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次の経歴 [ ] 実家は前で洋品店を営んでいた。 を卒業後、(昭和51年)、集英社に入社。 『週刊少年ジャンプ』編集部に配属され、以後一貫してジャンプ関連の雑誌・書籍の編集を担当。 漫画以外にも、企画ページの『』、『』などの編集や、連載漫画の化を手がけたり、やなどの外部の人間を起用しゲームの世界に導いたり、『』(以下『ドラクエ』)誕生にも一役かっている。 その流れから、(平成5年)には創刊編集長として、後輩のとともにゲーム雑誌『』を立ち上げた。 (平成8年)2月に『週刊少年ジャンプ』の売上低迷を打破する切り札として、ジャンプ本誌に呼び戻され編集長に就任。 『』など連載作品のメディアミックスを精力的に推し進めた。 前体制から続く発行部数下落傾向の結果、(平成9年)には『』に発行部数首位の座を奪われたものの、この頃から『』や『』などの新人作家のヒット作が再び出てくるようになった。 以後(平成13年)6月まで『週刊少年ジャンプ』の編集長兼発行人となった。 その後、『週刊少年ジャンプ』『』『Vジャンプ』を統括する第3編集部部長に昇格する。 週刊ジャンプ発行人は引き続き鳥嶋名義で対応していた。 (平成15年)1月、鳥嶋の後任であった高橋が急逝した際は、追悼号となった2003年11号限りの編集長兼発行人として、高橋の追悼メッセージを掲載した。 翌週号からは副編集長であったの編集長への昇格人事を行った。 以降は週刊ジャンプ発行人としての任務は2008年に茨木から後任のにバトンタッチするまで続いた。 その一方で、週刊ジャンプ時代の優れたメディアミックス展開に対する評価から、事業部部長に抜擢され兼任、(平成16年)8月には集英社となる。 なお、引き続き第3編集部部長職であり、(平成18年)7月まで兼任していた。 (平成20年)6月設立の取締役を兼任。 (平成21年)8月には集英社常務取締役、(平成22年)8月には集英社専務取締役に昇任。 (平成27年)8月に退任し、同年11月より代表取締役社長に就任する。 (平成30年)11月より代表取締役会長に昇任。 メンバーの一員。 編集者として [ ] 就職の際に自分の適性を自己分析した際、人より秀でているのが「人より多く本を読んでいる」ことぐらいしかなく、就ける職業がか編集者ぐらいと考えたが、作家として必要な「何かを発想して、その発想を深め続けること」が出来ないと実感して編集者の道を志す。 第一志望はだったが、当時はの翌年で採用がなく、最終的に就職試験に受かったのが生命保険会社と集英社だったという。 集英社では『日本版』に関わりたいと考えていたが、配属になったのが『週刊少年ジャンプ』編集部で(本人曰く「がっかりした」 )、それまで『ジャンプ』はおろか漫画すら一切読んだことがなく、実際に『ジャンプ』のバックナンバーを読んでも一つも面白くなく 、編集部内の体育会系の雰囲気を嫌ったこともあり 、配属されて一週間で転職を考えるようになったという。 「そもそも漫画が好きではない」というスタンスはその後の編集者としての立ち位置にも大きく影響しており、後に「漫画がすごいのではなくて、子どもが支持する媒体で他に読むものがないから消去法で漫画を読んでいるだけ」「言いたいことを言った結果、漫画編集を外してもらえればラッキーくらいに思っていた」「資本主義なので数字さえ出せばいい。 最前線で結果を出す人間が最も尊い」と語っている。 一方で、資料室にあった他の漫画を片っ端から読み、特に読みやすかったというの『』を徹底的に分析し、コマ割りの手法を新人漫画家の指導に応用した。 最初に担当したのは『』の作画を担当していたで、平松とはまともにコミュニケーションを取るのに3ヶ月を要したという。 鳥嶋が担当して3ヶ月後には打ち切りの予定だったという『ドーベルマン刑事』だが、平松が「細面の美人タイプ」として描いていた新キャラクター・を、のグラビアを見せながら「こういうイメージにしたい」と平松にアドバイスし、全て書き直させた結果、読者アンケートで3位に浮上し、後に原作のが綾川をメインに直した続編を作り、それが読者アンケート1位を獲得することになって、漫画編集者の仕事のおもしろさを感じるようになり、これが働くモチベーションにつながったという。 鳥山が新人賞に応募した原稿を最初に見たときは「原稿がきれいだな」と思ったという。 内容が『』のパロディだったために規定により選外となるものの、すぐに鳥山に電報を打って「才能があるから僕と一緒にやろう。 