とが主演を務めた95年のテレビドラマ「愛していると言ってくれ」(TBS系)の2020年特別版が6月21日に全4回の放送を終了した。 胸を打つ最終回に、ネットは感動の嵐で、「トヨエツロス」になったなどという声も飛び交う好評ぶりだった。 その一方で、当時を知らない視聴者の間で、同ドラマのオープニングが刺激的だったと話題になっている。 「ドラマのオープニングクレジットでは、豊川と常盤がDREAMS COME TRUEの『LOVE LOVE LOVE』にのせながら、マッパ姿で水の中にいるシーンが流れます。 これにはネットで『どうしても胸に目がいってしまう』『でけぇぇぇ!!』『見えそうで見えないバストがたまらない!』と大きな反響を呼んでいます」(テレビ誌記者) 今回、一部地域の放送ながら、ドラマの話題はツイッターでもトレンドにあがり、スタイル抜群の常盤にも興奮する視聴者が相次いだ。 そんな中、この反響によって再放送が熱望されているのが、93年に放送された伝説のドラマだという。 「今回、常盤のバストに注目が集まったことで、彼女が『愛していると言ってくれ』の2年前に出演したドラマ『悪魔のKISS』(TBS系)を見たいと熱望する視聴者が殺到しています。 というのもこのドラマで常盤は、ピンク嬢役で出演した際に豊かなバストを晒す体当たり艶技で伝説となっているのです。 しかし、5月19日の『NEWSポストセブン』によれば、『悪魔のKISS』の再放送は彼女の所属事務所が前向きでないという理由で実現できず、DVD化すらされていないそうです」(前出・テレビ誌記者) だが、常盤といえば先日、海外にてタオルなしで混浴の温泉に入った過去の経験をバラエティで語り、話題となった。 肌見せに抵抗がないのであれば、ぜひ本人の力で「悪魔のKISS」のソフト化を進めてもらいたいところだ。
次の晃次の優しさ、健ちゃんの温かさ、素晴らしいドラマだと思いますが、今見返してみると、紘子のワガママと不安定さにいまいち共感が出来ませんでした(20年前は多分そうは思わなかったのでしょうが)。 晃次と元カノの関係にいちいち大騒ぎ、事実関係を確かめることもせずに泣きわめく、彼の説明にも耳を貸さず、「手話を見るのが疲れた」「声に出して愛してるって言って」など酷い言葉を投げつける。 そして自分のことを好きな幼なじみを頼る・・・彼が元カノと話しているのを見掛けるだけで「許せない」というのに、自分はいつも男を頼る・・・。 見ていて晃次が気の毒でした。 紘子は喜怒哀楽と思い込みが激し過ぎ。 ドラマクイーン振りに疲れました。 それがなければ「ドラマ」にならないのでしょうが・・・。 生瀬勝久や麻生祐未、吉行和子の若い頃を観るのは楽しかったです。 余貴美子も綺麗です。 当時はとにかく豊川悦司の美しさ、たたずまいのカッコよさにばかり気がとられており、ストーリーや人間関係それぞれの役の性格や物語の背景には気が回っていなかった、井の頭公園や吉祥寺の懐かしい風景、お店などそれだけで郷愁を感じるし、スマホの便利さとはかけ離れたFAXや手紙、そして公衆電話、自動販売機など、もどかしさの中に人々の感情の機微が詰まっている丁寧に作られたドラマだと思う、確かに常盤貴子演じる紘子の無邪気な残酷さや天衣無縫で無鉄砲な振る舞いは失笑する感じでもあるが、それがこのドラマの良さでスパイスだったのかも。 若さはそれが許されるのだと歳を重ねて、微笑ましくそして羨ましくも思える。 豊川悦司演じる晃次は、今をときめく佐藤健のカッコよさを凌駕する哲学的な美しさで、30代であの深さと憂いを表現できる役者は今となっては他にいないと思う。 全体的に文学的な匂いのするドラマで何度見ても飽きない。 脇を固める役者も名優ぞろいで贅沢なTBSらしい素晴らしい作品だと思う。
次の25年前の大ヒット作、「愛していると言ってくれ」が5月31日(日)から4週にわたり関東地区で再放送中(日曜午後2時~)である。 女優を目指す水野紘子(常盤貴子)と聴覚障害をもつ画家・榊晃次(豊川悦司)の声でコミュニケーションできない純愛は回を増すごとに視聴者を巻き込んで、本放送当時、高視聴率を獲得した。 そして2020年の今、25年前の作品にもかかわらず、再放送もSNSを中心に大きな盛り上がりを見せている。 貴島は自身の作品をヒットさせていくだけでなく、のちに「逃げるは恥だが役に立つ」(以下「逃げ恥」)の演出家・土井裕泰や日曜劇場「半沢直樹」の演出家・福澤克雄、「SPEC」シリーズのプロデューサー植田博樹を育てた。 「SPEC」も6月11日から深夜に再放送されることが発表されるとSNSが沸いた。 「愛している~」も「SPEC」もたくさんの視聴者に愛されるドラマなのである。 