のむら さちよ 野村 沙知代 別名義 伊東 芳枝(出生名) 生年月日 1932-03-26 没年月日 2017-12-08 (85歳没) 出生地 死没地 血液型 B型 職業 配偶者 アルヴィン・エンゲル ( - ) ( - ) 著名な家族 (長男) (次男) (三男) 野村 沙知代(のむら さちよ、(7年) - (29年))は、の。 元・であるの妻として知られる。 出生名は 伊東 芳枝(いとう よしえ)であり、沙知代に改名したのはだが、本記事では便宜上、改名前の事項についても「沙知代」と表記する。 愛称は「 サッチー」。 これは『』で共演したから「サッチー」と名付けられたという。 所属事務所は株式会社エフエンタープライズ()。 はB型。 経歴 [ ] 生い立ち [ ] 3月26日にで伊東巳之吉・さく夫妻の長女として生まれる。 父はので、一家はに住んでおり、本人も南千住で幼少期を過ごした。 に第二瑞光国民学校初等科(現:荒川区立第二瑞光小学校)を修了したが、2月25日ので自宅が焼失したため、一家は東京を離れて西郷村の隣の白河町(現:)に移り住み、終戦後も白河で生活した。 白河第一国民学校高等科を卒業後、にとして就職。 しかし、この仕事をしていた時にミスコンに出場し、「ミス白河」に抜擢され優勝した事をきっかけに、地元新聞に写真入りで紹介されているという。 これを機に電話交換手の職を退職し、東京へと舞い戻り、しばらくは実家と音信不通の日々を送るようになる。 その後しばらくしてから、家族に手紙を送って妹や弟をに呼び寄せ、米兵からもらったやを手渡して「お父ちゃんたちも大変だろうから、ちゃんと一生懸命勉強しなきゃだめだよ」と言って学費の援助をしたという。 東京での住まいや生活の子細などは家族に明かさなかったというが、弟の伊東信義によれば、沙知代の服装や化粧、持ち物、更にその収入を見ればをしていることは明らかであり、米兵に肩を抱かれてホテルの周りを闊歩する姉に遭遇することもあったという。 4月、として来日していた東欧のアルヴィン・エンゲルと結婚し、同年5月に長男・、2月に次男・が生まれた。 野村克也との出会い [ ] 8月、の選手兼任監督であった野村克也は、18日から20日にで開催される対戦のために上京。 宿泊先の原宿のホテルに程近い行きつけの高級中華料理店を訪れた際に、沙知代と相席になり一緒に食事を取りながら談笑した。 これが二人の出会いであるという。 それからしばらくして沙知代は克也と関係になり、頃には克也は本妻と別居状態になった。 この時点では克也の婚姻関係のみならず、沙知代自身の婚姻関係も解消されていなかったことから、両者はの状態であった。 克也はこの当時の状況について、本妻はお嬢様育ちで家事をまともにやらず、そのうえ浪費癖も酷く、さらには本妻の方が既に他の男と不倫関係にあったので、沙知代と知り合う以前のの時点で本妻に対して離婚を要求し別居していたと主張しており、また沙知代との関係についても、沙知代を囲い始めた頃に南海球団オーナーのに報告し、「やから何もいわん」との返答を得て関係を承認されていたと主張しているが 、これに対して克也の長男(本妻との間の子)は、父の克也が突然自宅に帰ってこなくなったのは1973年頃であり、母(本妻)は大人しく家庭的な人で料理等の家事もきちんとこなしていたと証言しており 、沙知代の実弟・信義もこの長男の証言内容を全面的に認めている。 克也が自宅へ戻らなくなった頃、克也のチームメイトであり親友でもあったが忠告したが、克也は広瀬の忠告を聞き入れず、逆にこれ以降広瀬を疎んじるようになった。 広瀬は自著で沙知代について「球場へ出入りするなどしたことも私は快く思っていなかった。 以心伝心というものか、彼女も私が嫌いだったのだろう。 用兵にまで口出したかどうかは知らないが、73年頃から私の出番は確実に減っていった」と述べている。 南海球団との争い [ ] 7月23日には、克也との間にが誕生したが、克也は当初、克則をしなかったため、沙知代は克則を実父・巳之吉のにしようとしたという (翌1974年6月に克也は克則を認知)。 この頃から沙知代は、南海のチーム運営に口を出すなどの行為が目立つようになり、選手たちの不満が渦巻くようになった。 には「野村の方針に文句を言うな。 文句を言うなら試合で使わないわよ」と電話を掛けたという。 