来歴 [ ] 2人とも松竹芸能の養成所出身、トリオ・に師事し、に「太平サブロー・シロー」のコンビ名で所属の漫才コンビとしてからデビュー。 (それいけ! その後、の「」に出演したいがために吉本興業への移籍を希望する。 しかし、吉本と松竹の間には協定があり芸人の引き抜きは禁止されていたため、どうしようと悩んでいたところに、師匠のレツゴー三匹から破門された。 レツゴー三匹は実は2人の気持ちを知っており、彼らコンビがスムーズに吉本に行けるようにわざとキレた振りをして暴れて騒動を起こし、駆けつけた松竹芸能の幹部の目の前で破門を言い渡す芝居をした。 その際、レツゴー正児が自分たちのことを蹴りながらもウインクをしていることに気づき、このとき「師匠が自分たちのために芝居を打って出ているのだ」とシローは悟った。 従って、現在でも師匠・弟子としての関係は続いている。 1980年代のの波に乗り、人気漫才コンビとしての地位を確立した。 この頃、当時は無名だったの才能を見抜き、ラジオ番組のレギュラーを与える(後述)。 テンポの速い漫才で、大きな演芸のタイトルを数多く受賞し、は「このままでは、サブロー・シローやダウンタウンには勝てない」と評し、の解散の一因ともなった。 に吉本から独立して東京にを設立するが 、、お互いの仕事観等の意見対立から喧嘩別れする形でコンビを解消した。 その後、サブローのみに吉本に復帰し、のちにシローも吉本復帰を果たすが、確執からコンビが組めず、2012年2月9日にシローが永眠し、サブロー・シローの再結成は不可能となった。 年表 [ ] コンビ結成~コンビ解消(松竹芸能時代)• 共にのタレント養成所に入所、漫才トリオ・に師事。 、より・にて初舞台・デビュー。 、厳しいシローのツッコミに耐え切れずコンビ解消。 新コンビ時代• 5月、シローは解消直後の「浮世亭ジョージ・ケンジ」の浮世亭ジョージと新コンビ「浮世亭ジョージ・太平シロー」(ジョージ・シロー)を結成、結成直後から司会の「」()、司会の「」()に、副司会としてレギュラー出演するなど注目を浴びた。 、サブローは「鳳キング・ポーカー」の鳳ポーカーと新コンビ「さぶろう・ポーカー」(チンカラホイ)を結成するが、短期間でコンビ解消し失踪、ラーメン屋を経営。 再結成~コンビ解消(二度目)• 、シローがサブローの経営するラーメン屋を訪れ、コンビを再結成してに移籍。 「」(フジテレビ)に出演して一躍人気を得る。 、から独立したが、吉本の圧力がかかり仕事を干されるようになる。 、コンビ解消。 、シロー死去(享年55)。 芸風 [ ]• 共にを得意とし、それにちなんだネタを行ったりしていた。 特にサブローの、シローののものまねは2人を代表するネタのひとつで、「 ものまね漫才」の新たなジャンルを開拓した。 どちらがボケ・ツッコミというポジションの決まりは特になく、ネタの中で サブローがボケ・シローがツッコミの時もあれば、その逆の シローがボケ・サブローがツッコミの時もある。 ダウンタウンとのエピソード [ ] ダウンタウンの2人が下積み時代に世話になった先輩芸人は少ないが、唯一サブロー・シローの2人には可愛がられていた。 サブロー・シローがラジオ番組「」()のリニューアルに伴い番組を降板する事になり、番組側が新たな出演者を探している時、番組関係者にサブロー・シローは「 次はダウンタウンにやらしたってくれ」「 こいつら面白いからやらしてやってくれ」と彼らを薦め、ラジオ大阪も冒険だった(談)が、無名にも関わらず番組の新レギュラーとしてダウンタウンが出演する事になる。 これがダウンタウンにとって初のレギュラー番組となった。 後年、松本は「 ものすごくいい勉強になった、『』のフリートークの原形みたいなものだった」と振り返っている。 現在ではダウンタウンとサブロー・シローとの共演はないが、今もって若手の頃に良くしてもらったことを感謝している。 「」(36回)ではがサブローと偶然出会い、握手を交わしている。 「」ではサブローが松本からを紹介されたことなどを話している。 「」では松本・サブロー・オール巨人・島田紳助で会合が合ったことを明かしている。 