紺碧 の 空 作曲 者。 朝ドラ『エール』モデル・古関裕而が作曲した「六甲おろし」と「闘魂こめて」秘話

紺碧の空【応援歌】古関裕而の作曲は実話で実在?

紺碧 の 空 作曲 者

本物の「紺碧の空」の誕生エピソードはどのようなものだったのでしょう。 早慶戦をもとに東京六大学野球連盟が発足 古関裕而作曲の 「紺碧の空」の誕生を語るうえで、欠かせないのが、 1903年に初開催された「早慶戦」です。 早慶戦は文字通り早稲田大学と慶応義塾大学の戦いで、当時 「野球界の頂点対決」として人気を博し、日本国民を巻きこんで盛りあがった対戦カードです。 しかし、しだいに学生同士の応援が過熱し、衝突をもたらしてしまうなど、継続することは危険と判断され、わずか3年で中断されました。 早稲田・慶応ともに全校をあげて、よほどの熱の入れ具合だったのですね。 中断後も早慶戦の復活のための仲裁がつづけられていましたが、慶応側が受け入れをかたくなに拒否。 早慶戦は中断したものの、1914年には早稲田、慶応、明治大学の三大学連盟が結成され、1917年に法政大学1923年に立教大学、そして1925年に東京帝国大学(現東京大学)が加入し、 現在の東京六大学野球連盟が正式に発足することになりました。 東京六大学野球連盟の発足により、これまで拒み続けていた慶応も折れ、1925年にようやく早慶戦が復活します。 復活までに19年という長い期間を要しました。 早稲田大学の連敗 待望の復活をなしとげ、互いを最大のライバルとする早慶戦では、1927年から1930年は慶応が一方的に勝ち続けている状況が続いていました。 早慶戦の結果が大学内の雰囲気を左右するなど、敗戦の影響力はおおきく、早稲田は一刻もはやくこの状況を打破する必要がありました。 そこで目を付けたのが、 慶応の応援歌「若き血」です。 慶応の勢いは、この「若き血」が応援歌として発表されたころから加速していて、野球部を何倍にもパワーアップさせていました。 「若き血」に対抗するような力のある応援歌が必要だとさとった早稲田大学の応援部は、学内で応援歌を募集し、審査は 詩人で作詞家の西條八十(さいじょうやそ)にまかせました。 早稲田大学高等師範部(現在の教育学部の前身)に在学していた学生 西城八十からは「一字一句も直すところなし」と言わしめたほどの完璧な歌詞でした。 紺碧の空 住治男作詞 1 紺碧の空仰ぐ日輪 光輝あまねき伝統のもと すぐりし精悦闘志は燃えて 理想の王座を占むるものわれ等 早稲田 早稲田 覇者 覇者 早稲田 2 青春の時 望む栄光 威力敵泣き精華の誇 見よこの陣頭歓喜あふれて 理想の王座を占むる者われ等 早稲田 早稲田 覇者 覇者 早稲田 古関裕而へ作曲の依頼が届く 闘魂を奮い立たせるような歌詞が選出されたものの、作曲者が決まらずにいました。 それもそのはず、あの「若き血」に勝るような強烈なメロディーを作れるものはそうそういません。 この詩を選出した西城八十は、「素晴らしい詩だが、作曲は困難になるだろう。 山田耕筰や中山晋平のような大物にたのまなくてはだめだ」といっていたほどです。 大物にたのむといえど、それほどの予算もありません。 