芸能界の独立話が後を絶たないなか、ビートたけし(71)も独立する。 88年に自身が立ち上げた「オフィス北野」を退社。 すでに設立している「T、Nゴン」で活動する。 30年間に渡りたけしを支えてきた森昌行社長(65)と別れ、「愛人」と言われている女性を新たなビジネスパートナーに小説や絵を中心にした仕事に取り組むと見られている。 特に小説は、又吉直樹の直木賞が刺激になり意欲を燃やしているという。 仕事の方向転換には別な見方もある。 「テレビのレギュラーや映画の仕事も徐々に減らし、小説など家でできる仕事をすることで愛人と過ごせる時間も増やすのでは」(テレビ関係者) 芸能界の独立は出ていく者に試練が待っているのが相場だが、今回は逆。 たけしの新たな旅立ちは準備万端。 さらなる期待の声も多いが、残る「たけし軍団」には一抹の不安がよぎる。 80年代初期にたけしのファンやタレント志望の若者がたけしを慕い集まって結成された「たけし軍団」。 当時は「石原軍団」のパロディーとも言われたが、たけしを「殿」と呼び、男の絆と結束力はマジだった。 番組でもいかんなく軍団力を発揮。 熱湯風呂など体を張ったパフォーマンスで茶の間を席巻したが、軍団はあくまでもたけしとのセット。 たけし番組のアイテムに過ぎなかった。 そこにブームの終焉がやってくる。 替わって台頭してきたのが吉本芸人を中心としたお喋りバラエテイー。 舞台で鍛えた喋りのプロの前では敵うはずもなく、軍団は次第に出番が減っていった。 一方で個人となったたけしは天性の才能を発揮。 俳優、監督といくつものジャンルに進出。 「世界の北野」と言われる存在になった。 対照的なたけしと軍団。 石原軍団は実績のある渡哲也が参謀にいて、舘ひろしや神田正輝が育ったが、今もたけし軍団に所属して独り立ちしているタレントは極一部しかいない。 たけしに次ぐMCを張れるようなタレントを育てることができなかったのは唯一の誤算だろう。 それでもたけしと軍団の絆は不変。 殿のためと「フライデー殴り込み」までやった軍団は「アウトレイジ」で親分の為に体を張る若い衆とも被って見える。 義理と人情の篤いたけし。 事務所で働き続けた30年は借りを作った軍団に尽くした一面もあったはず。 「3億円はあった」という退職金を貰わず、逆に莫大の資金を事務所に残して去るたけし。 軍団に対する最後の愛情のようにも思える。 飛ぶ鳥跡を濁さず。 (二田一比古/ジャーナリスト) 引用元:.
次の石原プロから独立する神田(右)と舘(左)。 渡(中央)はフリーとなるが、絆は変わらない 国民的スター、石原裕次郎さん(享年52)が設立した石原プロモーション所属の俳優、舘ひろし(70)と神田正輝(69)が来年にも独立する意向であることが15日、分かった。 同社が俳優マネジメントを終了するためで、若手は移籍へ。 渡哲也(78)はフリーで芸能活動を続けるとみられる。 石原プロは今後、裕次郎さんの遺品管理を中心に業務を行い、17日の故人の三十四回忌に妻で同社会長の石原まき子さん(86)から事業縮小などを伝える手紙が関係各所に届けられる。 1963年の石原プロ設立から57年-。 裕次郎さんは昨年7月17日に三十三回忌を迎え、まき子夫人は舘ら石原軍団と墓参した際、弔い上げを宣言していた。 まき子さんと相談し、石原プロの事業縮小とともに俳優マネジメントから撤退することを決断した。 裕次郎さんの命日の17日、まき子さんから関係各所に石原プロの今後や渡の思いについてつづられた手紙が届くという。 俳優マネジメントの終了に伴い、舘と神田は来年にも独立する意向を固めた。 自身がしっかりしているうちに、軍団や会社の今後を見届けたい渡の気持ちをくんだ形だ。 徳重聡(41)、金児憲史(41)の中堅や若手も移籍することになる。
次の来歴・人物 [ ] 出身。 ホテル専門学校を経て、が経営する日活ホテルに入社し、フロントボーイを務める。 その後、系列のに異動し、その仕事ぶりがの目に留まり、に石原プロモーションに入社する。 石原プロの経営を長年に渡り支えた。 また、ドラマ制作やイベント開催にあたり自ら陣頭指揮を取り、石原プロ名物の炊き出しでは自ら調理して所属俳優と共に料理を配ることでも知られた一方で、安全確保が不十分な環境下での撮影や、過剰なタイアップ、放送局・ビデオメーカーに対する法外な要求(このため、小林の在職中は石原プロ作品の多くがビデオソフト化されない状況にあった )など、その製作姿勢には批判も多く、2003年にはドラマ『』の撮影中に発生した人身事故でに問われ、のを受けている。 2011年5月11日、小林は健康上の理由から石原プロモーション専務取締役を同年3月28日付で退任したことを発表した。 2016年10月30日、東京都内の出先で倒れて病院へ搬送されたが、虚血性心不全のために死去した。 80歳没。 エピソード [ ]• ホテルマンだった頃、バーでただ飲みをしようとした外国人プロレスラーをねじ伏せたなど、数多くの武勇伝を持つ。 石原プロが巨額の借金を抱え倒産が噂された1972年頃、借金返済のための3億円を小林がかき集めた。 以降も小林が陣頭指揮を執り、石原プロの安定経営の為に豪腕をふるった。 ・シリーズでの、・を始めとするスポンサータイアップが有名である。 1981年、石原裕次郎が動脈瘤から奇跡的に一時回復した際、入院先の慶應病院屋上から集まったファンやマスコミ関係者に手を振るという演出があったが、その演出は主に小林が提案したものだった。 1984年、石原裕次郎に肝細胞がんが発見された際、一番初めに医師から告知を受けている。 兄のは裕次郎にがん告知すべきだと主張したが、小林は断固反対し、裕次郎は告知されることなく亡くなった。 にから「」の、役での出演オファーがあった際、小林は「大河ドラマで一度途絶えた 渡哲也の完全復活は大河ドラマでしか有り得ない」と考え、渡の出演を絶対に成功させるべく、普段はプライベートを公に語らない渡を説得し、の1年間インタビュー連載へとこぎつけた。 これらの顛末は、その連載記事の単行本である「渡哲也 俺」 毎日新聞社刊 に詳しい。 企画に携わった作品 [ ] 日本テレビ系• ADMIRAL'S CUP 1977 -裕次郎は燃えた! 独占企画! 石原軍団INハワイ テレビ朝日系• シリーズ• 演じた俳優 [ ]• 『』(2004年11月17日 - 21日放送)での配役• (青年期)• (壮年期)• 『』(2017年6月17日放送)での配役• 関係人物 [ ]• 脚註 [ ].
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