このブログを書いている理由 前置きを少しお話したいのですが、このブログは学会員はもちろんですが、学会員ではなくて、 「なんとなく学会って近寄りがたいな」 「ネットでやばい組織って書いてあるよ!」 という人にも、「ぶっちゃけ中ってどんな感じなのか」知ってほしいなー、 という思いで書いています。 学会員って強引に入会を誘ってきて怖い! みたいな話をネットで見かけるんですが、 それって一部の熱血学会員が良かれと思ってやって、 逆に誤解を招いてるんじゃないかなーと思うんですよね わたしは「熱狂的な学会員」ではないですし、 もともとは アンチまではいかないまでも、多少うざいなと思っていた側なので、 「強引に誘われるといやだなー」というのはわかるつもりです。 一方で、ネット言われるほど学会員は「邪悪な人」でも、「怖い人」でもなくて、「情に厚くて、温かい人たち」だとも思っています。 なので、 このブログでは「熱狂的な学会員」と「一般人」の間に立つくらいのニュアンスを大事にして、お互いの誤解をちょっとでも無くせたらよいなぁ、 という思いでつづっています。 さて前置きが長くなりましたが、そんなわけでよく世間やネットで誤解されているネタについて触れたいと思います。 尚、本稿では非学会員に合わせて池田大作先生ではなく、池田大作さん、と呼称します。 他の登場人物も同様に扱わせて頂きます。 学会員の方はご容赦ください。 今回は、 「創価学会って創始者の池田大作を崇めて、その教えを広めるやばい組織なんでしょ?」 と思っている人に向けたお話です。 私の母は熱狂的な学会員ですが、 私がアラサーになるまで学会活動に関わらなかった理由の一つは上記のような理解でいたからです。 しかし 「創価学会は創始者の池田大作を崇めて、その教えを広めている」という理解 はそもそも歴史の事実と違う部分があるし、 実態とも少しニュアンスが違うなと最近思っています。 このあたりをご説明します。 (私なりの解釈ですので、学会公式見解ではありません) 創価学会って池田大作さんが作ったの? 「創価学会は池田大作が創設した」、と思っている人が多いと思うんですけど、 池田大作さんって「第3代会長」なんです(今は名誉会長)。 なので、創設者ではありません。 創設者は初代会長の牧口常三郎(まきぐちつねさぶろう)さんとそのお弟子で、第2代会長の戸田城聖(とだじょうせい)さんです。 1930年が創立された年です。 池田大作さんが第3代会長になったのは1960年のことなので、 創立から30年も経った後のことでした。 名誉会長になった今でも創価学会の顔と言えば池田大作さんという感じはありますよね。 1960年から60年近くも看板をしょってこられたので、 一般の方は彼が創設者だと思っている人が多いのではないでしょうか。 ただ創価学会の中に入ると、池田大作さんの話だけではなくって、初代会長や第2代会長の話も良く出てきます。 入る前は全然知らなかったので「へーそうなんだ」と思うことが多いです。 初代会長と第2代会長は戦時中に投獄され、初代会長に至っては殉教しています。 そのため学会員からすると「正義のために戦った英雄」というようなニュアンスで扱われているように感じます。 ただ、「神様」のように扱うわけではありません。 それで、それは池田大作さんも同じというのが次の話です。 創価学会は池田大作さんを崇めて、その教えを広めてるんでしょ? 創価学会は「池田大作を崇めて、その教えを広める」と思っている人が多いと思うんですけど、これは 半分正解だけど、半分間違いだと感じています。 多くの学会員は池田大作さんのことを尊敬しているし、 その思想や姿勢から学んでいることは間違いありません。 しかし、創価学会が広めている教え、つまり「経典」的なものは、鎌倉時代である1200年代に活躍した僧である、「日蓮大聖人」の教えです。 歴史の教科書に「日蓮」として出てくる人物です。 創価学会では座談会などの際に「御書講義(ごしょこうぎ)」なる勉強会が開催されることがあります。 これは日蓮が書いた書物=御書の中から、一節を取り出してその教えを学ぶものです。 MEMOちなみに池田大作さんもたくさん著作があります。 