UNHCR 土岐日名子さん 「先生は全部で何人ですか?」 「たった1人です。 」 UNHCR 土岐日名子さん 「小学校にあがっても結局、算数と英語とビルマ語と、ちょっとした程度にとどまっているので、どうやって自分の力で考えて、いろいろなことを学んでいくのか、ベースができていかない。 子どもたちの将来、本当にどうなっていくんだろう。 」 緒方さんがトップを務めた時代に、難民支援に携わるようになった土岐さん。 困難に直面するたびに背中を押す、緒方さんの言葉があります。 緒方貞子さん 「現場感というものがなくて、人は説得できないと思いますよ。 現場の感覚がないと本当に、こうしたらどうですか、ああしたらどうですかと提言は出来ません。 」 第11代国連難民高等弁務官 フィリッポ・グランディさん 「私がコンゴにいたときのことです。 非常に危険な状況でした。 内戦の最中でしたから。 命を危険にさらしても、難民保護のためにとどまるべきか、撤退すべきなのか、決断を迫られました。 そこで緒方さんに電話をしたところ、彼女は『もしとどまれば、難民の命を救うことができそうですか?』と聞いてきました。 『出来ると思う』と答えると、彼女は言ったんです。 『それなら、とどまるべきです』と。 」 緒方さんの言葉や姿勢は、今も難民支援に携わる多くの人たちの記憶に深く刻まれています。 UNHCR マリン・ディン・カシュドムチャイさん 「ある避難民(旧ユーゴスラビア)のテントに緒方さんが訪れたときでした。 一家のおじいさんが『客人が来てくれたのに、何のおもてなしも出来ない』と泣き出したのです。 すると緒方さんは、そこにあった古いミルクを飲み、おじいさんは本当に喜びました。 思い出すと涙が止まりません。 厳しい時代にこそ、彼女のようなリーダーが必要なのです。 日本国際問題研究所 理事長 佐々江賢一郎さん 「緒方さんは、日本に良くなってもらいたいというのが非常に強かった。 若い人たちに対しても、日本の中だけで安住していると世界は大きな変化を遂げつつあるので、その中で日本はうまく対応していけないんじゃないですかと。 もうちょっと世界を知りなさいと。 そうでなければ日本は、だんだん弱小の、尊敬される立場になっていかない。 」 緒方貞子さん 「私はいま、非常に日本は内向きになっていると思います。 これは外国人労働者の問題もありますし、それから難民の受け入れにも問題があるのです。 非常に少ない。 それはやっぱり、あまりに自分たちのこと、あまりにも日本の内向きのことばかり考える、上から下まで。 自分のことだけでなく、広がりをもった日本をつくっていただきたい。 」 武田:「現場主義」「生きてもらう」。 緒方さんが最も大切にしてきた価値は、人の命を助けること。 その思いは今も、難民支援の現場に生き続けています。 ほかにも、次の世代に向けたこんな言葉を残しています。 「難局は乗り越えるもの」「ミッションのためにルールを変える」そして「何でもしてやろう」。 緒方貞子さん 「何でも見てやろう、何でもやってみよう。 そういう意気を持って、若い人には生活していただきたい。 本当に人間とはどんなものなのか、どういう人がいるのか、自分の仕事はどういうものかということを、肌で感じて考えてほしい。 」 「何でもみてやろう」「何でもしてやろう」そのことで、自分の視野は広がる。 この緒方さんの言葉を若者たちに伝えているのは、就職支援会社に勤める河村香織さんです。 大学生向けに、社会人になるためのキャリア教育を行っています。 河村さん自身、大学生のころに緒方さんの言葉と出会い、導かれてきたと言います。 河村香織さん 「迷ったときに、何か指針になるような、こうありたいという自分が目指す方向を思い出させてくれるような、そういう言葉だと思います。 」 河村香織さん 「言葉では分かっていて、すてきな言葉だなと思っていたんですけど、実際の自分の行動で『ああ、こういうことだったんだな』って。 ものすごく狭いところだけで終わらずによかった。 もったいないことをするところだったなって。 」 緒方さんの「何でもしてやろう」の精神を、河村さんは今の学生たちに伝えたいと考えています。 河村さんの会社が開いた企業説明会です。 売り手市場の近年、学生は知名度の高い企業だけにしか目を向けない傾向があるといいます。 河村香織さん 「九州の食品の流通のことをやっている会社があって、ちょうど聞けるので2人で聞きませんか?」 学生 「ちょっと、いいです。 」 河村香織さん 「ちょっと違う?」 2003年、JICAの理事長に就いた緒方さん。 この言葉の通り、強いリーダーシップで難局を乗り越えたことがありました。 労働力として期待され、日本に来ていた日系人が、景気の悪化で大量に解雇されたときのことです。 JICA 田中雅彦さん 「『調子がいいときは日系人の方々を日本へ呼んで、日本の調子が悪くなったら皆さん帰すんですか?』と。 『あなたはそれで平気なんですか』って、すごく怒られましたね。 」 緒方さんたちは、各地で日本語教室を開催。 引き続き国内で仕事が得られるよう、後押ししたのです。 海外での支援活動を主な任務とするJICAでは、前例のない取り組みでした。 JICA 田中雅彦さん 「彼女(緒方さん)はよく『ミッションのためにルールは変えればいいのよ』と言っていまして、『乗り越える方法を考えなさい』というお叱りをいろんな場面でいただきました。 」 「難局は乗り越えるためにある。 向き合ってぶち破れ」 この緒方さんの言葉を実践しているのが、NPOの代表、渡部清花さん。 母国で迫害を受け、日本に逃れてきた外国人たちを支援しています。 外国人支援のNPO代表 渡部清花さん 「一番大変なはずの、日本に着いてからの数か月を、どこにもつながらずに過ごしていた人たちも多い。 生まれて初めての状況に『すごく心が動揺している』と言う人たちもいる。 」 今、渡部さんが直面しているのが、日本の難民認定の厳しさです。 NPOでは、これまで160人の申請者を支援してきましたが、難民認定を得られたのは、わずか1人にすぎません。 どうすれば、外国人の命や生活を守れるか。 思い起こしたのは、「目的を達成するためにはルールも変える」という緒方さんの哲学でした。 外国人支援のNPO代表 渡部清花さん 「彼女(緒方さん)だったらどう考えるんだろうとか、『仕組みが難しい』とか『ルールが無い』とか、そういうことを言ってちゃいけないなと思って。 『だったら自分で動いてみよう』って、何回も背中を押されたので。 」 渡部さんは、支援する外国人を企業と結びつける、新たな取り組みを始めています。 静岡県の大手バイクメーカーです。 渡部さんが紹介したアフリカ出身の男性を、今年7月に採用。 男性は、アフリカでの市場開拓に力を発揮しています。 大手バイクメーカー 「即戦力の1人ですよ、まさに。 いろんな困難にぶつかりながらも乗り越えて、それをビジネスにしていくっていう。 似てる感じがするんですよね。 必要なスキルっていうか。 」 安田さん:特に「誰もとりこぼさない」という言葉だったんですが、緒方さんが亡くなったという知らせを、ちょうど中東のシリア、イラクで取材をしているときに受けたんですね。 誰もとりこぼさない、そこに必要としている人がいる限り、そこでやるんだというその精神に、何か改めて思い返して、取材のための背中を押されたような気持ちだったんです。 特にシリアという国。 よく報道されているように、9年近く内戦が続いているんですよね。 今回の取材でも、シリアから逃れてきた人々の中で自分たちのことを本当に苦しめてきたものっていうのは、自分たちに武器を向ける人間ではなくて、自分たちは世界中から忘れられている、誰からも無関心の中に置かれているという言葉だったんです。 今回の現場でもやはり、例えばローカルなNGOでしたり、あるいは緒方さんがいらっしゃった国連の方々。 本当にいろんいろなことに、支援に携わっていたんですが、ただ単にそれって物理的に支援を届けるというだけではなくて、そこにその人たちがいるということが、私たちは誰もとりこぼさないよ、忘れていないと、何よりのサインになっていくんじゃないかなということは改めて現場で感じたところでした。 武田:そして、緒方さんへの30時間に及ぶインタビューをもとに回顧録をまとめられた国際政治学者の野林さんは、特にたくさんあると思いますが。 「時代の要請に従ったに過ぎない」。 この言葉が印象に残っていたと。 野林さん:緒方さんは、本当にいろいろな難しい決定をずいぶんなさってきました。 それは社会的な評価として確定していることですが、そういう苦労話とかをお聞きしたいと思って、何回かそういう質問をしたんですが、答えはいつも同じで、「それは時代がそうさせたんだ。 私はその時代の要請に従ったにすぎない。 誰がトップに立っても、同じような判断をしたと思いますよ。 」というお答えでした。 これは自然な人間の気持ち、命を大切にするということから考えれば、自然に答えが出てくる、そういう問題じゃないかと思いますって。 そういうことだったと思います。 私は、その言葉を何度も聞きましたけれども、本当に緒方さんは私心のない人だと、強く印象付けられました。 武田:だからこそ実現できたということですね。 そして、内向きになるなという緒方さんのメッセージ、印象に残りましたが、ふだん大学生とも多くのおつきあいがある宮田さんは、今の若い人たちにどういうふうに響いていると感じていますか? 宮田さん:学生たちは少子高齢化、人口減少、日本の厳しい現実に直面しています。 この中で、このままでは先がないのではということも感じていて、先日ある学生が真剣なまなざしで発した質問が、もし私が20歳に戻ったら日本から出ますか、という問いかけでした。 このとき、私の頭に浮かんだのは緒方さんの「大切なのは苦しむ人々を救うことだ」と。 「自分の国だけの平和はありえない」と。 こういう言葉ですね。 この言葉自体が非常に美しいですが、緒方さんの活動の中では、救ったはずの難民が命よりも復讐というものを優先して、今度は虐殺を行う側に回ってしまうと。 こういった文化や民族や思想の衝突の中で、多くの挫折、あるいは矛盾を経験されてきています。 ただ、その中でも、それでも人々の命から始めようと。 この信念は大変重みがありますし、この考えの中でノーベル経済学者のアマルティア・センと提案したのが、人間の安全保障という概念で、これがまさに今、地球規模の社会契約になっているSDGsというものにつながってきた、非常に大きな貢献だと思っています。 