黒柳徹子 本名。 黒柳徹子の学歴|出身大学高校や中学校の偏差値と学生時代

黒柳徹子

黒柳徹子 本名

文化功労者顕彰に際して 公表された肖像写真 本名 黒柳 徹子 別名義 トットちゃん(愛称) チャック(愛称) 生年月日 1933-08-09 (86歳) 出生地 (現・乃木坂) 血液型 職業 、、、、 ジャンル ・・・ 活動期間 - 『著名活動をしている人物』で記事対象の家族として公開されている人物がいる場合に記載。 単にメディアで紹介された新生児の名前などは書かないように注意。 名前は、両親が男の子が生まれると思い「徹」という名前を考えていたのだが、実際には女の子をしたため「子」をつけて「徹子」とした。 また、「黒柳」とサインを書くときには柳のである「栁」(木偏に夘)を使う。 父はで、新交響楽団(の前身)のも務めたの(旧姓田口)、母はの(旧姓門山)。 弟には幼くして亡くなった黒柳明兒、ヴァイオリニストの、妹にはでエッセイストのがいる。 また、伯父にはの初代所長の田口桜村や、の支社長やの代表を務めたがいる。 幼少期は「問題児」とされたため、(現: 公立小学校)を1年生の時にさせられ、1年生に転校する。 中、をきっかけに、以前にの母の実家から帰る汽車で青森の農家と隣り合わせた縁で(現・)の諏訪ノ平にする。 、、東洋音楽学校(現:)科卒業。 卒業後にはなれないと分かり、「自分の子どもに人形劇や絵本の読み聞かせを上手にできるお母さんになろう」と思い立って、「ひょっとしたら絵本の読み方も教えてくれるかもしれない」と新聞で見かけたの俳優募集の広告に応募、約6,000人の応募者の中から第6次までの審査を経て13人の劇団員の1人として選ばれる。 女優として 若き頃の黒柳 テレビ放送の開始を翌月に控えた(28年)1月にテレビ女優第一号の一人としてNHK放送劇団の一員となる。 の五期生で同期には、、、ら。 当初はラジオやテレビの通行人として出演しつつ、テレビの現場を学ぶ。 、研究所を経てテレビ女優の第一号としてデビューし、放送劇団入社時の面接では「親に言ったらこんなみっともない仕事を(するのはやめろと言われた)…」「こういう世界は騙す人が多いから気をつけろという話を聞く」などの失言を繰り返したのにもかかわらず、合格できたという。 、で放送され、自身初のとなった『』( - )が開始した。 同番組は日本のラジオドラマ史上初めて大人の女性が子供の声を演じた番組である。 「大人でも子どもの声を出せるはずだ」との劇作家・の発案により、NHK始まって以来のオーディションを経て、三男・トン坊役を演じて一躍有名になる。 以降も『』( - )、『』( - )などに出演し、さまざまなキャラクターの声を演じる。 子ども番組に加えて『』( - )、『』(1961年 - )などの人気番組にも出演し、週6、7本のレギュラー番組を抱えるなど多忙を極めるようになる。 20代後半にはテレビとラジオのレギュラーが週に10本を数え、平均睡眠時間3時間という日が続いて、過労からすべてのレギュラー番組を降板し1か月の入院を余儀なくされる。 NHK専属女優時代の初めの頃、ディレクターは「私をずーっと降ろしていた」と述べている。 の『』では、自身初となるの紅組司会を務めた。 それから22年の月日が経ったの『』で紅組司会に復帰し、の『』まで4年連続、通算5回紅組司会を務めた。 4年連続、通算5回の紅組司会という記録は、いずれもに並び史上最多である。 その32年後であるの『』では、総合司会として再度紅白の司会に復帰した。 通算6度はNHKアナウンサー以外の女性の最多記録となっている。 、第1回(昭和36年度)日本放送作家協会賞・女性演技者賞を受賞した。 舞台出身の俳優との間に演技力の差を感じていたことから、慕っていたにへの入団を相談し 、1961年に開設された文学座附属演劇研究所に3期生 として入所し演技を学ぶ。 、らが同期。 文学座の分裂後、に出演したの『』()でのスタッフとともに仕事をして親しくなり、のの夫人・フローレンスから「面倒見てあげるから、ぜひニューヨークにいらっしゃい! 」と招きを受けて、もっと勉強したいとへの留学を決意する。 9月から1年間ニューヨークへ留学し、西隣のに生活する。 ローム夫妻がニューヨークでの身元引受人となり、フローレンス夫人を「ニューヨークのお母さん」と呼んだ。 『スカーレット』演出家のの夫人で元女優のの紹介により、に基づいてプロの俳優に指導する「メアリーターサイ演劇学校」にて演技を学び、開校以来初の東洋人の生徒となる。 また、同じ建物の中にある「ルイジ・ダンススクール」でモダン・ダンスを学ぶ。 アフターファイブには振り袖を着てカクテルやディナーなど社交の場に足を運び、「着物と洋服、どちらにも似合う髪型を開発したい」との思いから、ニューヨークで知り合って友人となったアメリカで活躍中の・のアイディアを交えつつ、後にトレードマークとなる「タマネギヘア」を考案する。 「あなたのように1人でぷらぷらしている人の目で世の中を見て、そのままの感性で好きに話してほしい」とのオファーを受けて日本初の女性司会者によるで『』の前身番組となる『』()の司会就任が決まり、放送開始前月の1972年9月に帰国する。 の『』の放送開始を機に、「役を演じながら司会もやると混乱を招く」「悪女役をしていたら、悪い人が話を聞いているみたいに思われる」との考えから、本人役などで出演した一部作品を除いてテレビでの女優活動を控えるようになる。 一方で、舞台女優としてより「海外コメディ・シリーズ」の上演を開始。 劇作家・演出家の飯沢匡の発案により黒柳の主演で毎年秋に海外の喜劇を紹介する企画で、1994年に飯沢が死去した後は主にが演出を手掛けて、秋で30回目を数えた。 には『 (: )』および『 (: )』での演技により第38回ならびに第4回の大賞・最優秀女優賞を受賞、には「永年の翻訳劇に対する情熱と功績に対して」の受賞理由により第38回特別賞を受賞している。 秋の『想い出のカルテット〜もう一度唄わせて〜』では、同年8月末の右と手術を経て、設定を変更してで舞台を務めた。 ライフワークとして30年間で32作品を上演し、秋に上演の『ライオンのあとで』で幕を下ろした。 継続を希望するファンの声を受けて、10月には朗読劇『』の舞台に上る。 マルチタレントとして 、にて(左)を表敬訪問 にはで自身の『』が開始。 となっている。 放送分(35周年記念SP第2弾『出張!徹子の部屋』)を以って放送8961回を迎え、「 同一の司会者による番組の最多放送回数記録」としてに認定された。 には放送回数が通算 10000回となり、上記の「同一の司会者による番組の最多放送回数記録」を自ら更新し、再びギネス世界記録を受賞した。 には「」を、には「第23回」を受賞している。 には黒柳と『徹子の部屋』が第54回を受賞した。 受賞理由は「30年間休むことなく良質な対談番組を送り続けている努力」に対してである。 『徹子の部屋』開始と同じ1976年には、「主婦の選んだテレビパーソナリティーNO. 1」に初めて選出され、まで14年連続で選出された。 からは、最高41. 1978年度のを受賞する。 1970年代には『』『』などのNHKクラシック音楽番組の司会も大きな比重を占めた。 ユーモラスな早口は同種番組としては異色だったが、芥川也寸志、尾高忠明らソフトな語り口の専門家たちとのコンビネーションも好評で、賑々しいが訊き上手でもあるというのお茶の間イメージを定着させている。 、自身の著書『』が出版された。 単行本・文庫本を合わせて累計800万部を発行し 、世界35カ国で翻訳された。 累計770万部という発行部数は、国内において「 戦後最大の」となり、「トットちゃんブーム」が起こった。 また、黒柳は同作で、「第5回」やの「」などを受賞した。 からまでの5年間とには、の俳優・タレント部門で、、、、、ら時代を代表するタレントを抑えて1位となった。 には、タレントとしては珍しく政府の税制調査会に参考人として招かれ、その場で「現在の私の収入の90%が税金。 1時間の番組の何分か話したらあとは全部税金。 原稿用紙400字詰めの2行書いたら、あとの18行は全部税金。 勤労意欲を失うことが無きにしもあらず。 」と発言した。 には、「新鮮な発想と円熟した話術で視聴者の共感を呼び、新しい健全な娯楽番組の定着・充実に寄与した」として、第35回を受賞した。 より、傘下の(国際連合児童基金)親善大使を務めており、現在でも精力的に活動している(詳細は後述)。 にはTBS『』が放送を開始し、こちらも長寿番組になっており、黒柳は初回から毎回出演している。 また、初回から毎回出演している人物は黒柳の他には司会ののみである(、は最初準レギュラーであった。 なお、板東は2012年に降板している)。 には「第7回東京都文化賞」および「賞」を受賞している。 2000年代後半以降の活躍 に「放送ウーマン賞」のを受賞。 同年には、平成27年度に選ばれた。 には『徹子の部屋』が放送回数通算10000回を達成した。 2017年にはこれまでの活躍が評価されてに選ばれる。 2020年には第29回石井十次賞を受賞。 以後もテレビ番組『徹子の部屋』と『世界・ふしぎ発見! 』にレギュラー出演するほか、声優や女優、司会者、の親善大使として幅広く活躍している。 