源氏物語について 源氏物語の光源氏の誕生の部分を現代仮名遣いになおしてくれませんか。 いづれの御時にか、女御・更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなききはにはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり。 初めより我はと思ひあがり給へる御方々、アめざましきものにおとしめそねみ給ふ。 同じほど、それより下 の更衣たちはましてやすからず。 朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、いとあつしくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、いよいよ飽かずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえはばからせ給はず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。 イ上達部・上人などもあいなく目をそばめつつ、いとまばゆきウ人の御おぼえなり。 唐土にも、かかる事の起こりにこそ、世も乱れ、あしかりけれと、やうやう、天の下にも、あぢきなう、人のもてなやみぐさになりて、楊貴妃のためしもひき出でつべくなりゆくに、いとはしたなきこと多かれど、かたじけなき御心ばへのたぐひなきを頼みにて交じらひ給ふ。 父の大納言は亡くなりて、母北の方なむ、いにしへの人のよしあるにて、親うち具し、さしあたりて世のおぼえはなやかなる御方々にもいたう劣らず、何事の儀式をももてなし給ひけれど、とりたててはかばかしき後見しなければ、事あるときは、なほよりどころなく心細げなり。 前の世にもエ御契りや深かりけむ、世になく清らなる玉の男皇子さへ生まれ給ひぬ。 いつしかと心もとながらせ給ひて、急ぎ参らせて御覧ずるに、珍かなるちごの御かたちなり。 一の皇子は右大臣の女御の御腹にて、寄せ重く、疑ひなきまうけの君と、世にもてかしづき聞こゆれど、この御にほひには並び給ふべくもあらざりければ、おほかたのやむごとなき御思ひにて、この君をば、オ私物に思ほしかしづき給ふこと限りなし。 (桐壺) よろしくお願いします。 補足すいません 現代語訳ではなく読みをかいてほしんです。 よろしくおねがいします。 『源氏物語』桐壷(冒頭) いずれの御時(おおんとき)にか、女御・更衣(にょうご、こうい)あまた候(さぶら)い給(たま)いける中(なか)に、いとやんごとなききわにはあらぬが、すぐれて時(とき)めき給(たも)うありけり。 初(はじ)めより我(われ)はと思(おも)いあがり給(たま)える御方々(おんかたがた)、めざましきものにおとしめそねみ給(たも)う。 同(おな)じほど、それより下(げ)ろう の更衣(こうい)たちはましてやすからず。 朝夕(あさゆう)の宮仕(みやづか)えにつけても、人(ひと)の心(こころ)をのみ動(うご)かし、恨(うら)みを負(お)う積(つ)もりにやありけん、いとあつしくなりゆき、もの心細(ごころぼそ)げに里(さと)がちなるを、いよいよ飽(あ)かずあわれなるものに思(おも)おして、人のそしりをもえはばからせ給(たま)わず、世(よ)のためしにもなりぬべき御(おん)もてなしなり。 上達部・上人(かんだちめ、うえびと)などもあいなく目(め)をそばめつつ、いとまばゆき人の御(おん)おぼえなり。 唐土(もろこし)にも、かかる事(こと)の起(お)こりにこそ、世(よ)も乱(みだ)れ、あしかりけれと、ようよう、天(あめ)の下(した)にも、あじきのう、人のもてなやみぐさになりて、楊貴妃(ようきひ)のためしもひき出(いで)でつべくなりゆくに、いとはしたなきこと多(おお)かれど、かたじけなき御心(おんこころ)ばえのたぐいなきを頼(たの)みにて交(ま)じらい給(たも)う。 父(ちち)の大納言(だいなごん)は亡(な)くなりて、母(はは)北(きた)の方(かた)なん、いにしえの人のよしあるにて、親(おや)うち具(ぐ)し、さしあたりて世(よ)のおぼえはなやかなる御方々(おんかたがた)にもいとう劣(おと)らず、何事(なにごと)の儀式(ぎしき)をももてなし給(たま)いけれど、とりたててはかばかしき後見(うしろみ)しなければ、事(こと)あるときは、なおよりどころなく心細(こころぼそ)げなり。 前(さき)の世(よ)にも御契(おんちぎ)りや深(ふか)かりけん、世になく清(きよ)らなる玉(たま)の男皇子(おのこみこ)さえ生(う)まれ給(たま)いぬ。 いつしかと心(こころ)もとながらせ給(たま)いて、急(いそ)ぎ参(まい)らせて御覧(ごらん)ずるに、珍(めずら)かなるちごの御(おん)かたちなり。 一(いち)の皇子(みこ)は右大臣(うだいじん)の女御(にょうご)の御腹(おんはら)にて、寄(よ)せ重(おも)く、疑(うたが)いなきもうけの君(きみ)と、世にもてかしずき聞(き)こゆれど、この御(おん)においには並(なら)び給(たも)うべくもあらざりければ、おおかたのやんごとなき御思(おんおも)いにて、この君(きみ)をば、私物(わたくしもの)に思(おも)おしかしずき給(たも)うこと限(かぎ)りなし。 ア:めざましきものに おとしめそねみたまう(たもう) イ:かんだちめ・うえびと ウ:ひとの おほんおぼえなり エ:おほんちぎりや ふかかりけむ オ:わたくしものに おもほしかしづきたまう いつの御世(帝)のことでしたか、女御や更衣がにぎにぎしくお仕えしておりました帝の後宮に、 それ程高貴な家柄のご出身ではないのに、帝に誰よりも愛されて、はなばなしく優遇されていらっしゃる方がいました。 はじめから、自分こそは一番寵愛を受けようと思っていた身分の高い方は更衣を蔑んだり、嫉妬したりしました。 更衣と同じか、それよりも低い身分の方たちは気分の収まりようがありません。 更衣はそういった周囲の悪意に心を痛め、次第に病がちになり衰弱していきました。 