武田:しかしですね、今、自分のことでも精いっぱいなのに、遠い国の人たちのことなんて考えてられないよって、自国第一主義のような空気が広がっていますよね。 そういった時代に、緒方さんの何をどういうふうに学んでいったらいいのでしょうか。 安田さん:そういった場面で、緒方さんはよく「持ちつ持たれつ」という言葉を大切にされていたと思いますが、それは私もすごく共感する言葉で、その言葉から思い起こすことがあります。 東日本大震災以降、岩手県の陸前高田の仮設住宅に通っているんですが、仮設住宅の方が、紛争が続いているシリアの子どもたちが冬越えできるように、自分たちの服を集めて送ってくださったということがあったんですね。 自分たちは恩返しをしたいんじゃなくて、世界中の支援から恩送りをしたいっていうことをおっしゃっていて、やはり国際協力って、何か上から下の目線で見られがちですが、そうではなくて、何かお返しするという連鎖の中で、私たち一人一人が等身大でどんな役割を持ち寄れるかということですよね。 武田:宮田さんはどういうことが今、私たちにつきつけられているとお考えですか。 宮田さん:緒方さんが難民高等弁務官に着任されて、本格的に活躍が始まったのは63歳のときです。 それまで国連でも活躍されていたんですが、大学の非常勤講師ですね。 台所から参りましたという言葉からも象徴されています。 ただ、等身大の問題意識で物事を捉えた彼女の活躍は世界を変えました。 身近な大切なことを守るのは、目に見える世界の中では完結しないと。 世界とのつながりの中で考えていかなくてはいけない。 一人一人がどう暮らして、何を学んで、どう遊ぶのか。 これは世界とつながっているので、こうした視点の中で、彼女の問いかけである「あなたなら、どうする?」を考えるのが、これからの社会を生きる我々にとって、とても重要だと思います。 武田:「あなたなら、どうする」。 今、何をするか。 野林さん、この問いというのは何かドキッとさせられますし、今必要なことなんだなと思いますね。 野林さん:私にとっては、あなたは大学に勤めているけれど、学生に何を言っているんですか、何を教えているんですか、それがどういう意味があるんですか、という問いかけだったと思います。 なかなか難しいことですけど、やはり一人一人が小さな1歩を踏み出す。 そこから始めるという以外にないんじゃないでしょうか。 1日100円積み立てて、1か月3000円。 そのお金が、非常に難民支援に大きな意味があるということは忘れてはならないと思います。 武田:例えば、そういうことでも一人一人が考えるべきことはあるということですね。 先週亡くなった中村哲さん。 そして緒方貞子さん。 強い信念を持ったお二人の言葉から私たちは何をするのか。 考え、行動していかなくてはならないと思いました。 UNHCR 長谷川のどかさん(36) 「リーダーシップをもって、当時女性でそういう場にいるということも、今も難しい中で、そういうことを感じさせない。 日本人だからではなくて、人間として強くて優しい。 」 UNHCR 森貴志さん(30) 「(緒方さんとは)直接一緒に働いたとか、話をしたという経験はないですけど、明確に私の中に根付いているものは、どれだけポジションが高くても、一人一人の難民に対して真摯に向き合って、より弱い立場の人達に寄り添う姿がやはり印象に残っている。 」 緒方貞子さん 「歴史に学び、他者に学び、そして常に先のことを考えて暮らしていかなきゃね。 自分だけじゃなくて。 人間が生きている限りは、いろんな試みを続けていくと思うんです。 その中で、日本も立派な、いろんな形で、いい考え方、いい試み、いろんな幸せというものを表に出して、みなさんを引っ張っていける人々と国であってほしいなと思っております。
次の死にたい、疲れた、消えたい。。。 今あなたはそんな気持ちで、ここに訪れたのではないでしょうか?そして周りに「死にたい、消えたい、もう疲れた」と言って、一度は「でも、死ぬのはだめだ」と言われたことがあるのではないでしょうか? 大丈夫です。 私も同じ気持ちでした。 そしてその気持ちが最高潮に達した時、ふと飛び降りた経験があります。 そんな私が、今死にたいと考えているほど辛い気持ちのあなたへ、できる限りの力で伝えたいことがあります。 今はこんなアドバイスを受けても、響かないかもしれない。 けど、今ちょっとだけ私に時間をもらえたら、半年後、1年後、10年後そういえば誰かがこんな事いってたな・・・と思考を巡らせるきっかけになるかもしれない。 先の見えないトンネルは、孤独で辛くて死にたくなる。 でもほんの 些細なきっかけが、そのトンネルを終わらせることもある。 この記事がその些細なきっかけになれることを願って。 死にたい衝動を治める方法 死にたい理由を書てみる あなたはなぜ死にたいほ追い詰められているのですか? いじめ?受験失敗?就職失敗?金銭的理由? 他人から見たら些末なことで、わかってもらえない悩みだとしても、自分が死にたいと思うほど追い詰められているなら、それは世紀の大事件です。 だから、どうして自分がそこまで追いつめられることになったか、 自分自身に丁寧に取材しながら、聞き取りを行ってください。 考えていることを、文字にして改めて見ることは偉大です。 自分自身さえ分かっていなかった、自分が引っかかっているポイントを見つけることができます。 どんな紙でもかまいません、ただ丁寧に丁寧に自分の気持ちを文字にしてみましょう。 あなたはジャーナリストです。 あなた自身の本当の本音を引き出せるのは、あなたしかいません。 本当にそこから逃げ出せないのか考えてみる 職場が辛い。 学校が辛い。 家庭が辛い。 あなたの周りはもう袋小路で、逃げ道がないと思っていませんか? 八方ふさがりで解決策は「死」しかないと思い込んでいませんか? 私も同じです。 受験に失敗し、精神を病み、日常生活を送れなくなり、もう全てが終わったと思いました。 でもこれだけは断言します。 それは思考の袋小路にはまっているだけで、実は道は無数に存在しています。 じゃあ、本当に死んでしまう前に、ちょっとだけ大きく脱線してみてもいいと思いませんか? 職場が辛い人は仕事をやめて、学校が辛い人は学校をやめて、家庭が辛い人はいっそ離婚してみる。 無責任に感じるかもしれませんが、本当に死ぬなら同じことです。 会社も学校も家庭も全てから解放されるのは同じなんですから。 逃げ道がないと思い込むのは、死ぬほど辛いことです。 でも本当は、 死ぬくらいなら試してみる価値のある、究極の選択は大抵の場合残っています。 逃げ道はあります。 絶対に。 どうそれだけは忘れないで。 思考自体を停止する 死にたい、死にたい、死にたい。 ずっとそう考えていると、本当にそれしか考えられなくなるから人間って不思議です。 じゃあ 死にたいオバケに憑りつかれたら、とりあえずもう全て考えることを放棄してみてください。 もらっている薬を飲む。 寝ることにする。 好きなことに熱中する。 何でも構いません。 一度考えることをストップすると、意外に死ぬ気は削がれるものです。 死にたいオバケに対抗する手段が、何も思いつかない場合は、じゃあ死ぬのを1時間遅らせて。 勢いがなければ、死ぬのって意外に難しいんです。 頑張ることを手放す 死にたいほど辛くて、心が張り裂けそうなほどしんどいなら、いっそ頑張ることをやめてみるのはどうだろう? 頑張らなくちゃ自分の存在価値がない、頑張らなくちゃ生きている意味がないと感じてるなら、本当にそうかな? 世の中の人たちは、本当に君くらい辛い思いをして頑張ってる人ばかりかな? もう一回だけ、周りをよく見渡してみて。 よくよく見まわすと、程よく手を抜いてスルスル辛いことを避けてたり、嫌なことから逃げている人が見えこない? 死にたいほど辛いなら、ちょっとだけ頑張ることをやめてみよう。 頑張れないなら、今だけちょっと頑張ることを頑張ってやめてみて。 死に損なった人のブログを読んでみる 死にたいっと思って色々調べているなら、ぜひ逆に死に損なった人のことも調べてみてください。 ちゃんと死ぬのは意外に難しくて、私にみたいにどこかしらに 失敗の「代償」を払って生きている人がいます。 そしてそんな人のブログ読むと、スッと気持ちが冷めるかもしれません。 私の代償は顔と足1本。 どうかな?ちょっと怖くなった? じゃあ、深呼吸して、もう一回どうしようか考えてみて。 じゃあ、ちゃんと死ねる方法を検索する!まあ、まあ、まあ、そんなこと言わずに。 ちょっとここでお茶菓子がてら、最後まで付き合ってください。 お願いします。 死にたいあなたへ贈る~飛び降り自殺ミスったら、警官に怒られた話~ 飛び降りようと決めた経緯はよく覚えていない。 ただ、目に付いた高いビルがあり、なんとなくそのビルに入ると非常階段が目に付いた。 なんとなく扉に手をかけると、なんの抵抗もなく扉がスルリと開いてしまった。 階は4階だった。 決めては階段を登るのに疲れたから。 少しだけ覗くつもりで、非常扉から出ると、いい風が吹いていた。 飛びたくなった。 死ぬつもりだったのか?とその後多くの人に尋ねられたが、正直自分でもわからない。 ただ、疲れたなぁとおもっていた。 人生疲れたなぁっと。 気がつくと、なんとなく手すりに足をかけてそのまま通行人が途切れるのを待っていた。 いつだかのニュースに、飛び降り自殺の巻き添えをくって、通行人がなくなってしまったニュースを覚えていたから。 通行人が途切れると、なんの躊躇もなく飛んだ。 体感滞空時間は0 飛んだと思ったら、地面に叩きつけられていた。 痛みはなかった。 意識はあった。 ただ大量の血を吐いていた。 意識が途切れる寸前、誰が『かわいそうに』とつぶやき私の顔に白いハンカチをかけていった。 警官に謝れといわれた 気がつくと救急車に乗せられていた。 すぐに病院に着くと、応急処置だけされて手術の準備まで少し待ちができた。 警官はその時やってきた。 警官は事務的に『自分でやったのか?』『誰かと一緒にいなかったか?』を聞いてきた。 血反吐を吐いている状態で、まともに喋れなかった私はかすかに首を横に振った。 事務的な質問が終わったあと、駆けつけた母達に向かい警官は私にこう言った。 『親に謝れ』 私はその時顔もぐちゃぐちゃ、足もぐちゃぐちゃの状態だった。 口は動かなかった。 いや動かせなかった。 後で知ったが、その時私の顔面は見るに堪えるものではなかったらしい。 それでも警官はもう一度私に言った。 『ちゃんと生んでくれたのに、こんな顔にしてごめんと謝れ』っと。 その時初めて、私は怒りを覚えた。 『お前に何がわかる?』『お前は私の何を知っている?』『こんな状況の私に、明らかに喋れる状況ではない私に、どうしろというんだ?』 