早すぎた この川はの森のなかのから始まり、出会うものすべてを拾い集めてここまで来た。 それは訪れてくるものすべてを連れてゆく、藁小屋、森、消えた火災の残り、死んだ鳥、死んだ犬、溺れた虎、水牛、溺れた人間、罠、水生ヒヤシンスの集落、すべてが太平洋へと向かう、どれひとつとしてふつうの調子で流れてはいない、どれもこれも、内部の水流の深く、めるくめくような嵐に運ばれてゆく、どれもこれも、大河の力の表面に宙吊りになっている。 文体 1.改行が多い、2.一文一文が短い、3.主人公の主観視点、4.意識の流れ的記述 内容 1.少女を主人公とした恋愛ものが多く占める、2.悲劇的な出来事が題材にされやすい、3.性的描写が多い その他 1.普段本を読まない層に爆発的に消費され、ベストセラーとなった、2.人気作は映画化された、3.JPOPの歌詞と親和的である。 これだけの特徴が合致していれば、本作品はもはやである。 何ページか読み進めた時点では、バンドの歌詞か、みたいな文章だと感じたが、よくよく考えてみればそのものである。 ・・・そこにおいてだ、わたしが狂気というものをはっきりと目のあたりにするのは。 わたしは目のあたりにする、母が明瞭に狂っているということを。 わたしは理解する、ドーと上の兄がたえずこの狂気に接していたということを。 わたしはと言うと、ちがう、あのときまではまだ狂気を目のあたりにしたことは一度もなかった。 母が狂気の状態にあるのを目のあたりにしたのは一度もなかった。 もともと母は狂っていた。 生まれつき。 血の中で。 367 LUNASEAか? ふたりは顔を見合わせる。 わたしの言葉の意味を彼は理解する。 突然、変質した眼差、苦しみの現場で取り押さえられた、偽りの眼差、死。 378 である。 皮肉はさておき、本作品ととは、同一の主題による変奏曲といった関係にある。 同作と比較して本作品は、1.文体は技巧的で、2.構成は破壊的、3.主題は限定的である。 本作では、主題は限定的になったものの、複数のモチーフが扱われる。 たとえば、黒塗りのリムジン、男物の帽子、金ラメの靴、の流れ、甕の冷たい水など。 こうしたモチーフが至る所で繰り返される。 時系列が破壊的である本作にあって、こうしたモチーフの連続が一種の統一感を与えている。 また、やたらピリオドが多様される文章の中で、時折思い出したように冒頭の引用のような長文をてくる。 この点についてはケータイ作家にはなしえない、老境に達した著者のテクニックが発揮されている。 しかし、どうにも堪らないのが著者の強烈な自意識、読まれている意識、他作品も読んでいますよね?意識だ。 では、これを的だと指摘したが、フィクションであるのに著者の体験談性を強調するこの気持ち悪さは、やはり的だと言いたい。 によれば、小説家とはみずからの作品の陰に身を隠す者のことをいうそうだが( p. 219 、デュラスはこの逆をいくのである。 ・・・著述というものは、もう隠れようがないんじゃないか、どこかうまい場所に身を置いて書いてゆく、読まれてゆくなどということは、もう著述には許されないのだろう、著述というものの根源的な慎みのなさをかばう手だてはもはやあるまい、・・・。 作者: ,,田中倫郎・,• メディア: 単行本• 購入: 3人 クリック: 16回• 『太平洋の防波堤』から34年後のことである。 のが同じ年にフランスで発表され、1986年には、これまた非フランス人のフランス語小説『』 が発表されている。 日本進駐に触れられていることや、作者自身の年表から、物語の舞台は1940年代であろうか。 いい大人の年齢になったと読み取れる著者の視点で、著者の過去が語られる体裁である。 しかし、語られる内容自体はまったく時系列にも、テーマごとにも沿っていない。 時系列順に綴られた物語が書かれたトランプをシャッフルしたかのような文章である。 部や章の区切りはなく、時折空行が挟まるのみである。 『太平洋の防波堤』で触れられた、母や兄との相克、植民地の様相などの主題にも触れられるが、中心主題は白人少女とアジア人男性との性愛にあるといってよい。 このほか、特に気になる点はなく自然に読めた。 注釈もおおむね行き届いており、特段不満はない。 解説は短いながらもデュラスの文体が的確に説明されていると思う。 ただ、「ラマン」が男性を指すことについてはどこかで触れる方がよかったのではなかろうか。 kamekichi1999.
