沖 ノ 鳥島。 幻想諸島航海記/中ノ鳥島

沖ノ鳥島 港湾工事再開 2015年4月から 東京都小笠原村

沖 ノ 鳥島

沖ノ鳥島の位置と島の詳細 都心部から1,740キロ、から720キロ、のほぼ中央、上に位置する、太平洋の絶海に孤立して形成された南北約1. 7キロ、東西約4. 5キロ、周囲約11キロほどの米粒形をしたである。 の南に位置するために属する。 干潮時には環礁の大部分が海面上に姿を現しているが、満潮時には内の東小島(旧称・東露岩)と北小島(旧称・北露岩)を除いて海面下となる。 沖ノ鳥島は過去100年あたり1センチという、が極めて小さいことでも知られ、に伴う海面の水位変化を調べるのに役立っている。 島周辺は海面と海底の海水の温度差が年間を通じて20ほどあり、にふさわしい条件が揃っている。 なお、「沖ノ鳥島」として公式に記載されたのは(昭和4年)のことであるが、沖ノ鳥島という名前自体の由来は不明である。 地理 [ ] 北小島 [ ] 沖ノ鳥島1番地。 旧称は北露岩。 に位置する。 面積7. 86平方メートル。 海抜は第二次世界大戦以前のでは2. 8メートルと記載されていたが、2008年3月時点で約1メートル。 高潮(満潮)時も約16センチが海面上に現れる。 三等「北小島」が設置されている。 東小島 [ ] 東京都小笠原村沖ノ鳥島2番地。 旧称は東露岩。 に位置する。 面積1. 58平方メートル。 海抜は第二次世界大戦以前の海図では1. 4メートルと記載されていたが、2008年3月時点で約0. 9メートル。 高潮(満潮)時も約6センチが海面上に現れる。 一等三角点「沖ノ鳥島」が設置されている。 建造物 [ ] 観測施設(作業架台)で、金属、塗装、コンクリートなどの耐久性を試験している様子(2010年6月撮影) 日本はから北小島および東小島に鉄製の設置と護岸工事を施し、東小島には製防護ネットを被せて保護している (詳細はを参照)。 前の1940年(昭和15年)7月中旬、は北露岩に無人灯台建設を計画した。 その他、船舶が沖ノ鳥島にすることを防止するため、によって領海内に「」が設置されている。 この無人灯台の灯火は海面上から26メートルの位置にあり、の光を沖合い12まで届けるものでによって稼働している。 東小島には一等三角点「沖ノ鳥島」、北小島には三等三角点「北小島」、観測所基盤にはが設けられている。 また、2005年には「沖ノ鳥島」が東小島に設置されている。 消失した露岩 [ ] の前のの調査記録では、最大2. 8メートルの北露岩、1. 4メートルの東露岩、さらに北露岩の南側に海抜2. 25メートルの「南露岩」があり、それ以外に0. 9 - 0. 6メートルの露岩があり、合計6つの露岩が満潮時にも姿を現していたことが記されている。 これらのうち、南露岩は1938年に消失が確認された。 1968年にされたあとの1982年以前は露岩の数は4つとされていたため、1987年までに、現在の北小島、東小島を除いたものはや により消え失せたと見られている。 歴史 [ ] 沿革 [ ] ウィキソースに の原文があります。 - 船が発見、アブレオホス(: Abre Ojos)と命名される(異説あり)。 1565年 - スペイン船が発見、パレセベラ(: Parece Vela)と命名される。 1639年 - 船が発見、エンヘルスドローフテ(: Engelsdroogte)と命名される。 1789年 - のが発見、ダグラス礁(: Douglas Reef)と命名される。 1922年(大正11年) - 日本の「」が測量を行う。 1929年(昭和4年) - 発行の海図第800号に「沖ノ鳥島」の名称で記載される。 1931年(昭和6年)7月6日 - 第163号により「沖ノ鳥島」と命名され、に編入される。 1939年(昭和14年) - 島に気象観測所や灯台を建設しようと調査・工事が始まる。 しかし、に突入し、戦局が悪化すると工事は中断。 2014年現在はサンゴ礁を爆破した水路跡と灯台の基礎を改築した観測所基盤が残っている。 この灯台の基礎工事を発見した米艦艇が砲撃を加えたという記録もある。 1943年(昭和18年)7月1日 - 施行、東京府廃止。 1952年(昭和27年)4月28日 - 第3条により、小笠原諸島と共にのに置かれる。 1968年(昭和43年)6月26日 - に基づき、小笠原諸島とともに日本に返還される。 1976年(昭和51年) - 創立50年を記念して、5月30日から6月2日まで、の移動運用(沖ノ鳥島DXペディション)を行う。 1977年(昭和52年)7月1日 - 、漁業水域に関する暫定措置法により、12海里、漁業水域200海里を設置。 1987年(昭和62年)10月14日 - 東京都により海岸保全区域に指定。 1987年(昭和62年)11月1日 - (現・)による直轄工事を開始。 波の侵食による島の消失を防ぐため、2つの島の周りに護岸工事を行う。 1999年(平成11年)6月23日 - 建設省による直轄管理区域に指定。 維持管理については京浜河川事務所が所管。 2004年(平成16年)4月22日 - 日中間外交当局者協議で、が沖ノ鳥島を「 」だと主張。 日本に無断で周辺の海洋調査を進める。 2005年(平成17年)6月25日 - が、電子基準点「沖ノ鳥島」を設置。 2007年(平成19年)3月16日 - が、「沖ノ鳥島灯台」を設置して運用開始。 2010年(平成22年)6月24日 - 沖ノ鳥島などの離島の保全を目的とした(沖ノ鳥島保全法)を施行。 指定区域内の海底の掘削は国土交通大臣の許可が必要とし、違反した場合の罰則規定が設けられた。 2011年(平成23年)6月1日 - 低潮線保全区域を設定。 2012年(平成24年)4月28日 - が日本国最南端の沖ノ鳥島の北方など太平洋の4海域約31万平方キロメートルを日本の大陸棚として新たに認める勧告を採択。 ただし、沖ノ鳥島南方の九州・パラオ海嶺南部海域の大陸棚拡張については判断を先送りした。 2014年(平成26年)3月30日 - 港湾整備事業によりが設置作業中の桟橋が転覆、作業員7人がする事故が発生。 詳細は「 」を参照。 2015年(平成27年)5月1日 - 港湾工事を再開し、桟橋の据付を開始。 行政区分 [ ] 日本ではの一部として東京都小笠原村に属し、住所は郵便番号「100-2100」、東京都小笠原村沖ノ鳥島 1番地(北小島)および、2番地(東小島)となっているが、のための一覧には掲載されていない。 1987年10月に東京都によって海岸保全区域に指定されたが、東京都だけでは保守費用を負担しきれないことから、1999年6月以降は、全額国費による直轄管理(所管は国土交通省)となっている。 2011年6月、一部が低潮線保全区域に指定されている。 過去に東京市にとともに所属していたという説があるが 、これは誤りである。 電話のは小笠原村の 04998だが、現状では無人島であることから加入者は存在していない。 地位に関する論争 [ ] 沖ノ鳥島が日本国の領土であり、その周囲に日本国の領海を持つことはどこの国からも異論が出ていない。 