後に知ったが、私が誰かから突き落とされた可能性を警察は疑っていたらしい。 私が靴を揃えたり、遺書をもっていなかったから。 警官が本気で私にそう言ったのか、彼らが無駄な捜査にイライラしていたのかはわからない。 ただ、瀕死の人間をみてそう言える神経はもっとわからない。 私はこの時の自殺未遂を後悔していない。 これ必要であったとさえ思っている。 だってこの件があり、私は現在も通院している病院に出会えた。 現在は投薬は続いているが、普通の人とほぼ変わらない暮らしもできている。 ただ時々思う。 あの時のことは、恐らく一生忘れないだろうと。 瀕死で薄れゆく意識の中、顔も覚えていない警官の『声』だけが耳にこびりついている。 『親に謝れ』 彼に人の心はあったのだろうか?何故あの状況で、あんな言葉をいえたんだろうか? 顔面がぐちゃぐちゃの二十歳の女に、私のことを何も知らないくせに。 そして、謝ろうにも明らかに話す部分が崩壊して、しゃべれない私に。 きっと私は、一生あの警官の声を忘れる事は出来ないだろう。 『親に謝れ』 飛び降り自殺が失敗したその後 その後、私は約一年間入院とリハビリを繰り返しました。 この時失った、顔の一部や足は今でも後悔はありません。 生き残るための勉強代だったな、と感じています。 警察官とはその後事件性はないとして、接触はありませんでした。 現在は縁あって今の夫と出会い、結婚、出産を経て子育てをしています。 そして、死にたい衝動ですが私はこの失敗により、自分から死のうとはとは思わなくなりました。 そして死ななくてよかったなと、10年後の今強く感じています。 死んだらあそこで終わりでした。 リハビリや障害の事を考えたら、あそこで死んだ方が100倍楽だったでしょうが、生きていてよかったです。 今がつらいあなたへ 生きるのはめんどくさい、でもちゃんと死ぬのも意外にめんどくさい。 どっちもめんどくさいなら、もしかしたらいい事が起こるかもしれない、生きる方を選択するのも有りだよね。 ここに来てくれてありがとう、私の記事を読んでくれてありがとう。 もし誰かの生きる背中を、ほんのちょっとでも押せてたら嬉しいな。 生きるのはめんどくさい、死ぬのもめんどくさい。 だけど生き残ったから、今私は幸せです。 大変なことや辛いことも多いけど、生き残ってよかったです。 死にたいと考えていても、あなたが死なずに今まで生きていてくれたから、この記事を読んでもらう事ができました。 今この瞬間を生きていてくれてありがとう。 1年後、5年後、10年後またあなたに会えることを楽しみにしています。 月城 追記 コメント欄に書いて頂いた質問で、私自身についてお答えする場を作りました。 なぜ2度目の自殺をしなかったのか?なぜ障害を背負って生きて行けたのか?もし気になる方がいましたら下記をご覧ください。 疲れなたら休もう 歩けないなら止まろう 死にたくなったら寝てしまおう どんなに暗い所でも、 いずれ時は流れ、変化が起こる ユキノシタは、重くのしかかる雪を押しのけて 力強く花を咲かせる。 ユキノシタは冷たく暗い雪の下で 日の光を待ち根を張り葉を張る じゃあ君も私もまだ待ち続けよう — ユキノシタ yukinoshita385 疲れた時に少し元気がでる、呟きを始めました。 ぜひこちらにも遊びにきてください。 もし死にたいではなく、「」感情が強いと感じている方は、お時間があればこちらの記事も読んでみてください。
次のそれは彼女の日課のひとつであったが、しかし、その日の風は、どこかいつもと様子が違っていた。 得体の知れない、悪い予感が纏わりついている。 彼女には、ほんの少し先の未来を見通す力が備わっていた。 かつて赴いた戦場でも、一度たりとも、被弾したことはない。 未来予知の力によって磨き上げられた、彼女のその高い洞察力は、毎朝吹く風の、微細な違いを捉えることを可能にした。 日によって、気持ちよく吹き抜けるような風もあれば、重苦しく身体に巻きついてくるような風もあり、前者が吹く日には、大抵、なにか良い知らせが届き、後者が吹く日には、大抵、なにか悪い知らせが届くのだった。 それは一種の占いといってもよかった。 その日の風は、明らかに後者の性質を持っていた。 ねばねばと絡みついてくる、経験のない不快な感覚に、エイラは顔をしかめた。 エイラのその美しい背中を見つめるとき、彼女の胸にはいつも、新鮮な感動がふくらんだ。 オラーシャの冬は寒い。 一日中ずっと、気温が氷点下を超えていることもしばしばある。 エイラは、風の行方を見るときには、どんなに寒い日であっても、すぐ戻るよ、と言って、水色のパーカー一枚で出ていった。 オラーシャと同じ寒冷地のスオムス出身である彼女にとって、氷点下の寒さなど、慣れっこではある。 とはいえ、薄着には違いなかった。 いつもなら、エイラは、すぐ戻る、の言葉通り、二、三分もすれば引き返してきた。 けれどその日は、いつまで経っても、小屋に背を向けたままであった。 サーニャは、壁に並んだふたつのコートのうち、茶色い方を羽織り、そして、白い方を片手に掛けたあと、ペーチカの上にやかんを置いて、玄関のドアを開けた。 「……エイラ、どうしたの? そんな恰好でずっと外にいたら、風邪、引いちゃうわ」 そう言って、サーニャが後ろからコートをかけてやると、エイラは一瞬、はっとしたような、そんな表情をしたあと、すぐにいつもの優しい顔になって、振り返り、サーニャの頭を、ぽんと撫でた。 「ゴメンゴメン。 なんでもないんだ」 「……ほんとう?」 「うん。 別に、大したことじゃない」 サーニャが眉をひそめる。 サーニャのその瞳は、会話の間じゅうずっと、エイラの瞳へと向けられていた。 しかし、エイラは、コートに袖を通しながら、不自然に、小屋の方を見つめるばかりで、サーニャへと目を向けることはなかった。 それはエイラの、はっきりとした癖のひとつであった。 嘘をつくとき、エイラは頑なにサーニャと視線を合わせなかった。 他の人のときは、もう少しうまくやるのだけれど、サーニャに対してだけは、罪悪感からか、どうしても目を合わせられず、ぎくしゃくとしてしまうのだった。 エイラがサーニャに嘘をつくことは珍しいことではなかった。 しかしその嘘は、サーニャを怖がらせないための、不安にさせないための、優しい嘘ばかりであった。 「……なら、いいけど」 サーニャもそれは理解していた。 だから、たとえエイラの嘘に気付いても、深く追及することはしなかった。 とはいえ、隠し事をされるというのは、あまり気分の良いものではない。 いつもより少し低いその声には、明らかな不満の色が混じっていた。 「コート、ありがとな。 ……さ、戻ろ」 エイラの右手が、サーニャの腰に回される。 そこでようやく目が合った。 ばつが悪そうに頬をかくエイラの左手を、サーニャが両手で、ぎゅっと包んだ。 うわっ、と、声を上げるエイラ。 真っ白な頬が、ほんのりと、赤くなった。 くすり、と微笑みながら手を離し、サーニャが小屋へと歩きだす。 その背中を見て、エイラは、なんだよ、もう、と呟き、赤い顔のまま、がしがし頭を掻いた。 そして、それから、ふっと、空を仰いだ。 灰色の雲が、一面に広がっていた。 カールスラント解放戦ののち、各所に蔓延っていたネウロイは、突如として姿を消した。 余りにも唐突なその出来事に対して、様々な陰謀論が囁かれはしたが、ともかく、人類は、ネウロイに勝利したのであった。 ネウロイ消滅後の数年間、世界は平和そのものであった。 エイラとサーニャも、軍を離れ、生き別れたサーニャの両親を探すために、ウラルの山を越え、各地をまわった。 行く先々で得た情報によれば、どうやら、オラーシャのはるか東、ハバロフスクの辺りで、戦火を逃れた人々による大規模なキャンプが張られていた、というのは確かなことであるらしかった。 ふたりはすぐにハバロフスクへ向かい、郊外にある丘の上の、レンガ造りの小さな小屋で暮らしはじめた。 なかなか有益な情報を得ることはできなかったが、それでも、それはとても平穏で、のどかな生活であった。 「うー、寒い寒い」 小屋へと戻ってくるなり、エイラは、ずるずる鼻をすすりながら、ペーチカへと手をかざした。 しゅんしゅんと、やかんが音を立てている。 「あんな格好で外にいたんだもの。 当たり前よ」 サーニャが呆れ顔で言った。 返す言葉もない、という風に、エイラがぎゅっと目をつぶる。 背中がみるみる縮んでいく。 「すぐ、あったかい紅茶淹れてくるから、ちょっと待ってて」 そう言って、やかんを手に、キッチンへ消えたサーニャに、ありがと、と声を返し、エイラは、窓のそばの椅子に腰を下ろした。 ほんの少しの温もりが、エイラの冷えた下半身に伝わった。 外では相変わらず、強い風が吹いている。 振り払うことのできない悪寒にも、あれからずっと、身体中が包まれている。 それは間違いなく、寒さのせいだけではなかった。 沈みそうな気持ちを切り替えようとして、エイラは、ぱん、と自分の頬を叩いた。 窓辺に置かれたラジオのツマミをひねってみる。 すると荘厳な音楽が流れだした。 ゆっくり耳を傾けてみると、少しだけ、心が落ち着いていく気がした。 「あら、珍しいわね。 エイラが、クラシックだなんて」 銀色のトレイに、紅茶のカップをふたつ乗せて戻ってきたサーニャが、目を丸くする。 「ま、たまにはな。 気分転換、ってやつ」 カップを受け取り、ふうふうと息を吹きかけながら、エイラが言う。 湯気の立つカップに口をつけ、ずず、とひと口啜ってみれば、茶葉の香りが口から鼻へと芳しく通り抜ける。 舌にはぽってりと、程よい甘みが残される。 たっぷりのはちみつに、ほんの少しのラム酒が入った、サーニャの特製ブレンドだ。 「サーニャの淹れる紅茶は、いつも美味しいな」 「うふふっ。 そう言ってもらえると、嬉しいわ」 互いに微笑み合うふたり。 あたたかなまどろみに、部屋中が包まれる。 「……なあ、サーニャ」 しばらく経ってから、エイラが、窓の外を見つめながら、言った。 「どうしたの、エイラ」 目をぱちぱちとさせながらサーニャが答えた。 少しばかり、夢の中にいたようだ。 「あのさ、そろそろ……浦塩のほうに行ってみないか? ここに来てだいぶ経つけど、あんまり、大した情報、入ってこないし」 「浦塩……そうね。 ここで暮らしはじめて、もう半年くらい、経つものね」 「あそこは扶桑の租借地だけど、中心街にはオラーシャ人もけっこういるみたいだし、行ってみる価値はあると思うんだ」 「うん。 私もそう思う。 この辺りでキャンプが張られていたんだったら、中には、浦塩のほうまで逃げた人も、きっといるはずだもの」 「よし……それじゃ遅くても一週間後くらいには、ここを出られるようにしよう」 エイラがごくりと紅茶を飲み干した。 