貴島のもとでプロデュースのノウハウを学んだ植田が弟子として師匠に90年代のドラマ制作の裏側について聞くスペシャル企画。 貴島のおかげで「ケイゾク」ができたという意外な真実も……。 愛されるドラマはどうやってできるのか 25年ぶりの再放送、メンツがすごい 植田博樹(以下 植田):「愛していると言ってくれ」の再放送が決まった経緯はどういうものですか。 貴島誠一郎(以下 貴島):ゴールデンウイーク明けーー5月8日ぐらいですかね。 編成部(放送する番組を決める部署)から連絡があって、12本全部再放送したいから、脚本家の北川悦吏子さんの了解を取ってくれというところが始まりですね。 植田:95年に生まれた「愛していると言ってくれ」という名作を、今この2020年にかけるとは粋な計らいだなと僕的にはうれしかったです。 貴島:「四半世紀前のドラマでいいの?」と僕も驚きましたよ。 コロナ禍のご時世で、再放送できる比較的新しいドラマがすでに放送されてしまったことと、メインの出演者が法に触れるような行為をした場合再放送し辛いということなど、諸条件を考えたとき、たまたまのご指名だったのでしょうけれど、せっかくそう言われたのなら、何としても各所了解を取ってやるしかないと。 植田:今見ると、そうそうたるメンツですよね。 当時、豊川悦司さんはまだ知る人ぞ知る存在でしたよね。 貴島:豊川さんは「NIGHT HEAD」(92年 フジテレビ系)や映画「12人の優しい日本人」(91年)で頭角を現してきたところで、「愛していると言ってくれ」でブレイクというか、幅広く認知されたと思います。 キャスティングの妙みたいなことで言うと、当時は、新しい人を入れたいという思いは強かったです。 自分のチームというか自分の家を建てるためには、新しいキャストでやっていきたくて、フジテレビに頻繁に出ている俳優、あるいは、先輩の八木康夫プロデューサーのドラマに多く出ている俳優とは違う人を探しました。 例えば、矢田亜希子さん。 彼女の役は当初、大学生の設定だったんですよ。 豊川さんが演じる榊晃次の設定が32~33歳だとすると、妹役があまりに年齢が離れているわけにはいかないと思って、女子大生や社会人1年目のOLができる俳優を探しました。 そこへたまたま、内田有紀さんをスカウトした敏腕のマネジャーさんが「貴島さんに紹介できるような子が見つかった」と連絡をくれまして。 それが矢田さんだった。 原宿でスカウトしたらしく、ルーズソックスを履いていました。 16歳、高校3年生くらいだったでしょうか。 すぐ台本の読み合わせをしたら、テレビドラマの台本を初めて見たと言うほど初々しかった。 そこが良くて、北川悦吏子さんに年齢設定を4つ、5つ下げてもらいました。 植田:その抜てきの話を僕は初めて聞きました。 常盤貴子さんは話題になった「悪魔のKISS」(93年 フジテレビ系)でちょっと汚れ役をやっていたので、「愛していると言ってくれ」の水野紘子のようなピュアな役で起用することも新鮮でした。 貴島:常盤さんのことを初めて知った番組は、フジテレビの深夜番組「シャンプータイム」(92~93年 日本テレビ系)でした。 そこに「誰にも言えない」(93年)でそのまんま東さんの奥さん役だった中村綾さんも出ていた縁で、1回TBSで擦れ違ったとき、中村さんから「一緒にやっている常盤さんです」と紹介してもらったんです。 その後、「悪魔のKISS」の1話を見て、即、事務所に電話しました。 北川悦吏子がTBS で連ドラを初めて書いた 植田:緑山スタジオで、僕、貴島さんと「悪魔のKISS」を一緒に見ていて。 そのとき、貴島さんが常盤さんを絶賛していたことが記憶に残っています。 ほかに、貴島さんは、バイプレーヤーとして余貴美子さんや段田安則さんや相島一之さんなど舞台系の個性派を起用していますよね。 貴島:当時、舞台俳優をメインにマネージメントしている事務所があって。 その5人くらいの優秀なマネジャーたちとよくご飯を食べていたんです。 植田:ありました。 貴島会。 貴島さんを囲むマネジャー会(笑)。 貴島:僕自身は演劇にはあまり詳しくなかったけれど、その会で「今度のドラマにこんな役があるんだけど合いそうな俳優はいないかな?」とよく聞いていて、そこから出てきたのが余貴美子さんや深浦加奈子さんでした。 植田:「愛していると言ってくれ」の制作にあたって、脚本家の北川悦吏子さんがTBSで連ドラを書くのは初めてだったと思います。 当時、フジテレビはブロックというか、ガードが堅かった印象があって、北川悦吏子がTBSで書くことになったのは印象的でした。 貴島:確かに、北川さんはフジテレビの秘蔵っ子で他局では書かないというイメージがありました。 