すぐに絵コンテを作って送ってほしい」と持ちかけ、その絵コンテを『』として読み切り掲載にこぎ着けるも、読者アンケートでは最下位となる。 しかし、そこからどうすれば面白い漫画を作れるのかを鳥山と試行錯誤し、1年半後に『』として連載にこぎ着ける。 元々第1話にしか登場しなかったはずのを主人公に据えることになったのも鳥嶋のアイディアであるが、これは、気乗りしなかった鳥山に「女の子を主人公にした漫画(『』)を描いて、読者アンケートが3位以内だったらそのまま、4位以下だったらアラレを1話だけで消していい」と賭けを持ちかけ、読者アンケートで3位だったためにアラレが主人公になったという。 『ドラゴンボール』では、初期に読者アンケートの順位が下がり始めた際、の「強くなりたい」というキャラクターを際立たせるために、敢えて登場人物を悟空・とだけにしてその他のキャラクターを排することでテーマを明快にし、人気を回復させた。 は高校卒業間際にに投稿した作品が選外ながらも鳥嶋の目にとまったことがデビューのきっかけとなり、『』の編集や『』の発案に関わっていた。 特にデビュー作の『』や『電影少女』などは鳥嶋のアドバイスに依る要素が大きい。 『ジャンプ放送局』を立ち上げたのは、『ジャンプ』の読者ページを鳥嶋が担当することになり、鳥嶋本人はいやがったものの当時の副編集長が懇願するため、当時『』に鳥山のインタビューを掲載したいと持ちかけたさくまに担当させることを担当の条件としたためであるという。 意に沿わない内容であれば原稿を容赦なく 没( 不採用・描き直し)にする鬼の編集者としても有名で、口癖の「 ボツ! 」は『Dr. スランプ』を始めとして多くの作品に登場し、鳥嶋本人の代名詞となっている。 自身は作家のエリアには入らないスタンスを取り 、ストーリー作りに参加する編集は二流と評しており、いかに何度も作家にダメ出しをして「自分は他人より何が優れているか」を悟らせることがビッグヒットを生む最大のコツであると語っている。 また、ストーリー作りに時間をかけるのは無駄であり、身近に感じられる魅力的なキャラクターを作ることが大事であると考えている。 また、漫画家に対して編集者は、作家に面白い漫画を描く力を付けさせ、読者に届けられる作品に磨かないといけないとも語っており、故に編集者が漫画家に好かれる必要は無いとも述べている。 時代の趨勢を先読みする事に長けており、泥臭い作品が読者や購買層に飽きられてきているの感じていたのか、ジャンプの三原則であった努力・友情・勝利に関しては否定的 で、特に暑苦しい熱血ものや根性物を嫌う一方で好きで、『ドーベルマン刑事』での加納と三森、『Dr. スランプ』でのアラレとオボッチャマン(をはじめとした各種カップル)などにおいても登場キャラクター同士を恋愛関係に発展させることにこだわった。 一方、元々恋愛沙汰を苦手としていた鳥山はこの姿勢に反抗し、『Dr. スランプ』の千兵衛とみどりの結婚に至る過程および次作『』でのとチチの結婚に至る過程をあっさりさせたとのこと。 2015年4月15日に放送されたの番組『』 15「」において、編集者として関わった作品や作家と共に歩んできた制作秘話などを熱く語った。 同月24日にフジテレビ系列で放送された「地上波特別編」でも、この放送で使われた一部と、『ドラゴンボール』や鳥山明の秘話などを熱く語ったものが放送された(一部地域を除く)。 その中で鳥山の『ドラゴンボール』が生まれる切っ掛けとして鳥山がの『』のビデオを流しながら仕事していたので鳥嶋が「カンフーの漫画を書いたらどうか」とアドバイスしたという。 への評価は当初低く、『』のプロトタイプとなった読み切り『』のアンケートが好調だったのにも関わらず、1997年春からの連載を一旦却下した。 しかし当時副編集長の、初代担当となるらの熱意に押され、渋々連載を許可した。 連載当初も全く期待は持っていなかった。 現在も作品自体をあまり好きではなく「3巻までしか読んでいない」と公言している。 ゲーム業界との関わり [ ] ゲーム好きであり、新入社員の頃に『』にハマっていた 他、『ジャンプ放送局』のさくまあきらたちとよく新宿のゲームセンターで行われるで新作ゲームを遊んでいた。 その関係でさくまから当時『』で仕事をしていた堀井雄二を紹介され、1982年の『週刊少年ジャンプ』誌上での特集を皮切りに堀井とともに同誌でゲーム記事を作るようになる。 堀井とは『』の戦闘システムや『』の世界観についてよく語り合い、1983年に(以下ファミコン)が登場するとその操作性の良さに感動し、「これからはファミコンの時代がくる」と互いに話していた。 