サーニャも、両手でカップを傾け、こくり、と一口飲んだ。 そしてそれから、懐かしむように、ぐるりと、小屋の中を見渡した。 「……この小屋とも、お別れね」 「だな」 手を頭の後ろで組んで、天井の明かりを見つめるエイラ。 「案外、悪い暮らしじゃなかったよな」 「うん……だからちょっと、長居しちゃったのかも」 サーニャが目を閉じる。 絶え間なく吹く風が、窓を叩いている。 「楽しかったわ。 すごく」 なにか言いたげな風に、ペーチカの中で、がしゃりと崩れる薪の音。 「もしサーニャのご両親が、無事に見つかったら……」 そのとき、それまで悠然と流れていたクラシックの音色が、突然、ぷつりと止んだ。 「……なんだ?」 言いかけた言葉をしまい込んで、怪訝そうにラジオを見つめるエイラ。 サーニャが、はあ、と、ため息をついた。 「故障じゃ、ないわよね」 ざざ、と音が鳴った。 低い男の声が流れだした。 臨時ニュースです、と言っている。 ……人間の欲望というものは、限りない。 ネウロイとの戦争が終結すれば、次に勃発するのが、敵を失った人間同士の争いであることは、明白であった。 エイラが今までにない、不気味な風を感じた、まさにその日。 オラーシャ軍は、スオムスへと突然の侵攻を開始した。 宣戦布告なきその侵攻は、世界全土を巻き込んだ、果てしなき戦争の始まりを意味していた。 サーニャの手からこぼれ落ちたカップが、真っ白なカーペットに茶色い染みを作っている。 すぐにエイラが駆け寄った。 「大丈夫か? やけどとか、してないか」 「エイラ……今の……」 「ああ。 なんか、嫌な予感、してたんだ。 さすがに、まさか戦争が始まるなんて、思ってなかったけどな。 ……このカーペット、染みが残っちゃうな。 まあ、いいか」 エイラがキッチンへ向かい、バケツと雑巾を手に戻ってきた。 サーニャの顔が、いつにも増して、青白くなっている。 「エイラ……どうするの……?」 「どうするって、なにがだよ」 「スオムスに戻らなくて、いいの……?」 「おいおい。 私が軍を離れて、何年経つと思ってるんだよ。 私にはもう、関係ないよ。 だから、気にすんな」 サーニャの足元にしゃがみ込み、カーペットを拭きながら答えるエイラ。 「でも、この先どうなるか分かんないから、なるべく早く、ここを引き払おう。 できれば、明日にでも」 「エイラ……」 サーニャが声を震わせ、瞳を潤ませる。 「なんて顔、してんだよ」 エイラが腰を上げ、膝に手をついて、にっこりと笑った。 「心配すんな。 私はずっと、サーニャのそばにいるよ」 その瞳は真っすぐに、サーニャの瞳を貫いていた。 浦塩へ行くための支度は夜までかかった。 朝一番の鉄道で行こう、ということで話がまとまったので、簡単な夕食を済ませたのち、ふたりは並んで床に就いた。 夜おそく、不意にサーニャは目を覚ました。 朝方の出来事が尾を引いていたのだろう。 あまり気分は良くなかった。 闇の中、大きなベッドで寝返りを打ち、手を伸ばす。 けれど、いつもそこにあるエイラの背中が見つからない。 室内にも、人の気配はなかった。 サーニャは一瞬、青くなったが、まだエイラが寝床を離れてそんなに時間が経ってはいないらしい。 シーツにはっきりとした温もりが残っている。 そして枕が、ほんの少しだけ、しめっていた。 布団をはねのけサーニャは飛び起きた。 壁のコートを手探りではぎ取り勢いよく玄関のドアを開けた。 外はしんとした白黒の世界であった。 世界の果てには雪明かりと月明かりの混じり合う小高い丘がある。 銀色の髪がそこで静かに揺れていた。 白い背中が立ち尽くしていた。 エイラはきっと泣いている。 はるか彼方、遠い遠いスオムスに思いを馳せ、泣いている。 サーニャはすぐにドアを閉じた。 コートを壁に掛け直し、ベッドに戻った。 しばらくすると玄関で物音がした。 気配が静かに近付いてくる。 もぞもぞ、とベッドにもぐり込んできた背中に、ぎゅっと抱きつくと、エイラは、起こしちゃったか、と言った。 サーニャは寝ぼけた振りをした。 するとエイラはやさしく、サーニャの頭を撫でた。 その冷え切った手が、サーニャには、たまらなく愛おしく感じられた。 [newpage] 翌朝ふたりは眠い目をこすりながら小屋を出た。 浦塩はオラーシャの南東の端にある。 広いオラーシャの中で、ハバロフスクからはまだ、近いほうではあるが、それでも移動には丸一日かかる。 ふたりが浦塩の駅に辿り着く頃には、辺りはすでに真っ暗になっていた。 ひとまずは宿探しである。 サーニャが大通りへ向かおうとすると、エイラが、そっちはやめとこう、と言った。 サーニャが、どうして、と問うと、エイラは、私はいちおう、テキコクジンだからな、と、おどけた風に笑った。 裏通りには雪にまみれた木賃宿が一軒あった。 お世辞にも綺麗だとはいえないような、寂れた宿であった。 宿主の老婆に当面の宿泊費を支払うと、しわくちゃの口で、二階の隅が空いている、とぼそぼそ言った。 客商売を営んでいるとは思えないほどに無愛想な態度だった。 しかし今のふたりにはむしろその方が有り難い。 用意された部屋に入り、サーニャがベッドに腰を下ろすと、ひどくつめたく、固い感触がした。 「これから、どうなるのかしら」 サーニャは思わず呟いた。 「なんとか、なるさ」 エイラがぽんとサーニャの頭に手を置きながら言った。 それから何週間かはとくに何事もなく過ぎた。 良いことも悪いこともなかった。 スオムスの陥落は近い。 「ここ最近、ずっとこれね」 「だな。 スオムスは物資は少ないけど、兵士はしっかり訓練されてるからな。 そう簡単には、いかないさ」 ラジオを消して、サーニャは小さな窓から外を見た。 裏通りは閑散としている。 けれども大通りへ出て市場に行けば恐らく大勢の人がいるであろうと思われた。 もうすぐ、年が明ける。 オラーシャでは新年は盛大に祝われる。 浦塩に住む多くのオラーシャ人たちも、その準備に精を出しはじめる頃だ。 はるか西側で起きている戦争は、極東まではほとんどその影響を及ぼさない。 年明けには、きっと各々の家庭で豪勢な料理が並び、絢爛なヨールカが飾られるに違いない。 「ねえ、エイラ。 私、一度ハバロフスクに戻るわ。 欲しいものがあるの。 ……エイラはどうする?」 少し考えてからエイラが答えた。 「……私は、やめておくよ。 ごめんな。 ホントは、ついていきたいんだけど」 それはサーニャにとって、ある程度予期された回答であった。 浦塩へ来てからというもの、エイラは、異様なまでに周囲の目を気にしていた。 情報収集のため街へ繰り出すときなども、いつも毛皮の帽子をすっぽりとかぶり、どこから調達したのか伊達眼鏡をかけ、口元はしっかりとマフラーで覆っていたほどだ。 「それじゃ、お留守番、よろしくね」 「ああ。 気をつけて、行ってきてな」 「うん。 分かってるわ」 「忘れもん、すんなよ。 欲しいもの書いたメモとか、持っていったほうがいいんじゃないか? 知らない人についていっちゃダメだぞ」 「もう。 分かってるわよ。 子どもじゃないんだから」 サーニャはくすりと微笑んだ。 その日の夕方の夜行列車でサーニャはハバロフスクへと発った。 エイラには、新年を迎える準備がしたいから、と伝えていたが、しかしこの出発にはもっと別の理由があった。 浦塩の市場にはオラーシャ人向けの品物が各種取り揃えられている。 新年の準備をするだけであれば、遠出の必要はとくにない。 ではどうしてサーニャは、丸一日かけてまでハバロフスクを目指しているのか。 それはサルミアッキを買うためだった。 サルミアッキはスオムスの伝統的な菓子である。 独特の風味を持つことでも知られ、身も蓋もない言い方をすれば、苦いゴムを公衆便所に落としたような味がする。 エイラはこの小さな黒い飴をとても好んだ。 大好物だといってもよかった。 あんまりにも美味しそうにエイラがそれを食べるので、サーニャは一度分けてもらったことがある。 しかしすぐに吐きだした。 そうして金輪際口にはしないと固く誓った。 その味は、食べ慣れている人にしか理解できない代物であるといってよい。 旅の途中、エイラは、新しい土地を訪れるたびに、街のあちこちを巡り巡って、サルミアッキを探していた。 けれどいつも最後には、すねたような顔をして店を出てきて、やっぱ、スオムス以外では、売ってないのかなあ、などと呟いていた。 ハバロフスクに着くまでは、その繰り返しだった。 ハバロフスクの駅前の並びに小さな雑貨屋がある。 恐らく、オラーシャで唯一、サルミアッキを取り扱っている店だ。 そこをはじめて訪れたときのエイラの様子を、サーニャは今でもはっきりと覚えている。 ごちゃごちゃした店内をふたりで見回っていると、不意にエイラが、店の一角を指差して、頭を抱え、嘘だろ、と呟いた。 見れば、サルミアッキの黒いパッケージが、そこでひっそりと並んでいる。 そのうちのひとつをエイラは震える手でつまみ上げた。 そうして何度も何度も裏返したり、元に戻したりしたあと、頬をつねりながら、サーニャに、コレ、買っといて、と言った。 会計を終え、店を出てからも、エイラはまだ、ぼんやりとした顔で、自分の頬をつねり続けていた。 けれども、サルミアッキを受け取り、箱を開けて、ぽいと一粒口に放り込んだ瞬間、ようやく、夢から覚めたように、こう言った。 「……ああ。 美味い。 そうだよ。 この味だ。 夢じゃないんだな。 まさかオラーシャで、コイツを食べられるとは思わなかった。 ああ、美味い。 美味いな。 やっぱりサルミアッキは、最高だ」 それからエイラはたびたびその店を訪ねるようになった。 サーニャも時折ついていった。 エイラはサルミアッキを一度にひと箱だけしか買わなかった。 あればあるだけ食べてしまうので、まとめ買いはしないようにしているらしかった。 たしかにそのひと箱は毎回その日のうちに無くなっていた。 ばたばたとハバロフスクを出てきてしまったので、エイラはもうずいぶん、サルミアッキを口にしていない。 ささやかな新年のお祝いとしてそれを渡せば、きっと喜んでくれるに違いない。 まだ街は薄暗く、どこの店も開いていない。 サーニャはひとまずホテルへ向かい、軽く朝食をとった。 それから少しだけベッドでうとうとした。 するといつの間にやら陽が高く昇っていた。 疲れていたのかしら、などと、誰が聞いているわけでもない言い訳をこぼしつつ、サーニャはふたたび街へと繰り出した。 久しぶりに訪れたハバロフスクはサーニャにとって意外なほど新鮮に映った。 目移りしながら色々と買い込んでいるうちに、街はオレンジ色に染まっていった。 すこし買いすぎてしまったかもしれない。 