この事件は「松本サリン事件」と名付けられ、周辺に住んでいた信州大学の学生や会社員ら8人の死者と、約590人が重軽症を負った。 当初、長野県警は第1通報者だった、河野義行さんを容疑者と判断し、自宅を捜索。 さらにマスコミ各社も、警察から得た捜査情報を元に、河野さんを犯人視する報道を連日続けたのだった。 ところが、同年7月9日、山梨県上九一色村のオウム教団施設内で、異臭騒ぎが起きたのである。 教団施設の近所に住む住民が、「目の痛み」や「吐き気」を訴えたため、長野県警は山梨県警の協力で、オウム教団施設内の土砂を採取した。 こうして長野県警は、「松本サリン事件」をオウム真理教による犯行の可能性もあるとみて、捜査を続けたのだった。 すると、翌年3月20日に「地下鉄サリン事件」が発生。 この事件によって、「松本サリン事件」もオウム真理教の犯行だったことが分かったのだが、長野県警は冤罪を着せた河野さんに遺憾の意を表明したのみで、公式な謝罪を行わなかった。 一方、河野さんを犯人扱いしていたマスコミ各社はというと、ほとんどのメディアが相次いで河野さんに、おわびや謝罪を表明。 ようやく河野さんの冤罪が晴れたのだが、猛毒のサリンガスを吸って重症だった妻の澄子さんは、意識不明の状態が回復しないまま、14年後の2008年8月、60歳で亡くなったのである。 そこで、今回は「松本サリン事件」で冤罪を着せられた、河野義行さんの現在などに迫ってみようと思う。 Sponsored Link 松本サリン事件の河野さんの現在 松本サリン事件が発生した当日、河野家では、夫妻のほか、長女・真澄さん、次女・真紀さんもサリンを吸って入院。 長男の仁志さんだけが入院せずに済んだ。 そして、現在68歳になった河野さんは、生まれ故郷の愛知県に住んでいるという。 その前は鹿児島市に移り住み、講演や犯罪被害者の支援活動を行っていた。 河野さんは60歳を迎えるのを機に、少しゆっくりしようという理由から、鹿児島に移住。 仕事から離れてゆっくりとした生活をしたいと考えたのだ。 また、なぜ住むところを鹿児島にしたのかというと、以前、鹿児島で講演したときに世話になった人から誘ってもらったのが、移住を決めるきっかけだったとか。 あとは、年金だけで十分暮らしていけることと、寒いところは燃料代がかかるので、温かいところがいいだろうと考えた末、鹿児島を拠点先として選んだ。 拠点先の鹿児島で河野さんは、鹿児島のすぐ隣にある「口之永良部島」で、自由気ままな生活を送っていたのだった。 Sponsored Link 松本サリン事件 死者の名前に信州大学生 松本サリン事件の死者は8人にのぼった。 その中には、第1通報者で冤罪に仕立て上げられた、河野義行さんの妻の澄子さんや、1人暮らしの信州大学生、会社員らの名前が。 千葉県南房総市出身の伊藤友視(ともみ・当時26)さんは、事件当時、自宅マンションで交際中の彼女と電話をしていたときにサリンを吸い、「急に気持ちが悪くなった」と話したのを最後に、帰らぬ人となった。 また、富山市出身で信州大医学部6年だった、安元三井(みい・当時29歳)さんは、4階が自宅マンションになっていて、当日は蒸し暑く、窓を開けていたためサリンに襲われた。 犠牲者となった安元三井さんは、2年の浪人を経て、信州大医学部に入学。 将来は精神科医を希望していたという。 ほかにも、東京都新宿区出身の信州大学2年・阿部裕太(ゆうた・当時19歳)さん、静岡県掛川市出身の会社員・小林豊(ゆたか・当時23歳)も、猛毒サリンの犠牲者となった。 松本サリン事件とは そもそも教団が社会に対して、敵意を向けだしたのは、90年2月の衆院選後だ。 麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚が「真理党」を結成し、麻原夫妻を含めた教団幹部25人が立候補したが、全員が落選。 この出来事が教団を「武装化させた」と言われている。 