ケータイ を 持っ た サル。 ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊 (中公新書)

ケータイを持ったサル

ケータイ を 持っ た サル

正高信男・著 中公新書 サルの専門家を自称する著者は、「現代日本人は年を追ってサル化しつつある」といっています。 サル化とは? もともとサルの一種である人間は、努力して「人間らしく」なっていく。 ところが、日本人はその努力をしなくなったというのです。 サルは子どもを大事にする、サルは社会的な動物、だと、思い込んでいましたが、実は実は、サルってとっても外に出るのが苦手で、生まれた集団=家族のなかで一生を終えるのだといいます。 著者はサルと人間の違いを、うちの外へ足を踏み出して、個人として自己実現をとげて人生を送れるかどうかだといっています。 そこで現代の日本。 公共の空間をまるで自分の家のようにして、携帯でしゃべったり、化粧したりする女子高生と、ギャクに外に出るのを拒んで自室にひきこもる若者。 さらに、就職はしているけれど、親に頼って生きているパラサイトシングル。 それぞれ、違う現象のようにみえていたのですが、これらはすべて「なじみの深い同士のなまぬるい心地よさ」を好んで外のあつれきを嫌っている点では同じ。 外の空間を無視するか、外を恐れて内にこもっているかの違いだと、いうのです。 なるほど。 なぜこんな子どもたちが出てきたか。 著者の結論からすれば、子ども中心の家庭のせい。 子どもを、常に新鮮な刺激を与えてくれる「耐久消費財」として、妻が主導権をにぎっている現代の家庭が背景にあります。 つい、100年前までは、子育ては祖父母の役割で、親世代は働き手だった。 農業しかり、賃金労働者しかり。 戦後の社会でようやく、女性が働かなくてもいいサラリーマン家庭の主婦がうまれる。 異論はあるだろうけれど、著者は母親がずっと家にいてやることが無条件でいいこととされてきた、ということに、著者は疑問をとなえています。 いろいろな実験結果を通じて、人間は40代もすぎると社会的かしこさが衰えることがわかって。 40代以降は、人間としては高齢者であること。 人生50年というのは今も昔もかわらないこと。 ところが、昔なら祖父母のとなる年齢だった50歳以降になっても、現代の親たちは孫ではなく、難しい年頃の子どもと接しなくてはならない。 かしこさがおとろえる時期に、そういう子どもと対することが、いろんな難しい問題をうみだしてるのだといいます。 例えば子どもの心がわからないために、子どもをモノでつったり、あなたのためといってしばりつける。 母の庇護の元で「いい子」に育った子どもは、心地よい母と子のカプセルのなかから出たがらない。 「家のなか主義」にしてしまったのは、現代の社会の当然の帰結点だと。 40代すぎて、社会との接点を失っている女性は、例えば勤めにでている女性と比べて、さらに40代以降の衰えが激しいと分析しているのですが、働いていなくても、何かの活動に参加したりとか、外とのつながりがあればこれらの点はカバーできるのかもしれません。 子どもの自立を妨げる要因は親にもあるのだということ。 これは、しっかり踏まえて、しかること、大人との区別をつけることも必要なんだなあ、と読みながら思ってしまいました。 さらに少子化の原因は、「誰かに関する責任を全面的に引き受けることへの心の重荷」という心理的な条件であり、経済的にどうとか、政府が対策をとっても、少子化をくいとめることはできないのではないかといいます。 精神的に成長する30歳すぎになって、ようやく子どもをもつだけの心構えができたときを「お産の適齢期」だということを定着させてはどうか。 と、提言しています。 なんだかもやもやしていた今の社会への疑問が、頭のなかで整理整頓されたような・・・.

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ケータイを持ったサル : みんなで書評を書いて読む(新書編)