そんな北川さんがTBS でも書くようになった理由のひとつは、フジテレビずっと書かれていた野島伸司さんがTBSの伊藤一尋プロデューサーと「高校教師」(93年)をやってヒットしたことも大きかったかと思います。 フジテレビとは違うテイストのドラマもやってみたいという作家の欲求と合致したのではないでしょうか。 北川さんはまず、「ユーミン・ドラマブックス」(91年)というユーミンの曲をドラマ化したシリーズで書いていましたね。 「ずっとあなたは~」を書いた君塚良一さんもそのドラマに参加していました。 その流れで「僕と仕事してください」とオファーしたのだったかな。 豊川悦司の大きくきれいな掌が決め手に 植田:「愛していると言ってくれ」では最初、豊川さんと常盤さんの役柄が最初逆のイメージだったみたいなことを聞いたことがありますが……。 貴島:元の企画では、常盤さん演じる紘子が聴覚障害者でした。 でも、主人公が手話のみだとドラマとして伝わりづらいだろうと思っていたところ、豊川さんに、北川さんと一緒に出演交渉したとき、「僕が聴覚障害者ではいけませんか」と提案されたんです。 そのときは即答しませんでした。 そんなに簡単には変更しますとは言えないから(笑)。 でも、そのあと打ち合わせを終えて豊川さんと別れるとき、手を振った彼の掌が大きくてきれいで、あの手で手話をしたら魅力的じゃないかと思って「これは北川さん、やってみませんか」という流れだったような気がします。 「LOVE LOVE LOVE」は「長男の嫁」が縁 植田:昔のインタビューでそういう話を読んだ記憶があって。 それはほんとだったんですね。 歴史的なその瞬間という感じがしますね。 貴島さんは、主題歌の選び方もすごく特徴的というか、八木康夫さんも主題歌の抜擢には定評がありましたが、その八木さんとはまた違う使い方をされるじゃないですか。 ユーミンだったりドリカムだったり。 「愛していると言ってくれ」の「LOVE LOVE LOVE」はいまだにドリカムの代表曲として認知されています。 曲の発注は、どういうふうにされているんですか。 貴島:90年代は、テレビドラマと主題歌がいい関係性を築いている時代でした。 まず、1話から3話まで北川さんが書いた脚本をドリカムのみなさんに読んでもらって、そのうえで僕と北川さんと演出家の生野慈朗さんとでドリカムの事務所に伺って、当時は3人組だった彼らと打ち合わせしました。 植田:ご本人たちと直ですか。 貴島:ええ。 サザンやユーミンなどビッグアーティストに直にお会いできることは、当時、プロデューサーの特権みたいなものでした(笑)。 それも、テレビドラマと主題歌のいいコラボレーションの時代だったからですよね。 ドリカムに関しては、中村正人さんに「長男の嫁」(94年)の主題歌を一緒にやっていただいた縁がありまして。 中村さんが「LOVE LOVE LOVE」とB面の「嵐が来る」と2曲書いてくれました。 個人的には「嵐が来る」のほうが好みでしたし、当時のドリカムとはちょっと違う方向の曲だったと思いますが、ドラマには「LOVE LOVE LOVE」のイントロが印象的で、ドラマにふさわしかったですよね。 250万枚の大ヒットになりました。 貴島さんは、松任谷由実さんとダイレクトに打ち合わせして意見も出されたりして、強い信頼関係を結んでいましたよね。 貴島:「誰にも言えない」の主題歌「真夏の夜の夢」をユーミンに書いていただいたとき、当時はまだ固定電話でしたけども、ユーミンから「貴島さん、曲ができたよ」と電話がかかってきて、その場で歌ってくれたんですよ。 シェークスピアの「ハムレット」をモチーフにした歌詞で、「オフィーリア」「誰も探さないで」というような歌詞が出てきまして。 でも私、浅学非才なもんですから、「オフィーリアを僕は知らない。 シェークスピアで知っているのは『真夏の夜の夢』ですかね」と言ったら、ユーミンが「それ頂き」と、あの曲になりました。 植田:すごいですね。 歴史が動いたみたいな瞬間ですね。 貴島:ほんとうに幸せな時間でした。 写真提供:TBS アダムとイブのイメージで 植田:「愛していると言ってくれ」ではリンゴだったりファクスだったり小道具が印象的です。 貴島さん、北川さん、チーフ演出家の生野慈朗さん、豊川さんが、毎晩のようにファクスで、台本のイメージ交換みたいなことをされていた記憶があります。 貴島:25年も前のことなので、元々北川さんの台本にあったのか、誰かが言いだしたのかっていう記憶が定かではないですが。 たとえばリンゴ。 表参道にあんなふうにリンゴがなっている樹はないであろうということはさておき(笑)、常盤さんがリンゴを取ろうとしていると、背の高い豊川さんが代わりに取るという出会いの場面は、「チッチとサリー」のような身長差があるふたりを印象的に表現したものです。 