「 クロコップ」はこの項目へされています。 日本のお笑いコンビについては「」をご覧ください。 グランプリ2006王者。 無差別級グランプリ2016王者。 WORLD GP 2012王者。 元クロアチア(2003年 - 2007年)。 元でもあり、の「 クロコップ」は、英語で「クロアチア人のコップ(警官)」の意。 の試合では立ち技主体で勝負するであり、 左を武器に多くのKO勝利を挙げた。 総合格闘技に適応した最初の本格ストライカーといわれており、ストライカーの弱点であるディフェンスとを身に付けた。 ミルコの活躍は総合格闘技界の技術体系を打撃偏重へシフトチェンジしたとも言える。 2000年代初頭から2000年代半ば、特に全盛期であったPRIDE時代はヘビー級の打撃系総合格闘家として世界トップクラスの実力を誇り、 総合格闘技界の最強ストライカーとして名を轟かせた。 PRIDE参戦当初はK-1からの外敵といった悪役、ヒール的な存在であったが、PRIDEでの闘いを重ねていくにつれ、PRIDEのエース格と肩を並べるほどの人気選手となり、PRIDEの主役ともいえる存在であった。 来歴 の都市、に生まれる。 しかし少年期に暮らしていた町が民族紛争に巻き込まれ、友人たちが次々と死んでいくという過酷な経験をきっかけに格闘技を学び始めた。 この時期のことをミルコは後年、「その頃の私は戦争に対する怒りに任せて、ひたすら体を鍛え続けるようになっていた。 自分が強い男になってみんなを守り、もう誰も死なせないと心に誓ったからだ」と述懐している。 当初は専門的なジムに通う経済的余裕も無く、ほぼ独学で空手、キックボクシングなどの習得に励んだ。 この頃、鉄棒の両端に石を結び付けた手作りので、をする様子を撮影した写真が残っている。 ミルコの弁によると15歳の頃にを始めたが、の激化により断念。 紛争が収まった数年後にようやくトレーニングを再開、19歳でに転向したという。 幼少期から紛争地帯で凄惨な光景を目の当たりにしてきたためか、インタビュー内で「戦争は愚かで悲しいだけだ」と述べるなど、戦争に対する激しい嫌悪を公言している。 ボブ・サップ戦の前日記者会見で当時開戦したばかりのに言及が及ぶと、涙ながらに反対を表明した。 計量時のミルコ K-1 3月10日、「K-1 GRAND PRIX '96 開幕戦」で初代王者であるの一番弟子として、 ミルコ・タイガー のリングネームで日本格闘技界に初登場。 前年GP準優勝者のからダウンを奪い、3-0の判定勝ちを収めた。 5月6日の「K-1 GRAND PRIX '96 決勝戦」では準々決勝でのテクニックとローキックに翻弄され、3RにTKO負けを喫した。 この試合以降ミルコは師シカティックと決別し、3年間に渡って日本のリングから遠ざかった。 その間はの試合にも多く出場しており、その他様々な格闘技を経験している。 4月25日、「K-1 REVENGE '99」に出場し、約3年ぶりのK-1復帰を果たした。 ミルコ・"クロコップ"・フィリポビッチとリングネームも変え、に左ストレートで4RKO勝ちを収めた。 6月20日には「K-1 BRAVES '99」に出場し、準々決勝でリッキー・ニケルソンにK-1のリングでは初となる右ハイキックで1RKO勝ち。 準決勝ではに延長1R判定負けを喫し、GP開幕戦の出場権を逃したものの、怪我人の発生で推薦枠で10月3日の「K-1 GRAND PRIX '99 開幕戦」に出場を果たした。 からハイキックでいきなりダウンを奪うと、一気にラッシュを叩き込んで2つ目のダウンを奪って1RKO勝ちし、K-1四天王の1人を倒したことで一躍脚光を浴びるようになる。 12月5日の「K-1 GRAND PRIX '99 決勝戦」では、緒戦の準々決勝ではに2RKO勝ち、準決勝でに2RKO勝ちして決勝まで駒を進めたが、武蔵戦で痛めた脇腹を、続くグレコ戦でも痛めて肋骨を骨折してしまったこともあり、決勝ではにその部分を徹底的に攻められボディ打ちで3RKO負けを喫し、グランプリ準優勝に終わった。 その後リングネームを現在の ミルコ・クロコップに変更している。 かつてのやや細身で迫力を欠く体格は見事にビルドアップされ、更にの精悍な顔つきも相まって「」のニックネームが定着。 この頃から人気と実力を兼ね備えた、次世代を担う選手として注目されるようになった。 3月19日、「K-1 BURNING 2000」でと対戦。 元と現役警察官の対決だったため、天田は暴走族を、ミルコは警官隊を引き連れて入場するというパフォーマンスを披露した。 なお試合は4RでミルコのKO勝ちであった。 6月3日にはのでの引退試合の相手を務める。 お互い決定打に欠けたが、手数で勝ったフグに判定負けとなった。 少年の頃からフグに憧れていたというミルコは、母国引退となるフグを笑顔で讃えた。 10月9日の「K-1 WORLD GP 2000 in FUKUOKA」では、準々決勝でに判定勝ち、準決勝で天田ヒロミに判定勝ちを収めた。 