太平 シロー 死因。 “天才”大平シローさん 晩年はお店でたこ焼きを焼いていた

“天才”大平シローさん 晩年はお店でたこ焼きを焼いていた

太平 シロー 死因

1980年代のMANZAIブームで一世を風靡した漫才コンビ「太平サブロー・シロー」の大平シローさんが、難治性心室細動で急死した。 西川きよしやデーモン小暮らの独創的なものまねを得意にしていた。 あの島田紳助が漫才を諦めて紳竜コンビを解散したのは、サブロー・シローとダウンタウンにはかなわないからだと言われている。 「確かにシローさんは天才でした」と語るのは、お笑いに詳しい関西在住のコラムニスト・吉村智樹氏。 「台本もなくネタ合わせもしない。 出番当日、相方のサブローさんに『オレが酔っ払いになるから、絡まれる役をやって』と言うだけ。 なのに本番ではテンポのいいやり取りで大爆笑。 でもコレ、相手がサブローさんだからできたこと。 92年のコンビ解散後、若手とコンビを組んだり、『大平シローと懲りない面々』というものまねコント集団をうめだ花月シアターでやっていたんですが、シローの厳しい指導のプレッシャーにノイローゼに追い込まれ、入院した芸人もいました」 天才ゆえにプライドも高かった。 88年、吉本興業から独立して東京に進出したのも、明石家さんまや島田紳助の成功に刺激されたからだという。 「シローは子役からドラマや映画に多数出演し、もともとは役者志望。 芸人というより芸能人という意識が強い。 だから気取った東京弁をしゃべっていた。 芸人たちからは失笑を買っていたけど」(ベテラン芸能記者) プライドの高い天才は奇行も多かった。 東京進出当初、「おれのマンションにはカッパがいる」と騒いだり(壁にカッパのようなシミが浮き出た)、シンガポール・ロケのため、羽田から成田までリムジンバスで移動したら、「ヘリを出せ! 「こういった奇行を東京行きに誘われた元吉本のマネジャーが暴露した。 92年には参院選にミニ政党から突発的に出馬し、落選している。 結局、東京進出はうまくいかず、まずサブローが吉本興業に謝って復帰。 シローも99年に復帰した。 しかし、仕事はジリ貧となり、ここ数年はタレント活動はなく、焼酎バーやたこ焼き店の経営で収入を得ていた。 絶縁状態と伝えられたサブローは、訃報を受けた取材に対し、4年前、大阪・心斎橋の小料理店で会い、その後、道頓堀まで歩いた時、シローから「もういっぺんサブロー・シローっていうの、どうなんや?」と振られたことを語った。 「シロー君、申し訳ないけど、僕の中ではそれはないねん」と断ったら、寂しそうな顔をしたという。 享年55。

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石野桜子

太平 シロー 死因

大平シロー(漫才コンビ名は、太平シロー)が予想外の若さ、55歳で逝った。 奇しくも、サブローが芸歴36周年のイベントを続けている時だった。 シローの芸を一言でいうと「漫才センスの新しさ」であり、掛け合いのテンポだけではなく、ものまねも独創的だった。 世間が知らないスタッフ、テレビ局の有川(寛)プロデューサーの癖を拾い上げ、漫画的なおかしさに創り上げた。 似ているかどうかではなく、仕草のとぼけぶりで笑わせるのだ。 楽屋で大ブームになったほどで、「ものまね芸の価値転換」をやり遂げた。 さらに芸人のものまねでも、いとし・こいしの漫才は端正で特徴がないと思われていたのに、こいしのしゃがれた低い声に着目。 それを大げさに誇張して爆笑をとった。 おかしいものをかぎとる嗅覚がずば抜けていた。 子供の頃は俳優志望で児童劇団に入り、中学ではモデルもしていた。 その後、松竹芸能タレント養成所に入り、そこで運命の人サブローと出会う。 敬愛していたレツゴー三匹に弟子入りし、1976年、松竹芸能の漫才師としてデビュー。 根っからの天才肌で、ネタをつくり掛け合いの息にもこだわる。 いきおい、相方への指導も厳しくなり、サブローは耐えきれず失踪。 ラーメン店で働く。 シローは仕方なく、新コンビを組むがうまくいかず、3年後ラーメン店に足を運び、コンビ復活を懇願。 わだかまりを捨て再スタートし、それを機に吉本へ移籍。 丁度その頃、漫才ブームの真っ最中で、「ザ・MANZAI」出演がきっかけで人気沸騰。 ぎりぎり漫才ブームに間に合い、最後の一角にすべりこんだ。 この頃まで、漫才はもちろん何であれシローがリードして、周囲に気配りしていた。 サブローは喜んで従った。 88年、東京の仕事が増えない不満から独立し、東京へ進出。 慰留をけって飛び出したのはいいが、半年後には仕事がなくなる。 92年、意見の食い違いからコンビを解散し、シローは参議院選挙に出馬して落選。 1年後、サブローは吉本の先輩の助力もあり、会社にわびて復帰した。 サブローは苦労を経験して、周囲とうまく合わせる大切さや、その時々の空気を読む大事さに気付いた。 そこから今の気づかいができ、任せて安心な調整役的キャラに生まれ変わった。 一方、シローは不運の連続。 でも子役あがりの人特有のプライドを捨て切れず、自信ある芸を分かってくれない世間に落胆した。 選挙の落選もこの気持ちを強めた。 年月が過ぎ、99年、シローも吉本に復帰。 放送作家として活動しながら、居酒屋やバーを経営して、順調な日々を送っていた。 漫才絶頂の頃、シローが流行らせたギャグ「好きくない」。 自分の才能の一端しか出せなかった漫才人生に向けて、ある満足感をもって愛嬌たっぷりに「好きくない」と言っているかもしれない。 ご冥福を祈る。 (演芸評論家・今村荘三).

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SMAP事変を見ていて、太平サブローシローが吉本の圧力で干されたのを思い出した

太平 シロー 死因

さん(享年55)の急逝を受け9日深夜、漫才コンビ「」として漫才ブームの立役者の一人となった元相方の(55)が所属事務所を通じてコメントを発表した。 また同世代の芸人仲間からもお悔やみが寄せられた。 大平サブロー この度は大平シローさんの訃報に関して、慎んでご冥福をお祈り申し上げます。 何よりも55歳というあまりにも若い年齢でのことにショックを受け、まだ信じられない思いです。 僕が世に出ることができたのも、サブローシローというコンビがあったおかげで、ましてやシローさんという天才芸人と一緒にやれたことが今現在もこの世界で何とかやれることができることになっていると思います。 最近はデビュー36年ということもあり、過去の写真や映像を見ることが多く、どうしているんだろうなと思うことも多かっただけに今回の訃報に大変ショックを受けています。 (54) 中学の時から同じクラスでした。 生まれた所も泉大津で一緒によく遊んだ仲間です。 シローくんは俳優の道を行き、僕は漫才の道を行ったのですが、シローくんも漫才の道に来て、気がつけばよきライバルでした。 とても残念です。 ぼんちおさむ(59) 若くして亡くなり非常に残念です。 過去に一度入院していたこともあったのでもう少し自分の体を気遣っていればまだまだ元気でいれただろうと思うと…あまりにも若すぎて本当に悔やまれます。 里見まさと(59) 兄弟子、兄弟子と慕ってくれ、また共に漫才ブームを戦った仲間です。 力量あふれる男で、まだまだやり残した事があっただろうに本当に残念です。

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