ただし下記のように、沖ノ鳥島周辺の(Exclusive Economic Zone、略称:EEZ)の存在について、日本国と(中国)、(台湾)および(韓国)、(北朝鮮)の間で主張が異なっている。 11月16日に発効した、国際海洋法の基礎となっている(国連海洋法条約)では、「島」と「岩」について以下のように定義されている。 第121条 第1項:島とは、自然に形成された陸地であって、水に囲まれ、高潮時においても水面上にあるものをいう。 第121条 第3項:人間の居住又は独自の経済的生活を維持することのできない岩は、排他的経済水域又は大陸棚を有しない。 日本国はこの第121条 1項の定義に従って沖ノ鳥島は「 」であるとし、「」(国連海洋法条約)発効に併せて制定した「」(8年法律第74号)によって、沖ノ鳥島を中心とする排他的経済水域を設定した。 しかし、沖ノ鳥島が同3項の「岩」にあてはまるとすれば、沖ノ鳥島は領海は有するものの、排他的経済水域や大陸棚を有しないということになる。 ダイクは同様の主張を繰り返し、その意見は2005年2月16日ので「日本の立場は、がにEEZの主張を諦めた、のの例に酷似している」「沖ノ鳥島のEEZをもっともらしく主張することはできない」として紹介されている。 こうした意見に対しては、「 岩」の定義が同条約上に存在しないことを根拠に、沖ノ鳥島の排他的経済水域を主張している。 2003年以降には、中華人民共和国および大韓民国の2か国が日本の主張に対する異議を申し立てるようになった。 両国は、沖ノ鳥島が日本の領土であることは認めるものの、それは国連海洋法条約第121条第1項の「島」ではなく、同条第3項の「岩」であり、沖ノ鳥島周辺に日本国が排他的経済水域を設定することはできないと主張している。 なお同条約には、島に関する以下のような条文も定められている。 沖ノ鳥島に設置された鉄製消波ブロックとコンクリート製護岸、チタン製防護ネットはこの条文に記された人工の「構築物」に該当する。 ただし、沖ノ鳥島の本体は自然に形成されたものであるため、この条文には該当しない。 第60条 第8項:人工島、施設及び構築物は、島の地位を有しない。 これらのものは、それ自体の領海を有せず、また、その存在は、領海、排他的経済水域又は大陸棚の境界画定に影響を及ぼすものではない。 サンフランシスコ平和条約の中での沖ノ鳥島 [ ] 日本がアメリカ合衆国やイギリスをはじめとする48か国と締結した条約第3条では、日本は「北緯二十九度以南の(及びを含む。 )、の南の南方諸島(、及びを含む。 )並びに 沖の鳥島及び」を、アメリカ合衆国を施政権者とするのの下に置くことを承認し、さらには国際連合がこの信託統治制度を可決するまでの間は、アメリカがこれらの島々に対する施政権を持つことを承認した。 実際にはアメリカは国際連合に対してこれらの島を信託統治する提案をしなかったため、沖ノ鳥島は小笠原諸島とともにアメリカの施政下に置かれたものの、領土主権は日本に残された。 1968年(昭和43年)に日本国とアメリカ合衆国が結んだが発効したことにより、小笠原諸島および沖ノ鳥島の施政権は日本に返還された。 中華人民共和国の主張 [ ]• 2001年(平成13年)ごろから、中華人民共和国のによる調査が沖ノ鳥島の排他的経済水域内で多く行われ、この件について日本は2004年(平成16年)に事務レベル協議で抗議した。 これに対し同年4月22日、中国側は、沖ノ鳥島は「島」ではなく「岩」であり、日本の領土とは認めるが、排他的経済水域は設定できないと主張。 2009年(平成21年)8月24日には国連大陸棚限界委員会において、沖ノ鳥島を「人の居住または経済的生活を維持できない岩」であると認定するよう意見書を提出した。 一方で、中華人民共和国はのの(赤瓜礁)の領有権を主張しており、その周囲に排他的経済水域を設定している。 しかし、ジョンソン南礁は沖ノ鳥島と同様、満潮時に水面上に出ている部分は小面積であるとされており、中国の主張はダブルスタンダードであるという批判がある。 中華民国の主張 [ ]• 2016年(平成28年)4月、の政権は、を設定できない岩との認識を示していたが、翌5月に発足した政権は、国会議員らとの対話後、5月23日に「法律上の特定の立場を取らない」として扱いを修正した。 2018年現在は地位が確定するまで漁業権を認めるよう主張している。 一方で、中国国民党や民主進歩党の一部の議員や、小政党のひとつである「」は、沖ノ鳥島は島ではなく「岩」であるとの立場を示している。 大韓民国の主張 [ ] サンフランシスコ平和条約においては沖ノ鳥島の存在について明記されており、ではサンフランシスコ平和条約の関係規定を想起し条約を締結することに決定と定められており、大韓民国も沖ノ鳥島が日本の領土であることは承認している。 しかし、同国は沖ノ鳥島は排他的経済水域を設定できない「岩」だと主張している。 朝鮮民主主義人民共和国の主張 [ ] 沖ノ鳥島は日本領土から数百キロも離れた太平洋の上に位置した岩であり、国連海洋法協約で規定された島の範疇に属してもおらず、自らの経済水域を持つことができないと主張している。 日本の対抗措置 [ ] 2005年1月31日、(当時)はで首相(当時)と会談、経済活動の実証のため、沖ノ鳥島周辺でのと表層水の温度差を利用する実験的発電所の建設計画や漁業活動の計画があると明らかにした。 沖ノ鳥島周辺は深海底からせり上がる地形のため、海洋温度差発電に適している。 2005年5月20日、石原都知事は沖ノ鳥島の視察を行い、周辺海域への稚魚を放流した。 同年6月17日には国土交通省が縦1メートル、横1. 5メートルのチタン製銘板を設置した。 「東京都小笠原村沖ノ鳥島一番地」「日本国最南端の島」のほか、沖ノ鳥島の緯度・経度が刻まれている。 2005年8月24日、海上保安庁は経済活動実証のため沖ノ鳥島に灯台を設置することを決定し 、2007年3月16日に、周辺海域を航行する船舶や操業漁船の安全と運航能率の増進を図ることを目的として「沖ノ鳥島灯台」を設置して運用開始した を参照)。 また、同灯台を海図に記載した。 2009年11月6日、環礁部分に船舶が接岸できるような港湾施設を建設する方針を決めたと報道され 、2013年に建設を開始した(を参照)。 中国の「『経済的生活の維持』ができない」とする主張に対抗する意図があるとされる。 2010年7月23日には「排他的経済水域及び大陸棚の保全及び利用の促進のための低潮線の保全及び拠点施設の整備等に関する基本計画」を閣議決定し 、沖ノ鳥島における特定離島港湾施設の建設に着手している。 国連大陸棚限界委員会への申請 [ ] 2008年11月12日、日本は大陸棚限界委員会( Commission on the Limits of the Continental Shelf、略称: CLCS)に対して、沖ノ鳥島を基点とする海域を含む7つの海域を「大陸棚の延長」として申請を提出した。 その申請に対してアメリカ合衆国、中国、韓国およびパラオがそれぞれ、自国の見解を示す文書を提出している。 米国とパラオは日本に異議を唱えなかったが、中国と韓国は「沖ノ鳥島は、島に該当せず岩に当たる」という抗弁を2009年2月に提出した。 