西国三十三所札所(京都府に所在するもの) 西国三十三所(さいごくさんじゅうさんしょ、さいこくさんじゅうさんしょ)は、2府4県とに点在する33か所の信仰のの総称。 これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行であり、現在も多くの参拝者が訪れている。 「三十三」とは、『観世音菩薩普門品第二十五』(観音経)に説かれる、観世音菩薩がを救うとき33の姿に変化するという信仰に由来し、その功徳に与るために三十三の霊場を巡拝することを意味し 、西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされる。 文化庁の元年度「」の16件(累計83件)の一つに、『1300年つづく日本の終活の旅〜西国三十三所観音巡礼〜』が認定された。 成立と歴史 [ ] 伝承 [ ] 三十三所巡礼の起源については、の縁起である『中山寺来由記』、(三十三番札所)の縁起である『谷汲山根元由来記』などに大略次のように記されている。 2年()、大和国のの開基である上人が62歳のとき、病のために亡くなるが冥土の入口で大王に会い、生前の罪業によって地獄へ送られる者があまりにも多いことから、日本にある三十三箇所の観音霊場を巡れば滅罪の功徳があるので、巡礼によって人々を救うように託宣を受けるとともに起請文と三十三の宝印を授かり現世に戻された。 そしてこの宝印に従って霊場を定めたとされる。 上人と弟子たちはこの三十三所巡礼を人々に説くが世間の信用が得られずあまり普及しなかったため、機が熟すのを待つこととし、閻魔大王から授かった宝印をのの石櫃に納めた。 そして月日がたち、徳道は隠居所ので80歳で示寂し、三十三所巡礼は忘れ去られていった。 上人が中山寺に宝印を納めてから約270年後、(元年〈〉 - 5年〈1008年〉)がので参籠していた折、が姿を現し、徳道上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を授けた。 そして中山寺で宝印を探し出し、の上人の勧めにより、石川寺()の上人を先達として三十三所霊場を巡礼したことから、やがて人々に広まっていったという(中山寺の弁光上人を伴ったとする縁起もある)。 仏眼が笈摺・納め札などの巡礼方式を定め、花山院が各寺院の御詠歌を作ったといい、現在の三十三所巡礼がここに定められたというのである。 開創 [ ] しかしながら、札所寺院のうち、は法皇没後の2年()創建である。 また、花山院とともに札所を巡ったとされる仏眼上人は、石川寺の聖徳太子廟の前に忽然と現れたとされる伝説的な僧で、実在が疑問視されている。 以上のことから、三十三所巡礼の始祖を徳道上人、中興を花山院とする伝承は史実ではない とする見方もある。 西国三十三所の前身に相当するものは、期の観音信仰の隆盛を前提として 、11世紀ごろに成立していた。 史料上で確認できる初出は、(三井寺)の僧の伝記を集成した『』中の「行尊伝」の「観音霊場三十三所巡礼記」と「覚忠伝」の「応保元年正月三十三所巡礼則記文」である。 の巡礼を史実と認めるか否か、異論が存在する が、これに次ぐの巡礼は確実に史実と考えられている。 行尊と覚忠の巡礼記を比較すると、三十三所の寺院の組み合わせは一致するものの順番が相違し、両者ともで巡礼を終えているが、行尊は一番札所を、覚忠はとしている。 行尊自身はさておき、行尊伝の伝える順番での巡礼が確かに行われていたと見え、に伝わる「観音丗三所日記」(5年〈〉)に収められたある覚書は、長谷寺伝の書物に依拠しつつ、行尊伝と同じ順番での巡礼を伝えている。 この時期の三十三所の順序や寺院の組み合わせは様々で、何種類もの観音霊場巡礼が併存し、ひとつの寺院がいくつもの観音霊場に数えられていた。 