伝説 の うなぎ 屋。 うなぎ伝説あれこれ弐話

【龍が如く7】サブストーリーNo.36の攻略と報酬

伝説 の うなぎ 屋

うなぎ伝説あれこれ うなぎ伝説あれこれ 「山岡さん。 最近、うなぎ食べてへんなぁ」 「はぜどん。 あんた、うなぎは家で食べるか、うなぎ丼屋さんに食べに行くかどっちや?」 「そやなぁ。 錦の大国屋(おおくにや)さんで買って来てたべるほうが多いな。 」 「そやろ。 だいたい京都の人は、うなぎを買って家で食べはる方が多い」 「なんでやぁ?」 「なんでや云うたら、京都のうなぎ丼屋さんは、関東風がほとんどやねん」 「そやけど、お店で売ったはるうなぎはみんな関西風やで! 錦の大国屋さんかて腹開きやし。 蒸したはらへんで」 「そやろ! そこが 京都の七不思議やねん。 」 「ほんまは、どっちがおいしのや?」 「どっちかておいしいとおもうで」 「テレビで云うたはったんやけど。 日本で一番うなぎの消費量が多いのは、京都や。 大伴家持が痩せてる年寄りにあてた歌に、 『石麻呂爾我物申夏痩爾吉跡云物曾武奈伎取食』(石麻呂に我物申す、夏痩せに吉と云うもの、そうなぎとり食せ)いうのがあるねん」 「ふーん!」 「それから。 あと一つ、 『痩々毋生有将在乎波多也波多武奈伎取跡河爾流勿』(痩すやすも生けらばあらんをはたはたうなぎを取ると河に流るな)っちゅうのもある。 」 「漢字はむつかしいわ。 』 という意味や。 もう一つは、 『家持はん、痩せて痩せてこんなに細い体でうなぎを漁り に河に入ったら流されてしまうわ。 』という歌や」 「すごいな。 そやけど、平安時代に蒲焼食べたはったんやろか」 「それはないと思うわ」 「ほな、どうしてたべたはったんや?」 「徳川時代正保年間(1644〜47)の『料理物語』にうなぎ料理は、 すし、なます、かばやき、山椒みそ杉板やき、さしみ、素焼きにして食すとかいてある」 「すし!?」 「作り方はわからんけど、うなぎのすしは宇治丸と云うんや。 まぁ、鮒鮨と同じ料理方法やと思う」 「何で、蒲焼て云うのや?」 「昔はうなぎの口から尾にかけて竹串を通して焼いてはたんや。 その形が蒲の穂に似てるさかい『蒲焼』て云わはったんや。 」 「ふーん」 「約八百六、七十年ほど前に『かばやき』という言葉が文献にでてくる。 今みたいな、うなぎを裂くという技法はもっと後からや」 「関東は背開きで、関西は腹開きやろ。 どっちが先なんや」 「そら、腹開きやろ。 かばやきを焼くのには醤油がいるやろ。 大体、江戸は醤油が一般的やない時代があったんや。 醤油は『上り醤油』と云うて、江戸は上方から輸入してたんやで。 昔は関東でも腹開きやったんや」 「ほんま!」 「徳川時代の元禄(1688〜1703)頃に今みたいな『蒲焼』の形になったんや。 元禄年間に上方で刊行された『産毛』という本に、四条川原で金串に二つ切りにしたうなぎを並べて焼いたはる挿絵が載ってる。 今の『蒲焼』と同じ形や」 「三百年も前からか!」 「京都では、そのころから露店のうなぎ売りの前の行燈(あんどん)に『うなぎさきうり』、『うなぎかばやき』と書いてあったんや。 徳川時代中期後半の黄表紙の挿絵にもまだ『うなぎさきうり』の看板は載ってへん」 「ほな、江戸はいつ頃からや?」 「明和から天明年間(1764〜88)頃に『大かばやき』と書いた行燈が出てくる。 おもしろいのは上方も江戸も露店は、遊廓の傍にあっんや」 「うなぎ丼は、江戸時代からあったんか」 「初めは『うなぎめし』と云うて文化年間(1804〜17)頃に売り出したんが始まりやと云われてる。 天明年間頃は『江戸前大うなぎ附めし』という形で売られてたんや」 「うなぎ丼とはちがうんや!」 「おもしろいのは『うなぎめし』は、うなぎ屋さんが考えたんとは違う。 ご飯の間にかばやきを挟み込んでたんや。 うなぎ屋さんが、平賀源内にどうしたらええか相談しにいったんや。 平賀源内は『本日丑の日』と紙に書いて店先に張り出したんや。 」 「ほんで、どうなったんや」 「客が押しかけて来て、うなぎが売れはじめたんや。 平賀源内はさっきはなした『大友家持の詩』を知ったはたんやなぁ」 「ほんま!」 「別の説もあんのや。 昔、暑い夏の日、ある大名が旅行に持って行くうなぎを沢山注文しやはったんや。 そのことが江戸中のうなぎ屋さんの間で大評判になって、次の年から『土用の丑の日』と書いて、うなぎを大売り出しにした。 と云う話も残ってる」 「土用の丑の日の話もええけど、おなかが空いた!」「ほな、はぜどん。 」 「かばやきの温め方は、どうすんの?」 「電子レンジで2分30秒。 ラップはかけない。 だしもかけない。 」 「もっとくわしくおしえて!」 「それは、また・・・・・つづく」 「ほんまやなぁ!!!」.

