昨日お通夜があったんだけど、そういうとき「般若心経(はんにゃしんぎょう)を覚えておいて良かったな」と思います。 もちろんみんなの前で唱えるわけじゃなくてw、心の中で唱えながらそっと手を合わせるだけなんだけど。 もしくは、たとえお通夜会場や葬儀会場に行けないとしても、自宅から、仕事場から、そっと心の中で唱えるだけなんだけど。 でも、それがかなり心を穏やかにさせてくれるし、とても清らかな気持ちにさせてくれます。 何かしら成仏のお手伝いになっているかもしれないし。 だから、あのとき覚えてよかったな、と今でもよく思うのです。 つか、そもそも なんでそんなお経を覚えようと思ったかって話ですよねw ちょっと特殊な例だと思うんだけど、ボク、 般若心経を覚えたの中学3年生かなんかの時なんですw かなり変わってるw 中学高校とへっぽこラグビー部員だったこともあり、わりと体育会系の毎日だったんだけど、それとは別に「古寺仏閣」という渋い趣味も持ってたんです。 歴史小説が好きで、司馬遼太郎はもちろん、海音寺潮五郎、子母沢寛あたりはすべて読んでいたんだけど、そうなると必然的に興味は古寺仏閣に移っていくわけです。 当時、ボクは横浜は保土ヶ谷に住んでいて、鎌倉がわりと近かったことも原因のひとつかもしれません。 横須賀線で40分も行けばあの大好きな北鎌倉駅でしたから。 週末は毎週のように出かけました。 1970年代後半、鎌倉はまだすいていて、ちょっと渋いお寺とか行くと「お寺でひとりぼっち状態」とかも可能な感じでした。 で、友人たちも誘い込んで、「古寺仏閣巡り」は加熱していきます。 そのうち目をつぶっても歩けるくらい鎌倉を熟知しました。 どこにどんなお寺がありどんな仏像があるか、どの売店のアイスが美味しいか、どの路地にどんな犬がいるか、どの寺のどこにどんな花が咲いているか・・・ いや、誇張ではなく、そのくらいは鎌倉を把握していました。 で、少年は自然と(?)朱印収集を始めます。 いまは朱印もちょっとしたブームらしいけど、当時そんなの集めてる中高生とかほとんどいないわけですよ。 ちょっとした優越感というか、「マニアになった気分」に陶酔するわけです。 なんせ15歳(ほぼ厨二)なわけですから。 (ちなみにオタクという言葉が出来るのはもっと後の1983年)。 そして、マニア少年は次にこう考えて、もっと陶酔するわけです。 「お経のひとつも言えたらもっとカッコイイぞ」と。 カッコイイか?w でもまぁそういう発想をしたのですね、当時のボクは。 仏教の真髄になんかちっとも迫らず、カタチから入るあたりが情けないw あと、写経を経験して 「お、般若心経(はんにゃしんぎょう)ってわりと短いじゃん」と思ったのも動機のひとつですね。 般若心経は、仏教の教えのエッセンスを伝えるとても短いお経なんです。 600巻におよぶ大般若経を誰でも読みやすいように たった262文字(ツイッター2つぶん分弱)にまとめたってものなんです。 これがとてつもなく長い法華経とかだったら覚えようなんて気も起きなかったと思うけど、これだけ短いならなんとかなるかな、と。 その上、般若心経は宗派を越えて効力(功徳)があるらしいというのも動機になりました。 わりとオールマイティなんですよね、般若心経。 ただ、唱えても問題視されはしないらしい。 さて、どうやって覚えたか。 ネットもまだない。 本も専門書っぽいのしかない。 お坊さんに習うのも厚かましい。 うーむ・・・ でも簡単です。 祖父に習いました(祖父は会社経営してました。 当時はまだ般若心経くらい唱えられる大人がたくさんいたんです)。 習ってみたらわりと楽勝でした。 だって、早口なら30秒くらいで全部言えちゃいそうなくらい短いんです。 文字面も漢字も難しいんだけど、祖父に読み方と息継ぎの場所を教えてもらって、3時間くらいで覚えた記憶があります。 