次のこの記事に書いてあること• デュラスは『愛人 ラマン』を、自分の経験した出来事をモチーフにして、文学に満ちた自身の人生という事柄そのものを描いた。 デュラスは真の記憶の本質は出来事を記憶の深部へと忘却することにあると考え、その対極の位置に身体という表面を置いた。 人生を描くために記憶に頼るのではなく、むしろ身体を重視し、身体という表面に浮かぶものを書くことで換喩的に人生の全体を表そうとした。 デュラスが『愛人 ラマン』において到達した「流れるエクリチュール(走る文体)」は、身体の表面に浮かぶ瞬間的なものを書く文体である。 そうした文体で書かれた『愛人 ラマン』は、〝書くということを書いた書かれたもの〟、つまり「エクリチュールについてのエクリチュール」なのである。 デュラスのエクリチュールとしての『愛人 ラマン』 『愛人 ラマン』は「性愛を描いた小説」と言えなくもない 『愛人 ラマン』は1984年に発表された マルグリット・デュラス による小説で、フランス本国だけでも 150万部を売り上げた世界的ベストセラー小説です。 その内容は仏領インドシナでの少女時代を中心に、フランス本国に帰国してから執筆当時までの生活を含めた 自身の記憶を辿る自伝的な作品になっています。 『愛人 ラマン』で描かれる自伝的な物語は「 性愛を描いた小説」です。 金持ちの中国人青年が自分の愛人になることを受けいれることで、母親や兄弟などとの家族の関係から決定的に離れていく。 性愛で結託した家族から性愛で出会った愛人によって離れていく物語なのだ、というふうに読むことができます。 しかし『愛人 ラマン』に対して、そうした理解をしてしまうことはいささか野蛮です。 『愛人 ラマン』は物語でなくもないエクリチュールである 『愛人 ラマン』は特定の時期の人間関係をエピソードとして切り貼りした、モンタージュチックな構成をしています。 それらは断片的なイメージの切り貼りに近く、読者は ひとつながりの物語の映像が浮かぶ類いの小説ではないことに気づきます。 むしろデュラスが『愛人 ラマン』で描いたものは、物語になりえない、物語でなくもないナニカなのではないかと考えられます。 たとえば文学者の 坂本佳子と 郷原佳以は、デュラス作品の解題で、そうした モンタージュ構成が表現するのは「物語になりえない「絶対的な」映像を映し出す」ことなのだと語ります。 『愛人 ラマン』は物語と呼べなくもなさそうですが、それでも物語と言い切るには作品そのものが「物語」という呼び名を裏切ってしまうようです。 そんななか、デュラス自身の言い方を参照しようとすれば、彼女は頻繁に「 エクリチュール」と言っていることに気づくでしょう。 『愛人 ラマン』はエクリチュールである。 では、エクリチュールとは何なのでしょうか? 言葉の水準から取り出す声なき声がエクリチュールである 『愛人 ラマン』を映像化するなら言葉の水準にあるモチーフを表現しなければならない デュラスは『愛人 ラマン』が映画化する話が出たときに、映画版は『愛人 ラマン』の本質を掬いとった良いものにはならないだろうと考えました。 ジャン=ジャック・アノー 監督による制作プランでは、『愛人 ラマン』の舞台となった時代の写真を基にした忠実な模倣という趣きがあったのです。 アラン・ヴィルコンドレ による伝記によれば、デュラスは『愛人 ラマン』の映像化に当たって必要になるであろうことを次のように考えています。 すなわち、 スクリーン上に表現しなければならないのは、『愛人 ラマン』のテクストのなかに散りばめられているモチーフなのだ、と。 モチーフとイメージは違います。 アノーが映画のなかで模倣しようとこだわるのは、あくまでも イメージの水準に過ぎません。 イメージは「 映像的な物語」だと言ってもいいでしょう。 しかし デュラスがこだわっているのはあくまでも「言葉の水準」にあるモチーフなのです。 デュラスがこだわる言葉の水準。 