2013年12月1日、美容業界に激震が走りました。 DADA CuBiC代表植村隆博氏の逝去。 その卓越したクリエイティブセンス、また教育者としても業界の発展に尽力し、美容師が憧れる美容師として多大なる影響力のある存在でした。 植村氏が亡くなって四年目になる今、QJナビでは改めて植村隆博氏の人柄について触れていきたいと思います。 今回、お話をお伺いしたのは、DADA CuBiCのアートディレクター、古城隆さん。 植村さんに直接指導を仰いだ最後の一人です。 -古城さんと植村さんの出会った頃のお話からお伺いできますか? 僕は2000年、20歳の時にDADAに入社しました。 1997年にDADAがOPENして3年目の時の中途採用です。 当時の植村、DADAにはなんとも言えない緊張感が漂っていて、チーム全員が尖っていましたね。 そんな中、僕はまだ20歳と若く、入社して数日くらいでまだ何も分からないのに、「撮影についていきたい」なんて言ったりしましたね。 今考えるとありえない(笑)。 -撮影は連れて行ってもらえたんですか? 最初はもちろん断られて。 何にもできないから当たり前ですよね。 でも結局は連れて行ってくれたんです。 そばにいてスタイリング剤を渡すだけでもうれしくて。 段階を踏んでいろいろな経験をさせてくれました。 これまでたくさん撮影はしてきたけど、やっぱりはじめて連れて行ってもらった撮影現場の風景は今でも鮮明に思い出せます。
次の「昭和」を代表する美容師 「昭和」を代表する美容師は、業界の礎を築いたレジェンドが顔をそろえる結果となりました。 英・ヴィダルサスーン時代にボックスボブを生み出し、帰国後、昭和52年(1977年)にPEEK-A-BOO(ピークアブー)を設立。 現在も都内で10店舗のサロンを経営されています。 2位は、世界中の美容師に影響を与え、また、美容業界の枠を超えてファッションやカルチャーに変化をもたらした故・ヴィダルサスーン氏。 3位は、日本にパーマ技術を普及させた故・山野愛子氏。 昭和9年(1934年)に開設した山野美容講習所(現・山野美容専門学校)は今も数多くの美容師を世に送り出しています。 日本にサスーンカットを広め、昭和42年(1967年)にカットスクールを立ち上げ美容業界の教育に力を入れた 萩原宗氏、世界のショーで活躍し大規模な美容組織であるキヨシ会を立ち上げた 故・石渡潔氏、昭和51年(1976年)に「柿本榮三の美容室」(現・kakimoto arms/カキモトアームズ)をオープンし、会長として直営12店舗を経営する 柿本榮三氏の名前も数多く上がりました。 なお、AFLOAT(アフロート)は平成12年(2000年)、ACQUA(アクア)は平成6年(1994年)のオープンですが、宮村浩気、 野沢道生、綾小路竹千代、青山正幸の各氏にも多くの票が集まりました。 サロン設立前からそれぞれ個人で活躍されていましたのでランクインのままにしています。 このほか、植村隆博、須賀勇介、嶋義憲、高橋まさとも、マサ大竹、メイ牛山、高田幸二、山野千技子、渡辺サブロオ、須崎勝己、飯塚保佑、川畑タケル、田谷哲哉、鳥羽直泰、鈴木三枝子、伊藤五郎、桂由美、高橋和義、高山行雄、信竜淳二、茂木正行、八木岡聡、ケネス・ヒスミ、田中トシオの各氏らの名前が挙がりました。 「平成」を代表する美容師 カリスマ美容師ブームのけん引役となった人気美容師、平成の終盤に登場し人気を集めている美容師がランクインしています。 平成13年(2001年)にスタートした「B. ビューティー・コロシアム」(フジテレビ系)に出演、多くの女優・タレントを担当していることで知られています。 同じく「B. ビューティー・コロシアム」や平成11年(1999年)スタートの「シザーズリーグ」(フジテレビ系)で人気を集めた 野沢道生氏、「B. ビューティー・コロシアム」に出演していた apish代表の 坂巻哲也氏も顔をそろえています。 2位は、 OCEAN TOKYO代表の高木琢也氏。 カリスマが生まれにくくなったと言われる時代に高い知名度を誇ります。 一般の男女が投票する「ホットペッパービューティーアワード ベストスタイル部門」においてもしています。 OCEAN TOKYOは平成の終盤25年(2013年)に誕生し急成長を遂げているサロン。 同様に、平成26年( 2014年)設立で右肩上がりの成長を続けている ALBUMからはNOBU氏がランクイン。 3位は、老舗サロンSHIMAのアートディレクター・クリエイティブスタイリストであり、「CHOKi CHOKi」の初代おしゃれキングになったころから 長らくファッションリーダーの地位にある奈良祐也氏。 