また、ほぼ毎年舞台に立ち続けている。 、にて(左)にの情勢を報告 芸能活動以外にも、傘下の(ユニセフ、国際連合児童基金)親善大使としての活動が特に知られる。 親善大使には1984年の人物として初めて就任し、その後最古参のメンバーになった。 当時のユニセフ事務局長は、任命理由として黒柳の子どもへの愛と、障害を持つ人々や環境への黒柳の広範囲な活動と実績を挙げている。 以後、、などのを毎年欠かさず訪問し、現在までの訪問国数は30ヶ国に上る。 親善大使としての活動に対して、ユニセフからは、1985年に「第1回ユニセフこども生存賞」、2000年に「第1回ユニセフ子どものためのリーダシップ賞」を受賞。 また日本政府からは、2003年に(現:瑞宝中綬章)を授与された。 黒柳がユニセフ親善大使に就任することになったきっかけは、当時ユニセフ事務局長だったジェームス・グラントが『窓ぎわのトットちゃん』をの紹介により読んだことである。 これらの視察の模様は日本国内や視察した国々の中で広く報道され、2002年に黒柳がとを訪問した際には、同行した日本のTVチームによって、視察の様子を撮影した90分間のが2本放送された。 また、『』でも視察報告を行い、広範囲に亘る黒柳の現地視察は、他のや『徹子の部屋』、多数のやの記事の中で伝えられている。 黒柳の活動が広く報道されたことでアフガニスタンやソマリアにおける子どもと母親を支援するための資金提供を呼びかけることにもつながった。 黒柳は個人で募金活動を行っており、黒柳のもとへ寄せられた募金総額は現在50億円以上に上る。 1996年5月28日にユニセフ活動のためテレビ朝日取材班とともに訪れたボスニア・ヘルツェゴビナで、クロアチア人警察に軍事基地を撮影したという嫌疑で3時間ほど拘束されている。 真相がわかるまで日本ではスパイ容疑で逮捕、身柄拘束と誤報された。 にユニセフの政府拠出金が削られそうになった時、黒柳は親善大使として自ら新聞に投書して政府拠出金の維持を訴えかけた。 黒柳の投書を読んで当時だったが黒柳に直接電話し、「今日予算のことなんで、ユニセフのために頑張るからね」と話した。 そして、黒柳の尽力もあってその年はユニセフの政府拠出金は削られなかった。 、黒柳が「朝日社会福祉賞」を受賞した。 受賞理由は「ユニセフ親善大使として活躍し、『トット基金』を通じてろう者の社会参加も支援した功績」である。 旱魃・内戦・殺戮・地雷がある状況で、「なぜそこまでして行くのか? 怖いとかためらうとかの気持ちはないのか」との質問に、「ユニセフ親善大使として少しでも皆様に知ってもらう。 (だから)あまり大変と思わない。 何かあったら、その時はその時でね。 戦争を通してきた人間って、そういう所が有りますよ。 だって、いつ死ぬか分からなかったんですから、小学生の時から。 飢えた事も親のいない寂しさも(疎開経験で)分かり合えますから」といい、やってあげる支援ではなく、トモエ学園の「皆、一緒に行う」の思想がユニセフ活動のもとになっていると答えていた。 ちなみに、ユニセフ親善大使としての黒柳への年間報酬は、1である。 過去に大使として訪問した地域 、にて(中央)と(右)にパンダ誘致を要請 子供の頃、がからのおみやげにのぬいぐるみを持って帰ってきたことをきっかけにパンダの研究を始めた。 パンダの研究は70年以上に及び、日本パンダ保護協会名誉会長を務めている。 黒柳がテレビ出演をするようになってからは、当時日本では知られていなかったパンダを紹介した。 そして、黒柳の尽力もあってには、の記念に2匹のパンダ「」が日本に初上陸。 に展示され、一大パンダ・ブームが起こった。 黒柳は「日中の国交が回復(実際には国交成立)したので、パンダをお願いして欲しい」とに電話をしようと思っていたという。 また、パンダ初来日の日には、仕事のを抜け出して上野動物園の裏口でパンダを乗せたトラックの到着を長時間待っていたが、パンダはコンテナの中で外からは全く見ることが出来なかった。 さらに、それを中継していたニュース番組に、見学している黒柳の姿が映った、というエピソードがある。 また、に初めてパンダの名前の公募が始まった際は、当時のとともに選考委員を務めた。 長年に亘る保護活動への功績から、の成都パンダ繁育研究基地より、今年生まれたパンダの命名権が初めて無償で与えられたことが2012年9月放送の『』内で伝えられた(通常は一定金額の寄付などで期間限定の命名権が与えられる場合がある)。 2012年に命名式が行われた。 その他活動 、にて(左)に被災地に対する支援活動について報告 1981年には、自身の大ベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』のを寄附して、「」を設立し、黒柳自身が理事長に就任している。 また、同年には「国際障害者年障害関係功労者内閣総理大臣賞」を、翌には「全日本ろうあ連盟厚生文化賞」を受賞している。 その他にも、社会福祉法人「」理事、会員、ジャパン顧問、館長、副理事長、日本協会名誉会長、日本パンダ保護協会名誉会長、としても活躍している。 1985年に、政府からを贈られた。 『窓ぎわのトットちゃん』の印税で、の聾学校の生徒たちによる劇団「デフシアター」の日本公演を経済的に支えたことが知られている。 黒柳自身もを使うことができ、本人役で特別出演した『』でも手話を披露している。 また、これらの関係からのメーカー・のテレビCMが制作される際にCMイメージキャラクターに抜擢され、継続して出演している(広告には黒柳を模した人形が登場している)。 交友関係• 劇作家・を師と慕い、飯沢没後も飯沢のことを話す際には必ず先生付けで話している。 は、『』(1969 - 70年 TBS)で共演したことがきっかけで友人となり、同じくこのドラマで競演していたらと共に「老後は同じ老人ホームへ入ろう」と(冗談混じりで)約束する仲となる。 二人は同年生まれで、池内もの幼稚園へ通っていた(ただし、黒柳がトモエ学園へ入園するのは小学校入学後なので池内と同時期にトモエへ通っていた訳ではない)共通点もあった。 池内は亡くなる前年のまで、『』へ12回出演する常連ゲストの1人だった。 このため没後も、池内のことが『徹子の部屋』で時々話題に上ることがある。 元NHKで女優のとは、NHK専属女優時代からの友人。 20代の頃から、一緒に主催のフランス語のレッスンに参加したり、同じデザイナーに服を作ってもらったり、プライベートでの時間を沢山共有していた。 2000年代以降でも時々一緒に食事に出かけており、年に1度の宅での食事会に同行したりしている。 また、黒柳と親しいことから、『徹子の部屋』にも草創期からゲスト出演しており、以降、節目・特別版などに招かれている。 同じく元NHKアナウンサーのとは『』(1955~64年)の頃から知り合いで 、黒柳は小川の司会ぶりについて「さらさら流れるから『春の小川』じゃないの」とキャッチフレーズを命名し、その後、小川の代名詞となった。 のともの紹介から親交を結ぶようになり、料理の上手な向田の作ったお惣菜をよくご馳走になっていた。 その縁でで長らく放送された、プロデュース・演出の「向田邦子ドラマシリーズ」のナレーションを務めていた。 とは60年来の親友で 、永が亡くなるまで『徹子の部屋』に39回出演し、7月12日に永の追悼番組として放送した。 永から「黒柳が亡くなった際の葬儀委員長をやる」とよく話されていたが、実際は永が先に亡くなり、黒柳が永のお別れの会でメッセージを述べることとなった。 そのお別れの会で黒柳は永の顎が外れたエピソードを話し、会場が爆笑となった。 は東洋音楽学校(現・東京音楽大学)の同級生。 との交友が深い(後述)。 1980年代までは、黒柳が司会を担当していた『』と並ぶであったフジテレビ『』のとは犬猿の仲では、と伝えられていたが、実際はこの2人も1960年代頃からの親友である。 芳村は『ヒットスタジオ』司会時に身につける毎回派手な服装が話題になっていた頃、「あなた、いいわねー。 必ずカメラにターン(下から上に向かってカメラの角度を変えながら出演者の全影を撮影する手法)してもらえるんだもの。 」と黒柳に番組収録で顔を合わせる度に羨ましがれたという(『』(CS・歌謡ポップスチャンネル)出演時の芳村の発言より)。 とは、文通しあう間柄で柴本が幼い頃から手紙のやり取りをしている。 を母さんと呼んで慕っており、よく自宅を訪れる間柄であった。 彼女の甥であるや、長門の妻であるらとも交流が深い。 2011年5月24日の長門裕之の葬儀告別式では弔辞を読んでいる。 とも交友関係があり、2005年にで放送されたドラマ『』では、黒柳が越路の遺品分けとしてもらったコートを提供し、題字も担当した。 とはテレビ創世期からの付き合いで、ドラマなどで共演。 徹子の部屋の第1回ゲストに呼ばれている。 ビーズ刺繍作家のとも時折食事に行く仲で、田川の作品を仕事でもプライベートでも愛用している。 とは1960年代のドラマ共演以来、半世紀の付き合いになる。 のことを「欣也ちゃん」と呼ぶ。 フランス人俳優とは過去に番組で共演しており、黒柳は彼に口説かれ、ともに食事をしてダンスを踊った。 後に黒柳は「タイプじゃなかった」と発言している。 渥美清との関係 NHK『』で共演したとは関係が深い。 