そこにデュラスの考える「 エクリチュール 」のヒントがありそうです。 デュラスの小説は文学である 「言葉の水準」という点を掘り下げるために、デュラスによって「 書かれたもの=小説」がどういった性格を持っているのかを確認します。 デュラスは私小説家ではない 作家が小説を書くことは、モチーフを言葉で表現することです。 あるいはモチーフからイメージを取り出すこと。 そうした執筆行為のなかには表現する(書く)までのプロセスには作家とモチーフとの関係が反映されています。 つまり、 作家の意図が現れるのです。 池澤夏樹 が個人編集した全集のデュラスの巻には『太平洋の防波堤』と『愛人 ラマン』が収録されています。 二つの作品はデュラスの初期と後期を代表するものですが、どちらもデュラスの若い時のことを 素材(モチーフ)にしています。 それはあたかも〝 自分の人生には語る意義がある〟と考える私小説家のやりかたと同じです。 しかし池澤は全集の月報のなかで、デュラスが自身の経験に根差したテーマやエピソードを小説にすることを指しながら、それでもなお、「 デュラスは私小説家ではないのだ」と断言します。 デュラスの小説には彼女の人生についての真実も事実もなく文学がある 池澤によれば、デュラスは自分の人生経験を素材(モチーフ)にこそすれど「自分の人生を語るという意図」はないのです。 デュラスの用いる素材は彼女の書く小説のなかで何度も登場してきます。 しかしそれらは書かれるたびに〝 同じでなくもない、違ってなくもないイメージ〟として現れることになるのです。 あたかも同じものを見ながら異なる印象を受け取るようにして。 池澤はデュラスの小説について次のように述べています。 「 彼女の人生についての真実も事実もなく、文学があるのだ。 」池澤の考え方では真実や事実は私小説に属するようです。 では、真実でも事実でもない〝文学〟とは何なのでしょうか。 文学とは物語でなくもないモチーフを印したエクリチュールである 文学は物語になりえないもの、モチーフは物語でなくもないもの 坂本佳子と郷原佳以の見解を思い出しましょう。 彼女たちによれば『愛人 ラマン』は「物語になりえない」ものを描こうとしていたのでした。 仮に、池澤夏樹が挙げる事実や真実を〝歴史や物語〟などの「 物語的なもの」と読み替えれば、 文学は歴史でもなく物語にさえなりえないものを表現するものなのだと考えられます。 事実・真実-物語的なもの• 文 学 -物語になりえないもの 次に、イメージの水準にこだわったアノーを思い出しながら、物語的なものを〝 イメージ〟だと考えることにします。 イメージ-物語的なもの• モチーフ-物語でなくもないもの 作家の根源的な沈黙から書き印した言葉がエクリチュールである さらにデュラスがイメージにこだわるアノーに対して「言葉の水準」を持ち出したことを参照します。 言葉の水準には「 語り(話し言葉) 」と「 印し(書き言葉) 」の二つの側面があります。 前者はイメージを喚起するものですが、後者にはイメージを喚起することに加えて、モチーフを固定する効果が含意されています。 繰り返しますが、デュラスは『愛人 ラマン』の本質的な部分を「言葉の水準」にあるのだと考えていました。 根源的な沈黙から取り出される言葉、すなわち「 声なき声」。 語られたものであるよりかは、印されたものである言葉。 つまり、「エクリチュール(書かれたもの)」。 『愛人 ラマン』で語られる「書くということ」 『愛人 ラマン』はデュラスのエクリチュールでした。 デュラス自身も『愛人 ラマン』を「 エクリチュールについての本」であると述べています。 たとえば以下のくだりは『愛人 ラマン』の序盤に書かれていますが、そこで述べられていることは誤解しようのないほどに「 書くということ」について書かれているのです。 「書くとは、といま改めて考えてみると、とてもしばしば、書くとはもはや何ものでもないという気もする。 ときにわたしは、こうだと思う。 書くということが、すべてを混ぜあわせ、区別することなどやめて空なるものへと向かうことではなくなったら、そのときには書くとは何ものでもない、と。 