けれど一度ホテルに戻るのもめんどうだ。 こんなときストライカーユニットがあればいいのに。 そんなことを考えながら、サーニャは最後に例の雑貨屋へと向かった。 相変わらず、ごちゃごちゃとした店だった。 荷物が多い今のサーニャには、店内を動き回るだけでもひと苦労である。 しかしそこにサルミアッキはなかった。 売り切れというわけではない。 サルミアッキがあった場所には別の商品が置かれていた。 サルミアッキは影も形もなくなっていた。 他の場所に移ったのかもしれないと、サーニャは店内をくまなく見回った。 ここにもない。 ここにもない。 鼓動がしだいに早くなっていった。 結局どこにもサルミアッキはなかった。 サーニャはがっくりと肩を落とした。 戦争の影響が、こんなところにも及んでいるなんて……。 サーニャは縋る思いで店の奥へ向かい、カウンターの向こうの店主に問いかけた。 「あの……サルミアッキは、もう、置かなくなってしまったのでしょうか」 それまで読んでいた新聞から目を離し、じろり、と店主がサーニャのことを見た。 そしてすぐに、たっぷりたくわえた白いあごひげを指でひねりながら、カウンターの奥へ引っ込んでいった。 しばらくして戻ってきた店主の手には見慣れた黒いパッケージが握られていた。 サルミアッキだった。 「あ……ありがとうございます……!」 店主はそれをぽんとカウンターに置いた。 サーニャは何度も頭を下げながら代金を払った。 そうして店を出ようとした。 すると背後から、お嬢さん、と声がかかった。 振り返ると店主と目が合った。 [newpage] 「エイラ!」 サーニャが勢いよくドアを開くと、エイラはすでに起きていて、机でなにか書き物をしていた。 「そんなに慌てて、どうしたんだ。 帰ってくるの、今日の夜遅くのはずだろ」 机の上の紙を封筒に入れ、引き出しにしまいこみながらエイラが言った。 「あなたに……エイラに、スパイ疑惑がかかってるって。 私、聞いたの。 ハバロフスクで。 だから急いで帰ってきたのよ。 夜行列車に乗って……」 「サーニャ、ちょっと落ち着け。 な、大丈夫だから。 ……ほら、こっち来て、座って」 エイラが手を引き、サーニャをベッドに座らせた。 背中をさすりつつ、問いかける。 「……私に、スパイ疑惑がかかってるって?」 「うん。 駅前の雑貨屋で聞いたの。 覚えてるでしょう? サルミアッキが売ってるところ。 そこの人が言っていたの。 少し前に、軍の人が来たって。 それで、エイラの写真を見せてきて、この人を知りませんかって、聞いてきたって。 いつもウチで買い物してくれていたし、軍ともあんまり関わり合いにはなりたくなかったから、自分は何も言わなかったけど……気をつけたほうがいいって。 あの聞き方は、ただの人探しの雰囲気じゃなかったって。 そう、言っていたの」 「そうか……たしかに、オラーシャ軍がわざわざ、スオムス人の私を探すなんてのは、まあ、そういうこと以外、ありえないだろうな」 サーニャの目からぽろぽろと涙がこぼれた。 「噂では、聞いてたんだ。 戦果がなかなか挙げられなくて、オラーシャ軍が苛立ってる、っていうのは。 でもまさか、もうハバロフスクまで手が回ってるなんてな。 もう少し、時間はあると思ってたんだけど」 エイラが立ち上がり、部屋の隅に置いてあった自分のリュックを手にとった。 「エイラ……?」 そして、机の引き出しから、さっきしまった封筒を取り出し、サーニャへと差し出した。 「これ、あとで読んでくれ」 「なに、これ……。 エイラ、あなたいったい、どこへ行くつもりなの」 「……浦塩を、出る」 「それなら私もついていくわ。 すぐ、準備するから。 ねえ、浦塩を出て、どこに行くの?」 「ダメだ。 私ひとりで行く。 これ以上私といっしょにいたら、サーニャにも迷惑がかかる」 「そんなの気にしないわ。 私、あなたといたいの。 私もいっしょに行くわ。 逃げたらいいのよ。 ふたりで、どこまでも、ずっと」 「ダメだ。 ……手紙、絶対、読んでくれ。 それじゃ」 リュックを背負い、サーニャに背を向け、エイラが部屋のドアノブに手をかけた。 「待って! ねえ、待って。 あのとき言ってくれたじゃない。 ずっとそばにいるって。 そう言ってくれたじゃない。 あれは嘘だったの? ねえ、エイラ。 答えて」 エイラはなにも答えなかった。 「ねえ。 私、分かるのよ。 あなたの考えていること、分かるの。 ずっとあなたを見てきたから。 エイラ、あなた、死ぬつもりでしょう。 浦塩を出て、オラーシャに入って、軍部に自首して、死ぬつもりなんでしょう」 「……自首するつもりなのは、本当だよ。 よくわかったな。 でも、死ぬつもりなんてないさ。 自首したほうが、罪が軽くなるかもしれないだろ。 なんとかして、スパイ疑惑を晴らせる可能性だってあるじゃないか」 「そんなこと、絶対にないわ。 自首したら間違いなく、殺される。 今のオラーシャ軍がそんなに甘くないってこと、エイラも知ってるでしょう。 嘘だわ。 エイラ、あなた、嘘をついてる」 「……私は嘘なんてついてない」 「じゃあ、私の目を見て言って。 必ず、生きて帰ってくるって。 そう言って。 私の目を見て。 そうしたら行っていいわ。 私、いつまでも待ってるから。 この部屋で待ってるから。 あなたをずっと、待ってるから」 エイラは振り返らなかった。 けれど部屋を出ていくこともしなかった。 「やっぱり、嘘なのね。 やっぱり、ひとりで死のうとしてるのね」 サーニャがその背中に寄り添った。 「ねえ、お願い。 私をひとりにしないで。 ずっといっしょにいるって言ってくれたじゃない。 ねえ、お願い。 そばにいて。 私、あなたがいないとダメなの。 ねえ、お願い……」 「そんなこと言ったって、しょうがないだろ!」 エイラが振り返り、声を荒げた。 頬に大粒の涙が光っていた。 「そりゃ私だって、サーニャと、ずっといっしょにいたいよ。 でも、もう、どうしようもないじゃないか!」 へなへなと、エイラがその場にへたり込む。 「もう少し暖かくなれば、ここから西へ逃げることも不可能じゃないかもしれない。 でも今はまだ雪がある。 死ににいくようなもんだ。 どこにも逃げる場所なんてない。 ハバロフスクまで手が回ってるんだったら、こっちに来るのも時間の問題だぞ。 私ひとりが捕まって殺されるならまだいい。 でも、スパイを匿ってるとみなされたら、最悪ふたりとも銃殺刑だ。 それでいいのか? 私にはそんなの、耐えられない」 「構わないわ。 私はそれでも、構わない」 サーニャははっきりとそう言った。 「あなたがどうしてもひとりで自首しにいくっていうのなら、私はこの部屋で、舌を噛み切って、死ぬわ」 その視線は、決意と覚悟を帯びていた。 「ねえ、エイラ……」 サーニャがエイラのそばにひざまずいた。 「私、もう、ひとりじゃ生きていけないの。 分かるでしょう? 私、ずっと前から、あなたのこと……」 「待ってくれ。 そこから先は、私に言わせてくれ」 サーニャの言葉を遮り、エイラが顔を上げる。 「……手紙には、書いたんだけどな。 やっぱり、こういうことは、自分の口から言わないとダメだよな。 なあ、サーニャ。 覚えてるか? 初めて話した日のこと」 「……一度だって、忘れたこと、ないわ。 私、あなたが声をかけてきてくれて、すごく嬉しかったのよ。 不安だったから。 どうしていいか、分からなかったから」 「笑った顔が見たかったんだ。 最初はただ、それだけ。 この子、笑ったら、どんな顔すんのかな、ってさ。 でもさ、話してみたら、色々、抱えてるって分かってさ。 ずっと寂しかったって、サーニャ、言ってたよな。 私がいつでも話し相手になってやる、って言ったら、サーニャ、はじめて笑ってくれたよな。 たぶんそのときからなんだ。 その笑顔を見たときからずっと、そうだったんだ」 エイラが涙をぬぐい、真っすぐにサーニャの顔を見た。 そうして、その身体を、ぎゅっと強く抱きしめた。 「好きだ、サーニャ。 愛してる。 あの日からずっと、好きだった」 「エイラ……!」 「ずっと言いたかった。 でも言えなかった。 怖かったんだ。 今の関係が好きだったから。 それを壊したくなかったから。 遅くなってゴメン。 こんな状況になってから言って、ゴメン」 「いいのよ。 もう、いいの。 私もよ。 私もずっと好きだったの。 ずっとあなたのこと見てたわ。 あの日からずっと。 初めて話したあの日から、ずっと。 もう二度と言わないで。 もう二度と、ひとりで死ぬなんて言わないで。 お願いよ。 お願い」 「ああ。 分かってる。 もう離さない。 ずっと一緒だ。 まず街で馬つきのソリを一台手配し、それから市場で色々な酒やら御馳走やらを買い込んだ。 残ったお金は無煙炭にまわし、それをドシドシペーチカに投げ込んで部屋で飲めや歌えやのドンチャン騒ぎをした。 夜になるまで騒いだあと、ふたりはひっそり街を出た。 宿の物置に繋いであったソリに乗り、海岸通りまで馬を走らせた。 ただひとつ持ったリュックには、残しておいた上等のウイスキーの角瓶が四、五本詰まっている。 ちょうど満月で雲も何もない夜だった。 月だけがふたりを見ていた。 ふたりはこれから、凍結した海の上に滑り出すつもりだ。 ルスキー島をまわり、一直線に沖の方に向かって馬を鞭打つつもりだ。 そうしてウイスキーを飲み飲み、どこまでも沖へ出るつもりだ。 そうすると、月のいい晩だったら氷がだんだんと真珠のような色から、虹のような色に変化して、眼がチクチクと痛くなって来るそうだ。 それでも構わずグングン沖へ出て行くと、今度は氷がだんだん真黒く見えて来るが、それから先は、ドウなっているか誰も知らないのだそうだ。 サーニャはこの話を祖母から何度も聞かされて育った。 なんでも、オラーシャに古くから伝わる伝承であるらしい。 どうせ銃殺されるなら、最後にふたりで、誰も知らない場所を目指そう。 今朝、サーニャはそう言って、エイラにこの伝承を話して聞かせた。 エイラはすぐにうなずいた。 私たちならきっと辿り着けると言って笑った。 ふたりは今、海岸通りにある荷馬車揚場の斜面の前にいる。 斜面の先にはどこまでも、果てしない氷の海が広がっている。 「とうとう、ここまで来ちゃったな」 海の彼方を見つめてエイラが言った。 「そうね」 サーニャはすでにウイスキーを飲みはじめている。 「……色々、あったよな」 「……うん」 「……あのさ。 あれ、覚えてるか? 501にいたころの話なんだけど……」 「……うふふっ。 勿論、覚えてるわ。 懐かしいわね……」 そこから思い出話がはじまった。 「……そのときペリーヌがこう言ったんだ……」 「……あ、思い出した。 ハルトマンさんがね……」 ふたりは過去を語った。 