その後、ファミコンの袋とじ特集で売り上げを伸ばした『』に対抗して『ジャンプ』でもゲーム特集を作るよう当時の副編集長に命じられ、『コロコロ』の二色刷に対して四色刷することと、的なゲームレビューを載せてメーカーからクレームが来たら全部カットすることを条件に『ファミコン神拳』をスタートさせた。 同記事を執筆した堀井のことは「ライターとしては天才に近い」と評し、原稿にボツを出したことはほとんどなかった。 また、男臭い作風を嫌う鳥嶋は当時の編集部内で浮いており、他の編集者たちから「なぜ漫画雑誌である『ジャンプ』にゲーム記事を載せるんだ」という反発の声が出ることを見越して、堀井が記事と並行して作っていた『』のキャラクターデザインとして漫画家の鳥山明を巻き込む形をとった。 初期のキャラクターゲームの中では『』は傑作と語り、その頃にのに会う。 後にバンダイは『』でヒットを出したものの、当時の代理店を通じてアニメ『』のスポンサーを降りると言い、それを聞いた鳥嶋は橋本を呼び出し「じゃあゲームの許諾を取り消すから2本目はないよ」と言ったことで降板を取り消させ、以降はアニメのスポンサードしないゲーム化は全て断るようになった。 また橋本からジャンプ漫画のオールスターゲームである『』の企画を持ち込まれ、鳥嶋が「漫画によってゲームにしやすいものとしづらいものがあって印税で儲かる作家と儲からない作家が分かれて不公平だが、このゲームを出せば全員がもれなく報われます」と編集部を説得したことで企画が実現化した。 1989年に『週刊少年ジャンプ』で連載開始した『』にも関わっており、当時の副編集長に「『ドラクエ』を『ジャンプ』で特集してもに利益があっても『ジャンプ』に出版物としての利益がない」と言われ、頭に来て『ジャンプ』で漫画を起こそうと考え、当時『ファミコン神拳』の後継コーナーである『ファミコン快盗芸魔団』のメンバーだったを原作担当、オリジナル漫画を描きたがっていたを説得し作画担当に起用して、『ダイの大冒険』の原型となる計5回の読切を描かせた。 アンケート結果は上位となり同年に連載決定となるが、連載開始時には鳥嶋はすでに副編集長となっていたため、直接担当を務めたのは読切5回のみだった。 1990年には『週刊少年ジャンプ』でやることがなくなったと感じ、漫画とホビーを題材とした雑誌『ブイジャンプ』を立ち上げる。 しかし当時の集英社にはライツの専門部署がなく複数の版権元とのタイアップ対応が大変だと気付き、3号まで出してそれぞれゲーム、アニメ、おもちゃの順に特集し、あえて少しずつ部数を落として会社に無理だと納得させ、これまで『ジャンプ』で扱ってきた『ドラクエ』や『』などのゲームを中心にすれば少人数で負担をかからないと提案し、新たに準ゲーム雑誌として『Vジャンプ』に改題して仕切り直した。 初対面で『』をダメ出しして、坂口がジャンプ編集部に『』をプレゼンしに来た際には途中からやりたくないという理由で見送り、次の『』の最初から組むことになった。 坂口とは週に1回飲みに行く間柄となる。 ゲーム業界に関わって逃したゲームは『』と『』の2つであると語っている。 創作物の登場人物として [ ] 鳥嶋が『週刊少年ジャンプ』編集部に勤務していた際に掲載されていた漫画には、鳥嶋をモデルにしたキャラクターが多く出演している。 早い例では1979年43号掲載の『』「とまれ! マラソン怪獣の巻」で、先輩編集者のとともに脇役として登場している。 1982年、鳥山明は『Dr. スランプ』の作中で、担当編集者としての鳥嶋のほかに、世界征服を狙う悪の科学者として を登場させた。 名称は「トリシマ」を逆さに読んだものであり、編集者としての鳥嶋とほぼ同じ容貌であった。 マシリトはその後も繰り返し出演し、ストーリーに大きな影響を及ぼす主要キャラクターの一人となった。 また、多くのジャンプキャラクターが登場するゲームにおいても『』(最終決戦の2人目の相手)や、後の『』『』に登場するなど高い知名度を誇る。 以降、 マシリトは鳥嶋のニックネームとなっている。 その後も『』の マトリフ、『』の トリシマン、『』の 嶋鳥和彦など、鳥嶋をモデルとしたキャラクターが次々と登場した。 そういった作品では、眉毛の薄さをネタにされることが多い。 『Vジャンプ』の読者コーナーにも 総統マシリトが登場し、テレビ番組『』のキャラクターにもなった。 同誌連載中の『』では実名で登場しており、単行本には顔写真も掲載されている。 ゲームソフト『』・『』にも、鳥嶋をモデルにしたキャラクター、(あまのじゃく)が登場している。 