この春より運転開始されたサフィール踊り子号。 もちろん私はこれには乗らず各駅停車で訪れました。 それにしてもカッコイイなぁ。 半分ぐらいがグリーン車で、コンパートメントのような席まで。 しかしコロナウイルスの影響もあり車内はガラガラでした。 不要不急外出の自粛と言いますが、こんな時だからこそ人の多い都会を離れて温泉地でのんびりするのも良いのではと思います。 昨今の危機的な観光産業のためにも。 平日というのも手伝ってか、観光客の姿はほとんど見えません。 今回の目的は猪戸町界隈に残るカフェー建築。 これがそう!とハッキリ判断し切れないのが、赤線地帯巡りのもどかしさ。 ただただひたすら怪しい建物が多く点在しています。 温泉街の赤線地帯の名残として有名なのがこのアーチ。 半ばこれが今回の目的でもあります。 現在この辺りはスナック街なのですが、木造モルタル建築の意匠が凝ってる凝ってる。 この凝った建物を見るだけでも楽しいです。 赤線どうこうよりも温泉街として栄えていた事が伺えます。 一度泊まりがけで来て夜のスナック街を飲み歩いてみたいです。 結構スナックとして改修された建物が多い中、モザイクタイルが残ってたりすると嬉しい。 どれほどの店が生き残っているか気になるところ。 赤線地帯跡とは言いますが、温泉街によってはいまだに赤線まがいの事をしてる場所も有ったりします。 その場でコンパニオン斡旋したりね。 アジア系の進出も著しい。 北関東などには都心から流れて行ったアジア系も多いと聞きますが、伊豆方面にはそんなイメージ無かったんですが。 伊東園ホテルの辺りを歩いていたら偶然見つけたストリップ劇場跡。 後で調べてみたら2015年に閉館されたそうです。 今回は駆け足で伊東市内を回りましたが、まだ川の向こうに新天地なる赤線地帯跡があるとか。 それはまた次回。 タグ : 以前、とは言っても随分昔にお隣、東向島ののカフェー建築を訪れましたが、今回は曳舟から隅田川沿いまで歩いたところにある鳩の街へ。 この辺りには昔、働いていた会社の社宅があり、そこに住む先輩の部屋に入り浸って格ゲーの対戦ばかりやっていた時期が有りました。 なので曳舟駅から鳩の街商店街まではよく通っていた道のりなのですが、当時は赤線街などに全く興味が無かった。 下町の商店街としてもかなり古い建物の残る街ですが、最近までは毎年隅田川の花火大会を観に行って、帰りにはこの商店街を歩いて20年以上の馴染みの居酒屋に立ち寄ってました。 夜だった事もありいつも赤線の名残りを探さずスルーし続けて来た。 そんな前置きはともかく、さっそくカフェー建築の物件です。 商店街の東側の路地裏にそれは残っていました。 外壁は上貼りされていますが、モザイクタイルの円柱が辛うじて残っています。 もう一軒はすぐ近くにあるこの建物。 元々はお隣、玉の井にいた業者が空襲で焼き出され、戦後の昭和20年から焼け残った土地を買収して商売を再開したのが、赤線街としての鳩の街の始まりだそうです。 この建物もだいぶ改装されていますが、モザイクタイルの円柱が残っています。 カフェー建築としてハッキリとした形を残しているのは、おそらくこの二ヶ所のみでしょう。 それっぽい建物はいくつもありますが、ぽいってだけで確証はないしキリがない。 強いて言えば質屋なんてのも華街ならでは。 また、この鳩の街から南に歩けば向島の料亭街となります。 タグ : 神奈川県横須賀市、京急田浦駅周辺に行ってまいりました。 駅から少し南に下った所より海に向かって仲通り商店街というアーケードがあります。 現在ではすっかりシャッター商店街と化していますが、ここにはかつて皆ヶ作という花街がありました。 ここ田浦にはかつて大日本帝国海軍工廠造兵部 現在の東芝ライテックの工場 や海軍防備隊などの施設がありました。 そのため大正から昭和に掛けて、大変な賑わいを見せていたそうです。 かつて色街を紹介するサイトなどでは有名なカフェー建築が商店街の近くにありましたが現在では解体されてしまい、僅かに匂いの残る建物が数軒残るのみ。 