代表的なのは小説「人間革命」です。 こちらの記事で書いています。 外から見ると創価学会は 「池田大作を神と崇めるやばい人たち」という風に見える気がするんですが、 中にいると「 池田大作さんは神様ではなくて、すごい尊敬されている大先輩」って感じに見えます。 例えると運動部で憧れの先輩に教えを乞うみたいな雰囲気です。 落ち込んでいたり、迷っているときに 「大丈夫、おまえならできる!一緒にがんばろう!」って言ってくれる大先輩って感じです。 よく学会員は池田大作さんを「先生」と呼びますが、 それは「師匠」というニュアンスに近いと思います。 なので、よく「師弟の絆!」みたいな言葉も聖教新聞には並んでいると思います。 (これがまた暑苦しくて、一般の人には受けがよくない気はしますが…) もうちょっと大げさな感じでいえば、 国の独立戦争を勝利に導いた英雄的な扱いかもしれません。 その昔弾圧を受けた民を励まして、守り抜いた。 そして国を独立まで導いた。 みたいな人です。 だから熱狂的なファンもいるわけです。 (学会員は昔は結構いじめられていたようです。 ) でも 英雄って人間であって、神様ではないんですよね。 結局学会はやばい組織なのか? そんなわけで、 「創価学会は創始者の池田大作を崇めて、その教えを広めるやばい組織」ではなくて、 「創価学会は日蓮の教えを広めていて、池田大作を尊敬する大先輩として見ている組織」というのが実態に近いと思います。 え、ヤバくはないのかって? うーん、それはわかりません笑 おいおい私の経験を書いていきますが、すごいなーと思うこともありますし、 それが「ヤバい」かどうかは皆様個々人のお考えでご判断いただければ幸いでございます。 (創価学会へのよくある疑問シリーズの) ブログを応援いただける方は ポチッと押していただけると幸いです。
次の創価学会副会長・広報室長の岡部高弘氏によると「おかげさまで大変お元気」だという。 池田氏をめぐっては、11年頃から健康不安説が相次いで報じられたが、12年頃には機関紙「聖教新聞」が訪問者を歓迎する池田氏の様子を報じるようになった。 そのため「健康は回復した」との見方も出ていたが、動画は公開されないままで、動向に注目が集まっていた。 会員激励する体力 「ありますあります、もちろんです」 テレビ東京で放送された特番「池上彰の参院選ライブ」では、番組恒例のバスツアーが公明党の支持母体の創価学会を取材。 岡部氏がツアー一行に応対し、池上氏は政教分離との関係などを質問した後に、池田氏について 「最近あんまり肉声を聞くとか、どこかに登場するといったことがあまりないように思う」と質問。 これに対して岡部氏は「 おかげさまで大変お元気で、具体的には、聖教新聞なんかによく執筆活動(をしている)。 新・人間革命とかですね。 あと、先日もそうですが、色んな各地を回られて、会員の皆さんを激励されています」と答えた。 13年には夫人が「ラジオ体操が日課」と伝える 池田氏をめぐっては、香峯子(かねこ)夫人が「文藝春秋」13年1月号で、 「ラジオ体操を若い人たちと一緒にするのが、今も日課となっています。 先般も、来日中のアフリカ10ヵ国の青年たちに会って激励しました」などと近況を明かしているほか、池田氏が創立した創価大学(八王子市)の訪問の様子を機関紙「聖教新聞」がしばしば伝えている。 聖教新聞以外では、16年1月末に恒例の「提言」を発表し各紙が報じているほか、4月12日付けの山陰中央新報に「『日本の故郷』ここにあり」と題して寄稿したのに続いて、6月6日付けの茨城新聞も「茨城新聞創刊125周年に寄せて」と寄稿している。 ただ、池田氏の動画は長く公開されないままで、具体的な健康状態については必ずしも明らかではない。 当初は日蓮正宗内部の宗教法人格を持たない法華講として発足、後に独自の法人格を取得し日蓮正宗の法華講と完全に分裂して現在に至る。 本部は東京都新宿区信濃町。 『聖教新聞』(日刊)、『創価新報』(月2回)などの機関紙や、『大白蓮華』(月刊)、『グラフSGI』(月刊)などの機関誌を発行している。 公明党の最大の支持母体であるとともに、「自公連立政権」下においては自由民主党の間接的な支持母体としても機能する。 