鳴かぬなら殺してしまえホトトギス。 第210回 鳴かぬなら殺してしまえホトトギス|翆野 大地|note

鳴かぬなら 逃がしてしまえ ホトトギス

鳴かぬなら殺してしまえホトトギス

「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」徳川家康 家康は柿が熟して落ちるのを待つように織田信長の同盟者として戦い、秀吉の政権に参加しその政権の筆頭大老として秀吉を支え続けました。 それはやがて自分の手に天下が掴み取れるチャンスが来ることを自然にまかせ無理をせずに待ちました。 そして秀吉の死後、そのチャンスが巡ってきて関が原の戦いに勝利し政権を手に入れました。 「泣かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」豊臣秀吉 秀吉は頭を最大の武器としていました。 織田家に仕え始めた頃に信長にとってゴミのような存在の秀吉は信長の草履を懐に入れ信長に自分の存在を認めさせたという伝説があるほど頭を使い知恵を巡らせて織田家の出世頭となりました。 本能寺の変の後、明智光秀を討ち、織田政権の存続者となるために筆頭家老の柴田勝家を追い落とし、織田家の同盟者の徳川家康を配下にする等、様々な策を用いて天下を掴み取ります。 「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」織田信長 信長は中世の因習を打破し近代を切り開いた「破壊者」「革命児」です。 徹底的に中世的な勢力を打ち壊し、自分に反抗する勢力を打破します。 叡山焼き討ちでは女子供まで皆殺しまでする程です。 3人の性格や手法をホトトギスの鳴かせ方に例えています。 こう言う例えもありますよ! 「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに 喰うは徳川」 でも、これは家康にとっては酷ですね。 (苦笑) 家康も馬上天下をとったわけですから。

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鳴かぬなら それもまたよし ホトトギス

鳴かぬなら殺してしまえホトトギス

そういう風に「歌われた」武将はいますが「歌った」武将はいません。 これは詠史句(歴史上の出来事や人物を主題とした詩歌)といって後世の人が 武将の性格分析をするおり、ホトトギスを敵側と置き換えた場合の戦国武将の 対応の仕方というか武将の性格というか戦のやり方を象徴的に詩に表したもの だからです。 ちなみに有名な三人の武将をとして歌われたのは 織田信長「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」 豊臣秀吉「鳴かぬなら鳴かせて見せようホトトギス」 徳川家康 「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」 で今回の「鳴かぬなら 逃がしてしまえ~」と歌われた武将は検索したところ 明智光秀さんのものではないでしょうか。。 「鳴かざれば、放してやろう、ホトトギス」 参考URL: A ベストアンサー 私の勝手な解釈を書かせていただきたいと思います。。。 時間の流れ、物事の変化というのは定まっているもので、 過去、現在がこうであるから、未来がこうなる、と予測することは不可能だということだと思います。 未来に起こるさまざまな事象は大小の違いはあれ、予測とは異なってるものだと思うのです。 そのような、なるようになるという世界だから、 自分の意思こそが物事に意味を与えるものなのであり、 どうせ定まっていて変えられないものなら、 自分の信念こそが、自分の世界における時間であり物事だったりすると言えると思います。 過去や現在に憂慮してその気持ちばかりにとらわれていたら、 その気持ちでしか世界が見えない。 だから過ぎたことも先のこともくよくよ考えないで、 おおらかに構えてほんのり前向きな気持ちであれば、 そう信じたように世界は見えてくる。 なっていく。 というようなかんじではないでしょうか? うまく言えませんでしたけれども、いい言葉だなぁと思いました。 かなり生きるヒントですよね! A ベストアンサー 人柄ということですので、ちょっとしたエピソードを紹介したいと思います。 光秀の奥さんは、煕子さんという人だったのですが、 実はこの煕子さんは、光秀の元にお嫁に来る前に疱瘡という病気にかかり 顔に醜い痕が残ってしまったそうです。 煕子さんの実家では、織田の重臣明智光秀の嫁になる人だ 醜い煕子でなく、親戚の子を煕子ということにして、 光秀の下に送ろうと決めました。 だけど、光秀は偽者である事をすぐに見抜いてしまいます。 そして、煕子の実家に使者を送りこう告げます。 「約束の煕子さんが、疱瘡にかかったと噂は聞いてます。 ですが、何も気にしないで、どうかお嫁に来てください。 」と こうして煕子は、無事に光秀の元に嫁入りします。 しかも、光秀は側室を持たず、この煕子を生涯ただ一人の妻として愛します。 以上のエピソードから、光秀は大変潔癖な人物であり、 とても優しい人柄を持ち合わせた、戦国時代には珍しいタイプの人だったようです。

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【鳴かぬなら殺してしまえホトトギス】は本当?