2011年8月に開催された第28回大陸棚限界委員会において中国と韓国は改めて異議を提出し、委員会の議論は紛糾して日本に対する勧告案は採決されず、継続審議となった。 その後、沖ノ鳥島事案は審査 ののち、2012年4月27日に島北側の海域は認められたが、南側(九州パラオ海嶺南部海域)は結論が先送りにされた。 南側に関しては大陸棚限界委員会の勧告(20項)によると「口上書に言及された事項が解決される時まで、CLCSとしては勧告を出すための行動をとる立場にない」とされた。 口上書とは中国と韓国による異議のことで、採択には委員の3分の2位以上の賛成が必要だが、結果は賛成5、反対8、棄権3で日本に必要な支持を得られなかった。 浸食防止策 [ ] コンクリートの護岸に生じた割れ目を補修している様子(2010年3月撮影) 沖ノ鳥島にある2つの小島が風化や海食などで浸食され、満潮時に海面下に隠れてしまうと、定義上の「島」と認められなくなり、その場合、日本の国土面積(約38万平方キロメートル)を上回る排他的経済水域が失われてしまうため、1987年から「災害復旧工事」として2つの島の周りに製によるを設置し、内部に直径50メートルのコンクリート製護岸を設置した。 ところが、護岸コンクリートの破片が東小島を傷つけるという事故が起こったため、東小島の上は製の防護ネットで覆っている。 これらの工事費用は約285億円かかった。 自然による造成策 [ ] 地球温暖化にともなうにより、島そのものが将来水面下に没することが予想されている。 そこで、自然の力により島を高くしようとの構想がある。 具体的には、島の周囲の珊瑚礁を活性化して大規模な珊瑚礁を生成させる。 これが砕けて砂となり堆積や波による集積を行うことにより、自然の力により島の高さを上げてしまうという構想である。 この構想の調査のために、は実施期間を2006年度から2年間とする「生育環境が厳しい条件下における増養殖技術開発調査事業」を創設、業務取りまとめ機関として「サンゴ増養殖技術検討委員会」を設置し、初年度に3億円のを充てている。 有人島化計画 [ ] 2010年、政権下において国土交通省が750億円を投じ、沖ノ鳥島の西側に設備、、、などを建設し、やが可能な活動拠点を作ることを決定した。 経済的な活動拠点が完成すれば、事実上の有人島となり「同島では経済的生活の維持ができない」とする島の地位に関する批判(前出の「」を参照)を退けることができることから、計画されたものである。 この計画に従って、2011年度に国土交通省が特定離島港湾の建設に着手した。 長さ160メートルの岸壁を作る工事で、130メートル級の大型海底調査船も停泊可能な岸壁となる。 港湾整備は2016年度に完成する予定。 国土交通省は「輸入頼みの資源を自前で開発する拠点。 経済的なにつながる」と説明している。 参考文献 [ ]• 外交防衛委員会調査室・加地良太「」 - 『立法と調査』321号(平成23年10月3日)、127 - 144頁、事務局企画調整室 脚注 [ ] []• 一等『沖ノ鳥島』の座標。 2014年7月13日閲覧。 「」 Ref. C12070389200 『 別紙 沖ノ鳥島北露岩側面略圖』• 2014年7月13日閲覧。 1月23日付で三等三角点「北露岩」から名称変更された。 2002年1月23日付けで一等三角点「東露岩」から名称変更された。 、株式会社アロイ• 「」 Ref. C12070389200 『軍務二機密第五九九號ノ三 昭和十五年七月十九日 海軍省軍務局長 關係廰長殿 沖ノ鳥島假燈標ノ件通知 目下中央氣象臺ニ於テ沖ノ鳥島ニ氣象観測所建設工事中ノトコロ同臺ヲシテ今年度同工事終了後 七月下旬 ヨリ昭和十五年十月下旬迄同島北露岩頂ニ別紙略圖ノ如キ假燈標ヲ殘置セシムルコトニ取計置候ニ付了知相成度 追テ右燈標ハ勿論無看守ナルニ付消燈其ノ他故障ヲ發見セル場合ハ機ヲ失セズ當方ニ通報ノコトニ取計相成度 別紙添 』• 、海上保安庁• 、国土地理院、2006年3月23日• 2014年7月13日閲覧。 「」 Ref. B02031163800• 週刊BEACON、株式会社. 2013年5月1日時点の [ ]よりアーカイブ。 47NEWS. 共同通信 全国新聞ネット. 2008年11月4日. の2013年3月28日時点におけるアーカイブ。 、内宮運輸機工• 経済水域保全の新法成立 沖ノ鳥島、南鳥島を想定 産経新聞、2010年5月26日• 、日本経済新聞、2012年4月28日• - 、2012年4月28日• 朝日新聞 2014年3月30日• NHK NEWS WEB. 2014年4月3日. の2014年4月13日時点におけるアーカイブ。 2014年4月13日閲覧。 - 2014年4月22日• Jcastニュース - 2014年9月閲覧• 須田皖次「沖の鳥島夢物語」• 2019年1月15日閲覧。 , January 21, 1988• 沖ノ鳥島補強しても経済水域保てない/米学者が主張、読売新聞、1988年1月22日附夕刊 2面• "A Reef or a Rock? Question Puts Japan In a Hard Place To Claim Disputed Waters, Charity Tries to Find Use For Okinotori Shima". , February 16, 2005• 中国の主張正当と米専門家 沖ノ鳥島問題で米紙、、• 、、1999年4月16日• 、ニュース、2009年11月10日• 朝日新聞 2016年5月23日• 時事通信 2016年5月23日• 読売新聞 2016年5月24日• 2019年1月15日閲覧。 フォーカス台湾. 2016年5月24日. 2016年5月24日閲覧。 [日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約 ]• 、47NEWS、2005年6月20日• 、2005年8月26日• 沖ノ鳥島に「港」建設へ 中国の「岩」主張に対抗、産経新聞、2009年11月6日• 、首相官邸• 、海洋政策研究財団• 、朝日新聞、2012年4月28日• 、2012年8月20日• 、一般社団法人• 、国土交通省 関東地方整備局 東京港湾事務所• 、朝日新聞、2013年3月21日• 、、2013年3月22日 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 - 西部のに浮かぶ海食柱。 イギリスの領土でありかつてEEZの設定を試みたが周辺国の反対にあい諦めた。 - との間 にあるの無人島。 (黄岩島) - の無人島で、と、が領有を主張している。 2015年に中国が一方的に埋め立てた。 - 時においても海面下に没しており、島の定義に当てはまらないが、は「韓国のEEZ内にある海中暗礁」と主張している。 外部リンク [ ] - - -.

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日本最南端の沖ノ鳥島の場所 地図と画像で解説 工事で埋め立て?

