1.インフルエンザ死亡者数 抗インフルエンザウィルス剤タミフルの副作用として異常行動が問題となり、また、鳥インフルエンザから新型のインフルエンザが生じ、大きな疫病被害に発展する可能性が懸念されるなどインフルエンザが注目されていた。 そうした中、2009年には新型インフルエンザが発生し、死亡者数の急増が懸念されたが、幸いにも弱毒性の病原体であったので、日本における新型インフルエンザによる死亡者数は198人とそれほど多くなく、各国と比較しても死亡率は非常に低かった(図録参照)。 ここでは、インフルエンザによる死亡数の推移の図を掲げた(男女・年齢別の死亡数については図録参照)。 インフルエンザは流行る年と収まっている年とがあり、それが直接の死因となった死者数も毎年の変動が大きい。 1957年の「アジアかぜ」によるピーク7,735人から、1970年代までインフルエンザ死亡者数は、おおむね、減少傾向をたどり、1980年代〜90年代前半は、千人以下の少ないレベルに止まっていた。 ところが、90年代後半から、大きく増加する年が目立つようになり、2010年以降は、増勢の傾向が認められる。 気候変動、国際観光流動、高齢化、栄養状態、検査法など、何らかの傾向的な変化と連動しているかどうか、気になるところである。 なお、近年の死亡者の9割以上は65歳以上の高齢者である点については図録参照。 また、近年のインフルエンザ死亡数の増加傾向の要因として高齢層の拡大が大きく寄与している点については、図録参照。 参考までに月別の死亡数の推移を以下に掲げた。 2019年の9月までの死亡数の対前年比は1. 3%増である。 インフルエンザによる死亡については、直接の死因がインフルエンザではなく、肺炎等の他の疾患による場合は、死因別死亡数にはあらわれない。 従って、WTOや厚生労働省では、超過死亡 excess death, excess mortality の概念でインフルエンザによる死亡数を推計している。 これは、インフルエンザが流行した年に通常年と比較して死亡者数が多くなった場合、それをインフルエンザによる死亡と見なす考え方である(具体的にはインフルエンザ以外の諸要因による死亡者数をベースラインとして推計して実際の死亡者数との差をインフルエンザによる超過死亡とする)。 表示選択の図として、国立感染症研究所による超過死亡概念による推計死亡者数を掲げたが、年によって1万人を超えるなど直接インフルエンザを死因とする死亡者数をかなり上回ることも多い。 なお、人口動態統計のデータは暦年(1月〜12月)であり、超過死亡は冬場をはさんだ流行シーズン期間毎の計算である。 図録で掲げた毎年のインフルエンザ患者率を下に再掲した。 インフルエンザの流行のピークが何月になるかで流行年は微妙にずれる場合もある。 有効な予防策であるワクチンの接種が日本では他のOECD諸国と比べ遅れていた状況については、図録参照。 2020年1月〜2月に中国武漢市(湖北省)を震源地として新型コロナウイルスによる肺炎の流行がはじまり、この図録が非常に多く参照されている。 新型ウイルスなので不安が高まっているが下表のように今のところインフルエンザと同様の恐れという程度のようだ。 新型コロナウイルスとその他ウイルスの感染力と致死率 感染力(感染者1人 から感染する人数) 致死率(%) 新型コロナウイルス 2. 2〜3. 7 2. 0 湖北省 2. 8 うち武漢市 4. 1 湖北省以外 約0. 17 インフルエンザ 2〜3 約0. 1(国内) SARSウイルス 2〜4 9. 6 MERSウイルス 0. 69 35 (注)国立感染症研究所の資料などから。 新型コロナウイルスの感染力は北海道大の西浦博教授の試算。 同致死率は中国の2月6日時点の中国政府発表によるものであり、武漢市の致死率が特に高いことに影響されており、致死率の母数となる感染者数が現在除かれている軽症者まで含め正しくカウントされれば湖北省以外のレベルになると考えられる。 (資料)東京新聞(2020年2月7日) (戦前のインフルエンザ:スペイン風邪) 戦前から1960年代までの推移を表示選択で見れるようにした。 戦前のインフルエンザ死亡者数は戦後よりずっと多かったことが分かる。 特に1908〜09年における「スペイン風邪」の世界的流行には日本も巻き込まれ、1918〜19年と1920年に、それぞれ10万人以上がインフルエンザで死亡したというデータになっている。 新型コロナウイルスでも流行は一波では終わらないかも知れないということの警告として、東京新聞の社説(2020年4月27日)が要領よくスペイン風邪の推移について記述しているので次に引用した。 