帝は、そんな更衣に対しますます寵愛を強めていき、周りの人々が 困った事だ、と目をみはるばかりの扱いをなさいます。 上達部や殿上人も あまりの事に目を背ける様子で、まばゆいばかりのご寵愛ぶりで、 「唐土でも、こうした事(1人の寵姫ばかり偏愛する)から、天下が乱れ政治が乱れたり事件が起こったりしたものだ」 と、世間でもこの様子に対して問題にし始め、『玄宗皇帝と安禄山の乱、楊貴妃の事を引き合いに出す始末で、これを聞いた更衣は、ますます居たたまれない気持ちになりました。 更衣の父親の大納言はすでに亡くなっており、母親の北の方は古い由緒ある家の出身で、教養も備えた方なだけに、他の 立派な妃たちに娘が引けを取らないように気を配り、宮中の儀式のおりなどにも、衣装や調度を揃えていましたが、しっかりした後見がいないため、頼りなく心細そうに見えました。 それにしても、余程前世での御縁が深かったのでしょうか、やがて二人には世にもないほど美しい玉のような男子がお生まれになりました。 帝は早くこの若君に会いたくて待ちきれず急いで更衣を、実家から宮中に呼び寄せて若君をご覧になると、それは美しくかわいらしいお顔をなさっています。 先に生まれていた 一の宮(長男)は、身分高く権勢のある右大臣の娘の 弘徽殿の女御がお産みになっており、その宮が 東宮(時期帝)に立つと世間では思われておりましたが、この(更衣が産んだ)宮の美しい様子には、比べようもありません。 帝は一応表向きは、女御の産んだ一の宮を大事になさいましたが、実際はこの若君ばかりを 特別扱いなさいました。
次の主人公・かぐや姫と竹取の翁 (筆、蔵) 竹取の翁(たけとりのおきな)によって光り輝くの中から見出され、翁夫婦に育てられた少女 かぐや姫を巡る奇譚。 『』に「 物語の出で来はじめの祖(おや) なる竹取の翁」とあるように、の物語といわれる。 後半から前半頃に成立したとされ、によって書かれた最初期の物語の一つである。 現代では『 かぐや姫』というタイトルで、絵本・アニメ・映画など様々な形において受容されている。 題名 [ ] 『竹取物語』は通称であり、平安時代から室町時代には次のように呼ばれていた。 平安時代• 『 竹取の翁』 (『源氏物語』・巻)• 『 かぐや姫の物語』 (同・巻)• 『 竹取』 (『』)• 『 たけとり』 (『』)• 『 竹取翁』 (『』) 古写本の外題では『竹取物語』の他にも、『 竹とり』(久曾神甲本・流布本第1類)、『 竹物語』(高松宮本・同第3類)、『 竹取翁物語』(古活字十行甲本・同第3類 など)と呼ばれている。 成立 [ ] 伝・後光厳天皇筆古筆切の1つ。 「火鼠の皮衣」の一節が記されている。 ・旧蔵(現在所在不明) 成立年は明らかになっていない。 原本は現存せず、はの筆とされる初期(、)の数葉が最古といわれ、完本では末期の元年()の奥付を有する「本」、無奥書だが - 頃とされる 「本」が発見されているものの、いずれも室町時代を遡るものではない。 しかし、の『』、『』や11世紀の『』、『』、また、『源氏物語』に「絵は、手は書けり」と言及されていることから、 遅くとも10世紀半ばまでに成立したと考えられている。 またこの物語に関連あるものとしては、『』、『』 、『』 などの文献、『』、昔話『』、『』、『』、『』などが挙げられる。 当時の竹取説話群を元に、とある人物が創作したものと考えられる。 作者 [ ] 作者についても不詳である。 作者像として、当時の推定から庶民は考えづらく、に属しており、の情報が入手できる近隣に居住し、物語に的要素が認められることから、当時を握っていたの係累ではないと考えられている。 さらに、(・の使用)・・に精通し、仮名文字を操ることができ、の才能もある知識人で 、貴重であった紙の入手も可能な人物で、性別は男性だったのではないかと推定されている。 また、和歌の技法(・の多用、人名の使用)は時代の傾向に近いことが指摘されている。 以上をふまえ、、、、、、 など数多くの説が提唱されている。 諸本 [ ] 竹取物語の本文系統が本格的に研究の対象となったのはに入ってからである。 1930年(昭和5年)、初めてによって3系統に分類された。 1939年(昭和14年)にによって「 古本系」「 流布本系」の分類が示され 、そして昭和40年(1965年)にがそれまでの研究を受けた上で示した、流布本を3類7種とする分類が現在最も一般的なものとなっている。 古本系については、中田は2類2種、は後光厳院本を加えて3類4種に分類している。 以下に、中田・南波による分類を元にした主要伝本一覧を示す(カッコ内の伝本は分類発表時に未発表だったもの)。 流布本系 通行本系とも呼ばれる。 現在最も広く流布している本文。 第1類• 第1種 本 ・氏旧蔵本 ・ 蔵(旧蔵)本• 第2種 蔵本・旧蔵本 ・蔵甲本 このうち、 久曾神蔵甲本は極めて特異な本文を有した写本である。 第3種 旧蔵本・蔵本• 第2類• 旧蔵本・旧蔵本・書入本・書入本・(蔵J1125絵巻本)• 第3類• 第1種 蔵本・蔵本・蔵乙本・蔵筆本• 第2種• A群 蔵本 ・旧蔵本・蔵金森本・本 ・(自筆本) ・(旧蔵本)• B群 蔵本・滋岡氏 旧蔵本• 第3種• イ種 蔵本・蔵外題本・蔵本• ロ種 蔵本・ ・ など 中田によれば、現存する写本(多くの・を含む)の大半は第3類第3種に属するの転写本である。 現在最も一般的な竹取物語の本文は、第3類第3種に属する古活字十行甲本を底本とするものである。 古本系 に伝わる、が1707年(4年)に校合・書き入れを行なった1692年(5年)刊本における奥書に、 とゝせあまりふたとせ ころうつす ながとき という奥書を持つ。 すなわち1815年(十二年)の写本で、古本系統で唯一の完本である。 