宮城峡シングルモルトの一般的な評価からまずはマイナスを指摘する感想として「同価格帯のスコッチウイスキーと比べると熟成年数が少ない分、熟成感ではあと一歩」「アルコール臭さが強すぎて、結構きつかった」「個性という意味で、サントリー山崎や響の代わりにはなり得ない」「フルーツのような香りと独特の後味 癖 が強いので、好みが分かれそう」など。 ちなみに、支持するレビューには「山崎や響の代わりになるくらいおいしい」という感想もありますから、お好み次第といったところ。 そのほかの支持する口コミには「クセもなく、かろやか、しっかりとしたウイスキー」「スパイサイドモルトのようなフルーティな香りで、かなりモルティーな風味が感じられる」「リキュールに近い香り。 味はウイスキーの強さがちゃんとある」「熟れた果実の香り、甘み、ビターを感じた」「甘くて華やかな飲み口」「鼻から広がる花のような香りの立ち方が非常に気に入っています」などのレビューが見られます。 バニラアイスにかけたり、料理の味付けに使ったりする人もいるようですね。 宮城峡蒸溜所は宮城県仙台市青葉区の広瀬川と新川 ニッカワ が合流する自然に囲まれた場所に位置しています。 近寄りの駅「作並駅」から徒歩で約25分かかるため、アクセスがいい場所ではありませんが、まわりの風景や建物の美しさを楽しめるのが宮城峡蒸溜所ならではです。 ギフトショップが充実していて、蒸溜所でしか購入できない限定ウイスキーやお菓子がいろいろあります。 上のリンクからチェックしてみてくださいね。 宮城峡シリーズには「シングルモルト宮城峡2000's」「モスカテルウッドフィニッシュ瓶」「シェリーカスク」、宮城峡蒸留所限定の3種類「シェリー&スイート」「フルーティ&リッチ」「モルティ&ソフト」があります。 終売の「10年」「12年」「15年」はすっかり高値になってしまいましたが、ヤフオクなどでニッカ宮城峡の旧ボトルを調べてみたので、在庫に興味のある方はこちらをどうぞ。
次の「余市15年」が高額になる理由とは? 北海道の余市蒸留所が造る、「余市15年」。 余市自体、素晴らしいブランドであり、そのどれもが高価な価格で取引されている。 しかし、これだけ世界中にウイスキーがあるのにも関わらず、なぜ「余市15年」は高価買取査定となるのだろうか。 ここでは、「余市15年」が高額査定になる理由について、さまざまな角度から迫ってみたいと思う。 ドラマ人気、ハイボール人気、そして品質の高さが手伝ってか、国産ウイスキーの原酒は今底をついている状態だ。 「余市15年」も、原酒不足となり、結果的に終売となってしまったのだ。 余市シリーズの中でも人気が高かった15年だけに、終売は余計にファンやマニアたちの購買意欲を掻き立てた。 結果、価格が高騰していったのだ。 希少価値の高さから価格が高騰 前述しているように、「余市15年」は終売になってしまい、結果的に希少価値が高くなってしまった。 もちろん、終売は関係しているのだが、ポイントとしては「二度と増えることはない」ということだ。 要するに、1本誰かが飲めば、この世から「余市15年」は消え去る。 つまり、製造されていない分、日に日にその数は減少の一途を辿る一択しか残されていないのだ。 結果、希少価値は日に日に高まり、価格が高騰するのだ。 ジャパニーズ・ウイスキー人気の影響 ウイスキーファンの方であればもちろん、お酒好き方であれば、今「ジャパニーズウイスキーブーム」が到来している、ということに気がついているはずだ。 品質の高さ、希少価値、さらに国内産という3拍子揃った希有なアイテムだけに、ファンやマニアだけでなく、一般の酒好きも好んで購入するようになった。 この状況の中、パイオニア的な存在の余市に人気が集中するのは自明であり、「余市15年」が話題になるのも当然なのだ。 世界的にも評価が高いこともポイント 「余市15年」は、ジャパニーズウイスキーだからとか、希少価値が高いとか、そういったことだけが人気の理由ではない。 やはり、品質がついていかなければ、必ずどこかで叩かれる。 実は、「余市15年」はISC インターナショナル・スピリッツ・チャレンジ)金賞受賞をはじめ、ISCの銀賞受賞経歴を持っている。 