さらに、生野さんがつくった黄金の海のタイトルバックの最後のバックショットはまさにアダムとイブで、リンゴがタイトルバックのふたりにつながっているんです。 そういうイメージの共有を常にみんなで行っていました。 ファクスのやりとりは、北川さんのアイデアです。 今だったらLINEなどのネットツールで聴覚障害の方もやりとりできますが、当時はそういったツールが全くなく、ファクスくらいしかありませんでしたが、当時、ファクスはまだ高価で、12万5,000円もしたんですよ。 今は2~3万円でしょ? 貧しい劇団員の紘子にはとても買えないものを思いきって買って、ファクスで手紙のやりとりをする。 ほんとだったら一緒にいたいけれどいられないので、せめてファックスでつながっていたいみたいなね。 豊川さんもすごく気に入ったアイデアでしたよ。 植田:障害者を描くことで気を使ったことはありますか。 貴島:取材をかなりしたなかで、NHKの手話講座の丸山先生から聞いた話が印象に残っています。 ある時、僕が井の頭線か何かに乗っているときに、聴覚障害のカップルが手話をしていたんですよ。 ちょうどドラマの準備をしていたから、ついついじろじろ見ちゃったら、向こうも気づいて僕のほうを見ながら何か手話で話しだしたんです。 それを丸山先生に話したら「貴島さんのことを『何だあいつ、じろじろ見て』などと手話で言っていたんだと思います」と言われ、「なるほど」と思ったんですよ。 つまり、障害がある人も感じることは僕らと同じであるということです。 実際、カップルが僕を批難したかはわからないですが、不躾に見られたら誰だっていやな気持になるし、文句を言うこともあるだろうと。 生涯があろうがなかろうが同じ人間です。 障害をもった人を過剰にピュアで善人であるというふうに描くことはやめようと思いました。 植田:ハンディキャップを描くドラマはともすると極端な企画に寄せていくこともあった時代、ハンディは個性だという哲学を初めて打ち出したのが「愛していると言ってくれ」で、その後のいろんな作品の規範になっているように思います。 手話で声を出さない豊川さんが、ある瞬間、声を発することもインパクトがありました。 貴島:聴覚障害者の方に取材をしたときに、先天的な障害と後天的な障害があって、後天的な場合、声が出せると知ったんです。 だから、北川さんと僕のキーワードは「声出し」。 「いつ声出す?」「声出し、ここ早いよね」とかそんなふうに話し合っていました。 だからこそ純愛 植田:当時、僕は「ジューン・ブライド」(95年)というドラマを金ドラでやらせてもらっていたんですが、あの年(95年)はサリン事件、オウム事件が起こって。 阪神淡路大震災もその年でした。 確か「私の運命」(94~95年)の放送クール中に震災が起こりましたよね。 貴島:そうです、95年の1月ですよね(それで一週、休止になっている)。 植田:今は、コロナでドラマの撮影が止まっていますが、あの当時、ドラマづくりにおいて、現場のプロデューサーとして、何か大きく変わったことというか、センシティブになったことはありますか。 貴島:だからこそ「純愛」っていいますかね。 震災やオウム事件など、日本にとっていい事のなかった時の7月、たまたまバッターボックスに立つなら、すごくピュアなものをやろうと。 ドラマのなかだけでも、不幸な事件が忘れられるような、そういうものをつくりたいという思いはありましたね。 貴島式ヒットの法則 植田:「愛していると言ってくれ」のみならず、貴島さんの作品は、最初はそんなに高い数字じゃないけれども、後半になって20後半、30%に上がっていき、さらには40%にもなる作品が多いですけれども、そういうふうになる起爆剤は、貴島さん的には何だったと分析されてらっしゃいますか? 今のようなSNSの時代だと、勝者と敗者が二極化するというか、何かバズったら物見遊山のお客が一杯やってきて、数字が取れるみたいなところがありますが、当時はほんとにドラマ好きが見たっていう印象がしますが。 貴島:皆さんに見ていただけたり視聴率が取れたりする方法が最初から分かっていたら苦労しないですよ。 だからこそ、今ある素材の中に何を投入したら爆発するかっていうことは常に考えています。 成功パターンはないとはいえ、ただひとつ言えるとしたら、人より努力するっていうことでしょうか。 常にプラスアルファできることはないか考え続けることが秘訣というか、僕のやり方ですね。 そのなかには失敗もありますし、やり始める前は成功するか分からないし、やっているときも分からないですが、何を足せばいいのか常に考え続けます。 さっきお話した晃次がいつ声を出すかも最初から決めていなくて、台本の打ち合わせ中に「声出し、声出し」って北川さんとずっと考え続けた末に、ここだ!