この項目では、既存政党と無所属議員の統一会派や各地地方議会議員の会派名について説明しています。 2017年 - 2019年に存在した衆議院会派については「」を、1999年 - 2004年に存在した国政政党・会派については「」をご覧ください。 無所属の会(むしょぞくのかい)は、日本のやにおいて特定のに所属しない議員が質問時間の確保等を目的として結成する名の全部または一部に使用される用語。 国会では主として保守派・中道右派の議員の会派に好まれる傾向がある。 とくに国会は一人会派を結成できないため無所属議員が政党所属議員とともに結成する場合が多い。 同様に使用される用語として「」、「無所属会」、「」が存在する。 参議院ウェブサイトなどでは英文表記として "Group of Independents"が用いられている。 の地方議会など、海外の議会でも無所属議員による院内交渉団体あるいは政策グループにGroup of Independentsや、Independents Groupという名称を冠する場合があるが、使用例は概して多くない。 国会 [ ] 衆議院 [ ] 2020年2月19日現在、衆議院には「無所属の会」を会派名の一部に冠している会派として「 自由民主党・無所属の会」と「 日本維新の会・無所属の会」がある。 前者は、2019年7月2日に無所属のと院内会派「」から自民党に入党したが自民党会派に入会した際に、「自由民主党・無所属の会」へと会派名を変更したものである。 後者は、2020年2月19日に無所属のが日本維新の会会派に入会した際に、「日本維新の会・無所属の会」へと会派名を変更したものである。 参議院 [ ] 2019年11月12日現在、参議院には「無所属の会」を称した会派はない。 過去に「無所属の会」を称した会派 [ ] 1999年 - 2004年に存在した国政政党・会派については「 」を参照。 衆議院 [ ] 2005年のの後、及びが無所属のを加えた会派「 国民新党・日本・無所属の会」を結成した 2005. その後統一会派のパートナーの変更等に伴い「 国民新党・無所属の会」 2006. 16 「 国民新党・・無所属の会」 2008. 19 と変遷した。 7月に野呂田が任期満了により衆議院議員を引退し、9月には新党大地が民主会派に移り会派名を「国民新党」とした。 2010年4月23日に「改革クラブ」は「」に名称を変更し、それと共に自民党との統一会派「自由民主党・改革クラブ」を解消した。 この際に改革クラブから離党して無所属となったは、自民党と「 自由民主党・無所属の会」を結成した。 2011年12月には会派「」が解散して合流したため、・も加わった。 2012年5月には、城内は自民党に復党した。 2012年12月の以降は中村・小泉は会派に属さず、会派名を「自由民主党」とした。 2012年6月には、民主党を離党した無所属のが国民新党の会派に入りしたが、この際の名称には「無所属の会」は含まれず「 国民新党・無所属会」であった。 同年10月1日に平山が国民新党入りし会派名を「国民新党」へと変更した。 2012年7月-11月にかけて、民主党を離党したらによる院内会派「 」が存在した。 2015年1月、無所属のが参議院の「 新党改革・無所属の会」 後述 に参加したが、衆議院では所属議員が1人のためみなし会派扱いであった。 野間は12月に「・・」に参加したため同会派を退会した。 9月26日からは無所属の・とが衆議院内で「 自由民主党・無所属の会」を組んだ。 10月25日には旧・代表だった議員が自由民主党・無所属の会に入会した。 の直前に松本・鈴木は自民党に入党し当選、また、自民党に入党はしたものの、公認調整がつかず、自民党からの公認を得られなかった浅尾は落選した。 2017年10月のの後、同選挙でからやへ移籍せず、民進党の党籍を残したまま無所属で立候補・当選した議員 により、元民進党代表のを代表として同年10月26日に「 」が結成された。 2019年1月には、同会派の多数は立憲民主党の衆議院会派(立憲民主党・無所属フォーラム)に入会した上で、会派内グループ「 」を結成した。 また、同会派の残存議員と新規加入の議員は、会派名称を変更して「 」を結成した。 詳細は「」を参照 参議院 [ ] 2006年6月、国民新党及び新党日本が自民党を離党した無所属のと統一会派「 国民新党・新党日本・無所属の会」を結成、同年7月に後藤が国民新党に入党し、9月に「国民新党・新党日本の会」に改称した。 2007年8月-2008年9月の間、自民党が前月に新党日本を離党し、無所属となっていたと統一会派「 自由民主党・無所属の会」を組んでいた。 荒井はその後会派を離脱しに参加。 