「1918(大正7)年8月下旬に日本に上陸したスペイン風邪は11月に一気に大流行し、いったん収まった後、翌19年も半月の患者数が55人に達するほど荒れ狂いました。 ようやく3月に感染者が減り始め、6月には月間8千人程度に。 このシーズンの患者は2,117万人、死者は26万人となりました。 これで終わったかと思ったら、同年の10月末から流行が再燃しました。 20年2月まで猛威を振るい、患者は241万人、死者は13万人でした。 衛生局は「本回における患者数は前流行に比し十分の一に過ぎざるも、病性ははるかに猛烈にして、死亡率非常に高く、前回の四倍半にあたれり」と記しています。 大流行といえる期間は、それぞれ3〜4カ月も続きました。 (中略)スペイン風邪からは、数々の教訓が読み取れますが、最大の教えは「波は一度ではない」ということでしょう」。 「スペイン風邪は、二冬目の方がパワーアップしました。 毒性が強くなったのは、ウイルスの遺伝子がわずかに変異したのが原因とみられています。 必ずしも強毒だから恐ろしく、弱毒だからくみしやすいとはいえません。 弱毒のウイルスは宿主を死なせないので、拡散が大規模になりがちです。 相違点は、スペイン風邪は20代、30代の人々が高齢者よりもずっと多く死亡したことです。 高齢者が持っていた免疫が影響した可能性があります。 欧米の感染拡大は、すでにペースを落としており、夏に一服するという見方も出ています。 しかし南半球は、今後寒い季節に入り、北半球にもいずれ冬がやってきます。 次の感染拡大までの準備期間ととらえるべきかもしれません。 衛生局は2度目の傾向として「前回の流行時にかからなかった人が重症となる」「前回激しく流行しなかった地方で、本回は激しく流行した」と記述しています」。 2.新型インフルエンザ発生時のコメント 2009年4月メキシコで発生した豚インフルエンザは、人から人へ感染し、人類にとって免疫のない新型インフルエンザと認定され、29日夜(日本30日早朝)、WHO(世界保健機関)は警戒レベルを人から人への感染が確認されたという現在の「フェーズ4」から、世界的大流行(パンデミック)前夜とされる「フェーズ5」に引き上げた。 当図録にも「インフルエンザ 死者」といった検索で訪れる人が増えているので当図録データと関連した最低限のことについてふれる。 対処法などは最寄りの保健所への問い合わせや厚生労働省のHP閲覧等によって頂きたい。 今度の新型インフルエンザはこれまでのところ全身感染を引き起こさない弱毒性のものであり、人類にとって免疫がないため広範囲に広がるおそれが大きいが、致死率は大きくないのでとんでもない死亡者数には必ずしも結びつかないようだ。 ただ、免疫がないので感染者数自体が非常に多くなり、致死率は低くとも死亡者数の絶対数はかなりの値となる可能性がある。 毎年の季節性のインフルエンザでも多いときには1万人以上の死亡者数(併発した肺炎等による死亡を含む)となっているので、それ以上の死亡者数の発生も可能性としては否定できない。 また「スペインかぜ」も、弱毒性が流行の途中で変化したタイプだったという(YOMIURI ONLINE 2009. 30)ので注意が必要だ。 20世紀に大流行した新型インフルエンザ 発生年 名称 型 死者数 致死率 1918年 スペイン風邪 H1N1型 4000万人 2. 0% 1957年 アジア風邪 H2N2型 200万人 0. 5% 1968年 香港風邪 H3N3型 100万人 0. 5% *季節性インフルエンザは日本で1万人前後(致死率0. 05%) (資料)毎日新聞2009年4月30日 こうした点についてふれた毎日新聞2009年4月30日の記事を以下に紹介する。 新型インフル:ウイルスは弱毒性 田代WHO委員 【ジュネーブ澤田克己】感染が広がる新型インフルエンザ(豚インフルエンザ)の世界的大流行(パンデミック)への警戒レベル引き上げを討議した世界保健機関(WHO)緊急委員会委員の田代真人・国立感染症研究所インフルエンザウイルス研究センター長は28日、記者会見し、今回のウイルスは「弱毒性」との見解を示した。 強毒性のH5N1型鳥インフルエンザが新型に変異した場合に比べ「それほど大きな被害は出ない」とみられ、「全く同じ対策を機械的に取るのは妥当でない」と述べた。 田代氏は毒性について「今後、遺伝子の突然変異で病原性を獲得しないという保証はない」としたうえで、遺伝子解析の「予備的データ」の結果として、現段階で「強い病原性を示唆するような遺伝子はない」と「弱毒性」との認識を示した。 被害については、現在の毒性が変わらなければ、パンデミックを起こしても、約200万人が死亡した57年の「アジア風邪くらいかもしれない」とした。 