1975年秋、ついに我慢の限界に達した選手たちは沙知代の排除を計画し、で行われた秋季キャンプで克也が選手に意見を求めた際に、門田博光、、の3人が「"カゲ"の監督がいるせいで選手が気持ちよくプレーできない雰囲気になっている」という旨の発言をして現状の是正を求め 、11月には西岡、江本、の3人がチームを代表して大阪市内のホテルで克也に「公私混同を止めてください」と直訴した。 一方、球団フロント・職員の間にも沙知代に対する不快感が広がっており、監督の初年度が最下位に終わったが投手補強のため南海にトレードを申し込んで来た際に、南海の球団幹部が「野村が巨人へ行きたがっている」という情報を流した。 巨人のフロントはこの情報に興味を示し、常務と広報が窓口となって克也の獲得交渉を進め、選手兼任ヘッドコーチとして克也を巨人に移籍させることで条件がまとまり、克也本人も巨人への移籍を喜んで承諾していたが、結局不成立に終わった。 長嶋が反対したためであるという。 留任が決まった克也は反沙知代派の粛清に乗り出し、首謀者と見なされた西岡は12月にへ、江本は翌年1月にらと共にへと、それぞれ交換トレードで放出された。 沙知代はこの時、門田も他球団へ放出させようと画策したが、川勝オーナーが克也に「門田だけは出すこと相成らん」と釘を刺したため、門田の放出は阻止された。 5月17日にアルヴィンとの離婚が成立。 8月には「 芳枝」から「 沙知代」へとした。 沙知代は監督室に出入りしたり、コーチ会議に口をはさんだり、選手の夫人たちに対して沙知代が私的に作った「南海を優勝させる会」なる集まりへの参加を強要した。 そのため選手たちはに再び沙知代の排除を計画し、選手たちの訴えを聴いた森本昌孝球団代表は、8月中旬に克也を呼び出して最終警告を発した。 克也が後見人であるの高僧・を訪ねて相談したところ、葉上は克也の不品行を厳しく叱り 、「女(沙知代)を捨てなさい。 でなければ、野球ができなくなる。 女を取るか、野球を取るか、道は二つに一つしかない」と懇々と説諭した。 ところが、外に控えていた沙知代がその場に闖入し、葉上から直ちに退去するよう命じられると、沙知代は葉上を激しく罵倒した。 克也はこの時の沙知代の行動を「溜飲がさがる思いだった」と述懐している。 しかし、この一件でついに川勝も克也を庇いきれなくなり、9月13日に行われた川勝オーナー、森本球団代表、葉上大阿闍梨と球団後援会長(社長)の四者会談で、「野村の公私混同は甚だしく、沙知代を排除するためには野村の解任も止むを得ない」との結論に達した。 球団側は温情措置として克也に対し自主的な辞任を促したが、克也が拒否したため、克也は9月25日にシーズン終了を待たず2試合を残して解任された。 記者会見の後、克也は『』に「独占手記」と題する文章を発表した。 その中で克也は、沙知代が監督室に入り込み、選手に電話をして野球の事に口出しをするなどの現場介入を繰り返しているなどという話は全くのデマであると主張し、本妻と広瀬夫妻、、らを激しく非難するとともに、その背後には球団の「元老」であるの存在があると主張した。 克也は、鶴岡が自らの権勢を維持するため、克也を排除して自分に忠実な広瀬を監督にしようと画策し、鶴岡の意を受けた広瀬と小池がデマを流して自分の足を引っ張り、チームの統制を乱していたと主張した。 また克也は、にがの真相は、鶴岡一派に嫌がらせをされて精神的に追い詰められたことによるであると主張し、今回の解任劇も沙知代に濡れ衣を着せることで球団改革を進めていた自分を抹殺しようとする鶴岡一派が仕組んだ陰謀であり、1975年の門田と江本の「造反」もそうした陰謀の一環であったと主張した。 克也はその後も一貫して、沙知代が現場介入をしたなどという話は全くの事実無根であり、鶴岡一派が自分と沙知代を陥れるために流したデマであると主張し続けていたが 、沙知代の死後になって「結婚したら采配に口出して来て、私がいない間にコーチや結果を残せない選手にしっかりしなさいと言っていたみたい。 私も止められなかった」と、沙知代の現場介入が事実であったことを認めた。 表舞台への登場 [ ] 1月に克也と本妻のが成立すると、同年4月19日に克也と。 ダンとケニーの二人も沙知代と共に克也の籍に入り、野村姓を名乗る。 克也はに現役を引退すると、として解説業の傍ら主に野球に関する著作を次々と発表した。 