2011年9月に、自民党が無所属のと参議院内で統一会派「 自由民主党・無所属の会」を組み、2012年1月-12月の期間においては「 自由民主党・たちあがれ日本・無所属の会」となり、その後は「自由民主党・無所属の会」としていたが、5月の大江の議員辞職後は会派名を「自由民主党」に戻している。 7月にの参議院会派に無所属の、の2議員が参加し、会派名を「 新党改革・無所属の会」として活動していた(浜田は2014年11月にに入党)。 2016年のでのの落選と平野の自民党入党に伴い会派を解散した。 地方議会 [ ] 無所属で当選した1名以上の議員が便宜上の会派名として使用することが多い。 前者の例としての「無所属の会」などが、後者の例としてにおける「民主党・無所属の会」などがあげられる。 出典 [ ]• 衆議院公式サイト 2019年11月13日閲覧• 産経新聞. 2019年7月2日. 2019年11月13日閲覧。 日本経済新聞. 2020年2月19日. 2020年3月9日閲覧。 参議院公式サイト 2019年11月13日閲覧• 所属議員は、、、、、、、、、、、、の13名。 (敬称略)• 2017年10月25日. 2017年10月26日閲覧。 2017年10月26日. 2017年10月26日閲覧。 関連項目 [ ]• この項目は、に関連した です。
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次の親の病気は自分のせい・・・?相反する親への気持ちも ここ数年、精神医療や福祉の現場で、精神疾患の親を持つ子どもの存在に、少しずつ光が当たるようになってきました。 そこで明らかになってきたのは、当事者が抱える壮絶な生活の実態と生きづらさです。 「私の母はうつ病です。 産んでくれたときに発症し、何度も再発を繰り返しています。 母は病気を抱えながらも育児をできる範囲でしてくれていたそうです。 ですが、私の記憶にあるのは、怒りながら殴ってくるお母さん、泣きながら壁に頭を打ち付けているお母さん、睡眠薬を大量に飲んで病院に運ばれていったお母さん…そんな記憶ばかりです。 」(たゆさん・20代) カキコミをくれたたゆさん。 幼い頃は誰も病気のことを教えてくれず、母親の体調が悪いのは、自分のせいではないかと悩んでいました。 「私がもっと学校の勉強頑張っていれば違ったんじゃないかとか。 家のこと一生懸命私がやっていれば、お母さん元気だったかなとか、そんな風に思っていましたね。 自分がつらいというよりも、お母さんの心配ばっかりしていました。 本当はもっとギュッとしてほしかったし、もっと甘えたかった。 でも母が寝込んでいたり、薬を大量に飲んだりしている姿を見ると、甘えられなかった。 心配かけちゃいけないというのがあったので。 」(たゆさん) しかし、思春期になると母親に対する気持ちが不満や葛藤へと変わっていきました。 友達を家に呼べなかったり、母親の代わりに父や祖父母が迎えに来たり、なぜ「自分の家は普通じゃないのか」と思うようになりました。 母親の気を引くため、わざと勉強せずに成績を落としたり、自分の体の見える場所を傷つけたりすることもありました。 いつも母親の顔色をうかがいながら生きてきた、たゆさん。 大人になるにつれて生きづらさを感じるようになっていきました。 特に「自分の気持ち」「自分の意見」を人へ伝えることがとても苦手です。 本当の自分の気持ちを伝えたら嫌われてしまうのではないか、と不安になるのです。 たゆさんは「母に嫌われたらどうしようというのが根底にあるのかもしれない」と考えています。 「母のことが大好きで心配でしかたないっていう気持ちと、なんでこんなお母さんのところに生まれてきちゃったんだろうという気持ちと2つあって、それが苦しいんですよね。 」(たゆさん) 子どもからのSOSは困難 周りが気付くことが必要 たゆさんの「なぜうちは普通じゃないのか」という思いに非常に共感できるというのは、幼い頃に母親が統合失調症を発症した経験を持つ、精神科医の夏苅郁子さんです。 当時、自分は母親が病気だと認識することができず、放とうを繰り返す父親への当てつけだと思っていたと言います。 そして周りの人を頼ることもできなかったと、夏苅さんは自身の経験を振り返ります。 「親戚は見て見ぬふりと言うか、体の病気だったらいろんなことを介入してくれたんでしょうけど。 家のドロドロしたことで家の恥というのかな。 私も見せられなかったし、親戚もその夫婦のドロドロしたことということで、誰も入ってくれなかったですね。 」(夏苅さん) 夏苅さんは5年前に自身の経験を公表。 現在各地で講演などを行っています。 公表直後、マスコミから取材を受けた際に、「なぜ助けを求めなかったのか」と問われ、「どこに助けを求めれば良かったのか」と逆に質問したと言います。 