1930年(昭和5年)11月18日に、小学校の校長だった牧口常三郎と、戸田城聖ら当時の教育者などが集い、法華教系の在家仏教団体の『創価教育学会』を創立した。 日蓮の仏法精神に基づく教育の実践(教育者の育成)を目的とする団体であったこの組織が創価学会の前身となる。 戦時中は弾圧を受け、1943年6月に牧口、戸田を含む幹部が治安維持法並びに不敬罪で逮捕され、牧口は獄死。 1945年7月、出獄した戸田は、組織名を創価学会に改め組織を整備、1952年、宗教法人の認証を得る。 戦後の創価学会は戸田の手腕で急拡大するが、75万世帯を目標にした「折伏大行進」運動の過程で、強引な勧誘は後述のような社会問題も引き起こした。 1960年、周囲の大反対を押し切り池田大作が会長に就任、その後池田の会長就任に反対する勢力の離脱で一時期学会の勢いが衰えるが1964年には創価学会内に「公明政治連盟(その後、公明党と改名)」を創設し、政治にも関与し始める。 本来、創価学会は宗教団体ではなく、日蓮正宗の講(信徒団体)のひとつであった。 池田は日蓮正宗総本山大石寺より、信徒のトップである法華講総講頭に選任されていた。 しかし創価学会と日蓮正宗との間で次第に教義上の対立が激しくなり、1991年11月、創価学会は日蓮正宗から破門されて「宗門」と「信徒団体」という関係は消滅した。 教義的には日蓮を末法時代の本仏と定め、南無妙法蓮華経の唱題を実践し、日蓮の出世の本懐であるとされる一閻浮提総与の大御本尊を掲げ、「法華経」思想の布教を宣言(広宣流布)し、仏教思想に基づく平和的な社会の実現を目標とするとしている。 左翼連中は、ソ連・中国・北朝鮮が善で日米が悪だという真っ赤な嘘を言って日本に莫大な、 お金に換算して京単位の損害を与えてきた訳だ。 左翼連中は 謝罪して賠償しなければならないのに、みんな 知らぬ顔の半兵衛で、誰も謝罪も賠償もしない。 多分 痴呆症で寝たきりで晩年の共産党の宮本顕示冶 状態だろ? ただ 絶対的カリスマが有り、創価会員は池田大作教だから、おいそれと 意思不通と言えどもトップをすげ替える事は出来ないよね。 大体 創価の馬鹿達は池田大作が上行菩薩だとか信じてるのか? 法華経や日蓮聖人自体は正しいよ。 ただ断じて上行以下四菩薩は池田大作なんかじゃ ないよ。 間もなく 本物の上行菩薩を含む四菩薩が出てきた時、お前ら 創価の連中は どう言う反応を示すか楽しみだ。 !! 本物の上行菩薩は現在23才だよ。 詳しくは言えないけど、間もなく現れるよ。 無論 この文章を書いてる俺では無いよ。 ホンマ早く潰れて欲しい。 5、6時間も題目上げて自分の事も出来ない姑が私には信心があるからとデイサービスにも行かない。 思考が腐り切ってる。 結婚と同時に入会活動もしてみたが何もかもが納得出来ないものばかり。 何のゆかりもない池田氏をいきなり神仏化して『先生』などと 何で呼んで慕たわなアカンねん。 活動にそっぽ向いてから心が自由になり軽くなり、やっぱり私は私らしく生きようと思ってから色々上手くいくようになった。 折をみて、娘と脱会する。 兄夫婦も信心してるからと、何事にも真剣に向き合えない結果、3人の息子は大学に進学もせず、フリーター。 それで信心してるから守られてるからとか笑かす。 もう 懲り懲り。
次の池田大作の出生: 池田大作は昭和三(一九二八)年一月二日、東京府荏原郡入新井町大字不入斗のしがない海苔製造業者・池田子之吉、妻、一の五男として生まれた。 その年、子之吉は前厄の数え四十一歳であり、池田が親の厄を一生、業に背負わぬよう彼を隣の蒲田町に捨てた。 隣人がすぐ拾い届ける手筈だったが、手違いから事情を知らぬ別人が交番に届けたため、子之吉は巡査にさんざん油をしぼられねばならなかった(池田の三兄・小宮開造談、『現代」昭和四十五年二月号)。 子之吉は婚姻届け出の十九日後には長男をもうけるという、ごくこだわらぬ人柄であり、その庶民性はこうした縁起かつぎの面だけでなく、池田の命名にも十分うかがわれる。 彼はただ池田が丈夫に育てばとの思いから、いたって無造作に太作と名つ゛けた(タサクでなく、タイサクと読むとの説もある。 