所(旧大宮区役所別館)• さいたま市立大宮小学校• 参道交番• さいたま市立博物館• 氷川の杜文化館• 勅使斎館 主な祭事 [ ]• 月次祭 (1日)• 献詠祭 (15日)• (1月1日)• (2月節分日)• (いくわの-) (2月7日)• (2月17日)• (さとかぐら) (3月15日)• (はなしずめ-) (4月5・6・7日)• (5月9日)• (みちあえ-) (5月21日)• (ちまきの-) (6月5日)• (6月30日)• (8月1日)• (8月2日)• 10月• (ぬきほの-) (10月9日)• (さくへい-) (10月21日)• 11月• (11月23日)• 12月• (だいとう-) (12月10日)• (せいしょう-) (12月11日)• (12月31日) 国民奉祝日にはそれぞれ祭事がある。 文化財 [ ] 埼玉県指定有形文化財 [ ]• 氷川神社行幸絵巻 1巻(附 原本1巻、下絵1巻)(絵画) - 昭和39年11月17日指定。 さいたま市指定有形文化財 [ ]• 氷川神社横山大観作「秋色武蔵国」1幅(絵画) - 昭和39年1月13日指定。 氷川神社文書(古文書) - 昭和40年11月6日指定。 摂社門客人神社本殿・摂社天津神社本殿・末社御嶽神社本殿(建造物) - 平成23年3月30日指定。 さいたま市指定天然記念物 [ ]• 氷川参道の並木 - 昭和50年2月7日指定(昭和63年12月2日追加指定)。 現地情報 [ ] 所在地• 一丁目407番地 交通アクセス• または (徒歩約10分)• ・ほか (徒歩約20分) 参道の始まる一の鳥居へは、(JR東日本)が最寄駅。 (産業道路)・「堀の内」交差点から数分。 県道35号大宮公園入口交差点、県道2号氷川神社入口交差点から入ってもアクセス可能。 最寄りIC:首都高速、 周辺• 脚注 [ ] []• 概ね8位前後を推移している。 も参考• 『埼玉県の地名』()氷川神社項。 - 武蔵一宮 氷川神社(2018年7月2日午前9時36分()閲覧)• 『日本神話の形成』(塙書房)186頁、菱沼勇「武蔵の古社」(有峰書店、1972年)71-75頁、原島礼二「氷川神社」、谷川健一篇『日本の神々 神社と聖地 11関東』(白水社)。 武蔵野古社 歴史と風土7 p. 「」、『太政類典』第1編(慶応3年~明治4年)第123巻36。 (さいたま市)平成31年3月発行 第15号を参照 参考文献 [ ]• 『武蔵一宮 氷川神社略記』(神社由緒書)• 『』、にて2011年10月閲覧• 『』、にて2011年10月閲覧• 『 11 埼玉県』「角川日本地名大辞典」編纂委員会 、、1988年7月1日、再版、716頁。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - 武蔵国一宮とされている• 当社に由来• - 各地の氷川神社の一覧。 - 氷川神社をとする。 外部リンク [ ]• - 公式ページ• - ちょこたび埼玉(埼玉県観光課)• - 21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」.