このトーナメントのファイナリスト2人が12月の決勝戦へと出場できるため、すでに出場権を手に入れていたミルコは、準決勝で怪我をしたこともあり決勝では無理をせず1R終了後に自らタオル投入によるTKO負けを選択し、決勝の相手マイク・ベルナルドにリベンジを許した。 12月の「K-1 WORLD GP 2000 決勝戦」では準々決勝でアーネスト・ホースト相手に延長まで持ち込むものの、終始試合をリードされ0-3で判定負けに終わった。 これ以降両者の対戦は実現せず、ミルコは1勝も挙げることはできなかった。 1月30日、「K-1 RISING 2001」でに2RKO勝ち。 3月17日、「K-1 GLADIATORS 2001」の戦では、序盤にハイキックとパンチのラッシュでめ込むも、後半は膝蹴りを受けスタミナ切れを起こし失速。 最後はクリンチ合戦となった末、ミルコが辛くも競り勝ち2-0で判定勝利を収めた。 6月16日、「K-1 WORLD GP in MELBOURNE」ではトーナメント初戦でと対戦。 相手を格下と見て、試合中に腕を回すなどの挑発行為や余裕な態度をとったが、クリンチをして密着した状態でマクドナルドが放ったパンチを顎に受けてグラついてしまいそのままラッシュを受けて1RKO負けし、まさかの初戦敗退となった。 K-1・総合ルール両立時代 2001年8月19日、「K-1 ANDY MEMORIAL 2001」にて、K-1ととの対抗戦に身を投じることとなり、3分5Rの MMA ルールで猪木軍のエースと対戦する。 試合は下馬評を覆して、藤田のタックルに膝蹴りを合わせ大流血に追い込み、ドクターストップによるTKO勝ちを収めた。 後にミルコはこの勝利が大きな転機となったとコメントしている。 10月8日、「K-1 WORLD GP 2001 in FUKUOKA」の敗者復活トーナメントに出場予定だったが、9月11日の発生の影響で、当時警察官だったミルコは国内待機となり、GP出場は断念したものの、11月3日、で初参戦を果たした。 藤田戦と同じルールでのとの対戦は、高田が試合序盤でミルコにローキックをカットされ右足踵骨を骨折したためリングに腰を降ろしてグラウンドに誘う作戦に出たが、ミルコはこれを拒否し続け、のまま試合は終了しドローとなった。 ミルコは試合後、激怒し「気分が悪い。 高田はチキンだ。 」「藤田は本物のファイター。 高田は偽者のファイター。 」と罵倒している。 しかし、後のPRIDEの大会等で記者達から高田が足を骨折していたことを知ると謝罪に近い言葉を述べているようにお互いのわだかまりはなくなっている。 そして12月31日、「」にてプロレスラーと総合格闘技ルールで対戦し、試合開始から21秒後には左ハイキック一撃で永田をリングに沈め、「 プロレスハンター」と呼ばれるようになった。 1月27日、「K-1 RISING 2002」に出場。 K-1ルールでに1RTKO勝ち。 3月3日の「K-1 WORLD GP 2002 in NAGOYA」では前年GP王者と対戦。 試合序盤はハントを翻弄し、3Rに左ハイキックでダウンを奪う。 後半はハントのプレッシャーや打撃により逆襲を受ける展開となってしまうが、その反撃をかわし切り判定で勝利した。 試合後には笑顔一つも見せずにハントの祝福にも首を振っていたが、この勝利を以って改めて「K-1王者になりたい」とミルコは語った。 その一方で総合格闘技への本格的な挑戦も語った。 そして、4月28日のではMMA4戦目でPRIDEミドル級王者と対戦。 ルールは3分5R判定なし、グラウンドでの膠着はブレイクの後スタンドからのリスタートという、MMA経験の浅い当時のミルコに配慮した特別ルールとなった。 また両者の体重差に配慮して98kg契約だったが、計量時はミルコよりもシウバの方が体重を上回っていた。 この試合は「K-1vsPRIDE 頂上決戦」と評された。 ミルコの左ミドルキックがシウバの脇腹を抉り、紫色に腫れ上がらせた一方、シウバもミルコから数度のテイクダウンを奪い、スタンドでも手数で上回っていた。 試合は規定によりドローに終わる。 再びK-1ルールに舞い戻り、7月14日の「K-1 WORLD GP 2002 in FUKUOKA」では、のちのGP王者にパンチの連打で2RTKO勝ちし、GP本戦の切符を手に入れた。 8月28日、「」でと対戦。 ルールはミルコにとっては初めての5分3R制のPRIDE特別ルールとなった。 なお、体重は20kg近くミルコが重かった。 2Rには桜庭にテイクダウンを奪われたものの、脱出の際の顔面への蹴り上げで桜庭の右目が腫れ上がり、眼窩底骨折の疑いでドクターストップがかかりTKO勝利となった。 その後を理由に「K-1 WORLD GP 2002」を欠場、長期休暇を取ったこの間に長年交際してきた女性と結婚している。 大晦日には「」にて藤田和之とMMAルールで再戦し、危なげない試合運びで返り討ちを果たした。 3月30日の「K-1 WORLD GP 2003 in SAITAMA」で当時人気絶頂にあったと対戦。 