共演当時、恋人役、夫婦役が多かったため、熱愛疑惑が持ち上がったことがある(本人談)。 渥美はの『』にゲスト出演している(この出演が最初で最後であるが、黒柳によるとその後何度も渥美に出演を依頼したもののいずれも拒否されたとのことである)。 渥美の死は山田洋次から電話で聞いている。 映画『』最終作のマドンナで寅次郎が就職した幼稚園の園長先生役に選ばれていた。 では、に撮影現場を見に来てくれと言われて訪問しており これが生前の渥美と会った最後となった。 に開かれた「寅さんとのお別れの会」に出席。 渥美の特集番組『渥美清の伝言』、『渥美清の肖像〜知られざる役者人生』にも出演。 プライベートでも仲が良く、普段は「お兄ちゃん」と呼び『男はつらいよ』の映画も一緒に見ていたがそんな黒柳でさえ渥美の自宅や連絡先を知らず、車で送った際にもいつも近くのところで降りていた。 渥美の家族にも「お別れの会」で初めて会ったと言う(生前の渥美はプライバシー秘匿を徹底していたため)。 その後渥美の妻とは、親交が続いている(2006年12月の『徹子の部屋』より)。 ただし、渥美清が生前出演した回顧番組で、黒柳徹子の言葉に傷ついたことが何度かあると告白していた。 その番組で、お嬢様育ちの黒柳には、自分のような貧しい育ちの人間のことがわからず、悪気はなかっただろうと語った。 タモリとの関係 との関係も深く、黒柳はタモリの知名度を上げるきっかけを作った人物の一人でもある。 タモリがに連れられ、テレビ朝日 の生放送番組『マンガ大行進 赤塚不二夫ショー』 1975年8月30日放映 に出演し、インチキ牧師を演じていたところを、放送を見ていた黒柳が興味を持ち、「今の人、誰? すごいじゃない」とテレビ朝日にいる赤塚宛に電話を入れ、是非『』(『徹子の部屋』の前身番組)に出て欲しいと出演依頼を行った事が縁である。 これ以来、タモリは『徹子の部屋』の年末最後の放送にゲスト出演するのが2013年までは恒例となっていた。 タモリが『徹子の部屋』にゲストとして出演する際には、テレビでほとんど見られなくなった何らかの「密室芸」の披露をしているが、1980年代の放送では「」や「を洗った水で作った」、「」、「」など、通常では考えられない料理を2人で作って食べるのが恒例となっていた。 (ちなみにその「タモリ牧師」は、1989年から2014年までの、『』のオープニングでまで毎年、見ることができたほか、2014年3月31日の『』最終回でも披露した。 ただし、2000年代に入ると、タモリ本人もマンネリを感じてきており、多々「こんな牧師いるわけないでしょ」と言いながら演じ、ネタにしていた。 放送の『』の名物コーナー「」に出演した際に、「43分間喋り続ける」という伝説を残した(これは、後述する放送まで最長記録だった)。 そのため放送時間がなくなり、「テレフォンショッキング」の後に予定されていたレギュラーコーナー2つのうち1つを潰さなければならなくなり、双方の司会担当者がじゃんけんをして、潰す方を決めた。 には21年ぶりに登場し、またも放送時間内で39分間喋り続けた。 とにも出演したが、普通のゲストよりやや長い時間程度で終了した。 2014年1月14日に出演したは48分となり、黒柳が30年間守ってきた記録を更新した。 までフジテレビの番組にはほとんど出演せず、その後も数回しかフジテレビ系列の番組に出ていない。 タモリが出演する『』には、事務所の人に「出たい」と願い出て出演した。 放送の『トリビアの泉』において、「『徹子の部屋』でのをしたことがある」、「30年以上いつもで過ごしている」と2本連続で紹介され、検証VTRに本人が登場して事実と認めた。 黒柳は、タモリが振舞う料理を食べるため、タモリの家に行くことがあり、食べた料理は写真に残すようにしている。 外国人男性との交際• 、『 黒柳徹子に失礼な質問10連発SP』に出演し、および同年12月12日放送の『徹子の部屋』において、40年近くにわたって遠距離恋愛をしていた外国人の恋人の存在を明かした。 お互い多忙なため、1年に1、2度程度しか会うことができず、男性の死去により交際が終了したという。 2017年に放送された自伝ドラマ・『』では、国際的に活躍するピアニストという設定でその恋人がモデルとされるカール・祐介・ケルナーという人物が登場する。 副音声などの都合上、ドラマ内の会話は日本語でなされていたが、実際は英語で会話していたと本人が明かしている。 テレビ 『徹子の部屋』 日本初のトーク番組『徹子の部屋』を始めるにあたり、黒柳がに出した条件が「スタッフの入れ替えをしないこと」「編集をしないこと(の手法)」であった(ただしこれは番組がいつまで続くか分からなかった開始当初のことであり、実際にはプロデューサーやディレクターは入れ替わっている)。 後者の理由は「ゲストのありのままの姿を引き出すため」「番組の質の低下を防ぐため(を編集するのは多大な労力がかかる)」「ゲスト・黒柳・スタッフの三者間で『ここをカットしてほしい』『ここを残してほしい』と編集に関する意見が衝突するのを防ぐため」の3点である (ただし1度だけカットをしたことがあるという )。 黒柳は「一切編集をしない。 ほぼの状態。 だから皆さん本心を話してくれるんでしょう。 」と語っている。 話す内容は、黒柳がゲストについてその日担当のディレクターからレクチャーを受けた際に、その内容を特注のメモ用紙(はA6)に2Bので縦書きに書いたものを繋ぎ合わせたリスト(台本や質問稿ではない)をテーブルに置いて進行する。 を使わないで読むので、ゲストに驚かれることがある。 そのメモの上にゲストがコップを置くと除けたり、置かないようにあらかじめ釘を刺す。 メモが汚損などして使い物にならなくなった際にはトークになるが、切り替わったことは一度もない。 放送第1回目のゲストはであったが、その際森繁は黒柳の胸を触った。 また、2009年11月11日に森繁が死去した際には、翌12日に追悼特集が放送されている。 黒柳の衣装はゲストと事前打ち合わせはせず、黒柳およびスタイリストによって選ばれている。 放送開始から8000回を超えるまでは全て黒柳本人が衣装を用意・選定していたが、その後はスタイリストが用意した衣装も着用するようになった。 本番組で使用された衣装の一部は、年に1度日本橋高島屋で開催されているセールへ出品されている(売り上げは「青少年とともに歩む会」に寄贈)。 黒柳とゲストのトークは基本的にゲストの活躍している内容について行われるが、常連のゲストのさらに一部の相手とは、「お約束」と言えるような展開で行われる。 例えば、が単独ゲストの場合、黒柳と小沢が何らかのテーマに沿った扮装をしてトークを行う「扮装シリーズ」が定番となり、2010年の小沢の最後の出演までに15回行われた。 1996年の、黒柳が、小沢がのをして、の度肝を抜いた時は(いずれもテレビ朝日系列のアニメ)、の一面トップに黒柳の姿がカラー写真で出た。 2月10日には、小沢が初めて出演した1976年当時の映像が残っていないことから、再び(小沢の母校である早稲田大学の学帽付き)とに扮し、過去の名場面を振り返った。 番組では、黒柳への信頼などからゲストがそれまで公にしていなかった自身に関する重大事を告白することもある。 は「黒柳さんだから申し上げるんですけれど」と、自身の病気がだったことを告白し、にはがに罹患していることを公表している。 また、にはがであったことを告白したほか、大山のぶ代が脳梗塞を患っていたことも告白している。 さらに、が初めて体験を語ったほか、が自らの自殺未遂・鬱病体験を初めて告白したのも『徹子の部屋』である。 にはがであること、にはが妻・のを告白した。 こうした告白は、翌日以降のやなどにニュースとして取り上げられることもある。 2006年放送の回では、ゲストのが前回出演した際、部に所属していた話をするが、黒柳がソフトボールというスポーツそのものを理解できず、話が先に進まなかったVTRが放送された。 黒柳が司会を務めた『ザ・ベストテン』放送期間中は、よくその番組にランクインした歌手も登場していた。 がゲスト出演した際にをすすめられ、毎日行っている。 馬場はこれからわずか2ヶ月後に亡くなり、黒柳は「スクワットは馬場さんの遺言」と述べている。 様々な俳優、の才能を引き出すトークがある一方、がゲストの時には、芸人がネタを見せた際「面白い! 」と一人喜んでいつまでも出演した芸人のネタの披露をやめさせないこと、またゲストがトークに入る前に開口一番「今日は何か面白いネタを披露して下さるんですって? 」とわざとトークのハードルを引き上げること等がある。 黒柳が長年ユニセフなどの慈善事業に参加していることから、一般には知られていない各種市民運動団体やボランティア団体の関係者が出演することもある。 これらの出演者の場合、黒柳は冗談めいた発言をすることは少ない。 TBS『』に黒柳が出演した際、が「『徹子の部屋』で気に入らなかったゲストとかいますか? 」と尋ねたのに対し、黒柳は「気に入らないゲストはそもそも呼びません。 ゲストは私が選んでます」と発言した。 しかし、実際のところゲストは基本的にスタッフが選び、黒柳が関与するのは最終段階のみだという。 しかし、のように本来出演予定になかった人物が、黒柳の意向で出演を依頼したケースもある。 