」(p13) ここからは以上のような文を収めた、 「書くということ」について書かれたエクリチュールとしての『愛人 ラマン』に焦点を当てます。 そしてエクリチュールとしての『愛人 ラマン』を確かめていくことにします。 事柄そのものに切りこむようにして書く 翻訳者の 清水徹 は巻末の解説で、デュラスが母や兄が生きているうちでは『愛人 ラマン』を書けなかったこと、そして、ようやく「 事柄そのものに切りこむ」ことができるようになったことの確信がデュラスにはあったのだと述べています。 デュラスは自分の人生を素材にして小説を書くことの多い作家でした。 しかし考えてみれば、 人生を物語るといっても、いったい何を描けば人生を物語ったことになるのでしょうか。 筋道を立てて出来事を組み立てれば〝自分が生きた人生〟を表現したことになるのでしょうか。 デュラスはそうは考えませんでした。 清水の記述によれば、デュラスは物事のあいだに区別を立てることを止め、「 すべてを本質的に形容不能なただひとつのものへと溶けこませる 」ことを選んだのです。 自分の人生そのものを書くためには、イメージベースの基本的な物語のお約束を守るより、〝 モチーフに語らせる〟 式の書き方を、というわけです。 「書き始めたときには、イメージを優先するためにテクストを後退させることを考えていました。 けれども書くことが優勢になり、それはわたしよりも速く前進し、読み帰して初めて、これが換喩のうえに構築されていることに気づいたのです。 」(p47) 上の文章で登場する「 換喩 」とは、部分的なものによって全体を表す方法です。 この場合では、 デュラスの人生のなかの具体的な出来事(モチーフ)が、抽象的な人生の全体を語り示していることを意味します。 しかし上に引用した文章にはデュラスの文体が換喩的であったという事後的な発見よりも重要な点があります。 それは書いている最中にそうであったことに関する証言です。 すなわち、 書くことが書いている作家よりも速く前進しはじめた 、という点です。 デュラスはそうした書き方を自身が『愛人 ラマン』で到達した文体だとして、確信をもってそれを「 流れるエクリチュール 」と名付けています。 死んだ母親に触れ、母の匂いや色、声なども思い出せない。 けれども時々に優しい声が蘇る。 そして次のように続けるのです。 「だからこそ、いま母のことを、じつにすらすらと書いている、こんなに長く、こんなに引き伸ばして、母は流れゆくエクリチュールとなってしまった。 」(p47) 清水が引いているデュラスの証言によれば、 「流れるエクリチュール」は出会うものを分け隔てなく運んでゆくエクリチュールである、とのこと。 その場合の〝文体〟のルビは〝エクリチュール〟です。 「流れるエクリチュール」が『私はなぜ書くのか』のなかで登場するときは「走る文体」で統一されています。 デュラスの記憶への態度:記憶は忘れていることに本質がある 「流れるエクリチュール」や「走る文体」を考えるうえで、少しよそ見をすることにします。 デュラスは人生を書くうえで、出来事に区別を立てることをしませんでした。 ここにはデュラスの「 記憶への態度 」が表れています。 『私はなぜ書くのか』のなかで、 デュラスは人生が時系列に沿って区切られているという考え方を批判します。 その批判は、人が自分の人生におけるひとつの出来事の射程を知らないでいるという点にはじまります。 人は普段、多くの出来事を忘れています。 そしてときたま過去の出来事が思い出されては自分のなかに保存されている記憶を確かめることができる。 しかしデュラスは、人はそうした記憶の所在を確かめることができないことを指摘して、記憶が「 わたしたちが好きなように資料を汲みあげてくることのできる文書庫ではない 」のだと訴えるのです。 デュラスにとって記憶は覚えていることよりも、忘れていることが本質的なのです。 身に降りかかる出来事のほとんどを忘れていること、そして〝すべてではない〟ことを思い出し・覚えている状態こそが「 真の記憶」なのです。 再び、走る文体 ふたたび「流れるエクリチュール」「走る文体」の話に戻ります。 『私はなぜ書くのか』のなかでデュラスは「走る文体」を次のように定義しています。 