体格差に押されるシーンが多かったがフットワークでいなし、左ミドルからのワンツーでミルコのKO勝利。 勝利直後、普段はKO勝利してもクールなミルコにしては珍しくリングサイドに駆け上がり、雄たけびを上げた。 風邪を引いて高熱でコンディションが悪く、母国クロアチアでは衛星生中継されている重圧から開放されてうれしかったと後に語っている。 試合後、サップは右眼窩内側壁骨折および右眼窩壁骨折と診断された ため、ミルコは記者から「目を狙ったのか?」という主旨の質問を投げかけられたが、本人は「お前の目はいったいどこを見ていたんだ?」と答えた。 これを境にミルコはK-1、キックボクシングからしばらく離れる。 PRIDE 2003年6月8日、からPRIDEシリーズに本格参戦。 当時のPRIDEヘビー級3強の1人と言われたと通常PRIDEルール 1R10分、2・3R各5分 で対戦、強烈な左ミドルキックからのパウンドでTKO勝利。 試合後、ミルコはエメリヤーエンコ・ヒョードルが保持するPRIDEのヘビー級タイトルへの挑戦を宣言。 8月10日、「」でに強烈な左ハイキックで1R1分29秒KO勝利。 ヘビー級タイトルマッチへの挑戦を決定的なものとした。 10月5日には「PRIDE武士道」に参戦。 自らこの試合をタイトルマッチのためのクールダウンと称し、に左ハイキックで1R46秒でKO勝利。 11月9日、「」ではとの対戦を迎えた。 本来ならこの大会でヒョードルとのタイトルマッチが行われるはずだったもののヒョードルの怪我により暫定王座決定戦となっていた。 1Rはミルコが打撃で圧倒し、終了間際に左ハイキックを放ち、完全な形ではないがヒットさせてノゲイラからダウンを奪った。 2R開始直後、初めてテイクダウンを奪われるとパウンドを浴びて、グラウンドの展開から脱出しようとした際にノゲイラにを極められてしまいタップアウト負け。 これにより総合格闘技での無敗記録がストップした。 試合後のセレモニーで、暫定王者のベルトを与えられるノゲイラの姿を見つめながら、ミルコはリングの片隅で涙を浮かべていた。 大晦日には「」に出場しと対戦予定だったが、直前になって出場をキャンセルした。 2月1日、でと対戦。 序盤からいきなりテイクダウンを奪われるも、スタンドに復帰後すぐさま左ハイキックでダウンを奪い、を浴びせてKO勝利。 2週間後、2月15日の「」ではにTKO勝利する。 4月25日、「」のPRIDEヘビー級GP1回戦でと対戦。 満を持して臨んだトーナメントで、ミルコを優勝候補に挙げる声も多かったが、1R1分57秒、左フックからのパウンドでまさかの失神KO負けを喫した。 トーナメントから早々に脱落したミルコはワンマッチでの出場を続け、5月23日の「」ではに粘られるも判定勝利。 7月19日の「」ではと対戦。 左アッパーでKO勝利。 8月15日の「」ではPRIDEヘビー級王者ヒョードルの弟のと対戦、20キロ以上の体重差を問題にせず左ハイキックでKO勝利。 観衆はミルコの鮮烈な復活劇を歓喜で迎えた。 この勝利により、ミルコはようやくPRIDEトップ戦線への返り咲きを果たした。 10月31日、での第10代パンクラス無差別級王者・元世界ヘビー級王者と対戦。 「最後の大物」とも呼ばれたバーネットとの対決は、ファンの期待を大いに高めたが、1R46秒、バーネットの左肩の脱臼によるにより、勝利するも消化不良のまま終わった。 12月31日の「」ではケビン・ランデルマンと再戦、で一本勝ちを収め、リベンジを果たした。 2月20日、でと対戦。 コールマンのタックルを完封し、1R3分42秒右アッパーでKO勝ちし、PRIDEヘビー級王座への挑戦権を獲得。 6月26日には「」でヒョードルと同門のと対戦し、左ミドルキックでKO勝利。 見事に前哨戦を制した。 8月28日、「」でついにの持つヘビー級王座に挑戦。 「21世紀最初の世紀の一戦」と評されたこの試合でヒョードルはオランダのルシアン・カルビンの元で特訓した打撃で攻め込み、ミルコはバックステップで下がりながらも打撃をヒットさせるが、1R中盤にテイクダウンを奪われるとそこから一気にヒョードルペースとなる。 2、3Rはスタンドでもヒョードルにリードされた。 ミルコはヒョードルの攻撃にで耐えたものの、ヒョードルの優位は動かず判定0-3で敗れ、王座獲得に失敗した。 10月23日、でと再戦。 「ミルコには間合いを空けずプレッシャーをかけ続ければ良い」という持論をバーネットが実践、打撃が思うように出せず劣勢に立たされる。 終盤にスタンドでパンチを集めることに成功し、3-0で判定勝利を収めた。 大晦日は「」において、2004年からPRIDEへ参戦したとのストライカー頂上対決が組まれるも足首の負傷と体調不良による高熱により序盤から調子が上がらず、ハントに主導権を握られる。 左ハイキックを完璧にヒットさせる場面もあったが、結果1-2で判定負けを喫し、K-1時代のリベンジを許してしまった。 判定ではジャッジの1人がミルコに票を入れるが、会場からはブーイングが沸き起こった。 