数千万人規模の死者が想定される強毒性H5N1型と「全く横並びに判断していいものではない」と話した。 致死率などについては、疫学的調査が終わっていないため「実際の数字は分からない」と説明。 そのうえで、メキシコで感染が疑われる患者が1000人を超える一方、同国以外は数十人規模であることから「割合からすれば(他の国で多くの)重症者が出なくても当たり前かもしれない」と述べた。 対策についてはH5N1型に比べ「健康被害や社会的影響は大きく異なる。 全く同じ対策を機械的に取ることは必ずしも妥当ではない。 フレキシブル(柔軟)に考えていく必要がある」と述べた。 日本の対策については「少しナーバスになり過ぎているところがあるかもしれないが、後手後手になって大きな被害が出るよりは、やり過ぎの方がいいかもしれない」とした。 また、「風邪というような判断で特別な検査に至らない状況がある」と発見の遅れに憂慮を示した。 また同氏は、新型インフルエンザウイルスは、北米型とユーラシア型の豚インフルエンザウイルスに、人と鳥のインフルエンザウイルスを加えた4種類の遺伝子が混合したものと説明。 「H5N1型による大流行のリスクが減ったわけではない」と、警戒を怠ることは危険だと警告した。 3.インフルエンザの知識 以下にインフルエンザの知識について、厚生労働白書から引用する。 インフルエンザとは インフルエンザは、かぜ症候群を構成する感染症の一つであり、症状の程度によっては普通のかぜと見分けにくいことから、特に我が国においては、一般のかぜと混同されることが多い。 しかしながら、一般にインフルエンザの症状は重く、特に高齢者や心臓病などの基礎疾患がある場合には重症化しやすい傾向があると言われ、肺炎や脳症などの合併症も問題となっている。 インフルエンザは、時に大流行して多くの犠牲者を出すこともあり、過去の世界的大流行としては、1918(大正7)年に始まった「スペインかぜ」、1957(昭和32)年の「アジアかぜ」、1968(昭和43)年の「香港かぜ」などがある。 中でも、スペインかぜによる被害は甚大で、死亡者数は全世界で2,000万人とも4,000万人とも言われている。 (厚生白書平成12年版) 高齢者を中心とする慢性疾患を有する者が罹患すると肺炎を併発するなど重症化する場合が多く、特別養護老人ホームにおける集団感染の問題や、インフルエンザによる死亡者の約80%以上を高齢者が占めることなど、高齢化が進行している我が国にとってインフルエンザはますます大きな脅威となっている。 さらに、近年、乳幼児において、インフルエンザに関連していると考えられる急性脳症が年間100〜200例報告されている(現在研究が行われている。 (厚生労働白書平成16年版) インフルエンザウイルスについて インフルエンザウイルスは、直径1万分の1ミリメートル(100nm(ナノメートル))という小さなウイルスであり、ヒトに感染した場合は、鼻孔や気道粘膜の表面の上皮細胞に侵入し、その中で増殖する。 インフルエンザウイルスは、そのたんぱく質の違いに基づいてA型、B型、C型に分類されるが、このうちヒトに感染し発症するのは主にA型とB型である。 A型は、ヒト以外にもブタやトリなど実に多くの動物を自然宿主とする人獣共通のウイルスであり、その表面に突き出た突起の組み合わせの違いによって香港型、ソ連型に区別されている。 また、A型は突然変異を起こして大流行することがあり、これまでもスペイン風邪を始めとする甚大な健康被害をもたらしている。 なお、同じA型であっても毎年少しずつ変化しており、以前にA型インフルエンザに罹って免疫がある者であっても、再び別のA型インフルエンザに感染し、発症することがある。 (厚生労働白書平成16年版) 新型インフルエンザウイルスの出現の仕組み 1993(平成5)年の第7回ヨーロッパインフルエンザ会議では、新型インフルエンザによる汎流行が発生した場合は、国民の25%が罹患発病すると仮定して行動計画を策定するよう勧告を出しており、我が国では、約3,200万人の患者が発生し、少なくとも3〜4万人の死者が出る可能性があることになる。 このような新型のインフルエンザウイルスは、アジア風邪、香港風邪が中国南部で出現していることから、その出現の仕組みとして、 1 元々鳥インフルエンザウイルスを保有しているカモなどの水鳥が中国南部に飛来し越冬する間に、ガチョウなどの家禽類にインフルエンザウイルスが伝播する 2 中国南部は、家禽類、ブタなどの家畜と人間との接触が濃密な生活様式であるため、家禽類からブタやヒトに感染しやすく、そのため、特に、ブタがトリのインフルエンザウイルスとヒトのインフルエンザウイルスに同時に感染し、ブタの体内で混合、進化し、新たなインフルエンザウイルスが誕生することが考えられている。 (なお、中国南部に限らず世界のどの地域においても新型インフルエンザが出現する可能性は否定できないことに留意が必要である。 ) 昨今の鳥インフルエンザが脅威とされているのは、トリからヒトへと感染するだけでなく、このような大きな仕組みによってヒトからヒトへと感染する能力をインフルエンザウイルスが獲得し、ヒト間で感染が拡大する可能性が指摘されているからである。 (厚生労働白書平成16年版) 効果的な予防策 インフルエンザに対する最も効果的な予防策は、流行前に予防接種を受けることである。 毎年、我が国では、WHOが推奨したウイルス株を基本に、これまでの我が国での流行状況などを勘案し、流行する株を予測してワクチンを作っており、この約10年間、ワクチン株と実際に流行したウイルス株とはほぼ一致している。 しかし、我が国においては、ワクチン接種率は他の先進国に比べて低く、インフルエンザによる死亡や入院を低減させ、ひいては流行を防止するに当たっての課題となっている。 特に高齢者についてはワクチン接種の有効性が高いことが確認されており、予防接種を受けずにインフルエンザに罹患した者の約7〜8割の者は、予防接種を受けていれば罹患せずに済んだか、又は軽い症状で済んだとされている。 こうしたことから、2001(平成13)年の予防接種法改正により、65歳以上の者等については、インフルエンザが定期の予防接種の対象疾患と位置づけられ、高齢者への予防接種が促進されている。 (厚生労働白書平成16年版) (2007年3月27日収録、5月8日高倉健吾氏の指摘により超過死亡概念による死亡者数追加、2008年12月2日更新、2009年4月30日・9月30日更新、11月7日最近のピーク週の定点当たり患者数推移を追加、2010年11月2日更新、2011年6月2日更新、2013年5月9日更新。 6月5日更新、2014年6月15日更新、2015年6月5日更新、2016年5月24日更新、2017年6月9日更新、2018年6月1日更新、2019年1月26日週別患者数グラフ新規、12月20日更新、近年の動向コメント改訂、2020年1月28日検査法要因追加、1月31日月別データ、2月7日新型コロナウイルスとインフルエンザ等との比較、2月15日月次更新、超過死亡数を表示選択に、2月24日表示選択に戦前からの推移図追加、3月7日【コラム】新型コロナとインフルエンザの比較、4月27日一波で終わらなかったスペイン風邪の教訓、2020年6月10日更新).
次の新型コロナウイルス禍がパンデミックの模様を呈している()。 パニックや流言飛語も相次いでいる。 しかしこのようなパンデミックは、20世紀を含め過去に何度も起こり、そして人類はその都度パンデミックを乗り越えてきた。 今次の新型コロナウイルス禍への対策と教訓として、私たちは人類が遭遇した過去のパンデミックから学び取れることは余りにも多いのではないか? 本稿は、20世紀最悪のパンデミックとされ、世界中で2000万人~4500万人が死亡し、日本国内でも約45万人が死亡した 「スペイン風邪」を取り上げる。 そして日本の流行状況と公的機関の対策を追い、現在のパンデミックに抗する教訓を歴史から得んとするものである。 速水(左)、内務省(右) ・100年前のパンデミック「スペイン風邪」とはなにか 1918年から1920年までの約2年間、新型ウイルスによるパンデミックが起こり、当時の世界人口の3割に当たる5億人が感染。 そのうち2000万人~4500万人が死亡したのがスペイン風邪である。 現在の研究では、そのウイルスはH1N1型と特定されている。 スペイン風邪の発生は、今から遡ること約百年前。 1918年春。 アメリカ・カンザス州にあるファンストン陸軍基地の兵営からだとされる(速水,38)。 当時は第一次世界大戦の真っ最中で、ドイツ帝国は無制限潜水艦作戦によって中立国だったアメリカの商船を撃沈するに至った。 このドイツの粗暴な振る舞いがアメリカの参戦を促し、アメリカは欧州に大規模な派遣軍を送ることになる。 アメリカの軍隊から発生したとされるスペイン風邪は、 こうしてアメリカ軍の欧州派遣によって世界中にばら撒かれることになった。 当時のパンデミックは、航空機ではなく船舶による人の移動によって、軍隊が駐屯する都市や農村から、その地の民間人に広まっていった。 ちなみに、アメリカから発生したのになぜスペイン風邪という呼称なのか。 