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天気の子の聖地となった気象神社!(高円寺氷川神社)御朱印・お守り・アクセス情報まで徹底網羅!│ワークドットライフ

高円寺氷川神社

日本で唯一「 気象(天気)の神様」を祀っている 気象神社(高円寺氷川神社)。 気象予報士の合格祈願で有名ですが、映画「天気の子」の聖地となったことで更に有名となりました。 映画に登場する「下駄の形をした可愛らしい絵馬」は気象神社で販売されています。 映画では、下駄絵馬以外にも気象神社をモチーフにしたシーンがいくつか登場しているので、聖地巡礼の地として多くの方が訪れています。 今回は「天気の子」の登場シーン、下駄絵馬・御朱印・てるてる坊主のお守り・アクセス情報など、聖地巡礼する際に必要な情報を網羅していきます。 気象神社は天気の神様ということですが、 「合格祈願・厄除厄払・旅行安全」などのご祈祷もあります。 気象神社(高円寺氷川神社)の聖地巡礼情報 気象神社は杉並区高円寺にある 氷川神社境内に鎮座している神社です。 高円寺氷川神社の鳥居を通過して、左の参道を歩くとたどり着きます。 有名な神社なので、「天気の子」の予告PVが公開された時、気づいた方も多いのではないでしょうか。 ちなみに本映画で登場する神社は、今回紹介している気象神社とです。 晴れを願うシーンには、予告にも登場した下駄絵馬が一瞬だけ映っています。 たったワンシーンですが、 雨粒が滴る下駄絵馬は印象深いものでしたよね。 さらに、 須賀と夏美が都市伝説について調査すべく訪れた神社が気象神社でした。 そこで住職は、晴れ女の悲しい運命について説明します。 晴れ女は「天気の巫女」とも呼ばれ、天と人とをつなぐ役割を持っており、人々の願いを天に届ける力を持っています。 しかし天気の巫女は人柱でもあり、願いを叶え続けると、いずれはこの世から消えてしまう運命にあります。 住職の話通り、陽菜は終盤に天上世界へと飛んでしまい、地上から姿を消しました。 竜の天井画は実際に存在しない 住職は天気の巫女について説明する際、須賀と夏美に龍の天井画を見せてくれました。 ただ、 天井画は現実には存在せず、映画内での創作となります。 ちなみに迫力のある天井画を担当したのは、アニメーション美術監督して有名な山本二三(やまもとにぞう)です。 新海誠監督の新作「天気の子」の関係者試写会行ってきました。 人の力の及ばない災いと共にだって、日常と恋と冒険がある。 狂いも含めて今を肯定しようとする力強い傑作。 映画館の迫力でこそ伝わる「飛ぶ感覚」があるはず。 山本二三も背景美術で少し関わっています。 気象神社(高円寺氷川神社)の基本情報やSNS(インスタグラム・ツイッター) 名称 気象神社(高円寺氷川神社) 読み方 きしょうじんじゃ(ひかわじんじゃ) 住所 東京都杉並区高円寺南4-44-19 エリア・最寄り駅 JR中央線・総武線 高円寺駅より徒歩2分 参拝時間 4月~9月:早朝~17:30 閉門します 10月~3月:早朝~17:00 閉門します ご祭神 素盞鳴命(すさのおのみこと) ご利益 就職成就、清祓い、家内安全、商売繁盛、交通安全、安産祈願、他 お問い合わせ (スマートフォンならタップして電話できます) FAX 03-3315-0034 駐車場 境内にあります。 ホームページ 公式SNS 高円寺氷川神社(気象神社)のSNS(インスタグラム・ツイッター)は、はありますが、Instagramありませんでした。 出発が高円寺氷川神社、気象神社で、ナビゲーターの小島奈津子さんが気象神社の照々みくじをお求めになり、その日の運勢を試しました。 御朱印はお休みの日もあるので、Twitterで確認するのもよいかもしれません。 最寄り駅の高円寺駅から気象神社(高円寺氷川神社)へのアクセス JR中央線・総武線 高円寺駅の 南口から徒歩2分で行けます。 