では、松本サリン事件を実行したオウム真理教は、なぜ長野県松本市の住宅街でサリンをまいたのか。 松本死刑囚は衆院選後、全世界にボツリヌス菌をまき、無差別殺人のテロを計画していた。 そして、テロを実行するために、幹部らを集めて化学兵器のサリンを製造するよう指示したのだ。 やがて、教団はサリンの生成に成功。 松本死刑囚はまず手始めに、サリンを使って創価学会の池田大作名誉会長を暗殺するよう指示した。 だが、計画は失敗に終わり、今度は教団を批判していた滝本太郎弁護士を狙ったが、思うように行かずまたしても失敗。 次に教団は、長野地方裁判所松本支部の裁判官の暗殺計画をもくろんだ。 当時、教団は松本支部道場の建設をめぐって住民と対立し、裁判になっていた。 さらにその裁判は、住民側の訴訟が一部認められ、教団が不利な状況だった。 そこで、判決が出る直前の1994年6月、松本死刑囚はサリンを使って裁判官の殺害を計画。 実行を指示された7人の教団幹部が6月27日深夜、裁判官宿舎の西側に隣接する駐車場で、噴霧器を搭載したトラックからサリンを加熱気化させ、送風機でまいたのだ。 この事件を「松本サリン事件」と呼び、8人の死者と約590人の重軽症者を出した。 なお、暗殺するはずだった裁判官の宿舎で死者は出なかった。 松本サリン事件の冤罪をマスコミが謝罪 1994年6月27日午後23時ごろ、教団幹部がまいた猛毒のサリンは、現場近くに住む河野義行さん宅や隣接するマンションを襲った。 事件当日、仕事を終え帰宅していた河野さんは、全くいつもと変わらない1日を過ごしていたという。 すると突然、妻の澄子さんが体調不良を訴え、飼っている2匹の犬が体をけいれんさせ、口から泡をふいて倒れたのだ。 それに引き続ついて、河野さん自身も体調がおかしくなり、慌てて119番通報したのだった。 この通報が後に、河野さんを冤罪へと巻き込むことになる。 翌日、長野県警は捜査本部を設置。 捜査指揮において「第一通報者の捜索は不可欠」と判断し、河野さん宅の捜索令状を取ったのである。 そして、河野さん宅を家宅捜索すると、20数種類の薬品と青酸化合物である青酸カリ、青酸銀が見つかり、警察はますます疑いの目を向けた。 また、警察は119番通報する前の河野さんの行動にも、注目したのだ。 それは、体調不良を訴えている妻に対して、河野さんは簡単な救急措置を施しながら、その場所を離れて119番通報した。 この行動に警察は、「奥さんが苦しんでいるときに奥さんのところを離れる。 こういうことはしない。 あんたの行動は極めて不自然だ」と疑問を持ったのである。 さらに、事件当日、河野さん宅の庭の池から、白い煙が発生したという目撃情報もあったことから、疑惑がどんどん深まっていった。 一方、マスコミの方も、河野さんを犯人視した報道を始めた。 救急隊員が到着した際、河野さんは家族で唯一入院せずに済んだ長男の手を握って、「だめかもしれない。 後のことは頼んだぞ。 」と言葉をかけている。 だが、これをマスコミは、「会社員、事件の関与ほのめかす」という記事にして報じたのだ。 さらに、河野さんは救急隊員に「妻を助けてほしい。 犬が死んだ。 犬に毒を盛られたかもしれない。 私自身体がおかしくなっている。 」と話したのに、「会社員は救急隊員に薬品の調合を間違えた」という話になって報じられたのだった。 結局、河野さんは「地下鉄サリン事件」が起きるまで、犯人扱いを受けた。 (関連記事).