語り尽くそうとした。 「……みんな今ごろ、何してんだろうなあ……」 次第に伸びていく沈黙の時間に怯えながら、ふたりは必死で会話を続けた。 どれくらいそうして語り合っていただろうか。 夜の闇が最も深さを増すころ、思い出が、ついに今へと追いつく瞬間がやってきた。 「……ああ、懐かしい。 色々、あったな……」 「……楽しかったわ。 すごく楽しかった……」 もうずいぶん、意味のない、会話を続けるためだけの会話が続いている。 もはやふたりの間に過去はなかった。 あるのは、たったひとつの未来だけだった。 「……そろそろ、行くか」 エイラが手綱を握った。 とろんとした目をして、サーニャがエイラの肩に寄り添った。 「……ね……エイラ……」 「うん?」 「……キスして……」 エイラが一瞬、驚いたような顔をした。 けれどすぐにいつもの優しい顔になって、うなずいた。 「……ああ……」 エイラがサーニャの頬に軽く口づけた。 何も言わずにサーニャが目を閉じた。 少しして、ふたりの唇がそっと触れ合った。 長い長い、最後の口づけだった。 唇が離れてもサーニャは目を開けなかった。 目を閉じたままで、エイラの腕を、ひしと抱いた。 「……ね……エイラ……」 「うん?」 「……もしも……もしも氷が、扶桑まで続いていたら、ドウスル……」 エイラがははっと笑った。 白い吐息が舞った。 「そうだな……」 エイラの右手が馬上鞭へと伸びた。 「もしも氷が扶桑まで続いてたら、そのときは……」 鞭が夜空を切り裂いた。 天高く馬が嘶いた。 「また宮藤に、うまいメシでも作ってもらおうぜ。 あのころ、みたいにさ……」 ソリが斜面を滑りだしていった。 それは彼女の日課のひとつであったが、しかし、その日の風は、どこかいつもと様子が違っていた。 得体の知れない、悪い予感が纏わりついている。 彼女には、ほんの少し先の未来を見通す力が備わっていた。 かつて赴いた戦場でも、一度たりとも、被弾したことはない。 未来予知の力によって磨き上げられた、彼女のその高い洞察力は、毎朝吹く風の、微細な違いを捉えることを可能にした。 日によって、気持ちよく吹き抜けるような風もあれば、重苦しく身体に巻きついてくるような風もあり、前者が吹く日には、大抵、なにか良い知らせが届き、後者が吹く日には、大抵、なにか悪い知らせが届くのだった。 それは一種の占いといってもよかった。 その日の風は、明らかに後者の性質を持っていた。 ねばねばと絡みついてくる、経験のない不快な感覚に、エイラは顔をしかめた。 エイラのその美しい背中を見つめるとき、彼女の胸にはいつも、新鮮な感動がふくらんだ。 オラーシャの冬は寒い。 一日中ずっと、気温が氷点下を超えていることもしばしばある。 エイラは、風の行方を見るときには、どんなに寒い日であっても、すぐ戻るよ、と言って、水色のパーカー一枚で出ていった。 オラーシャと同じ寒冷地のスオムス出身である彼女にとって、氷点下の寒さなど、慣れっこではある。 とはいえ、薄着には違いなかった。 いつもなら、エイラは、すぐ戻る、の言葉通り、二、三分もすれば引き返してきた。 けれどその日は、いつまで経っても、小屋に背を向けたままであった。 サーニャは、壁に並んだふたつのコートのうち、茶色い方を羽織り、そして、白い方を片手に掛けたあと、ペーチカの上にやかんを置いて、玄関のドアを開けた。 「……エイラ、どうしたの? そんな恰好でずっと外にいたら、風邪、引いちゃうわ」 そう言って、サーニャが後ろからコートをかけてやると、エイラは一瞬、はっとしたような、そんな表情をしたあと、すぐにいつもの優しい顔になって、振り返り、サーニャの頭を、ぽんと撫でた。 「ゴメンゴメン。 なんでもないんだ」 「……ほんとう?」 「うん。 別に、大したことじゃない」 サーニャが眉をひそめる。 サーニャのその瞳は、会話の間じゅうずっと、エイラの瞳へと向けられていた。 しかし、エイラは、コートに袖を通しながら、不自然に、小屋の方を見つめるばかりで、サーニャへと目を向けることはなかった。 それはエイラの、はっきりとした癖のひとつであった。 嘘をつくとき、エイラは頑なにサーニャと視線を合わせなかった。 他の人のときは、もう少しうまくやるのだけれど、サーニャに対してだけは、罪悪感からか、どうしても目を合わせられず、ぎくしゃくとしてしまうのだった。 エイラがサーニャに嘘をつくことは珍しいことではなかった。 しかしその嘘は、サーニャを怖がらせないための、不安にさせないための、優しい嘘ばかりであった。 「……なら、いいけど」 サーニャもそれは理解していた。 だから、たとえエイラの嘘に気付いても、深く追及することはしなかった。 とはいえ、隠し事をされるというのは、あまり気分の良いものではない。 いつもより少し低いその声には、明らかな不満の色が混じっていた。 「コート、ありがとな。 ……さ、戻ろ」 エイラの右手が、サーニャの腰に回される。 そこでようやく目が合った。 ばつが悪そうに頬をかくエイラの左手を、サーニャが両手で、ぎゅっと包んだ。 うわっ、と、声を上げるエイラ。 真っ白な頬が、ほんのりと、赤くなった。 くすり、と微笑みながら手を離し、サーニャが小屋へと歩きだす。 その背中を見て、エイラは、なんだよ、もう、と呟き、赤い顔のまま、がしがし頭を掻いた。 そして、それから、ふっと、空を仰いだ。 灰色の雲が、一面に広がっていた。 カールスラント解放戦ののち、各所に蔓延っていたネウロイは、突如として姿を消した。 余りにも唐突なその出来事に対して、様々な陰謀論が囁かれはしたが、ともかく、人類は、ネウロイに勝利したのであった。 ネウロイ消滅後の数年間、世界は平和そのものであった。 エイラとサーニャも、軍を離れ、生き別れたサーニャの両親を探すために、ウラルの山を越え、各地をまわった。 行く先々で得た情報によれば、どうやら、オラーシャのはるか東、ハバロフスクの辺りで、戦火を逃れた人々による大規模なキャンプが張られていた、というのは確かなことであるらしかった。 ふたりはすぐにハバロフスクへ向かい、郊外にある丘の上の、レンガ造りの小さな小屋で暮らしはじめた。 なかなか有益な情報を得ることはできなかったが、それでも、それはとても平穏で、のどかな生活であった。 「うー、寒い寒い」 小屋へと戻ってくるなり、エイラは、ずるずる鼻をすすりながら、ペーチカへと手をかざした。 しゅんしゅんと、やかんが音を立てている。 「あんな格好で外にいたんだもの。 当たり前よ」 サーニャが呆れ顔で言った。 返す言葉もない、という風に、エイラがぎゅっと目をつぶる。 背中がみるみる縮んでいく。 「すぐ、あったかい紅茶淹れてくるから、ちょっと待ってて」 そう言って、やかんを手に、キッチンへ消えたサーニャに、ありがと、と声を返し、エイラは、窓のそばの椅子に腰を下ろした。 ほんの少しの温もりが、エイラの冷えた下半身に伝わった。 外では相変わらず、強い風が吹いている。 振り払うことのできない悪寒にも、あれからずっと、身体中が包まれている。 それは間違いなく、寒さのせいだけではなかった。 沈みそうな気持ちを切り替えようとして、エイラは、ぱん、と自分の頬を叩いた。 窓辺に置かれたラジオのツマミをひねってみる。 すると荘厳な音楽が流れだした。 ゆっくり耳を傾けてみると、少しだけ、心が落ち着いていく気がした。 「あら、珍しいわね。 エイラが、クラシックだなんて」 銀色のトレイに、紅茶のカップをふたつ乗せて戻ってきたサーニャが、目を丸くする。 「ま、たまにはな。 気分転換、ってやつ」 カップを受け取り、ふうふうと息を吹きかけながら、エイラが言う。 湯気の立つカップに口をつけ、ずず、とひと口啜ってみれば、茶葉の香りが口から鼻へと芳しく通り抜ける。 舌にはぽってりと、程よい甘みが残される。 たっぷりのはちみつに、ほんの少しのラム酒が入った、サーニャの特製ブレンドだ。 「サーニャの淹れる紅茶は、いつも美味しいな」 「うふふっ。 そう言ってもらえると、嬉しいわ」 互いに微笑み合うふたり。 あたたかなまどろみに、部屋中が包まれる。 「……なあ、サーニャ」 しばらく経ってから、エイラが、窓の外を見つめながら、言った。 「どうしたの、エイラ」 目をぱちぱちとさせながらサーニャが答えた。 少しばかり、夢の中にいたようだ。 「あのさ、そろそろ……浦塩のほうに行ってみないか? ここに来てだいぶ経つけど、あんまり、大した情報、入ってこないし」 「浦塩……そうね。 ここで暮らしはじめて、もう半年くらい、経つものね」 「あそこは扶桑の租借地だけど、中心街にはオラーシャ人もけっこういるみたいだし、行ってみる価値はあると思うんだ」 「うん。 私もそう思う。 この辺りでキャンプが張られていたんだったら、中には、浦塩のほうまで逃げた人も、きっといるはずだもの」 「よし……それじゃ遅くても一週間後くらいには、ここを出られるようにしよう」 エイラがごくりと紅茶を飲み干した。 サーニャも、両手でカップを傾け、こくり、と一口飲んだ。 そしてそれから、懐かしむように、ぐるりと、小屋の中を見渡した。 「……この小屋とも、お別れね」 「だな」 手を頭の後ろで組んで、天井の明かりを見つめるエイラ。 「案外、悪い暮らしじゃなかったよな」 「うん……だからちょっと、長居しちゃったのかも」 サーニャが目を閉じる。 絶え間なく吹く風が、窓を叩いている。 「楽しかったわ。 すごく」 なにか言いたげな風に、ペーチカの中で、がしゃりと崩れる薪の音。 「もしサーニャのご両親が、無事に見つかったら……」 そのとき、それまで悠然と流れていたクラシックの音色が、突然、ぷつりと止んだ。 「……なんだ?」 言いかけた言葉をしまい込んで、怪訝そうにラジオを見つめるエイラ。 サーニャが、はあ、と、ため息をついた。 「故障じゃ、ないわよね」 ざざ、と音が鳴った。 低い男の声が流れだした。 臨時ニュースです、と言っている。 ……人間の欲望というものは、限りない。 ネウロイとの戦争が終結すれば、次に勃発するのが、敵を失った人間同士の争いであることは、明白であった。 エイラが今までにない、不気味な風を感じた、まさにその日。 オラーシャ軍は、スオムスへと突然の侵攻を開始した。 宣戦布告なきその侵攻は、世界全土を巻き込んだ、果てしなき戦争の始まりを意味していた。 サーニャの手からこぼれ落ちたカップが、真っ白なカーペットに茶色い染みを作っている。 すぐにエイラが駆け寄った。 「大丈夫か? やけどとか、してないか」 「エイラ……今の……」 「ああ。 なんか、嫌な予感、してたんだ。 さすがに、まさか戦争が始まるなんて、思ってなかったけどな。 ……このカーペット、染みが残っちゃうな。 