に『徹子の部屋』が放送40年目にして、放送回数通算10000回を達成した際には、「とりあえず50年まで。 90歳でここにたどり着くのは大変だと思いますけど、大丈夫かね」と放送50周年となる90歳まで番組を続けていくことに意欲を示している。 2015年9月に『』に出演した際その収録の合間に司会のと「今度は『徹子の部屋』にも来てください」「出まっせ、出まっせ」といったやりとりがあったという。 さんまは社交辞令として「出ます」と返事したつもりが、なんとその翌日にスタッフがさんまを訪ねてきたという。 「まさか、次の日に来るとは思っていなかった」と驚くも、『祝40周年 最強夢トークスペシャル』(2016年2月11日放送)にスペシャルゲストとしてと共に25年ぶりの出演。 二人とも他局の全国ネットのレギュラー番組の収録日をずらして、この日の収録に臨んだという。 『』 黒柳・久米コンビによる司会決定の経緯については、資料によって内容が異なっている。 山田修爾の著書によれば、最初にTBSの局アナウンサーだった久米が前番組『』から続投することが決まり、次に相方を女性とすることとなって黒柳がキャスティングされた。 制作サイドではを加えた3人体制での司会を予定していたが、西田がスケジュールの都合がつかず、結局2人体制で番組がスタートすることとなった。 久米は当初『トップスターショー』を最後に音楽番組の司会から足を洗うつもりだったが、黒柳とのコンビが決まったことで音楽番組を担当し続ける気になったという。 しかし2013年9月27日放送の『』で紹介されたものでは、先に黒柳の起用が決まり、久米がリポーターを務めるの番組のファンだった黒柳 がもう1人の司会が決まっていない状況を知り、スタッフに気に入っていた久米の起用を打診したとのものだった。 なお、黒柳と久米は番組開始前の1977年暮れに同じTBSの番組『』で司会を担当し共演している。 出演する歌手が地方や海外に行っていてスタジオに来られない場合でも、「追いかけます、お出かけならばどこまでも」を売りに、当時TBSアナウンサーだったや、各局のアナウンサーが「追っかけマン」「追っかけウーマン」として登場し、TBS系列各局の協力を得て、現地からの歌唱を中継披露するのも恒例行事であったが、追っかけの対象は歌手だけでなく司会である黒柳にも及んだ。 これは番組開始時に、黒柳が司会に就任する条件の一つとして「毎年海外旅行に行くので2 - 3週間の夏季休暇が取れること」を挙げ、番組側がこれを受諾したことが遠因である。 しかし、番組制作側としては要の一人である黒柳を3週間も欠くことは大きな痛手であると考えたため、結局黒柳の旅行先である海外までスタッフを派遣し衛星生中継で黒柳を出演させた。 黒柳を追いかけての衛星生中継は1978年のに始まり 、など毎年夏の恒例となり、1984年には遂に久米も一緒に海外に飛び出してからの生中継を行った。 久米と共演した過去があることから、まで放送されていたテレビ朝日『』に、UNICEF親善大使として毎年ゲスト出演していた。 また、2009年4月18日には、『』に、黒柳がゲストで生出演し、番組冒頭から最後まで「全編黒柳徹子スペシャル」として放送された。 また、14時台後半には『ザ・ベストテン』の最多ランキング記録を持つも飛び入り出演し、当時の『ザ・ベストテン』を振り返った。 が得意で、着衣のまま水中浮揚を披露したこともある。 のファンであり、親子のような関係だと自認している。 ある時、近藤が「車を欲しいんだけど、タイヤだけでいいから買ってくれないか」と頼まれたんです。 タイヤは4つ必要じゃないですか。 だから、私がジャニーズ事務所のさん、さんと久米さんに頼んで4人で買ってあげることにしたんです。 久米さんは「何で俺が…」って言っていたけど。 も近藤同様親子関係だと黒柳は述べている 黒柳の話が余りに長くなると、久米が強引に話を打ち切り歌や中継に振ることも多かったが、のようにこのことで久米批判はしていない。 久米について黒柳は「渥美さんのような温かさはないんです。 でも、考え方や持って生まれた価値観が似ていて、話が合う。 」と述べている。 『世界・ふしぎ発見! 』 TBS『』などのの書き問題時には、必ずと言っていい程答えを縦書きで書き(ただし、答えの中にアルファベットが入っている場合は例外的に横書きにする)、漢字を最大限に使う。 1986年の番組開始当初、それまでクイズ番組に出演したことがなかったため、「当時『徹子の部屋』と『ザ・ベストテン』をやっていましたので、もし、クイズができなくて『頭、悪いんじゃないの? 』と思われることを心配しました」と、当時は出演を迷っていたという。 衣装は着物姿で出演する。 この理由は「(世界の歴史や文化を取り上げる番組にもかかわらず)レギュラーで日本の伝統的な着物を着ている人が一人もいないということが分かったこと」「もし答えができなくても着物を着てれば、誰だか分かんないかもと思ったこと」の2点である。 正解率の低いと解答が同じになると露骨に嫌な顔をする(もちろんネタであり、本心ではない)。 また、一度自身だけが不正解になったことがあり、司会のから感想をもとめられ「不愉快です! 」と嫌悪感を表したエピソードがある(これもネタであり、本心ではない)。 ちなみに、黒柳は三択問題を苦手とする傾向が見られる。 とは『ふしぎ発見! 』で初めて共演したが、始めから黒柳を「オバン! 」呼ばわりし(関西弁で「おばさん」という意味。 黒柳曰く、神戸出身ながら「オバハン! 」を聞きなれないため、こんばんはの意味の「おばん」と解釈した)、黒柳を驚かせたという。 「オバン! 」以外には「お母さん」と呼ぶこともある。 黒柳は、関西での板東の番組のゲストに名乗り出ることもあり、正しくない関西弁で板東の素顔を語っている。 黒柳は、野球に対する知識が全くないが、内容を吟味しているのか、会話が混乱することはない。 クイズの答えに必要な知識を得るため、図書館にも熱心に通っていることで知られる。 番組の問題製作者が図書館で参考にした資料(本)を本棚に戻したところ、直後に黒柳がその本に手を伸ばした、というエピソードもある。 ただし、スタッフからは事前にテーマを知らされるため、その知識をある程度勉強すれば、それなりの正解率があげることが可能である。 番組開始当初は、金貨の入った袋()10個をあらかじめ持ち、解答時にこの中から解答への自信に応じて金貨の袋を賭け、正解すればガリンペイロを2倍獲得でき、誤答の場合は賭け分が没収(ボッシュート)されるルールだった。 黒柳は絶対に1個ずつしか賭けなかった。 番組では、歴史関連の知識の豊富さから「日本で唯一を見た女」とあだ名されたことがある。 後年、『』で、から「黒柳さんはのの際にを買って出たというのは本当ですか? 」と質問されたときにも、黒柳はこれを否定せず、自分でも黒船を見たような気がしているとユーモラスに答えた(2006年放送)。 長く番組を放送しているが、黒柳はこれまでに出題された問題とその解答をほとんど覚えており、関係者に舌を巻かれたこともあるという。 には「黒柳徹子 不老不死伝説 100歳まで元気に美しく生きる方法」という企画が放送された。 番組内では「番組始まって以来最大のミステリー」と紹介された。 『NHK紅白歌合戦』 の『』で、紅組司会を初めて務めた。 現存している映像の中から、との歌の音声の紹介の時には、黒柳の曲紹介の音声も一緒に紹介された(後の声と比べると高い声をしている)。 当初、番組側は当時常連出場歌手のを紅組司会に起用する予定だったが、当時は歌手兼司会が認められておらず、歌手としての出場を希望した楠が紅組司会の打診を断った。 楠に続いて打診を受けた黒柳は「歌手の方と付き合いが乏しい」と拒否したが、番組側の説得に応じる形で最終的に引き受けた。 なお、この時の黒柳の年齢は25歳であり、当時の紅白における最年少司会記録であった。 1958年当時は、テレビ各局で、紅白と同様に外部の大型劇場を借り切っての歌謡番組がの「目玉プログラム」として編成されていたため、出場歌手の大半が紅白の放送が始まる時点でまだ会場に到着していないという異常事態が起きている。 その混乱ぶりから、黒柳はの出番の際に、誤って「さん」と紹介してしまうミスを犯している(しかし後年、『徹子の部屋』に松島がゲスト出演した際に、黒柳はこの件につき謝罪したところ、当の松島本人はすっかりこの時の黒柳のミスのことを忘れていた)。 には、『ザ・ベストテン』、『徹子の部屋』、『』の司会ぶりを買われ、22年ぶりに「」の紅組司会に起用された(司会返り咲きまでの当時の最長インターバル記録となっていた)が、その際、黒柳は紅組司会を受ける条件として、「紅白の番組構成に私の意見を取り入れて欲しい」と要望。 これが「1980年代最初の紅白なのでフレッシュな内容にしたい」と考えていたNHK側の思惑と合致しての司会起用であった。 なお、これは後に自身が更新するまで紅白における司会返り咲きの最長ブランクだった。 この年は、宝くじの抽選会で使用されているものと同仕様のルーレットを使用して、本番の中で攻守を決めるという異例の構成が採られたが、これも黒柳の「自身の意見を取り入れて欲しい」という要求を与して考え出されたものであるとされる。 