沖 ノ 鳥島

陥没説は成り立つか? 「確かに、山田禎三郎による中ノ鳥島の発見報告はなんだかどうも怪しいみたいだ。 でも、島が何らかの形で実在していて、その後何らかの原因で消えてしまった、って可能性は否定しきれないんじゃないの?」 ここまで読み進めて、こんな風に思われた方もおられるかもしれない。 確かに、中ノ鳥島が実在した可能性については、実のところこれまであまり詳しい追求は行っていない。 それでは、このあたりで改めて本格的に検討してみることにしよう。 まず、中ノ鳥島附近の海底地形をきちんと確認するところから始めよう。 中ノ鳥島(ガンジス島)は海図上では北緯30度47分・東経154度15分、附近のガンジス礁は北緯31度5分・東経154度16分となっている。 また、山田禎三郎は島の位置を北緯30度5分・東経154度2分と報告している。 この辺りの海底は、プレート・テクトニクス上は太平洋プレートに属し、長期的には西側の日本海溝や伊豆・小笠原海溝に向かって徐々に沈みつつ動いてゆくことになる。 だが、これは数万~数億年単位での話である。 むしろ短期的には大規模な地殻変動は起こりにくいと考えられているし、実際にも地震や火山活動などは少ない。 火山活動が激しく、明神礁や福徳岡ノ場のような出没火山島もある伊豆諸島や火山列島近辺などとは条件が大きく異なるのである。 が、そのことはひとまず置いて話を進めることにしよう。 海上保安庁水路部発行の海底地形図(海図番号6304「日本近海海底地形図 第4」、1968。 1966年までの諸資料により編集)を確認してみると、この辺り一帯には実に水深5500~6000mに達する深い海が一面に広がっていることがわかる。 実は、この海域は「北西太平洋海盆」と呼ばれる巨大な深海平原の一部なのである。 これでははっきりいって、島の存在がどうのこうのいう以前の話だ。 もっとも、それではこの辺りの海岸はすっかりまっ平なのか、というとそういうわけでもなく、あちこちに海山が分布している。 そして、「中ノ鳥島」からそれほど離れていない場所にも、比較的大きな海山がひとつ存在しているのである。 (GEneral Bathymetric Chart of the Oceans; 大洋水深総図。 国際水路機関とユネスコ政府間海洋学委員会が共同して作成している、世界で最も権威ある海底地形図シリーズ)のサイトで公開されている、海底地形の名称に関する資料(「」)によれば、正確な位置は北緯29度25分・東経153度30分。 「Makarov Seamounts」という名前がつけられている。 となると、もしかしたらこのマカロフ海山こそがかつての中ノ鳥島の痕跡ではないか、などと想像したくなってくる。 20世紀のはじめ頃まではこの海山は水面に顔を出していたが、その後何らかの原因で沈降したのではないか、というわけだ。 位置も、まあ誤差の範囲と言って通る程度には近い(といっても100km前後は離れている計算になるが)。 「日本近海海底地形図」によれば、この海山の頂上附近の水深は1415m。 周囲の水深は5500m以上だから、実に4000m以上もの高さでそびえ立っていることになるが、それでもあまりに深すぎる。 仮に中ノ鳥島が標高数m程度の平坦な島だったとしても、実に1400m以上の沈降が起きたとしなければならなくなってしまう。 この深さでは、波によって島が浸蝕されて消滅した、という可能性はまずありえない。 波による浸蝕作用は海面ギリギリのところ、深くてもせいぜい海面下数10m程度までしか及ばないからだ。 同様の理由で、爆破など人為的な破壊行為によって消滅した、という線も駄目である。 地震の断層運動による陥没、という可能性にも無理がある。 一回の地震で断層がずれる規模には一定の限度があって、どんなに規模の大きい地震でも数m~10数m程度しか動かないのである。 少なくとも、それを超える確実な例は確認されていない(かつて関東大震災の際に、相模灘で100mに及ぶ上下動があったと報告されたことがあるが、今日では測定ミスと考えられている)。 それに、海底がそれだけ動けば、確実に津波が起きるはずである。 そしてその津波は当然、日本列島や小笠原諸島で観測されることになると思われる。 噴火などの火山活動による陥没ならどうか。 これなら、確かに1000m以上の大陥没を引き起こすことは不可能ではない。 だが、それだけの規模での陥没が一度に起これば、当然、大津波も一緒に起きてしまう。 その他にも、何らかの原因でとてつもない規模の土砂崩れが引き起こされたとか、いろいろな想像をすることは出来るが、いずれにせよ津波を引き起こさずに済ませるのはまず無理であろう。 要するに、一度に1000m以上の沈下というのは不可能ではないが、それが誰にも気付かれずに終わる、というのはまず無理と思われる。 それならば、地震や津波を引き起こさない程度の速度で、長い時間をかけて徐々に沈んだ、と考えればどうだろうか。 この場合、数年~数十年程度の時間で1000m以上の沈降が起きた、ということになる。 もし仮に1000m沈むのに10年かかったとすると、沈降速度は1年あたり100m、1日あたり約27cmである。 しかし、確かに断層が地震を起こさない程度にゆっくり動くことはあるが、その場合の速度は、速くてもせいぜい1年間に数cm~数10cm程度なのである。 従って、地学的に見て未知の異常な地殻変動が起こったとでもしない限り、このような沈降はまず考えられない。 ただ、火山活動の結果、海山の山体がゆっくり崩壊していった、という可能性なら、どうも全くありえないというわけでもなさそうだ。 といっても、この島が火山島だったとする根拠は特に何もない。 むしろ、山田禎三郎の報告や新聞報道などを見る限りでは(もちろん、いずれも全く信用できないのだが)、隆起珊瑚礁だと考えたほうが妥当そうなのである。 従って、結論として我々はこう考えざるを得ない。 現在の人類の科学では説明のつけようのない、恐るべき異常事態が起きたのだ。 そう、この海域には未だ人類の叡智の及ばない、得体の知れない不気味な「何か」が潜んでいるのである! ……冗談はさておき、残念ながら、この海域には島らしきものなど最初から存在しなかった、と考えるのが妥当そうである。 夢の無い結論で申し訳ないが、いたしかたあるまい。 もちろん、とてつもなく巨大な浮き島だったとか、実は島ではなくて謎の超巨大生物の背中だったとか、実は某国が密かに建造していた謎の秘密基地だったとか、実は謎の宇宙人の乗り物だったとか、そういうことも全く考えられなくはない、のではあるが……。 「内田某」と「発見」経緯の謎 「」で述べた1913-14年の中ノ鳥島(ガンジス島)探検隊の派遣に関して、1913年10月29日附『大阪朝日新聞』に、「中鳥島探検隊」と題する、派遣主である平尾幸太郎の談話記事が掲載されている。 これがまた、大変に興味深いというか、すこぶる奇妙な内容なのである。 まず平尾によれば、中ノ鳥島の「発見」の経緯は以下の通りである。 日本人が初めて此島を知つたのは去 [さる]明治四十一年 〔1908年〕のことで同島に漂着した小笠原島民が発見して其筋に届出でた、以来東京府小笠原島中鳥島 [なかのとりしま]と命名されて 明かに日本帝国の領土となつた、其際発見者は同島の燐礦を知つて四五人の同志を語つて組合を作り官憲に試掘願を差出した、その時の金主は東京の内田某で、前長野県代議士山田禎三郎氏なども関係した、然るに内田は探検費約一万二千円を投じて自ら踏査もした結果途法もない大金儲けが出来ると睨んで今更組合員が邪魔になり己れ一人で経営しやうと巧に説き伏せて各組合員の権利を四千円で買ひ取つて、さうして事業を進めやうとする中に或る事件で入監の身になつたので何うする事も出来ない、試掘願は二年の期限が二回まで切れて了つて現に入獄中の内田は空しくその権利を捨てヽ了ふことヽなつた 〔略〕 私 〔平尾〕は或る手蔓を以てその試掘願の期限が切れたのを知つた、さうして直に試掘願を東京鉱山局に差出し去る十月三日に許可を受けた、 〔後略〕 ([……]内は原文のルビ、〔……〕内は引用者註。 