商店街を海に向かって右側、少し路地を入った所にある割烹飯田屋。 こちらは商店街の真ん中にある銭湯。 まだ現役のようです。 路地裏に僅かに残る飲み屋街へと入って行きます。 玄関の上にあるライオンの顔。 数少ない私娼の名残りです。 扇の意匠。 カフェー建築の名残りです。 商店街を抜けて左手の住宅街に入った所に、元料亭だった建物。 ナスを象った窓。 この辺りにはかつて40軒ほどの私娼館があったそうです。 バー『城』跡。 見事なカフェー建築です。 道が狭く引きで撮れないのがもどかしい。 曲線を多く使った建物。 その二階部分には、いかにもな窓が残る。 隣にはバー『一ニ三』。 現在まだ営業しているかは不明ですが、最近まで営業してたとか。 崖の中腹に廃墟がありますが、こちらは大正15年竣工の田浦町役場跡です。 タグ : 船橋駅の南側には、かつて海神新地という赤線地帯が広がっていました。 元々は街道筋の船着場近くの旅籠にいた飯盛り女が発祥で、昭和に入りそのような店が一か所に集められて船橋遊廓とも呼ばれていた海神新地が形成されたそうです。 しかし現在ではごく普通の住宅街であり、往年の名残りを色濃く残す建物はほとんど残っていません。 それらしき建物の破れた幌の中に、微かに『粋平楼』という屋号が確認出来ますが、詳細は不明。 凝ったモルタル装飾と少し斜めになった出入り口。 これしか手がかりが無いので、断定は出来ません。 ただこの辺りは住宅街にも関わらず、そこかしこにスナックなどがあり、色町だった面影を僅かに匂わせています。 一見普通の民家ですが、玄関の造りに違和感があります。 この建物などは特にカフェー建築の面影を残しています。 こちらも、それらしき建物。 つい近年までは『吾妻屋』という遊廓建築が残っていたらしいのですが、2009年に焼失してしまったそうです。 一方、こちらは京成船橋駅近くに並ぶカフェー建築。 海神新地から外れている事から、この辺りは青線地帯だったのではないかと想像されます。 京成船橋駅の前まで行くと、キャバクラの向かいにインマヌエル船橋基督教会があります。 かなり古い木造建築ですが、隣に新しい教会を建てているので、近い内に取り壊されてしまうと思われます。 タグ : 以前訪れた中央町のカフェー建築を見て行こうと、初川沿いの路地を入って行きました。 下の写真はおよそ4年前に撮影したものです。 しかし、訪れて見たら既に解体され更地になっていました。 熱海の赤線地帯跡の中では最も代表的とも言える建物だったのですが、残念でなりません。 ただ、他の建物は今だ健在でした。 以前撮影しなかった物件を撮っていきます。 実際のところ、カフェー建築の面影を残している建物は、撮りきれないほど存在します。 特徴的な建物はかなり広範囲に建っており、何処までが娼館だったのか、実際確証は持てません。 初川の北側にはスナック路地などもあります。 このような路地裏スナック街も、どこまで現役で営業しているのか、夜に訪れて見ないと定かではありません。 こちらは芸妓さんが練習したり詰めたりしている見番です。 芸妓さんも昔に比べたら相当減っていると思われます。 熱海では特に企業による団体旅行の最盛期、その役割をコンパニオンなどに奪われていったでしょう。 そのコンパニオン業界も今や風前の灯火。 今現在残るこの見番は、むしろ伝統芸能に近い形で観光向けに保存されているだけかも知れません。 中央町より海側へ大通りを一本越えると渚町になります。 渚町と地名だけ聞くとお洒落な感じがしますが、実際はソープランドからファッションヘルスまである、バリバリの風俗街です。 ここにも赤線地帯だった歴史があるのか、カフェー建築も残っています。 古い雑居ビルの中は通り抜けられるようになっております。 中には営業しているのか謎なスナックが軒を連ねています。 果たして、これだけ怪しげな店を訪れる観光客など居るのでしょうか。 中央銀座通りにはストリップ劇場も残っています。 かつて熱海が巨大歓楽温泉街だったのは、過去の話ではないのかも知れません。 タグ :.