その時の応援部には、古関裕而と同郷の 歌手の伊藤久男のいとこの伊藤戊が所属していました。 突然おしかけたかと思えば、「この度は応援歌の作曲を引き受けていただきありがとうございます!」と大声でお礼を言い、裕一を胴上げしはじめます。 実はこの裏には、 佐藤久志(山崎育三郎)の手まわしがありました。 早慶戦で11連敗という危機におちいっていた野球部を救うべく、打倒慶応をかかげた応援部は、慶応の応援歌「若き血」を凌駕する応援歌をつくることを決断します。 歌詞は学内で募集した「紺碧の空」に決定しましたが、作曲を依頼する人物が決まらずにいたところ、団長の田中が若く将来のある作曲家に頼みたいと言いだします。 そのとき、部員の一人である 佐藤幸太郎(斎藤嘉樹)が、いとこの佐藤久志に作曲の話を相談しようと手をあげたのです。 幸太郎から応援歌の作曲の話を聞いて久志の頭にうかんだのは、同郷の作曲家である裕一の顔でした。 久志は、まずは裕一の妻、 音(二階堂ふみ)に事のいきさつを話します。 音もどうすればよいのか悩みました。 久志が音に相談したことで、裕一が作曲を承諾してくれたと勘違いしてしまった応援部が、感極まり古山家まで押し掛けたというわけだったのです。 一旦は作曲を断るものの、ライバル慶応の応援歌「若き血」を作曲したのが、憧れの 小山田耕三(志村けん)だということを知り、耕三とおなじ土俵にたつべく作曲を引きうけます。 作曲を引きうけたあとで、曲が作れずに行き詰ってしまった裕一をのこし、音は実家のある豊橋に帰ってしまいます。 音がはなれてしまってから裕一は、むかしは音のために曲を作っていたことを思い出しました。 誰かのために曲を作ることにもう一度目ざめた裕一は、 それまでのスランプを取りかえすかのように「紺碧の空」を仕上げていくのでした。 以上のようなストーリーが朝ドラエールの「紺碧の空」の誕生秘話となります。 こうしてみるとドラマのストーリーも、早慶戦が絡んでくるところや、「紺碧の空」の作曲に苦労した話など、実話に近い形でかかれていますね。 早稲田大学の主要応援部員も、それぞれモデルとなった実在人物がいますし、かなりの再現度といえるでしょう。 主要応援部員のモデル 田中隆(三浦貴大):高山三夫(早稲田大学応援部員) 佐藤幸太郎(斎藤嘉樹):伊藤戊(伊藤久男のいとこ) 残念ながら、古関裕而が実際に何に苦労し「紺碧の空」を仕上げるのに時間がかかったのかなど、書籍や資料などには明確に記載されていないので比較することができません。 朝ドラでは、その明らかにされていない部分をドラマチックに仕上げてストーリーとしているのだと思われます。 おわりに 古関裕而が作曲した「紺碧の空」の誕生ストーリーには、早慶戦の歴史や、古関裕而の作曲家としての挑戦がありました。 「紺碧の空」は古関裕而を日本を代表するスポーツ音楽の作曲家として知らしめる代表作となったのですね。 朝ドラのエールでも、実話にかなり忠実なストーリーになっていることが分かりましたね。 古関裕而の残した名曲は「紺碧の空」以降どんどん出てくるので、朝ドラでどのように描かれるか楽しみにしています。 エールファンにおすすめ!.