沙知代もまた文筆活動に興味を持ち、1985年にが主催した第4回潮賞のノンフィクション部門に「きのう雨降り 今日は曇り あした晴れるか」と題した作品で応募して特別賞を受賞した。 受賞者が発表された『潮』1985年8月号にはノンフィクション部門の選考委員3人(、、)による鼎談形式の選評が掲載され、その中で本田靖春は、沙知代の作品を「私はプロ野球にはあまり関心のない人間の一人なんですが、その私にして野村克也という人柄とか、人となりを、非常に身近なところから再確認できたんじゃないかと、そういう感じがします。 話題性も十分だし、これまた活字になるべき価値を持った作品だと思いますね」と講評し、沙知代の南海追放に関する主張は「あくどいジャーナリズムに対する反論」であるとして、沙知代を「この人はまちがいなく教養人だと思う」と評した。 克也と南海時代から師弟関係にあったは、1990年に克也の監督就任に伴ってコーチに就任したが、1年で辞任し、「相変わらず夫人の介入もありましたし」と語っていた。 また、について「(夫が)ヤクルトの監督を辞める時、古田くんは『お世話になりました』の一言だけ。 (略)古田くんを夫は愛弟子のように育てていましたが、息子(カツノリ)は育てられないのかと非常に不満でした。 やっぱり古田くんは殺してやりたい 」と発言したり、1998年1月にはハワイで、と交際していると報道されていたタレントのを殴打する騒動を起こすなど 、克也のヤクルト監督時代も沙知代の行状は改まらなかった。 衆院選立候補とサッチー騒動 [ ] (8年)、沙知代はに、公認候補として、・からした。 選挙結果は落選(小選挙区で次々点、比例で次点)であったが、選挙後の1999年3月31日に、の番組上で、以前に沙知代と舞台で共演したのが沙知代の繰り上げ当選についてコメントを求められた際に沙知代を激しく批判したことをきっかけに、複数の芸能人や著名人などを巻き込む形でなどので浅香と沙知代の間で批判合戦が繰り広げられた。 詳細は「」を参照 この騒動の過程で、実弟の伊東信義が「沙知代が公表している経歴等はそのほとんどが嘘である」という告発を行ったため、浅香らは7月に、沙知代が1996年の選挙に立候補した際に選挙公報等に「コロンビア大学留学」「1972年に野村克也と結婚」などの計7件の虚偽の経歴を記載していたとして、第235条(虚偽事項の公表罪)違反の疑いで、沙知代をに告発した。 の検事と捜査員が、現地コロンビア大学で調査したところ、大学の事務当局には当時のの学籍原簿や単位認定記録等自体が残っておらず、経歴詐称の証拠は得られなかった。 一方、婚姻歴については息子・克則の出生日から逆算して、1972年当時には既に克也と「」の状態にあったと推定された(先述の通り、正式な婚姻の成立は1978年4月)。 10月1日に検察は嫌疑不十分によりとしたが、沙知代はその後、選挙結果に伴って生じていたの権利を辞退する意向を示した。 このの疑いについては先に、テレビ番組 『』()が取材し、同大学のによる卒業生名簿に、該当する名前がないことが判明していた。 また、週刊誌の取材を受けた沙知代は、「の陰謀」、「コロンビア大学ではなく、に留学した。 間違えたのは編集部のミス」などと答えるなど 、曖昧で非合理な対応に終始していた。 英語を流暢に喋る沙知代に克也が「どこで英語覚えたの? 」と質問すると「コロンビア大学」と答え、親は社長をしていると発言していたが、克也によると沙知代は、両親を克也に一度も会わせることは無かったという。 脱税事件 [ ] 克也がの監督を務めていた3月12日から15日にかけて、東京国税局が阪神球団に、沙知代の脱税に関しての立入調査を行ったことで 、沙知代の脱税疑惑が取沙汰される。 この脱税事件の発覚に大きな役割を果たしたのは次男のケニーで、ケニーは沙知代から自分にかかってきた本件についての口止めの電話の録音テープなどを捜査当局に提供していた。 7月30日、この年で3年契約が満了する克也は、阪神球団首脳(オーナー、オーナー代行、球団社長)と面談した。 克也の続投を求める野崎に対して、久万は沙知代が逮捕された場合には直ちに辞任させるという条件で克也の続投を許し、阪神球団は8月2日に監督契約を更新して翌シーズン以降も野村体制で臨むと発表した。 