翌の「」についても同年、著書『窓ぎわのトットちゃん』が350万部を超す大ベストセラーを記録し、「トットちゃんブーム」が起こったことあり、紅組司会を続投した。 以後、の『』まで連続して紅組司会を務めた。 しかし最終的には1度は完全にリストから消えていた黒柳が続投することとなった(4年連続起用)。 黒柳は司会発表会見で「では『気くばり先生』(。 当時NHKアナウンサー)と『おしん』と書かれていたようで…。 新鮮味に欠ける私で申し訳ありません」と述べた。 一方、『窓ぎわのトットちゃん』が大ベストセラー(この時点で563万部)になっていた黒柳と、『気くばりのすすめ』が300万部突破のベストセラーを記録していた鈴木のベストセラー作家同士の両組司会として話題にもなった。 の『』も当初は引き続き黒柳の紅組司会起用で決定しかけていたが、この年に黒柳が「もう今年が引き時では」と辞退を申し入れる。 結局、白組司会の鈴木は続投したが、紅組司会はこの年を受章し、黒柳とも親交があるに交代となった。 の『』では総合司会を担当、32年ぶりの司会復帰となった(先述の司会返り咲きまでの最長インターバル記録を自身が更新)。 黒柳の年齢は82歳であり、第35回で紅組司会を務めた森の64歳という記録を抜いて史上最年長司会となるほか、70代以上の人物が司会を担当するのは史上初。 NHKアナウンサー以外の女性が総合司会を務めるのは史上初であり、またNHKアナウンサー以外の女性が組司会と総合司会の双方を経験するのも初めて。 の『』、の『』、の『』、の『』、の『』には応援ゲストとして、の『』にはゲスト審査員として、の『』にはVTRゲストとして出演している。 その他、の『』、の『』、の『』でも紅組司会の有力候補に挙がっていたとされる。 その他テレビ出演時の話 1971年から1972年にかけて放送されたNHK『』に、黒柳は下宿のおばさん・おケイさん役で出演し、東北なまりと特徴的な老けメイクでの演技が話題を呼んだ。 黒柳は少女時代を疎開で同ドラマの舞台であるの隣町・諏訪ノ平で過ごしていたが、黒柳は、当時の芸能人としては異例となるをするため、途中で降板。 の放送で、「おケイさんは家政婦の仕事でに渡る」という設定を取り入れ、から旅立った。 後には、「おケイさんから久しぶりにフィルムの便りが届いた」との設定で、黒柳が大きな眼鏡をつけたおケイさんスタイルでニューヨーク5番街を散策するフィルムが放送された。 この役が黒柳にとっても一つの転機となった。 エピソード テレビ放送開始時のエピソード• 著書『トットチャンネル』によると、にあるでのの試験放送で、顔の右半分濃い紫色、左半分白色に塗り分けて、半日黙って座らせられるだけの撮影をした。 当時実験段階であったカラー放送の試験撮影のためであり、その様子は主演の『』()でも再現された。 テレビ放送開始当初は映像が悪く、黒柳が初めてテレビ番組に出演した日に、それをで観ていた母親が黒柳に「あなた、どうしてのお面なんて被ってテレビに出たの? 」と言ったという。 もちろん黒柳はキツネのお面など被っていないが、顔が真っ白、髪は真っ黒、口も目も横に裂けたような線が入ってしまってキツネのように見えたのだろうと本人が語っている。 そのようなこともあって、テレビ放送開始後もしばらくはが主流だったという。 その他エピソード• 2001年発表の自著『』で自身がの1つであるかもしれないことを公表した。 自身の著書『窓ぎわのトットちゃん』を読むと、子どもの頃の黒柳がLDの子どもの特徴に当てはまり、「徹子の部屋」の女性ディレクターから、「お母さんたちの間では、黒柳さんはLDだってことになっているようですよ」と聞かされたことによる。 黒柳自身LD関係の本を読めば読むほど、自分がLDであったらしいと思え、昔LDで、いま活躍している人という中に自分が入っていることを発見したと書いている。 未婚である。 2013年12月26日放送の『』で「これまでに2・3回程結婚を考えたことがあり、お見合いや出会いがあったが、タイミングが合わなかった」と話した。 そして「誰かを信頼して、好きだと思える人がいることはこういう仕事をしていく上で大事。 今はいません」とし、「茶飲み友達がいたら良い」と話した。 また、「昔は年上が好きだったが今は年下が良い」と話したが、「今は友達が居れば良い」と話した。 そして、タイプについて質問されると「尊敬できる方」と話し、「私は欠落しているところが多いから知的な人が良い」と語った。 また、後のインタビューで「結婚を諦めたわけではない」とも語っている。 食べるのが早いという。 NHK放送劇団(東京放送劇団)の5期生であり、同期に、、、、、、、、らがいる。 研究生の出身だが、正座員には、の反対で採用されなかった。 のに招待され、に『窓ぎわのトットちゃん』について部数と翻訳国数を交えた説明をしたところ、「たいそうお売れになって」と言われた。 その形状から「 頭」と称される髪型 もよく知られているが、大好きなの髪型をモデルにしていると話している。 なお、ヘアースタイルの考案者は当時ニューヨークで活躍中だったである。 芸能界七不思議の1つと言われるこの髪型については理由があり、毎日髪形を変えると、視聴者の関心が黒柳の髪に集中してしまってゲストの方へ行かない、また襟足が出るので、黒柳の斜め後ろからの画像になっても「ふんふん」と頷く時に髪ばっかり揺れているという絵にならず、首が見えるので少しは人間味がでる、あるいは和装でも洋装でもちょっとアレンジすれば済むなどの理由で固定していると言う。 また、髪の毛を小物入れとして活用している。 『徹子の部屋』でが出演した時に髪の毛の中から飴玉を取り出し、その際に「いつもはお煎餅も入れているんですけど、今日はないわ」とも発言している。 また、黒柳に近い関係者によると、黒柳はかなり前から髪の毛をとして使っており、海外に行く時はや大事な書類も髪の毛の中に入れることもあるという。 髪の毛に小物を入れる理由は、子供たちに会った時にプレゼントするためと話す。 衣装にピンマイクを付ける事を嫌い、ピンマイクを付ける時はコードを背中から頭に伸ばし、マイクをおでこに付けて、それを前髪で隠している。 2017年1月25日と9月27日放送の「」にゲスト出演した際、前髪を上げて、おでこにマイクが付いている姿を披露した。 の『』、『』、『』、『』、『』などに日本を代表する女性として紹介されている。 放送の化が進むとが使えなくなるので、その時には引退するつもりである、と発言している。 過去ので1番好きだったのは、『世界・ふしぎ発見! 』の共演者であるが司会を務めた『』(・、1993年 - 2007年)である。 開始当初から毎日欠かさず観ていたという。 スケジュールの都合上、昼間に自宅に帰れない時は必ずビデオに撮って後で観ており、最終回のVTRコメント出演では「一番の熱心なファンと思って頂いていいと思います」と語っていた。 2013年上期のNHK連続テレビ小説『』のファンであり、初回から最終回まで全話視聴したと話す。 なお、同作内に『ザ・ベストテン』のパロディ番組並びに黒柳を模した司会者役(演:)が登場している。 夏頃には、の周辺に「トットちゃんの広場」が建設される。 同広場では、『窓ぎわのトットちゃん』の劇中に登場し、黒柳が幼少期に通学したトモエ学園で実際にあった「電車の教室」を再現。 戦前に製造された列車2両を譲り受けて、1両は当時の教室の様子を再現し、もう1両は絵本や児童書などを置き、図書館として活用する。 愛車は、。 (会長)の名誉会長を務める。 尊敬する司会者に度々の名を挙げる。 政治に興味があり、政治番組を持ちたいとの希望があるが、ユニセフ親善大使を務めている事情などから積極的に政治的意見を述べることは控えている。 ただし、「100歳になった時、政治番組をやりたい」との思いもあるという。 後に「100歳になった時に政治になりたい」とも発言した。 テレビ朝日アナウンサー・の大ファンで2016年4月11日放送の『徹子の部屋』で共演した。 2016年9月には『徹子の部屋』(同月22日放送分)にゲスト出演したの勧めで、自身のを開始、1週間で10万人以上がフォローをする反響ぶりとなった。 『』の「のこの人に会いたい」で一番インタビュー時間が長かったのは黒柳の4時間。 2017年8月末に右をし手術を受けた。 手術から10日後には医師の許可を得て仕事に復帰し、翌9月末から上演の主演舞台『想い出のカルテット〜もう一度唄わせて〜』では、もともと腰が悪い設定の役だったことから演出を変更しで舞台を務めた。 出演 テレビ番組 基本的には元社員であったNHKと、レギュラー番組を持つテレビ朝日とTBSの番組が多く、スケジュールの都合もあり他の放送局の番組にはあまり出演していない。 