鳴かぬなら殺してしまえホトトギス

ネット検索にて放送された番組を調査。 フジテレビ「さまぁ~ずの神ギ問」2017. 11 19時~(一部地域を除く)で「誰しもが聞いたことがある信長・秀吉・家康のホトトギスの句、誰が考えた?」というテーマで放送されていたことがわかった。 同番組公式 Twitter にて確認したが、タイトルのみで内容は書かれておらず不明。 ただし視聴者と思われる複数の人のブログ等に今までは「甲子夜話」と言われていたが「耳嚢」の方が最初であると放送されたと記されていた。 そこでまず国史大辞典で「ホトトギス」「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」の各項を引いたが記載なし。 さらに川柳の辞典を調査。 573 「織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三将に思ひ思ひの句に詠まれたと云う時鳥。 信長は「鳴かずんば殺してしまへホトトギス」と詠み、秀吉は「鳴かずんば鳴かせて見せうホトトギス」と詠み家康は「鳴かずんば鳴くまで待たうホトトギス」と詠んだと傳へられる。 」 出典等の記載なし。 仮名遣いの差異大きいが、現代に伝わるものと同じ表現している。 浜田義一郎編.江戸川柳辞典 1968 東京堂出版 「ほととぎす」の項 p. 426 「三将で思ひ思ひの時鳥」の鑑賞の項で「信長、秀吉、家康の三将の性格気質を、時鳥の句であらわした「鳴かぬなら殺してしまへホトトギス」「鳴かぬなら鳴かせてみせうホトトギス」「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」を題材としたもの」とあるだけで出典等の記載なし。 やはり仮名遣いに若干の差異があるが、ほぼ川柳大辞典と同じ表現となっている。 731 「織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らの三将に思い思いの句に詠まれた時鳥。 信長は「鳴かずんば殺してしまへホトトギス」、秀吉は「鳴かずんば鳴かせて見せうホトトギス」、家康は「鳴かずんば鳴くまで待たうホトトギス」と詠んだと伝られる。 勿論この逸話は虚説である。 」 ぼぼ大曲編「川柳大辞典」の表現を写したような酷似した表記であり、句の仮名遣い表記も変わらない。 同じく句の出典等の記載なし。 さらに原典をあたる。 耳嚢 八之巻 (日本庶民生活史料集成16 奇談・紀聞 1970 三一書房)p541-542 (底本・日本芸林叢書所収本) 連歌其心自然に顯はるゝ事 (前略)いまだ郭公を聞ずとの物語出けるに、信長、 鳴ずんば殺して仕まへ時鳥 と、ありしに秀吉、 啼かずとも啼せて聞ふ時鳥 と、有りしに、 なかぬなら啼時聞ふ時鳥 とあそばされしは神君の由。 (後略) 耳袋 八の巻 (東洋文庫208 耳袋2 1972 平凡社)p198-199 (底本・日本庶民生活史料集成16) 連歌その心自然に顕はるゝ事 (前略)いまだ郭公を聞かずとの物語いでけるに、信長、 鳴ずんば殺してしまえ時鳥 と、ありしに秀吉、 なかずともなかせて聞こう時鳥 と、有りしに、 なかぬならなく時聞こう時鳥 と遊はされしは神君の由。 (後略) 耳嚢 八之巻 (岩波文庫 耳嚢 下 1991 岩波書店)p134-135 (底本・カリフォルニア大学バークレー校東アジア図書館旧三井文庫本所蔵本) 連歌其心自然に顕はるゝ事 古物語にあるや、また人の作る事や知らざれど、信長、秀吉、乍恐神君御参会之時、卯月の頃、未だ郭公を不聞との物語出けるに、信長、 鳴ずんば殺して仕まへ郭公 と、ありしに、秀吉、 鳴かずとも啼せて聞ふほとゝぎす と、有りしに、 鳴ぬなら鳴時きかふ時鳥 と遊はされしは神詠のよし。 自然と其御徳化の温純なる、また残忍・広量なる所、其自然を顕はしたるか。 (後略) 甲子夜話 三十五巻八 (東洋文庫333 甲子夜話四 1978 平凡社)p. 57-58 夜話のとき或人の云けるは、人の仮托に出る者ならんが、其人の情実に能く協へりとなん。 郭公を贈り参せし人あり。 されども鳴かざりければ、 なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府 鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤 なかぬなら鳴くまで待よ郭公 大権現様 (後略) 日本庶民生活史料集成16の底本は転写本でした。 「耳嚢」自体公刊されたものではなく、著者の根岸鎮衛の自筆本は見つかっていません。 残されたものは写本、転写本でありいずれも複数存在し、写されることが原因と思われる文章表現、漢字表記の振れが発生じています。 また岩波文庫の「耳嚢」該当の項に註があり、「甲子夜話」「百草露」にも三句が載っているとしています。 「三将で思ひ思ひの時鳥」の句は誹風柳多留53篇に掲載され、これが編まれたのが1808 文化8 年で、耳嚢に書かれた頃のやや後になります。 甲子夜話の著者松浦静山が、耳嚢を読んだという記録は見つかりませんでした。 誹風柳多留の川柳が作られた世相などから推定すると、その三句は巷間にもそれなりに流布していたと思われます。 松浦静山が参照していなくても、それを別途耳にしていた可能性はあると思われます。 「耳嚢」は「古物語」の引用として、三句の作者はそれぞれ織田信長、豊臣秀吉、徳川家康としていますが、そうではないことが有力の様です。 新編川柳大辞典では三将が詠んだとするのは誤りと指摘していますが、根拠の記載はありません。 ネット上では松浦静山の作としているものもありますが、それは明らかに間違いです。 参考 百草露 巻九 (日本随筆大成第3期11 1977 吉川弘文館)p. 243 (前略) 河内ノ国上ノ太子南林寺の什物後水尾院瓢箪の御自画御賛、 世の中は兎にも角にもなるひさごかるき身のこそ楽みはあれ なかぬならころしてしまへほとゝぎす 鳴ぬならなかして見せふ時鳥 なかぬなら鳴まで待ふほとゝぎす 右信長、秀吉、神君、三将の人となりを深く考へ弁ふべし。 事前調査事項 Preliminary research.

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