さて、この「」という映画のプロットを書いていきたいと思います。 そして夏休み、彼らと親密な友人何人かで沖縄旅行を計画する。 沖縄旅行の最中で起こった様々な事件や家庭での問題が起因してか、二学期が始まった頃、星野は凶暴化し、驚くべき豹変を遂げていた。 やがて、蓮見はいじめの標的になるだけでなく、利用されるようになり、万引きや等への加担を強要される。 そんな日常に鬱屈、悲嘆していた蓮見の唯一の救いそれは「」というアーティストの音楽を諦聴することである。 また、自分が開設、管理する「リリフィリア」というリリイシュシュに傾倒する人間が集合する板に心意を表出することでも、同じことが言える。 その板で蓮見は「 青猫」というハンドルネームのユーザーとに共鳴する。 急進的にカレートしてゆく、星野らの蛮行に利用され疲弊する蓮見は、リリイシュシュの音楽に安楽や解放を求めるも現実を甘受せざる得ない。 後に、リリイシュシュのライブの開催が決定し、蓮見は青猫を名乗る人物との、対面を約束する。 以上が少し、ネタバレを包含したプロットです。 僕が思うに、社会的には対極にあるとも言える星野と蓮見には、リリイシュシュというアーティストに心酔しているという点以外に或る、共通性が重要だと考えられる。 それは、精神の解放への渇望である。 また、この共通性は、を強いられている津田にも見られる特質でもある。 ここで確認しておかなければならない、頻出ワードがある。 それは「 」と言うものだ。 劇中では、感性の触媒、特別なオーラのようなもの、また、リリイはの覚醒者という記述もあった。 僕が思うにリリイシュシュというアーティストは錯覚であって、本質はこのという触媒なのではないか。 人間な元から持つ活力の源泉なるもの、それを意欲感などに転換する媒質。 つまりリリィは無力な偶像だ。 ライブでのインタビューを受ける、リリィに依存した自閉的なファンの様子がそれを物語っている。 劇中の板の投稿にも見られる、リリィの存在を神格化することに対する批判。 これがなかなか大きな要素であるように感じる。 これは多分、蓮見に教えてもらったリリィの音楽に感動したが、結局は何の救済にもならなかったという皮肉的な文章だろう。 リリィの音楽に依存し、欺瞞しても拭えない孤独感や絶望感。 そんな現実と音楽の世界観に生じるギャップが星野の変質を幇助したかのように感じる。 もう分かるかもしれないが、さらなる深淵にある物語の根幹それは、リリイの音楽ではどうしても解決しない酷薄な現状を抱える少年少女。 この第二の共通性こそがルファクターであるように思える。 そして彼らは独力で解放を実現しようとする。 会社が倒産し、一家離散。 いじめられっ子だったという過去も相乗してか、この状況から脱却し、解放されるべく暴力を身につけた星野。 に日々、憔悴し、自ら命を絶つことで解放を求めた津田。 星野は暗澹たる日常の主因である蓮見を殺害することによって解放を求めた。 ここで重要なのは彼等が自発的に、解決のために行動を起こしたという点にある。 つまり、リリイの音楽という媒質は、感受性を鋭敏にし、あらゆる事象に対して繊細になり、心からの共鳴を実感することによって、時には精神の安定化を促進することもだろう。 しかし、現実は変えられない。 触媒は触媒。 あくまで現象を増進させるためのクスリに過ぎない。 最終的に行動を起こすかは自分で判断するしかないというメタファーになっている。 リリイに対する盲信は、腐敗した日常の中では生きられない。 最後に〜 この作品が本当にリアルな14歳を投影できているか?なんてことは甚だ末梢的な話だと思う。 しかし、現実と乖離した、凄惨ないじめや、生徒の関係などを利用して、ここまで寓意的に人間の孤独と虚無を抱かせる映画は今まで観たことがない。 kouta1015229.
