意味: 1. 町中の貧困地域。 特にスラム街で、マイノリティの人々が多く住み、犯罪が多発する地域のこと。 アメリカのゲットーと言えば、南中央ロサンゼルス、コンプトン(ロサンゼルス)、ブルックリン、ブロンクス、ハーレム(全てニューヨーク)など。 例:Thomas was scared to park his car in the ghetto. (トーマスはゲットーに車を停めるのを怖がった。 ) 2. 形容詞。 都会的な・大都市的な、の意味。 例:Michael tried to act cool and gangster by talking all ghetto. (マイケルは都会的に振る舞って話すことで、格好をつけた不良っぽさを演出しようとした。 ) 3. 形容詞。 貧しい・またはそういう生活をしている、の意味。 例:Your mom is so ghetto, she packs her purse full of food at all you can eat restaurants. (お前の母さん、凄く貧乏なんだろ。 食べ放題レストランで食べ残したやつ、全部持ち帰ろうとしてるぜ。 ) 4. 形容詞。 自家製(で、やけにチープで質も良くない)という意味。 但し、ある種のリスペクトを感じさせるもの。 例:Ice attached to your fan? (扇風機の風が来るところに氷を置いてあるのか?まさしくお手製のエアコンってわけか。 ) 5. Ghetto bootyといえば、爆尻のこと。 例:Naomi has a nice round ghetto booty. (ナオミはいい、真ん丸い爆尻をしてる。 ) 発音: ゲドゥ 画像ソース:giphy. com.
次のアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所 アウシュヴィッツ強制収容所で、ナチス・ドイツが初めてのガス室実験 今日は何の日 1941年9月23日 1941年9月23日、ポーランド南部アウシュヴィッツにナチス・ドイツが設けた強制収容所において、初めてガス室実験が行なわれたとされます。 ユダヤ人を虐殺した惨劇として知られます。 今回は、なぜユダヤ人がナチスの標的となったのか、また日本とユダヤ人との関わりについて、少し紹介してみます。 ヨーロッパにおけるユダヤ人迫害は、実はナチス・ドイツに始まるものではありません。 いわゆる「反ユダヤ主義」は宗教の問題に根ざすもので、イエス・キリストの死後まもなく始まりました。 そもそもキリスト教はユダヤ教に起源を持ちますが、その後分離し、キリスト教徒はイエス・キリストを救世主として認めなかったユダヤ人を蔑みました。 またイエスが磔にされた責任もユダヤ人にあるとします。 やがてキリスト教がヨーロッパに広がる中、ユダヤ人は「キリスト教を冒涜する存在」として、人々から憎まれました。 職業も自由に就くことができなくなり、やむなくキリスト教徒が嫌がる金融業に従事し、そのためさらに、キリスト教徒から蔑まれていきます。 こうした「反ユダヤ主義」は20世紀に入っても根強く存在しました。 それを先鋭化させたのが、第一次大戦の敗北で国家が破綻したドイツを、強力な国家へ変えることを謳って頭角を現わした国民社会主義ドイツ労働者党、すなわちナチス党首アドルフ・ヒトラーです。 ヒトラーはユダヤ人を排除する政策を次々と打ちました。 その狙いの一つは、明確な敵を作ることによって、ドイツ国民を一つにすることにあります。 またヒトラーは「優生学」に関心を持ち、「優性民族」のアーリア人こそがドイツを支配し、ヨーロッパを統一すべきと考え、「劣等民族」のユダヤ人を迫害、国外に追放することを目指しました。 1938年11月、パリのドイツ大使館で、書記官がユダヤ人青年に射殺されました。 