以下同じ) 『報知新聞』10月29日附夕刊の「探検隊の向ふ無人島は十億万円の燐礦を有す」という記事も、ほぼ同じ趣旨のことを報じている。 ニュースソースがおそらく同じであると思われるにもかかわらず、内容に微妙な食い違いがあるが、以下に引用しておく。 英国の海図には千八百年頃より記入ありしが吾国にては去る明治四十年 〔1907〕の春小笠原島の土民が漂白して偶然発見したるに初まり本年六月海軍水路部の海図に記入されたるものなり、同島が発見せられし当時 東京の 資本家内田某が小笠原、東京等の同志五名を語らひ匿名組合を設けて四十一年農商務省より燐礦採掘の許可を得某は一万五千円の費用を投じて単身探検に赴き予期以上の大宝庫たるを発見して帰りたるが某は此宝庫を他人と共に開拓するを好まず単独之を経営して巨利を得んとの野心を起し帰来同島を何等価値なきものゝ如くに言ひ触らして採掘権を自己一人のものとなし密かに開拓準備に着手しゐたり、然るに其後間もなく某は或事件に関係して東京監獄に収監され為めに其目的を達する能はず空しく権利を握りたる儘となりゐたるが該権利は本年七月満了し而も某は尚獄中に在るを以て 平尾氏より 改めて 採掘を 出願即ち十月十三日附を以て之が採掘を許可されたるなり ここでは山田禎三郎のほか、第一発見者とされる正体不明の「小笠原島民」、それにもう一人、中ノ鳥島に行ったことがあるという「内田某」なる謎の人物が登場する。 「その3」で引用した志賀重昂の談話にある「現に詐欺取材犯で長崎監獄に居る」「曽てカンヂス島に行きし事あると自称する男」は、経緯からするとどうもこの内田某のようである。 これらの記事だけでも、山田禎三郎の一見もっともらしい「発見報告」の裏で、非常に奇っ怪な事態が進行していたらしいことがわかる。 この記事を信じる限り、この「発見」劇の主役のはずの山田は実は脇役にすぎず、真の主役はこの内田某らしいのだ。 仮に、この内田某の探検が事実だとしても、かなりいかがわしい話である。 しかし、山田禎三郎だろうと小笠原島民だろうと内田某だろうと、実在しない島に行けるはずなどない。 つまり、誰かがどこかでとんでもない大嘘をついていることになる。 さてこうなると、実際にはいったい何があったのか、さっぱりわからなくなってくる。 だいたい、三人の登場人物のうち、素性がはっきりしているのは山田禎三郎だけで、あとは正確な本名すらもわからないのである。 いったい真相はどこにあるのだろうか。 「発見」から100年近く経った今となっては、もはや、それを突き止めるのは不可能なのかもしれないが……。 平尾幸太郎、中ノ鳥島探検を語る ともかく、『大阪朝日新聞』の平尾談話をもう少し続けて見てゆくことにしよう。 平尾によれば、中ノ鳥島は時価5億円の価値を持つリン鉱石(グアノ)の宝庫なのだという。 34km 2〕、干潮時は約五倍になつて燐礦の面積は実に六十二パーセントである、之を有名なるラサ島に比べると彼は三十三万四千四百坪 〔約1. 1911年にはラサ島燐礦合資会社(現・ラサ工業株式会社)が設立され、この島のリン鉱石の採掘を始めている。 山田禎三郎報告によれば島の面積は64万3700坪だが、干潮時には面積が約5倍になるというから(ずいぶん遠浅な島である)、この程度は誤差の範囲なのだろう。 なお、先に引用した『報知新聞』の記事にも、中ノ鳥島は「干潮時二百万坪、満潮時七十万坪の面積を有する砂山」である、と書かれている。 もっとも、「砂山」が大洋の真ん中に長期間にわたって存在し続けられるはずはないが。 えらく具体的でもっともらしい話だが、志賀重昂によれば、平尾幸太郎に「カンヂス島は必ず存在の事実ありや及び如何してあれ丈精細に判り居るや」と尋ねたところ、「いや怎 [さ]うか判らんが何分事業が大仕掛だからあの様に云わんと鳥渡 [ちよつと]都合が悪い」と答えたそうであるから、実は全くもって当てにならない話なのである。 また、平尾は探検隊についても威勢良くこう語っている。 平尾氏は同島唯一の而 [しか]も風浪高き西湊を平尾湾と命名し、また前の探検者が遺した波切岩を自分の名の一部を取つて太郎岩と命じ島の平地を幸 [かう]ヶ原と命名した 平尾はまだ見ぬ島の地名に、勝手に自分の名前をつけているのである。 微笑ましいというべきか、いい気なもんだというべきか。 事の顛末を知っている立場よりすれば、ただ苦笑するほかないのであるが。 梅丸、中ノ鳥島で遭難?! ところで、中ノ鳥島の珊瑚礁で船が遭難しかけた、という妙な話がある。 1921 大正10 年10月20日、東洋汽船のサイベリヤ丸から同社横浜支店に入った無線連絡によれば、太平洋海運の貨物船・梅丸が、アメリカのポートランド港から小麦を積載して横浜に向け航行の途中、「東経一五四度北緯三一度の洋上にある無人珊瑚島」である「ガンジス島附近」で遭難し、附近を航行していたサイベリヤ丸に無線で救助を求めてきた。 このため、サイベリヤ丸は直ちに現場に向かった。 このことを報じた『讀賣新聞』の記事 (10月21日附「梅丸/太平洋上で遭難」)は、「電文が簡単な為め未だ判明しないが或は濃霧に出会して航路を誤り遂に珊瑚礁に坐したものではないかと想像せられて居る」と報じている。 どうやら、海図を見た誰かが、遭難位置附近にガンジス島が記入されているのを見つけて、座礁事故ではないか、と思ってしまったらしい。 しかし、結局、梅丸の事故は大したものではなかったらしく、途中で無線で救助を断ってきている (『東京朝日新聞』同日附「サイベリヤ丸帰航す/遭難梅丸救助に及ばず」)。 中ノ鳥島は消えず……? 中ノ鳥島()・()で説明したように、「中ノ鳥島」は1946年11月22日附の水路告示によって海図より削除されている。 が、それでこの島が全ての地図からすんなり消されたかというと、決してそういうわけではない。 それどころか、「中ノ鳥島」は一部の法令(例えば1951年の「」)にさえ生き残り続けているのである。 『高等新地図』(地勢社 1953)・pp. 86-87「生活の舞台-世界-十一 大洋州」より。 例えば、佐藤弘[監修]・地勢社編集部[著]『高等新地図』(地勢社)という高校用地図帳の、昭和29 1954 年度版(1953年6月発行)を見ると、「大洋州」の地図の中に堂々と中ノ鳥島が描かれている。 おそらく、当時、小笠原諸島がアメリカの占領下にあり(返還されたのは1968年)、情報が入りにくかったことなども影響しているのだろう。 なお、海外でも似たようなことが起きているようである。 The University of British Columbia Press, 1984 (未訳)という著書がある。 題名の通り、19~20世紀に公刊された海図に記載されていたまぼろしの島々についてのエピソードをまとめた本であるが、ガンジス島についてもその「まえがき」の中でしっかりと触れられている。 というより、著者がまぼろしの島々に興味を持ったきっかけというのが、このガンジス島なのである。 ストンメルは、あるときたまたま1936年版『オクスフォード高級地図帳』 Oxford Advanced Atlas を見ていて、この島の存在に気づいたという。 