次のこの映画を観る度に、僕は主人公の蓮見と自分を重ね合わせる。 主人公の蓮見と僕には同じトラウマがあるというか、蓮見を通して自分の思春期をもう一度見せられているような映画だ。 ごくたまに自分によく似た物語に出会う事があるけど、そういう物語は必ず心を抉ってくる。 中学の時、僕も蓮見と同じ剣道部だった。 蓮見は中学からだけど、僕は小学校の時にイジメを受けていた。 イジメの対象は僕だけでなく、クラスの権力者に目をつけられた者はみんなそのグループにイジメられた。 だからイジメを受けつつ、仲間に加えられる時もある。 イジメの主犯格であった同級生は奇しくも星野と名前が一緒で、学年でトップクラスの優等生だった。 友達だった時期もあったけど、彼の何かが壊れると、僕たちの関係性も変わった。 映画でも蓮見と星野の関係性が僕たちのように変わる。 ただ二人の関係を唯一繋ぐものとして、物語の中には実体が不明な 「リリィシュシュ」というアーティストが存在する。 リリィはファンたちの不協和音に共鳴して、それを協和音に昇華するアーティスト。 エーテルを音楽にした人。 僕の思春期にもリリィみたいな拠り所が必要だったけど、リリィのように神格化されたアーティストはいなかった。 でも思春期に出会った音楽には僕も救われた。 岩井俊二監督の作品は映画というより、どれも長編の音楽PVを観ているような感覚がある。 特にこの 「リリィシュシュのすべて」は、映画自体がリリィの音楽PVみたいな感じがして、陰鬱とした内容ではあるけど、バラードを聴いている時のような癒しと心地良さがある。 田園と鉄塔の風景がすごく印象に残る音楽PV。 観終わった頃には抉られた傷も不思議と回復している。 僕はこの映画の影響かは分からないけど、ずっと沖縄に行きたいと思っていて、以前縁あって沖縄の西表島に1年半くらい住んでいた。 物語では蓮見と星野も夏休みの旅行でこの島を訪れる。 僕も西表島からアラグスクを見た。 夏休みが終わって登校すると、何人か雰囲気とか様子が変わっている同級生が僕の時も確かにいた。 僕自身も何かしら変わっていたのかもしれないけど、生死を彷徨うような体験をした人間は、もっと劇的に変わる。 臨死体験レベルになれば、自分がもう一度生まれ変わり、世界も変わったように思えるくらい劇的な変化をその人に齎す。 僕も鳥取砂丘で野垂れ死にしそうになった時、自分自身に劇的な変化が起きる体験をした。 僕はその時命の重さを感じたけど、星野は命を軽く感じてしまったのかもしれない。 そして夏休み明けから蓮見と星野の関係性も変わる。 それでも蓮見が作ったリリィのファンサイトを通して二人はまだ繋がっていた。 物語はリリィが繋いでいた二人の関係性を蓮見が完全に断ち切る事で幕を閉じる。 方法は違えど、僕も彼との関係を断ち切った。 断ち切る時に瞬間的な痛みはあったけど、時間が経てばいずれ傷は回復する。 傷が癒えた僕は機会さえあればまた彼に会えるけど、蓮見は傷が回復してももう星野には会えない。 原作の小説も面白いのでぜひ読んでほしい物語だ。
次の6回目となる今回は、今から18年前の2001年10月に公開された『リリイ・シュシュのすべて』 だ。 内容をざっくりと振り返っても、中学生たちのいじめ、援助交際、万引きなどの犯罪行為など、過激な要素がどうしても目につく。 直接的な描写はおおむねで避けられてはいるが、それでもトラウマになってもおかしくないほどにショッキングな場面も存在している。 それらに必要以上の不快感を示してしまったり、眉をひそめてしまう方がいるのも致し方ないだろう。 とは言え、『リリイ・シュシュのすべて』はただ露悪的に残酷な要素を並べ立ているわけではない。 その理由を大きなネタバレに触れない範囲で、考察を交えながら以下に記していこう。 例えば、主人公の少年が残酷な現実にさらされ「僕にとってリリイだけがリアル」と掲示板に書き込むシーンがある。 この言葉は「現実よりもリリイ・シュシュのほうが現実(リアル)だと思い込みたい」とも言い換えられるだろう。 それほどまでに主人公の現実は生き地獄そのものと化しており、その現実から逃避するために(もしくは現実を生きるための糧として)、彼はリリイ・シュシュの音楽を求めているとも取れるのだ。 事実、リリイ・シュシュの音楽は劇中でたびたび流れている。 例えば、主人公が自慰行為を強要されるという苛烈ないじめを受けている間も、リリイ・シュシュの音楽は流れている。 しかし、そのリリイ・シュシュの音楽を求めるという純粋な気持ちさえも、劇中では踏みにじられてしまう。 いじめを受けている時に流れていたリリイ・シュシュの音楽は、最新アルバムのCDが真っ二つに割られた時に、ピタッと止んでしまう。 音楽に限らず、小説、映画、絵画などの創作物があって今の自分がある、それらの創作物があってこそ救われたという方は少なくないはずだ。 そうであれば、『リリイ・シュシュのすべて』は主人公の気持ちが痛いほどわかる、胸にズシンと響く、まさに生涯に渡り大切な一本になるのかもしれない。 映画の冒頭では、掲示板に「エーテルって何?」