Googleマップで見るとおり、すぐに辿り着ける場所にあります。 駅から近いので助かりますね。 気象神社(高円寺氷川神社)のご由緒 1944年 昭和19年 4月、大日本帝国陸軍の陸軍気象部 杉並区馬橋地区 の構内に造営され、気象観測員が気象予報の的中を祈願したといわれております。 戦後の神道指令で撤去されるはずでしたが、調査漏れがあって残存しました。 そこで高円寺氷川神社に遷座されることになりました。 社殿老朽化にともない、遷宮55周年記念として2003年 平成15年 6月に再建されました。 出典: 気象神社は 戦時中に造営されています。 戦後撤去されるはずでしたが、難を逃れ現在の場所に移されました。 建てられてからまだ80年も経っていないので、神社としては比較的新しいほうです。 そのためか、お守りも珍しい形をしています。 日本で唯一の気象神社 気象神社は日本で唯一の、気象の神様を祭った神社です。 御祭神(祭られている神様)は、八意思兼命 やごころおもいかねのみこと。 八意思兼命は、天照大御神を主宰神とした天津神が住んでいる場所「高天原」の最高司令官である「高皇産霊命 たかみむすびのみこと 」の子です。 名前には「1人で2つ以上のことができる」という意味がこめられており、多くの人間の知恵を結集させる力を持っています。 また、八意思兼命は 8つの気象現象(晴・曇・雨・雪・雷・風・霜・霧)を制御できるとも言われています。 「天気の子」にぴったりの神社ですね。 気象神社の下駄絵馬・御朱印・お守り・おみくじ情報 それでは気象神社の下駄絵馬や御朱印について紹介していきます。 下駄の形をした絵馬は500円で購入可能 気象神社の名物ともいえる下駄絵馬。 むかし天気を占うときに「あした天気になーれ」と、履物を飛ばしましたよね。 それにあやかり、絵馬を下駄の形にしたそうです。 絵馬の色は赤と黄色の2種類。 1つ 500円で購入可能です。 気象神社を訪れたさいは、晴天を願って下駄絵馬を奉納してみてはいかがでしょうか。 気象神社の御朱印 気象神社の御朱印はお天気のはんこがあり、とても可愛らしいです。 お天気のはんこは、参拝時の天気によって変わります。 はんこの種類は 「晴」「雨」「曇」の3つ。 休日は御朱印を求めて行列ができることもあるので、時間には余裕を持って参拝しましょう。 気象神社のてるてるお守り 気象神社のお守りはてるてる坊主の形。 1個500円で購入でき、赤と青の2種類から選べます。 晴天を願うとともに、心も晴れやかになるよう御祈願されています。 気象神社のおみくじはてるてる坊主つき さらに、気象神社では てるてる坊主付きのおみくじ「照々みくじ」も販売されています。 こちらも1回 500円。 御祈願された8色の可愛い「てる坊」は持ち帰ってもいいですし、境内の指定された場所に奉納することも出来ます。 高円寺氷川神社(気象神社)は癒やしスポット! 高円寺駅南口側の土地神ともなっている高円寺氷川神社(気象神社)。 聖地巡礼するなら「御朱印」「てるてる坊主」なども楽しんでみてください。 天気以外のご利益もあるため、確認して訪れてみてはいかがでしょうか。 静かな境内は 癒しスポットとしてもおすすめです。

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高円寺氷川神社の御朱印は手作り?日本唯一の気象神社のご利益は?

高円寺氷川神社