家族をナチスに迫害された恨みを晴らすためのものでしたが、この報せにドイツ国民は激怒し、国内のユダヤ教会堂やユダヤ人商店を襲撃し、90人以上のユダヤ人が殺害されます 水晶の夜事件。 ドイツ国内のユダヤ人追放が加速する中、翌年、ドイツはポーランドに侵攻しました。 第二次大戦の始まりです。 ところがポーランドには、200万人以上のユダヤ人が暮らしていました。 彼らを追放することは物理的に不可能であり、ナチスは方針を変えて、彼らを強制居住区「ゲットー」に隔離します。 「居住区」とはいえ、ユダヤ人の身の安全は保障されておらず、外部との出入りを禁じられて強制労働に従事させられ、さらに極端に少ない食糧しか与えられず、多くの人々が命を落としました。 その後、ドイツは1941年6月にソ連に侵攻、ゲットーのユダヤ人をソ連などの東方に追いやろうとしますが、戦線膠着のため頓挫。 そこでユダヤ人を追放、隔離ではなく、「処理」することへ方針を転じます。 アウシュヴィッツに代表される「絶滅収容所」の登場でした。 「絶滅収容所」は文字通り虐殺のための施設で、主にガスによる大虐殺 ホロコースト が行なわれていきます。 他にも餓死、銃殺刑、絞首刑などが行なわれました。 第二次大戦中、総計およそ600万人のユダヤ人がナチスに命を奪われたといいます。 ドイツと、ほぼ時を同じくしてソ連がポーランドに侵攻、ユダヤ人たちは必死に国外逃亡を図りました。 そのうち北のリトアニアに向かった彼らが目指したのは、日本領事館です。 日本人はユダヤ人に対して何の偏見も持たず、むしろ日露戦争で、ユダヤ人資本家シフが戦時国債を購入してくれたことに感謝していました。 また第一次大戦後のパリ講和会議で、「人種差別撤廃条項」を提案した世界で唯一の国が日本です。 日本人もまた、アメリカが排日移民法で日本人を排斥するなど、差別の対象とされていました。 いわば日本人にとってユダヤ人は、親近感のわく存在でもあったのです。 ただしこの時期、ソ連の共産主義に対する警戒から、日本はドイツと接近しており、あからさまなドイツの政策に反対する行為は、国として判断が難しい部分がありました。 そうした中で、ポーランドからリトアニアに押し寄せたユダヤ難民が求めるビザ発給に対し、苦悩しつつも決断を下したのが、リトアニア領事代理の杉原千畝なのです。
次の東欧各地のゲットーに住んでいたユダヤ人の多くは、ドイツ軍に抵抗するためのレジスタンスを組織し、密輸した武器や手製の武器で武装しようとしました。 1941年から1943年までの間、約100のユダヤ人グループが地下抵抗運動を組織しました。 ドイツ軍に対する武装抵抗の試みで最も有名なものは、ワルシャワのゲットーで起きました。 1942年の夏、約30万人のユダヤ人がワルシャワからトレブリンカに移送されました。 絶滅収容所における大量殺戮のニュースがワルシャワのゲットーに漏れ伝わってきたとき、ほとんどが若者からなる生存者グループがZ. という名前の組織を作りました。 はポーランド語でユダヤ人戦闘組織という意味のZydowska Organizacja Bojowaの頭文字を取ったものです。 は、23歳のモルデハイ・アニエレヴィッツの指揮の下、ユダヤ人たちに列車に乗らないように抵抗するよう呼びかける声明を出しました。 1943年1月、ゲットーの住民を集めて移送しようとしたドイツ軍に対してワルシャワのゲットーの戦闘員たちが発砲しました。 戦闘員たちはゲットーに密輸したわずかな武器を使いました。 数日後、ドイツ軍兵士は退去しました。 ゲットーの戦闘員には、この小さな勝利は今後のレジスタンス活動に覚悟を決める上で励みとなりました。 1943年4月19日、生き残った住民を移送するためにドイツの軍と警察がゲットーに入った後に、ワルシャワのゲットー蜂起が始まりました。 