まあ、いいか」 エイラがキッチンへ向かい、バケツと雑巾を手に戻ってきた。 サーニャの顔が、いつにも増して、青白くなっている。 「エイラ……どうするの……?」 「どうするって、なにがだよ」 「スオムスに戻らなくて、いいの……?」 「おいおい。 私が軍を離れて、何年経つと思ってるんだよ。 私にはもう、関係ないよ。 だから、気にすんな」 サーニャの足元にしゃがみ込み、カーペットを拭きながら答えるエイラ。 「でも、この先どうなるか分かんないから、なるべく早く、ここを引き払おう。 できれば、明日にでも」 「エイラ……」 サーニャが声を震わせ、瞳を潤ませる。 「なんて顔、してんだよ」 エイラが腰を上げ、膝に手をついて、にっこりと笑った。 「心配すんな。 私はずっと、サーニャのそばにいるよ」 その瞳は真っすぐに、サーニャの瞳を貫いていた。 浦塩へ行くための支度は夜までかかった。 朝一番の鉄道で行こう、ということで話がまとまったので、簡単な夕食を済ませたのち、ふたりは並んで床に就いた。 夜おそく、不意にサーニャは目を覚ました。 朝方の出来事が尾を引いていたのだろう。 あまり気分は良くなかった。 闇の中、大きなベッドで寝返りを打ち、手を伸ばす。 けれど、いつもそこにあるエイラの背中が見つからない。 室内にも、人の気配はなかった。 サーニャは一瞬、青くなったが、まだエイラが寝床を離れてそんなに時間が経ってはいないらしい。 シーツにはっきりとした温もりが残っている。 そして枕が、ほんの少しだけ、しめっていた。 布団をはねのけサーニャは飛び起きた。 壁のコートを手探りではぎ取り勢いよく玄関のドアを開けた。 外はしんとした白黒の世界であった。 世界の果てには雪明かりと月明かりの混じり合う小高い丘がある。 銀色の髪がそこで静かに揺れていた。 白い背中が立ち尽くしていた。 エイラはきっと泣いている。 はるか彼方、遠い遠いスオムスに思いを馳せ、泣いている。 サーニャはすぐにドアを閉じた。 コートを壁に掛け直し、ベッドに戻った。 しばらくすると玄関で物音がした。 気配が静かに近付いてくる。 もぞもぞ、とベッドにもぐり込んできた背中に、ぎゅっと抱きつくと、エイラは、起こしちゃったか、と言った。 サーニャは寝ぼけた振りをした。 するとエイラはやさしく、サーニャの頭を撫でた。 その冷え切った手が、サーニャには、たまらなく愛おしく感じられた。 [newpage] 翌朝ふたりは眠い目をこすりながら小屋を出た。 浦塩はオラーシャの南東の端にある。 広いオラーシャの中で、ハバロフスクからはまだ、近いほうではあるが、それでも移動には丸一日かかる。 ふたりが浦塩の駅に辿り着く頃には、辺りはすでに真っ暗になっていた。 ひとまずは宿探しである。 サーニャが大通りへ向かおうとすると、エイラが、そっちはやめとこう、と言った。 サーニャが、どうして、と問うと、エイラは、私はいちおう、テキコクジンだからな、と、おどけた風に笑った。 裏通りには雪にまみれた木賃宿が一軒あった。 お世辞にも綺麗だとはいえないような、寂れた宿であった。 宿主の老婆に当面の宿泊費を支払うと、しわくちゃの口で、二階の隅が空いている、とぼそぼそ言った。 客商売を営んでいるとは思えないほどに無愛想な態度だった。 しかし今のふたりにはむしろその方が有り難い。 用意された部屋に入り、サーニャがベッドに腰を下ろすと、ひどくつめたく、固い感触がした。 「これから、どうなるのかしら」 サーニャは思わず呟いた。 「なんとか、なるさ」 エイラがぽんとサーニャの頭に手を置きながら言った。 それから何週間かはとくに何事もなく過ぎた。 良いことも悪いこともなかった。 スオムスの陥落は近い。 「ここ最近、ずっとこれね」 「だな。 スオムスは物資は少ないけど、兵士はしっかり訓練されてるからな。 そう簡単には、いかないさ」 ラジオを消して、サーニャは小さな窓から外を見た。 裏通りは閑散としている。 けれども大通りへ出て市場に行けば恐らく大勢の人がいるであろうと思われた。 もうすぐ、年が明ける。 オラーシャでは新年は盛大に祝われる。 浦塩に住む多くのオラーシャ人たちも、その準備に精を出しはじめる頃だ。 はるか西側で起きている戦争は、極東まではほとんどその影響を及ぼさない。 年明けには、きっと各々の家庭で豪勢な料理が並び、絢爛なヨールカが飾られるに違いない。 「ねえ、エイラ。 私、一度ハバロフスクに戻るわ。 欲しいものがあるの。 ……エイラはどうする?」 少し考えてからエイラが答えた。 「……私は、やめておくよ。 ごめんな。 ホントは、ついていきたいんだけど」 それはサーニャにとって、ある程度予期された回答であった。 浦塩へ来てからというもの、エイラは、異様なまでに周囲の目を気にしていた。 情報収集のため街へ繰り出すときなども、いつも毛皮の帽子をすっぽりとかぶり、どこから調達したのか伊達眼鏡をかけ、口元はしっかりとマフラーで覆っていたほどだ。 「それじゃ、お留守番、よろしくね」 「ああ。 気をつけて、行ってきてな」 「うん。 分かってるわ」 「忘れもん、すんなよ。 欲しいもの書いたメモとか、持っていったほうがいいんじゃないか? 知らない人についていっちゃダメだぞ」 「もう。 分かってるわよ。 子どもじゃないんだから」 サーニャはくすりと微笑んだ。 その日の夕方の夜行列車でサーニャはハバロフスクへと発った。 エイラには、新年を迎える準備がしたいから、と伝えていたが、しかしこの出発にはもっと別の理由があった。 浦塩の市場にはオラーシャ人向けの品物が各種取り揃えられている。 新年の準備をするだけであれば、遠出の必要はとくにない。 ではどうしてサーニャは、丸一日かけてまでハバロフスクを目指しているのか。 それはサルミアッキを買うためだった。 サルミアッキはスオムスの伝統的な菓子である。 独特の風味を持つことでも知られ、身も蓋もない言い方をすれば、苦いゴムを公衆便所に落としたような味がする。 エイラはこの小さな黒い飴をとても好んだ。 大好物だといってもよかった。 あんまりにも美味しそうにエイラがそれを食べるので、サーニャは一度分けてもらったことがある。 しかしすぐに吐きだした。 そうして金輪際口にはしないと固く誓った。 その味は、食べ慣れている人にしか理解できない代物であるといってよい。 旅の途中、エイラは、新しい土地を訪れるたびに、街のあちこちを巡り巡って、サルミアッキを探していた。 けれどいつも最後には、すねたような顔をして店を出てきて、やっぱ、スオムス以外では、売ってないのかなあ、などと呟いていた。 ハバロフスクに着くまでは、その繰り返しだった。 ハバロフスクの駅前の並びに小さな雑貨屋がある。 恐らく、オラーシャで唯一、サルミアッキを取り扱っている店だ。 そこをはじめて訪れたときのエイラの様子を、サーニャは今でもはっきりと覚えている。 ごちゃごちゃした店内をふたりで見回っていると、不意にエイラが、店の一角を指差して、頭を抱え、嘘だろ、と呟いた。 見れば、サルミアッキの黒いパッケージが、そこでひっそりと並んでいる。 そのうちのひとつをエイラは震える手でつまみ上げた。 そうして何度も何度も裏返したり、元に戻したりしたあと、頬をつねりながら、サーニャに、コレ、買っといて、と言った。 会計を終え、店を出てからも、エイラはまだ、ぼんやりとした顔で、自分の頬をつねり続けていた。 けれども、サルミアッキを受け取り、箱を開けて、ぽいと一粒口に放り込んだ瞬間、ようやく、夢から覚めたように、こう言った。 「……ああ。 美味い。 そうだよ。 この味だ。 夢じゃないんだな。 まさかオラーシャで、コイツを食べられるとは思わなかった。 ああ、美味い。 美味いな。 やっぱりサルミアッキは、最高だ」 それからエイラはたびたびその店を訪ねるようになった。 サーニャも時折ついていった。 エイラはサルミアッキを一度にひと箱だけしか買わなかった。 あればあるだけ食べてしまうので、まとめ買いはしないようにしているらしかった。 たしかにそのひと箱は毎回その日のうちに無くなっていた。 ばたばたとハバロフスクを出てきてしまったので、エイラはもうずいぶん、サルミアッキを口にしていない。 ささやかな新年のお祝いとしてそれを渡せば、きっと喜んでくれるに違いない。 まだ街は薄暗く、どこの店も開いていない。 サーニャはひとまずホテルへ向かい、軽く朝食をとった。 それから少しだけベッドでうとうとした。 するといつの間にやら陽が高く昇っていた。 疲れていたのかしら、などと、誰が聞いているわけでもない言い訳をこぼしつつ、サーニャはふたたび街へと繰り出した。 久しぶりに訪れたハバロフスクはサーニャにとって意外なほど新鮮に映った。 目移りしながら色々と買い込んでいるうちに、街はオレンジ色に染まっていった。 すこし買いすぎてしまったかもしれない。 けれど一度ホテルに戻るのもめんどうだ。 こんなときストライカーユニットがあればいいのに。 そんなことを考えながら、サーニャは最後に例の雑貨屋へと向かった。 相変わらず、ごちゃごちゃとした店だった。 荷物が多い今のサーニャには、店内を動き回るだけでもひと苦労である。 しかしそこにサルミアッキはなかった。 売り切れというわけではない。 サルミアッキがあった場所には別の商品が置かれていた。 サルミアッキは影も形もなくなっていた。 他の場所に移ったのかもしれないと、サーニャは店内をくまなく見回った。 ここにもない。 ここにもない。 鼓動がしだいに早くなっていった。 結局どこにもサルミアッキはなかった。 サーニャはがっくりと肩を落とした。 戦争の影響が、こんなところにも及んでいるなんて……。 サーニャは縋る思いで店の奥へ向かい、カウンターの向こうの店主に問いかけた。 「あの……サルミアッキは、もう、置かなくなってしまったのでしょうか」 それまで読んでいた新聞から目を離し、じろり、と店主がサーニャのことを見た。 そしてすぐに、たっぷりたくわえた白いあごひげを指でひねりながら、カウンターの奥へ引っ込んでいった。 しばらくして戻ってきた店主の手には見慣れた黒いパッケージが握られていた。 サルミアッキだった。 「あ……ありがとうございます……!」 店主はそれをぽんとカウンターに置いた。 サーニャは何度も頭を下げながら代金を払った。 そうして店を出ようとした。 すると背後から、お嬢さん、と声がかかった。 振り返ると店主と目が合った。 [newpage] 「エイラ!」 サーニャが勢いよくドアを開くと、エイラはすでに起きていて、机でなにか書き物をしていた。 「そんなに慌てて、どうしたんだ。 