世界の権威あるコンクールで認められているワールドレベルのウイスキーである、ということの証明が出来ているのだ。 余市15年を高く売るためには? 「余市15年」が、注目されていることがお分かりいただけたと思う。 ここで注意しなければならないのが、こんな「余市15年」だからこそ、1円でも高く買取査定をしてもらうことだろう。 実は、「余市15年」だかといって、どんな業者に持ち込んでも高価買取査定となるかは限らない。 ここでは、「余市15年」を高く売るためのポイントやコツについて解説していこう。 「余市」の価値や相場を知ろう 「余市15年」を買取する前に、客観的に余市自体の価値や相場を確認しておく必要性があるだろう。 今、市場で余市はどの程度の立ち位置にいるのか、販売価格は、オークションで出されている価格など、さまざまな角度から余市について知っておく必要がある。 当然、相場価値が高い状態であれば買取価格は上がる。 「余市15年」は今、もっとも高額査定が期待できる時期に来ている。 ぜひ、その瞬間を見極めてほしい。 買取に出す前に確認すべき事項とは? 「余市15年」の相場の把握、そして信頼できる買取業者の選定が終わったら、最後に確認してもらいたいポイントがある。 それが、開封状態、そして付属品やラベルの状態だ。 いくら「余市15年」の価値が高くとも、飲みかけ、ラベルはボロボロ、付属品も一切なしだと価格はつかない。 できるだけ、購入時の状態で残っていることがベストだ。 細かな部分だが、これが徹底しているかしていないかで、大きく査定額が変わるので注意だ。 「余市15年」について さて、「余市15年」を高価買取査定するためには、まだまだ余市のことを知らなければならない。 「余市15年」について、細部まで徹底して研究し尽くすことが、高価買取査定に繋がっていくポイントだ。 ここからは、さらに「余市15年」のことについて、さまざまな角度から解説していきたいと思う。 「余市15年」とは? 「余市15年」とは、余市蒸留所にて、ニッカウヰスキーが製造しているシングルモルトウイスキー。 「石炭直火蒸溜」が使用されているウイスキーであり、独特の香りが楽しめる人気のジャパニーズウイスキーである。 希少価値の高い原酒を使用している15年は、香りが華やかでありながら、深みがあり一度飲んだら忘れられないうまさだ。 余市蒸留所は、登録有形文化財に選ばれているなど、日本が誇るべき1本といっても過言ではない。 「余市15年」の入手方法とは? 「余市15年」は、終売ということで、今は店鋪に在庫を残している酒屋やネットショップ、オークションで手に入れるしか方法は無いだろう。 直接、余市蒸留所にいくのもおすすめだが、購入できる保証は無い。 馴染みのバーなどで「余市15年」が提供されていたら、マスターに頼み込んで売ってもらう、ということもできるかもしれないが非現実的だ。 やはり、「余市15年」はなかなか手に入らない貴重な品物なのだ。 「余市15年」に定価はあるのか? 今、「余市15年」は高額な価格で取引されている。 終売というワードが飛び交うことで、ファンやマニアが取引を行い、価格はどんどん高騰していった。 ネットでは、8万円前後の価格で販売されており、オークションでも10万円前後という落札結果もあるほどだ。 「余市15年」の定価は厳密にはわからないが、700ml、45度で8,500円とされている。 今後、今よりも価格が高騰していくことは間違いないだろう。 「余市15年」の買取相場とは? 「余市15年」は、買取業者によっても買取査定額が変わってくる。 そのため、全体的な買取相場だけは把握しておいた方が良いだろう。 「余市15年」はまだまだ価格が高騰する可能性がある。 ぜひ、相場を随時確認しておこう。 酒買取の専門店であるストックラボのプロ鑑定士が導き出した買取相場は下記のとおりだ。 余市15年 買取相場• もちろん、「余市15年」に関してはまだまだ、さまざまな魅力がある。 最後に、より「余市15年」を楽しみたいという方のために、「余市15年」にまつわるウンチクとしておすすめの飲み方を少し紹介していこう。 ぜひ、参考にしてみてほしい。 「余市15年」のおすすめの飲み方 「余市15年」は、甘いレーズンを思わせる香りのある、深い味わいのウイスキーだ。 ピート香も効いており、ロックで飲むとその真価を最大限楽しむことができる。 また、樽由来のバニラ、カラメルなども感じることができるので、ストレートで楽しむと濃厚さをしっかりと味わうことができるだろう。 実は、「余市15年」はハイボールにも向いており、炭酸のしっかりと効いたソーダ水で割れば、最高の1杯としてうまれかわる。 まとめ 「余市15年」の魅力、買取相場などについて紹介してきた。 これからも、ジャパニーズウイスキーは注目され続けることは間違いない。 その時の主役は「余市15年」。 ぜひ、チェックしておこう。