という最適な場所を見つけたわけです。 植田:貴島さんはいつも「アイデアの総量が作品の質を決める」からと「全てのスタッフは、毎日1つずつアイデアを持ってきてください」とおっしゃっていましたよね。 貴島:ふざけたやつだね(笑)。 植田:いやいや。 それが良かったんですよ。 プロデューサーとしては台本どおりに撮ることが一番効率いいと思いがちだし、そういうプロデューサーが殆どだけれど、貴島さんだったらこのアイデアを聞いてくれるんじゃないかといろんなスタッフがたくさんのアイデアを提案していました。 例えば、「ずっとあなたが好きだった」の冬彦さんのコレクションである蝶の標本は台本ではエロ本だったんですよね。 それを美術プロデューサーが色んな提案をされて、その中に木馬や蝶の標本のアイデアがあり、それをその場で採用されていた…。 貴島:そうそう、そうそう。 僕と脚本の君塚良一さんの発想だとエロ本なんですよ(笑)。 それがやっぱり文殊の知恵っていうんですか、スタッフのアイデアが集まってどんどん盛り上がっていった。 植田:プロジェクトリーダーの鑑ですよね。 ストーリーを作る仕事は、ディレクターじゃなくてプロデューサー 植田:貴島さんがドラマプロデューサーをそもそも目指された、その入り口みたいなものは何なのでしょうか。 貴島:僕は、プロデューサーとしてちょっと特殊な育ち方をしているんですよ。 TBSに入った時、ドラマ志望ではなかったんです。 最初は営業にいて、その後編成部。 ドラマに触れたのは編成部で再放送の担当を2年ぐらいしていたとき、「天皇の料理番」(80年)や「茜さんのお弁当」(81年)など、自分が見たいドラマを再放送作に選んでいたときですね。 当時、再放送作を選ぶときは、視聴率はさほど関係なかったんですよ。 その後、ドラマ部に配属になりまして。 そのときすでに31歳と年齢もいっていたし、非常に不安でした。 ADましてやディレクターの仕事もできなくて、まずは先輩の八木康夫さんや遠藤環さんのAPを経て、ほかにできることがないからプロデューサーになったようなものなんですよ。 植田は最初からプロデューサー志望だったの? 植田:最初からですね。 連続ドラマの場合は、企画を立てるとかシナリオを作るとか、ストーリーを作る仕事は、ディレクターじゃなくてプロデューサーのものじゃないですか。 それを知ってからプロデューサー志望一本やりです……。 いや、しかし、貴島さんがたまたまドラマのプロデューサーになったということにはびっくりしました。 それが、その後、大ヒットメーカーになられるっていうのは、何か歴史の妙ですよね。 貴島:営業、編成と経験した者としては、ドラマ部のやり方には面食らいました(笑)。 例えばキャスティングするとき、僕はこちらから事務所にお願いに上がるということなのだと思っていたんです。 ところが、当時は、事務所のマネージャーたちが局に訪ねて来ていた。 でも僕はそれが恐れ多くて、ほとんどの事務所に自ら足を運んでいたと思います。 植田:プロデューサーが事務所に足を運んで、いろいろ話をするようになるのは貴島さんの時代からですね。 貴島:そうですね。 90年代は芸能事務所と局の関係性が変わるその端境期ぐらいだと思います。 TBSといえばホームドラマ 植田:貴島さんは、ホームドラマもつくられれば、ラブストーリーもつくられますが、創作の根っこはなんですか。 貴島:僕、91年に「結婚したい男たち」で初めてプロデューサーやって、これは視聴率的には惨敗でした。 この頃は、フジテレビのトレンディードラマの時代で、「結婚したい男たち」も、当時のフジテレビの後を追うような内容でしたが、それじゃ勝てない。 では、TBSらしいものはどういうものかと考えた末、「ホームドラマ」に行き着いたんです。 それが「ずっとあなたが好きだった」で。 あれは「冬彦さんブーム」が起きましたが、そもそもは息子と嫁と姑のひとつの家庭を描いたドラマです。 また、「愛していると言ってくれ」でも恋愛が中心ではあるとはいえ、吉行和子さんが演じる母親をはじめとして、家族や家庭を手厚く描きました。 それがTBSらしさではないかと思ったんです。 植田:当時、フジテレビのラブストーリーにはほとんど家族は出てこなかった。 貴島:そう言われていましたね。 植田:ええ。 結婚式にも家族が出てこないという独特な描写でした。 TBS は意図的にホームドラマの延長線上にラブストーリーを作ったということですか。 貴島:恐らくフジテレビのトレンディードラマは、ラブストーリーというよりラブコメを目指されていたように感じますが、それと違う色を出すとしたら、やっぱりホームドラマだろうと思い、ホームドラマを軸にいろんな要素を組み合わせて企画を立てていきました。 