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朝ドラで描いた紺碧の空、現状打破できず悩む若者へのエール/関西/芸能/デイリースポーツ online

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数々の映画メディアで活躍し、本サイトLmaga. jpの映画ブレーンでもある評論家・ミルクマン斉藤。 映画の枠に収まらず多方面に広く精通する彼は、NHK連続テレビ小説(朝ドラ)も注意深くチェックするという。 この春スタートした『エール』について、第8週(5月18日~22日放送)を観て思うところを訊いた。 第8週「紺碧の空」 古山家にズカズカ踏みこんできたいかつい男たちは、早稲田大学の応援部団員であった。 どういうわけか裕一は、すでに新しい早稲田の応援歌を作曲することになっていて、団長の田中(三浦貴大)はじめ全員が挨拶にやってきたのだ。 当時、大学生だけでなく民衆の人気を集めていたその頂点が『早慶戦』だった。 朝ドラ『わろてんか』でも描かれたエンタツ・アチャコの名作漫才「早慶戦」が生まれたのもまさにこの時代である。 ライバル慶応義塾大学の応援歌が『若き血』(堀内敬三・作詞作曲。 あの『蒲田行進曲』の作詞者でもある)になってから早稲田は連敗続きで、その悪しきジンクスを打破するためにも新しい応援歌が必要だった。 そこで文学部教授・西条八十(彼も後年、古関裕而の人生に大きく関わるが、実名で登場したところをみるとドラマには出てこないかも)の選考の下、選ばれた歌詞が『紺碧の空』なのだった。 ここで初登場となる山藤も、後の裕一にとって欠くべからざる人物になるはず。 演じるはまたしてもミュージカル界のスター・柿澤勇人である。 「他人の助言によってもたらされた気づき」 この週は『紺碧の空』を書きあげ、最初の世評的成功を得るまでの裕一の苦難を描く物語だ。 クラシック音楽に拘り、後ろ髪を引かれ、どうしても流行歌=大衆音楽に溶け込めない裕一が、ひとつの「気づき」を得るまでが高い熱量で描かれていく。 その「気づき」はほぼ他人の助言によってもたらされるのだ。 コロンブスレコードのレコーディング・エンジニア(桜木健一)は、「君みたいな人、いっぱい見てきたよ。 己に拘って才能を活かせない人」。 喫茶「バンブー」の店長(野間口徹)は、「曲が書けないのは自分の音楽を作ろうとしてるからじゃないかな。 僕が珈琲を作るときに考えるのはお客さんの顔なワケ」。 妻の音からは廿日市の言葉として、「西洋音楽に引っ張られすぎて鼻につく。 小賢しい知識をひけらかして曲を台無しにしている」。 どれも辛辣な言葉である。 音に「何か変えんと」と言われても「(自分の音楽を)変えたら意味ないよ」と突っぱねる。 果てには『紺碧の空』や流行歌の作曲をほっぽり出して、いわゆるクラシック音楽である管弦楽曲『反逆の詩』を書き上げ、心の師・小山田に提出するのだ。 僕はこういうのが書きたい、これなら書ける、ここまで書ける、というふうに。 しかし小山田はスコアを一瞥し、「で?」の一言のみ。 裕一の鼻っ柱は木端微塵にされるのだ。 ちなみに古関の作に関東大震災に想を得た『大地の反逆』というのがあり、この頃に国民交響管弦楽団によって披露演奏されているのは確かである。 クラシック系の曲で楽譜が現存する数少ないものというが、僕は聴いたことがない。 しかし! Twitterの「古関裕而 コロムビアレコード【公式】」によると、第37回の最後、まさに小山田にスコアを見せるシーンで流れた曲がそれだというのだ。 全曲リリースしていただけないものか。 おそらく「自らの意思で入社させた裕一への獅子の子落とし的指導であった」という展開になりそうな気がするが・・・。 懸念は志村けんさんが存命中、どこまで撮り終えていたかだ・・・とまあ、これは勝手な予想。 それはともかく小山田の、無視にも等しい反応に裕一は絶望する。 よけいに書けなくなる。 そんな裕一の作品を、団員からの忠言も聞かずにひたすら待つ田中。 いつになく開き直ったようにぶっ切れた、体育会系の暑苦しい演技が笑わせる三浦貴大だが、次第に内省的になっていく。 そこまで自分が新応援歌に拘るのは何故なのか。 「何か判らんけど、応援てわしらの自己満足やなかろうか」とまで自問自答する始末。 田中は田中で「応援する自分」を見つめ直し、その原点である体験に「気づく」のだ。 それは九州の片田舎でバッテリーを組んでいた親友に怪我を負わせてしまい、野球の道を断ってしまった話。 その親友は病院で、ラジオの野球中継を聴いて自らを鼓舞していたという。 そんな友のためにも「選手が頑張れるように応援することしかない」と涙ながらに裕一に話すのだ。 田中の話が、裕一の「凝り固まった頭を吹っ飛ばす(音の言葉)」。 音楽が降りてきて徹夜で曲を書き上げる裕一。 和洋折衷の仕事部屋に碧い朝日が差してきたころ、裕一は寝込む田中を起こして楽譜を見せる。 ・・・しかしタイトルが『紺碧の空』ではなく『紺壁の空』。 ホンマ吉田照幸はオチつけんと気が済まんのやなあ(褒め言葉)。 実際にもこの曲は、披露発表会の3日前にやっと完成したのだという。 その理由は定かでないが、「僕は自分の力を示すことに固執してた。 そんなひとりよがりの音楽、伝わるわけない。 今できることを頑張ってやってみるから!」と一歩前へ踏み出す裕一の姿が、現状打破できず悩む多くの若者たちへのひとつのエールの物語として成立していたのは間違いない。 もちろん窪田正孝の繊細にして、ときにデモーニッシュ(編集注:鬼神に憑かれたよう)な演技に拠るところは大きいが。 あ、ライバル慶応の応援団長・御園生新之助として登場する橋本淳は、朝ドラでは『ちりとてちん』に出ていたけれど、近年は舞台を中心に大活躍。 映画では昨年公開された傑作『月極オトコトモダチ』でちょっとない存在感を見せつけた俳優である。 今も早稲田の第一応援歌である『紺碧の空』は、古関裕而を真の歌謡曲作家に成らしめた「軍歌」のジャンルへの適応性を示すことにもなるのだが・・・。 果たして戦時期の彼はどれくらい描かれるのであろうか。 コロナ禍のせいでスケジュールが狂ったこともありいささか心配である。

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詩とピアノのコラボソング『青空恋ひて..』作曲/中谷幸代 作詞/ゆきか×紺碧