それは第一次大戦当時、スペインが欧州の中で数少ない中立国であったため、戦時報道管制の外にあったからだ。 そのためこの新型ウイルスの感染と惨状が、戦時報道管制から自由なスペイン電として世界に発信されたからである。 スペインでは800万人がスペイン風邪に感染。 国王アルフォンソ13世や政府関係者も感染した。 日本では当初「スペインで奇病流行」と報道された(速水,49)。 ・「スペイン風邪」、日本に上陸 日本でスペイン風邪が確認されたのは、1918年、当時日本が統治中であった台湾に巡業した力士団のうち3人の力士が肺炎等によって死亡した事が契機である。 そののち、同年5月になると、横須賀軍港に停泊中の軍艦に患者が発生し、横須賀市内、横浜市へと広がった(速水,328)。 当時、 日本の報道でのスペイン風邪の俗称は「流行性感冒」である。 速水によれば、日本に於けるスペイン風邪流行は「前流行」と「後流行」の二波に別れるという。 「前流行」は1918年の感染拡大。 「後流行」は1919年の感染拡大である。 どちらも同じH1N1型のウイルスが原因であったが、現在の研究では「後流行」の方が致死率が高く、この二つの流行の間にウイルスに変異が生じた可能性もあるという。 ともあれ、このスペイン風邪によって、 最終的に当時の日本内地の総人口約5600万人のうち、0. 8%強に当たる45万人が死亡した。 当時、日本は台湾と朝鮮等を統治していたので、 日本統治下全体での死者は0. 96%という(速水,426. 以下、図表参照)。 1945年、東京大空襲による犠牲者は10万人。 日露戦争による戦死者約9万人を考えるとき、この数字が如何に巨大なものかが分かるだろう。 単純にこの死亡率を現在の日本に当てはめると、120万人が死ぬ計算になる。 これは大阪市の人口の約半分にあたる。 筆者制作 ・「スペイン風邪」の凄惨な被害~一村全滅事例も 「前流行」と「後流行」の二波による日本でのスペイン風邪の大流行は、各地で凄惨な被害をもたらした。 以下速水より。 *適宜筆者で追記や現代語訳にしている。 福井県九頭竜川上流の山間部では、 「感冒の為一村全滅」という見出しで、面谷(おもだに)集落では人口約1000人中、970人までが罹患し、すでに70人の死亡者を出し、70人が瀕死の状態である旨報道されている。 出典:速水,146 (1919年)2月3日の東京朝日新聞は、東京の状況を「感冒猛烈 最近二週間に府下(当時は東京府)で1300の死亡」という見出しのもと、警視庁の担当者談として「今度の感冒は至って質が悪く発病後直肺炎を併発するので死亡者は著しく増加し(中略)先月11日から20日までに流行性感冒で死んだ人は289名、肺炎を併発して死んだ人は417名に達し(後略)」と報道している。 各病院は満杯となり、新たな「入院は皆お断り」の始末であった。 出典:速水,161 (岩手県)盛岡市を襲った流行性感冒は、 市内の各商店、工業を休業に追いやり、多数の児童の欠席を見たため、学校の休校を招いた。 (1919年11月)5日には厨川(くりかわ)小学校で2名の死者を出し、さらに6日の(岩手日報)紙面は「罹患者2万を超ゆ 各方面の打撃激甚なり 全市困惑の極みに達す」との見出し 出典:速水,168 神戸には、夢野と春日野の二箇所に火葬場があったが、それぞれ100体以上の死体が運ばれ、 処理能力を超えてしまい、棺桶が放置されるありさまとなった。 出典:速水,128 など、日本を襲ったスペイン風邪の猛威は、列島を均等に席巻し、各地にむごたらしい被害をもたらした。 とりわけ重工業地帯で人口稠密であった京都・大阪・神戸の近畿三都の被害(死亡率)は東京のそれを超えていたという。 だが、上記引用を読む限り、大都市部であろうが農村部であろうが、スペイン風邪の被害は「平等」に降りかかっているように思える。 ・「スペイン風邪」に当時の政府や自治体はどう対処したのか さて、肝心なのは当時のパンデミックに日本政府や自治体がどう対応したかである。 結論から言えば、様々な対処を行ったが、根本的には無策だった。 なぜならスペイン風邪の病原体であるH1N1型ウイルスは、当時の光学顕微鏡で見ることが出来なかったからだ。 人類がウイルスを観測できる電子顕微鏡を開発したのは1930年代。 実際にこのスペイン風邪のウイルスを分離することに成功したのは、流行が終わって十五年が過ぎた1935年の出来事であった。 つまり当時の人類や日本政府は、スペイン風邪の原因を特定する技術を持たなかった。 当時の研究者や医師らは、このパンデミックの原因を「細菌」だと考えていたが、実際にはウイルスであった。 当時の人類は、まだウイルスに対し全くの無力だったのである。 