そしてデュラスはそうした定義を、単語たちの頂上のことを言っているのだと述べた後で、以下の語りを続けるのです。 「なくしてしまわないために、より速く進むために、頂上を走っていく文体。 なぜならば、これは悲劇なのだけど、すべてをすぐに忘れてしまうからよ」(p153) ここで語られていることは記憶のことです。 口にしようとする物事とは記憶のことであって、それは悲劇的にも忘れてしまう。 だからこそ速く、速くそれに追いつかなくてはいけない。 他方で、ここにはデュラスの「 身体への態度 」も表れています。 『愛人 ラマン』は人生を換喩的に表した文学である ここで、わたしは解釈をはじめます。 先に見たように、記憶は「 忘れていること(忘却・空虚) 」こそが本質なのでした。 しかし同時に思い出していることが「 見せかけ・表層 」として、絶えず表面に浮かび上がってもいる。 デュラスにとって、そうした表面に対して深部にあるものが真の記憶となり、真の記憶である深部に対して表面にあるものだと想定されているものが身体なのです。 すなわち 真の記憶の対極にあるものこそが身体なのです。 とはいえ、真の記憶〝ではない〟記憶のほうは絶えず身体のほうへと浮かんでくるものです。 それは 見せかけであり、 表層なのであって、その点では真の記憶が忘却されているうえには 記憶と身体とが付かず離れずの状態にあります。 意味のある一般的な言葉と非意味的な特異的な言語 ここでエクリチュールの話に戻りましょう。 エクリチュールは「書くということ」なのでした。 そして書く人であるデュラスは言葉の水準を尊重します。 デュラスにとって言葉の水準であるエクリチュールは出発点なのです。 『私はなぜ書くのか』から引用します。 「すべては言葉から出発します。 わたしが使う言語の意味されるもの(シニフィエ)さえも、とりあえずは、わたしには関係ありません。 」(p60) 言葉には意味があります。 しかしデュラスが出発しようとしている言葉は、〝意味されるもの〟とは無関係なのだと彼女は言うのです。 デュラスのいう意味を欠いた言葉とは何なのでしょう。 おそらくそこには記憶と身体の対比を重ねることができます。 仮に、言葉から意味を差し引くと意味を欠いた非意味的な言葉が残ります。 上に引用したデュラスの言葉使いを参照し、「言葉と言語」という使い分けをすれば、〝 意味のある一般的な言葉〟と〝 非意味的な特異的な言語〟との対比です。 身体で興る非意味的なものは他者に伝えることができない 身体は絶えず出来事を記憶していて、対極にある真の記憶は底のほうに忘れられています。 その中間には意識=記憶がある。 ところで、何かに〝意味がある〟のはその意味を生成する・保証する別のナニカがあることです。 言葉の意味が他者によって生成・保証されれば「 一般的な言葉」になり、身体によって生成・保証されれば「 特異的な言語」になります。 限りなく表面にあるものが身体で、限りなく深部にあるものが真の記憶。 言い換えれば、 他者に伝えられるだけの一般性を持っているのです。 他方で、身体で生成・保証された意味は他者へと伝えることができません。 なぜなら 自分の身体はただひとつだけですので、他の身体との意味のネットワークを設計することができないからです。 意味のネットワークが興るのは深部の記憶からとなります。 翻って、非意味的な意味にはならないものは表面の身体で興ります。 デュラスは人生を描くために記憶ではなく身体を恃んだ 既成の一般的な意味を書いている自分には関係がないのだと言うとき、そこでデュラスは、〝 一般的な意味〟に対して〝 特異的な非意味〟のほうに価値を置きます。 人生は記憶されています。 自分の生きた人生を描くとすれば自分の記憶と向き合わないではいられません。 しかしその記憶は忘れられています。 それが真の記憶です。 人が覚えている記憶はせいぜい氷山の一角なのであって、ここには 人生そのものを描くことの不可能性があります。 デュラスは人生を描く不可能性に対して、記憶ではなく、身体を恃んだのでしょう。 出来事の記憶ではなく、出来事に晒されてきた自己の身体を。 