最初、彼はいかにも海洋学者らしく、黒潮の観測基地として使えそうだと考えた。 だが、新しい海図を見て、この島が実在しないことを知ったのである。 よく見てみると、同じ地図にはさらに、ロス=ジャルディン諸島やポデスタ島(チリの沖合いにあるとされた島)という、ありもしない島が描かれているではないか。 彼はこうして、こういう島々にがぜん興味を持ち出したのである。 ストンメルによれば、そもそもガンジス島は、北緯31度・東経154度附近に位置する島についての4つの報告と、暗礁についての2つの報告をもとにして地図に描かれることになったらしい。 特に上陸したといった報告などはなかったようである。 国際水路局 (International Hydrographic Bureau; IHB. 1921年設立。 本部モナコ)が作成した航海上の疑わしい危険のリストには、ガンジス島は1932年まで、「1911年に汽船ウィネバゴ号がガンジス島に当てられた地点を通過したが、その存在のいかなる徴候も観測されなかった」などという註記つきで載っていたが、その後消されたという。 (なお、ストンメルは日本での事情については特に何も触れていない。 ) ストンメルは、1982年11月、ボストン・ホテル・スタートラー・ヒルトンのルフトハンザ航空オフィスにあった飾りの地球儀の上に、「ガンジス島」の文字が書かれているのを見つけている。 どうやらこの地球儀のメーカーは、この島がとうの昔にその実在を否定されていることを知らなかったらしい。 彼はその後、同社のロンドンとニューヨークのオフィスでも同じものを見ており、「気がつくと私は、ルフトハンザ航空のエージェントに、東京経由でガンジス島への休暇旅行の日程を整えてくれるように依頼したい、という激しい衝動と戦っていた」と書いている。 その他あれこれ の常設展示の中の、「東京ゾーン」の「モダン東京」のコーナーの、「多摩地域と伊豆の島々」の展示の辺りにある「1932年(昭和7)頃の定期航路図(往路)と電力供給開始年」というパネルに、伊豆諸島・小笠原諸島とともに、堂々と「中の鳥島」が描き込まれている(筆者は2001年6月にこの展示を確認した)。 このパネルの図版自体は、同博物館刊行の図録『図表でみる江戸・東京の世界』(東京都江戸東京博物館 1998, 2000)p. 91にも収録されている。 が、この地図では「中の鳥島」が「北緯30度2分 東経153度」となっており、南鳥島より西側にあったかのように描かれている。 まあ、もともと実在しない島なのだから不正確もへったくれもない、と言われればそれまでだが……。 なお、緯度がほぼ同じである鳥島と誤認した可能性も考えられるのでは、という意見もいただいたが、これはあいにく南鳥島誤認説以上に無理がある。 確かに緯度より経度の方が計測ミスしやすいのだが、まず、鳥島の面積は4. 4km 2で、山田報告書が述べる島の面積の約2倍もある。 それに、特徴的な形をした火山島である鳥島は、1902年8月、島の形を大きく変えてしまうほどの大爆発を起こしており、このとき島民125名は全員死亡している。 だから、もし1907年頃にこの島を訪れた者があったとすれば、繁茂する植物や堆積したリン鉱石などではなく、わずか5年前の噴火の生々しい爪跡を目撃することになったはずである。 しかも、これだけの被害があったにもかかわらず、1903年には八丈島民が再入植をしており、従って1907年当時はこの島は有人島だったのである。 もっとも、19世紀に目撃された「ガンジス島」が、実は南鳥島や鳥島などの誤認だった、という可能性なら、ないわけでもないのだが……。

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沖ノ鳥島(おきノとりしま)とは

沖 ノ 鳥島

陥没説は成り立つか? 「確かに、山田禎三郎による中ノ鳥島の発見報告はなんだかどうも怪しいみたいだ。 でも、島が何らかの形で実在していて、その後何らかの原因で消えてしまった、って可能性は否定しきれないんじゃないの?」 ここまで読み進めて、こんな風に思われた方もおられるかもしれない。 確かに、中ノ鳥島が実在した可能性については、実のところこれまであまり詳しい追求は行っていない。 それでは、このあたりで改めて本格的に検討してみることにしよう。 まず、中ノ鳥島附近の海底地形をきちんと確認するところから始めよう。 中ノ鳥島(ガンジス島)は海図上では北緯30度47分・東経154度15分、附近のガンジス礁は北緯31度5分・東経154度16分となっている。 また、山田禎三郎は島の位置を北緯30度5分・東経154度2分と報告している。 この辺りの海底は、プレート・テクトニクス上は太平洋プレートに属し、長期的には西側の日本海溝や伊豆・小笠原海溝に向かって徐々に沈みつつ動いてゆくことになる。 だが、これは数万~数億年単位での話である。 むしろ短期的には大規模な地殻変動は起こりにくいと考えられているし、実際にも地震や火山活動などは少ない。 火山活動が激しく、明神礁や福徳岡ノ場のような出没火山島もある伊豆諸島や火山列島近辺などとは条件が大きく異なるのである。 が、そのことはひとまず置いて話を進めることにしよう。 海上保安庁水路部発行の海底地形図(海図番号6304「日本近海海底地形図 第4」、1968。 1966年までの諸資料により編集)を確認してみると、この辺り一帯には実に水深5500~6000mに達する深い海が一面に広がっていることがわかる。 実は、この海域は「北西太平洋海盆」と呼ばれる巨大な深海平原の一部なのである。 これでははっきりいって、島の存在がどうのこうのいう以前の話だ。 もっとも、それではこの辺りの海岸はすっかりまっ平なのか、というとそういうわけでもなく、あちこちに海山が分布している。 そして、「中ノ鳥島」からそれほど離れていない場所にも、比較的大きな海山がひとつ存在しているのである。 (GEneral Bathymetric Chart of the Oceans; 大洋水深総図。 国際水路機関とユネスコ政府間海洋学委員会が共同して作成している、世界で最も権威ある海底地形図シリーズ)のサイトで公開されている、海底地形の名称に関する資料(「」)によれば、正確な位置は北緯29度25分・東経153度30分。 「Makarov Seamounts」という名前がつけられている。 となると、もしかしたらこのマカロフ海山こそがかつての中ノ鳥島の痕跡ではないか、などと想像したくなってくる。 20世紀のはじめ頃まではこの海山は水面に顔を出していたが、その後何らかの原因で沈降したのではないか、というわけだ。 位置も、まあ誤差の範囲と言って通る程度には近い(といっても100km前後は離れている計算になるが)。 「日本近海海底地形図」によれば、この海山の頂上附近の水深は1415m。 周囲の水深は5500m以上だから、実に4000m以上もの高さでそびえ立っていることになるが、それでもあまりに深すぎる。 仮に中ノ鳥島が標高数m程度の平坦な島だったとしても、実に1400m以上の沈降が起きたとしなければならなくなってしまう。 この深さでは、波によって島が浸蝕されて消滅した、という可能性はまずありえない。 波による浸蝕作用は海面ギリギリのところ、深くてもせいぜい海面下数10m程度までしか及ばないからだ。 同様の理由で、爆破など人為的な破壊行為によって消滅した、という線も駄目である。 地震の断層運動による陥没、という可能性にも無理がある。 