それ以来、お寺に行ったりお葬式があったりする度に心の中で唱えています。 ちなみに、覚えるコツはリズミカルに音読すること。 これだけ。 いまなら、YouTubeで「教えてくれている動画」もあります。 たとえば以下の。 これ聞くとわかると思うけど、字の切れ間と息継ぎは違うんです。 あと、これはすごくゆっくり唱えてるけど、馴れると一気に数十秒で唱えられるようになります。 ちなみに般若心経の意味や内容はわかりません(きっぱり)。 だって、仏陀の教えのエッセンスがこの短い中に全て入っていると言われるくらいですもの。 そりゃわからないのです。 一応、般若心経に関する本はいろいろ読んだんだけど、なかなか頭に入ってこないですね。 まぁもともと古代インド語の教えを中国人が無理矢理漢字に当てはめて作ったお経ですから、頭に入りにくくてもしょうがないですね。 たとえば冒頭の「摩訶般若波羅蜜多心経(まーかーはんにゃーはーらーみーたーしんぎょう)」って言葉も古代インド語の「マハーパニャーパラーミターチタースートラ」を無理矢理漢字にしたって言うんだから。 そういう意味では、ちょっと前にネット上でバズってた「般若心経の現代訳みたいなの」を読んでざっくり意味を理解するのが一番いいかもしれない。 知りたい方のために下に貼っておきます。 「般若心経」 超スゲェ楽になれる方法を知りたいか? 誰でも幸せに生きる方法のヒントだ もっと力を抜いて楽になるんだ。 苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ、安心しろよ。 この世は空しいモンだ、 痛みも悲しみも最初から空っぽなのさ。 この世は変わり行くモンだ。 苦を楽に変える事だって出来る。 汚れることもありゃ背負い込む事だってある だから抱え込んだモンを捨てちまう事も出来るはずだ。 この世がどれだけいい加減か分ったか? 苦しみとか病とか、そんなモンにこだわるなよ。 見えてるものにこだわるな。 聞こえるものにしがみつくな。 味や香りなんて人それぞれだろ? 何のアテにもなりゃしない。 揺らぐ心にこだわっちゃダメさ。 それが『無』ってやつさ。 生きてりゃ色々あるさ。 辛いモノを見ないようにするのは難しい。 でも、そんなもんその場に置いていけよ。 先の事は誰にも見えねぇ。 無理して照らそうとしなくていいのさ。 見えない事を愉しめばいいだろ。 それが生きてる実感ってヤツなんだよ。 正しく生きるのは確かに難しいかもな。 でも、明るく生きるのは誰にだって出来るんだよ。 菩薩として生きるコツがあるんだ、苦しんで生きる必要なんてねえよ。 愉しんで生きる菩薩になれよ。 全く恐れを知らなくなったらロクな事にならねえけどな。 適度な恐怖だって生きていくのに役立つモンさ。 勘違いするなよ。 非情になれって言ってるんじゃねえ。 夢や空想や慈悲の心を忘れるな。 それができりゃ涅槃はどこにだってある。 生き方は何も変わらねえ、ただ受け止め方が変わるのさ。 心の余裕を持てば誰でもブッダになれるんだぜ。 この般若を覚えとけ。 短い言葉だ。 意味なんて知らなくていい、細けぇことはいいんだよ。 苦しみが小さくなったらそれで上等だろ。 嘘もデタラメも全て認めちまえば苦しみは無くなる、そういうモンなのさ。 今までの前置きは全部忘れても良いぜ。 でも、これだけは覚えとけ。 気が向いたら呟いてみろ。 心の中で唱えるだけでもいいんだぜ。 いいか、耳かっぽじってよく聞けよ? 『唱えよ、心は消え、魂は静まり、全ては此処にあり、全てを越えたものなり。 』 『悟りはその時叶うだろう。 全てはこの真言に成就する。 』 心配すんな。 大丈夫だ。 いい訳ですねw それはそれとして、どうでしょう? あなたも覚えてみませんか? 般若心経をさっと唱えられるって意外といいもんですよ。