10月8日、阪神は2001年の公式戦全日程を終了したが、この頃にはもはや沙知代の逮捕は不可避と見られており、久万は10月末に秘書を通じてとの接触を開始。 11月9日にはで星野と面談して監督就任を打診する一方で 、11月29日には球団取締役会で、沙知代が逮捕された場合には直ちに克也に辞任を命じることを改めて確認した。 12月5日、沙知代は約5億6,800万円の所得を隠し、とあわせて2億1,300万円を脱税したとして、法人税法違反(脱税)などの疑いで東京地検特捜部にされた。 同日深夜に克也は監督を辞任し、翌6日未明に開かれた会見で辞任が発表された。 克也は「嫁の問題で監督を2度もクビになっているのは世界中探しても私ぐらいだろう」と述べている。 少年野球チーム [ ] 沙知代はかつて、()「港東ムース」(後に解散)のオーナーを務めていた。 港東ムースには、ごく短い期間だがが在籍していた。 佐藤について沙知代は「日本一になったときのメンバーですから、そりゃあもう、かわいがりましたよ。 張り飛ばして、ぶっ飛ばして育てたんですから」と語っている。 ケニーは、後に自身の妻となった女性の息子がかつて同チームを退団し、その後の野球人生を沙知代に潰されたことを自著で明らかにしており 、これはその後の親子絶縁の一因ともなった。 また、(平成13年)に発覚した脱税事件では、沙知代が親らから集めた金をしていなかったことも指摘されている。 晩年 [ ] 脱税事件の公判中には「今後、芸能活動はしない」と言っていた沙知代であったが、2年程度経過後に芸能界復帰へと動き出し、有罪判決翌年のに『新春SP』(TBS)で、テレビに復帰した。 翌年には、『』(フジテレビ)に出演、また、『世界絶叫グランプリ』(同)では、全米の超恐怖と言われる4大マシーンを、表情変えずに完全制覇する姿が放送された。 『』は、同年の夏場所4日目に、沙知代が「砂かぶり」席で組長の妻と談笑しながら観戦していたことを報じた。 これに対して沙知代は「隣にいた女性は全く見知らぬ人であり、記事は暴力団と密接な関係にあるとのイメージを与え著しく名誉を傷付けた」として、同誌の発行元であるを相手取って、3300万円のをに提訴した。 その後、体力の衰えや話す内容がまとまらなくなるなど徐々に老化が始まり、以降、死去するまで公の場に姿を現すことはなかった。 晩年まで沙知代のをしていたのは克則の妻で、「日本一勇気ある嫁」と揶揄されたものの、沙知代と共著2冊を出すなど関係は良かったという。 、沙知代はこの日を一口しか食べなかった。 その後、克也の呼びかけにも反応しなくなり、14時30分頃に心肺停止の状態で内のに緊急搬送されたが、同日16時9分にのため死去した。 克也によると、死去前日の12月7日には内のホテルに出掛け、夫婦で夕食を共にしていたという。 85歳だった。 戒名は「惠光院愛絆咲沙大姉」。 没後 [ ] 、やらを発起人として都内のホテルでお別れの会が開かれ、古田敦也を始めとする球界関係者の他、やなど著名人およそ1,000人が参列した。 克也の悲しみは深く 、報道陣の前で涙を見せる様子もあったが、多くの参列者が集まったことに感謝の意を示した。 克也は出演した「爆報! THE フライデー」にて、沙知代死去直前の様子などを語った。 その中で克也は、沙知代が自分に語った過去の経歴や家庭環境などは「履歴は100%、全部ウソでした」と告白し 、克也はまた「ウソをついてでも自分と結婚したかったのだろう」と語った。 克也のこの発言により、沙知代の経歴に関する騒動は決着した。 3月、克也は手記『ありがとうを言えなくて』を発表し、沙知代が死去した時の様子や沙知代への思いなどを明かした。 克也は同書において沙知代が自分に言っていた生い立ちや経歴はすべて嘘であったと認めた。 また沙知代の最後の言葉はいつもの強気な口調で「大丈夫よ」であったという。 翌1月、『』1月28日号に浅香光代と内縁の夫であるが、「」当時について述懐した記事が掲載された。 その中で世志は「サッチーがしていたことって全部野村監督のためなんだよ。 (中略)確かに度を越したところもあったけど、それだけ一生懸命だったんだなって今は思うね」と語っている。 2020年、克也が84歳で、沙知代と同じ病名で、同じく自宅で倒れて死去した。 沙知代が亡くなって2年余りであった。 