一回の地震で断層がずれる規模には一定の限度があって、どんなに規模の大きい地震でも数m~10数m程度しか動かないのである。 少なくとも、それを超える確実な例は確認されていない(かつて関東大震災の際に、相模灘で100mに及ぶ上下動があったと報告されたことがあるが、今日では測定ミスと考えられている)。 それに、海底がそれだけ動けば、確実に津波が起きるはずである。 そしてその津波は当然、日本列島や小笠原諸島で観測されることになると思われる。 噴火などの火山活動による陥没ならどうか。 これなら、確かに1000m以上の大陥没を引き起こすことは不可能ではない。 だが、それだけの規模での陥没が一度に起これば、当然、大津波も一緒に起きてしまう。 その他にも、何らかの原因でとてつもない規模の土砂崩れが引き起こされたとか、いろいろな想像をすることは出来るが、いずれにせよ津波を引き起こさずに済ませるのはまず無理であろう。 要するに、一度に1000m以上の沈下というのは不可能ではないが、それが誰にも気付かれずに終わる、というのはまず無理と思われる。 それならば、地震や津波を引き起こさない程度の速度で、長い時間をかけて徐々に沈んだ、と考えればどうだろうか。 この場合、数年~数十年程度の時間で1000m以上の沈降が起きた、ということになる。 もし仮に1000m沈むのに10年かかったとすると、沈降速度は1年あたり100m、1日あたり約27cmである。 しかし、確かに断層が地震を起こさない程度にゆっくり動くことはあるが、その場合の速度は、速くてもせいぜい1年間に数cm~数10cm程度なのである。 従って、地学的に見て未知の異常な地殻変動が起こったとでもしない限り、このような沈降はまず考えられない。 ただ、火山活動の結果、海山の山体がゆっくり崩壊していった、という可能性なら、どうも全くありえないというわけでもなさそうだ。 といっても、この島が火山島だったとする根拠は特に何もない。 むしろ、山田禎三郎の報告や新聞報道などを見る限りでは(もちろん、いずれも全く信用できないのだが)、隆起珊瑚礁だと考えたほうが妥当そうなのである。 従って、結論として我々はこう考えざるを得ない。 現在の人類の科学では説明のつけようのない、恐るべき異常事態が起きたのだ。 そう、この海域には未だ人類の叡智の及ばない、得体の知れない不気味な「何か」が潜んでいるのである! ……冗談はさておき、残念ながら、この海域には島らしきものなど最初から存在しなかった、と考えるのが妥当そうである。 夢の無い結論で申し訳ないが、いたしかたあるまい。 もちろん、とてつもなく巨大な浮き島だったとか、実は島ではなくて謎の超巨大生物の背中だったとか、実は某国が密かに建造していた謎の秘密基地だったとか、実は謎の宇宙人の乗り物だったとか、そういうことも全く考えられなくはない、のではあるが……。 「内田某」と「発見」経緯の謎 「」で述べた1913-14年の中ノ鳥島(ガンジス島)探検隊の派遣に関して、1913年10月29日附『大阪朝日新聞』に、「中鳥島探検隊」と題する、派遣主である平尾幸太郎の談話記事が掲載されている。 これがまた、大変に興味深いというか、すこぶる奇妙な内容なのである。 まず平尾によれば、中ノ鳥島の「発見」の経緯は以下の通りである。 日本人が初めて此島を知つたのは去 [さる]明治四十一年 〔1908年〕のことで同島に漂着した小笠原島民が発見して其筋に届出でた、以来東京府小笠原島中鳥島 [なかのとりしま]と命名されて 明かに日本帝国の領土となつた、其際発見者は同島の燐礦を知つて四五人の同志を語つて組合を作り官憲に試掘願を差出した、その時の金主は東京の内田某で、前長野県代議士山田禎三郎氏なども関係した、然るに内田は探検費約一万二千円を投じて自ら踏査もした結果途法もない大金儲けが出来ると睨んで今更組合員が邪魔になり己れ一人で経営しやうと巧に説き伏せて各組合員の権利を四千円で買ひ取つて、さうして事業を進めやうとする中に或る事件で入監の身になつたので何うする事も出来ない、試掘願は二年の期限が二回まで切れて了つて現に入獄中の内田は空しくその権利を捨てヽ了ふことヽなつた 〔略〕 私 〔平尾〕は或る手蔓を以てその試掘願の期限が切れたのを知つた、さうして直に試掘願を東京鉱山局に差出し去る十月三日に許可を受けた、 〔後略〕 ([……]内は原文のルビ、〔……〕内は引用者註。 以下同じ) 『報知新聞』10月29日附夕刊の「探検隊の向ふ無人島は十億万円の燐礦を有す」という記事も、ほぼ同じ趣旨のことを報じている。 ニュースソースがおそらく同じであると思われるにもかかわらず、内容に微妙な食い違いがあるが、以下に引用しておく。 英国の海図には千八百年頃より記入ありしが吾国にては去る明治四十年 〔1907〕の春小笠原島の土民が漂白して偶然発見したるに初まり本年六月海軍水路部の海図に記入されたるものなり、同島が発見せられし当時 東京の 資本家内田某が小笠原、東京等の同志五名を語らひ匿名組合を設けて四十一年農商務省より燐礦採掘の許可を得某は一万五千円の費用を投じて単身探検に赴き予期以上の大宝庫たるを発見して帰りたるが某は此宝庫を他人と共に開拓するを好まず単独之を経営して巨利を得んとの野心を起し帰来同島を何等価値なきものゝ如くに言ひ触らして採掘権を自己一人のものとなし密かに開拓準備に着手しゐたり、然るに其後間もなく某は或事件に関係して東京監獄に収監され為めに其目的を達する能はず空しく権利を握りたる儘となりゐたるが該権利は本年七月満了し而も某は尚獄中に在るを以て 平尾氏より 改めて 採掘を 出願即ち十月十三日附を以て之が採掘を許可されたるなり ここでは山田禎三郎のほか、第一発見者とされる正体不明の「小笠原島民」、それにもう一人、中ノ鳥島に行ったことがあるという「内田某」なる謎の人物が登場する。 「その3」で引用した志賀重昂の談話にある「現に詐欺取材犯で長崎監獄に居る」「曽てカンヂス島に行きし事あると自称する男」は、経緯からするとどうもこの内田某のようである。 これらの記事だけでも、山田禎三郎の一見もっともらしい「発見報告」の裏で、非常に奇っ怪な事態が進行していたらしいことがわかる。 この記事を信じる限り、この「発見」劇の主役のはずの山田は実は脇役にすぎず、真の主役はこの内田某らしいのだ。 仮に、この内田某の探検が事実だとしても、かなりいかがわしい話である。 しかし、山田禎三郎だろうと小笠原島民だろうと内田某だろうと、実在しない島に行けるはずなどない。 つまり、誰かがどこかでとんでもない大嘘をついていることになる。 さてこうなると、実際にはいったい何があったのか、さっぱりわからなくなってくる。 だいたい、三人の登場人物のうち、素性がはっきりしているのは山田禎三郎だけで、あとは正確な本名すらもわからないのである。 いったい真相はどこにあるのだろうか。 「発見」から100年近く経った今となっては、もはや、それを突き止めるのは不可能なのかもしれないが……。 平尾幸太郎、中ノ鳥島探検を語る ともかく、『大阪朝日新聞』の平尾談話をもう少し続けて見てゆくことにしよう。 平尾によれば、中ノ鳥島は時価5億円の価値を持つリン鉱石(グアノ)の宝庫なのだという。 34km 2〕、干潮時は約五倍になつて燐礦の面積は実に六十二パーセントである、之を有名なるラサ島に比べると彼は三十三万四千四百坪 〔約1. 1911年にはラサ島燐礦合資会社(現・ラサ工業株式会社)が設立され、この島のリン鉱石の採掘を始めている。 山田禎三郎報告によれば島の面積は64万3700坪だが、干潮時には面積が約5倍になるというから(ずいぶん遠浅な島である)、この程度は誤差の範囲なのだろう。 