次の寂聴般若心経 般若心経 瀬戸内寂聴 瀬戸内寂聴さんの仏教講話は面白い。 そこで彼女の本を読んで私なりの理解で 整理したいと思います。 般若心経 (三蔵法師玄奘訳) かんじざいぼさつ 観自在菩薩 [観音さまが、] ぎょうじんはんにゃはらみったじ 行深般若波羅蜜多時 [彼岸に渡るため悟りにいたるための行を行う時、] しょうけんごうんかいくう 照見五蘊皆空 [人間の心の感受し認識する五つの要素がすべて 空であると考えて、] どいっさいくやく 度一切苦厄 [私たちの一切の苦を救ってくださったのである。 ] 人は彼岸(苦のない浄土)に渡るために、行をしなければならない。 つまり、六つの行をする。 これを六波羅蜜という。 すなわち、布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・ 禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)である。 布施とは施すことである。 持戒とは、してはいけない戒律を守ることである。 忍辱は辛抱すること。 精進とは努め励むこと。 禅定は座禅をすること。 五蘊(ごうん)とは、色・受・想・行・識のことである。 色とはもののことである。 現象の世界である。 受とは感覚のことである。 目で見て感じることである。 想は知覚作用のことである。 たとえば寒暖を感じること。 行とは意志の作用である。 自分に無礼をはたらく相手には、つい憎みたくなる。 識とは認識することである。 色と受と想が結びつくと認識がおこる。 ものがあって、それを感じる心、つまり識があれば はじめて、ものが存在することがわかる。 我々は、眼、耳、鼻、舌、触感の五感で感じる。 身体で感じたことを心で意識する。 ものがあっても、それを見ても目に入らなければ、ないのと同じことである。 たとえば歩いていて、何かに気がとられていると、道を歩く人が誰だか気がつかない ことがある。 道の草も知識があれば、それが薬草だとわかるとおろそかに歩けないが、 知らないと何の価値も感じないから、ないのと同じことになる。 つまり、ものがあっても、それを認識しなければ、まさにないのと同じことである。 しゃりし 舎利子 [観音さまは舎利子に向かい、次のように述べた。 舎利子 よ、] しきふいくう 色不異空 [ものがあっても、感じる心がなければ、ないことと同じであり、] くうふいしき 空不異色 [ないということも、感じる心があれば、そのものは あるのと同じである。 ] しきそくぜくう 色即是空 [だから、形あるものは、実はないものであると 考えてよいし、] くうそくぜしき 空即是色 [ないものと思うことも、実はあるものであると 考えることもできる。 ] じゅそうぎょうしき 受想行識 [色以外の残りの、心の四つの働きについても、] やくぶにょぜ 亦復如是 [まったく同じことなのである。 ] 人は死んだら日本では火葬される。 死体は煙となって空中に飛び、あるいは灰となる。 つまり人間の身体を構成する有機化合物は元素に分解されるわけである。 それらは、植物や微生物の栄養となり、やがて動物や人間の身体となる。 だから、目の前に見える人間もいつか死んでしまう。 そして、人間は死んでも元素は なくならない。 人間や家畜という形があっても、それらはつかのまの存在にすぎない。 しかし、ないかというと元素というものになっているし、その後また別の生き物の 身体を構成している。 しゃりし 舎利子 [舎利子よ、] ぜしょほうくうそう 是諸法空想 [この諸々の法は、実体がない、 ということであるから、] ふしょうふめつ 不生不滅 [もともと、生じたということもなく、滅したという こともなく、] ふくふじょう 不垢不浄 [よごれたものでもなく、浄らかなものでもなく、] ふぞうふげん 不増不減 [増えることもなく、減ることもないのである。 ] 万年雪をいだく山も下界に近い方では雪解け水が流れる。 やがて水は集まり川となり、ついには海に注ぐ。 海の水も蒸発をして天の昇り雲を作る。 雲は雨を降らせ時には雪を降らせ、ヒマラヤの雪を作り、黄河の水となる。 このように水は循環する。 そして、地球の外に出ることもないし、地下にしみこんで なくなっていくものでない。 つまり、水は減らないのである。 もちろん増えることもない。 これは水にだけとどまらず、地球を構成する物質の元素はしばしの間、化学結合により 様子を変えることはあっても、本質的な量は不変である。 つまり、ものは増えも減りもしないのである。 動物の排泄物は汚れているというけれど、やがて微生物が分解して、無機物に 変えてくれる。 本質的な元素は減りも増えもしないで。 そして、無機質がまた別の 微生物や植物の働きで、動物の栄養となる物質に作りかえられ、 動物の餌となるのである。 長い目で見れば、汚れたままであるものはなく、汚れた状態はほんに一時のことで、 世の中には汚れたものも、清浄なものもないのだと言える。 ぜこくうちゅうむしき 是故空中無色 [したがって、実体がないということの中には、形あ るものはなく、] むじゅそうぎょうしき 無受想行識 [感覚も想うことも意志も認識もないし、] むげんにびぜつしんい 無眼耳鼻舌身意 [眼・耳・鼻・舌・身体・心といった感覚器官もない し、] むしきしょうこうみそくほう 無色声香味触法 [形・音・香・味・触覚・心の対象、といったそれぞ れの器官に対する対象もないし、] むげんかいないしむいしきかい 無眼界乃至無意識界 [ものがないから見る世界もない。 意識する世界も ないのである。 ] むむみょう 無無明 [我々の心に迷いがいっぱいという無明が無いとするなら、] やくむむみょうじん 亦無無明尽 [無明を無くしつくすことになる。 ] ないしむろうし 乃至無老死 [無明がなくなれば、行もなくなり、識もなくなり、名色も なくなり、ついには老と死もなくなり] やくむろうしじん 亦無老死尽 [老と死がつきることになる。 ] むくしゅうめつどう 無苦集滅道 [苦しみも、その原因も、それをなくすことも、そし てその方法もない。 ] むちやくむとく 無知亦無得 [知ることもなければ、得ることもない。 ] 生老病死の四苦に愛別離苦を加えると八苦となる。 この八苦を解決するために、苦集滅道(くしゅうめつどう)つまり四諦(したい)がある。 苦諦 苦の真実がある。 集諦 苦の原因を考える。 滅諦 その原因をなくする方法を考える。 道諦 その方法を実行する。 般若心経では、苦集滅道はないと説いている。 つまり四諦とかは知っていればいいことで それにとらわれてはいけないと言っているのである(とは寂聴さんの解釈)。 私が考えるに、四諦というのはひとつの理想であって、世の中にはそれができない場合は いっぱいある。 よって、四諦というものをいつもあると思っては間違いなのであろう。 いむしょとくこ 以無所得故 [かくて、得ることもないのだ。 ] ぼだいさった 菩提薩垂 [菩薩になるため菩薩行を一生懸命つみ、] えはんにゃはらみったこ 依般若波羅蜜多故 [般若の智慧を体得できたならば、] しんむけいげ 心無圭礙 [すべての不安や畏れから解放されて、] むけいげこ 無圭礙故 [心にこだわりを持たなくなるから、] むうくふ 無有恐怖 [何ものも恐れなくなる。 ] おんりいっさいてんどうむそう 遠離一切転倒夢想 [ものごとを逆さにみる誤った考え方から遠ざかり、] くきょうねはん 究境涅槃 [永遠にしずかな境地に安住しているのである。 ] こち 故知 [したがって] はんにゃはらみった 般若波羅蜜多 [悟りに至る行は] ぜだいじんしゅ 是大神呪 [大神呪であり、] ぜだいみょうしゅ 是大明呪 [大明呪であり、] ぜむじょうしゅ 是無上呪 [無上呪であり、] ぜむとうどうしゅ 是無等等呪 [比較するものがない最上の呪文なのである。 ] のうじょいっさいく 能除一切苦 [これこそが、あらゆる苦しみを除き、] しんじつふこ 真実不虚 [真実そのものなのである。 ] 大神呪は、声聞のとなえる呪文である。 大明呪は、縁覚のとなえる呪文である。 弘法大師は大乗の中でもここまでを顕教の真言だと言っている。 無上呪は、菩薩のとなえる呪文である。 無等等呪は、くらべるもののない、最上の呪文である。 密教の真言に当たると弘法大師は説いている。 声聞は、人の話を聞いて、ああそうかと早合点して悟ってしまうもの。 インターネットの知識や電子メールで教えてもらって、それで満足する人間か。 縁覚は、正式に導師につかず、勝手に自己流に学んで悟った思っているもの。 なんだか自分のことをさされているみたい。 ドキッ 菩薩は、修行してやがて仏になろうとしているもの。 あるいは、菩薩は、仏が 人間を救うために、人間の世界にあらわれたものと考えられる。 般若心経は、声聞にも縁覚にも、大乗の菩薩にも通用する陀羅尼(だらに)である。 ここで陀羅尼とは、呪のことである。 呪とはマントラ(真言)のことである。 呪は神呪(じんしゅ)ともいい、如来の真実の言葉である。 こせつはんにゃはらみつたしゅ 故説般若波羅蜜多呪 [そこで最後に、知恵の完成の真言を述べよう。 ] そくせつしゅわつ 即説呪曰 [すなわち次のような真言である。 ] ぎゃていぎゃていはらぎゃてい 羯帝羯帝波羅羯帝 [往け、往け、] はらそうぎゃてい 波羅僧羯帝 [彼の岸へ。 ] ぼじ 菩提 [いざともに渡らん、] そわか 僧莎訶 [幸いなるかな。 ] はんにゃしんぎょう 般若心経 [知恵の完成についてのもっとも肝要なものを説ける 経典。
次の寂聴般若心経 般若心経 瀬戸内寂聴 瀬戸内寂聴さんの仏教講話は面白い。 そこで彼女の本を読んで私なりの理解で 整理したいと思います。 般若心経 (三蔵法師玄奘訳) かんじざいぼさつ 観自在菩薩 [観音さまが、] ぎょうじんはんにゃはらみったじ 行深般若波羅蜜多時 [彼岸に渡るため悟りにいたるための行を行う時、] しょうけんごうんかいくう 照見五蘊皆空 [人間の心の感受し認識する五つの要素がすべて 空であると考えて、] どいっさいくやく 度一切苦厄 [私たちの一切の苦を救ってくださったのである。 ] 人は彼岸(苦のない浄土)に渡るために、行をしなければならない。 つまり、六つの行をする。 これを六波羅蜜という。 すなわち、布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・ 禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)である。 布施とは施すことである。 持戒とは、してはいけない戒律を守ることである。 忍辱は辛抱すること。 精進とは努め励むこと。 禅定は座禅をすること。 五蘊(ごうん)とは、色・受・想・行・識のことである。 色とはもののことである。 現象の世界である。 受とは感覚のことである。 目で見て感じることである。 想は知覚作用のことである。 たとえば寒暖を感じること。 行とは意志の作用である。 自分に無礼をはたらく相手には、つい憎みたくなる。 識とは認識することである。 色と受と想が結びつくと認識がおこる。 ものがあって、それを感じる心、つまり識があれば はじめて、ものが存在することがわかる。 我々は、眼、耳、鼻、舌、触感の五感で感じる。 身体で感じたことを心で意識する。 ものがあっても、それを見ても目に入らなければ、ないのと同じことである。 たとえば歩いていて、何かに気がとられていると、道を歩く人が誰だか気がつかない ことがある。 