家族 [ ] 前夫との間にもうけたとは、1978年に克也とした際に沙知代の子供として共に克也の戸籍に入ったものの、沙知代と確執があり二人共に絶縁関係となった。 ただし両名共、義父の野村克也とは絶縁しておらず、親交を続けた。 前夫のアルヴィンは、にした。 父の巳之吉はアルヴィンの為にをもらってそのを自家のに安置し、日々供養を欠かさなかったという。 次男のケニーは(平成13年)、母との決別の書たるを著したが 、2005年に克也が仲介に入り、和解した。 ダン、ケニー、克則の3人はその後結婚して子供も授かったため、沙知代には孫が数人いる。 このうち、ケニーの娘であるは職業として野球界に携わっており、に球団職員として勤めている。 著作 [ ]• 『きのう雨降り 今日は曇り あした晴れるか』 (、)• 『叱ってしつける ほめて育てる - 野村沙知代の親子塾』 (、)• 『女は賢く妻は可愛く』 (海竜社、)• 『猛母猛妻』 (、)• 『あなた、男の鑑定できますか - チェックポイントは、この17カ所』 (クレスト社、)• 『夫婦をみがく33の秘訣 - 夫婦のあり方、この組み合わせの妙』 (、)• 写真集 『Stay Young Forever - 野村沙知代』 (、)プロデュースは。 高須曰く「返品率が9割を超え、今まで412冊の写真集を作ったがワーストワン。 私の人生最大の汚点と言ってもいい」。 『I am サッチー - 挑発~沈黙の200日』 (、2000年)• 『サッチーの母親学 - 母稚園』 (ぴいぷる社、2001年)• 『老疼の雫』 (、)• 『新・冠婚葬祭入門』 (新書、)• 『夫の転がし方』 (、)• 『女が人生を前向きに生きるための「明日じたく」』(、) メディア出演 [ ] テレビ番組 [ ]• (、) - と共演• (、・それ以降も数回ゲスト出演があった)• (1996年、フジテレビ)• ・独占! サッチー真実の裏側(フジテレビ)• 『野村沙知代&カツノリ嫁の爆笑買物珍道中に密着』 () - 2001年4月6日、進行は(テレビ朝日アナウンサー)• () - 2010年2月から6月まで準レギュラー• (フジテレビ) - 準レギュラー• 『6・浮世絵師北斎-信州路に消えた殺人者』 () その他ゲスト出演多数。 CM [ ] 過去に出演したのも含む。 高須クリニック - 沙知代逝去後の2017年12月末には、彼女の出演していたCM映像の最後に「野村沙知代さんのご冥福をお祈りいたします」という追悼テロップが挿入されたCMが放送された• 「タンスにゴン」• (水着姿を披露して話題になった) ほか多数。 映画 [ ]• (1999年公開、花屋役)• 大喰い開眼篇(2007年8月公開、)• 喰いしん坊! 2 大喰い苦闘編(2007年8月公開、メディアワークス) オリジナルビデオ [ ]• 喰いしん坊! 3 大喰い敵対篇(2008年8月25日、)• 喰いしん坊! 4 大喰い激闘篇(2008年12月25日、オールインエンタテインメント) 参考文献 [ ]• 伊東信義『姉野村沙知代』(ラインブックス、1999年)• 『グッバイ・マミー 母・野村沙知代の真実』(、2001年)• 浜田昭八『監督たちの戦い 決定版 下』(、2001年)• 『門田博光の本塁打一閃』(、2006年)• 『ダメ虎を変えた! ぬるま湯組織に挑んだ、反骨の11年』(朝日新聞出版、2011年)• 『南海ホークス ナンバ栄光と哀しみの故郷』(ベースボール・マガジン社、2014年)• 『野球バカは死なず』(、2018年)• 『女房はドーベルマン』(、2002年)• 『ありがとうが言えなくて』(、2019年) 脚注 [ ]• 『姉野村沙知代』29頁• 『姉野村沙知代』33-34頁• 『姉野村沙知代』52頁• 『プロ野球「毎日が名勝負」読本』(彩流社)• 『女房はドーベルマン』73-75頁• 『ありがとうを言えなくて』61-63頁• 『週刊文春』1999年6月3日号、26-30頁• 『姉野村沙知代』153-155頁• 『南海ホークス ナンバ栄光と哀しみの故郷』73-74頁• 『姉野村沙知代』142頁• 偉大なる月見草・野村克也の人生 - 圧倒的な才覚で野球と向き合った波乱の54年 『週刊ベースボール・タイムズ』 株式会社スクワッド Vol. ,週刊新潮 2017年12月21日号掲載• 『門田博光の本塁打一閃』118-120頁• 