庶民が11ヶ国にもまたがる33の霊場を巡礼することは、中世初めにはきわめて困難である。 中世初めにおいては、三十三所すべてを巡る巡礼が主として各種の聖や修行者によって行われていたとはいえ、観音信仰の性格からして、一般俗人を排除することは考えにくいことであり 、一国のみ、ないし限られた区間のみを辿る巡礼を重ねて、三十三所に結縁・結願することを願っての巡礼が行われていたと考えられている。 西国三十三所の確立 [ ] 長谷寺は初期頃から霊験著しい観音霊場寺院として、特に朝廷から崇敬を寄せられただけでなく、にはが参詣するなど、重要な観音霊場であった。 こうした長谷寺の位置付けゆえに三十三所の一番となったと見られることから、11世紀末頃( - 頃)と見られる行尊の巡礼が長谷寺から始まることは自然なことと考えられる。 しかし、12世紀後半の覚忠の巡礼において、長谷寺から遠く隔たった那智山が第一番となるには大きな変化があったと見なければならず、それには熊野詣の盛行と西国三十三所における熊野那智山の位置という2つの点を見なければならない。 前者の例として挙げられるのは、の13回、の27回といった参詣であり、こうした盛行に影響されて三十三所の順路が影響を受けて、12世紀後半には那智山を一番札所とするようになったと考えられている。 後者の西国三十三所における熊野那智山の位置付けであるが、熊野那智山には三十三所の開創や巡礼との関係が多数ある。 伝説上の開創をとし、以前から特別な聖地であった那智山には、三十三所の伝説上の開創である花山院が2年()に参詣をしたことに由来して、多数の伝承が見られる。 それらの伝承には、例えばで花山院が千日滝籠行を行ったとするほか、滝元千手堂の本尊を花山院に結びつけたり、に庵や墓所があったとするものが見られ、那智山における花山院伝承は非常に重要である。 また、中世には諸国を廻国遊行する廻国巡礼行者が多数いたが、三十三所を巡る三十三度行者なる行者に那智山の住僧が多数なっていただけでなく、その往来手形もまた那智山が管掌するところであったと青岸渡寺伝来の史料は伝えている。 こうした点から分かるように、当初摂関期の観音信仰をもとにしていた三十三所は、院政期に熊野詣の盛行の影響下で熊野那智山を一番札所とするようになり、花山院の伝承の喧伝や三十三度行者の活動を通じて、熊野那智山により広められていった。 三十三所が固定化し、東国からの俗人も交えて民衆化するのは15世紀半ばを下る時期のことであった。 中世三十三所寺院における信仰と巡礼 [ ] 那智山青岸渡寺(三重塔)と那智の滝 西国三十三所に算えられる寺院は、第一番の那智山青岸渡寺から第三十三番のまでに番外三か寺を加えて36あり、その組み合わせは『寺門高僧記』以来、変化が無い。 これら36の寺院は、規模をもとに4つに分類される。 一つ目は権門寺院に相当する有力寺院であり、(、第九番)、(、第十一番)、(第十三番)、(観音堂、第十四番)、(、第十五番)、(第十六番)の6か寺が該当する。 これらの寺院のうち、清水寺と石山寺は三十三所に先立つ貴族の観音信仰において対象とされた各寺院の本尊がそのまま三十三所の信仰対象となっているが、他の4か寺では対象となっているのは寺の本尊ではなく、子院の本尊であることから、たまたま庶民信仰を集めた堂舎が三十三所に連なったと見られている。 二つ目は地方の有力寺院で、青岸渡寺(第一番)を始めとして24か寺と、数的に全体の3分の2を占め、三十三所の中心的存在である。 これらの寺院は多数の子院を従えた一山寺院であり、数百人、時には千人を越える僧を擁する地方の有力寺院 であった。 寺院の本尊と三十三所の信仰対象とは多くの場合において一致するが、三十三所巡礼寺院であることは寺の性格全体にとってあまり重要ではなかった。 