第3類の諸本よりも第1類の本文に近いとする説(、など)、第3類第2種のごとき三手文庫本系の転写本であるとする説( 、 )、逆に第1類より上位の本文であるとする説( )があるが、中田剛直は、三手文庫本の「古本」には極めて近似しているも全くの同一ではなく、後光厳院本本文と比較すると似閑の校合ミスと思われる異文が見られる ことからも、三手文庫本の転写ではなく、古本系内の別系統本としている。 第3類• 第1種 本・太氏本• 第2種 本・本・蔵書入本・書入写本・本 ・本・(旧蔵(中川浩文蔵)本) 全て三手文庫本の転写であり、流布本系の本文に対する書き入れ・校合の形で伝えられる。 上記の他に、伝承筆者をとする古筆切の存在がによって報告されている。 なお、和歌の一部がの『』や『』、の『』に、梗概としての本文がののである『』や注釈書である『』(共に巻についての記事)に、それぞれ引用されている。 古本系本文と流布本(通行本)系本文については、南波浩は『海道記』に引用された和歌二首が、一首が古本系からの引用であるのに対し、もう一首が流布本系と古本系を混用したものになっていることから、中期頃には既に両系が並立していたとする。 古本系本文に対しては、「中世における改変本文の可能性が強い」() 「江戸時代の学者が『竹取物語』の不審部分を合理的に理解しようとしてテキストをいじくったもの」() といった批判的な意見もあるが、中田剛直は『花鳥余情』の梗概本文は新井本に近い古本系の一本に近似すること、古型をもつと指摘される京大本や狩野文庫本などの『風葉和歌集』の竹取和歌が古本系であることから、「現存古本系統系の一本が、通行本系に先行せるものではないか」 とし、も「まさに「古本」と称する価値の本文を有するもの」 と述べるなど肯定的な意見もあり、意見が分かれている。 あらすじ [ ] ここでは現在一般的に知られている話を紹介する。 かぐや姫の誕生 [ ] 今となっては昔のことであるが、竹を取り様々な用途に使い暮らしていた翁とその妻の嫗がいた。 翁の名は さぬき の といった。 ある日、翁が竹林にでかけると、光り輝く竹があった。 不思議に思って近寄ってみると、中から三 (約 9 cm)程の可愛らしいことこの上ない女の子が出て来たので、自分たちの子供として育てることにした。 その後、竹の中に金を見つける日が続き、翁の夫婦は豊かになっていった。 翁が見つけた子供はどんどん大きくなり、三ヶ月ほどで妙齢の娘になったので、髪を結い上げる儀式を手配し、を着せた。 この世のものとは思えない程の美しさで、家の中には暗い場が無く光に満ちている。 翁は、心が悪く苦しいときも、この子を見れば消えた。 この子はとても大きくなったため、御室戸斎部(みむろどいんべ) の秋田を呼んで名前をつけさせた。 秋田は「 なよ竹のかぐや姫」と名づけた。 このとき人を集めて詩歌や舞など色々な遊びを催し、三日に渡り盛大な祝宴をした。 幼子を見つける竹取の翁(土佐広通、土佐広澄・画) 5人の公達からの求婚 [ ] 世間の男は、その貴賤を問わず皆どうにかしてかぐや姫と結婚したいと、噂に聞いては恋い慕い思い悩んだ。 その姿を覗き見ようと竹取の翁の家の周りをうろつくは後を絶たず、彼らは翁の家の垣根にも門にも、家の中にいる人でさえかぐや姫を容易に見られないのに、誰も彼もが夜も寝ず、闇夜に出でて穴をえぐり、覗き込むほど夢中になっていた。 そのような時から、女に求婚することを「よばひ」と言うようになった。 その内に、志の無い者は来なくなっていった。 最後に残ったのは色好みといわれる五人の公達で、彼らは諦めず夜昼となく通ってきた。 五人の公達は、、、、、といった。 これを見て翁がかぐや姫に「仏のように大切なわが子よ、変化の者 とはいえ翁も七十となり今日とも明日とも知れない。 この世の男女は結婚するもので、あなたも結婚のないままいらっしゃるわけにはいかない」と言うとかぐや姫は、良くもない容姿で相手の深い心も知らずに結婚して、浮気でもされたら後悔するに違いないとし、「世の畏れ多い方々であっても、深い志を知らないままに結婚できません。 ほんのちょっとしたことです。 『私の言う物を持って来ることが出来た人にお仕えいたしましょう』と彼らに伝えてください」と言った。 夜になると例の五人が集まって、或る者は笛を吹き、或る者は和歌を詠い、或る者は唱歌し、或る者は口笛を吹き、扇を鳴らしたりしていた。 翁は公達を集めてかぐや姫の意思を伝えた。 その意思とは石作皇子には「仏の」、車持皇子には「の玉の枝(根が銀、茎が金、実が真珠の木の枝)」、右大臣阿倍御主人には「の裘(かわごろも、焼いても燃えない布)」、大納言大伴御行には「の首の珠」、中納言石上麻呂には「の産んだ」を持って来させるというものだった。 どれも話にしか聞かない珍しい宝ばかりで、手に入れるのは困難だった。 石作皇子はの山寺にあった只の鉢を持っていき嘘がばれたが、鉢を捨ててまた言い寄ったことから、思い嘆くことを「はぢを捨てる」 と言うようになった。 車持皇子は玉の枝の偽物をわざわざ作ったがその報酬を支払われていない職人たちがやってきて偽物と発覚、長い年月姿が見えなかったことから「たまさがなる」 と言うようになった。 阿倍はの商人から火鼠の皮衣を購入した。 この衣は本来燃えぬはずであったが、姫が焼いてみると燃えたので贋作と分かり、阿倍に因んでやり遂げられないことを「あへなし」 と言うようになった。 大伴は船で探索するが嵐に遭い、更に重病にかかり両目は二つののようになり、世間の人々が「大伴の大納言は、龍の首の珠を取りなさったのか」「いや、御目に二つ李のような珠をつけていらっしゃる」「ああたべがたい」と言ったことから、理に合わないことを「あなたへがた」 と言うようになった。 石上はのという名のが据えてある小屋の屋根に上って子安貝らしきものを掴んだが転落して腰を打ち、しかも掴んだのは燕の古い糞であり貝は無かったことから、期待外れのことを「かひなし」 と言うようになった。 その後、中納言が気弱になり病床にあることを聞いたかぐや姫が「まつかひもない」 と見舞いの歌を送ると中納言はかろうじて、かひはなくありけるものを 、と返歌を書き息絶えた。 