それでも、政府や自治体が手をこまねいたわけではない。 今度は内務省を中心に当時のパンデミックに対し、公的機関がどう対処していくのかを見てみよう。 大正8年(1919年)1月、内務省衛生局は一般向けに「流行性感冒予防心得」を出し、一般民衆にスペイン風邪への対処を大々的に呼びかけている。 驚くべきことに、スペイン風邪の原因がウイルスであることすら掴めなかった当時の人々の、未知なる伝染病への対処は、現代の新型コロナ禍における一般的な対処・予防法と驚くほど酷似している。 以下、内務省から抜粋したものをまとめた。 *適宜筆者で追記や現代語訳にしている。 ・はやりかぜはどうして伝染するか はやりかぜは主に人から人に伝染する病気である。 かぜ引いた人が咳やくしゃみをすると眼にも見えないほど細かな泡沫が3、4尺(約1メートル)周囲に吹き飛ばされ、それを吸い込んだものはこの病にかかる。 ・(はやりかぜに)かからぬには 1. 病人または病人らしい者、咳する者に近寄ってはならぬ 2. たくさん人の集まっているところに立ち入るな 3. 人の集まっている場所、電車、汽車などの内では必ず呼吸保護器(*マスクの事)をかけ、それでなくば鼻、口を「ハンカチ」手ぬぐいなどで軽く覆いなさい ・(はやりかぜに)かかったなら 1. かぜをひいたなと思ったらすぐに寝床に潜り込み医師を呼べ 2. 病人の部屋はなるべく別にし、看護人の他はその部屋に入れてはならぬ 3. 治ったと思っても医師の許しがあるまで外に出るな (内務省,143-144) 部分的に認識違いはあるが、 基本的には「マスク着用」「患者の隔離」など現在の新型コロナ禍に対する対処法と同様の認識を当時の政府が持っていたことが分かる。 そして内務省は警察を通じて、全国でこの手の「衛生講話会」を劇場、寄席、理髪店、銭湯などで上演し、大衆に予防の徹底を呼び掛けている。 またマスク励行のポスターを刷り、全国に配布した。 マスクの無料配布も一部行われたというが、現在の新型コロナ禍と全く似ていて、マスクの生産が需要に追い付かなかったという。 ただ失敗だったのは、内務省が推進した予防接種である。 病原体がウイルスであることすら知らない当時の医学は、スペイン風邪の予防に苦肉の策として北里研究所などが開発した予防薬を注射させる方針を採り、接種群と未接種群との間で死亡率の乖離を指摘しているが、これは現代の医学から考えれば全くの無意味な政策であった。 だが、当時の技術ではそれが限界だった。 ・100年前も全面休校 休校イメージ、フォトAC 各自治体の動きはどうだったか。 とりわけ被害が激甚だった神戸市では、市内の幼稚園、小学校、中学校等の全面休校を決めた(速水,198)。 1919年には愛媛県が県として「予防心得」を出した。 人ごみに出ない、マスクを着用する、うがいの励行、身体弱者はとりわけ注意することなど、おおむね内務省の「流行性感冒予防心得」を踏襲した内容である。 学校の休校や人ごみの禁忌など、これまた現在の状態と重複する部分が多い。 そしてこれもまた現在と同じように、各地での集会、興行、力士の巡業、活劇などは続々中止か、または閉鎖されていった。 このようにして、日本各地で猛威を振るったスペイン風邪は、1920年が過ぎると自然に鎮静化した。 なぜか?それは内務省や自治体の方針が有効だったから、というよりも、スペイン風邪を引き起こしたH1N1型ウイルスが、 日本の隅々にまで拡大し、もはやそれ以上感染が拡大する限界を迎えたからだ。 そしてスペイン風邪にかかり、生き残った人々が免疫抗体を獲得したからである。 つまり、 スペイン風邪は突然の嵐のように世界と日本を襲い、そして自然に去っていったというのが実際のところなのである。 残念ながらヒト・モノが航空機という、船舶よりも何十倍も速い速度で移動できるようになった現在、新型ウイルスの伝播の速度はスペイン風邪当時とは比較にならないだろう。 だが100年前のパンデミックと違うところは、私たちの医学は驚くべきほど進化し、そして当時、その原因すらわからなかったウイルスを、私たちは直接観察することが出来、なんであれば人工的にウイルスすら制作できる技術力を保有しているという点だ。 このような状況を鑑みると、100年前のパンデミックと現在。 採るべき方針はあまり変わらないように思える。 すなわちウイルスの猛威に対しては防衛的な姿勢を貫き、じっと私たちの免疫がウイルスに打ち勝つのを待つ。 実際にスペイン風邪はそのようにして終息し、日本は内地45万人の死者を出しながら、パンデミックを乗り越えている。 