「走る文体」も「流れるエクリチュール」も表面的である エクリチュールは書くことです。 書くことは通常、意識活動の名のもとに記憶を参照しつつなされる行為です。 しかしそういった事情は自分の人生の〝事柄そのもの〟を描こうするデュラスにとっては都合がよくありません。 なぜなら記憶は「わたしたちが好きなように資料を汲みあげてくることのできる文書庫ではない」のですから。 逆にいえば、 わたしたちが〝好きなように〟汲みあげることのできる資料(記憶)は、事柄そのものを表す記憶としてはふさわしくないのです。 しかし『愛人 ラマン』においてデュラスは、事柄そのものを描くのにふさわしい文体を手に入れました。 それこそが「走る文体」であって、「流れるエクリチュール」なのです。 デュラスが手に入れた文体に関して、彼女自身が述べるところを並べてみましょう。 記憶の鮮明さということだけにとどめておくこと• 一種の意図しない簡潔さ• 身体的な文体であること 記憶の鮮明さ、簡潔、そして身体。 いずれもが表面的であることに属していることがわかります。 見せかけであり、表層であり、表面なのです。 ようするに「走る文体」も「流れるエクリチュール」も表面に属することになります。 そこにはまず、意図がありません。 身体という表面に流れついては忘却の波にさらわれる記憶。 表面から深部をつかむこと、部分でもって全体を表現するという、換喩的に構築された『愛人 ラマン』というテクスト。 流れるように書かれるエクリチュール。 デュラスは『愛人 ラマン』を「 エクリチュールについての本」だと述べました。 池澤夏樹は『愛人 ラマン』を「 彼女の人生についての真実も事実もなく、文学があるのだ」と述べ、デュラス自身でも「 あまりに文学に満ちた作品」だと語っています。 また、坂本佳子と郷原佳以は『愛人 ラマン』を 物語にならないものを描こうとした作品なのだと述べます。 『愛人 ラマン』がエクリチュールについての本であり、文学に満ちた作品であり、そして物語にならないものを描こうとした作品である。 それらがひと続きになっていることを踏まえて、最後に『私はなぜ書くのか』でのデュラスの次の語りを見てみます。 「書くこと、それは物語を語ることではありません。 物語を取り巻くものを語ること、物語のまわりにひとつ、またひとつと瞬間を作りながら進んでいくのです。 そこにあるものすべては、けれどもそこにないこともできる、あるいは交換可能である。 まるで人生の出来事のように。 」(p61) デュラスは〝 人生の出来事〟と言っています。 それも〝 交換可能である〟ような出来事を。 人生がひとつの全体を形作っていることは確かです。 しかしその全体を構成する出来事が交換可能なもので埋め尽くされているからこそ、単に物語ったところで人生の全体を表すことはできない。 だからこそ、人生のひとつひとつの出来事が瞬間として定義された、 全体を表すための換喩の機能を果たすようになることが大切になります。 物語でなくもなく、しかし文学であるもの。 時間によって語られるよりかは、瞬間が印された、そんなエクリチュールであることが。 『愛人 ラマン』が印されたエクリチュールであり、エクリチュールについての書かれた文学作品であるということは以上の理由によって成立しているのです。 まとめ:『愛人 ラマン』=エクリチュールについてのエクリチュール ここまでエクリチュールとは何なのかという観点から『愛人 ラマン』を見てきました。 デュラスが『愛人 ラマン』において獲得した「流れるエクリチュール(走る文体)」によって描かれた、換喩的な自身の人生の表現。 身体の表面をかすめる、もはやその言葉が何を〝意味されている〟のかもどうでもいいといった境地。 まさに卓越しています。 意味にこだわらない特異的な言語を用いて書いていた際に、いったい何を感じていたのかと訊かれたデュラスは、『私はなぜ書くのか』のなかで次のように応答しています。 「ある種の幸福感ですね。 この作品は闇のなか……わたしが自分の子ども時代や追いやった闇のなかから、順番がめちゃくちゃになって出てきました。 