SHIMA出身で、現在は自身のサロンgricoの代表を務める人気美容師 エザキヨシタカ氏も支持を集めました。 ヴィダルサスーンのディレクターとして活躍し、帰国後にDADA CuBiC(ダダキュービック)を立ち上げた 故・植村隆博氏、アップスタイルの第一人者である FEERIE(フェリー)代表の新井唯夫氏もランクインしました。 このほか、川島文夫、川畑タケル、山下浩二、池戸裕二、高田幸二、綾小路竹千代、内田聡一郎、神谷翼、浦さやか、古里オサム、白坂春光、坂狩トモタカ、高橋マサトモ、小松利幸、原田忠、小松敦、伊東秀彦、塚本繁、広江一也、IKKO、金丸佳右、朝日光輝、渋谷謙太郎、三科光平、土田瑠美、重永洋典、志賀功祥、長門政和、卯月勲、松本拓馬、松永英樹、松浦順司、寺村優太、佐藤寿仁の各氏らの名前が挙がりました。 「沖島柊二(ドラマ• ビューティフルライフで木村拓哉さんが演じた美容師)」「カリスマ美容師の人たち」などの回答もありました。 「令和」を代表するであろう注目の美容師 いま勢いがあるサロンの顔となっている美容師、情報発信力のある美容師に、新しい時代を代表することになるのではとの期待が寄せられました。 高木琢也氏、エザキヨシタカ氏、NOBU氏は「平成を代表する美容師」から続いて顔をそろえています。 さらに「CHOKi CHOKi」おしゃれキング出身で昨年自身のサロンLECO(レコ)をオープンした 内田聡一郎氏、タレントが通うことでも知られる人気サロンairで売上1位記録を伸ばしている 金丸佳右氏、PEEK-A-BOO出身でクリエイションに定評がありショーでの活動もが盛んな 神谷翼氏がランクイン。 中国出身で20代の若さで日本と中国に店舗を展開する新進気鋭のアーティスト&オーナーであり、インスタグラムのフォロワー数が日本の美容師でベスト3に入るという 京極琉氏にも新しい時代の顔として期待が寄せられました。 このほか、奈良裕也、中村太輔、前原穂高、広江一也、古城隆、浦さやか、馬場一馬、重永洋典、岩井謙介、齋藤剛、中山大地、栗原一徳、土田瑠美、松本拓馬、江波戸大介、藤原愛莉、長谷川浩一、伊藤竜、牛尾小百合、オオイケモトキ、西村晃一、楽人、谷口順哉、西川礼一、新目昌子、松本拓馬、小西恭平、佐藤泰貴、佐藤和寿、後藤晃一、丸山裕太、内田国栄、大藤亜季、岩永太一郎、後藤魁斗、古賀主馬、山内大成の各氏の名前があがりました。 「昭和」を代表する美容室 「昭和」を代表する美容室には、業界の礎を築いたレジェンドが立ち上げた老舗サロンがそろいました。 2位のHAIR DIMENSIONは昭和50年(1975年)のオープン。 カリスマ美容師ブームの立役者となったサロンのひとつでもあり、歴史に名を刻んだサロンであることは間違いありません。 3位の山野愛子美容室は、1925年(大正14年)に開店した「御結髪・松の家」が起源。 1938年(昭和13年)に「美容の殿堂・山野美粧院」を銀座にオープン。 今日では、着付けやメイクアップも行うサロンとして全国のホテルなどに多数展開しています。 昔の美容室はよく知らない、分からないとの声も少なくありませんでしたが、 SHIMA、MINX、kakimoto armsなど、現在も業界の第一線で存在感を示している名門サロンが堂々ランクインしました。 このほか、imaii、TAYA、boy、DaB、ヴィダルサスーン、ハリウッド美容室、ケンジ、カキモトアームズ、ZACC、Claude Monet、ZUSSO、グランド理美容、シゲルカットクラブ、丸の内美容院、KISEI、DIFINO、Noz、Yukio、スタジオV、エルム美容室、エクセルなどのサロンの名前が挙がりました。 「平成」を代表する美容室 カリスマ美容師が立ち上げたサロン、近年勢いを増す話題のサロンがランクインしました。 以下も、「平成を代表する美容師」「令和を代表する美容師」でランクインした人気美容師の在籍するサロンが顔をそろえています。 「令和」を代表するであろう注目の美容室 いま勢いがあるサロン、全社を挙げてSNSの活用に力を入れているサロン、近年増えている業態のサロンの登場です。 2位は、カカクコム創業者の槙野光昭氏が創業し、5年で年商10億円を突破、 SNSフォロワー数が40万を超える情報発信力でも注目を集めるALBUM。 「分からない」や「ない」も多く、「これからは時代を代表するような圧倒的なサロンというものは生まれないのではないか」という声もありました。 LECO、grico、otopeはそれぞれ若い世代の人気美容師である内田聡一郎氏、エザキヨシタカ氏、浦さやか氏のサロン。 