池田は昭和二十八年十一月、自ら現在の大作に改名した) 池田の家は子之吉の祖父の代から大森で海苔製造に従事し、かなり繁昌した一時期もあった。 また、祖先は元禄時代に兵庫から千葉に移住した武士だという口伝えも残っているらしい(央忠邦『池田大作論』) 創価学会はアホである。 2ケ所の脳梗塞、車イス、夜も病室の電気を消さない理由 昨年五月以来、公の場から姿を消した創価学会・池田大作名誉会長。 重病説が取りざたされる中、数カ月前まで看護師として池田氏を担当していたAさんが重いロを開いた。 厳戒体制の病室で何が起きていたのか。 衝撃の証言。 「新聞や雑誌では、池田先生が今も元気で活動されているように書かれています。 しかし、私がお側で世話をした数カ月前には」歩くこともままならず、読み書ぎや他人と話すことも難しい状態でした。 二十四時間体制で医師や看護師が常駐し、病室には、秘書が先生の様子を見守っている。 いつ何があってもおかしくない状況だったのです」 緊張した表情でそう語るのは、東京・信濃町にある創価学会の医療関連施設「南元センター」で看護師として勤務していたAさんだ。 彼女が語る「池田先生」とは、今なお創価学会のカリスマとして君臨する池田大作名誉会長(83)のことを指す。 Aさんによると、池田氏は現在、南元センターの五階にある特別な病室に入っているという。 昨年の五月中旬以降、池田氏が公の場に姿を見せなくなって一年以上が経過している。 そのため、これまでも重病説が囁かれてきた。 Aさんによれば、学会内でも池田氏の健康状態や入院先に関しては、ごく一部の関係者しか知らない超極秘事項だ。 数カ月にわたり看護を担当したAさんが、池田氏の病状を明かす。 「先生の病気は、脳梗塞です。 梗塞は二ヵ所にあり、もともと糖尿病という持病をお持ちなので、合併症を誘発する恐れもあります。 自力で歩くことはできず、移動は車椅子でした」 Aさんが池田氏の担当になったのは昨年のことだ。 そもそも南元センターは、創価学会の健康保険組合に所属する組合員が健康診断を行う医療施設である。 一階から四階までは普通の病院と大差はないと、Aさんは説明する。 「おそらく南元センターで働いている職員の大半が、五階に池田先生がいらっしゃることを知らないと思います。 下のフロアで勤務していた私も、まさか最上階に先生がいるとは夢にも思いませんでした」 Aさんは婦長から五階の勤務を命じられ、最上階へ向かった。 エレベーターを降りるとう制服に身を包んだ警備員の刺すような視線が容赦なく注がれた。 フロア全体のピリピリとした空気を感じながら病室の扉を開けると、生花の香りが鼻の中に広がる。 そして、大きなベッドに痩せた老人が横たわっていたのである。 「それが池田先生でした。 尊敬する先生が目の前にいらっしゃって驚きました。 大変名誉なことだと思い、嬉しくて涙が出そうになったことを覚えています。 私が担当し始めた頃はまだお元気で、週に一、二度、屋上で外の空気を吸ってらっしゃいました」 著作や写真を投げ始め…… その後、池田氏の容態は悪化。 病室の外へ出ることができなくなったと、Aさんは振り返る。 「担当した当初から、先生はご病気の影響で言語障害が出ることもあり、お話も聞き取りづらい部分はありました。 でもその頃は、なんとか会話もでき、幹部の方など関係者がお見舞いに来ていろいろお話しされていたようです。 食事も自分でされ、病室の大きなテレビを見たり、読書をなさっていました。 ただ、屋上へ上がったり、読み書きができたのも今年の一月頃までだったと思います。 高齢や脳梗塞のせいで認知症の症状が進行してしまったからなんです」 東日本大震災が起きる前、池田氏の病室である〝出来事〟が起こったという。 「病室には、池田先生の著作や、各界の著名人と撮られたお写真などが飾られていました。 一月の終わりから二月のはじめ頃だったと思いますが、先生が車椅子に乗ってらっしゃったとき、突然、奇声を上げてご自分の著作や写真を投げ始めたのです。 慌てて、秘書や看護スタッフでお止めしました。 この後、先生の近くにモノを置いておくのは危ないということになって、そういった展示品は撤去されました。 