足首の負傷のためかこの試合ではミルコにしては珍しくレスリングシューズを履いて試合を行った。 5月5日、「」に出場し、1回戦でに1R1分10秒、パウンドでTKO勝利。 2回戦となる7月1日の「」では、日本重量級のエースと対戦し、ローキックによるTKO勝利。 9月10日のでと4年ぶりに再戦。 シウバのパンチを殆ど見切り、更にシウバを右眼負傷に追い込み、左ハイキックで失神KO勝利。 因縁の再戦を完全勝利で収めた。 この試合は、「ファンが選ぶ2006年ベストバウト&MVP」のベストバウトにて1位となった。 続く決勝ではを準決勝で破ったと3度目の対戦。 序盤から圧倒しボディブローでダウンを奪うとインサイドガードから鉄槌・パウンドを連打。 この時の攻防でミルコの手がバーネットの眼に当たり、一時的に視力を失ったバーネットがタップアウト。 アクシデントも手伝ったが、内容は一方的なものであり、バーネットは「今日はミルコのための夜だった」と讃えた。 自身の32歳の誕生日に初めてのメジャータイトルを戴冠し、リング上で男泣きするミルコの姿に、会場からは暖かい拍手が送られた。 優勝により、の持つPRIDEヘビー級王座への挑戦権を手にしたものの、UFC移籍のため行使することはなかった。 前述の「ファンが選ぶ2006年ベストバウト&MVP」のMVPにて、ミルコは2位に選ばれた。 UFC・DREAM 試合中のミルコ 12月30日、米国の総合格闘技団体への参戦を表明し、PRIDEから離脱した。 2月3日、でと対戦。 ミルコの打撃を警戒するサンチェスを追い込み、1RマウントパンチによるTKOで勝利し、アメリカ進出は白星デビューとなった。 4月21日、勝てばタイトルマッチといわれたのとの対戦ではミドルを掴まれてテイクダウンを許した後グラウンドで頭部へ何度も肘打ちを受け続け、最後は右ハイキックを被弾し失神KO負けを喫した。 試合後には、スタンドに戻った際にすでにグラウンドでの肘打ちにより大きなダメージを受けていたことや、UFCのルールへの対策が甘く、肘打ちに対する防御の練習を怠っていたことを語った。 9月8日のでと対戦。 序盤は優勢に試合を進めるも、中盤からはローブローも重なって急激に失速。 最終的にコンゴに巻き返される形となり、0-3の判定負けを喫した。 この時期からたび重なる怪我と手術の影響により、PRIDEの時のようなキレのある動きができなくなってしまう。 は一端UFCを離れ、日本の新団体に参戦した。 3月15日の旗揚げ戦でと対戦し、開始55秒TKO勝ち。 次いで6月15日、でと「グラップリング・チャレンジマッチ」で対戦予定であったが、ミルコが遺恨のある練習パートナーのと実戦練習した際に両者がヒートアップして事実上の喧嘩に発展し、両者ともに大怪我をするという自体が発生。 アイブルはアキレス腱を断裂し、ミルコは右肘靱帯を亜脱臼してしまった。 ミルコはその状態のまま練習を続けたため、さらに右肘の状態を悪化させてしまい、結果ハレックとの試合前にドクターストップ。 急遽欠場となる。 その後、にも出場予定となるが、怪我の回復が間に合わず欠場となった。 この怪我により、のちにUFCで対戦するが対戦前にミルコを研究していた時に、「ミルコは右のパンチがある時期を境におかしくなっている。 何か大きな怪我でもしたんじゃないか。 」と語るように、ミルコはその後パンチの能力が落ちていくこととなる。 9月23日、でと対戦するが1R6分9秒、アリスターの膝蹴りが何度も下腹部に入り、ミルコが悶絶。 数分間の回復時間が与えられ試合は再開されるが、再度アリスターの膝蹴りがミルコの下腹部に入り試合続行不可能となりドクターストップ。 審議の結果、アリスターの下腹部への攻撃は故意ではなかったという判断によりノーコンテストとなった。 2008年12月31日、でとDREAMルールで対戦。 両者にイエローカードが提示されるほど両者とも手が出ない試合となったが、試合序盤からミルコが何度も放っていたローキックが徐々にホンマンの足にダメージを与えており、1R開始6分を過ぎた頃にミルコの左ローキックでホンマンが崩れ落ちてKO勝ちを収めた。 この試合の序盤にミルコは左ハイキックを挨拶代わりに繰り出したが、ガードはされたもののミルコの左ハイはホンマンの顔面にも届くことを見せ付けた。 6月13日、で開催されたでと1年9か月ぶりのUFC復帰戦を行い、スタンドパンチでTKO勝ち。 2009年9月19日、でと対戦するも打撃で圧され、3Rに膝蹴りと目へのアッパーで一時的に失明状態に陥り、ギブアップ負け。 試合後、引退を示唆する発言をした。 サントス戦から半年~1年後、バリー戦前にミルコはGONG格闘技の特集やMMA Weeklyなどの海外格闘技系のサイトのインタビューで、この頃の自身のコンディションを振り返る機会があった。 その際には、「俺の膝は2008年頃から完全に壊れていた。 膝の手術だけで(PRIDE後期から2009年頃までに)3度受けたが、アルターク戦でも蹴りをまったく出さなかったように、あの時期は術後で膝がまだ治っていなかった。 