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伝説のからあげ屋

伝説 の うなぎ 屋

うなぎ伝説あれこれ弐話 うなぎ伝説 弐話 祇園辰巳橋の側、細い路地の奥に「望月」という町家がある。 陶変木人と会うのは、四条の京のきもの屋で 『フランス料理と京の器』という展示 会をして以来、何年ぶりのこと。 路地の格子を開けると、打ち水がされた石畳が続く。 そこには時間の止まった祇園町があった。 「こんばんわ」 曇りガラスの町家の格子戸をそっと開けると、品のよい、ふくよかな女将が待ってい た。 「陶変木人先生もうおこしどすえ」 ギシギシと音をたてながら二階にあがると、 「春の桜の辰巳橋もええけど、紅葉した桜の葉もええな。 季節ごとの桜見は、数寄 や」 薄暗いはだか電球の下に、彼はいた。 「山岡はん。 あんたもこっちへ来て見とうみ」 「はい」 「祇園の桜は、ここが一番や」 格子戸の開く音が聞えた。 「お連れさん、おこしどすえ」 「こんばんわ」 「はぜどん、朝も遅いけど晩も遅いな!」 「すんまへん」 「紹介しときます、こちら陶変木人さん。 仕事は陶器関係やけど、ほんまは何した はるかわからへん人や」 「陶変木人はん。 山岡さんがうなぎの季節は、秋やと言わはったんやけど、ほんま ですか」 「結論からいうと、秋や!」 「そやけど、夏が旬といわはるうなぎ屋さんは多いのと違いますか」 「昔は、今と違ってうなぎが脂濃い食べものやったんや。 あんまり夏にはうなぎは たべなかったんや。 そこで土用の丑の日ができる訳や」 「土用の丑の日が出来た話はこの間ききました」 「天然うなぎは海で生まれ、川で育って海に帰る。 秋になると産卵の為にまるまる と太ったうなぎが河口付近でたくさん漁れた」 「そうか、それでうなぎは『秋が旬』というのが正しいのんや」 うなぎ屋の暖簾をかき分けて 「おやじ、一人前とお酒一本」 と言いながら二階に上がると、広間と小部屋がふたつ。 五分ばかりして、浅漬けの大根、古漬けの茄子を肴に熱めのお酒がでる。 うなぎ屋は、三、四十分待たないと蒲焼は出て来ない。 肴は漬け物のにかぎる。 酒一合を楽しんでいる内に白焼きうなぎが一切れ、そこでもう一本。 「うなぎ丼がでると酒は呑まない、それと漬け物は一切れ残しておく。 うなぎ丼は 温かい内に食し、一口のごはんと蒲焼を少々残す」 「なんで」 「最後に一口のごはんと蒲焼で茶漬けをする。 そのために漬け物をのこしておく。 お茶は番茶に限る。 