ラブストーリーにホームドラマが付いているのか、ホームドラマにラブストーリーが入ってくるのか。 それは小さな違いかもしれませんけど、それは結構大きな違いで。 僕がホームドラマを意識したのは、心の師匠である久世光彦さんの作品の影響があります。 久世さんの「ムー一族」(78~79年)などのプラスアルファのあったホームドラマを参考にしました。 一度、久世さんとお話したことがあって、そのときは嬉しかったですよ。 植田:貴島さんと久世さんがどんな話をしたのか気になります。 ……ものすごく下世話な質問ですけど、冬彦さんブームや「愛していると言ってくれ」や「ビューティフルライフ」(00年)の話題で世の中が沸騰しているときに、渦中にいる人物としては、どういう心情でしたか。 貴島:冬彦さんブームときは、ラス前の11話かな。 視聴率が29%で。 そのときは「うれしい。 ああ良かった」と思ったのは午前中だけで、午後になったら、「これ、30%を期待されているだろうから、次に30いかなかったら、今までのことがなしになるのかな」などと割とネガティブになりました。 プロデューサーの資質のひとつに、ネガティブと言うとおかしいですが、あまり楽観的じゃないほうがいいのではないかと僕は思います。 植田:「打ち上げが終わって、二次会のボウリング大会が終わって、帰りの車の中ではじめてほっとする」みたいなことをおっしゃっていた記憶が、僕にはあるんですよ。 数字よりも、スタッフとキャストが、全部無事にある種の旅を終えられることを目指すものですか。 貴島:植田さんにも「打ち上げまでが仕事だ」と僕は言っていましたよね。 スタッフ、特にADチーム、演出部に関してはね。 やはりキャスト・スタッフを迎えて、最後まで送り届けることは大事ですよ。 キャストに限らず、スタッフもみんな、他局でも仕事をしていますから、「TBSのドラマをやって良かったな」と思って打ち上げを終えたいという思いはありました。 若手スタッフを育てる 植田:僕も貴島さんのところで育ちましたが、TBSの今の2大看板演出家、土井裕泰さん(「逃げ恥」や「カルテット」など)と福澤克雄さん(「半沢直樹」「下町ロケット」など)のふたりも貴島さんが最初に抜擢したんだと思います。 彼らは「愛していると言ってくれ」にも参加していますが、最初から「こいつら、できるな」と思いましたか。 貴島:福澤さんにしても、土井さんにしても、優秀でしたよね。 僕は、大先輩の下で長らく修業していくよりも、いい事も悪い事も含めて、早いうちから独り立ちして、厳寒を歩いたほうが力が付くと思うんです。 植田さんにも早く一本立ちするよう勧めましたよね。 当時の感覚だと「プロデューサーもディレクターも、30代前半で当てるもの」みたいな気持ちはありました。 30代前半だと、若い人の気持ちも分かるし、ちょっと上の世代の気持ちも分かります。 これが20代だと、「『水戸黄門』って面白くないよね」と思ったりするし、僕ぐらいの年になると、「このドラマ、よく分かんねえな」ということになってしまう。 その意味で、30代前半は、特にテレビドラマという今を扱う仕事をするクリエーターにとってはいい時期だなと思うんです。 植田:こうやって面と向かって申し上げるのは何ですけれど、最初に貴島さんに25歳の時に「今から3年後にプロデューサーをやれ」と言っていただいたあと、シナリオの作り方から手取り足取り教えてもらって、脚本家さんも沢山紹介していただきました。 本当は貴島さんが大事にしないといけない脚本家さんを僕なんかにオープンソースにされたというか。 さらに言えば、貴島さんが「植田、作家打ち合わせの店に行こう」「ここはこういうふうな打ち合わせに向いているんだ」みたいに言っていろいろなお店に連れていってくださって。 しかも、「お店の名刺をもらって帰るといい。 いつかお前が作家打ち合わせするときには、ここの店を使うといいよ」みたいなことまでおっしゃってくださって、今でもすごく感謝しているんですよ。 福澤監督も土井監督も、貴島さんの庇護(ひご)がなければ若いうちから芽を出せなかったと思うんですよ。 当時は年功序列主義で「若い芽は摘め」みたいな風潮があったような気がしますが(笑)、貴島さんにはそれがまったくなかった。 貴島:いや、僕はそんなに立派な人間じゃないですよ(笑)。 植田さんが僕のことを「師匠」と呼んでくれますが、僕からしたら、いつも言っていますが、植田さんをはじめとして、いい後輩たちに恵まれたと思います。 当時、フジテレビのドラマは絶好調で、フジテレビに対して点で戦っちゃ勝ち目がない。 面で戦うべきだと思っていました。 