次の余市蒸溜所限定販売のため、市場に出た本数が少なくファンの間では今も人気の高い商品となっています。 「シングルモルト余市2000s」は「余市1980s」と「余市1990s」の3シリーズのうちの1本で、「余市2000s」がその中でも最も安価なお値段ですが、それでも500mlで6500円程度と高価です。 しかしながら、その風味には何とも言えない美味しさが漂います。 ストレートでいただく場合は、ぶどうのような香りを強く感じ、まず口の中に真っ先に広がるのが特徴です。 ウイスキー特有のピートの香りは、その後からやってきて、多少の渋みや塩辛さがあるものの、ぶどうの甘さと酸味があいまった風味が味わえる逸品です。 「日本で本格的なウイスキーを造りたい、そのためには人生の全てを賭ける」という情熱と信念のもと、政孝は修業に励んでいました。 そんな政孝のウイスキーに注がれる愛情の深さと、技術の習得に打ち込む姿勢に魅せられた、一人の女性がいたことをご存知でしょうか。 その女性の名前は「ジェシー・ロバータ・カウン」といい、「リタ」の愛称で呼ばれていました。 1896年 明治29年 12月14日、イギリススコットランド南西部のグラスゴー郊外にある、イースト・ダンバートンシャー カーキンティロック地域で、医師サミュエル・カウンの長女として誕生しました。 リタには二人の妹と一人の弟がおり、次女のイザベラ・リリアン・カウンは「エラ」の愛称で愛され、三女のルーシー、弟のラムゼイそして母親と共に、町でも最も豪華な建物と言われる屋敷で裕福な暮らしをしていました。 しかし、リタは幼いころから偏頭痛に悩んでおり、15歳になる頃には学校に通うことができなくなり、個人教授を受けて勉学に励んだのです。 そんなリタでしたが、18歳になる頃には健康を取り戻し、グラスゴー学院に入学してからは音楽や英仏文学を学びました。 グラスゴー学院を卒業後は自動車免許を取得し、医師である父の往診を手伝う毎日でした。 そんな日々を送っていた1919年 大正8年 、リタは政孝と運命的な出会いを果たすことになるのです。 リタはその翌年の1919年 大正8年 に、結婚を約束していた婚約者を第1次世界大戦で亡くしてしまいます。 失意の日々を過ごすリタの元に、ある日当時グラスゴー大学の医学部に通っていた妹のエラが、弟ラムゼイに柔道の指南をしてくれる人物としてカウン家に連れてきたのが政孝だったのです。 リタと政孝には音楽好きという共通点があり、リタがピアノを弾き、政孝は日本から持参した鼓を仲良く演奏する姿がよくみられました。 そしてお互いの親睦が深まり、いつしか二人の間には愛情が芽生えていったのです。 政孝はリタにプロポーズした時、「スコットランドに残っても構わない」とさえ言ったと言います。 日本人に合うウイスキー造りにあれほど情熱をかけていた彼の言葉は、リタにとってこれ以上ない嬉しいプロポーズの言葉だったことでしょう。 しかし、リタは「私はあなたの夢を共に追い、お手伝いをしたいのです」と答え、政孝の夢を実現するため故郷スコットランドを離れることを決意をしました。 ところが当時は国際結婚に大きな抵抗感があった時代で、当然のようにカウン家・竹鶴家の双方から二人は結婚を反対されました。 そのため、1920年 大正9年 の1月、に二人は登記所で書類を提出するだけの略式結婚を選び、同じ年の11月に政孝は青い目を持つ英国人女性を妻として連れて、日本に帰国したのです。 「マサタカサン」と呼びづらかったリタは、政孝を「マッサン」と親しみを込めて呼んでいたと伝えられています。
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