ドス・サントス戦でも膝の状態が完全に治っておらず、医者に試合を行うことを止められたし、蹴りを打つことも禁止されていた。 (このような状態で)サントス戦を受けたのは良い判断ではなかったかもしれないが…、でも俺はファイターだから良いコンディションじゃなくても競い合いたいし、戦いたかったんだ。 」と明かしている。 サントス戦では医者に禁止されていた蹴りを放ったが、その際に激痛を感じてその後は何度も蹴るのはやめたという。 それほどミルコの膝の怪我は深刻になってきており、足だけではなく腕や脳へのダメージも含めて、長年の戦いにより体中がボロボロになっていたと述懐している。 2月20日、で開催されたでと対戦予定だったが、ロズウェルが現地に到着後、ウイルス性胃腸炎にかかってしまい急遽欠場。 代わりに急遽呼ばれた代打のと対戦。 2Rにグラウンドでの肘打ちでペロシュの額をカットさせ、2R終了時にドクターストップによるTKO勝ちとなった。 2010年6月12日、でと対戦。 1Rにバリーのパンチで2度ダウンを奪われるも、3Rにパンチでバリーをぐらつかせてダウンを奪うとそのまま背後からバリーにチョークを仕掛け、チョークスリーパーで一本勝ち。 試合後のマイクでは「(UFC代表の)よ、私に『サブミッション・オブ・ザ・ナイト』をくれ。 」とアピールし、サブミッション・オブ・ザ・ナイトを獲得した。 2010年9月25日、で怪我をしたノゲイラの代わりにと対戦し、3Rに右膝蹴りでKO負け。 3月19日、でと対戦し、互角の展開となっていたが、3Rにミルコのローキックにシャウブのカウンターのパンチが入り、ミルコがダウン。 3RKO負けを喫した。 2011年10月29日、でと対戦した。 UFCとの契約満了を迎える試合であり、2ラウンド序盤にラッシュで攻めるなど打撃で押す場面もあったが、3RにバックマウントパンチでTKO負けを喫し、試合後に引退の意思を表明した。 キックボクシング復帰・IGF UFC 137から約1ヵ月後の12月、キックボクシング復帰を表明し、「俺が最初に始めたスポーツはK-1だった。 俺にとっては初恋の相手だし、K-1の方が魅力的でクロアチアのファンに合ってると思う。 俺の闘いの炎は永遠だ」と言って自身の引退も否定した。 3月10日、母国ので開催されたにてキックボクシング復帰初戦を行い、に3R判定3-0で勝利。 なお、大会名が「Cro Cop Final Fight」となっているものの、この試合は引退試合ではないことをミルコ本人も大会前の記者会見で明言しており、さらに「今年K-1 GPが開催されるなら出場したい」と意欲を見せていた。 2012年5月27日、K-1 RISING 2012~K-1 WORLD MAX FINAL16 2012~でと対戦しKO勝ち。 2012年10月14日、で24戦全勝の新鋭とグランプリ1回戦を行い2-0の判定勝ち。 2012年12月26日にニューヨークで行われる決勝トーナメントに駒を進めた。 その後、決勝トーナメントは翌年の3月15日に延期されることになり、開催地はミルコの母国であるのに変更された。 3月15日、K-1の決勝トーナメントであるでは、1回戦でジャレル・ミラーに判定勝ちで降し、準決勝ではパヴェル・ズラリオフに判定勝ち。 決勝ではイスマエル・ロントと対戦し2Rに得意の左でダウンを奪い判定勝ちを収め、かつてのK-1ではなく運営が変わり規模が縮小された新生K-1ではあるが、ミルコの夢であった悲願のK-1初優勝を母国クロアチアで成し遂げ、ミルコはリング上で涙を流した。 11月9日にロシアで行われたLEGEND. 2で総合ルールでと再戦予定だったが、アレキサンダーが欠場し、代役のと対戦。 を仕掛けた際にパスガードされ、そのままで一本負け。 その後、キックボクシング団体と契約。 翌年の3月8日、母国クロアチアのアレナ・ザグレブで行われたGLORY14 ZAGREBにて、GLORY初参戦。 レミー・ボンヤスキーと再戦し2-0で判定負け。 2014年6月21日、GLORY 17でジャレル・ミラーと再戦。 判定で勝利し、GLORY初勝利を飾った。 2014年8月23日、INOKI GENOME FIGHT2で総合格闘技に復帰。 と対戦し、1Rに下から肘打ちを放った際に石井がカットしてしまい、その後試合は続行するも出血がひどく2Rドクターストップ勝ち。 となった。 2014年12月31日、INOKI BOM-BA-YE 2014で石井と再戦し、2R終了間際に左ハイキックをヒットさせてそのままパンチラッシュで石井を攻め立て、インターバル中も石井が立ち上がれなかったためにTKO勝ちを収めた。 後にUFCと再び契約したために王座を返上した。 この後石井とは親交を深め、石井は彼の弟子になってクロアチアに練習拠点を移す。 UFC復帰、引退 4月11日、 でヘビー級ランキング14位のと再戦。 3Rにクリンチ際での肘打ちでゴンザーガをグラつかせ、グラウンドでの強烈な左肘及びパウンド連打でTKO勝ちを収め、8年前のリベンジを果たした。 