次の日本最大級の遊郭として江戸時代から昭和33(1958)年の売防法施行まで340年間の歴史を歩んできた吉原遊郭だが、吉原大火、関東大震災、東京大空襲と幾度も災難に見舞われてきた故に残念ながらこの土地に伝統的な遊郭建築は一切残っていない。 しかし、吉原には戦後に赤線地帯として勃興した時期に建設されたカフェー建築がいくつか残っている。 その中で最も密集しているのが江戸町二丁目通り裏手の「伏見通り」に面する一帯。 2016年1月現在、なんと5軒ものカフェー建築が現存している。 伏見通りを南側からアプローチしていくとまず最初に右手に現れるのがこちらのファサードが波打っちゃってる白いアパート。 建物名称は不明だが現役当時の屋号は「黒潮」だったと聞いております。 建物両側に玄関が付いていて一階と二階で一部屋ずつに分かれているんでしょうか。 その間に公明党の竹谷とし子議員のポスターがベターっと貼られているのがアクセントです。 最近東京の公明党ポスターはこの人ばかりですね。 次いで程無く左手に現れますは「大和田荘」という同じく白いアパート。 これも見るからにカフェー建築の特徴丸出しで狭い間口に玄関ドアが三つも取り付いている。 現役当時の屋号は「親切」。 どこがどう親切だったのかは知りませんけど、事情が分かるおじいちゃんに聞いてみてくださいね。 真正面から大和田荘を見る。 そう言えば一番左端の玄関に「貸室有」の張り紙がしてあったのだが、未だに現役賃貸物件として稼働中なのだから凄い。 売防法施行の昭和33(1958)年以前のものだと築60年近いには違いない。 お安く借りられますかね。 さらに江戸町二丁目通りの抜け道があるT字路付近にそびえる茶色い外観の「マスミ荘」。 これも転業アパートである。 隣の「皮漉所」の看板が浅草エリアならではの地場産業な訳ですが、これはマスミ荘ではなく隣の建物ですね。 茶色いペンキ一色に塗りたくられて多少見えづらくなってはいるが、二階部分のファサード上部にくっきり「マスミ」の屋号が見える。 現役当時の屋号も同じく「マスミ」。 ちなみにこの「マスミ」の元経営者は売防法施行後から現在まで土手通り沿い(いろは会商店街を出て矢吹丈の人形前の横断歩道を渡ったところ)で寿司屋「満す美寿司」を経営している。 店内には、遊郭建築の大工に内装をこしらえてもらったらしくカウンターに豆タイルを使ってたり、さすが元カフェー経営者の寿司屋だけの事はある。 Googleマップで「サークル甲冑娘」と出てくる謎のビルの正面から伸びる伏見通りと江戸町二丁目通りの間の狭い路地はかなりハイグレードな煤けっぷりで素晴らしい。 とっくに廃業したまんまの「喫茶24リゲイン」。 玄関横に置かれた立て看板から見ても、これはゲーム喫茶の類だったようです。 24時間戦えないしそもそもネタが古い。 そして「吉原のカフェー建築」で恐らく最も知名度が高いと思われるこちらの角にアールのついたモダンな建物。 みんな大好き「岩渕荘」様の登場でございます。 まあここも例に漏れず転業アパートの一つだ。 現役当時の屋号は「プリンセス」。 「岩渕荘」のこのアール部分、赤線跡探索マニアには鉄板過ぎてイカニモ裏観光スポットと化している感ありますけどね、人の住んでるアパートですんでね、建物の前でキャッキャウフフしながら記念撮影した後にinstagramなんぞに写真をアップロードしてないで黙って眺めて黙って帰ればいいんですよ。 さらに岩渕荘の横っ面もこのナイスデザインっぷりが良い!赤線愛好家系サブカル女子が住みたいカフェー建築ナンバーワンといった所でしょうか。 多分風呂なしトイレ共用だと思いますけどね。 大丈夫ですか? ちなみに岩渕荘の向かいに転業アパートの「金よし」があったが、2006年に取り壊されており現在は駐車場に変わっている。 今なお赤線愛好家のバイブルである木村聡氏の「赤線跡を歩く」に往時の姿を収めた写真が掲載されている。 仲之町通りに一番近い側に最後の5軒目「モリヤ荘」がそびえている。 現役当時の屋号は「モリヤ」。 日本人の「モリヤ」さんから取ったのか外国人の「モーリヤ」さんから取ったのか由来は今ひとつ分かりませんけども。 「モリヤ荘」の特徴と言えば、この窓枠の格子に赤い郵便ポストが各世帯分括りつけられている点である。 ここも岩渕荘同様に部屋以外は全て共用部分になった「昭和30年代のオールドファッションスタイル」(by 駒込・江戸駒旅館)なアパートメントなのでしょう。 あともう一軒吉原のカフェー建築で有名な「ハート形の建物」云々言われる物件は、この伏見通り沿いではなく角町通りと京町二丁目通りの間の路地から裏手に入ったところにそびえている。 よく見るとこの建物最大の特徴である壁の凹凸の意匠、「ハート型」と断定できる形でもなく「ハート型みたいな」と形容した方が近い。 ピンク色なので余計そう思うのかも知れないけど。 エリアから記事を探す• 811• 216• 154• 101•
