信長 で ある か。 信長上洛~京都・織田信長入京から450年~ | 京都府京都文化博物館

信長上洛~京都・織田信長入京から450年~ | 京都府京都文化博物館

信長 で ある か

二家に分かれていた尾張守護代、その一方である清洲城の大和守系織田氏の三奉行の一人、織田弾正忠信秀の嫡男として勝幡に生まれる(生地については諸説あり)。 「〜法師」という幼名は、男子は幼少の砌、剃髪していたので、それを法師に見立てて付けられている故。 三郎信長 さぶろう・のぶなが (1546〜1549?) 元服すると幼名を改め、他称に用いる通称と、自称に用いる実名がつけられる。 通称 三郎。 信長自身が三男であることもあるが、父信秀、祖父信貞も三郎であり、先祖の多くも三郎を名乗っていることから、伝統的な理由が存在すると思われる。 実名 信長。 「信」の字は織田家の通字(伝統的に踏襲する一字)である。 上総介信長 かずさのすけ・のぶなが (1549?〜1568) 受領名系通称。 信長公記では1549年頃、自ら任じたとある。 官職・受領名を勝手に通称とすることは珍しくなく、父祖の授かった職への栄誉の感から用いる場合が多いが、信長の場合、祖父・父ともに弾正忠であるが、なぜ上総介を用いたのかは判然としない。 現存文書に初見されるのは、1554年の判物から。 このときは「上総守」と称している。 上総・常陸・上野の三国は親王任国であるが、親王は赴任しない為、一般には副長官である「〜介」が使われるが、実質的な長としての意味で「〜守」が混用された。 上総介の初見は翌1555年で、以後はこちらが使われている。 尾張守信長 おわりのかみ・のぶなが 永禄九年(1566)七月十七日付けの十市遠勝宛て大覚寺義俊書状に見える。 (『多門院日記』永禄九年八月廿四日条) 永禄三年(1560)五月、今川義元を討ち取り手に入れた義元左文字の茎には、「織田尾張守信長」と彫り込んであるが、細工の時期が不明である。 弾正忠 だんじょうのじょう/だんじょうのちゅう (1568〜1574) 歴名土代では、天正二年(1574)三月十八日 弾正忠、 従五位下叙任。 のちに 従四位下となっている。 参議就任前には 正四位下。 足利義昭を奉じて上洛し、畿内を平定、義昭を将軍位に就ける。 副将軍・管領職を辞退し、かわりに就いたのが弾正忠。 弾正台の三等官で、宮城の内外を巡察し非違を糺弾する職であるが、職権は消滅し有名無実の官職。 他の官職も同じではあるが。 参議 さんぎ (1574〜1575) 天正二年(1574)三月十八日叙任。 位階は 従三位。 これは遡って任ぜられたか。 蘭奢待の切り取りを行っている。 前年に足利義昭を追放。 朝政を参議する職。 大臣・納言に次ぐ重役で、唐名では宰相。 権大納言兼右近衛大将 ごんのだいなごん・うこんえのたいしょう (1575〜1576) 天正三年(1575)十一月四日 権大納言、七日 右近衛大将叙任。 位階は 従三位。 越前一向一揆を鎮圧、長篠で武田家を破る。 大納言は大臣とともに天下の政事を議し、大臣なきときは太政官の政務を専行する職。 権とは定数外の人数のことで権官(ごんかん)という。 近衛府は、禁中の警護・行幸の警備を行う職。 左右にわかれている。 長官である大将は、大臣・納言が兼任することになっている。 内大臣兼右近衛大将 ないだいじん・うこんえのたいしょう (1576〜1577) 内府(ないふ/だいぶ)。 天正四年(1576)十一月十三日に 正三位。 同月二十一日 内大臣。 安土築城、二条造営に着手。 石山合戦本格化。 内大臣は、天下の政務を司る太政官の職。 左右の大臣に次ぐ。 左右大臣不在のときは政務儀式のすべてを司る。 右大臣兼右近衛大将 うだいじん・うこんえのたいしょう (1577〜1578) 右府(うふ)。 天正五年(1577)十一月十六日 従二位。 同月二十日 右大臣。 紀州根来討伐。 反織田戦線活発化。 右大臣は、天下の政務を司る職で、左大臣に次ぐ。 左大臣不在のときは政務儀式のすべてを司る。 前右大臣 さきのうだいじん (1578〜1582) 天正六年(1578)正月六日 正二位。 同年四月九日 右大臣・ 右近衛大将の 両官辞任。 位階だけで職務のないのを散官、または散位(さんに)という。 前官待遇となり、前(さきの)〜と呼ばれることになる。 前右府(さきのうふ)。 泰巌 たいがん/たいげん (1582〜) 法名。 信長の家系は法名に代々「〜巌」を用いている。 大相国一品とあるように、死後 従一位 太政大臣に叙せられたのであった。 大相国とは太政大臣の唐名。 藤原信長 ふじわらの・のぶなが 天文十八年(1549)十一月付発給文書に見える署名。 織田家は代々藤原姓を名乗っており、これに倣ったものと思われる。 平信長 たいらの・のぶなが 元亀年間から平姓を名乗るようになり、平清盛にまで連なる家系図を工作した。 源平交代思想を考慮した結果だといわれる。 第六天魔王 だいろくてんまおう 元亀三年(1572)の武田信玄西上の折り、「天台座主沙門信玄」と署名された信玄書状への返書として、「第六天魔王信長」と記した書状を送っている。 このことは、ルイス・フロイスがイエズス会へ送った書状に見えるのみという。 第六天とは、六欲天(欲界六天)の最上第六位に位する天で、正法を害して仏道を障害し、人心を悩乱して、智慧、善根をさまたげる天魔が住まう所。 この天魔の王が第六天魔王で、悟りの妨げとなる煩悩を吹き込む、仏法の天敵である。 この名は、信玄への対抗上持ち出したものと思われる。