次の来歴 [ ] 生まれ。 、卒業。 山岳写真家のは妻の祖父にあたる。 (平成6年)夜に発生した松本サリン事件に際して事件の第一通報者となった。 警察から事件への関与が疑われ、は河野の自宅のを実施した。 この捜索においてが発見されたことや、「河野宅において不審な煙を見た」との証言があり嫌疑が深まった。 後に証言については虚偽と判明し、また農薬からは合成できないことが判明している。 警察のおよび情報のを受け、のや主要な全国紙を含め、多くのメディアが河野をと決め付けて扱った。 河野やその家族は断続的に長野県警からの取り調べを受けたが、有力なが見つからずされることはなかった。 その後、(現・)の施設周辺において不審な証拠が発見され、さらに1995年(平成7年)3月20日に発生したののち、松本サリン事件もオウム真理教の犯行であることが判明し、河野への疑いは完全に解消された。 捜査当時のであったは、長野県警から推定有罪的で執拗な取り調べがあったことなど、度を越していた河野に対する行為について直接謝罪。 マスメディア各社も報道被害を認めて各種媒体に謝罪文を掲載、一部の関係者も直接出向いて陳謝した。 一方、長野県警はの意を表明したのみで「というものではない」と公式な謝罪を行わなかった。 長野県警本部長が当時の捜査の誤りとそれに起因する河野の被害について謝罪したのは、河野が委員に就任して以後のことであった。 公安委員就任以降の活動 [ ] 2002年にであったの要請を受けて、長野県警を監督する委員を1期(3年 )務めた。 大王路の無職の女性(当時77歳)が2004年4月に殺害された事件()で、その長女が「犯人扱いされた」と訴えていた問題で、として長女宅を訪れ、長女らと約2時間半にわたって非公開で面談した。 で、長女に対して推定有罪と判断して、(うそ発見器)をかけられたことや、誘導などで強要された、深夜までを受けたことなどについて説明する長女に対し、松本サリン事件で一時扱いを受けた自身の体験を話した。 面談後、「直接の謝罪は必要。 市民にとって大きな負担となる捜査方法は改善すべき」として、県公安委員会で警察側に陳謝の要望があったことを報告すると約束。 の事情聴取を何時間以内にとどめるべきかなど捜査の指針作成を提案する意向を示した。 事情聴取のポリグラフについて、「一般市民には非日常的なことだが、警察にすれば日常的。 そのギャップは大きい」と指摘した上で、「今後は県警が配慮してギャップを埋めていく必要がある」とした。 この件に対し、長女は「話を聞いてもらって楽になった。 」と話している。 その後、の長野県警の捜査ミス糾弾(他殺死体を自殺事件と断定したが、成立後に所持等の別件で逮捕された犯人の任意のにより殺人事件と判明)において、田中知事と対立し公安委員をされた(田中知事は犯罪報道被害者でにもなりかねなかった河野が長野県警糾弾の先鋒になることを期待したが、河野は「当時の捜査において他殺と断定できなかった事はやむを得なかった」との判断をしている)。 妻はサリンによる被害により状態から回復せず河野がしていたが、に60歳で死去した。 その死に際して、「長い間頑張ってくれて、ありがとう。 今日は彼女がになる日。 わが家にとって、事件が終わる日になると思う」とコメントを出した。 報道被害に関する講演で全国各地を訪れていたなか、2010年8月、妻の三回忌を区切りに鹿児島市へ転居し、2014年7月には霧島市に移住した。 オウムに対する姿勢 [ ] 一連のオウムにおいて主要な容疑者とされた幹部に対するに関しては慎重な考えを持っている。 その理由としては、オウム真理教のを死刑にすることで、「」になる恐れがあること、殺人を起こす人がの規定を理解した上で、殺人を犯しているわけではないことを挙げている。 また、に「さん」とを付けて呼び「教えは間違っていた」と声明を出してほしいと著書の中で呼びかけている。 松本サリン事件で噴霧車製造に関与し実刑判決を受けたと交流があり、釣りをするほどの仲になっている。 2011年(平成23年)12月、オウム真理教から別れた「」(代表)の外部人に就任した。 「(ひかりの輪が)実際どうなのか自分で中に入り、自分の目で確認したい。 不安を持つ周辺住民との橋渡し役になって動いていければ」と話した。 翌2012年(平成24年)1月22日には、団体の施設へ立ち入り、初の監査を実施した。 