これを聞いてかぐや姫は少し気の毒に思ったことから、少し嬉しいことを「かひあり」(甲斐がある)と言うようになった。 結局、かぐや姫が出した難題をこなした者は誰一人としていなかった。 帝からの求婚 [ ] そんな様子がにも伝わり、帝は姫に会いたがった。 使いとして房子を派遣し、房子は嫗にかぐや姫と対面させるよう迫るが、再三の説得にも関わらず、ことごとく拒絶される。 この事を帝に伝えると、帝は一旦は思いとどまったものの、やはり会いたくなり、翁を呼び出して「姫を差し出せば官位をやる」と告げる。 喜ぶ翁の取りなしにもかかわらず、かぐや姫は「帝がお召しになって仰られたとしても、畏れ多いとも思いません」と言い姿を見せようともしない。 帝は「多くの人を殺してきた心であるよ」と言ったが、なおこの女の心積もりに負けてなるものかと諦めない。 かぐや姫は「無理にお仕えさせようとなさるならば消え失せてしまうつもりです」と翁に言った。 翁がこの事を帝に伝えると、帝は狩りに行幸するふりをして会うことを提案する。 翁もそれに賛同した。 帝が狩りに行くついでに不意をつき、かぐや姫の家に入ると、光に満ちて清らかに坐っている人を見た。 帝は初めて見たかぐや姫を類なく美しく思い、を寄せて連れて行こうとしたが、姫は一瞬のうちに姿(実体)を影(光)と化した。 本当に地上の人間ではないと帝は思ったが、より一層すばらしい女だと思う気持ちが抑えがたい。 帝は、魂をその場に留め置いている心地でかぐや姫を残して帰った。 日頃仕えている女官たちを見ると、かぐや姫の近くに寄っていられる人さえない。 他の人より清く美しいと思っていた人は、あのかぐや姫に比べると人並でもない。 かぐや姫ばかりが心にかかって、ただ一人で過ごしている。 かぐや姫のもとにだけ、手紙を書いて文通している。 月の都へ [ ] 月へ帰って行くかぐや姫(同上) 帝と和歌を遣り取りするようになって三年の月日が経った頃、かぐや姫は月を見て物思いに耽るようになった。 八月の満月が近づくにつれ、かぐや姫は激しく泣くようになり、翁が問うと「自分はこの国の人ではなく月の都の人であって、十五日に帰らねばならない。 ほんの少しの間ということであの国からやって来たが、この様にこの国で長い年月を経てしまった。 それでも自分の心のままにならず、お暇申し上げる」という。 それを帝が知り、翁の意を受けて、勇ましい軍勢を送ることとなった。 その十五日には、各役所に命じ勅使として中将高野大国を指名し、を合せて二千人を竹取の家に派遣する。 家に行って、築地の上に千人、建物の上に千人、家の使用人がとても多かったのと合わせて、空いている隙もなく守らせた。 嫗は、塗籠 の内でかぐや姫を抱きかかえている。 翁も、塗籠の戸に錠を下ろして戸口にいる。 かぐや姫は「私を閉じ込めて、守り戦う準備をしていても、あの国の人に対して戦うことはできないのです。 弓矢で射ることもできないでしょう。 このように閉じ込めていても、あの国の人が来たら、みな開いてしまうでしょう。 戦い合おうとしても、あの国の人が来たら、勇猛な心を奮う人も、まさかいないでしょう」という。 翁は迎えを、長い爪で眼を掴み潰そう、髪の毛を取って引き落とし、尻を引き出して役人たちに見せて恥をかかせてやろうと腹を立てている。 かぐや姫は「大声でおっしゃいますな。 屋根の上にいる者どもが聞くと、大層よろしくない。 お爺さま、お婆さまのこれまでのご愛情をわきまえもしないでお別れしようとすることが、残念でございます。 両親に対するお世話を、僅かも致さずに、帰っていく道中も安らかにはなりますまい。 あの都の人は、とても清らかで美しく、老いることもないのです。 もの思いもありません。 そのような所へ行くことも、嬉しいとも存じません」と言った。 そして子の刻(真夜中頃)、家の周りが昼の明るさよりも光った。 大空から人が雲に乗って降りて来て、地面から五尺(約1. 5メートル)くらい上った所に立ち並んでいる。 内外の人々の心は、得体が知れない存在に襲われるようで、戦い合おうという気もなかった。 何とか心を奮って弓矢を構えようとしても、手に力も無くなって萎えてしまった。 気丈な者が堪えて射ようとしたが矢はあらぬ方へ飛んでいき、ただ茫然とお互い見つめ合っている。 王と思われる人が「造麻呂、出て参れ」と言うと、猛々しかった造麻呂も、何か酔ったような心地になって、うつ伏せにひれ伏している。 王は「お前、幼き者 よ。 少しばかり翁が善行を作ったから助けにと、僅かばかりの間ということで姫を下したところ、長い年月の間に多くの黄金を賜って、お前は生まれ変わったように金持ちになったのだ。 かぐや姫は罪を御作りになったので、このように賤しいお前の元にしばらくいらっしゃったのだ。 罪の期限は過ぎた。 早くお出し申しあげよ」と翁に言うが、翁は従わない。 屋根の上に飛ぶ車を近づけて「さあ、かぐや姫。 穢れた所(地上)にどうして長く居られるのでしょうか」と言うと、締め切っていた戸や格子が即座に開いていく。 嫗が抱きかかえて座っていたかぐや姫は、外に出てしまう。 かぐや姫は、せめて天に上っていくのだけでもお見送りくださいと言うが翁は泣き伏してしまう。 「御心が乱れてしまっている」と見かねたかぐや姫は「この先、恋しい折々に、取り出してご覧ください」と手紙を書き置いた。 の中の者に持たせた箱があり、それには 天の羽衣が、また別の箱には 不死の薬が入っている。 一人の天人が姫に「穢い所の物を召し上がっていたのでご気分が悪いことでしょう」と言い薬を持って寄ったのでかぐや姫は僅かに嘗め、天の羽衣を着せようとしていた天人を制し、帝への手紙と歌を書いた。 その歌には、 いまはとて 天の羽衣 着る時ぞ 君をあはれと おもひいでぬる と詠んだ。 その手紙に、薬を添えて頭中将へ渡させた。 中将が受け取ると天人がさっと天の羽衣を着せたので、かぐや姫のこれまで翁を痛ましい、愛しいと思っていたことも消えてしまった。 