美容学校の同級生が6名の共同代表という形で創業したLONDも「新しい形」と支持を集めました。 また、施術価格の2極化が進んでいる現状を踏まえ、手ごろな価格帯で全国展開を進め、理美容室合わせて業界ナンバーワンのシェアを持つ プラージュを挙げる声も。 メニューやサービスを絞ったカット専門店、ヘアカラー専門店の台頭を反映し、ブローはお客さま自身で行ってもらう方式をとっている カットルームカラーもランクインしました。 また「コンビニのようにいろいろな機能がある美容室」「インスタで人気の美容室」「ヘアカラーサロンのように専門に特化したサロン」などの予想が寄せられました。 大変多くの美容師の方、理容師やレセプショニストの方々にご協力をいただきました。 アンケートへのご協力、誠にありがとうございました。
次のこの絵をピカソはごく一部の友人にだけ見せたが、反応は芳しいものではなかった。 は腹を立て、ブラックは「三度の食事が麻クズとパラフィン製になると言われたようものだ」と言い、はピカソがそのうち首を吊るのではないかと心配したという。 しかしブラックはピカソの仕事の重要性にすぐに気づき、ひそかに『大きな裸婦』()を描いてそのあとを追った。 そしてゆかりの地方に旅し、『エスタックの家』をはじめとする7点の「セザンヌ的キュビスム」の風景画を描き、1908年秋に ()の画廊で公開した。 これを見た批評家の ()が『』紙上で「ブラックは一切を立方体(キューブ)に還元する」と書いた。 これがキュビスムの名の起こりと言われている。 もっともこの言葉は、の審査の席でマティスが先に使っている(ブラックはこの展覧会に7点の作品を持ち込んだが5点の展示を拒否され、これを不服として全作品を引き上げている)。 「キュビスト」という言葉はの『フィガロ』誌が初出である。 翌1909年からピカソとブラックは共同でキュビスム追究を始めた。 ごろの作品はどちらに帰属するのか判別しがたいほどよく似ている。 このころ、ふたりはほとんど作品を公開していない。 ピカソとブラックの共同作業は、ブラックがでフランス陸軍に召集されるまで続いた。 キュビスムがはじめて世に知られることになった契機は、1911年の第27回である。 ピカソとブラックの仕事に影響を受けたの画家たちが会場の一室を占拠し、キュビスムの一大デモンストレーションを行った。 観衆はそれらの「醜い作品」を見て衝撃を受け、口々に非難を浴びせた。 この事件は、詩人で批評家の、 ()、 ()が意図的に仕掛けたもので、その呼びかけに応じて参加した画家は ()、、マルセル・デュシャンは『自転車の車輪』などのでの先駆者となる。 呼称 [ ] ではキュビスム cubisme と、「ス」が澄んだ発音であるが、英語ではキュビズム(キュービズム) cubism と、「ズ」と濁った発音になる。 では、「立体派」と訳され、現在でも一部の文献(例えば、高校の世界史の教科書など)ではこの訳が用いられている。 しかし、正確に訳すのであれば、「立方体派」とすべきであり、このことから「立体派」という呼び方は誤解を生むので避けるべきであるという意見がある。 特徴と影響 [ ]• ルネサンス以来の「単一焦点による」の放棄(すなわち、複数の視点による対象の把握と画面上の再構成)• 形態上の極端な解体・単純化・抽象化 を主な特徴とする。 が色彩の革命であるのに対して、キュビスムは形態の革命である、という言い方をされることもある。 プラハのキュビズム建築 キュビスムの美術の分野における影響は大きく、にとどまらず、、、、にまでその影響は及んでいる。 特に、、、への影響は大きい。 理論的な難解さの一方で、視覚的には新奇で人目をひくため、多くの画家の好みに合致したところがあり、キュビスムはかなりの追随者を生んだ。 なお、キュビスムの経験はピカソ自身にとっても大きく、「キュビスムの時代」を終えたあともしばしばピカソの作品の中にキュビスム的なイメージが現れている。 ピカソもブラックも、キュビスムから抽象に向かうことはなく、具象にとどまった。 主な作家 [ ] フランス• (セクション・ドール) 日本• 時代区分 [ ] 以下の時代区分は、ピカソとブラックのキュビスムについてであり、その他の作家たちについては必ずしもあてはまらない。 初期のキュビスム(原始的キュビスム/プロトキュビスム) 『アヴィニョンの娘たち』以降、ピカソとブラックの作品は、人物、静物、風景のいかんに関わらず、立方体のような単純な形に還元されてゆく。 この時期に描かれた絵(特に風景画)はセザンヌ的であるので、セザンヌ的キュビスムということがある。 