左から)谷悠里ディレクター、安村麻衣子 実は、安村は、杉田さんが負傷した2007年当時、慶大4年生で学生トレーナーとしてラグビー部に所属していた。 今回、後輩の杉田さんとともに富士登山を目指す当事者でもあり、杉田さんを取材対象にして番組を作ることは悩んだ末の決断だった。 安村:カメラを入れて撮っていいものなのか、私たち仲間だけでかみ締めて登る方がいいのか、半年以上考えました。 杉田くんも最初は「仲間との登山の時間を大事にしたい」と言っていたんですけど、雑誌等の取材を受けて、その反響も聞いて、多くの人に知ってもらうことに前向きになっていきました。 私としても、もしこの富士登山の話を世に送り出すのであれば、自分の手で送り出したいと思いました。 一方、谷ディレクターは、客観的な立場から杉田さんをめぐるラグビー部の物語をどのように番組にしていくかを考えたという。 谷:過去に起こった出来事の後追いの取材が多い普段の『アンビリバボー』とは違うパターンで、僕自身も先が見えていない部分で取材をしていたので、番組としては未知の領域を歩いているという感覚はありました。 ラグビー部の皆さんの誰がどういう話をしてくれるのか、まったく分からない状態でスタートしたんですけど、取材を進めるうちに1人ひとりにエピソードがあって、これは絶対に良い番組になると確信しました。 その場にいたすべての人が、生涯消えない痛みを負った悲劇。 取材にあたって安村と谷ディレクターは、ラグビー部員たちのつらい記憶も丁寧に聞き取っていった。 安村:ラグビーは身体が密着するスポーツなので、ああいうケガが起こった以上、身体を密接していた人たちは、少なからず責任を感じてしまうと思うんです。 当時、普段は全く泣かない部員が号泣していたんですが、12年経って「なぜあの時泣いていたの?」と聞くと「あの時、(スクラムを組んだ)後ろにいたから」、「隣にいたから」という思いをやっと口に出してくれた。 ラグビー部の後輩として杉田さんの人柄を知っていた安村だが、今回の取材で、その人間性にさらに深く触れ、気付くこともあったという。 安村:ラグビー部での杉田くんは、部員が120人以上もいる中で先輩・同期・選手・スタッフ…誰にでも分け隔てなく接していて、とにかくユーモアがあって、進んで一発芸をしたり、先輩にいじられにいって笑いをとったりするような人でした。 杉田くんが部員たちの前でブレイクダンスを披露したことがあったんですけど、80kg以上の体でブレイクダンスって、なかなか笑えて。 そうやって、お腹がよじれるくらい笑わせてくれた杉田くんが、ラグビーはもちろんですけど、踊って笑わせたりできなくなってしまうんだと思うと、とても悲しかったんです。 今回取材してみて、杉田くんは人一倍ストイックで異彩を放つ存在であり、カリスマ的な人だということが初めて分かりました。 谷:杉田さんが魅力的なのはもちろん、ラグビー部員の皆さんがそれぞれ魅力的な方なんです。 だから僕は、これは杉田さんの話なんだけど、杉田さん1人の話にはしたくないなと。 慶應ラグビー部というひとつのチームの話として構成したいというふうに考えていました。 実際にカメラを持って登っていると、僕なんかはヘロヘロで自分が登るだけで精一杯。 人のことなんて考えられない状態なのに、皆さんは杉田さんにずっと声をかけ続けていて、仲間の力で登っている感じがしました。 安村は、ラグビー部の一員としての思いを抱きながら、あくまで取材者の立場で登山に臨んだ。 安村:私は、杉田くんに一番近い所のカメラを担当していたので、本当なら手を取って登ったり声をかけたりしたかったんですけど、番組側の人間として、杉田くんと誰かの会話を撮ることを優先させました。 頂上に登って集まった時には感情が爆発して、みんな泣いていて、私も泣いてしまいました。 放送されなかった、もう一つの奇跡 実は、放送はされなかったのだが、「天候不良により、当初の日程で登山を続けるのはほぼ不可能」という判断が下された際に、もうひとつの奇跡が起こっていたという。 日程をずらすことはできたのだが、そうすると仕事がある者、遠方から来ている者は下山しなければならず、参加者全員での達成が危ぶまれる状況になっていた。 安村:そこで、杉田くんの同期で、パイロットになっていた佐野秀樹くんが、会社の同僚に連絡して天気図をもらったんです。 