「私にはこの家しかないわけです。 逃げていくところもなくて。 助けてと言っても自分の家にいるしかないし、自分の親のことを悪く言うことはできません。 それと、私をすごく大事にしてくれた親戚や大切な人たちが、あなたの人生のためにお母さんのことは公にしないほうがいいと善意の助言をしてくれたんです。 それもすごく苦しかった。 」(夏苅さん) 評論家の荻上チキさんは、「どんな問題でも、子どもは自分自身で社会にSOSを出せないもの。 だからこそ、身近な大人や地域がそれに気付くことが大切」と指摘します。 「(子どもが)誰かに話したいと思っても、親戚や家族からは出さないでくれと。 あるいは病気に関する知識が子ども自身もなかったりするので、SOSを出したらお母さんと離れ離れになっちゃうのではないかとか、母を否定するような感じになっちゃう、あるいはそれは言ってはいけないことなんだと思ってしまう、ということがあります。 社会の偏見、リソースのなさ、あるいは知識が伝わってない、いろんなことでSOSにつながりにくい。 これは改善していかなくてはいけないと思います。 「うまく感情表現ができない。 必要以上に我慢してしまう。 常に不安感がつきまとう。 過度に自分を責める、健全な家庭で育ってきた人たちとは圧倒的に何かが違う、絶望感に苛まれることもあります。 」(みーちゃん・三重県・20代) 夏苅さんが母親の病気に気付いたのは、医学部の学生だったとき。 それまでは誰からもきちんと伝えられず、大学の講義で統合失調症の症状を聞いたときに、母親の症状に似ていると感じたのがきっかけでした。 そのとき、なんとなく「悪い病気なんだ」という印象を持ってしまい、父親にも言えず、自身で抱え込んでしまったと言います。 大人になってからも生きることへの不安を拭えず、アルコールや宗教への依存、摂食障害・自殺未遂も経験したという夏苅さん。 たとえ誰かに相談しても、まともな家庭で育っていない自分は嫌われるだろうと思い込み、人との関係を断っていました。 「子ども時代のほうが大変だろうと思う方がいると思うんですけど、大人になって自分が自由に動けるようになってからのほうが、私は精神的には苦しかったです。 私は努力して勉強して医師になった。 だけど医師になっても自分のよって立つところが全然見えない。 いつもいつも不安で、根を張れない感じがしました。 」(夏苅さん) 思いを吐き出して きちんと伝えることも大事 子どもたちの苦しみを少しでも減らすために社会はどう向き合えばいいのでしょうか。 そのヒントになる活動をしている人たちがいます。 「この中で使えそうな言葉を選んだり、切り取って使ってもらったりして、その子が少しでも安心して生活が送れるための手助けの1つとして、必要なことを伝えられる範囲で伝えてほしいです。 」(細尾さん) 統合失調症の母親との関係に苦しんだ夏苅さんは、この絵本を読んで、2歳から5歳のときまで自分を我が子のように育ててくれた親戚の伯母さんのことを思い出したそうです。 専門家や支援者でもないごく普通の主婦だった伯母さんの関わりが、当時の自分にとっては大きな支えとなっていたと振り返ります。 こんなカキコミも寄せられました。 「母が双極性障害と診断されたのは私が10歳の頃でした。 母が自殺未遂をした翌日も何事もなかったかのように学校に行き、元気に優等生を演じて必死に生きていました。 ある日、担任に声をかけられました。 『大丈夫?何かあったの?』初めて家族の秘密を打ち明けました。 声をかけてくれた先生のおかげで、今、私は生きています。 」(かたつむりさん・20代) 荻上さんは、この問題に限らず、社会全体が家族というシステムに頼りすぎているため、問題を抱えた家族や子どもに対して支援の手が入りにくい体制になっていると指摘。 「例えば、子ども食堂だったり、学童保育だったり、あるいは地域のボランティアだったりにつなげて、そこで子どもたちが少しだけ荷物を下ろせる。 そうした場所を地域に増やしていくことと、そして病気に対する偏見をなくしていくこと。 その2つを同時にしていかなくてはいけない。 」(萩上さん) また、夏苅さんは、周囲の大人が子どもに親の病気のことを話す際には、できること、できないことをきちんと伝えてほしいと訴えます。 そして気休めに「軽い病気」や「すぐ直る」といったことは言わず、「長くかかるかもしれないけど、いろんな手だてはあるから一緒に頑張ろう」と、覚悟を持って明るく伝えてほしいと話します。 情報は放送時点でのものです。 あわせて読みたい.
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