例えば、一番札所である那智の本尊は今日に至るまでのたるであるが、三十三所としての本尊はである。 千手観音とならんで如意輪観音が信仰の対象となるのは、12世紀初めごろと見られ、の『』にその様子が見える。 宗忠は、熊野権現本殿の前に設けられ、参詣者が参籠礼拝する「礼堂」に導かれ、社僧から如意輪験所の由縁を説かれたのち、とその傍らの千手堂に参詣しており、如意輪堂は古くからの観音霊山内の新たな霊場であった。 三つ目は京都市中の中小寺院で、(第十七番)ほか、(第十九番)、(第十八番)に番外のを加えた4か寺が該当する。 これらの寺院は平安時代から盛んになった京都近郊の洛中洛外七観音霊場巡礼に由来する寺院である。 六波羅蜜寺、行願寺、そして頂法寺は三十三所寺院であるとともに、洛中洛外七観音の一角であり、こうした京都近郊の観音巡礼寺院としての性格は清水寺や石山寺にもあてはまる。 こうしたことから、三十三所の成立は、京都近郊の観音巡礼を歴史的前提とし 、それらと地方の著名な観音信仰寺院との融合によるものであることが分かる。 四つ目の地方の小規模寺院は番外のおよびの2か寺が該当する。 これら寺院はいずれも小規模な寺院であるが、三十三所巡礼の縁起にまつわる寺院であり、三十三所の隆盛とともに花山院の縁起が広く知れ渡り、参詣者を集めるようになったことで番外に加えられた。 各寺院で三十三所を支え、三十三所巡礼を行じた三十三所の担い手は、当初、山伏や前述の三十三度行者のような廻国巡礼行者、熊野比丘尼、各種の勧進聖、一般の僧侶といった宗教者の集団であって、こうした聖に導かれる形で民衆も巡礼を行っていた。 こうした宗教者は、各地で勧進を募っては、集めた願物によって堂舎の造営・修造、燈明料の維持にあたっており、勧進聖としての活動を通じて一山の経済を支えていた。 とりわけ室町幕府の支配の弛緩する15世紀以後、各地の寺社はかつてのように公権力の保護に依存しえなくなる。 かわって、各地の寺社が依存したのが、勧進聖によるであった。 なかでも、の勧進聖たちは、各地を巡って三十三所の組織化に努めた。 青岸渡寺を第一番とし、華厳寺を第三十三番とする順序が史料上に初見されるのは、勧進聖の活動が定着するのと同じ15世紀中頃のことである。 さらに勧進聖たちは、巡礼の庶民を対象にした宿所を設けるなど、より多くの巡礼を招き、さらに多くの奉加や散銭を獲得することを目指した。 こうした過程を経て、当初、もっぱら修行僧や修験者らのものであった西国三十三所巡礼は、室町時代中期には庶民による巡礼として定着していった。 庶民への勧進活動に当たって三十三所寺院であることが大きな効果を持つことから、一山における勧進聖の経済的役割は大きく、寺院側も堂舎の造営・修造にあたって巡礼からの奉加に期待を寄せていた。 そのため、中期()から中世末期にかけて発された、寺院修覆のための勧進状や縁起では三十三所寺院であることが強調されるとともに、勧進状や縁起を携えて勧進を担った聖の拠点たる子院群が一山を支える状況が生み出された。 しかしながら、こうした勧進聖の集団の寺院内における地位は低く、あくまで下僧としてもっぱら扱われたために正式の法会や祭礼に参加することはできなかった。 有力とはいえ寺院内の一勢力に過ぎない勧進聖集団にもっぱら支えられていた という事情は、各寺院における三十三所の位置付けを低いものにとどめさせた。 三十三所諸寺院の蔵する中世古文書は数千点に達するが、縁起や勧進状の類を除くと、三十三所に関係する古文書の数はわずかに十数通にすぎず、三十三所寺院であることは各寺院の持つ多様な性格の一つに過ぎなかった。 近世における庶民化 [ ] 江戸時代には観音巡礼が広まり、関東のやと併せてと言われるようになり、江戸時代初期からは「巡礼講」が各地で組まれ団体の巡礼が盛んに行われた。 