メガネも自分で割られてしまうかもしれない、と外すことになりました」 三月に入ると、池田氏の症状はさらに進んだという。 「他の人を認識できていないのでは、と思う日もあり、看護師や来客の方とも意思疎通ができないこともありました」 また、その他の能力も日を追うごとに衰えていった。 「咀嚼(そしゃく)が困難になり、食事もきちんと摂れなくなりました。 看護する側としても、誤嚥(ごえん)が怖い。 誤嚥性肺炎を起こしてお亡くなりになる高齢者が非常に多いからです。 そこで首から一日三回、経管注入で栄養剤を入れることになりました。 口から食事を摂れないと、どんどん痩せていきます。 みなさんがご覧になられている写真より十キロ以上痩せ、お元気な頃の面影がなくなっていました。 顔のつやがなくなり、頬がこけてゲッソりした感じでした」 車椅子ごと入れる浴槽を使用 なぜ、熱心な学会員でもあったAさんが池田氏の病状を明らかにすることを決意したのか。 「私は池田先生をお慕いして創価学会へ入りました。 今も、その尊敬の思いは変わっていません。 私が先生の看護スタッフを始めた頃は、まだ先生もお元気で、〝神様〟だと思っていました。 しかし、先生のお世話をするうちに、先生も寿命のある人間なんだ、と痛感したのです。 幹部の方々は、心配する我々学会員に対して『先生は元気です』とアピールするばかりです。 しかし、それは学会員を欺き、池田先生を冒漬(ぽうとく)しているのと同じではないでしょうか。 末端の学会員にも先生の現状をお知らせして、先生のために大勤行会を開いたほうがいいと思うのです。 それが、今回、私がお話しした理由です」 話を池田氏の病室に戻そう。 Aさんは、衰弱してゆく池田氏の看護をしながら心を痛める日々が続いた、と振り返る。 「以前は病室の隣に大理石のお風呂があってよく入られていたのですが、その浴室は使われなくなりました。 大理石の浴槽のそばに車椅子ごと入れる介護用の浴槽があって、そちらを利用するようになったのです。 入浴は四、五人がかりの作業でした。 回数も、私が勤務していた当時は週二回ほどになっていました。 看護師がオムツを交換し、婦長など地位の高い方が、病衣を着た先生のお顔などを拭いでいました」 池田氏専用のフロアにいる看護師は、日勤三名、夜勤二名の計五名。 二十四時間体制で勤務していたという。 そのほかにも警備員が警備室に三名、土レベーター前に一名、病室の前に一名配置されている。 病室には秘書とともに、監視カメラが設置され、ナースステーションでチエックできるようになっていた。 階段には防火扉が設置され、普段は鍵がかけられていた。 そのため、昇り降りできるのはエレベーターのみ。 そこで警備員が出入すの人間を見張っていた。 「まず驚いたのは、最上階の物々しい雰囲気です。 警備員は第一警備の方々でした。 どの人も体格がよくて、何か格闘技でもやってらっしゃるような人だと思います。 目つきが鋭くて、通常の業務をしている私たちも常に監視下に置かれているような感じでした。 四階以下は金城会の方が警備をしています」 第一警備や金城会とはどんな部署なのか。 学会に詳しい人物によれば、「第一警備は」池田名誉会長直属のエリート警備部隊。 また、金城会は全国各地域から集められた一般の会員で柔道や合気道の有段者が多いことでも有名です。 こちらも池田会長の警護が主な業務といわれていてます」 警護体制だけでなく、病室の作りにも秘密が隠されていた、とAさんは話す。 「先生の病室は縦が約七メートル、横が約五メートルの広さです。 白っぽい壁は鉄製で、『マシンガンで撃たれてもびくともしない』と説明を受けました。 病室の窓ガラスも防弾ガラスだと聞きました」 まるで軍事施設のような堅牢さだが、一歩病室へ入ると、そこには瀟洒(しょうしゃ)な洋間が広がっているという。 「先生の病室にはキングサイズのベッドがあり、シーツ、掛布団カバー、枕は全て金色のペーズリー柄でした。 ベッドの側には、小さなテーブルと椅子が置いてあり、お元気なときには、そこでよく筆ペンを手にとって和歌を詠んでいらっしゃいました。 他に来客用の応接セットもあります。 テーブル、ソファーと椅子が二つ。 