アケメネス朝の後、226~651年にわたって栄えたササン朝ペルシャ時代には、シルクロードを経由して、遠く日本とのつながりも生まれました。 奈良・正倉院に収蔵されているガラス器「白瑠璃碗」は、往時のペルシャ帝国の繁栄をしのぶ品として有名です。 現在のイランは、日本の4. 4倍(約165万平方km)の広大な国土に、7,000万人以上の人々が暮らす地域大国です。 ペルシャといえば、「砂漠」に「ラクダ」のイメージが強いかもしれませんが、首都テヘラン(Tehran)などイラン北西部はとても緑豊かな高原が広がっており、中東最高峰のダマーヴァンド山(標高5,604m)をはじめとする4,000m級の山々も連なっています。 冬には国内外からスキーヤーが集まるスキー場もあります。 カスピ海沿岸地方では、水田による稲作も行われています。 すべて手織りのため同じものは二つとない上、品質の高さと文様の華麗さは、今も変わらず世界中を魅了しています。 意外と知られていないペルシャ発祥のものに「古典音楽の楽器」があり、ペルシャの打弦楽器「サントゥール」は、ヨーロッパに伝わって「ピアノ」のルーツになったと言われています。 また、も世界各地に伝わり、例えば、英語のレモン(lemon)とライム(lime)はペルシャ語のリームー(limu)から、パラダイス(paradise)、シャーベット(sherbet)、キャラバン(caravan)、市場(bazar)などもペルシャ語からきた言葉です。 世紀を超えて世界に影響を与えてきたペルシャの面影は、「ペルセポリス」「イスファハンのイマーム広場」などの歴史的遺跡に凝縮されています。 イスラム化が進んだのは、ササン朝滅亡後、モンゴル帝国の侵攻などを経て、1501年にイスラム教シーア派を国教とするサファヴィー朝が成立して以来のことです。 しかし、1925年、クーデターによってパフラヴィ朝を開いたレザー・ハーンは、政治の非宗教化などによってイランの近代化を進める政策を急速に進めました。 それは、イランを「脱イスラム化」路線に転換させるもので、1936年にはイスラム女性が全身を覆うために着る黒い布「チャードル」の着用禁止令を出し、代わりに洋服着用令を発令、さらには、後継の国王が1962年から農地改革、婦人参政権、識字運動を進めていきました(白色革命)。 しかし、この急激な改革は、秘密警察などを伴った強権的なものでもあったため、結果として国民の強い反発を招くこととなりました。 そして、それが後にイスラム革命を引き起こす要因となりました。 国民はこれを宗教弾圧だとして不満を募らせていき、1978年、ついにこの不満が表面化しました。 ホメイニ師を中傷する記事を巡る暴動を皮切りに、国内各地で暴動が相次ぎ、次第に民主化を求める勢力や左翼勢力も巻き込んで、大規模な王制打倒運動へと発展していきました。 軍とデモ隊が衝突し死傷者が出る事件も起こり、事態収拾に行き詰まった国王は翌1979年、国外に退去。 国王と入れ替わる形で、ホメイニ師が15年ぶりに母国イランへ帰国し、パフラヴィ朝に代わる「イスラム共和国」の設立を宣言しました(イラン・イスラム革命)。 革命後、新政権はパフラヴィ朝をバックアップしていた米国との対決姿勢を強め、両国の関係は急速に悪化していきます(1980年、国交断絶)。 一方、周辺のイスラム諸国(主にスンニ派)は、厳格なシーア派国家となったイランからの「革命の輸出」に対する警戒感を強めました。 この結果、イランは欧米諸国だけでなく、イスラム諸国の中でも次第に孤立を深めていくことになりました。 高学歴化する現代ムスリム女性たち イラン・イスラム革命後に表れた変化のひとつに、「女性の活躍」があります。 一般的に、イスラム社会では女子教育に消極的なケースが多いとされていますが、イランではイスラム教の教義に基づき、「男女隔離政策」を徹底した上で、女子校の増設や女性教諭の育成・派遣など女子教育にも力を入れてきました。 こうした取組が、「男性の目に触れるのではないか」という両親の懸念を払拭し、都市部だけでなく、保守的な地方農村などでも女子教育が浸透したと言われています。 