この羽衣を着た人は物思いがなくなってしまうのだったから、かぐや姫は車に乗って昇ってしまった。 エピローグ [ ] 帝は手紙を読みひどく深く悲しみ、何も食べず詩歌管弦もしなかった。 大臣や上達部を呼び「どの山が天に近いか」と尋ねると、ある人が駿河の国にあるという山だと言うのを聞き「会うことも無いので、こぼれ落ちる涙に浮かんでいるようなわが身にとって、不死の薬が何になろう」と詠み、かぐや姫からの不死の薬と手紙を、壺も添えて使者に渡し、つきの岩笠 という人を召して、それらをにある日本で一番高い山で焼くように命じた。 その由緒を謹んで受け、「士(つわもの)らを大勢連れて、不死薬を焼きに山へ登った」ことから、その山を「ふじの山」 と名づけた。 その煙は今も雲の中に立ち昇っていると言い伝えられている(つまり、書かれた当時の富士山の火山活動が活発であったことを示している)。 物語としての性格 [ ] 『月宮迎』(『月百姿』) この作品には、下記に挙げたような非常に多様な要素が含まれているにもかかわらず、高い完成度を有していることから物語、または古代小説の最初期作品として評価されている [ ]。 かぐや姫が竹の中から生まれたという 竹中生誕説話(異常出生説話)• かぐやが3ヶ月で大きくなったという 急成長説話• かぐや姫の神異によって竹取の翁が富み栄えたという 致富長者説話• 複数の求婚者へ難題を課していずれも失敗する• 帝の求婚を拒否する 帝求婚説話• かぐや姫が月へ戻るという 昇天説話(羽衣説話)• 富士山の地名由来を説き明かす 地名起源説話 大きく捉えれば、天人女房型説話が求婚難題譚を挟んだ形になっているが、これは単なる伝承の継ぎ接ぎではない。 それら伝承を利用しつつ、「人間の姿そのものという新たな世界」を創り出そうとしたところに、物語文学の誕生があるからである。 竹中生誕説話において、竹は茎が空洞であることや成長の急激さにより神聖視され、説話の重要な構成要素の一つになっている。 その特徴を顕著に示す話の一つが『竹取物語』であり同系列の昔話に『』、『』がある。 竹中誕生譚は他の異常誕生譚に比べると事例が稀で、日本国内よりはむしろやに多い。 『』も継子の霊が竹になり、それで作った笛を父親が吹くとが自分の消息を伝える。 日本の昔話では竹中の精霊は人間界に留まれないものが多い。 竹は神のであると同時に呪力を持つと考えられていた。 の竹を畑に立てての虫除け、耳病に火吹竹をあてる等の風習が地方にはあり、またの杖が根づいたり、呪言とともに逆さにした竹が成長したという神聖視する心意の伝説も多い。 竹は普段の生活に密着しており、その点でも説話の生成伝播を促した。 多くの要素を含んでいるため、他作品との類似性ないし他作品からの影響が指摘されている。 『竹取物語』は、から来た主人公が貧しい人を富ませた後に再び異界へ去っていくという構造から成り立っており、構造的にはと同一である。 南波浩は、この物語の成立系統を次のように推定している。 伝承竹取説話 今昔物語集 竹取説話 部分的改変 現存諸本 平安時代後期の『今昔物語集』にも竹取物語と同様の説話(巻31第33「竹取翁、見付けし女の児を養へる語」)が採集されているが、求婚者への難題は「空に鳴る雷」「優曇華」「打たぬに鳴る鼓」の3題のみで個人別ではなく、月へ帰る夜もでなく、富士山の地名由来譚も登場しないといった、『竹取物語』より簡略化された内容である。 『今昔』所収の竹取説話は、(既に成立していた『竹取物語』を参照していた可能性はあるものの)口頭伝承されてきた「伝承竹取説話」の古態を伝えているのではないかとしている。 なお、後年の作家によって、本作は「世界最初の」と言及される事がある(著の「」の後書きなど)。 しかしながら実際には、古代の作家の書いた『』と『』のほうが古い。 登場人物と時代 [ ] かぐや姫のモデル [ ] 『竹取物語』のかぐや姫のモデルとして、『』にの妃として記載される、大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)の娘「迦具夜比売命」( かぐやひめのみこと)を挙げる説がある。 このの弟に「 讃岐垂根王」(さぬきたりねのみこ)がいる。 『古事記』によるとこの兄弟は、がの大県主・由碁理(ゆごり)の娘「竹野比売」(たかのひめ)を召して生まれた(ひこゆむすみのみこ)を父としており、「竹」との関連が深い。 『』には開化天皇妃の「丹波竹野媛」の他、垂仁天皇の後宮に入るべく丹波から召し出された5人の姫のうち「竹野媛」だけが 国に帰されたという記述がある。 他にモデルとして、の子孫でまたはの娘であるなどを挙げる説がある。 また、史研究者のは、のや、675年正月にに拝謁した人(人)のととする説を出している。 時代設定 [ ] の・は、『竹取物語』中のかぐや姫に言い寄る5人の貴公子が『』の5年(701年)に記されているにそっくりだと指摘した。 諸平は、、、は実在の人物であり、車持皇子のモデルは、のとの説があり母の姓が「庫持」である、石作皇子のモデルは、の四世孫で「石作」氏と同族だった(丹比真人島)だと述べている。 しかし、物語中の4人の貴公子まではその実在の公卿4人が連想されるものの、5人のうち最も卑劣な人物として描かれる車持皇子と、最後のひとり藤原不比等がまるで似ていないことにも触れている。 だが、これは反対であるがゆえに不比等本人ではないかと推測する見方もでき、表向きには言えないがゆえに、車持皇子を「卑怯である」と書くことによって陰に藤原氏への悪口を含ませ、藤原氏を批判しようとする作者の意図がその文章の背後に見えるとする意見もある。 この5人はいずれもの功臣で・に仕えた人物であることから、初期が物語の舞台だったと考えられている。 また、この時期にが噴気活動中の火山として描かれていることから、科学論文に成立などが引用されることがある古典のひとつである。 