高円寺氷川神社|旧高円寺村鎮守、境内社気象神社 高円寺氷川神社の概要 高円寺氷川神社は、杉並区高円寺南にある氷川神社です。 高円寺氷川神社の創建年代は不詳ですが、源頼朝が奥州征伐の際、この地に着き、安達藤九郎盛長に命じて社殿を建立させたとも、家臣の村田兵部某が高円寺村にとどまり農民となった時、を勧請して創建したとも伝えられますが、村内曹洞宗の創建と同じ頃の天文年間(1532-15)の創建と考えられています。 当地周辺が小澤村から高円寺村へと改称した頃に、とともに高円寺村の鎮守社となり、明治7年には村社に列格していました。 戦後、馬橋4丁目にあった 陸軍気象部に祀られていた気象神社を当社境内に遷座、祀られています。 高円寺氷川神社の概要 社号 氷川神社 祭神 素盞嗚尊 相殿 - 境内社 御嶽神社・日枝神社・気象神社(合殿)、伏見稲荷神社、稲荷神社 祭日 例祭日8月27・28日 住所 杉並区高円寺南4-44-19 備考 旧高円寺村鎮守、旧村社• 高円寺氷川神社の由緒 高円寺氷川神社の創建年代は不詳ですが、源頼朝が奥州征伐の際、この地に着き、安達藤九郎盛長に命じて社殿を建立させたとも、家臣の村田兵部某が高円寺村にとどまり農民となった時、を勧請して創建したとも伝えられますが、村内曹洞宗の創建と同じ頃の天文年間(1532-15)の創建と考えられています。 当地周辺が小澤村から高円寺村へと改称した頃に、とともに高円寺村の鎮守社となり、明治7年には村社に列格していました。 戦後、馬橋4丁目にあった陸軍気象部に祀られていた気象神社を当社境内に遷座、祀られています。 新編武蔵風土記稿による高円寺氷川神社の由緒 (高円寺村)氷川社 除地四段三畝十歩、外に供免一段五畝、小名原にあり是も(と共に)鎮守なり。 本社三尺四方南向 上屋二間に三間、木の鳥居をたつ、村村内の持。 (新編武蔵風土記稿より) 杉並区教育委員会掲示による高円寺氷川神社の由緒 この神社は、旧高円寺村小名原の鎮守で、祭神は素盞嗚尊です。 創建については口碑によれば、天文年間(1532-15)、村内曹洞宗の創建と同じ頃といわれます。 また社伝によれば源頼朝が奥州征伐の際、この地に着き、安達藤九郎盛長に命じて社殿を建立させたとも、家臣の村田兵部某が高円寺村にとどまり農民となった時、を勧請して社殿を建立したのが起源ともいわれています。 しかし、詳細なことは詳かではありません。 当社は、「新編武蔵風土記稿」多摩郡高円寺村氷川社の条に「除地四段三畝十歩、外に供免一段五畝、小名原にあり、是も鎮守なり、本社三尺四方南向、上屋二間に三間、木の鳥居をたつ、村内の持」と記されており江戸時代には、原の鎮守様として農民の信仰を集め、が別当職を務めていたといわれます。 明治七年、村社となりました。 境内には、三社の末社が祀られていますがなかでも 気象神社(祭神八心思比顕命・やごころおもいかねのみこと)は、全国でも数少なく、非常に珍しい神社です。 この社は、戦時中、旧馬橋四丁目にあった陸軍気象部内にあったものですが、戦後、関係者の要請で当神社の境内に遷されました。 例祭日は、八月二十八日です。 (杉並区教育委員会掲示より) 杉並区の神社による高円寺氷川神社の由緒 円寺氷川神社(高円寺南四丁目四四番一九号) 当社は『新編武蔵風土記稿』多摩郡高円寺村の条に氷川社とあって「除地四段三畝十歩、外に供免一段五畝、小名原にあり、是も鎮守なり、本社三尺四方南向、上屋二間に三間、木の鳥居をたつ、村内高円寺の持」とある。 また創建については口碑によれば、天文のころ(一五三二~五四)、村内曹洞宗高円寺の創建と同時といわれ、一説には村田兵部某が社殿を建立したのが起源といわれている。 しかし、高円寺村の記録は寛永十六(一六三九)年の検地帳をはじめ多く焼失しており、かつ板碑も村内から発見されていないので、詳細なことは詳かでない。 杉並区内で氷川神社という名称の神社は本社だけである。 ところで、明治十二年の『神社明細帳』東京都公文書館蔵には当社について、 高円寺村字宮下 村社 氷川神社 一、祭神 素盞嗚尊 一、由緒 明治七年四月被定村社 一、社殿間数 本殿間口一間半奥行二間半、拝殿間口三間奥行二間 一、境内坪数 三百廿六坪 官有地 一、境内末社二社 三峯神社、三尺四方、由緒不詳、祭神伊弉冊命。 御嶽神社、三尺四方、由緒不詳、祭神大麻等能豆神。 