また、イラン・イスラム革命から約30年が経過した現在、イランでは大都市を中心に女性の高学歴化が進み、教育や医療をはじめ多くの分野で女性が活躍するようになりました。 企業の管理職や閣僚、国会議員にも、少数ながら女性の姿が見られるようになり、女性専用タクシー会社の設立や女性のバス運転手採用なども話題となっています。 それが、「イラン・イラク戦争」です。 争いの発端は、両国経済を支える「石油」の輸出の要所で、国境付近を流れる「アルヴァンド川(シャットル・アラブ川)」の使用権をめぐる衝突でした。 この時、米国、欧州、ソ連などは、敵対するのサダム・フセイン政権を強力に支援。 1988年に停戦が成立するまで、攻防が続けられました。 8年間に及んだイラン・イラク戦争は、両国に多くの犠牲と経済的損失をもたらしただけでなく、中東地域、ひいては国際社会の安定にも大きな影を落としました。 なお、この戦争からわずか2年後の1990年、今度はイラクがに軍事侵攻し、米国など多国籍軍との間で「湾岸戦争」が始まったのでした。 イラン人の"ジャパニーズ・ドリーム" イラン・イラク戦争の停戦後、イラン政府は復員兵士の雇用促進を図るため、海外への「出稼ぎ労働」を奨励しました。 当時、バブル経済に沸いていた日本では円高が進んでおり、イランの人々にとって、日本はとても魅力的な出稼ぎ先でした。 さらに、日本とイランは石油貿易などで経済的結びつきが強く、査証免除協定によって「ビザなし」で入国ができたため、「日本へ行けば、将来豊かな生活が送れる」という"ジャパニーズ・ドリーム"がイラン人の間に広まっていきました。 このため、1990年頃には多くのイラン人が出稼ぎのためにやってきました。 しかし、一部のイラン人による麻薬取引や偽造テレフォンカード売買など違法行為が後を絶たず、1992年、査証免除協定は一時停止されました。 イランのアフマディネジャード大統領は、原子力発電など「平和利用目的」での核開発を主張し、ウラン濃縮活動を続けているとしています。 しかしながら、米国などは「核兵器開発の懸念が払拭できない」としてイランを非難し、国連安全保障理事会は制裁措置などを含む決議を採択しています。 これに対し、イランは査察の受け入れなどとの協力を継続していますが、今なお国際社会の理解は得られていません。 日本は、この問題が平和的・外交的に解決されるよう、あらゆる場でさまざまな働きかけを行っています。 イランでは、ゾロアスター教の文化習慣が色濃く残っているため、日常生活では、春分の日(毎年3月21日)に新しい年が始まる「ヒジュラ太陽暦」を使っています。 3月20日の「年末」には、家族でペルシャ絨毯を洗って大掃除をし、「正月」は親戚の家に集まって新年の挨拶をしたり、子どもにお年玉やプレゼントをあげたりして過ごします。 また、日本人が俳句や短歌を楽しむように、イラン人も幼い頃から詩に親しみ、普段の会話の中にも古典詩句をよく引用します。 日本の書道によく似たペルシャ文字の「書道」も盛んです。 の会話では、「お疲れさまです」「お手を煩わせます」といった日本的な表現や、「ここは私が払います」「いやいや、ここは私が・・・」といったお約束のやりとりもあります(これらは「ターロフ文化」と呼ばれています)。 「おもてなしの心」や「義理人情」「恩義」を大切にするところも、どこか日本人に通じるものがあり、日本のTVドラマ「おしん」はイラン人の琴線に触れて大ブームを巻き起こしました。 その代表的な例として挙げられるのが、「地震」と「環境汚染」です。 イランは日本と同じく火山帯に位置しており、2003年12月にはイラン南東部でが発生し、約34,000人の死者を出す大災害となりました。 地震大国の日本は、すぐに国際緊急援助隊医療チームの派遣、緊急援助物資の供与、緊急無償資金協力などを実施。 さらに、を通じて、地震対策に関する日本の知見を伝えたり、早期被害予測システム開発への協力をしたりしています。 また、首都テヘランで深刻な問題となっている大気汚染対策についても、日本の知恵と経験に基づいた技術協力を行っています。 2009-2010年は、日本とイランの外交関係が開設されてから80周年にあたりますが、シルクロードを超えた交流の歴史はすでに1000年以上にも及んでいます。 イランの発展、そして、国際社会との協調と安定を目指し、日本はイランとの友好を更に深めていきます。