由縁の地 [ ] 日本各地に竹取物語由縁の地と名乗る地域があり、竹取物語(かぐや姫)をテーマにしたまちづくりを行っている。 また以下の7市町(市町村コード順)では「かぐや姫サミット」という地域間交流が定期的に開催されてはいるものの、行政間での繋がりの交流であり、直接「竹取物語の舞台」だということにこだわった「サミット」を行っているのではない。 これら地域は、上記に記されたような地名起源説などは無く、竹林の関係や天女伝説地、地名に「竹原」とある等の関係からであって物語発祥にこだわった団体ではない。 を主祭神と祀るの総本社・• 「富士山縁起」という富士山の伝説・霊験等を記した史料が静岡県や富士市といった富士山南麓の各寺社に伝来しており、かぐや姫は最後に月に帰るのではなく富士山に登って消えていくという構成となっている (「」を参照)。 諸本により「かぐや姫」の表記は異なり「赫夜姫」「赫屋姫」「赫耶姫」等が確認され 、富士市は山麓にある竹林を由来としている。 祭神のがかぐや姫のモデルだとする説もあるが、祭神を木花咲耶姫に擬するのは近世からともされる。 京都府 竹の子の里であり孟宗竹が多い。 孟宗竹は江戸時代からのものである。 奈良県 竹取の翁は「讃岐の造(さぬきのみやつこ)」と呼ばれていることから、竹取物語の舞台は大和国散吉(さぬき)郷(現奈良県広陵町三吉)と考えられている。 また、かぐや姫に求婚をした5人の貴族が住んでいたと想定されるから十分通える距離であり、「竹取物語ゆかりの神社」と称するも鎮座している。 岡山県(現)• 広島県• 香川県(現)• 鹿児島県(現) かぐや姫サミット以外の市町村• 滋賀県の辺り 日本最古の羽衣伝説の舞台となったや、背後の山の字名が「」と呼ばれる(いかぐ)、石作の皇子を連想させる、月を連想させるといった、竹取物語に登場する事物に関係するような神社や地名が多数点在する。 また、かぐや姫に求婚をした5人の貴族が住んでいたと想定されるから、馬を乗り継ぐ等すれば通えなくはない距離である。 京都府• 京都府• 奈良県 古代歴史の舞台である飛鳥や藤原京の南に位置する高取山は、中世には高取城がそびえたち、現在も立派な石垣が残っている。 この高取山が、竹取の翁が住んでいた場所だという説がある。 鎌倉時代に僧・仙覚が、江戸時代にも国学者・契沖が、「竹取」は「タカトリ」と読み、高取山が竹取説話の舞台であるという説を唱えている。 外国語訳 [ ] イタリア語、ドイツ語、英語、ヒンディー語、ロシア語、ルーマニア語、スペイン語、フランス語などに訳されている。 最初期のものにイタリア語訳(1880年) 、ドイツ語訳、ドイツ語訳からの英語訳がある。 日本語原文からの最初の英訳がによる訳 "The Old Bamboo-Hewer's Story"(1888年) であり、次いで宣教師による訳 "Princess Splendor : the wood-cutter's daughter"(1895年) 、による抄訳(1899年) がある。 ディキンズは、から前訳を批判され、一時は大喧嘩になったものの、熊楠の協力のもと、1906年に"The Story of The Old Bamboo Wicker-Worker"と題を改め、訂正を入れた新訳を発表した。 この論争を通じて、ディキンズと熊楠は無二の親友になった。 海外の類話とそれに関する諸説 [ ] アバ・チベット族「斑竹姑娘」との関連 [ ] 「」も参照 竹取物語に似た日本国外の民間伝承としては、例えばのに伝わる「」(はんちくこじょう)という物語 がある。 内容は、竹の中から生まれた少女が、領主の息子たちから求婚を受けたが難題をつけて退け、かねてより想いを寄せていた男性と結ばれるという話だが、中でも求婚の部分は、宝物の数、内容、男性側のやりとりや結末などが非常に酷似している。 () は、原説話が日本とアバ・チベット族に別個に伝播翻案され「竹取物語」と「斑竹姑娘」になったとした。 これに対し、() は、『金玉鳳凰』収載の「斑竹姑娘」の改訂過程への疑問と翻案説に賛成しないとした。 近年の研究では、() はむしろ「斑竹姑娘」の方が「竹取物語」の翻案であるとしている。 刊行本 [ ]• () 原文・校注 [ ] 本文• 『竹取物語本文集成』王朝物語史研究会 編 2008年9月 流布本系• 『 9 竹取物語 』 校訂 岩波書店 1957年10月• 『竹取物語』 校訂 、1970年、• 『 8 竹取物語、、、』 校訂 小学館 1972年12月• 『 竹取物語』 校注 1979年5月• 『新編日本古典文学全集 12 竹取物語、伊勢物語、大和物語、平中物語』 校訂 小学館 1994年12月• 『新日本古典文学大系 17 竹取物語 伊勢物語』 校訂 岩波書店 1997年1月 古本系• 『日本古典全書 竹取物語・伊勢物語』 校注 、1960年• 『かぐや姫と絵巻の世界 一冊で読む竹取物語 訳注付』 ・・編 2012年10月 現代語訳 [ ]• 『完訳日本の古典 第10巻 竹取物語、伊勢物語、』小学館 1983年• 『竹取物語』 訳 角川文庫、1987年、• 『現代語訳 竹取物語』 訳 、2013年11月 解説書 [ ]• 『竹取翁物語解』 著 松屋書店、明治28年(1895年)(『』 - ) 関連作品 [ ]• やは頃の書写とするが、吉田によれば、「題簽朱地短冊に模様のある料紙が、、などがその書写本に用いているものと同じであり、本文の書風から推しても、慶長まで下るものとは思われない」という。 などを歴任し、仁和2年(886年)から仁和6年(890年)まで、竹取の翁の名・讃岐造と同じの讃岐守に遷任したことがあり、自身の出生もので語られる。 やは、後光厳院筆断簡を古本とも流布本とも異なる別系統とする。 前の書写本を、がの1592年(20年)に一度校正、1596年(5年}に「松下民部少甫述久本」(第3類第2種の尊経閣本か)を以て重校した旨の奥付を有する。 紹巴本の発見までは最古の写本と言われていた。 