脈絡のないエピソードが次から次へと続き、わたしはそれを見つけては、立ち止まることなく、予告することなく、完結させることなく、放棄していきました。 」(p43) 完結させることなく、放棄している。 はたしてそんな書き方がありえるのでしょうか。 それも『愛人 ラマン』を読んでみなければわかりようもありません。 もちろん読んだところでわかる保証もないのですが。 つまるところ、『愛人 ラマン』物語や小説である以前にひとつのエクリチュールです。 あるいは エクリチュールについてのエクリチュール。 エクリチュールは「書くということ」であり、「書き方」であり、そして「書かれたもの」なのであって、それらはみなデュラスの手によるものであり、デュラスが自分の人生に切りこんでいったことで生まれた 関係の織物(テクスト)なのです。 そうした消息をうかがえば、『愛人 ラマン』を読むことは作者デュラスとエクリチュール『愛人 ラマン』の関係に踏み込んでいくことだと言えるかもしれません。 _了 参考資料.
次の日時:2018年12月1日(土)10:30〜18:00 場所:アンスティチュ・フランセ関西(京都)、稲畑ホール プログラム: 10:30-10:40 イントロダクション 10:40-12:10 I. 会話、歌、叫び、電話や録音装置といった20世紀的テクノロジーに媒介される声など、デュラスには様々な位相の声が登場する。 また映画に傾倒する70-80年代には、映像と音声とは乖離をきたし、画面に姿を現さない声という脱身体化がなされるが、一方で身体に回帰する声もまた現れる。 「わたしが表現しようとするのは、書く時にわたしが聞いているものなのです、つまり、わたしが内的朗読の声と呼んできたものです」とデュラス自身が言うように、同一性と他者性、音声性と書記性、声と文字とが相互浸透している。 中間地帯をただよい、生と死を行き来するかのように現れては消えるデュラス作品の声に迫るべく、その「幻前」について六人が発表を行った。 シンポジウムではデュラスを専門とする者と必ずしもそうでない者とが混在するよう登壇者構成がなされ、従来のデュラス研究を継続し、さらなる先鋭化を図ると共に、また別の視点からデュラス作品を読解する試みがなされた。 森本淳生は、映画『かくも長き不在』(1961)のアリアに注目し、それがデュラス的空虚の象徴であると指摘する。 カフェの女主人テレーズはナチス収容所で消息を絶った夫の帰還を待ちつづけ、ある日、アリアを口ずさみ、夫と類似することのない記憶喪失の浮浪者に、まさに類似しないがゆえに、夫の影を見る。 テレーズは他のデュラスの登場人物たち同様、三者関係によってしか愛せない。 記憶喪失の男という頭部の空虚が、満たされないテレーズの内部の空虚と合致し、彼女の中に外部と通底する絶対的な欠如が穿たれるのであり、よって夫への二者関係的愛は、過去を失った浮浪者の欠如へと向かう。 アリアを歌うのはこうした欠如の声であり、実在するものに由来しない幻の声に他ならない。 立木康介は、『ヴィオルヌの犯罪』(1967)における女性の享楽を精神分析から論じる。 実在の事件を元にしつつも、小説で殺害されるのは夫ではなく妻の従姉妹であり、聾唖者という声を持たざる者に設定されている。 倦怠期を迎えた夫婦におこる事件で、なぜ従姉妹が殺されなければならなかったのか。 犯行を上手く説明できないでいる妻クレールは、ミントあふれる庭にたたずむ歓びを語る。 実際デュラスは、女性が「場所」ひいては「自然」と意思疎通できると述べ、庭での歓びはそうした女性と沈黙との融合を示している。 解決の糸口がないまま終わるこの作品の、血染めの犯行現場を、発表者は非ファルス性、ファンタズム、母娘関係から洞察し、またデュラスにおける女性の狂気が、沈黙ということばと声のない状態で繰り広げられる点を強調する。 関未玲は、声への言及を年代を追って概観し、「声の自律性」という今ではよくしられたデュラス作品の特色がどのような過程で現れてきたかをたどる。 デュラスの映画に対する見解は両義的である。 映像の即時性は想像力を狭めるものとして否定されると同時に、その直接性ゆえ文字よりも有効に イマージュを 伝えるともされる。 