分析したら、ここから4時間は晴れるということがわかって。 ガイドさんから出されていた条件も「4時間晴れが続けば、登れる」というものだったので、「これはいける!」と、佐野くんが交渉してくれて…というドラマもありました。 谷:実はその時、僕は半分あきらめていたんですが、みなさんはひたすら「どうしたら登れるか」を相談し合っているんです。 「担いだらどうなんだ」「登山用車いすだったらどうなんだ」って、みんなで登るための方法を話し合っていた。 そうしたら「4時間晴れる」という情報がもたらされて…。 本当に、みんなの思いが詰まっているんだなと感じました。 天候不良など厳しい状況を乗り越え、杉田さんとラグビー部の仲間たちは奇跡的に富士山登頂を成し遂げた。 ラグビー部の夏合宿でチームワークを養うために予定されていた富士登山が、練習試合中のケガにより中止になってから12年。 当時、ケガをした直後の杉田さんがラグビー部監督と「いつか富士山に登ろう」と約束したことが種となり、さまざまな広がりを見せ、今、大きな花を咲かせた。 安村:林雅人監督(現キャノン アシスタントコーチ)は、ケガをした直後の杉田くんから「富士山に登れなくてすみませんでした」と言われて、「いつか登ろう」としか言えなかったとおっしゃっていて。 あの時、監督が杉田くんに「富士山のことなんて気にしなくていいから、治療に専念して」と言っていたら、この富士山の約束はなかったと思うんです。 それから12年後、こんなことが待っているなんて想像もしていませんでした。 みんな、杉田くんから直接頼まれたわけではないけど、「あいつが登りたいって言ってるから、必ずみんなで連れて行って登ろう」と言い続けていた言霊のようなものが心の中にずっとありました。 杉田さんとラグビー部の仲間たちの強い思いを番組スタッフが紡ぎ、感動のドキュメンタリーが生まれた。
次の概要 [ ] で初めてのチームとして知られ、のグランドにはラグビー発祥の地として記念碑が建てられている。 チームの歴史は(32年)、当時の英文学教員であったが留学から戻ったと共に、慶應義塾の学生達に指導したことに始まる。 当時チームは、・の坂下にあった「仙台原」と呼ばれるを練習場としていた。 部の名称はかつて、ラグビーが「蹴球」と呼ばれていたことに由来する。 現代では「蹴球」とはのことを指すことが多いが、改名は行われていない。 ちなみに慶應義塾のサッカー部はソッカー部の名称になっており、「蹴球」の名称を使用していない(詳細はを参照)。 とのは毎年、に行われ、を満員にし、の中継もある。 ジャージが黒黄の縞のことから、タイガー軍団とも呼ばれる。 「魂のタックル」といわれる泥臭いスタイルが特徴。 近年はBKに好選手を擁し、ワイドな展開ラグビーを行っている。 (59年)度にを全勝で優勝し、では決勝に進出。 史上初の大学選手権3連覇を狙うと対戦し、6-10で敗れる。 この決勝では4点差の終了間際、慶應の村井大次郎がディフェンスラインを突破、同志社のインゴール中央左に飛びこんで同点(当時、トライは4点であった)、さらに正面からのゴールキックを得てほぼ逆転なったと思われたが、直前のからのパスがスローフォワードの反則をとられて幻に終わり、結局最終スコアで決着した。 この判定は、選手権の決勝というビッグゲームであったこと、試合の帰趨を直接に決するものだったこと、またジャッジングそれ自体が非常に微妙で難しいものだったことなどから議論を呼ぶことになった。 (60年)度には対抗戦4位ながら、大学選手権で2年連続決勝に進出しと対戦。 12-12の引き分けで両校優勝となる。 抽選の結果、に進出し、と対戦。 18-13で勝利し、初の日本一に輝いた(このときの監督は)。 それ以降はしばらく低迷したが、(10年)度には13年振りに大学選手権に出場。 準決勝に進出し、明治大学と対戦したが、ロスタイムに逆転を許し18-24で敗退した。 翌(11年)度にはラグビー部創設100周年を迎え(監督は上田昭夫)、高田晋作・・野澤武史等の活躍により、対抗戦を全勝優勝。 大学選手権では決勝でを27-7で破り、通算3度目(単独では初。 過去2回は同点両校優勝)の大学日本一を経験している。 (12年)度も対抗戦を全勝優勝し、大学選手権2連覇の期待が高かった。 しかし、準決勝で強風との激しいタックルのためにリズムを崩し(法政の度重なるハイタックルなどの反則も含む。 この試合は法政3人・慶應1人にシンビンが出る荒れた試合であった)、13-15で敗退した。 なお同年度以降対抗戦優勝から遠ざかっている。 (19年)度には・中浜聡志・小田龍司・出雲隆佑などBKに好選手を擁し、6年ぶりに準決勝に進出し、明治大学と対戦。 34-27で初めて大学選手権で明治を破った(この年度、明治と2度対戦し、2引き分け<春の招待試合:31-31・対抗戦:29-29>で、3度目の対戦であった)。 そして8年ぶりに決勝に進出し、度以来、39年ぶりに決勝で早稲田大学と対戦したが、6-26で敗れ準優勝に終わった。 これ以降3度準決勝に進出したが、いずれも、に敗れ決勝進出を逃している。 (元年)度は5位に終わり、22年ぶりに大学選手権出場を逃した。 タイトル [ ] 試合前に塾歌斉唱をする慶應義塾大学の選手達(2012年10月・戦・)• :1回• (60年)• :3回 (出場35回)• 1、1985 2、1999• 準優勝:3回(、、)• :2回• (5年)、(17年)・秋• :9回 ( と分裂後[1967年度以降]は 4回)• 1928, 1930, 1942後期、1955, 1957, 1980, 1984, 1999, 2000• :3回• 2018年度現在。 なお、ののラ式蹴球(ラグビー)競技決勝で対戦があり、11-6で慶應が早稲田を破り優勝している。 慶明戦 戦績 [ ] 近年のチームの戦績は以下の通り。 下記は当校日本一の試合時におけるフィフティーンである。 白凱々の雪に居て 球蹴れば銀塊飛ぶ 黒黄の猛きしるしには 清浄の誉れ高し 勇めよ我友よ いざ行けいざ行けよ 正義の旗なびき 自治の剣輝く ツララ慶應慶應 ツラララツラララ ツララ慶應慶應 ツラララ 主な選手 [ ]• (二代会長)• (旧姓:宮地、FL、No. (No. (No. (NO. (No. (FL・No. (FL・No. 所在地 [ ].
次の試合前に校歌斉唱をする日本大学の選手たち(2013年9月・戦・) 関東大学ラグビーリーグ戦創設の中心となったチームの一つであり、これまで、関東大学ラグビーリーグ戦優勝3回、では4度ベスト4に進出している。 に創部。 大学選手権が始まる前の度に学生王者として、日本選手権の前身であるに出場した経験を持つ。 、関東大学リーグ戦の発足に伴ってリーグ戦グループに加盟。 、部員の不祥事 により2部へ降格。 、2部で優勝するとともに入替戦にも勝利し、1部に復帰。 、加藤尋久がに就任。 、1部リーグ7位となり、入替戦に敗れて3度目の2部降格。 、2部で全勝優勝。 入替戦にも勝利し1部に復帰。 このシーズンはヘッドコーチ代行が指揮を執った。 加藤HCは任期満了で退任。 シーズンは中野克己ヘッドコーチ、伊藤武チーフコーチ、川松真一朗がゼネラルマネージャーに就任。 、東京都の路上でを所持したとして、は21歳の部員を違反(所持)容疑で逮捕。 これを受けて無期限活動停止を公式ホームページにて発表した。 タイトル [ ]• : 3回 1976、1977、1985• : 2回(1967年脱退。 対抗戦が分裂以前[1966年度以前]の成績) 1955、1960• : 0回(出場15回) 最高ベスト4(、、1995、1997)• 戦績 [ ] 近年のチームの戦績は以下のとおり。 坂本駿介(主将、PR、FL、No. - (SH、選手及び監督)• - (2003年度主将FL・No. - (2004年度主将FL・No. 所在地 [ ]• 日本大学ラグビー部 坂浜18-1382-1• 日本大学稲城グラウンド 平尾字12-1342 脚注 [ ]• Sponichi Annex. スポーツニッポン新聞社. 2020年1月21日. 2020年1月21日閲覧。 部の不祥事でリーグ戦残り試合および最下位に伴う入れ替え戦を辞退したため。 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]•
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