なお、先に引用した『報知新聞』の記事にも、中ノ鳥島は「干潮時二百万坪、満潮時七十万坪の面積を有する砂山」である、と書かれている。 もっとも、「砂山」が大洋の真ん中に長期間にわたって存在し続けられるはずはないが。 えらく具体的でもっともらしい話だが、志賀重昂によれば、平尾幸太郎に「カンヂス島は必ず存在の事実ありや及び如何してあれ丈精細に判り居るや」と尋ねたところ、「いや怎 [さ]うか判らんが何分事業が大仕掛だからあの様に云わんと鳥渡 [ちよつと]都合が悪い」と答えたそうであるから、実は全くもって当てにならない話なのである。 また、平尾は探検隊についても威勢良くこう語っている。 平尾氏は同島唯一の而 [しか]も風浪高き西湊を平尾湾と命名し、また前の探検者が遺した波切岩を自分の名の一部を取つて太郎岩と命じ島の平地を幸 [かう]ヶ原と命名した 平尾はまだ見ぬ島の地名に、勝手に自分の名前をつけているのである。 微笑ましいというべきか、いい気なもんだというべきか。 事の顛末を知っている立場よりすれば、ただ苦笑するほかないのであるが。 梅丸、中ノ鳥島で遭難?! ところで、中ノ鳥島の珊瑚礁で船が遭難しかけた、という妙な話がある。 1921 大正10 年10月20日、東洋汽船のサイベリヤ丸から同社横浜支店に入った無線連絡によれば、太平洋海運の貨物船・梅丸が、アメリカのポートランド港から小麦を積載して横浜に向け航行の途中、「東経一五四度北緯三一度の洋上にある無人珊瑚島」である「ガンジス島附近」で遭難し、附近を航行していたサイベリヤ丸に無線で救助を求めてきた。 このため、サイベリヤ丸は直ちに現場に向かった。 このことを報じた『讀賣新聞』の記事 (10月21日附「梅丸/太平洋上で遭難」)は、「電文が簡単な為め未だ判明しないが或は濃霧に出会して航路を誤り遂に珊瑚礁に坐したものではないかと想像せられて居る」と報じている。 どうやら、海図を見た誰かが、遭難位置附近にガンジス島が記入されているのを見つけて、座礁事故ではないか、と思ってしまったらしい。 しかし、結局、梅丸の事故は大したものではなかったらしく、途中で無線で救助を断ってきている (『東京朝日新聞』同日附「サイベリヤ丸帰航す/遭難梅丸救助に及ばず」)。 中ノ鳥島は消えず……? 中ノ鳥島()・()で説明したように、「中ノ鳥島」は1946年11月22日附の水路告示によって海図より削除されている。 が、それでこの島が全ての地図からすんなり消されたかというと、決してそういうわけではない。 それどころか、「中ノ鳥島」は一部の法令(例えば1951年の「」)にさえ生き残り続けているのである。 『高等新地図』(地勢社 1953)・pp. 86-87「生活の舞台-世界-十一 大洋州」より。 例えば、佐藤弘[監修]・地勢社編集部[著]『高等新地図』(地勢社)という高校用地図帳の、昭和29 1954 年度版(1953年6月発行)を見ると、「大洋州」の地図の中に堂々と中ノ鳥島が描かれている。 おそらく、当時、小笠原諸島がアメリカの占領下にあり(返還されたのは1968年)、情報が入りにくかったことなども影響しているのだろう。 なお、海外でも似たようなことが起きているようである。 The University of British Columbia Press, 1984 (未訳)という著書がある。 題名の通り、19~20世紀に公刊された海図に記載されていたまぼろしの島々についてのエピソードをまとめた本であるが、ガンジス島についてもその「まえがき」の中でしっかりと触れられている。 というより、著者がまぼろしの島々に興味を持ったきっかけというのが、このガンジス島なのである。 ストンメルは、あるときたまたま1936年版『オクスフォード高級地図帳』 Oxford Advanced Atlas を見ていて、この島の存在に気づいたという。 最初、彼はいかにも海洋学者らしく、黒潮の観測基地として使えそうだと考えた。 だが、新しい海図を見て、この島が実在しないことを知ったのである。 よく見てみると、同じ地図にはさらに、ロス=ジャルディン諸島やポデスタ島(チリの沖合いにあるとされた島)という、ありもしない島が描かれているではないか。 彼はこうして、こういう島々にがぜん興味を持ち出したのである。 ストンメルによれば、そもそもガンジス島は、北緯31度・東経154度附近に位置する島についての4つの報告と、暗礁についての2つの報告をもとにして地図に描かれることになったらしい。 特に上陸したといった報告などはなかったようである。 国際水路局 (International Hydrographic Bureau; IHB. 1921年設立。 本部モナコ)が作成した航海上の疑わしい危険のリストには、ガンジス島は1932年まで、「1911年に汽船ウィネバゴ号がガンジス島に当てられた地点を通過したが、その存在のいかなる徴候も観測されなかった」などという註記つきで載っていたが、その後消されたという。 (なお、ストンメルは日本での事情については特に何も触れていない。 ) ストンメルは、1982年11月、ボストン・ホテル・スタートラー・ヒルトンのルフトハンザ航空オフィスにあった飾りの地球儀の上に、「ガンジス島」の文字が書かれているのを見つけている。 どうやらこの地球儀のメーカーは、この島がとうの昔にその実在を否定されていることを知らなかったらしい。 彼はその後、同社のロンドンとニューヨークのオフィスでも同じものを見ており、「気がつくと私は、ルフトハンザ航空のエージェントに、東京経由でガンジス島への休暇旅行の日程を整えてくれるように依頼したい、という激しい衝動と戦っていた」と書いている。 その他あれこれ の常設展示の中の、「東京ゾーン」の「モダン東京」のコーナーの、「多摩地域と伊豆の島々」の展示の辺りにある「1932年(昭和7)頃の定期航路図(往路)と電力供給開始年」というパネルに、伊豆諸島・小笠原諸島とともに、堂々と「中の鳥島」が描き込まれている(筆者は2001年6月にこの展示を確認した)。 このパネルの図版自体は、同博物館刊行の図録『図表でみる江戸・東京の世界』(東京都江戸東京博物館 1998, 2000)p. 91にも収録されている。 が、この地図では「中の鳥島」が「北緯30度2分 東経153度」となっており、南鳥島より西側にあったかのように描かれている。 まあ、もともと実在しない島なのだから不正確もへったくれもない、と言われればそれまでだが……。 なお、緯度がほぼ同じである鳥島と誤認した可能性も考えられるのでは、という意見もいただいたが、これはあいにく南鳥島誤認説以上に無理がある。 確かに緯度より経度の方が計測ミスしやすいのだが、まず、鳥島の面積は4. 4km 2で、山田報告書が述べる島の面積の約2倍もある。 それに、特徴的な形をした火山島である鳥島は、1902年8月、島の形を大きく変えてしまうほどの大爆発を起こしており、このとき島民125名は全員死亡している。 だから、もし1907年頃にこの島を訪れた者があったとすれば、繁茂する植物や堆積したリン鉱石などではなく、わずか5年前の噴火の生々しい爪跡を目撃することになったはずである。 しかも、これだけの被害があったにもかかわらず、1903年には八丈島民が再入植をしており、従って1907年当時はこの島は有人島だったのである。 もっとも、19世紀に目撃された「ガンジス島」が、実は南鳥島や鳥島などの誤認だった、という可能性なら、ないわけでもないのだが……。

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