口の中もさっぱりするし丼に残ったタレやごはんもたべられる」 「すごい!こんどからそうしよう」 「陶変木人さん。 関東風、関西風はどのあたりが境なんですか」 「名古屋は関西風、豊橋は関東風。 関西風は腹開きで地焼き、関東風は背開きで蒸 して焼く、ところが三河岡崎では東西が混ざり背開きで地焼きという処がある」 近年、京都では関西風のうなぎ丼屋を見なくなった。 大半の店が関東風である、京 都の七不思議の一つ。 うなぎの包丁は関東、名古屋、京都、大阪、九州の五種類に分かれる。 特に京都は 京包丁と呼ばれ特異な型をしている。 江戸包丁 名古屋包丁 京包丁 大阪包丁 九州包丁 包丁が分かれているようにうなぎ丼も地方によって形が違う。 名古屋では 『ひつまぶし』 九州では 『せいろ蒸し』 そして 関東風、関西風うなぎ丼。 ひつまぶしはタレをまぶしたごはんを小さなおひつに入れ、 細かく切った蒲焼を上にのせる。 それを飯茶碗に取り分けて食し、最後の一膳はねぎなどの薬味をのせて茶漬けにする。 せいろ蒸しは、福岡柳川で生まれた。 タレをかけたごはんをせいろに入れ蒲焼をのせて蒸す方法で丼とは違う形態である。 おもしろいのはうなぎの焼き方である。 ここではうなぎに串を打つことはしない、一尾、一尾箸で挟んで焼く。 箸でひっくり返しながら蒲焼を焼くのは相当難しい。 地方によって色々の調理方法、道具、食べ方があり、そこには地方独特の文化が存在する。 「はぜどん、京都本来の蒲焼の焼き方や食し方を残していくべきうなぎ丼屋さんが少なくなっていくのは寂しいもんや」 「はい」 「此処、望月は古い町家を再生しやはったんや。 祇園の町家経営の新しい方法をとり、京都の文化を大切に守ったはるんや」 「高いんでしょ」 「会員制で一見さんおことわり。 でも、紹介があれば誰でも席を借りられるシステムにはなっている」 「紹介してもう!」 「陶変木人さん次の展示会はここでしたね」 「二年後の秋の予定です。 それまでにええ季節に陶器の話でもしましょう」 「あ!おもいだした。 来年の春3月末に作品展 をするのや!!」 「何処でするんですか?」 「 錦市場 でします!山岡はんもはせどんも案内出しますさかい、見に来て下さい」 「ぜったいいきますわ!な、山岡さん」 「楽しみにしてます」 つづく・・・.

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伝説のうなぎ屋が監修した「松屋のうな丼」ってどれくらいウマいの? 大のうなぎ好きがズバリ斬る