ちなみにこの時期を次の「分析的キュビスム」に含める考え方もある。 分析的キュビスム Analytical Cubism 夏頃以降、対象の分析・解体が進み、作品は平面に近づく。 何が描かれているか判別がつきにくいという意味では、最も難解な時期といえる。 代表作としては、「ウーデの肖像」(1910年)、「カーンワイラーの肖像」(1910年)(いずれもピカソ)がある。 総合的キュビスム Synthetic Cubism 春頃以降、形態の分析・解体が一段落し、揺り戻しが始まる。 この時期の特徴として挙げられるのはパピエ・コレ、文字の導入、シェイプト・キャンバス、色彩の復活である。 ロココ的キュビスム 頃、ピカソの作品に緑色を基調とした装飾性に富む作品が現れる。 その優雅な装飾性から、ロココ的キュビスムと呼ばれる。 この時期の代表作として「若い娘の肖像」(1914年)がある。 キュビスムと写真 [ ] キュビスムはに対しても大きな影響を与えているが、、、のように、キュビストそのものが、キュビスム的な写真作品を残しているということはまずない。 たとえば、が、写真作品を多く制作しているのは有名だが、キュビスムの写真作品と呼べるようなものではない。 一般に、「キュビスムの写真」と呼ばれるような作品は、キュビスムの影響を受けた作品のことで、人物、風景(自然のもの、人工的なものを問わず)等を撮影していながら、光と影の対比、幾何学的な形態(まる、三角、四角、水平線、垂直線、対角線など)の重視、対称の構成的な配置等に、強い特徴をもった作品であり、的な写真へと直結するような位置にある。 キュビスムの写真への影響は、むしろ、において、顕著だといわれることが多いようであるが、実際にはそれにとどまらず、、未来派、ダダ、シュルレアリスムそれぞれの写真作品にもその跡は見て取ることができ、いわゆる「の写真」にも大きな影響を与えている。 この範疇に含まれる具体的なとしては、では、、、など、では、、、、、など、ではを中心としたいわゆる「構成派」の写真家たち(松尾才五郎、 ()、津坂淳、西亀久二など が挙げられる。 特に日本では、静物でも人物像でも、単なる影響にとどまらず、「キュビスムそのもの」というような作品すらあり、また、黒と白の効果的な使い方も顕著に見られる。 関連分野 [ ]• ()(チュービズム) 前半のレジェのキュビスムの作品を、チュビスムと呼ぶことがある。 特に人物画において、チューブ状の物体に解体された作品が多く、この呼び名の由来となっている。 ()(サンクロミスム) キュビスムの影響を受けて、に、において、( - )と ()( - )の2人のアメリカ人により主張された絵画形式。 基本的にはキュビスムの影響により抽象性が増した作品だが、色彩豊かな作品で、に近い。 抽象性が徹底している作品ばかりではなく、再現的な作品もあり、その点でも、オルフィスムに近い。 短命であり、ごろには、ほとんど具象作品に回帰した。 やはりパリにいた、 ()( - )と( - )の2人のアメリカ人の同時期の作品を含めて考える場合もある。 また、シンクロミズム自体を、オルフィスムに含めてしまう考え方もある。 ニール・コックス・田中正之訳)『キュビスム(岩波世界の美術)』(、2003)• ほか編『キュビスムと抽象美術』(『世界美術大全集 西洋編』第28巻、小学館、1996)• モーリス・セリュラス(西沢信弥訳)『キュビスム』(〈文庫クセジュ〉、1964) 画集・作品集• () ()(花澤志「」(『美學』55 3 , pp. 14-27, 2004)• 田淵晉也「」(『ほArtes(か宝塚造形芸術大学紀要)』15, pp. 117-132, 2001) 参考文献 [ ]• (監訳)『ロココからキュビスムへ : 18〜20世紀における文学・美術の変貌』(、1988)• John Pultz and Catherine B. Scallen, Cubism and American photography 1910-1930, The Sterling and Francine Clark Art Institute, 1984. 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 (、)• 外部リンク [ ]• (英テート美術館収蔵のキュビスム作品)• (米メトロポリタン美術館によるキュビスム解説)• (東京国立近代美術館、同名の展覧会の特設サイト).
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