しかし映画『船舶ナイト号』(1978)の「失敗」を契機にエクリチュールがふたたび志向されるようになり、以後、物語の中の「語る声」によってイマージュの現前が目指される。 デュラスのゆらぎは、自伝的作品の中で過去が虚構化していくことに対する迷いでもある、とするアラゼの言が引用され、彼女のゆらぎに耳をすますことは、よって、声のもたらす幻への迷いに耳を傾けることである、と結論づけられる。 橋本知子は、デュラス『トラック』(1977)における声を、ストローブ゠ユイレ『早すぎる、遅すぎる』(1982)、ポレ『地中海』(1963)、足立正生『略称・連続射殺魔』(1969)に対置させ、内在的に考察する。 いずれもヴォイス・オーヴァーは、時に映像に重なり合い、時に離れ、ことばの響きの物質性そのものによって風景を前景化させる。 見慣れたはずの場所は異化され、パリ郊外の冬空にせよ、旋回するカメラの捉えるバスチーユ広場にせよ、葡萄色の海にせよ、60年代の日本列島にせよ、記憶や幻影など、映されるもの以外/以上のものを見せようとする。 同軸上移動のカメラによってそれはさらに強まり、観る者は、画面外からやってくる声、その出どころを明らかにしない脱身体化された声に導かれて、カメラの動きと擬似的に一体化し、躍動という運動性を与えられる。 『トラック』のラスト、緩慢なベートーヴェンにあわせて、前へ、前へと進むカメラが真正面から映し出す空の、その白さ(スクリーンの隠喩でもある)は、擬似一体感によってまた別の風景を立ち上がらせようとする試みの極致となっている。 澤田直は「固有名詞」「反復と抹消」「呼びかけと命名」に注目する。 リチャード/リチャードソン、シュタイン/シュタイナー/オーレリア・シュタイナー、アンヌ/アンナ/アンヌ・マリーのように、デュラスでは名前が反復され、変容していく。 同一人物ではないが完全に別人でもない「重ね合わせの原理」とデュラスが呼ぶこうした登場人物たちに、一貫した現実性は与えられない。 アイデンティティの否定あるいは実体の浮遊性としての固有名詞は、しかし、複数の無名者たちに唯一の名を与え、光をあてる役割をもつ。 映画『セザレ』(1979)では「セザレ」「セザレア」の名が執拗にくりかえされ、呪術的反復によって、ユダヤの女王ベレニス、さらには何万人ものユダヤ女性の総体を回帰させようとする。 無人の、廃墟のような光景に、画面外から響いてくる声は、死者たちを召喚する死への呼びかけであり、エクリチュールを推進する死の欲動の一側面でもある。 ジル・フィリップは、「声の作家」デュラスにおいて声の使用法が一貫しているわけではないことをまず指摘する。 にもかかわらず明らかなのは、声が感情表現ではなく音響的要素へと収斂していく点である。 それはあくまでも身体から断絶した声であり、映画が声を脱身体化しえる点で、デュラスの関心は小説から映画へ移行していったのだった。 よって中性的で、虚ろな、感情表現に乏しい「演じない声」が目される。 しかし情動と感情に魅力と嫌悪を感じていたデュラスは、一方で感情の不在を声に求め「感情の廃棄」を図ると共に、他方では感情の表出も望んでいた。 全体討議にはデュラス協会副会長のジョエル・パンドン゠パジェスも加わり、六つの発表を補完する形で、声が作品や作家像などデュラス個人にとどまるものではないことを指摘した。 晩年のパートナー、ヤン・アンドレアに向けて発せられた声が、書くことを牽引したのであり、作品の通奏低音ともなっている。 こうした「発話の対象を含めた上での声の問題系」が示唆された。 2011-2014年にはガリマール社プレイアッド叢書から全集が出版され「殿堂入り」を果たし、国際シンポジウムがフランス内外で定期的に開催され、また数多くの伝記が書かれているデュラスのその全体像は、輪郭がとりにくくなくなってきている。 けれども、あるいはそれ故に、デュラス作品を決まった枠組みの中に固定させないよう、多彩な声のあり方に注目し、新たな読みを提示しつづけることが重要である、そう再確認させるシンポジウムであった。 ( 橋本知子)• Vol. トピックス•
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