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[会員投稿随筆] 岸川 公一 🔶 コロムビアの専属作曲家になるため上京 古関裕而は、十八歳の昭和3年に故郷福島の地方銀行に就職しますが、仕事の手がすくと、五線譜を取り出し北原白秋や三木露風の詩集から好きな詩を選び、独学で趣味の作曲に没頭していました。 プロの作曲家への思い断ちがたく、完成した譜面をビクターやコロムビアに送って就職活動を図るうちに、コロムビアの顧問で専属作曲家でもあった、著名な 山田耕筰の眼にとまり、「見込みがある」との講評を得ます。 こうして昭和5 1930 年4月、弱冠二十歳でその道の大家・山田耕筰の推薦でコロムビアの専属作曲家として正式採用され、プロとしての第一歩を踏み出すべく、故郷福島を離れ新妻きんこを伴い、上京します。 そして翌昭和6年、二十一歳の時に、出世作となる早稲田大学応援歌 「紺碧の空」 が誕生したのでした。 その年 昭和6年 4月に、妻のきんこが帝国音楽学校に入学します。 そこには、同じ郷里の福島出身の伊藤久男 いとうひさお、「エール」では佐藤久志の名前で登場 が在籍していました。 伊藤は卒業後にコロムビアの専属歌手となって、イヨマンテの夜やあざみの唄等の歌唱で後世、名を馳せることになります。 伊藤の下宿先が古関の新居と近所だったこともあり、古関と伊藤はやがて行き来するようになります。 その 伊藤久男の従弟に、早稲田大学の学生で応援部の幹部を務める、 伊藤戉 しげる がいました。 古関は伊藤の下宿先でその従弟、伊藤戉に会った際に、応援歌の作曲を依頼されます。 当時、東京六大学野球で宿敵の慶應義塾大学に負け続けていた早稲田大学の応援部は、何とか慶応の「若き血」に匹敵する応援歌が欲しいと切望していた折で、藁をもつかむ思いで伊藤戉のつてを頼り、作曲者としては無名の若き古関に将来性を託し、白羽の矢を立てたのでした。 すでに作詞については、早稲田大学の全校生から募集したなかから、 高等師範部の住治男 すみはるお が書いた「紺碧 こんぺき の空」に決まっていました。 🔶 新人には過去はないが未来がある この詩の選者のひとりであった早稲田大学文学部教授の 西条八十は、ビクターから二年前の昭和4年に「東京行進曲」、翌5年には「唐人お吉の唄」などを立て続けに発表して、10万枚を超えるヒットを連発していました。 西条は「ほとんど訂正するところのない、素晴らしい詩だ。 ただ、「覇者、覇者、早稲田」という箇所が作曲上、難しいと思われるのでこれは相当の謝礼金を積んででも山田耕筰とか中山晋平といった大家に依頼しないと無理だろう..」との助言をくれたのでした。 過去、早稲田の応援歌は中山晋平、山田耕筰、近衛秀麿などの所謂、「大家」が作曲を手掛けていましたが、慶應義塾の「若き血」を凌駕するには至らず、まして、無名の新人作曲家には荷が重過ぎる、謝礼金は準備できるかどうか判らないが、ここはやはり、「大家」への作曲依頼が妥当だ、との声も少なくありませんでした。 そうしたなかで伊藤戉は、従兄の友人である古関の作曲家としての力量を信じ、周囲に「 新人には過去はないが未来がある」と云って古関への依頼を熱心に説いてまわった結果、次第に賛成の声が強まり、ついには古関に「紺碧の空」の作曲を正式に依頼することに決定したのでした。 この経緯を知った古関は「早稲田のためにいい曲をつくりましょう」と作曲を快諾しますが、応援歌の作曲の経験ひとつなく、応援歌の発表会日程が迫り来るなかで呻吟するうちに、何とか発表会の3日前になって「紺碧の空」は完成したのでした。 そして早稲田大学の「第六応援歌」として、正式に採用されます。 昭和6年春、東京六大学野球リーグ戦の最後を飾る早慶戦でデビューを果した応援歌「紺碧の空」は、野球部員と応援席を一気に奮い立たせ、球史に残る三原脩選手のホームスチールを呼ぶなどし、早稲田大学を劇的な勝利へと導いたのでした。 この評判は一躍、世間に広まりその後、「紺碧の空」は早稲田大学の 第一応援歌として不動の地位を築き歌い継がれることとなり、東京六大学野球の早慶戦はもとより、今では早稲田の付属高校が全国高等学校野球選手権大会に出場した際にも、球場で斉唱されています。 文責: 岸川.

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