伝説 の うなぎ 屋

うなぎ伝説あれこれ弐話 うなぎ伝説 弐話 祇園辰巳橋の側、細い路地の奥に「望月」という町家がある。 陶変木人と会うのは、四条の京のきもの屋で 『フランス料理と京の器』という展示 会をして以来、何年ぶりのこと。 路地の格子を開けると、打ち水がされた石畳が続く。 そこには時間の止まった祇園町があった。 「こんばんわ」 曇りガラスの町家の格子戸をそっと開けると、品のよい、ふくよかな女将が待ってい た。 「陶変木人先生もうおこしどすえ」 ギシギシと音をたてながら二階にあがると、 「春の桜の辰巳橋もええけど、紅葉した桜の葉もええな。 季節ごとの桜見は、数寄 や」 薄暗いはだか電球の下に、彼はいた。 「山岡はん。 あんたもこっちへ来て見とうみ」 「はい」 「祇園の桜は、ここが一番や」 格子戸の開く音が聞えた。 「お連れさん、おこしどすえ」 「こんばんわ」 「はぜどん、朝も遅いけど晩も遅いな!」 「すんまへん」 「紹介しときます、こちら陶変木人さん。 仕事は陶器関係やけど、ほんまは何した はるかわからへん人や」 「陶変木人はん。 山岡さんがうなぎの季節は、秋やと言わはったんやけど、ほんま ですか」 「結論からいうと、秋や!」 「そやけど、夏が旬といわはるうなぎ屋さんは多いのと違いますか」 「昔は、今と違ってうなぎが脂濃い食べものやったんや。 あんまり夏にはうなぎは たべなかったんや。 そこで土用の丑の日ができる訳や」 「土用の丑の日が出来た話はこの間ききました」 「天然うなぎは海で生まれ、川で育って海に帰る。 秋になると産卵の為にまるまる と太ったうなぎが河口付近でたくさん漁れた」 「そうか、それでうなぎは『秋が旬』というのが正しいのんや」 うなぎ屋の暖簾をかき分けて 「おやじ、一人前とお酒一本」 と言いながら二階に上がると、広間と小部屋がふたつ。 五分ばかりして、浅漬けの大根、古漬けの茄子を肴に熱めのお酒がでる。 うなぎ屋は、三、四十分待たないと蒲焼は出て来ない。 肴は漬け物のにかぎる。 酒一合を楽しんでいる内に白焼きうなぎが一切れ、そこでもう一本。 「うなぎ丼がでると酒は呑まない、それと漬け物は一切れ残しておく。 うなぎ丼は 温かい内に食し、一口のごはんと蒲焼を少々残す」 「なんで」 「最後に一口のごはんと蒲焼で茶漬けをする。 そのために漬け物をのこしておく。 お茶は番茶に限る。 口の中もさっぱりするし丼に残ったタレやごはんもたべられる」 「すごい!こんどからそうしよう」 「陶変木人さん。 関東風、関西風はどのあたりが境なんですか」 「名古屋は関西風、豊橋は関東風。 関西風は腹開きで地焼き、関東風は背開きで蒸 して焼く、ところが三河岡崎では東西が混ざり背開きで地焼きという処がある」 近年、京都では関西風のうなぎ丼屋を見なくなった。 大半の店が関東風である、京 都の七不思議の一つ。 うなぎの包丁は関東、名古屋、京都、大阪、九州の五種類に分かれる。 特に京都は 京包丁と呼ばれ特異な型をしている。 江戸包丁 名古屋包丁 京包丁 大阪包丁 九州包丁 包丁が分かれているようにうなぎ丼も地方によって形が違う。 名古屋では 『ひつまぶし』 九州では 『せいろ蒸し』 そして 関東風、関西風うなぎ丼。 ひつまぶしはタレをまぶしたごはんを小さなおひつに入れ、 細かく切った蒲焼を上にのせる。 それを飯茶碗に取り分けて食し、最後の一膳はねぎなどの薬味をのせて茶漬けにする。 せいろ蒸しは、福岡柳川で生まれた。 タレをかけたごはんをせいろに入れ蒲焼をのせて蒸す方法で丼とは違う形態である。 おもしろいのはうなぎの焼き方である。 ここではうなぎに串を打つことはしない、一尾、一尾箸で挟んで焼く。 箸でひっくり返しながら蒲焼を焼くのは相当難しい。 地方によって色々の調理方法、道具、食べ方があり、そこには地方独特の文化が存在する。 「はぜどん、京都本来の蒲焼の焼き方や食し方を残していくべきうなぎ丼屋さんが少なくなっていくのは寂しいもんや」 「はい」 「此処、望月は古い町家を再生しやはったんや。 祇園の町家経営の新しい方法をとり、京都の文化を大切に守ったはるんや」 「高いんでしょ」 「会員制で一見さんおことわり。 でも、紹介があれば誰でも席を借りられるシステムにはなっている」 「紹介してもう!」 「陶変木人さん次の展示会はここでしたね」 「二年後の秋の予定です。 それまでにええ季節に陶器の話でもしましょう」 「あ!おもいだした。 来年の春3月末に作品展 をするのや!!」 「何処でするんですか?」 「 錦市場 でします!山岡はんもはせどんも案内出しますさかい、見に来て下さい」 「ぜったいいきますわ!な、山岡さん」 「楽しみにしてます」 つづく・・・.

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