『野球バカは死なず』156-158頁• 『監督たちの戦い 決定版 下』16頁• - MSN産経ニュース 2012年2月14日• 『門田博光の本塁打一閃』121頁• 『姉野村沙知代』162頁• 『姉野村沙知代』169頁• 『女房はドーベルマン』78頁• 『ありがとうを言えなくて』79-80頁• 時事通信• 『女房はドーベルマン』76-77頁• 2019年4月13日号、169頁「野村克也、亡き妻の墓前にて-最愛のサッチーを忘れられず…」• 『姉野村沙知代』27頁• 『潮』1985年8月号、96頁• 『潮』1985年8月号、86頁• 『きのう雨降り 今日は曇り あした晴れるか』203頁• 著、甲子園への遺言 伝説の打撃コーチ高畠導宏の生涯 文庫 、2008年、P304• ,90チョベリー,2016年3月24日• デイリースポーツ、2017. 週刊誌『』の取材• 2018年11月10日号、140頁、野村克也「沙知代よ、君がいない毎日はつまらなくて」• 『ダメ虎を変えた!』80頁• 『ダメ虎を変えた!』82頁• 『ダメ虎を変えた!』138-139頁• 『ダメ虎を変えた!』87頁• 『ダメ虎を変えた!』88-89頁• 2017年12月25日号、P96• 2009年6月23日• 、2008年8月24日• 2010年6月11日 [ ]• 2018年4月27日号ノムさんボヤいた、野村克則美人ディレクターと!不倫、23頁• 2018年2月16日 スポーツ報知• - デイリースポーツonline 2017年12月9日• - スポーツニッポン 2017年12月9日• ホウドウキョク(フジテレビ)2017年12月8日• デイリースポーツ• スポーツニッポン• 2018年02月28日 WEB女性自身 克也は2月8日に放送された「」()、同年2月16日放送の「」()、同年2月28日放送の「」(フジテレビ)に出演し、気持ちの整理がつかない日々を語っている。 2018年1月25日 ORICON NEWS• 2018年2月16日 スポーツ報知• 2018年2月16日 スポーツニッポン• 2018年2月16日 スポーツ報知• 野村克也さんがいま明かす「沙知代さんが亡くなった瞬間のこと」(現代ビジネス編集部、2019年4月28日、講談社)• 丸山あかね「野村克也氏が語る妻・沙知代と生きた人生」(論座、2019年5月2日、朝日新聞社)• 浅香光代が振り返る、野村沙知代さんとの「あたしゃ、許さないわよ!」の全真相(週刊女性、2020年1月28日、主婦と生活社)• 読売新聞. 2020年2月11日. 2020年2月11日閲覧。 『グッバイ・マミー』57頁• 『姉野村沙知代』174-175頁• 日刊スポーツ 2017年12月9日• - 日刊スポーツ。 2018年9月29日12時53分発信、同年11月1日閲覧• 2017年12月21日号、32頁 外部リンク [ ]•
次のこの にはなが不足しています。 の提供に協力をお願いします。 存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的にあるいは有害となるものは すぐに除去する必要があります。 ( 2014年2月) 庄司 紗千(しょうじ さち)は日本のピアノ弾き語りの女性。 来歴 [ ] 出身。 ピアノ科卒業後 、オリジナル曲の作詞作曲をはじめ、2005年から二人組のユニット「てまり」のとして活動を始める。 2010年よりジェンヌWebCMシリーズに自らが作曲、演奏を手掛けた曲が起用される。 2011年7月「さらら」から「庄司紗千」に改名。 2011年よりソロ活動を始め、2013年11月にソロで初のミニアルバム 「」をリリース。 完売 2014年1月より、同アルバムの収録曲「ハッピーストライド」がYBCテレビ「」のエンディングテーマとして採用されている。 フルアルバム「つつじケ丘の坂道で」発売中。 )、山辺ショッピングセンターベルにて販売。 かつては東京を拠点とし、精力的にライブ活動展開していた。 いちごとホワイトチョコとモツ鍋と焼肉とタイ料理と芋煮が好き。 2019年4月より山形に拠点を移した。 そして山形放送ラジオで「」が始まった。 出典 [ ].
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