または、鳥嶋の性格をモデルにしているという。 の自伝漫画『』には平松の初連載作品『』の2代目担当編集者で、辛辣な言動と笑い声が特徴的な 魔死利戸 毒多( ましりと どくた)として登場。 女性キャラのアイディアを出して人気が低迷していた『ドーベルマン刑事』を盛り返したエピソード(前述)や、平松が故郷の岡山に居る彼女との遠距離恋愛で悩んでいる事を打ち明けると、「彼女を大事にしなさい」と真摯にアドバイスしたことが紹介されており、白泉社代表取締役就任後の姿も描かれている。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 株式会社小学館、株式会社集英社、株式会社小学館プロダクション 2008年6月17日. 2011年7月31日閲覧。 新文化. 2011年7月31日閲覧。 2015年8月26日閲覧。 新文化 2015年8月27日. 2015年8月28日閲覧。 AERA dot. 2018年2月13日. 2018年2月18日閲覧。 , p. , p. , p. 電ファミニコゲーマー 2016年4月4日. 2018年7月16日閲覧。 , p. 2-3. , p. 3-4. , p. , p. 桂正和 「桂正和インタビュー」『4C R-side』 集英社、1998年8月9日発行、、69 - 77頁• , p. 』アーカイブ• 『週刊少年ジャンプ秘録!! ファミコン神拳!!! 』集英社、2016年5月25日、66-73頁。 ファミコン神拳!!! 』76-79頁。 その他ではジャンプコミックス『キン肉マン』2巻所収の「ジャパニーズ・ドリームの巻」「南からの使者の巻」など• 初出はジャンプコミックス『Dr. スランプ』6巻所収の「Dr. マシリトの野望の巻 part. 1」 参考資料 [ ]• 今野大一 2018年10月26日. 2018年10月29日閲覧。 今野大一 2018年10月29日. 2018年10月29日閲覧。
次の昔からまことしやかに言われる都市伝説で高橋留美子先生は最初ジャンプに持ち込みしたけどたまたま原稿を見た鳥嶋さんにはねられてそれでサンデーの方に行って大成功。 だから当時鳥嶋さんは立場的になんとしてでも自分の力で新人を発掘して当てなきゃならなくて必死で鳥山明先生を引っ張り上げたと(笑 それが全部本当なのかどうかはわからないけど今日発売された高橋留美子本のインタビューで「たしかに大学生の頃サンデーの前にジャンプに持ち込みに行ってそこではものにならなかったけど、その時の担当が鳥嶋さんだった」と高橋先生ご本人が証言してる(笑 そして「『勝手なやつら』はサンデーの佳作止まりだったけど尊敬する藤子・F・不二雄先生が審査員の中でとても高評価してくれて超嬉しかった」と高橋先生。 F先生見る目ある~。 さすが!(藤子上げ) takeda1967 進撃の巨人の作者もそうだけどジャンプみたいな競争激しいところは他誌に逃がしてしまった大魚が多そうですね😅 yoshikun1600 やっぱり持ち込みの人数の数が違うでしょうからね。 率が同じでも大物を取りこぼすケースも多かったんでしょうね。 takeda1967 雑誌のカラーとかあるからある程度それはしょうがないよ yamaddacci takeda1967 同感。 高橋留美子先生の作風は、ジャンプよりもサンデーに向いていると思います。 takeda1967 マシリト氏のおかげで偉大な漫画家が二人生まれたのか…… takeda1967 k06ee1242000 少女誌でも「りぼん」に持ち込んでて駄目で「少コミ」に持ち込んだらあっさりデビューできて巻頭作家になった人を知ってますので、やはり集英社というのは色んな面で凄いのかなとw takeda1967 鴨川つばめのジャンプでの冷遇と言うのもあったね。 takeda1967 それであのレベルのヒット作を生み出せるなら苦労はしないなぁ。 ただ、ジャンプじゃなくてサンデーとかでじっくりやれば名作になるのになぁと思うと打ち切り作品はある。 人気がなくなって焦ってテコ入れや無理なストーリーにして勿体ないよ。 雑誌関係なしに何書いても面白いからすごいと思う。 inusin takeda1967 雑誌関係ないんじゃなくて、雑誌のカラーに合わせて描いてるんだと思うが… 仮に「サンデーでハガレン、ガンガンで銀の匙」は多分載らんだろ… takeda1967 これ都市伝説だと思ってた。 マジだったのね。 編集によって見る目は全然違うんだろうな。
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