レギュラー出演(継続中)• (、1976年2月2日 - ) - 司会• (、1986年4月 - ) - レギュラー解答者 レギュラー出演(過去)• (、1961年4月-1966年3月)- 1965年度はホステス役(司会)担当• (NHK、1961年4月-1963年10月) -司会• 、1966年3月25日-1968年4月5日 - 民放初出演、司会• 、1968年4月19日-1971年9月24日 - 司会• (NET、1969年10月2日-11月20日)• (NHK、1970年-1971年)- 司会• (NET、1972年-1976年1月)- 「」の前身番組、司会• (、1973年4月-1974年3月)- 司会• (NHK、1977年-1984年)- とともに司会• (TBS、1978年1月-1989年9月)- 司会• (NHK、1984年4月2日-1985年3月18日)- 司会• (TBS、1989年10月-12月)- 司会• (TBS、2006年5月-2009年3月)- 司会• (TBS、2009年4月-2010年3月)- フィクサー• (・、2012年4月22日 - 2013年) - 司会• (BS朝日、2015年4月15日 - 2016年3月30日) - 司会 単発番組司会・特番出演• 第9回・第31-34回・第66回(NHK、・-・)- 司会• 『テレビ朝日誕生記念番組・わが家の友だち10チャンネル・徹子のナマナマ10時間半完全生中継』() - 司会• (TBS)- 1977年度・1978年度・1991年度・1992年度司会• NET制作 -1974年度司会• (、1979年度総合司会)• TBS新局舎完成記念 テレビ新世紀! 感動の超有名人300人大集合 (TBS、)- 司会• 黒柳徹子(、)• ・黒柳徹子 2大女帝パチンコ対決(テレビ朝日、-毎年年1回) - コーナーメイン出演• 真夏の夜の美輪明宏スペシャル(、NHK)• 黒柳徹子だけが知っている THEテレビ伝説60年史(テレビ朝日、) - 司会• 日本テレビ開局55年記念番組 女たちの中国第一弾〜13憶のチカラ…美と権力と涙の物語(、)- 司会• 黒柳徹子の歴史偉人スペシャル! 秀吉から始まる! ニッポンの未来(日本テレビ、)• 音で怪獣を描いた男〜ゴジラVS伊福部昭〜(2014年7月6日、NHK BSプレミアム) ラジオ番組• (NHK、1959年1月30日) - 現存が確認されている黒柳の最も若い時の映像でもある。 (NHK、1961年4月9日-1964年12月28日) - 黒金徹子役• (、1965年7月3日-10月30日) - 栗田ゆかり役• (NET、1967年1月-3月) - 役• 最終話「勉強なんか大嫌い! の巻」(、1969年9月25日)• (NHK、1970年5月4日-5月15日) - ルリ子役• (、1970年10月2日-1971年9月24日)• (NET、1971年1月7日-4月1日) - 巴役• (NHK、1971年4月-1972年3月) - 役• (NHK、1973年4月4日-1974年3月27日)• (NHK、1975年)• (TBS、1975年)• (NHK連続テレビ小説、1987年4月-9月) - 母・黒柳朝の半生をドラマ化したもの。 (TBS、)• 第5話・最終話(テレビ朝日、・) 本人役()• 最終話(NHK連続テレビ小説、2011年10月1日)- 須藤(旧姓筒井)育子(現代)役• (2014年) - ナビゲーター(ナレーション)• (NHK総合、2016年4月30日 -) - 百歳の徹子さん 役 映画• (、1958年)- ドキュメンタリー。 と共に解説。 (、1962年)• (、1966年)- ミミ子役• サマー・ソルジャー(1972年、勅使河原プロ)• (、1974年)• (、1977年)- 書店の客役• (1989年、松竹)- 出前のおばさん役• (全国映画センター、1999年)- 本人役(特別出演)• (クレストインターナショナル、2013年)- ドキュメンタリー 声の出演 ラジオドラマ• (、1954年4月-1957年3月31日)- トン坊 役 脚本家・の発案で、共演の里見京子・横山道代と共に子供の声へ大人の女性が起用された(日本初)。 (NHKラジオ第1、1957年4月-1964年3月)- サエコさん 役 テレビ人形劇• (NHK、1956年4月-1964年3月)- ピーナッツのピー子 役• (NHK、1960年9月-1967年3月)- ウー 役• (NHK、1967年4月-1969年9月)- 白ウサギのダットくん 役• (NHK、1964年-1969年・1992年-1993年・2003年)- ペラ 役 劇場アニメ• (、1962年6月16日)- アリー 役• (東映動画、1967年3月19日)- ネズミ 役 歌も担当• (、1978年)- ナレーション• (、1995年)- 役 吹き替え• - ベルトホルト夫人 役• やなどが書いた、ブロードウェイやロンドンで話題となった戯曲を積極的に取り上げた。 1989年の第1作から始まり、1994年を除いて毎年連続上演された。 第1作は、ピーター・シェーファー作の『レティスとラベッジ』。 演出は飯沢匡、公私ともに親交の深かったと共演した。 30年間で32作品を上演し、2018年上演の『ライオンのあとで』で終了した。 (: )(1989年、2000年、2016年 、作:ピーター・シェーファー) - レティス 役• (: )(1990年、作:ニール・サイモン)• ルーマーズ 口から耳へ 耳から口へ(2006年、2012年、2015年)• (: )(1991年、作:ピエール・バリエ、ジャン=ピエール・グレディ)• マダム・バブル(1992年、作:マルセル・ミトワ)• カラミティ・ジェーン(1993年、作:ジャン=ノエル・ファンウィック)• シャンブル・マンダリン(1995年、作:)• (: )(1996年、1997年、2003年、作:)• (: )(1996年、1999年、作:テレンス・マクナリー)• ライオンのあとで(1997年、2018年、作:)• 喜劇キュリー夫人(1998年、作:ジャン=ノエル・ファンウィック)• マレーネ(1999年、作:パム・ジェムス)• (2001年、作:アラン・ベネット)• (: )(2002年、作:クローディア・シアー)• (: )(2004年、2008年、作:ニール・サイモン)• ふたりのカレンダー(2005年、作:)• リグレッツ・オンリー 〜万障お繰り合わせの上お越しください〜(2007年、作:ポール・ラドニック)• ベッドルーム・ファンタジー(2009年、作:ジョン・トビアス)• (2010年10月、パルコ、、作:モイゼス・カウフマン)- キャサリン役• (: )(2011年10月、パルコ、ル・テアトル銀座、2014年、2017年、作:ロナルド・ハーウッド)• ステラとジョーイ(2013年、作:ジェローム・キルティ) その他作品• (1967年1月、)• (1968年2月、森繁劇団、)• マカロニ金融(1968年6月、1970年、、)• (1968年11月、芸術座)• (1969年2月、東宝、)• (1969年4月、1970年、帝国劇場) - 家政婦 役• 騒がしい子守歌(1969年11月、紀伊国屋ホール)• (、帝国劇場、1970年1月 - 3月) - 『』を原作とした和製、主人公スカーレット・オハラの妹・スエレン 役• 黒柳徹子オンステージ(1977年2月、紀伊国屋ホール)• 世の中みんなテスト病(1977年10月、紀伊国屋ホール)• ニノチカ(1989年 - 1998年、)• 喜劇キュリー夫人(1992年 - 2006年、)• 幸せの背くらべ(1999年 - 2005年、)• (2003年・2008年、) - 日夏京子 役• 朗読劇 (2019年、PARCO) - メリッサ 役 CM• トマトジュース• クック・ドゥ、中華あじ• トップ・レディ(冷蔵庫) - も出演。 その他にも多数出演• パイロン(風邪薬)• 公共広告機構(現:) ユニセフ・カード• 住宅情報• 書籍 単著• 『パンダと私』(、1972年12月)• 『チャックより愛をこめて』(、1973年9月)のち文庫• 『おしゃべり倶楽部 チャックより愛をこめて』(対談集)(文芸春秋、1976年)のち文庫• 『徹子の部屋』1-4(、1977年-1986年)のち朝日文庫• 『黒柳徹子の一生懸命対談』(、1978年4月)• 『』(、1981年3月)のち文庫• 『黒柳徹子の動物劇場』1-2(、1983年-1984年)のち新潮文庫(『トットの動物劇場』と改題)• 『こんな先生がほしい』(、1984年1月)• 『トットのピクチャー・ブック』(絵、〈新潮文庫〉、1984年3月)• 『トットちゃんのカルチャーショック 黒柳徹子の新・海外生活読本』(、1984年4月)• 『』(新潮社、1984年10月)のち文庫 - 1987年に配給で劇場映画化(主演:)、2016年にNHKでドラマ化(『』、主演:)• 『ちびくまちゃんちのくっきーづくり』紙谷元子人形・構成(、1985年1月)• 『アフリカのトットちゃん 救え、アフリカの子どもたち』(写真、講談社、1985年3月)• 『木にとまりたかった木のはなし』(武井武雄絵、、1985年9月)• 『喝采は「アイ・ラヴ・ユー」』(全国学校図書館協議会、1986年2月)• 『マイ・フレンズ』(新潮社、1986年5月) のち文庫(『トットのマイ・フレンズ』と改題)• 『ちびくまちゃんちのさんたさんはだあれ』(紙谷元子人形・構成、、1987年12月)• 『トットの欠落帖』(新潮社、1989年5月)のち文庫• 『トットちゃんとトットちゃんたち』(講談社、1997年7月)のち青い鳥文庫• 『小さいときから考えてきたこと』(新潮社、2001年11月)のち文庫• 『不思議の国のトットちゃん』(新潮社、2005年5月)のち文庫• 『徹子さんの美になる言葉 その後のトットちゃん』(講談社、2008年10月)• 『小さいころに置いてきたもの』(新潮社、2009年9月)• 『徹子ザ・ベスト』(講談社、2011年2月)• 『本物には愛が。 