ウイルスの存在すら知らなかった当時と違って、現在の私達の社会におけるパンデミックは、伝播速度の違いはあれど集落が全滅したり、火葬場が満杯になったりするという地獄絵図には向かいにくいのではないか、というのが正直な感想である。 ・100年前もデマや流言飛語 満員電車イメージ、フォトAC 最後に、スペイン風邪当時の日本で起こったデマや流言飛語の事例を紹介する。 現在ですらも、「57度から60度近いお湯を飲めば予防になる」などの根拠なき民間信仰が闊歩しているが、人間の恐怖の心理は時代を超えて共通しており、当時も様々な混乱が起こった。 とりわけ医学的には無意味な神頼みは尋常ではなく、例えば現在の兵庫県神戸市須磨区にある多井畑(たいはた)厄除八幡宮では、神戸新聞の報道として、「善男善女で…非常な賑わいを呈し 兵庫電鉄は朝のほどから鮓(すし)詰めの客を乗せて月見山停車場に美しい女も職工さんも爺さんも婆さんも十把ひとからげに吐き出す」(速水,198)で、駅から神社まではさらに二キロ程度の山道で、社務所が用意した護符は飛ぶように売れた(速水,同)という。 人ごみを避けろ、と言っておきながら満員電車はOKというダブルスタンダードまで、現在の日本の状況と何ら変わらない。 日本に於けるスペイン風邪の大流行から、私たちは時代を超えた共通項を見出すことが出来る。 そして人間の心理は、100年を経てもあまり進歩がない、という側面をもさらけ出しているように思える。 どうあれ、私たちはスペイン風邪を乗り越えていま生きている。 デマや流言飛語に惑わされず、私たちは常に過去から学び、 「スペイン風邪から100年」という節目に現出したパンデミックに泰然自若として対応すべきではないか。
次のの続き的な意味で書いてます。 先日、「スタンバイ」を聞いていたら、コメンテーターの山縣裕一郎氏(会長)がコロナが騒がれる今「お薦めの本」として 【順番は発行年順】 1)速水融(はやみ・あきら)『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ:人類とウイルスの第一次世界戦争』(2006年、) 2)衛生局編集『流行性:「」大流行の記録』 2008年、 3)アッド・W・クロスビー『史上最悪のインフルエンザ:忘れられた』(2009年、) など『(インフルエンザ)・』関係の本を紹介していました。 山縣氏曰く 「実はこれらの著書は最近まで品切れだったのですが、コロナ騒動で注目が集まって重版が決まったそうです」 「当時と今とでは色々違いがありますが、この・についての著書から学べることが沢山あると思う」 「何故か日本人はこの・を忘れてしまったように思いますが、今回の新型コロナなどと比較にならない死者数が出ている。 全世界で約4000万人、日本だけでも約40万人が死亡したと言われます。 今回のコロナでは有名人では例えばさん(1950~2020年、お笑い芸人)が亡くなっていますが、・では有名人では例えば(劇作家、1871~1918年)が亡くなっています。 そして抱月の弟子で愛人関係にもあったという女優・(1886~1919年)が抱月の死にショックを受けてしています。 は『ゴンドラの唄(『生きる』で(1905~1982年)が歌っていた例の歌)』などで割と有名だと思いますが」 云々と。 名誉教授。 著書『古代 上 中 下 』、『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』、『の根本概念』、『職業としての学問』、『職業としての政治』、『』 以上、 、『社会科学の方法』、『の方法』 以上、 など。 著書『』(、)など。 著書『一万一千本の鞭』、『若きの冒険』 以上、角川文庫 など。 、、を歴任。 「最後の元老」の兄。 文部省学務局長、(の前身)校長など歴任。 には折田の功績を顕彰する「像」が設置されている。 工科大学学長(現在の工学部長に当たる)。 本店、東京駅の設計で知られる。 第2次伊藤、第2次松方、第3次伊藤内閣大臣、第4次伊藤内閣内務大臣など歴任。 総長、総長、総長を歴任した(1854~1931年)の妹。 津田梅子(1864~1929年、創設者)とともに団にして米国留学。 帰国後は津田の友人として、女子英学塾(の前身)を支援している。 参議、陸軍大将、近衛都督を務めたの息子。 中の1914年()に東京俘虜収容所長、1915年()に俘虜収容所長。 家当主。 司法省技官として監獄等の設計に従事、豊多摩監獄(後の中野刑務所)が代表作。 などが死去していますね。 にもかかわらず、日本においてこの「・」は最近まであまり知られてなかったように思います。 【追記】 はこのほど、感染拡大を受けて、10年以上前に初版を刊行し品切れになっていた778『流行性 「」大流行の記録』(本体3000円)をウェブで全文無料公開したところ、などでの反響が多く重版を決めた。 