フジテレビの方がどう思っているか知りませんが、僕は、やっぱり僕の時代でフジテレビと対抗していかないといけないというか……「僕がフジテレビに勝たないとTBSは一生勝てないんじゃないか」と生意気にも思って、それで秘密兵器の植田プロデューサー、土井さん、福澤さんなど、新しいこれからの人と一緒にやっていこうとしたんです。 常盤貴子さんや矢田亜希子さんなどの俳優さんもそうですよね。 そもそも、野際さんはすごく知的なイメージがあったので、イジワル姑みたいな役はおやりにならないと思っていたのですが、「愛さずにいられない」(91年 フジテレビ系)というドラマで吉田栄作さん演じる主人公のお母さん役で出て誰かを虐める演技をされている姿を見て「これだ!」と思い、即電して快諾頂きました。 やっぱり、ずっと何かを考え続けていると、ドラマの神様が囁いてくれるんですね。 植田:野際さんは僕らみたいなADにも優しくしてくださいました。 貴島さんと野際さんの間にある母子のような、それ以上のようなえも言われぬ信頼関係がすごく目に焼き付いています。 貴島:離婚されたときも、TBSで会見をされましたし。 何ですかね。 お母さんでしたね、ほんとに。 芸能界の母っていいますか、母親のような存在の方に出会えたことはやっぱり運ですね。 運だけど、努力もちょっとしているということですかね。 マニアックな作品が得意だった植田にラブストーリーを任せた理由 貴島:話は尽きないですが、ここではっきりさせておきたいのは、「ビューティフルライフ」は僕が企画したことになっているようですが、あれは僕は全くやってないですよ。 植田:そんなことないですよ。 最初の打ち合わせに参加されていましたよ。 貴島:やる予定ではありましたが、最終的な企画の内容は全部植田さんが考えたものですよ。 だから僕の作品歴には入れてないんです。 植田:僕、最初、「氷の世界」というサスペンスに貴島さんに呼んでいただいたんですよ。 貴島さんが「サスペンスだったら植田だろう」と言ってくださって。 その最初の会議で、僕が恐れを知らずに「主人公の持っている銃はリボルバーですか、オートマチックですか」と聞いたら、そこにいたスタッフ全員がシーンっとなってしまって。 会議が終わって中華を食べに行っても誰もしゃべらなかったという大惨事があって。 その次の打ち合わせのときに「ビューティフルライフ」の企画書が来て……。 「ラブストーリーだったら、僕には居場所ないな」と思いながら打ち合わせに臨んだ記憶があります(笑)。 そんな僕に「ビューティフルライフ」を任せてくださったのは、「おまえは『ケイゾク』みたいなコアな作品だけじゃなくて、メジャーな作品にもトライしたほうがいいよ」という意味だったと僕は思っているんですよ。 貴島:そうだったかもしんないですね。 僕は割と自分の日常の中でドラマの素材を拾ってくるタイプですが、植田さんはすごく勉強していて、サスペンス系は既に「ケイゾク」(99年)で実績もあった。 「ビューティフルライフ」で北川悦吏子さんや木村拓哉さんや常盤貴子さんなどのキャストを預けられるのは植田さんしかいないと思ったんです。 植田さんは「ビューティフルライフ」や「GOOD LUCK!! 」などのメジャー作品もやりつつ、「SPEC」みたいな連ドラから発展して映画化もされる作品も作って。 もう何年ぐらい続いているんですか。 「ケイゾク」のタイトルを守った 植田:「ケイゾク」を入れて20年ですね。 貴島さんがいなければ、「ケイゾク」はなかったんですよね。 貴島:当時、僕は編成で企画総括をやっていました。 植田さんのやるミステリードラマの企画自体は成立していたものの、「ケイゾク」というタイトルが編成会議で引っかかった NGになった。 タイトルとして受け入れにくいと感じる人や、警察ではこんな用語は使わないなどと報道出身の方々の意見もあって、タイトルを再考したほうがいいと一回戻したんですよね。 ところが植田さんは諦めずにまた同じ「『ケイゾク』でお願いします」と提出してきた。 それで、「植田がこれほどこのタイトルでやりたいと言っているのだから、このタイトルでいきましょう」と提案して、ようやく異論がなくなったという感じでしたかね。 植田:その話、はじめて聞きました。 いやあ、ありがとうございました。 ほかにも、「ケイゾク」の1話ができたときに、貴島さんと、当時部長だった大物プロデューサーに見てもらったら、その部長に「これはドラマじゃない」と否定されたんですよ。 「笑えもしないし泣けもしないし、音楽を全部つけ直せ。 編集も全部やり直せ」と言われたとき、貴島さんが「いや、このクオリティーがすごいんだ」と言ってくださって、やり直さずに済んだんです。 ほんとうにすごく感謝しています。 貴島:言ってみれば、自分に分からないことは、よけいな意見を言わず、そのまんまでいけみたいなところはありましたね。 