2015年(平成27年)12月31日付で「ひかりの輪」外部監査委員会委員を辞任した。 辞任理由は一身上の都合としている。 著作 [ ]• 『妻よ! わが愛と希望と闘いの日々』(、1998. 6)ほかに文庫版• 『松本サリン事件報道の罪と罰』(との共著 、1996. 11)ほかに新風舎文庫、版• 『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』(、1995. 11)ほかに版• 『松本サリン事件 虚報、えん罪はいかに作られるか』(、2001. 『命あるかぎり~松本サリン事件を超えて~』(第三文明社、2008. 『足利事件 松本サリン事件』(菅家利和との共著 、2009. 9) 河野義行を演じた俳優 [ ]• - 『』(河野をモデルにした・神部俊夫 役)• - 『「」』(2009年6月26日、フジテレビ)(実名役) 脚注 [ ] []• - (2013年5月14日アーカイブ分)、• 週刊女性PRIME• 「松本サリン事件傷心15年」 読売新聞 2009年6月24日• 共同通信社. 47NEWS. 2011年12月2日. 2013年1月31日閲覧。 共同通信社. 47NEWS. 2012年1月22日. 2013年1月31日閲覧。 2016年2月6日閲覧。 関連項目 [ ]• - 松本サリン事件の際、「毒ガス事件発生源の怪奇家系図」と題して河野家のを誌面に掲載。 一時、河野による刑事告訴が検討されていた。 (製作協力) 外部リンク [ ]• 2015年辞任• [ ]• この項目は、(・・・・・・・・・・・)に関連した です。
次の来歴 [ ] 生まれ。 、卒業。 山岳写真家のは妻の祖父にあたる。 (平成6年)夜に発生した松本サリン事件に際して事件の第一通報者となった。 警察から事件への関与が疑われ、は河野の自宅のを実施した。 この捜索においてが発見されたことや、「河野宅において不審な煙を見た」との証言があり嫌疑が深まった。 後に証言については虚偽と判明し、また農薬からは合成できないことが判明している。 警察のおよび情報のを受け、のや主要な全国紙を含め、多くのメディアが河野をと決め付けて扱った。 河野やその家族は断続的に長野県警からの取り調べを受けたが、有力なが見つからずされることはなかった。 その後、(現・)の施設周辺において不審な証拠が発見され、さらに1995年(平成7年)3月20日に発生したののち、松本サリン事件もオウム真理教の犯行であることが判明し、河野への疑いは完全に解消された。 捜査当時のであったは、長野県警から推定有罪的で執拗な取り調べがあったことなど、度を越していた河野に対する行為について直接謝罪。 マスメディア各社も報道被害を認めて各種媒体に謝罪文を掲載、一部の関係者も直接出向いて陳謝した。 一方、長野県警はの意を表明したのみで「というものではない」と公式な謝罪を行わなかった。 長野県警本部長が当時の捜査の誤りとそれに起因する河野の被害について謝罪したのは、河野が委員に就任して以後のことであった。 公安委員就任以降の活動 [ ] 2002年にであったの要請を受けて、長野県警を監督する委員を1期(3年 )務めた。 大王路の無職の女性(当時77歳)が2004年4月に殺害された事件()で、その長女が「犯人扱いされた」と訴えていた問題で、として長女宅を訪れ、長女らと約2時間半にわたって非公開で面談した。 で、長女に対して推定有罪と判断して、(うそ発見器)をかけられたことや、誘導などで強要された、深夜までを受けたことなどについて説明する長女に対し、松本サリン事件で一時扱いを受けた自身の体験を話した。 面談後、「直接の謝罪は必要。 市民にとって大きな負担となる捜査方法は改善すべき」として、県公安委員会で警察側に陳謝の要望があったことを報告すると約束。 