の重版は四半世紀ぶりだという。 同書は1918年から20年にかけて世界的に流行したインフルエンザ()について2年後の22年に日本の衛生局が刊行した報告書をし、解説を付けたもの。 2008年に778として初版2700部で発行。 2年ほどで品切れとなり、重版未定のまま10年ほどが経過していた。 下中美都社長によると、2009年にエンザが流行したときにも重版を検討したが、このときはできなかったという。 しかし、今回は「出版社として何かできることはないか」と考え、編集部門からの提案で無料公開に踏み切ったところ、すぐに多くの反響があって重版に至ったという。 下中社長は「出版社には、のど元過ぎたら忘れてしまうようなことも残していく使命がある。 今回、感染拡大が終息した後の世界がどうなるのかを見通すこともできない。 この本は専門的な内容ではあるが、そういう時代に示唆に富む本だと思う」と話している。 の感染拡大を受け、『ペスト』()が異例の売り上げで話題になった。 小説以外にも、過去のの研究や歴史を扱った本もじわじわ売れている。 全容がまだ見えないウイルスと向き合う手がかりを、本に求める読者が増えているようだ。 新潮社によると、『ペスト』は2月以降で15万4千部を増刷し、累計発行部数は104万部になった。 ペストにより封鎖された街で、伝染病の恐ろしさやを脅かす不条理と闘う人々を描く。 フランスやイタリア、英国でもベストセラーになっているという。 日本の小説で、新型コロナによる混乱を「予言している」と注目が集まったのは、『首都感染』(文庫)。 中国で強毒性のエンザが発生し、東京が封鎖される。 2月以降、計6万4千部増刷した。 の担当者は「が発生した場合に、何が起こるのか、どのように対処したら良いのかを、読んだ人が冷静に判断できる内容」という。 ほかに(ボーガス注:をネタにした娯楽小説として)『』(角川文庫)、『破船』()なども売れている。 では、1983年刊行の『ペスト大流行』()が、品切れ状態から約1万部増刷した。 『流行性:「」大流行の記録』()は、100年前の衛生局による報告書に、解説を付けた一冊。 解説を書いているのウイルス疾患研究室長・西村秀一が、古書として出回っていたこの本を入手、「現代に復活させようという強い思いが生まれた」と記す。 「ペストとコロナと関係ないやろ?」と思いますけどねえ。 ましてや娯楽読み物なんか「作り話やないか。 役に立たないやろ?」と思いますけどねえ。 : 「」編集長、常務取締役・編集局長、社長などを経て会長。 著書『東アジア経済圏90年代を読む』 1989年、)、『私のカ・ジャーナリズム修行』(1992年、)、『図解・経済統計の「超」解読術』 (1996年、)(『山縣裕一郎』参照)。 : 1929~2019年。 名誉教授、名誉教授、名誉教授。 日本における歴史人口学研究の草分けとされる。 : 編者で分かるようにこれは『当時、が編纂した調査報告書』の復刻版で旧仮名遣いなので読むのは大変です。 : オースティン校名誉教授。 著書『飛び道具の人類史』(2006年、)、『ヨーロッパの:的視点から歴史を見る』 2017年、)など : 1849~1940年。 第二次伊藤、第二次松方内閣文相(外相兼務)、第三次伊藤内閣文相、首相、元老を歴任 : 1841~1909年。 、、首相、議長、枢密院議長、韓国統監など歴任。 元老の一人。 : 1835~。 第1次伊藤、黒田、第1次山縣内閣蔵相、首相、第2次伊藤内閣蔵相、など歴任。 元老の一人 : 1842~1916年。 第1次伊藤、黒田、第1次山縣、第1次松方、第2次伊藤内閣、など歴任 : 1825~1883年。 で右大臣、外務卿を歴任 : 1999年、『イントゥルーダー』(現在、文春文庫)で第16回ミステリー大賞・読者賞をダブル受賞し、本格的に作家デビュー(『』参照)。 : 名誉教授、名誉教授。 著書『近代科学を超えて』 1986年、 、『科学者とは何か』 1994年、新潮選書 、『の逆遠近法:の再評価』 1995年、 、『:二十世紀の物理学革命』 1998年、 、『科学の現在を問う』 2000年、 、『安全と安心の科学』 2005年、 、『あらためて教養とは』 2009年、 、『人間にとって科学とは何か』 2010年、新潮選書 、『奇跡を考える:科学と宗教』 2014年、 、『死ねない時代の哲学』 2020年、文春新書 など bogus-simotukare.
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