ものまねのレパートリー [ ]• - サブローが、シローが• - サブローが巨人、シローが阪神• - サブローが、シローが• - サブローが、シローが• - サブローが、シローが• - サブローが人生幸朗、シローが生恵幸子• - サブローが今いくよ、シローが今くるよ• - サブローが長作、シローがじゅん(正児は) 受賞歴 [ ]• 1981年 最優秀賞• 1981年 新人奨励賞• 1981年 銀賞• 1982年 新人賞• 1982年 ホープ賞• 1983年 最優秀ホープ賞• 1984年 新人賞• 1985年 奨励賞• 1985年 名人賞• 1986年 大賞• 1986年 優秀賞• 1986年 奨励賞• 1986年 最優秀名人賞• 1986年 大衆演芸部門• 1987年 名人賞• 1988年 名人賞 過去の出演 [ ] テレビ [ ]• (毎日放送)• () - (1982年10月 - 1985年9月)• 愛・ラブ・ターゲット(CBCテレビ)• (関西テレビ)• (フジテレビ• (フジテレビ)• (フジテレビ)• (フジテレビ)• (フジテレビ)- 「ライオンのいただきますII」に改題されてから不定期出演• () - やすし・きよしの夏休みによる代役司会• (毎日放送) ラジオ [ ]• ミュージックビーコン MBSラジオ• サブロー・シローのABCサンデーベスト10()• サブロー・シローの土曜は特ダネーター ニッポン放送 CM [ ]• ブルーレット(冒頭のテロップには「サブロウ・シロウ」と表記されていた。 1983年)• (1989年)• なっとういち(、現在はから発売) レコード・CD [ ]• 稲妻ベイビー• 愛は続く 弟子 [ ]• 脚注 [ ] [].
次のこの記事はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 本名、 伊東 博。 、卒業。 死去時の所属は。 2人姉弟の長男。 旧芸名: 太平 シロー(読み同じ)。 また、より一時期 太平 詞郎と表記していた。 来歴 [ ] 漫才師デビューまで [ ] 時代はアカデミー児童劇団に所属していた経験があり、在阪局製作のドラマや、、、製作の映画にも多数出演していた。 とは中学の同級生。 その後ファッションモデルへの転身を経ての養成所に入り、であるトリオ・に師事し、に養成所時代に知り合ったとともに「」のコンビ名で所属の漫才コンビとしてデビュー。 シローは駆け出しからずっと相方が決まらず、複数の相方を変遷した経緯がある。 ただしこのサブローとのコンビは比較的安定していた。 吉本への移籍 [ ] その後、のテレビ番組『』出たさに吉本興業への移籍をひそかに望むが、当時は吉本と松竹との協定で相互の芸人の引き抜きは禁じられていた。 そのために悩んでいた所、師匠のレツゴー三匹から弟子の立場を破門される。 実は2人の心移りを知っていたレツゴー三匹が吉本へ行くことが可能になるように芝居を打ってのことであった(従って師匠・弟子としての関係は続いていた)。 吉本からの独立 [ ] 俄かに湧いたという時代の波に乗り、人気漫才コンビとしての地位を確立した。 には、吉本から独立して東京の芸能プロダクションに所属しテレビ番組に出演。 に漫才コンビは解散。 芸能社太平会館を立ち上げ、「 太平 詞郎」に改名。 同年にの姉妹団体・公認でから立候補するも落選。 吉本復帰後 [ ] に吉本へ復帰。 当初は放送作家としての活動が中心だったが、大平マサヒコ(現:)と漫才コンビを結成し舞台に出演。 しかし、ほどなく解消。 以降はピンで活動する。 喧嘩別れする形でのコンビ解消、サブロー単独での吉本復帰(後にシローも吉本復帰)などの要因で、かつての相方サブローとは、絶縁状態とされていたが晩年は関係修復されており、サブローがトーク番組でも「あの時シローちゃんが…」と、シローの話をすることがあった。 吉本内部で、のようにコンビ復活させる案も出たが、実現には至らなかった。 タレント業のほか、(現:)、()、、ら弟子も抱え、更に居酒屋やバー等飲食店の経営も行うマルチな活躍をした。 放送作家として本名の「伊東博」名義で『』の構成や『』でブレーンとして参加していた。 東京本社所属でありながら、東京での仕事は非常に少なかったが、2006年に映画『』に出演し、久々にスクリーンに姿を見せた。 死去 [ ] 、大阪市内の事務所で倒れ、市内の病院に緊急搬送。 難治性と診断され、治療を受けたが、に家族や弟子に見守られ死去。 55歳没。 シローの死から一夜明けた、相方のサブローが報道陣との質問で、4年前()に「サブロー・シロー」を再結成する計画を話し合っていたことを明かした。 ・告別式はに親族のみの家庭葬としての形で大阪府内で営まれた。 前日の通夜にはサブローも参列し、告別式には吉本興業会長のや、中学の同級生だったオール阪神が参列、他に()、ら芸人仲間も弔問に訪れた。 また、からの供花も供えられていた。 師匠であるレツゴーじゅんが、シローの遺影の前で「あんな漫才は出来ない。 君は天才や。 君と知り合えてありがとう」と泣きながら弔辞を読み上げた。 出棺の際、シローが眠るを抱えたオール阪神とおさむが「シロー、ありがとう! 」と絶叫しながら漫才ブームを支えた同僚に最後の別れを告げた。 は「 芸華博道信士(げいかはくどうしんじ)」。 ものまねのレパートリー [ ]• :オール阪神• :今くるよ• ::師匠• :生恵幸子• 鳳啓助・京唄子:• :2人共• 『』の• 『』シリーズの(ドクロベエ他)• 『』シリーズの(ボヤッキー他)• (笑芸作家)• (作家)• 有川寛(元プロデューサー、前館長)• 川崎宗男(元、などの担当マネジャー) 『』の『 ひょうきんベストテン』のコーナーでは、、などの当たり役も多かった。 シローが行っていたものまねの一部は、や()も行っている。 レギュラー番組 [ ] ラジオ [ ]• (、2007年3月終了) インターネット [ ]• (、) 出演していた番組 [ ] サブロー・シローとしての出演はを参照。 映画 [ ]• (1987年、東宝:天王寺屋善平)• (2006年、パンドラ:若林陽一)• テレビドラマ [ ]• いたずらエンジェル おじゃ魔天使(「」1985年)• (「」1990年8月4日放送、シロー名義)• 第16シリーズ「安浦刑事が殴った女」(2003年、・東映) - 野川誠• (「」2003年11月10日放送) - 飲み屋の客 情報番組 [ ]• (1989年、フジテレビ) バラエティ番組 [ ]• (フジテレビ)• (フジテレビ) CM [ ]•
次のさん(享年55)の急逝を受け9日深夜、漫才コンビ「」として漫才ブームの立役者の一人となった元相方の(55)が所属事務所を通じてコメントを発表した。 また同世代の芸人仲間からもお悔やみが寄せられた。 大平サブロー この度は大平シローさんの訃報に関して、慎んでご冥福をお祈り申し上げます。 何よりも55歳というあまりにも若い年齢でのことにショックを受け、まだ信じられない思いです。 僕が世に出ることができたのも、サブローシローというコンビがあったおかげで、ましてやシローさんという天才芸人と一緒にやれたことが今現在もこの世界で何とかやれることができることになっていると思います。 最近はデビュー36年ということもあり、過去の写真や映像を見ることが多く、どうしているんだろうなと思うことも多かっただけに今回の訃報に大変ショックを受けています。 (54) 中学の時から同じクラスでした。 生まれた所も泉大津で一緒によく遊んだ仲間です。 シローくんは俳優の道を行き、僕は漫才の道を行ったのですが、シローくんも漫才の道に来て、気がつけばよきライバルでした。 とても残念です。 ぼんちおさむ(59) 若くして亡くなり非常に残念です。 過去に一度入院していたこともあったのでもう少し自分の体を気遣っていればまだまだ元気でいれただろうと思うと…あまりにも若すぎて本当に悔やまれます。 里見まさと(59) 兄弟子、兄弟子と慕ってくれ、また共に漫才ブームを戦った仲間です。 力量あふれる男で、まだまだやり残した事があっただろうに本当に残念です。 禁無断複写転載 ORICON NEWSの著作権その他の権利は、株式会社oricon ME、オリコンNewS株式会社、またはニュース提供者に帰属していますので、無断で番組でのご使用、Webサイト(PC、モバイル、ブログ等)や雑誌等で掲載するといった行為は固く禁じております。 また、ユーザーによるサイトの利用状況についても情報を収集し、ソーシャル メディアや広告配信、データ解析の各パートナーに提供しています。 各パートナーは、この情報とユーザーが各パートナーに提供した他の情報や、ユーザーが各パートナーのサービスを使用したときに収集した他の情報を組み合わせて使用することがあります。
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