の事情聴取を何時間以内にとどめるべきかなど捜査の指針作成を提案する意向を示した。 事情聴取のポリグラフについて、「一般市民には非日常的なことだが、警察にすれば日常的。 そのギャップは大きい」と指摘した上で、「今後は県警が配慮してギャップを埋めていく必要がある」とした。 この件に対し、長女は「話を聞いてもらって楽になった。 」と話している。 その後、の長野県警の捜査ミス糾弾(他殺死体を自殺事件と断定したが、成立後に所持等の別件で逮捕された犯人の任意のにより殺人事件と判明)において、田中知事と対立し公安委員をされた(田中知事は犯罪報道被害者でにもなりかねなかった河野が長野県警糾弾の先鋒になることを期待したが、河野は「当時の捜査において他殺と断定できなかった事はやむを得なかった」との判断をしている)。 妻はサリンによる被害により状態から回復せず河野がしていたが、に60歳で死去した。 その死に際して、「長い間頑張ってくれて、ありがとう。 今日は彼女がになる日。 わが家にとって、事件が終わる日になると思う」とコメントを出した。 報道被害に関する講演で全国各地を訪れていたなか、2010年8月、妻の三回忌を区切りに鹿児島市へ転居し、2014年7月には霧島市に移住した。 オウムに対する姿勢 [ ] 一連のオウムにおいて主要な容疑者とされた幹部に対するに関しては慎重な考えを持っている。 その理由としては、オウム真理教のを死刑にすることで、「」になる恐れがあること、殺人を起こす人がの規定を理解した上で、殺人を犯しているわけではないことを挙げている。 また、に「さん」とを付けて呼び「教えは間違っていた」と声明を出してほしいと著書の中で呼びかけている。 松本サリン事件で噴霧車製造に関与し実刑判決を受けたと交流があり、釣りをするほどの仲になっている。 2011年(平成23年)12月、オウム真理教から別れた「」(代表)の外部人に就任した。 「(ひかりの輪が)実際どうなのか自分で中に入り、自分の目で確認したい。 不安を持つ周辺住民との橋渡し役になって動いていければ」と話した。 翌2012年(平成24年)1月22日には、団体の施設へ立ち入り、初の監査を実施した。 2015年(平成27年)12月31日付で「ひかりの輪」外部監査委員会委員を辞任した。 辞任理由は一身上の都合としている。 著作 [ ]• 『妻よ! わが愛と希望と闘いの日々』(、1998. 6)ほかに文庫版• 『松本サリン事件報道の罪と罰』(との共著 、1996. 11)ほかに新風舎文庫、版• 『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』(、1995. 11)ほかに版• 『松本サリン事件 虚報、えん罪はいかに作られるか』(、2001. 『命あるかぎり~松本サリン事件を超えて~』(第三文明社、2008. 『足利事件 松本サリン事件』(菅家利和との共著 、2009. 9) 河野義行を演じた俳優 [ ]• - 『』(河野をモデルにした・神部俊夫 役)• - 『「」』(2009年6月26日、フジテレビ)(実名役) 脚注 [ ] []• - (2013年5月14日アーカイブ分)、• 週刊女性PRIME• 「松本サリン事件傷心15年」 読売新聞 2009年6月24日• 共同通信社. 47NEWS. 2011年12月2日. 2013年1月31日閲覧。 共同通信社. 47NEWS. 2012年1月22日. 2013年1月31日閲覧。 2016年2月6日閲覧。 関連項目 [ ]• - 松本サリン事件の際、「毒ガス事件発生源の怪奇家系図」と題して河野家のを誌面に掲載。 一時、河野による刑事告訴が検討されていた。 (製作協力) 外部リンク [ ]• 2015年辞任• [ ]• この項目は、(・・・・・・・・・・・)に関連した です。
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