やっぱり植田さんは、僕にはとてもないような想像力があって、普通のテレビドラマの枠を壊してくるところは、後輩ながらすごくうらやましいと思っているところがあるんですよ。 貴島:再放送にあたって、常盤貴子さんと豊川悦司さんの25年ぶりのリモート同窓会という企画が実現しました。 この間、映画「20世紀少年」シリーズの現場で会ったりはしていたらしいですが、25年前の撮影当時のエピソードを語ってもらうことは、多分初めてだと思うんです。 僕も知らなかったような事を、豊川さんも常盤さんも話されています。 ほんとは全部見ていただきたいぐらいの面白いリモート同窓会だったんですけども、本編をノーカットでいくという方針があったので、ある程度の分数にまとめています。 当時を振り返って懐かしく思われるお母さんと、初めてこのドラマを見られるお嬢さんとが、親子二代でこのドラマを見て会話をすることができたらいいんじゃないかなと思います。 植田:本物のクオリティーのラブストーリーが、この時代に見られることはこの上もなくぜいたくなことです。 おふたりはどう思われていますでしょうか。 植田:これから、予算がシュリンクしていくとか、撮影方法が制限されるとか、いろんな障害は出てくるとは思いますが、逆に4Kなどにこだわらなくてもいいんだっていうことを学んだという意味では非常にポジティブに捉えています。 ただ僕は、パソコンの画面だけでやるドラマはつくらないつもりです。 もう結構やりつくされちゃったので。 貴島:東北の震災のときは「絆」という言葉がキーワードになって、ドラマの傾向も変わりました。 あのときは震災の被害を受けていない地域もあったから、助け合おうということでしたが、今回は日本全国、全世界が同じように被害を受けているので、またドラマの傾向にも変化があるように思います。 10月以降に制作する現代劇はコロナ禍があった前提のドラマになってくるでしょう。 テレビドラマの撮影現場は「3密」なものですが、だからといってキスをしないドラマはないだろうと思うんです。 昔、「君の名は」ではガラス越しにキスしていて、今度はスマホ越しになるのか分かりませんが、表現の仕方が工夫されていくでしょうし、「STAY HOME」を経て、より家庭の中に軸足を置いた、夫婦の子育てのドラマなどが見たくなるのではないかなというふうに思っています。 profile 貴島誠一郎 1957年、鹿児島県生まれ。 TBSエグゼクティブプロデューサー。 一般企業勤務を経て1982年にTBSに入社。 営業、編成を経て89年よりドラマ制作に携わる。 主なプロデュース作に『ずっとあなたが好きだった』(92年)『愛していると言ってくれ』(95年)、『理想の結婚』(97年)、『青い鳥』(97年)、『Sweet Season』(98年)『肩ごしの恋人』(2007年)、『LEADERS リーダーズ』(2017年)などがある。 植田博樹 1967年、兵庫県生まれ。 京都大学法学部卒業後、TBS入社。 ドラマ制作部のプロデューサーとして、数々のヒットドラマを手がける。 代表作に『ケイゾク』『Beautiful Life』『GOOD LUCK!! 写真提供:TBS 取材を終えて 「愛していると言ってくれ」を筆者が久しぶりに見たのは、脚本家・北川悦吏子さんの朝ドラ「半分、青い。 」(18年)の放送中だった。 北川さんのラブストーリーと豊川悦司さんの魅力を代表作から改めて確認しようと思ってのことで、実際見返して、その熱量にかなり圧倒された。 キュンとしっぱなしのストーリー、豊川さんは色っぽいし、演出もエモーショナル、駅などのロケの風景や音楽のかけ方などすべてが洗練されていた。 ついつい朝ドラはロケ不足だし恋愛場面の盛り上げ方が物足りないなんて記事を書いてしまったこともあった。 90年代のTBSのドラマのクオリティーが高く、それは00年代、10年代と年月を経ても着実に受け継がれ、アップデートしている。 だからこそ、最近の「逃げ恥」や「恋はつづくよどこまでも」なども盛り上がっているのだろう。 90年代のTBSドラマはドラマ史において重要と思った私は、「愛していると言ってくれ」の再放送に当たって、キーパーソン・貴島プロデューサーの話を聞くことにした。 貴島さんと植田さんにはオンラインで取材した。 ふたりは長年、師弟関係にあるだけあって、遠隔でも阿吽の呼吸で会話していた。 どれも興味深い話題ばかりだったが、他局と違うTBSならではのドラマにあるもの、それがホームドラマであるという話は印象的だった。 たしかに、「ケイゾク」や「SPEC」なども登場人物たちにどこか家族的な関係ができていくし、「逃げ恥」も「恋つづ」も家族が描かれている。 これからのドラマは新しい家族の形が描かれていくであろうか。 楽しみである。
次の