また病室には絨毯が敷かれているのですが、『バッキンガム宮殿に使われている絨毯と同様のもの』と言われました。 一般の病室とは全く違い、外国の洋館みたいなお部屋なのです」 備え付けの棚には、大きなテレビ、先述した著作や写真などが並ぶ。 花瓶には様々な種類の生花が飾られていた。 病室でも髪型はオールバック 「香峯子(かねこ)夫人が週に何度か病室にいらっしゃって花を取り換えていました。 エレベーターで五階へ上がるときは、警備員や看護師などのスタッフは整列してお迎えするのです。 夫人は長居することもなくて、一時間くらいでご自宅に戻られることが多かった」 また、池田氏の病室では重要なルールがあった。 「一番初めに注意されたことは『病室の電気は切ってはいけない』ということでした。 先生は明かりが消えるとよく眠れないそうなんです。 昼夜逆転されることも少なくなく、昼間に眠ってらっしゃることも多かったですね。 病室の天井は折上天井になっていて、蛍光灯が何十本も取りつけられていました」 実際、南元センターの周囲から池田氏の病室とされる場所を見上げると、記者が確認を行った夜には、いつもブラインドの隙間からかすかに明かりが漏れていた。 厳重に警護された池田氏の病室。 そこに足を踏み入れるのは夫人など池田氏の家族と医療スタッフ、ごく限られた学会の幹部だけだったという。 「池田先生の側近の方はいらしています。 幹部の中でも本当に重職の方がいらしていました。 先生が話ができたときには、病室の隣にある会議室でいろいろ話をされていたようです。 髪の毛やお顔は来客があるので、二日に一度くらい手入れしていました。 髪型も皆さんがご存知のオールバックです。 先生はいつも身ぎれいにしていらっしゃいました。 髭は電気カミソリなどで丁寧に剃らせていただいています。 夫人からも見た目には気を遣うように指示が出ていて、きちんとさせていただきました」 先述したように、池田氏は一年以上も公の場に姿を見せていないが、 「学会系の新聞や雑誌には、池田先生のメッセージや対談の様子が描かれています。 先生はそんなことが出来るようなお体ではないのに……」(Aさん) 確かに、学会の機関紙『聖教新聞』によれば、地震発生後の三月二十一日、池田名誉会長は東京・新宿区の創価学会第二別館で勤行を行ったと報じた。 また、五月三日付の同紙には夫人とのツーショット写真が掲載されており」キャプションには〈4月19日、東京・新宿区で〉と記している。 南元センター取材は「拒否」 学会系の総合誌『潮』でも、海外の要人たちとの対談を連載。 六月号からは、モスクワ大学総長、ヴィクトル・A・サドーヴニチィ氏との対談が掲載された。 この連載対談の中では、東日本大震災などにも触れられ、池田氏が、「本年五月、ロシア国立交響楽団が来日公演し、各地で大きな反響を呼びました」と言及しているが、そんなことが可能なのか。 創価学会に尋ねると、 「(聖教新聞の夫人との写真ば)今年の四月十九日に撮影されたもの。 また、連載対談は近年の往復書簡をまとめたものです」 さらにAさんの真摯な証言に対しては、 「ご指摘は全て事実無根です」(創価学会広報室) 否定するのであれば、南元センターの五階を見せてほしいと求めたが、「部外者の方を入れたことはありません。 もしそこに名誉会長がおられなければ、どこかに移した、と言われるだけでしょう」と受け入れられなかった。 別の学会関係者も言下に否定する。 「南元センターは一般の学会員も利用する施設。 五階に入ったことはありませんが、そこに池田先生がおられるなら、隠しておけるはずがありません。 今も池田先生は、秘書を通じてさまざまな指示をなされています」 だが、先述したように、下の階で働いていたAさんでさえ、五階勤務になるまでは、そこに池田氏がいるなどとは、想像だにしていなかったのだ。 そもそも家族やごく一握りの幹部を除き、池田氏の所在や現状が、彼の健在を祈る一般の学会員にさえ隠し通されていること自体に無理があるのではないか。 一刻も早い真実の開示が待たれる。 『週刊文春』2011年10月27日号.
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