750人の戦闘員が良く訓練された重装備のドイツ軍と戦いました。 ゲットーの戦闘員たちは1か月近く抵抗を続けることができましたが、1943年5月16日に蜂起は終わりました。 ドイツ軍はレジスタンスをゆっくりと時間を掛けて潰しました。 5万6,000人を超えるユダヤ人が逮捕され、7,000人が射殺され、残りはあちこちの収容所に移送されました。 重要な日付 1942年7月28日 ユダヤ人戦闘組織が結成される ワルシャワのゲットーからトレブリンカ絶滅収容所への移送の第一波が進行中に、ユダヤ人戦闘組織(Zydowska Organizacja Bojowa、ZOB)が結成されます。 1942年7月22日、ドイツは大量移送を開始します。 それは1942年9月12日まで実質的に中断されることなく続けられます。 この期間に、25万人を超えるユダヤ人がゲットーから移送されるか殺害されます。 ZOBは、ユダヤ人青年団のメンバーによって構成され、ゲットーのユダヤ人に移送に抵抗するよう呼びかけます。 移動虐殺部隊によるユダヤ人の虐殺や絶滅収容所でのユダヤ人の虐殺についての報告は既にゲットーに届いていました。 しかし、ZOBはまだ蜂起する準備ができていません。 9月に移送が終わった後、ZOBは政治的な地下組織のメンバーを入れて拡大し、訓練と武器と火薬類を提供してくれるポーランドレジスタンス軍との連絡を確立します。 モルデハイ・アニエレヴィッツが指揮官に任命されます。 1943年1月18日〜21日 ドイツ軍が抵抗に遭遇する ドイツ軍はワルシャワのゲットーからの移送を再開します。 しかし、今度はZOB(ユダヤ人戦闘組織:Zydowska Organizacja Bojowa)の抵抗にあいます。 早朝の一斉逮捕にZOBは不意を突かれ、人々は通りに出てドイツ軍に抵抗します。 他のユダヤ人はゲットーに引き上げ、用意してあった隠れ家に逃げ込みます。 ドイツ軍は排除が滞りなく進むと思っていたので、レジスタンスに驚きます。 報復措置として、1月21日に1,000人のユダヤ人を中央広場で虐殺しますが、移送は一時停止します。 ドイツ軍は5,000〜6,500人のユダヤ人を移送または殺害することができました。 抵抗運動の結果に勇気付けられて、ゲットーのユダヤ人は全面的な蜂起を計画し準備します。 戦闘組織は団結し、戦略が立てられ、地下壕とトンネルが構築され、屋根伝いの通路が建設されます。 ワルシャワゲットーのユダヤ人は最後まで戦う覚悟はできています。 1943年5月16日 ゲットーの破壊と蜂起の終わり 1か月の戦いの後、ドイツ軍はワルシャワのグレート・シナゴーグを爆破して蜂起の終わりとゲットーの破壊の表れです。 1943年4月19日、SS将軍ユルゲン・シュトロープの指揮下、ドイツ軍はゲットーの最終的な破壊と残りのユダヤ人の移送を開始しました。 しかし、ゲットーの住民は移送のために集合せず、ゲットーの戦闘組織は建物や地下壕に立てこもってバリケードを築き、ドイツ軍に抵抗する用意をします。 3日後、ドイツ軍はゲットーに火を放ち、建物の1つ1つから隠れていたユダヤ人をあぶり出します。 ドイツ軍はゲットーを瓦礫の山に変えていきますが、抵抗は何週間も続きます。 1943年1月の移送の後にゲットーに残っていたユダヤ人は約5万人ですが、シュトロープ将軍の報告ではゲットーの破壊後、5万6,065人のユダヤ人が逮捕され、そのうちの7,000人がトレブリンカの絶滅収容所に移送され、残りは強制労働収容所とマイダネクの絶滅収容所に送られたということです。 レジスタンス戦闘員たちの一部はゲットーからの脱出に成功して、ワルシャワ周辺の森のパルチザングループに加わります。
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