帰ってくるの、今日の夜遅くのはずだろ」 机の上の紙を封筒に入れ、引き出しにしまいこみながらエイラが言った。 「あなたに……エイラに、スパイ疑惑がかかってるって。 私、聞いたの。 ハバロフスクで。 だから急いで帰ってきたのよ。 夜行列車に乗って……」 「サーニャ、ちょっと落ち着け。 な、大丈夫だから。 ……ほら、こっち来て、座って」 エイラが手を引き、サーニャをベッドに座らせた。 背中をさすりつつ、問いかける。 「……私に、スパイ疑惑がかかってるって?」 「うん。 駅前の雑貨屋で聞いたの。 覚えてるでしょう? サルミアッキが売ってるところ。 そこの人が言っていたの。 少し前に、軍の人が来たって。 それで、エイラの写真を見せてきて、この人を知りませんかって、聞いてきたって。 いつもウチで買い物してくれていたし、軍ともあんまり関わり合いにはなりたくなかったから、自分は何も言わなかったけど……気をつけたほうがいいって。 あの聞き方は、ただの人探しの雰囲気じゃなかったって。 そう、言っていたの」 「そうか……たしかに、オラーシャ軍がわざわざ、スオムス人の私を探すなんてのは、まあ、そういうこと以外、ありえないだろうな」 サーニャの目からぽろぽろと涙がこぼれた。 「噂では、聞いてたんだ。 戦果がなかなか挙げられなくて、オラーシャ軍が苛立ってる、っていうのは。 でもまさか、もうハバロフスクまで手が回ってるなんてな。 もう少し、時間はあると思ってたんだけど」 エイラが立ち上がり、部屋の隅に置いてあった自分のリュックを手にとった。 「エイラ……?」 そして、机の引き出しから、さっきしまった封筒を取り出し、サーニャへと差し出した。 「これ、あとで読んでくれ」 「なに、これ……。 エイラ、あなたいったい、どこへ行くつもりなの」 「……浦塩を、出る」 「それなら私もついていくわ。 すぐ、準備するから。 ねえ、浦塩を出て、どこに行くの?」 「ダメだ。 私ひとりで行く。 これ以上私といっしょにいたら、サーニャにも迷惑がかかる」 「そんなの気にしないわ。 私、あなたといたいの。 私もいっしょに行くわ。 逃げたらいいのよ。 ふたりで、どこまでも、ずっと」 「ダメだ。 ……手紙、絶対、読んでくれ。 それじゃ」 リュックを背負い、サーニャに背を向け、エイラが部屋のドアノブに手をかけた。 「待って! ねえ、待って。 あのとき言ってくれたじゃない。 ずっとそばにいるって。 そう言ってくれたじゃない。 あれは嘘だったの? ねえ、エイラ。 答えて」 エイラはなにも答えなかった。 「ねえ。 私、分かるのよ。 あなたの考えていること、分かるの。 ずっとあなたを見てきたから。 エイラ、あなた、死ぬつもりでしょう。 浦塩を出て、オラーシャに入って、軍部に自首して、死ぬつもりなんでしょう」 「……自首するつもりなのは、本当だよ。 よくわかったな。 でも、死ぬつもりなんてないさ。 自首したほうが、罪が軽くなるかもしれないだろ。 なんとかして、スパイ疑惑を晴らせる可能性だってあるじゃないか」 「そんなこと、絶対にないわ。 自首したら間違いなく、殺される。 今のオラーシャ軍がそんなに甘くないってこと、エイラも知ってるでしょう。 嘘だわ。 エイラ、あなた、嘘をついてる」 「……私は嘘なんてついてない」 「じゃあ、私の目を見て言って。 必ず、生きて帰ってくるって。 そう言って。 私の目を見て。 そうしたら行っていいわ。 私、いつまでも待ってるから。 この部屋で待ってるから。 あなたをずっと、待ってるから」 エイラは振り返らなかった。 けれど部屋を出ていくこともしなかった。 「やっぱり、嘘なのね。 やっぱり、ひとりで死のうとしてるのね」 サーニャがその背中に寄り添った。 「ねえ、お願い。 私をひとりにしないで。 ずっといっしょにいるって言ってくれたじゃない。 ねえ、お願い。 そばにいて。 私、あなたがいないとダメなの。 ねえ、お願い……」 「そんなこと言ったって、しょうがないだろ!」 エイラが振り返り、声を荒げた。 頬に大粒の涙が光っていた。 「そりゃ私だって、サーニャと、ずっといっしょにいたいよ。 でも、もう、どうしようもないじゃないか!」 へなへなと、エイラがその場にへたり込む。 「もう少し暖かくなれば、ここから西へ逃げることも不可能じゃないかもしれない。 でも今はまだ雪がある。 死ににいくようなもんだ。 どこにも逃げる場所なんてない。 ハバロフスクまで手が回ってるんだったら、こっちに来るのも時間の問題だぞ。 私ひとりが捕まって殺されるならまだいい。 でも、スパイを匿ってるとみなされたら、最悪ふたりとも銃殺刑だ。 それでいいのか? 私にはそんなの、耐えられない」 「構わないわ。 私はそれでも、構わない」 サーニャははっきりとそう言った。 「あなたがどうしてもひとりで自首しにいくっていうのなら、私はこの部屋で、舌を噛み切って、死ぬわ」 その視線は、決意と覚悟を帯びていた。 「ねえ、エイラ……」 サーニャがエイラのそばにひざまずいた。 「私、もう、ひとりじゃ生きていけないの。 分かるでしょう? 私、ずっと前から、あなたのこと……」 「待ってくれ。 そこから先は、私に言わせてくれ」 サーニャの言葉を遮り、エイラが顔を上げる。 「……手紙には、書いたんだけどな。 やっぱり、こういうことは、自分の口から言わないとダメだよな。 なあ、サーニャ。 覚えてるか? 初めて話した日のこと」 「……一度だって、忘れたこと、ないわ。 私、あなたが声をかけてきてくれて、すごく嬉しかったのよ。 不安だったから。 どうしていいか、分からなかったから」 「笑った顔が見たかったんだ。 最初はただ、それだけ。 この子、笑ったら、どんな顔すんのかな、ってさ。 でもさ、話してみたら、色々、抱えてるって分かってさ。 ずっと寂しかったって、サーニャ、言ってたよな。 私がいつでも話し相手になってやる、って言ったら、サーニャ、はじめて笑ってくれたよな。 たぶんそのときからなんだ。 その笑顔を見たときからずっと、そうだったんだ」 エイラが涙をぬぐい、真っすぐにサーニャの顔を見た。 そうして、その身体を、ぎゅっと強く抱きしめた。 「好きだ、サーニャ。 愛してる。 あの日からずっと、好きだった」 「エイラ……!」 「ずっと言いたかった。 でも言えなかった。 怖かったんだ。 今の関係が好きだったから。 それを壊したくなかったから。 遅くなってゴメン。 こんな状況になってから言って、ゴメン」 「いいのよ。 もう、いいの。 私もよ。 私もずっと好きだったの。 ずっとあなたのこと見てたわ。 あの日からずっと。 初めて話したあの日から、ずっと。 もう二度と言わないで。 もう二度と、ひとりで死ぬなんて言わないで。 お願いよ。 お願い」 「ああ。 分かってる。 もう離さない。 ずっと一緒だ。 まず街で馬つきのソリを一台手配し、それから市場で色々な酒やら御馳走やらを買い込んだ。 残ったお金は無煙炭にまわし、それをドシドシペーチカに投げ込んで部屋で飲めや歌えやのドンチャン騒ぎをした。 夜になるまで騒いだあと、ふたりはひっそり街を出た。 宿の物置に繋いであったソリに乗り、海岸通りまで馬を走らせた。 ただひとつ持ったリュックには、残しておいた上等のウイスキーの角瓶が四、五本詰まっている。 ちょうど満月で雲も何もない夜だった。 月だけがふたりを見ていた。 ふたりはこれから、凍結した海の上に滑り出すつもりだ。 ルスキー島をまわり、一直線に沖の方に向かって馬を鞭打つつもりだ。 そうしてウイスキーを飲み飲み、どこまでも沖へ出るつもりだ。 そうすると、月のいい晩だったら氷がだんだんと真珠のような色から、虹のような色に変化して、眼がチクチクと痛くなって来るそうだ。 それでも構わずグングン沖へ出て行くと、今度は氷がだんだん真黒く見えて来るが、それから先は、ドウなっているか誰も知らないのだそうだ。 サーニャはこの話を祖母から何度も聞かされて育った。 なんでも、オラーシャに古くから伝わる伝承であるらしい。 どうせ銃殺されるなら、最後にふたりで、誰も知らない場所を目指そう。 今朝、サーニャはそう言って、エイラにこの伝承を話して聞かせた。 エイラはすぐにうなずいた。 私たちならきっと辿り着けると言って笑った。 ふたりは今、海岸通りにある荷馬車揚場の斜面の前にいる。 斜面の先にはどこまでも、果てしない氷の海が広がっている。 「とうとう、ここまで来ちゃったな」 海の彼方を見つめてエイラが言った。 「そうね」 サーニャはすでにウイスキーを飲みはじめている。 「……色々、あったよな」 「……うん」 「……あのさ。 あれ、覚えてるか? 501にいたころの話なんだけど……」 「……うふふっ。 勿論、覚えてるわ。 懐かしいわね……」 そこから思い出話がはじまった。 「……そのときペリーヌがこう言ったんだ……」 「……あ、思い出した。 ハルトマンさんがね……」 ふたりは過去を語った。 語り尽くそうとした。 「……みんな今ごろ、何してんだろうなあ……」 次第に伸びていく沈黙の時間に怯えながら、ふたりは必死で会話を続けた。 どれくらいそうして語り合っていただろうか。 夜の闇が最も深さを増すころ、思い出が、ついに今へと追いつく瞬間がやってきた。 「……ああ、懐かしい。 色々、あったな……」 「……楽しかったわ。 すごく楽しかった……」 もうずいぶん、意味のない、会話を続けるためだけの会話が続いている。 もはやふたりの間に過去はなかった。 あるのは、たったひとつの未来だけだった。 「……そろそろ、行くか」 エイラが手綱を握った。 とろんとした目をして、サーニャがエイラの肩に寄り添った。 「……ね……エイラ……」 「うん?」 「……キスして……」 エイラが一瞬、驚いたような顔をした。 けれどすぐにいつもの優しい顔になって、うなずいた。 「……ああ……」 エイラがサーニャの頬に軽く口づけた。 何も言わずにサーニャが目を閉じた。 少しして、ふたりの唇がそっと触れ合った。 長い長い、最後の口づけだった。 唇が離れてもサーニャは目を開けなかった。 目を閉じたままで、エイラの腕を、ひしと抱いた。 「……ね……エイラ……」 「うん?」 「……もしも……もしも氷が、扶桑まで続いていたら、ドウスル……」 エイラがははっと笑った。 白い吐息が舞った。 「そうだな……」 エイラの右手が馬上鞭へと伸びた。 「もしも氷が扶桑まで続いてたら、そのときは……」 鞭が夜空を切り裂いた。 天高く馬が嘶いた。 「また宮藤に、うまいメシでも作ってもらおうぜ。 あのころ、みたいにさ……」 ソリが斜面を滑りだしていった。
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