という質問が書き込まれた後に、「この映画のタイトル:リリイ・シュシュのすべて」と表示されているため、エーテルという概念を解き明かすことが、この映画の主題そのものと言っても過言ではないかもしれない。 その解釈の根拠は、たくさんのリリイ・シュシュのファンがエーテルについてポジティブなものもネガティブなものも含めた熱い議論を掲示板で交わしていること、主人公が「僕にとってエーテルだけが生きた証」などと書き込んでいること、そしてリリイ・シュシュの音楽が前述した苛烈ないじめの時だけでなく、剣道部の先輩が肩を組み、女子生徒から写真を撮られ、みんながニコニコと笑っているというシーンでも流れているということにある。 その存在から受け取るものはとても一言でまとめられるものではない、だからこそエーテルという抽象的かつ曖昧な概念が使われていたのではないだろうか。 ちなみに、劇中ではリリイ・シュシュだけでなく、ドビュッシーのピアノ曲も多く使用されている他、沖縄ツアーで演奏してもらった音楽も繰り返し流れていたりもする。 エーテルは劇中でリリイ・シュシュのファンにとっての一種の共通言語であり、リリイ・シュシュだけにある概念であるようにも語られていたが、実際はどのような創作物にも当てはまるものだろう。 創作物でただ救われた、癒されたというだけでなく、言葉にできないほどの複雑な感情を覚えたという方もまた少ないないはずだ。 『リリイ・シュシュのすべて』から得られる、創作物やそのものの意義や可能性とは? 『リリイ・シュシュのすべて』を観ると、創作物やそのものの意義や可能性をどうしても考えてしまう。 「わざわざ映画を観て、なぜ暗く辛い気持ちにならないといけないのだ」と思う方も当然いるだろう。 劇中の中学生たちによるいじめ、援助交際、万引きなどの犯罪行為などは、ある意味では極端かつ過激すぎてリアリティに欠けているとも言える(それを持って本作に否定的評価を下す方も多い)。 残酷な出来事と相対するような美しい映像の数々は、その感覚をさらに加速させている。 何より、(言うまでもないことだが)人生は決して楽しいことだけでない。 もしもこの世がハッピーな気持ちになる映画ばかりであったら、相対的に現実の自分が惨めに思えてしまうということもあり得るだろう。 現在大ヒット上映中の映画『ジョーカー』もそうなのだが、「あの人物はなぜ悪に堕ちてしまったのか」について様々な解釈・議論をすることで、相対的に「どうすれば良かったのか」と現実の問題に立ち向かうヒントも得られるのではないだろうか。 理解し合うことができていれば、ひょっとすると最悪の悲劇は免れたのかもしれない……ということも物語上では悲劇ではあるのだが、それもまた相対的に現実で生きる糧になり得るはずだ。 俳優として今でも第一線で活躍している市原隼人や蒼井優が、当時の若々しい頃の魅力を、その存在感や役者としての実力を早くも見せつけているというのは感慨深いものがある。 『シン・ゴジラ』に出演した高橋一生が剣道部の憧れの先輩として、市川実日子がツアー案内の女性として登場したりするのも面白い。 果てはその『シン・ゴジラ』で監督を務めた樋口真嗣が不良たちにカツアゲをされてしまうオタク役を演じていたりもするのだ。 岩井俊二監督作品であれば『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか? おまけその2:原作小説を読んでわかることとは? 『リリイ・シュシュのすべて』にはインターネットで連載されていた、原作となる小説版がある。 小説では(当然であるが)主人公の心理が文章で明確に綴られており、映画でわかりにくかった箇所を補完する内容にもなっている。 映画だけを観てモヤモヤが残りすぎてしまったという方は、ぜひ読んでみてほしい。 ちなみに映画の終盤では、原作とは違うある展開が起こる。 映画とは違う物語として、小説版に触れてみるのもいいだろう。 その待望の監督最新作『ラストレター』が2020年1月17日公開予定となっている。 『ラストレター』は岩井俊二監督の故郷である宮城県を舞台としており、岩井監督自身の原体験を詰め込んだ集大成的作品であるとされている。 『ラストレター』の出演者は、松たか子、広瀬すず、福山雅治、神木隆之介、庵野秀明、森七菜(『天気の子』のヒロインの声優を務めた)など、非常に豪華だ。 岩井監督ならではの美しい映像や、唯一無二と言える洗練された語り口もきっと健在なのだろう。 公開を、心から楽しみにしたい。 参考文献: 文=ヒナタカ インディーズ映画や4DX上映やマンガの実写映画化作品などを応援している雑食系映画ライター。 『君の名は。 』や『ハウルの動く城』などの解説記事が検索上位にあることが数少ない自慢。 Twitter• 374• 154• 391• 100• 134• 704• 302• 107• 435• 103• 139• 115•
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