次の禾は 稲作や穀物の形、人は、豊作を願い被り物を付けて舞を踊る男性の形を年と言いました。 そこから一年に一度実る稲を表現して「年」となりました。 普段時間 ふだんじかんや 年齢を意味 ねんれい いみする漢字として使われているこの文字の成り立ちがこのような事とは 意外 いがいですよね。 次に意味を確認していきましょう。 漢字「年」の意味 12か 月 げつ、365 日 にち 一年を表す 単位 たんいとして使われます。 年齢 ねんれい 人の年齢として利用されます。 「私とあなたは10 歳 さいも 年が違 とし ちがう。 」と使われます。 相応の年齢である事の表現 そうおう ねんれい こと ひょうげん 年齢を 重 かさねている表現として使われます。 「 亀の甲 かめ こうよりも 年の甲 とし こう」が 代表的 だいひょうてきな 使用例 しようれい です。 高齢 こうれいである 事の例 こと たとえ 高齢者が自分 こうれいしゃ じぶんが高齢である事を示す表現として使います。 「つくづく自分の 年 としを感じる。 」がその 例 れいです。 稲作 稲作や米が実 いなさく こめ みのる事を表現しています。 この漢字のもともとの意味です。 年数を数 ねんすう かぞえる単位 例:一年(ひととせ)、二年(ふたとせ、三年(みとせ)、十五年(とおあまりいつとせ)、二十年(はたとせ)、百年(ももとせ)、千年(ちとせ) 以上がこの漢字の意味です。 いろんな意味がありますね。 次に読み方を確認していきましょうね。 スポンサーリンク 漢字「年」の読み方 音読み おんよ・ 訓読 くんよみみ別に見ていきましょう。 音読み 「ネン」 例:年間(ねんかん)、年賀(ねんが)、年号(ねんごう)、年始(ねんし)、年次(ねんじ)、年中(ねんじゅう)、年初(ねんしょ)、年数(ねんすう)、年長(ねんちょう)、年中(ねんちゅう)、年少(ねんしょう)、年輩(ねんぱい)、年表(ねんぴょう)、年譜(ねんぷ)、往年(おうねん)、元年(がんねん)、去年(きょねん)、経年(けいねん)、後年(こうねん)、周年(しゅうねん)、閏年(じゅんねん)、平年(へいねん)、年輪(ねんりん)、忘年会(ぼうねんかい)、未成年(みせいねん)、年功序列(ねんこうじょれつ)、年年歳歳(ねんねんさいさい)、生年月日(せいねんがっぴ)、桃栗三年柿八年(ももくりさんねんかきはちねん) 訓読み 「とし」 例:年男(としおとこ)、年下(としした)、年頃(としごろ)、年並(としなみ)、年月(としつき)、年嵩(としかさ)、年子(としご)、年取り(としとり)、年寄り(としより)、年増(としま)、一昨々年(さきおととし) その他 浜万年青(はまおもと)、年魚(あゆ)、千年(ちとせ) 次に綺麗に書くためのポイントをお伝えしたいと思います。 漢字「年」の書き順・書き方 (6画)(部首:干) この文字を綺麗に書くためのポイントをお伝えしたいと思います。 一画目 ・マスの 左上から左斜 ひだりうえ ひだりななめめしたへ 短 みじかくはらいます。 ニ画目 ・ 一画目 いっかくめの 真ん中付近 ま なかふきんから 右へ進み みぎ すす、 止 とめます。 三画目 ・マスの 少し上部分 すこ うえぶぶんから右へ進み、止めます。 四画目 ・三画目の 書き始 か はじめから 下へ短 した みじかく進みます。 五画目 ・右へ進み、四画目の 書き終 か おわりを 通 とおって 長い線 なが せんを書き、止めます。 六画目 ・マスの中心を通るようにして二画目からはみ出さないように書き始めます。 ・まっすぐ下へ進み最後はそのまままっすぐはらいます。 次に年に関するうんちくを紹介しますね。 