一、境外所有地 田地一反六畝七歩 高円寺村字中島。 畑地五反十歩。 一、氏子戸数 百八戸 とあるが、今日の氷川神社は左のごとくである。 一、祭神 素盞嗚尊 二、境内末社(三社)御嶽神社・日枝神社・気象神社(以上合殿)、伏見稲荷神社(一殿)、稲荷神社(一殿) 三、境内地 五五〇坪 四、主要建物 本殿四坪、幣殿四坪、拝殿一四坪、神楽殿七坪、神輿庫一二坪、社務所二五二坪 五、例祭日 八月二十八日 六、由緒 社伝では文治5(1189)年源頼朝が奥州征伐の時、藤九郎盛長に命じで社殿を建立したのが起源であるというが明らかでない。 明治七年四月村社に列し、同四十年十二月会計規則適用方指定せられ、同四十五年五月神傑幣白料供進指定神社となる。 社殿は大正五年改築を行ない、昭和二十年五月戦災により焼失し、同二十二年九月仮殿を造営する。 また同年には旧陸軍気象部(高円寺北四丁目)より気象神社を遷し、同三十七年八月には高円寺北一丁目の稲荷神社を遷した。 同四十六年十月社殿、社務所、神楽殿、神輿庫を落成した。 七、その他 1. 気象神社 氷川神社本殿の左側に三社の末社がある。 本殿寄りの末社には日枝神社・御嶽神社とともに合祀した気象神社がある。 祭神は八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)である。 この社は馬橋四丁目にあった陸軍気象部に祭られていたが、戦後、関係者の要請で当氷川神社の境内に遷した。 氷川神社氏子青年会 昭和四十二年十一月氏子青年会を結成、都内で六番目、区内で一番目である。 現在の会員は七十数名であるが、高円寺氏子地域の発展と会員相互の親睦と研鑽をもって神社諸行事に協力し、神社に関する知識を深めることを目的としている。 現に氏子総代の中にも氏子青年会の出身者が名をつらね、神社総代会の運営に当っている。 毎年三月第一日曜日の「雛祭り餅つき大会」が氏子青年会の主行事である。 例大祭と阿波踊り 氷川神社の例大祭はかって九月十七・十八日に執行されていたが、昭和三十二年より八月二十七・二十八日に変更した。 この祭礼日の選定には子供の生活を配慮した。 一方、高円寺の「阿波踊り」もこの氷川神社の祭礼日変更の昭和三十二年にはじまったのである。 その事情は同年六月に高円寺美観商店衝高南商盛会の青年部が誕生したことによる。 秋祭りが夏祭りと一変した結果、奉納舞踊として「阿波踊り」が採択されたのである。 当初は「阿波踊り」といわず「高円寺馬鹿踊り」と称されていたが、二十余年後の今日では「東京名物高円寺阿波踊り」として踊り子三千名、観客延べ五十万人という大催事となった。 (杉並区の神社より) 氷川神社氏子青年会一同掲示による高円寺氷川神社の由緒 江戸名所図会によれば、その昔源頼朝奥州征伐のとき武蔵国杉並の地に至り給う際、随兵の中に当高円寺村にとどまり終に農民となる者あり・・・と記されています。 一説によれば村田兵部某云々ともいわれ(因みに村田姓は高円寺の旧家なり)その時武蔵国大宮高鼻の本社よりの御神意の使者が同氏に伝え、この高円寺村の位置高く燥松杉桐茂し遠く水田を望みて風致絶佳とされる当地に社殿を建立したのが起源といわれている。 御祭神は素盞嗚尊で国土開発、災難除けの信仰がある。 氷川神社の御分社は約一千社あり関東地方が大部分を占めている。 当社の創建された時期は不詳であるが、口碑によれば天文年間曹洞宗の創建と同時に剏祀されたといわれている。 末社には気象神社、稲荷神社、御嶽神社、日枝神社が祀られている。 昭和四十六年十月十四日、社殿、社務所、神楽殿、神輿庫、手水舎が新しく御造営され、今日に至っている。 例大祭は毎年八月二十七・二十八日に行われる。 (氷川神社氏子青年会一同掲示より)  高円寺氷川神社の周辺図 高円寺氷川神社の周辺図 .

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