国文学者の旧蔵で、現在は所蔵、。 後述するように古本書入を有する。 現在は図書館蔵。 ではなくの方である。 現在は國學院大學図書館蔵。 武藤本の校正者でもあるが3年()以前に書写した本の転写本であるが、427項(誤写等を除いても205項)もの独自異文を有し、これは古本系と流布本系との異文数546項に匹敵する。 中田は、異文に本文を簡略化する傾向が極めて多い点から、「の絵詞本文ではなかつたらうか」と指摘している。 のチェスター・ビーティ図書館蔵。 江戸初期、の写と見られ、の近辺で制作されたのではないかとする指摘がある。 の筆と見られており、中田は武藤本に校合されている「松下本」(時慶と知己であり、の師であったといわれる神官の蔵本か)と同一とする。 巻第309・物語部3に収載。 蔵本に「古写本三本」(うち二本は滋岡本、内閣文庫本か)「活版本」「」(正保3年刊本)を校合した旨の識語を有する。 紹巴による1570年(元年}の奥書を持ち、書写年代が明らかな写本としては現在最古。 中田剛直「竹取物語の研究 校異篇・解説篇」、1965年には未収載だが、pp. 211を始めとする第3類第2種の分類基準に従う。 現在蔵。 中田剛直「竹取物語の研究 校異篇・解説篇」、1965年には未収載だが、pp. 211を始めとする第3類第2種の分類基準に従う。 の神職家。 行数と刊行時期による分類で、十行甲本・乙本・(丙本)、十一行甲本・乙本・丙本・丁本がある。 このうち十行甲本・十一行甲本はの頃のもので、最も古いとされる。 年代に関しては諸説あるが、は末期(14世紀初期)、やは室町時代初期以前、は室町時代中期から後期としている。 書写者名と見られるが未詳。 流布本系第1類第1種の平瀬本への書入本文のこと。 好事家に渡つたらしく、紹介される見込は少ないが注目すべきものと思はれ、公開が望まれる」と述べられているのみで、本文などの情報は一切不明である。 武藤本(流1-1)・高山図書館本(流1-1)・武田本(流1-2)・島原本(流2)・蓬左文庫本(流3-1)・吉田本(流3-1)等に「さかき」。 山岸本(流1-3)・群書類従本(流3-2)に「さぬき」。 他流布本、並び古本に「さるき」。 この物語には「三」という数字が頻出する。 三室戸斎部とも。 はの祭祀を司る氏族。 なよ竹は「しなやかな竹」という意味で、ちらちらと揺れて光ることを「かがよう」という。 「夜這い」の語は本来結婚を求める「呼ぶ」に由来する言葉とされている。 ここでは「夜に這い回る」を語源とする新解釈を創作している。 神仏が人の形をとって顕現した姿、または化物の類。 「鉢を捨てる」と「恥を捨てる」。 「玉(玉の枝)が悪い」と「魂(性質)が悪い」。 「阿倍なし」と「敢へなし」("敢えない"、張り合いがない)。 「あな食べ難」(ああ食べにくい)と「あな堪へ難」(ああ耐え難い)。 「貝無し」と「甲斐なし」。 『年を経て浪たちよらぬ住吉のまつかひなしときくはまことか』。 "幾年も経って浪が打ち寄せなくなった住吉の浜の「松」のように待っていたのに「貝がない」なら、「待つ」「甲斐がない」と聞くけれど、本当なの?"• 「かひはなく有りける物をわびはててしぬる命をすくひやはせぬ」。 "かい(貝・甲斐)は無かったけれど、思い悩んで死んでいく命を、かい(匙)で掬うように、救ってはくれないのか"。 人間界での長い年月はにとって僅かな時間に当たる。 周囲を壁で塗り籠めた部屋。 未熟者。 天界と人界では時の感覚が異なり、翁といえど「幼き人」。 あるいは単に「幼稚」(=愚かな)の意味か。 最後だと、天の羽衣を着るまさにその時に、ふとあなたをしみじみと思い出してしまうものね。 月世界への思いを表現する仕事に相応しい氏。 新井本(古2)「いはかど」。 その他流布本「いはかさ」。 「(士に富む山)」と「不死の山」。 これは適当でないという説もある。 「筒木」は筒状の木と解すれば竹、また「星」の古語「つづ」との関わりもあり、同音の「(山城国綴喜郡)」にはを祀るとを祀る式内社が鎮座する。 中川浩文は『竹取翁物語解』を主な典拠にしていると推測している。 長谷川武次郎のちりめん本の英訳。 著書『日本文学史』に収載。 名誉教授で東洋史専門• 教授で古代文学専門• 教授で国文学専門• イギリスのロンドン市のチェスター楽譜出版社の作曲コンクールに応募し入賞。 これは日本人初の国際的作曲コンクール入賞作品で報道もされた(現在その楽譜は失われたとされる)。 参考文献 [ ] []• 南波浩「日本古典全書 『竹取物語・伊勢物語』」朝日新聞社、1960年 pp.. 『竹取物語本文集成』王朝物語史研究会 編 勉誠出版 2008年9月、p. 「竹取物語 古写本三種」、1973年 pp.. 254• 巻16第3791歌 - 第3793歌。 ウィキソースに の原文があります。 巻31『本朝付雑事』第33「竹取翁、見付けし女の児を養へる語」• ・・編『かぐや姫と絵巻の世界 一冊で読む竹取物語 訳注付』 pp.. 174• 「国語教育」15巻第10号、1930年5月• 新井信之「竹取物語の研究 本文篇」国書出版、1944年 pp. 「日本古典全書 『竹取物語・伊勢物語』」朝日新聞社、1960年 pp.. 36-40• 中田剛直「竹取物語の研究 校異篇・解説篇」、1965年 pp. 170-171• 曽根誠一「『竹取物語』奈良絵本・絵巻の本文考 : 正保三年刊整版本の独自異文を視点とした粗描」、『花園大学文学部研究紀要』45, 1-17、2013年 pp. 中田剛直「竹取物語の研究 校異篇・解説篇」、1965年 pp. 258• 『古筆学大成』第23巻「物語・物語注釈」講談社、1992年6月 pp. 13-14• 編「古筆学のあゆみ」、1995年 pp.. 119-120• 『古本竹取物語校註解説』国文学会出版部、1954年 pp. 中川浩文『竹取物語の国語学的研究 中川浩文論文集 上巻』1985年 pp. 