ファイト・オブ・ザ・ナイトを受賞。 2015年11月28日ににてアンソニー・ハミルトンと対戦する予定になっていたが、USADA(全米アンチドーピング機関)のアンチドーピング規定に違反したために出場停止の仮処分を科された事が判明した。 それにより11月10日にミルコは自身の公式サイトで、アンチドーピング規定に違反したからではなく、肩の怪我が深刻なため現役を引退すると発表した。 また、処分に対しては「検査結果はまだ出ていない」とし、「肩に問題が起きた時、基本的な治療法はマッサージとアイシングだが、全然良くならなかった。 それから肩を早く治すために血漿との注射をすることにした。 成長ホルモンが禁止薬物のリストに入っていることは知ってたが、肩を治す方法が他には無かった。 ほんの少量だった。 欠場して休むことが一番良いことは分かっていたが、ヤケクソになった男は何でも試そうとするものだ。 成長ホルモンと血漿の注射をした6日後にUSADAの検査をすることになった。 血液と尿のサンプルが取られた後にすぐにUFCに報告した。 血漿と成長ホルモンのことも言った。 」「強くなるためにテストステロンやアナボリックステロイドを使ったことなどない。 それがルールだから。 金曜(6日)まで試合をキャンセルしたくないと言っていた。 (4月の)ガブリエル・ゴンザーガ戦のときも5回テストを受けて、すべての結果をクリアした。 土曜(7日)まで試合をするつもりだった。 月曜(9日)のMRI検査で筋断裂と腱損傷が分かり、(引退を)決断した」と説明した。 2015年11月25日、USADAがミルコに2年間の出場停止処分を科したと発表し、11月4日にザグレブでミルコに競技外検査を実施した時に、ミルコ自らヒト成長ホルモン(hGH)を使用したと申し立てがあったためと、処分の理由を説明した。 後日、クロアチアの新聞社Vecernjiが、2016年1月8日にミルコがUSADAのCEOトラビス・タイガートから薬物検査の結果が全て陰性だったとことを報告するメールを受け取っていたことを報道した。 ただし、薬物検査の結果に関わらず、2015年11月4日に実施した抜き打ち検査の際にミルコ本人が肩の治療のためにヒト成長ホルモンの使用と所持を認めているので、違反薬物の使用と所持を禁じているアンチドーピング規定に違反しているとして、2年間の出場停止処分が軽減又は変更されることは無かった。 RIZIN 2016年7月16日に行われたの記者会見にてRIZIN無差別級グランプリに参戦が決定。 引退撤回について「それまで全てのオファーを断ってきたが、榊原さんのオファーを受けて最後に日本でやろうと思った」とコメントした。 2016年9月26日 さいたまスーパーアリーナで開催されたにて無差別級グランプリの1回戦として代表のミョン・ヒョンマンと対戦し肩固めで一本勝ち。 試合後、マイクパフォーマンスでヴァンダレイと対戦する意思を語り、高田延彦からの呼びかけに「ヤル!」と答え、ヴァンダレイもリングに上がり「ヤッテヤル!」と答え、対戦が決定するが、ヴァンダレイは交通事故の怪我の回復が思わしくないということで欠場し、実現しなかった。 2016年12月29日、にて無差別級グランプリの2回戦として、欠場したヴァンダレイの代役としてエントリーした前年のヘビー級グランプリ王者と対戦。 1Rにテイクダウンを奪われるものの、2Rにクリンチアッパーを効かせてからのパンチ連打でダウンを奪い、パウンドでTKO勝ち。 2016年12月31日、にて無差別級グランプリ準決勝としてと対戦。 クリンチ状態からのボディへの膝蹴りでKO勝ちし、グランプリ決勝へ進出。 続く決勝戦ではと対戦。 カウンターの左フックでダウンを奪い、最後は左フックでKO勝ち。 見事優勝を果たし、10年前にPRIDE無差別級グランプリ2006で優勝した時と同じように、涙を浮かべた。 母国クロアチアでは29日のキング・モーとの試合で46. 2018年5月25日、Bellator 200にてロイ・ネルソンと再戦が決まっていたが左足前十字靭帯を損傷し、手術を受けたことにより欠場。 このためイリー・プロハースカとの対戦を予定していたも出場が見送られた。 Bellator MMA 2月16日、初参戦となったBellator 216でと約8年ぶりに再戦し、3-0の判定勝ちを収め、リベンジに成功した。 現役引退 2019年3月2日、トレーニング中に頭痛が続き医師の診断を受けたところ、脳内血管から微量の出血痕が確認されと診断を受けたため、現役引退を表明した。 本人は「今まで何度もこれが最後だと言い続けながらカムバックしてきたが、これが本当の終わり」「再び頭に衝撃を受けることはできない。 これが現状」とこれについてコメントした。 警察官時代は""という対策に所属していてその傍ら格闘技で活躍していた(クロアチア警察の格闘技教官も担当)。 パトロール中に街角で喧嘩をしている集団を見つけ、割って入ったところ、そのうちの1人が「お前はミルコ・クロコップに似ているな」と仲間と一緒に散々にからかった。 