ケータイ を 持っ た サル

先日読んだ本の作者正高氏が本書の作者ということに気がついて再読。 本書はサルの研究が本職の作者が、日本の若者の現状(2003年当時)を見て「ケータイを持ったサルのようだ」と考えたスタンスで語られているものである。 作者が見た若者とはルーズソックスを履き、地べたにそのまま座り、公衆の面前で大きな声でケータイで話す。 そんな姿。 現代ではルーズソックスなど履いている女子高生はいないが、逆にスマホがより若者だけでなく多くの日本人の生活に密着している現代、どのように読めるのかも気になるところ。 作者はこのような眉をひそめたくなるような行動を「家の中主義」と名付けている。 そしてそれは「ひきこもり」状態の者と共通の原因が見られるとしている。 つまり、自立したくない、家に所属したままでいたい、という思いは共通していながら、一方はごくごく狭い範囲で生活し、家族ですらその世界から弾き出してひきこもり、もう一方は「家」の範囲を広げて普段暮らす世間を私的空間と化し、まったく無感覚で生きている。 当然ながら彼らを育てた親にも原因があるわけだが、そのあたりを「マザコンの進化史」「子離れしない妻と居場所のない夫」との章立てで論じている。 少子化に伴う子どもへの手の掛かり具合の増加と、親子ともども依存関係など、我が家を省みながら激しく頷いた10年ほど前を思い出す。 居場所のない夫としてその部分ばかり印象に残っていたが、今回はもう少し落ち着いて読めたので、さらにその先にも興味を覚えた。 社会的なかしこさは40代から衰えが始まる。 壮年の夫婦が子育てをするようになった歴史は短く、それ以前は祖父祖母が育てた。 専業主婦の出現が性差を大きくし、家庭にこもる主婦の社会的かしこさは低下した。 低下したかしこさでの子育ては「子どもの気持ちがわからない」現象を生む。 ヒトは他の生物に比較し、子を残さなくなってからの生存期間が長い。 かつて若くして結婚、考える間もなく出産していたが、教育の普及により、結婚年齢が上がり、かつ「子どもを持つことの是非」について考える機会も増えることとなった。 等々、個々に見ると興味深く、考察の余地のあるものが多いのだがこうやってまとめてみると多少散り散り感も沸いてくる。 そもそもこの方の専門は何だっけ? 少子化への考察など見るべきものはあるのだが、面白がるだけでなく地に足をつけた考察を必要とするだろう。 作者の専門は比較行動学。 ご自分では言語であると述べている。 本書で作者は言語を二つに分類している。 私的なものと公的なもの。 そしてサルの言語は私的なものに止まり、ヒトは交渉や交易などの必要性から公的な言語を発生させた。 取引についての実験を行い「ケータイ族」と「非ケータイ族」の「信頼関係への期待」について考察している。 その結果「ケータイ族」の「サル化」が見られるとしている。 親との依存関係の中で育ち、「家の中主義」を身につけ、相手とどのように信頼関係を結べばいいのか分からなくなってしまった「ケータイ族」。 空間上の近接性と時間上の持続性を欠いたコミュニケーションには自ずと限界がある、とする作者は、より簡便で、だからこそひっきりなしに、細切れで、それでいて間接的な現代のコミュニケーションツールをどう考えるのか。 「スマホを持ったサル」についてあらためて考える必要があろう。 【読了日2020年3月7日】.

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ケータイを持ったサル・・・サル化する日本社会 TORA

ケータイ を 持っ た サル

電車の中で化粧をする、プラットホームのコンクリートの床に尻をついて座る若者、またずっとケータイを持ち歩き、いつも他人とつながっていたいとする若者。 現代日本人は「人間らしさ」を捨て、サルに退化してしまったのか?このような若者の行動を研究し、そしてそれがサルの行動と似ているところがあるのが分かった。 電車で化粧をする、床に尻をついて座るという若者の行動は、私的な領域と公的な領域の境界をあいまい化しているからである。 公共空間に出ることの拒絶、ずっと家の中感覚でいたい、自分の居心地のいい場所にいたいという願望からきている。 サルと比べてみると、サルは生まれた集団で一生を過ごし、その集団内部でも、親・きょうだい・子との付き合いがほとんどだそうだ。 それに餌づけされたサルは、食物が豊富になったことから、ずっとその場所でとどまっている。 その空間にとどまっていたい、自分の居心地のいい場所にいたいという点で似ているところがある。 次にケータイに関しては、人はケータイを常に身につけていないと不安だという。 用もないのに誰かにメールを出したり、伝える価値のない情報でも交信したがる。 サルを見てみると、サルは仲間が自分から空間的に離れたとき、常に声を出し、相手の声の応答を待っている。 姿はなくても声の応答で、相手が周辺にいることを確認しているのだ。 サルも誰かとつながっていないと落ち着かないようである。 サルの出す音声は、メッセージは含まれていない。 用もないメールを出す人と、似ている点があるといえる。 このことから、サルとまったく似ているとは言い難いが、どこか合致する点があると分かるのである。 現代の若者は「サルに退化してしまったのか?」というキャッチフレーズで進める内容は、どういうことだろうと興味を持ち読むことができたので、良いと思う。 また、本当にサルの行動と似ているところがあると分かり、驚きもあった。 このようになってしまった若者は、子どもだけの問題ではなく、親子や環境が影響していると著者は言っている。 公共空間に出ることの拒絶というのは、甘えであり、困難から逃げているようであると思う「最近の若者は・・・。 」と言われたり、「サルに退化している」と言われてはやっぱりいい気はしない。 このままサル化は進むかもしれないが、人間らしさを忘れてはいけないと思う。 驚きとともに、また人間らしさ、親子の関係も一緒に考えさせられた本でありよかったと思う。 文:ドラえもん.

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