漢字「年」のうんちく 一年は 通常 つうじょうだと365日ですが、4年に 一度 いちど366日になるのは 皆 みなさんご 存知だと思 ぞんじ おもいます。 そのような年を閏年(うるうどし)と言います。 ではその一日をどこで 調整 ちょうせいするのかと言うと、2 月末日 がつまつじつで 行 おこないますよね。 何故 なぜでしょうか。 その 理由は昔の暦 りゆう むかし こよみにあります。 今 いまの暦は12月31日が 年末 ねんまつで、1月1日がらが 新年の始 しんねん はじまりです。 しかし昔の暦だと2月末日が年末で、3月1日が新年でした。 その 為 ため、年末に1日入れて調整しようとしたのです。 4年に一度、2月29日が入るのはこのようないきさつがあるんですよ。 スポンサーリンク 漢字の成り立ち「年」のまとめ いかがでしたか。 以上が漢字「年」についての全てです。 ではここでこの漢字についておさらいしていきましょう。 この漢字は旧字体にすると、「禾 のぎ 」と「千」という漢字から成り立っている会意兼形声文字です。 もともとは穀物の収穫のサイクルを示す文字だった。 時間としての意味や、年齢としての意味がよく使われる。 また元来の意味である、穀物の収穫サイクルとしての意味も残っている。 この文字のポイントはニ・三・五画目の横線です。 五画目を一番長く書くのがポイント。 そうするとバランスよく美しく見える。 音読みだと「ねん」、訓読みだと「とし」と読まれる。 閏年の際に2月が1日増えるのは、昔の暦だと2月末日が年末で、3月1日が新年だったから。 以上が漢字「年」のおさらいです。 この文字を学習する際に一緒に頭に入れておくといいですよ。
次のtags: , , , , , , , , , , , , , , , , , 渋谷から六本木まで鉄道で移動しようとすると、最低でも1回は乗り換えなければなりません。 直線距離で3km弱と近く、路線バスが走っていますが、なぜ地下鉄が通っていないのでしょうか。 街の成り立ちからその理由を探ります。 鉄道で乗り換えなしには移動できない渋谷~六本木間 近くなのに、電車で行こうとすると乗り換えなどで意外と時間がかかる盛り場同士、といった区間が東京にはいくつかあります。 その代表例が渋谷と六本木ではないでしょうか。 渋谷駅と六本木駅とは、六本木通りで一直線、約2. 7kmしか離れていません。 道が空いていれば、タクシーを使い5分程度で行けてしまいます。 路線バスも運行されています。 しかし、都心を移動するときのいつもの習性で、この区間でも地下鉄を利用する人が多いように思われます。 六本木駅の出入口と六本木ヒルズ(2020年7月、内田宗治撮影)。 JR山手線と東京メトロ日比谷線を利用する場合は、山手線でひと駅、日比谷線でふた駅移動することになります。 鉄道会社が異なるので、運賃は310円(きっぷ、以下同様)もかかります。 東京メトロ銀座線・半蔵門線と都営大江戸線を利用し、青山一丁目駅で乗り換えても行けますが、4駅分(半蔵門線利用なら3駅分)の乗車となり、運賃は280円かかります。 しかも大江戸線の六本木駅ホームは地表からの深さがなんと日本一、約42mもあります。 電車を降りてから地上出口までの時間を計ってみたら、エスカレーターで5分かかりました。 ちなみに渋谷駅から銀座線の赤坂見附駅、丸ノ内線の霞ケ関駅、日比谷線の六本木駅と乗り換えれば、すべて東京メトロの路線なので、運賃は200円で済みます。 ただし所要時間は約25分です。 なぜ渋谷~六本木間には、両地点をダイレクトに結ぶ鉄道が通ってないのでしょうか。 かつて山手線の内側や下町には、都電の路線網が発達していました。 渋谷から六本木ヘは、1967(昭和42)年に廃止されるまで、都電6系統(新橋行き)を利用し乗り換えずに行けました。 宮益坂を上って青山通り、骨董通りを経るもので、少し北に寄り道するルートです。
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