それに対して「本人だよ」と答えたところ全員が一斉に顔色を失い、駆けつけた護送車に大人しく乗り込んだという。 クロアチアでは国民的な人気があり、やの主役になっている。 愛国者としても知られ、11月23日に投開票されたクロアチアの総選挙にクロアチア社会民主党から出馬し初当選。 国会議員として4年間活動した。 また、2月13日に、当時の日本の内閣総理大臣と面会している。 、クロアチアのクラブ「」へ入団。 として公式デビュー している。 ツィバリア・ヴィンコヴツィはミルコの好きなチームであり、「このチームでプレーできて嬉しい。 」と語っている。 また、自分の息子に対してはサッカー選手になってほしい、格闘家にはあまりなってほしくないと語ったこともある。 夫人は、サッカーのフランス大会で得点王となったクロアチア代表の妹である。 日本、K-1、キックボクシングへの愛着は深い。 K-1に対しては2003年のPRIDE移籍時にちょうど谷川モンスター路線(詳細はの項を参照)が始まった時期ということもあり、「一日で3試合も戦うトーナメントなんてトーナメントの組み合わせの運で優勝が決まるから誰が本当に強いのかが決まらないし、身体を壊すためにやるようなものだ」「身体がでかいだけだったり、話題性があるだけでキック経験の浅い奴ばかりが参戦するようになった今のK-1は俺の命を懸けて戦いたいと思える場所じゃない」などと苦言を呈していたが、UFC参戦中の2009年にクロアチアのメディアに対して「俺の引退試合はK-1の大会でK-1ルールでしたいし、俺は日本から選手として始まったから最後の試合も日本でやりたい」と語っている。 また、2012年のキックボクシング復帰の際にも「俺が最初に始めたスポーツはK-1だ。 俺にとっては初恋の相手だし、K-1の方が魅力的でクロアチアのファンに合ってると思う」と語っている。 が好き。 PRIDE時代、試合前は「ベラ」というクロアチアのゲームへ興じるのが慣例となっていたと、代理人であるがのインタビューで明かしている。 に敗戦した直後、クロアチアのテレビ番組に出演した際、ノゲイラを侮辱的に扱うジャーナリストを厳しく批判した。 プライドが高く、負けず嫌いな性格であり、トレーニングの為に日本に滞在していた時は、トレーニングを兼ねて自転車でジムメイトと軽く競争した時は、ムキになってしまったと語っている。 戦いぶりなどから、冷徹な印象を持つファンも少なくないが、リング外ではジョークやユーモアを好むひょうきんな一面を持つことで知られ、取材に訪れた記者たちに手の込んだドッキリを仕掛けることもある。 facebookに空港でポケモンGOに熱中している動画をアップロードし、RIZINの記者会見で「ポケモンGOをやっていたらそのまま日本について六本木で榊原さんにばったり出くわしてオファーを受けたから参戦を決めた」というジョークを言い会場を笑わせた。 なお、その後、「ポケモンGOはやっているフリで注意喚起のためにアップロードした」とコメントしている。 ファイトスタイル 打撃 K-1初登場当時の1996年は、恵まれた筋肉の柔軟性や身体能力の高さは窺えたものの、その他にはさして光るものを持たなかったミルコだが、3年のブランクを経て復帰した1999年には攻撃に多彩さが増し、ミルコの代名詞といえる左ハイキックも積極的に使うようになった。 しかしこの頃もっとも冴えていたものはクリンチワークであり、KOを奪えない相手にはクリンチで相手の攻撃をしのぎ、その合間に打撃を打ち込んでポイントを稼ぐというのが、ファイトスタイルの基本となっていた。 総合格闘技への参戦が始まると、ミルコは急速な体のビルドアップに成功し、徐々に一撃必殺に傾倒していくようになる。 ミルコのファイトスタイルはボクシングを元にテコンドーやキックボクシングをオリジナルアレンジした物であり、試合中に放つ打撃の数は極端に少なく、ジャブは殆ど打たずに、利き手利き足(ただし右利きのサウスポーであるため本来の利き手とは逆である)での打撃に終始する。 右腕はラッシュをかける時以外は、ディフェンスや距離を稼ぐ時に伸ばす程度しか使用しない。 絶対の自信を持つ左ハイキックや、ミドルキックを放つまでに、その他を布石として使用する彼独自の戦法である。 主な例はミドルキックやローキックで相手の注意を下にさげさせ、ガードが下がった所に左ハイキックを打ち込む方法と、相手に自分のストレートの軌道を覚えさせ、ウェービングで相手の頭が傾いたところに合わせて左ハイキックを打ち込む方法がある。 特に後者は、まるで相手が自らミルコの足に当たりに行っているように見える。 ミルコの左ハイキックは高速で相手の視界の死角から足が急に現れる軌道のためかわされにくく、まさに一撃必殺の破壊力を持つ。 ただし、ミルコの打撃はある程度の間合いがないとその効果は発揮できず、プレッシャーを掛けて前へ前へと進んでくる相手を苦手としている。 