「竹取物語 解説」pp. 12(『竹取物語 田中大秀旧蔵』、1982年)• 中田剛直「竹取物語の研究 校異篇・解説篇」、1965年 pp. 140• 中川浩文『竹取物語の国語学的研究 中川浩文論文集 上巻』1985年 pp. 296• 中田剛直「竹取物語の研究 校異篇・解説篇」、1965年 pp. 135• 藤井隆「物語系古筆切について(補遺篇)」『名古屋大学国語国文学』第14号、1964年4月 pp. 南波浩「日本古典全書 『竹取物語・伊勢物語』」朝日新聞社、1960年 pp.. 片桐洋一「校訂付記」『新編日本古典文学全集 12 竹取物語、伊勢物語、大和物語、平中物語』小学館、1994年12月 pp. 、2010年8月• 中田剛直「竹取物語の研究 校異篇・解説篇」塙書房、1965年 pp. 282• 、1998年9月• 「日本古典全書 『竹取物語・伊勢物語』」朝日新聞社、1960年 pp.. 141• ・・編『かぐや姫と絵巻の世界 一冊で読む竹取物語 訳注付』 pp.. 105• 南波浩「日本古典全書 『竹取物語・伊勢物語』」朝日新聞社、1960年 pp.. 孫崎紀子「『竹取物語』のかぐや姫はイラン人だった」,現代ビジネス、近藤大介「北京ランダム・ウォーカー 革命から33周年 過去10年で最高の危険水域に達しているイランの危機」2012年2月13日• 著『古代史謎解き紀行 I ヤマト編』ポプラ社、2006年• 大高康正、「富士山縁起と「浅間御本地」」、『中世の寺社縁起と参詣』、竹林舎、2013年• 植松章八、「杉田安養寺本『冨土山大縁紀』翻刻・解題」『富士山文化研究』、2013• 1-16, :• 中川浩文『竹取物語の国語学的研究 中川浩文論文集 上巻』1985年 思文閣出版 pp. 325• 松居竜五、月川和雄、中瀬喜陽、桐本東太編、講談社()1993年4月• 編『金玉鳳凰』、中華人民共和国・上海、1961年 に収載/邦訳:田海燕編・訳『チベットのものいう鳥』、1977年• 奥津春雄『竹取物語の研究 - 達成と変容』、2000年 関連文献 [ ]• 野村純一他編著『昔話・伝説小事典』、みずうみ書房刊、• 著『古代史謎解き紀行 I ヤマト編』、、2006年、• 著『トンデモ日本史の真相 と学会的学講義』、文芸社、2007年、、109-112頁• 『竹取物語』の受容から見る、日本と中国の関連. 学習院大学大学院日本語日本文学 第11号. 2015 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ] ウィキソースに の原文があります。 ウィキクォートに に関する引用句集があります。 ウィキブックスに 関連の解説書・教科書があります。 ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 、リサーチ・ナビ テキスト・解説 [ ]• 、日本古典文学テキスト• 全文訳(意訳あり)• 図書館()• 、物語学の森• 写本・版本 [ ] 古本系• 後光厳院本(断簡):第1類 頃写• 図書館 : 竹取物語断簡(伝後光厳天皇筆)、• 平瀬本:第3類第2種(朱筆書入部分)• 図書館 : 流布本系• 平瀬本:第1類第1種(本文部分)16年(1639年)写• 図書館 :• 武田本:第1類第2種 近世初期写• 國學院大學図書館デジタルライブラリー :• 群書類従本:第3類第2種A群 江戸後期刊• デジタルコレクション :• 古活字十行甲本:第3類第3種ロ種 年間(1596年 - 1615年)刊• 国立国会図書館デジタルコレクション :• 正保3年刊本:第3類第3種ロ種 3年(1646年)刊• 日本古典籍総合目録データベース : 絵巻・奈良絵本 [ ]• 電子図書館• 、「歌書と奈良絵本」展• 、国立国会図書館• 、附属図書館所蔵• 、図書館• 、立教大学• 、メトロポリタン美術館 自治体関連 [ ]•
次のしかし、悪質であってもいたずらの域を出ない。 狙いは何か。 端的に言えば、帝が更衣を抱けない体にすること、子を宿しているなら流産させることである。 むろん、直接手を下すわけにはいかないが、呪詛という手段があるのだ。 従って、ここは糞尿ではなく、月のものを撒いたと考えるべきだ。 「あやしきわざ」は「妖しき業」である。 汚れるのが「御送り迎への人」とあって、更衣の裾となっていない点が気になるが、更衣が直接穢れれば、呪詛が帝にまで及びかねない、それを避けたのだと思う。 ここがPoint 経血の呪い 宮中では「死」や「出産」が忌避されていることは、源氏物語の中でも明らかである。 血や月経に関しては、描写がないので判然とはしないが、延喜式などによると、人の死に触れた場合は三十日間、出産に立ち会った場合は七日間、神事から外れる規定になっている。 月経に関しては懐妊月事条として穢れとされているが、明確にどうすべきか判明しない。 血に関しても、死をイメージする場合は穢れと認識されているが、命の源のようによいイメージもあり、量にもよるだろうが血それ自体は穢れの対象ではない。 ただし、宮中では、内裏で「血下の穢(月経だろう)」があったために、賀茂祭の勅使や斎王が内裏に入るのを止められ(839年)、また宮中の神事である園韓祭で鼻血のため官人の交代した(851年)(いずれも『西宮記』)とある。 『古事記』景行天皇には、「さ寝むと吾は思へど 汝が着せる意須比の襴(スソ) 月たちにけり」とヤマトタケルノミコトがミヤズヒメとの結婚に際して、すそが月経で汚れていることを指摘し、躊躇する場面がある。 ただしその後、比売の歌に感応して、関係を結ぶことにはなる。 道教では経血は明らかに穢れとされており、道教と深くかかわる宮中でもそれが言えるのではないか。 糞尿は管理されているが、経血は誰かかれが月経であるだろうから宮中では手に入りやすかったのではないか。
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