次の日本最大級の遊郭として江戸時代から昭和33(1958)年の売防法施行まで340年間の歴史を歩んできた吉原遊郭だが、吉原大火、関東大震災、東京大空襲と幾度も災難に見舞われてきた故に残念ながらこの土地に伝統的な遊郭建築は一切残っていない。 しかし、吉原には戦後に赤線地帯として勃興した時期に建設されたカフェー建築がいくつか残っている。 その中で最も密集しているのが江戸町二丁目通り裏手の「伏見通り」に面する一帯。 2016年1月現在、なんと5軒ものカフェー建築が現存している。 伏見通りを南側からアプローチしていくとまず最初に右手に現れるのがこちらのファサードが波打っちゃってる白いアパート。 建物名称は不明だが現役当時の屋号は「黒潮」だったと聞いております。 建物両側に玄関が付いていて一階と二階で一部屋ずつに分かれているんでしょうか。 その間に公明党の竹谷とし子議員のポスターがベターっと貼られているのがアクセントです。 最近東京の公明党ポスターはこの人ばかりですね。 次いで程無く左手に現れますは「大和田荘」という同じく白いアパート。 これも見るからにカフェー建築の特徴丸出しで狭い間口に玄関ドアが三つも取り付いている。 現役当時の屋号は「親切」。 どこがどう親切だったのかは知りませんけど、事情が分かるおじいちゃんに聞いてみてくださいね。 真正面から大和田荘を見る。 そう言えば一番左端の玄関に「貸室有」の張り紙がしてあったのだが、未だに現役賃貸物件として稼働中なのだから凄い。 売防法施行の昭和33(1958)年以前のものだと築60年近いには違いない。 お安く借りられますかね。 さらに江戸町二丁目通りの抜け道があるT字路付近にそびえる茶色い外観の「マスミ荘」。 これも転業アパートである。 隣の「皮漉所」の看板が浅草エリアならではの地場産業な訳ですが、これはマスミ荘ではなく隣の建物ですね。 茶色いペンキ一色に塗りたくられて多少見えづらくなってはいるが、二階部分のファサード上部にくっきり「マスミ」の屋号が見える。 現役当時の屋号も同じく「マスミ」。 ちなみにこの「マスミ」の元経営者は売防法施行後から現在まで土手通り沿い(いろは会商店街を出て矢吹丈の人形前の横断歩道を渡ったところ)で寿司屋「満す美寿司」を経営している。 店内には、遊郭建築の大工に内装をこしらえてもらったらしくカウンターに豆タイルを使ってたり、さすが元カフェー経営者の寿司屋だけの事はある。 Googleマップで「サークル甲冑娘」と出てくる謎のビルの正面から伸びる伏見通りと江戸町二丁目通りの間の狭い路地はかなりハイグレードな煤けっぷりで素晴らしい。 とっくに廃業したまんまの「喫茶24リゲイン」。 玄関横に置かれた立て看板から見ても、これはゲーム喫茶の類だったようです。 24時間戦えないしそもそもネタが古い。 そして「吉原のカフェー建築」で恐らく最も知名度が高いと思われるこちらの角にアールのついたモダンな建物。 みんな大好き「岩渕荘」様の登場でございます。 まあここも例に漏れず転業アパートの一つだ。 現役当時の屋号は「プリンセス」。 「岩渕荘」のこのアール部分、赤線跡探索マニアには鉄板過ぎてイカニモ裏観光スポットと化している感ありますけどね、人の住んでるアパートですんでね、建物の前でキャッキャウフフしながら記念撮影した後にinstagramなんぞに写真をアップロードしてないで黙って眺めて黙って帰ればいいんですよ。 さらに岩渕荘の横っ面もこのナイスデザインっぷりが良い!赤線愛好家系サブカル女子が住みたいカフェー建築ナンバーワンといった所でしょうか。 多分風呂なしトイレ共用だと思いますけどね。 大丈夫ですか? ちなみに岩渕荘の向かいに転業アパートの「金よし」があったが、2006年に取り壊されており現在は駐車場に変わっている。 今なお赤線愛好家のバイブルである木村聡氏の「赤線跡を歩く」に往時の姿を収めた写真が掲載されている。 仲之町通りに一番近い側に最後の5軒目「モリヤ荘」がそびえている。 現役当時の屋号は「モリヤ」。 日本人の「モリヤ」さんから取ったのか外国人の「モーリヤ」さんから取ったのか由来は今ひとつ分かりませんけども。 「モリヤ荘」の特徴と言えば、この窓枠の格子に赤い郵便ポストが各世帯分括りつけられている点である。 ここも岩渕荘同様に部屋以外は全て共用部分になった「昭和30年代のオールドファッションスタイル」(by 駒込・江戸駒旅館)なアパートメントなのでしょう。 あともう一軒吉原のカフェー建築で有名な「ハート形の建物」云々言われる物件は、この伏見通り沿いではなく角町通りと京町二丁目通りの間の路地から裏手に入ったところにそびえている。 よく見るとこの建物最大の特徴である壁の凹凸の意匠、「ハート型」と断定できる形でもなく「ハート型みたいな」と形容した方が近い。 ピンク色なので余計そう思うのかも知れないけど。 エリアから記事を探す• 811• 216• 154• 101•
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