道の草も知識があれば、それが薬草だとわかるとおろそかに歩けないが、 知らないと何の価値も感じないから、ないのと同じことになる。 つまり、ものがあっても、それを認識しなければ、まさにないのと同じことである。 しゃりし 舎利子 [観音さまは舎利子に向かい、次のように述べた。 舎利子 よ、] しきふいくう 色不異空 [ものがあっても、感じる心がなければ、ないことと同じであり、] くうふいしき 空不異色 [ないということも、感じる心があれば、そのものは あるのと同じである。 ] しきそくぜくう 色即是空 [だから、形あるものは、実はないものであると 考えてよいし、] くうそくぜしき 空即是色 [ないものと思うことも、実はあるものであると 考えることもできる。 ] じゅそうぎょうしき 受想行識 [色以外の残りの、心の四つの働きについても、] やくぶにょぜ 亦復如是 [まったく同じことなのである。 ] 人は死んだら日本では火葬される。 死体は煙となって空中に飛び、あるいは灰となる。 つまり人間の身体を構成する有機化合物は元素に分解されるわけである。 それらは、植物や微生物の栄養となり、やがて動物や人間の身体となる。 だから、目の前に見える人間もいつか死んでしまう。 そして、人間は死んでも元素は なくならない。 人間や家畜という形があっても、それらはつかのまの存在にすぎない。 しかし、ないかというと元素というものになっているし、その後また別の生き物の 身体を構成している。 しゃりし 舎利子 [舎利子よ、] ぜしょほうくうそう 是諸法空想 [この諸々の法は、実体がない、 ということであるから、] ふしょうふめつ 不生不滅 [もともと、生じたということもなく、滅したという こともなく、] ふくふじょう 不垢不浄 [よごれたものでもなく、浄らかなものでもなく、] ふぞうふげん 不増不減 [増えることもなく、減ることもないのである。 ] 万年雪をいだく山も下界に近い方では雪解け水が流れる。 やがて水は集まり川となり、ついには海に注ぐ。 海の水も蒸発をして天の昇り雲を作る。 雲は雨を降らせ時には雪を降らせ、ヒマラヤの雪を作り、黄河の水となる。 このように水は循環する。 そして、地球の外に出ることもないし、地下にしみこんで なくなっていくものでない。 つまり、水は減らないのである。 もちろん増えることもない。 これは水にだけとどまらず、地球を構成する物質の元素はしばしの間、化学結合により 様子を変えることはあっても、本質的な量は不変である。 つまり、ものは増えも減りもしないのである。 動物の排泄物は汚れているというけれど、やがて微生物が分解して、無機物に 変えてくれる。 本質的な元素は減りも増えもしないで。 そして、無機質がまた別の 微生物や植物の働きで、動物の栄養となる物質に作りかえられ、 動物の餌となるのである。 長い目で見れば、汚れたままであるものはなく、汚れた状態はほんに一時のことで、 世の中には汚れたものも、清浄なものもないのだと言える。 ぜこくうちゅうむしき 是故空中無色 [したがって、実体がないということの中には、形あ るものはなく、] むじゅそうぎょうしき 無受想行識 [感覚も想うことも意志も認識もないし、] むげんにびぜつしんい 無眼耳鼻舌身意 [眼・耳・鼻・舌・身体・心といった感覚器官もない し、] むしきしょうこうみそくほう 無色声香味触法 [形・音・香・味・触覚・心の対象、といったそれぞ れの器官に対する対象もないし、] むげんかいないしむいしきかい 無眼界乃至無意識界 [ものがないから見る世界もない。 意識する世界も ないのである。 ] むむみょう 無無明 [我々の心に迷いがいっぱいという無明が無いとするなら、] やくむむみょうじん 亦無無明尽 [無明を無くしつくすことになる。 ] ないしむろうし 乃至無老死 [無明がなくなれば、行もなくなり、識もなくなり、名色も なくなり、ついには老と死もなくなり] やくむろうしじん 亦無老死尽 [老と死がつきることになる。 ] むくしゅうめつどう 無苦集滅道 [苦しみも、その原因も、それをなくすことも、そし てその方法もない。 ] むちやくむとく 無知亦無得 [知ることもなければ、得ることもない。 ] 生老病死の四苦に愛別離苦を加えると八苦となる。 この八苦を解決するために、苦集滅道(くしゅうめつどう)つまり四諦(したい)がある。 苦諦 苦の真実がある。 集諦 苦の原因を考える。 滅諦 その原因をなくする方法を考える。 道諦 その方法を実行する。 般若心経では、苦集滅道はないと説いている。 つまり四諦とかは知っていればいいことで それにとらわれてはいけないと言っているのである(とは寂聴さんの解釈)。 私が考えるに、四諦というのはひとつの理想であって、世の中にはそれができない場合は いっぱいある。 よって、四諦というものをいつもあると思っては間違いなのであろう。 いむしょとくこ 以無所得故 [かくて、得ることもないのだ。 ] ぼだいさった 菩提薩垂 [菩薩になるため菩薩行を一生懸命つみ、] えはんにゃはらみったこ 依般若波羅蜜多故 [般若の智慧を体得できたならば、] しんむけいげ 心無圭礙 [すべての不安や畏れから解放されて、] むけいげこ 無圭礙故 [心にこだわりを持たなくなるから、] むうくふ 無有恐怖 [何ものも恐れなくなる。 ] おんりいっさいてんどうむそう 遠離一切転倒夢想 [ものごとを逆さにみる誤った考え方から遠ざかり、] くきょうねはん 究境涅槃 [永遠にしずかな境地に安住しているのである。 ] こち 故知 [したがって] はんにゃはらみった 般若波羅蜜多 [悟りに至る行は] ぜだいじんしゅ 是大神呪 [大神呪であり、] ぜだいみょうしゅ 是大明呪 [大明呪であり、] ぜむじょうしゅ 是無上呪 [無上呪であり、] ぜむとうどうしゅ 是無等等呪 [比較するものがない最上の呪文なのである。 ] のうじょいっさいく 能除一切苦 [これこそが、あらゆる苦しみを除き、] しんじつふこ 真実不虚 [真実そのものなのである。 ] 大神呪は、声聞のとなえる呪文である。 大明呪は、縁覚のとなえる呪文である。 弘法大師は大乗の中でもここまでを顕教の真言だと言っている。 無上呪は、菩薩のとなえる呪文である。 無等等呪は、くらべるもののない、最上の呪文である。 密教の真言に当たると弘法大師は説いている。 声聞は、人の話を聞いて、ああそうかと早合点して悟ってしまうもの。 インターネットの知識や電子メールで教えてもらって、それで満足する人間か。 縁覚は、正式に導師につかず、勝手に自己流に学んで悟った思っているもの。 なんだか自分のことをさされているみたい。 ドキッ 菩薩は、修行してやがて仏になろうとしているもの。 あるいは、菩薩は、仏が 人間を救うために、人間の世界にあらわれたものと考えられる。 般若心経は、声聞にも縁覚にも、大乗の菩薩にも通用する陀羅尼(だらに)である。 ここで陀羅尼とは、呪のことである。 呪とはマントラ(真言)のことである。 呪は神呪(じんしゅ)ともいい、如来の真実の言葉である。 こせつはんにゃはらみつたしゅ 故説般若波羅蜜多呪 [そこで最後に、知恵の完成の真言を述べよう。 ] そくせつしゅわつ 即説呪曰 [すなわち次のような真言である。 ] ぎゃていぎゃていはらぎゃてい 羯帝羯帝波羅羯帝 [往け、往け、] はらそうぎゃてい 波羅僧羯帝 [彼の岸へ。 ] ぼじ 菩提 [いざともに渡らん、] そわか 僧莎訶 [幸いなるかな。 ] はんにゃしんぎょう 般若心経 [知恵の完成についてのもっとも肝要なものを説ける 経典。
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