しかし、近年は左の肘を使うようになり、シャウブ戦など相手が近づいた際には肘を放つようになり、それまで間合いの近い相手とは距離をとるだけであったが、これによって間合いの近い相手にも攻撃をするようになる。 また、追い足がないため、四角形で追い詰められるリングではなくサークリングできるゲージでは思うように打撃がヒットできないシーンも見られる。 また、調子の良し悪しにムラがあり、調子がいいときは打撃のキレが目に見えて鋭くなるが、逆に調子が悪いときは攻め方が単調になる。 また、打撃技に対してはガードをほとんど使わず、スウェーとステップワークでかわす。 また、ヘビー級選手とは思えないほど非常に素早く、ホーストがボブ・サップとの対戦で捕まえられてハンマーパンチを浴びたのに対し、ミルコはスピードとクリンチワークを生かして捕まえられることはなかった。 マーク・ハント、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラも「ミルコは素早かった」と認めていた。 一方でK-1時代から通して指摘されているのがスタミナ不足であり、本人もそのことを認めている。 かつては1Rでは高いKO率を誇るが、2R以降は口を開けて呼吸する姿が目立った。 これはK-1時代での鼻の怪我によって鼻呼吸が上手くできなくなってしまったものであり、しばらく処方された塗り薬を使っていたが、手術し改善された。 寝技・組技 ノゲイラ戦での逆転の腕ひしぎ十字固めによる敗北により、を柔術コーチに迎え入れ、ディフェンスは向上したが、基本的にひたすら守りに徹し、隙があれば突き放すだけであり、攻めにおいては積極的に仕掛けたりはしないが、ガブリエル・ゴンザーガ戦では、柔術の実力者であるゴンザーガのマウントから脱出の際に足関節を狙うなど、更に寝技のスキルがアップしている。 サブミッションスキルは高くないが、の状態でもバランスがよく、高いグラウンドスキルを持つジョシュも中々振りほどけなかったほどである。 組み技に対するディフェンスにも定評があり、特にタックルを切る技術の会得の早さには目を見張るものがある。 K-1参戦時から足を掴まれても倒されない腰の強さがあり、テイクダウンされてもすぐさまクロスガードを取るなど対応力もそろえている。 また、RIZINGPでは、ミョン・ヒョンマンから肩固めで一本勝ちし、その試合運びをから(柔術)茶帯を与えてもいいと評された。 獲得タイトル• IKBF 世界ヘビー級フルコンタクト王座• GRAND PRIX '99 準優勝• K-1 WORLD GP 2000 in FUKUOKA 準優勝• K-1 WORLD GP 2012 優勝• グランプリ2006 優勝• 第4代• RIZIN FIGHTING WORLD GRAND-PRIX 2016 無差別級トーナメント 優勝 表彰• ファイト・オブ・ザ・ナイト(1回)• UFC サブミッション・オブ・ザ・ナイト(1回)• ベストバウト(2006年)• ノックアウト・オブ・ザ・イヤー(2006年)• SHERDOG 殿堂入り(2014年)• ファイト・オブ・ザ・ディケイド• ファイト・オブ・ザ・ディケイド 出演 映画• アルティメット・フォース 孤高のアサシン CM• 2008年4月10日閲覧。 スポーツナビ 2003年3月29日• 「タイガー」はシカティックの持つ道場名「」に因んでいる。 スポーツナビ 2003年4月2日• DREAM公式サイト 2008年6月9日• BoutReview 2008年9月24日• MMAPLANET 2009年6月14日• MMAPLANET 2009年9月20日• MMANEWS 2009年9月21日• MMAPLANET 2010年2月22日• MMAPLANET 2010年6月13日• MMAPLANET 2010年9月26日• MMAPLANET 2011年3月20日• 2011年10月30日. 2011年10月30日閲覧。 MMAFighting 2011年12月9日• Fighters Only 2012年1月25日• 2014年8月23日. 2014年8月24日閲覧。 デイリースポーツ 2015年11月13日• eFight 2015年11月23日• MMA FIGHTING 2016年9月10日• eFight 2016年12月20日• 2017年1月17日• eFight 2018年5月22日• 2018年5月29日• 日刊スポーツ 2019年3月2日• スポーツ報知 2019年3月2日• 日刊スポーツ 2019年3月2日17時59分(日刊スポーツ新聞社、2019年3月20日閲覧)• スポーツナビ 2004年4月11日• BoutReview 2004年2月12日• スポーツナビ 2004年11月18日• スポーツナビ 2004年2月5日• dnevnikでのインタビュー 2009年2月24日• 関連項目• 外部リンク• crocop1009 -• - のプロフィール (英語).
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