みんな一緒 100年インタビュー』(、2014年8月)• 『トットひとり』(新潮社、2015年4月) - 2016年にNHKでドラマ化(『トットてれび』) 共著• (朝日新聞外報部)『飢えるアフリカ』(、1984年12月)• ()『つば広の帽子をかぶって 伝』(講談社、1989年7月)のち文庫• 『徹子と淀川おじさん人生おもしろ談義』(、2002年7月)(『徹子の部屋』内でのとの対談を纏めた本)のち知恵の森文庫• ()『チョッちゃんは、もうじき100歳』(、2006年9月) - 「聞き手」として• ()『トットちゃんとカマタ先生のずっとやくそく』(、2007年7月)のち新潮文庫• ()『パンダ通』(、2007年10月)• (・・)『沢村貞子の献立日記』(新潮社、2012年9月)• ()『タマネギのひみつ。 』(、2013年3月)• (・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)『アンソロジー そば』(パルコ、2014年12月)• (・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)『世界を平和にするためのささやかな提案』(、2015年5月)• ()『トットちゃんとソウくんの戦争』(講談社、2016年7月) 受賞・受章歴 放送・演劇賞• 1961年 第1回(昭和36年度)日本放送作家協会賞 女性演技者賞• 1983年 第35回• 1995年 第3回(『』)• 1997年 第38回(『幸せの背くらべ』『マスタークラス』)• 1997年 第4回 大賞・最優秀女優賞(『幸せの背くらべ』『マスタークラス』)• 1997年 第23回(『徹子の部屋』)• 2006年 第54回(『徹子の部屋』)• 2010年 放送ウーマン賞 40周年特別賞• 2011年 認定(『徹子の部屋』、同一司会者による番組の最多放送回数記録)• 2013年 第38回特別賞(永年の翻訳劇に対する情熱と功績に対して)• 2015年 ギネス世界記録更新(『徹子の部屋』、放送40年、同一司会者による番組の最多放送回数記録、放送1万回)• 2016年 第32回 大賞 その他の賞• 1987年 ユニセフこども生存賞• 1991年 第7回東京都文化賞• 1991年 平成3年度外務大臣賞• 2000年 ユニセフ第1回「子どものためのリーダーシップ賞」• 2002年 朝日社会福祉賞• 2003年• 2009年 ユニセフ親善大使就任25周年感謝式典• 2014年 ユニセフ親善大使就任30年式典• 2015年 平成27年度(俳優、司会、エッセイ)• これは当時のタモリの持ちネタの一つで、他番組でも、魚をさばいた後で、身の部分を捨てて、頭や内臓などを使用した鍋料理などを作って食べさせることがあった。 第1回「学生服とセーラー服」の扮装(1976年10月)に始まり、以後、第2回「国民服」(1977年8月)、第3回「老後の茶飲み友達」(1986年3月)、第4回「パイロットと客室乗務員」(1987年2月)、第5回「医者と看護婦(現:看護師)」(1987年6月)、第6回「神主と巫女」(1988年2月)、第7回「コックとウェイトレス」(1991年2月)、第8回「新郎新婦」(1994年8月)、第9回「クレヨンしんちゃんとセーラームーン」(1996年1月)、第10回「おひなさま」(1998年3月)、第11回「茶髪少年とガングロ」(2000年10月)、第12回「大国様と白うさぎ」(2001年10月)、第13回「唐来参和とメイウエスト」(2003年2月)、第14回「恵比寿様と弁天様」(2007年1月)、第15回「学生服とセーラー服」(2010年2月)に至る。 この時は顔を知らず久米を太っただと思っていた。 ある日、偶然からスタジオのすぐ外の(ガラス越しに見える)部屋へと入ってきた久米を、ラジオ番組のメインMCを務めていたがゲストの黒柳に紹介したことにより、黒柳は久米の外見を知ることとなった。 山川自身は黒柳が紅組司会続投となったため、「(NHK職員の立場である)僕だけが責任を取らされた」と思ったという。 田中は同紅白に審査員として出演した。 泉はに「哀恋蝶」が10. 9万枚(最高位37位)のヒットを記録したが紅白には落選となった経緯がある。 紅白に対しては「歌手としての意地がある」と何度も応援出演を断っていた。 「タマネギ頭」という呼び名を付けたのは久米宏だという。 役名は柴柳徹子。 黒柳徹子 1981. 隈元信一 2016年8月13日. の2017年7月31日時点におけるアーカイブ。 2017年8月4日閲覧。 [ ]• 舞台裏インタビュー. 2017年11月17日閲覧。 (2017年6月30日). 女性誌ネット()。 ,Techinsight,2013年12月27日• 協会刊行物アーカイブ. 日本放送作家協会. 2017年11月3日閲覧。 2010年3月20日. 2017年11月1日閲覧。 インタビュアー:菊地陽子. WEB(). 2017年11月1日閲覧。 ニュース. 2016年7月11日. 2019年2月23日閲覧。 西村重人 2017年12月20日. シネマトゥデイ. 2019年2月23日閲覧。 2017年11月3日閲覧。 映画演劇文化協会、2013年5月28日• ORICON NEWS. 2017年9月28日. 2017年11月1日閲覧。 2017年9月29日. 2017年11月1日閲覧。 2018年4月29日閲覧。 2018年4月29日閲覧。 インタビュー. 2019年2月22日閲覧。 PARCO STAGE. 2019年6月28日閲覧。 ナターシャ. 2019年6月28日. 2019年6月28日閲覧。 ORICON STYLE(2015年5月27日)• SJWRT. 2016年6月21日閲覧。 2015年10月30日. 2015年10月30日閲覧。 東京都生活文化局 報道発表資料 2017年08月25日• 日刊スポーツ 2017年5月8日• スポーツニッポン. 2016年12月5日. デイリースポーツ. 2016年12月5日. 黒柳 60年来の親友・永さんと「結婚話」あったと告白…「最後の一撃」と悲痛、デイリースポーツ 7月11日(月)14時53分配信• あすの「徹子の部屋」で永六輔さん追悼 最多タイ39回出演の盟友、デイリースポーツ 7月11日(月)17時1分配信• ,東スポWeb,2016年8月30日• トットひとり/黒柳徹子、「私の母さん、私のお兄ちゃん」• 2006年8月4日の北日本新聞のコラム「天地人」より• 2008年1月27日放送. 男はつらいよ芸人• 2017年9月27日放送黒柳徹子の休日に30時間密着SP• 1995年1月15日放送. 『BSスペシャル 渥美清の寅さん勤続25年』• online. 2017年1月25日. 2018年4月29日閲覧。 スポーツニッポン新聞社. 2017年1月25日. 2018年4月29日閲覧。 2017年12月9日. 2018年4月29日閲覧。 『聞き上手は一日にしてならず』 新潮社〈新潮文庫〉、2008年、11-33頁• ,週刊新潮,2015年8月6日通巻3000号記念特大号• 「テレビ放送60年、ともに歩む 黒柳徹子さん」『』2013年1月1日• 放送分のの回より• テレビ朝日• 『聞き上手は一日にしてならず』 新潮社〈新潮文庫〉、2008年、11-33頁• 『探偵ナイトスクープ』DVD VOL8収録分より• 朝日新聞デジタル(2015年5月27日)• オリコン(2015年1月23日)• 『ザ・ベストテン』(著、、2008年) p. 46 - 47• 山田 p. 239• ,goo• 山田 pp. 52 - 56• 山田 pp. 85 - 94• ,デイリースポーツ,2016年10月14日• ,デイリースポーツ,2016年10月14日• ,goo• 2014年9月4日• 合田『紅白歌合戦の舞台裏』• 、『NEWSポストセブン』2016年9月10日• ,goo• ,ZAKZAK,2015年2月20日• ,goo• ,goo• 2011年8月13日閲覧。 2011年8月13日閲覧。 techinsight 2013年11月13日• ORICON STYLE 2014年5月23日• 、『スポーツニッポン』2014年11月6日• 、『サンケイスポーツ』2016年9月7日• 2016年4月11日 徹子の部屋• ,ZAKZAK,2016年9月30日• tvでた蔵• NHK. 2016年9月8日閲覧。 34年ぶりのドラマ出演 - 徹子の部屋2時間スペシャル(テレビ朝日、)放映分にて• NHK 2016年2月26日. 2016年2月26日閲覧。 PARCO STAGE. 2017年11月3日閲覧。 シアターガイド 2016年2月15日. 2016年2月16日閲覧。

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黒柳徹子の父親・母親と家系は?実家の家族や親戚は医者や芸術家ばかり?