次の

織田信長の名言・格言集。天下統一への道

信長 で ある か

「スサノオ」「信長」「ヒトラー」を同系列の人間として扱う手法は栗本薫氏の「魔界水滸伝」などでも読んだような・・・また、キリスト教以前の文明(宗教)がキリスト教の広がりと共に駆逐され、(ローマから見た)辺境の地にのみ残るという考え方や、キリスト教以前の神々が「悪魔」とみなされるという考え方も、方々で語りつくされてきた。 そこに「両性具有」の考え方を入れてきたところは新しいかとも思われる。 いわゆる異教伝説の好きな方には「またか」という感じがあると思うが、この手の話をあまり読んでいない方には新鮮に感じられると思う。 また細部まで書き込まれた文章なので、「フィクションが読みたい!」という気分の時にもよいかもしれない。 ただ時代が行き来するので、ある意味気が散る感もある。。。 信長記(俗)などに由来するとっくの昔に否定されているような俗説、 伝説を確信犯的に使い倒しています。 信長と古代シリア由来の狂帝ヘリオガバルスを初めて結びつけたのは澁澤龍彦 ですが、登場人物の名前や設定、挿話の端々に澁澤へのオマージュが ちりばめられています。 これはファンタジーだ。 そのつもりで読むことをお勧めします。 また、 この本を読んでおもしろかったらアントナン・アルトーの『ヘリオガバルス・ または戴冠せるアナーキスト』も読むとおもしろいと思います。

次の

織田信長自筆書状〈十月二日/長岡与一郎宛〉 文化遺産オンライン

信長 で ある か

織田信長の生涯 1534年6月23日、織田信長は尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡男として生まれる。 2歳のときに信長は那古野城主となる。 信長は幼少のころから奇妙な行動が多く、周囲から尾張の大うつけ(常識にはずれた人物)と呼ばれていたという。 人質となっていた三河国の松平竹千代()と幼少期に知り合っていたともいわれる。 信長は12歳で元服。 翌年に今川方との小競り合いにおいて初陣を飾る。 1548年、14歳の信長は父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三の娘・濃姫と政略結婚。 1552年、父・信秀が亡くなり、18歳の信長は家督を継ぐ。 1556年、斎藤道三が長良川の戦いで息子・斎藤義龍に討ち取られる。 織田氏と斎藤氏の関係は再び悪化、両者はしばしば交戦するがどちらも決定打を与えることなく推移。 1560年、駿河国の守護大名・今川義元が尾張国へ侵攻。 桶狭間の戦いで信長は少数の軍勢で敵本陣を強襲し、今川義元を討ち取る。 信長は今川氏の支配から独立した徳川家康と同盟を結ぶ(清洲同盟)。 1565年、河内国の戦国大名・三好義継、松永久通らが、対立を深めていた室町幕府14代将軍・足利義輝を殺害(永禄の変)。 義輝の弟の足利義昭は殺害を免れた。 義昭は奈良から脱出し、諸大名に上洛への協力を求めた。 1567年、信長は稲葉山城の戦いにより美濃国を平定。 信長は稲葉山城を岐阜城に改名して居城とし、本格的に天下統一を目指すようになる。 1568年、34歳の信長は足利義昭を奉戴し、上洛を開始。 信長は足利義昭を第15代将軍に擁立した。 1570年、織田・徳川連合軍は、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍に勝利。 この戦いでや木下秀吉()らが活躍したという。 翌年には、朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻め、比叡山延暦寺を焼き討ちにした。 1572年、信長は足利義昭に対して17条からなる異見書を送り、詰問文により信長と義昭の関係は悪化。 1572年、将軍・足利義昭の織田信長討伐令の呼びかけに応じる形で甲斐の守護大名・(1521~1573)が甲府を進発。 1573年、織田・徳川連合軍は三方ヶ原の戦いで武田軍に大敗。 しかし、信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ撤退した。 1573年、39歳の信長は足利義昭を京都から追放。 室町幕府は事実上滅亡した。 1575年、長篠の戦いで、織田・徳川軍は武田軍に圧勝。 1575年、41歳の信長は征夷大将軍に匹敵する官職の右近衛大将に任じられる。 呼名も「上様」となり、朝廷より「天下人」であることを事実上公認される。 1582年6月21日、家臣・明智光秀の裏切りによる本能寺の変で織田信長は自害、47年の生涯を閉じた。

次の