黒柳徹子 本名

黒柳徹子のプロフィールを紹介!本名や身長もチェック! 黒柳徹子さんは、1933年に東京都赤坂区乃木坂で生まれ、大森区の北千束町で育ちました。 父親は、NHK交響楽団のコンサートマスターも務めたバイオリニストの 黒柳守綱、母親は声楽家・エッセイストとして知られる 黒柳朝。 とても音楽文化意識の高い過程で育っています。 兄弟は妹と弟がいる4人兄弟の長女。 弟である紀明さんはヴァイオリニストで、妹の眞理さんはバレリーナ・エッセイスト・美容家として現在も活躍しています。 黒柳徹子さんの身長163cmで血液型はA型。 身長163cmと言えば、現在でも女子としては背が低くない方だと思います。 黒柳徹子さんが生まれた時代から考えると、むしろ身長が高いほうだったのではないでしょうか。 ちなみに 「黒柳徹子」という名は本名で、家族には男の子が生まれると思われ「徹」と名付けられる予定でしたが、女の子だったので下に子をつけましたそうです。 これはよくありますよね。 男の子と思って準備していたら女の子だった、とかその逆とかね。 それで名前にちょっと無理やり感が出たりするのは面白いですよね。 人ごとならですが・・・。 話を黒柳徹子さんに戻しましょう。 出身校は、東京都の香蘭女学校(現在の香蘭女学校高等部)。 当時では5年制の旧制女学校だったことから、これは現在の中学・高校にあたります。 女学校を卒業後、東京音楽学校の声楽科に進学・卒業しています。 当時はオペラ歌手を志願してこの大学を選びましたが、入学後に方向を転換することになりました。 良いお母さんになって、自分の子供に人形劇や絵本を読み聞かせられるようになるため、NHK放送劇団に入団するのです。 結構大きな進路変更ですね。 笑 NHK放送劇団のオーディションに受かって、1953年にテレビ女優第一号として女優デビューしています。 当初は女優として、また子供番組やバラエティー番組など週6、7本のレギュラー番組を持っていました。 1976年には「徹子の部屋」がスタートし、ドラマの役を演じながら司会をすると見る人が混乱すると考え、女優業は控えていました。 司会では「ザ・ベストテン」やNHK紅白歌合戦、またクイズ番組にもレギュラー出演をしています。 テレビ出演の他にも、平和運動家としてユニセフの親善大使として活動しています。 また、1981年に、黒柳徹子さん自身が患っていた「注意欠陥・多動性障害・学習障害」と、トモエ学園での体験を題材にして書いた 「窓際のトットちゃん」を執筆しています。 発売当初はヒットするとは考えられていませんでしたが、 現在世界35か国で翻訳をされており、累計800万部の戦後最大の大ベストセラーとなっています。 そして現在も放送が続いている「徹子の部屋」は、同一の司会者による「番組の最多放送回数記録」として世界ギネス記録にも認定をされています。 やっぱりすごい経歴ですね。 そしてまだ現役ですから。 記録はまだまだ続いて行くのでしょう。 スポンサーリンク 黒柳徹子のエピソード 黒柳徹子さんは、テレビに出るようになってから、ジャイアント馬場さんから勧められたヒンズースクワットを毎晩50回続けて足を鍛えているようです。 また、雨が降る日も、毎日欠かさずウォーキングを30分〜1時間行っています。 趣味では水中ヨガも行い、80歳を過ぎても子供の時にかかった「結核性股関節炎」を意識しながら、体を動かし鍛えています。 これが現在85歳になるにもかかわらず、舞台公演なども変わらず元気に行えるひみつなのでしょう。 そのプロ意識が本当にすごいです。 また、幼少期には身体の病気だけではなく、ADHDの症状もあり、公立小学校を1年生の頃に退学をしています。 退学後は私立小学校の「トモエ学園」に入学し、自発性や自主性を一番にした教育を受けてきました。 黒柳徹子さんの自叙伝であるベストセラー「窓際のトットちゃん」にも、トモエ学園で過ごしたエピソードが書かれています。 トモエ学園の校長先生には初めて会った時から、前の学校のことや飼っている犬のことなどを4年間も話し続けましたが、校長先生はちゃんと最後まで話を聞いてくれたのです。 温かい校長先生の言葉に黒柳徹子さんはいつも元気付けられていたそうです。 自分を理解してくれる人との出会いが、その後のテレビなどでの活躍に繋がっていったのかもしれませんね。 なんだか心がほっこりするエピソードですね。 スポンサーリンク 黒柳徹子の母や家族について ここでは黒柳徹子さんの母親・父親について少し紹介していきますね。 母親・黒柳朝 黒柳徹子さんの母・朝さんは、北海道の出身で開業医の父を持ち、代々松山藩の家臣である名家です。 岩見沢高等女学校を卒業後、上京し東洋音楽学校に入学。 在学中に黒柳守綱と出会い、喫茶店で夜遅くまで話し込んだ末に彼の家に泊まり、結婚の話になりました。 親に歯向かうことが許されない時代に家から勘当されてまで守綱との結婚を決断。 当時、医者の娘で良家の令嬢だったにもかかわらず、門限を破り知り合ったばかりの男性の家に泊まった時に勘当を覚悟していたようでした。 なんかすごいドラマチック。 黒柳徹子さんの母親らしい情熱的な方ですね。 父・黒柳守綱 徹子さんの父・守綱さんは、1944年に戦争で満州に渡り、戦地で演奏家としての役割を果たしバイオリンを演奏しました。 敗戦後は、ソ連に抑留されシベリアの日本軍捕虜収容所にいたと言われています。 母・黒柳朝のすごさ 母の朝さんは、黒柳守綱さんが不在中、子供を育てるため裁縫や行商の仕事を行っていました。 黒柳守綱さんが帰還してからも行商は続け、1982年に自伝エッセイ「チョッちゃんが行くわよ」を連載し執筆活動を始めたのです。 ピンチがあっても明るく乗り越えてきた芯の強い母の存在があったからこそ、85歳になった今でも、テレビの他にも数多い活動をこなす黒柳徹子の力の源になっているのかもしれませんね。 スポンサーリンク まとめ いかがでしたでしょうか。 今回は「黒柳徹子の本名や身長・母や家族構成などプロフィールを調査!」について紹介しました。 「黒柳徹子」という本名でデビューして、数多くのレギュラー番組を持つ黒柳徹子さんのアクティブで元気の秘密は、幼いころから傍にいてくれた偉大な母を見てきたからかもしれませんね。 プロフィールに書かれた身長を見ても、163cmという低すぎない堂々とした身長で、テレビの世界に出てきたのだといえます。 黒柳徹子さんは80歳を過ぎた今でも、ますますの活躍が期待される女優です。 本日も最後までありがとうございました。 黒柳徹子さんの関連記事はこちらから御覧くださいね。 黒柳徹子さんの 「秘密」がいろいろ書いてありますよ。

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【黒柳徹子】伝説として語り継がれる数々の偉業!来歴・エピソードまとめ(2020年4月23日)|BIGLOBEニュース

黒柳徹子 本名

TETSUKO KUROYANAGI 黒柳徹子 女優・ユニセフ親善大使 2019年5月現在 東京・乃木坂に生まれる。 父はヴァイオリニスト、NHK交響楽団のコンサートマスター。 トモエ学園から香蘭女学校を経て東京音楽大学声楽科を卒業しNHK放送劇団に入団。 NHK専属のテレビ女優第1号として活躍。 その後、文学座研究所、ニューヨークのMARY TARCAI(メリー・ターサイ)演劇学校などで学ぶ。 アメリカのテレビ番組、ジョニー・カーソンの『ザ・トゥナイト・ショー』など、多くのアメリカのテレビ番組に出演。 また、タイム、ニューズウイーク、ニューヨーク・タイムス、ヘラルド・トリビューン、ピープルなどに日本の代表女性として紹介される。 日本で初めてのトーク番組『徹子の部屋』は45年目をむかえる。 著作『窓ぎわのトットちゃん』は800万部というベストセラーの日本記録を達成。 アメリカ、イギリスなどの英語圏、ドイツ、ロシア、中国語圏、アラビア語圏など、35以上の言語に翻訳される。 日本語版の印税で社会福祉法人トット基金を設立。 プロの、ろう者の俳優の養成、演劇活動、手話教室などに力を注ぐ。 ユニセフ(国連児童基金)親善大使としてアフリカ、アジアなどを訪問。 メディアを通して、その現状報告と募金活動などに従事。 日本ペンクラブ会員。 ちひろ美術館(東京・安曇野)館長。 東京フィルハーモニー交響楽団副理事長。 日本パンダ保護協会名誉会長など。 文化功労者。 AWARDS 受賞歴 1961年 第1回(昭和36年度) 日本放送作家協会賞 女性演技者賞 1983年 第35回 NHK放送文化賞 1987年 ユニセフこども生存賞受賞 1991年 第7回東京都文化賞受賞 平成3年度外務大臣賞受賞 1995年 第3回 財団法人橋田文化財団「橋田賞」受賞 1997年 第38回 毎日芸術賞受賞 第4回 読売演劇大賞「大賞」「最優秀女優賞」受賞 第23回 放送文化基金賞受賞 2000年 ユニセフより第1回「子どものためのリーダーシップ賞」受賞 2002年 朝日社会福祉賞受賞 2003年 勲三等瑞宝章受賞 2006年 第54回 菊池寛賞受賞 2009年 ユニセフ親善大使就任25周年感謝式典 2010年 放送ウーマン賞「40周年特別賞」受賞 2011年 同一司会者による番組の最多放送回数記録で「徹子の部屋」がギネス認定 2013年 第38回菊田一夫演劇賞「特別賞」受賞 永年の翻訳劇に対する情熱と功績に対して 2014年 ユニセフ親善大使就任30年式典 2015年 「徹子の部屋」放送40年を迎える。 同一司会者による番組の最多放送回数記録「徹子の部屋」放送一万回としてギネス記録を更新。 平成27年度文化功労者「俳優、司会、エッセイ」 2016年 第32回浅草芸能大賞「大賞」受賞 2017年 東京都名誉都民 2019年 後藤新平賞 ユニセフ親善大使就任35年式典.

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