地域などから依頼を受けて三十三所を33回巡礼することで満願となる「三十三度行者」と呼ばれる職業的な巡礼者もいた。 これら巡礼講や三十三度行者の満願を供養した石碑である「満願供養塔」は日本各地に残っている。 江戸からの巡礼者は、まずに参拝した後で第一番の青岸渡寺へ向かい、途中・などにも参拝しつつ、結願の33番谷汲山を目指した。 そして帰途にお礼参りとして信濃を参拝するのが通例となっていた。 三十三所で巡礼を終わらせずに別の寺院にも参拝している理由としては、江戸からの行程の途中に善光寺があること、観音の本地が善光寺阿弥陀如来とされたことなどが指摘されている。 一方、お礼参り(=巡礼の終了)の善光寺を敢えてしない巡礼者もいた。 「巡礼の終わりは死に急ぐ」という俗信に依ってだという。 近世には、幕藩体制が整えられて社会が安定し、寺社の経済的再建が進むにつれ、本願への抑圧と寺社運営からの排除が進んだ。 こうした排除は、例えば那智山では、元年()の裁許状をもって本願所から造営修理権・勧進権が剥奪されるまでに至った。 しかし、本願所によって募られていた庶民の奉加と散銭は、寺社の造営に依然として欠かせないものであった。 例えば、勧進活動に替わるものとしての本尊開帳も年間( - )には、幕府により、寺社焼失のような例外を除いて33年に1度のみとする規制が加えられた。 そこで寺社の側では、いっそう増加する庶民巡礼から奉加・散銭を得るべく、寺院全体を三十三所の巡礼寺院として宣伝した。 巡礼者側も三十三所に加え、や現在ではに入っている別の観音霊場を参拝することもあった。 益子の場合、帰途には坂東18番のまで参拝している。 これは、観光旅行が自由にできなかった江戸期においても、伊勢参りや霊場参拝を理由とすれば、比較的容易に通行手形を得ることができたため、金銭や時間に比較的余裕がある場合は、できるだけ多くの寺社を参拝し、札所も熊野那智や奈良・京都、天橋立など各地の名所に立ち寄れるような場所に配置されているため、観光旅行を兼ねていた面もある。 巡礼 [ ] 善光寺(長野県長野市) 霊場は一般的に「 札所」という。 かつての巡礼者が本尊である観音菩薩との結縁を願って、氏名や生国を記した木製や銅製の札を寺院の堂に打ち付けていたことに由来する。 札所では参拝の後、写経とお布施として納経料を納め、納経帳に宝印の印影を授かる。 写経の代わりに納経札を納める巡礼者もいる。 その納経札は白地に黒印刷の紙製の白札のみであったが、現在はに模して同じ規定で色札を使用する者が出てきた。 巡礼の道中に、開基である徳道上人や再興させた花山院のゆかりの寺院が番外霊場として3か所含まれている。 に入っている、三十三所ではない観音を祀る寺に参拝する人もいる。 第一番から第三十三番までの巡礼道は約1,000kmでありの遍路道約1,400kmと比較すれば短いが、京都市内をのぞいて札所間の距離が長いため、現在では全行程を歩き巡礼する人はとても少なく、自家用車や公共交通機関を利用する人がほとんどである。 1935年3月から1か月間「西国三十三ヶ所札所連合会」がとタイアップして「観音霊場西国三十三ヶ所阪急沿線出開扉」を開催した。 これには33日間で40万人以上が訪れたと言われている。 現在でも鉄道会社やバス会社によって多くの巡礼ツアーが組まれており利用者も多い。 ただし、ツアーによって林道しか通じていない山上の寺院に行く場合、山麓の駐車場にバスを置いて山道を歩くものや、オプションでタクシーなどの小型車に乗り換えて林道の終点まで行くもの、全員が小型車に乗り換えて林道の終点まで行くものなどがあるので、よく確認して予算や体力に合わせて選択する必要がある。 お礼参り [ ] 結願のお礼参りとして、最後に信州のに参拝し、33箇所と番外の3箇所に加えて計37箇所を巡礼するとされているが、関西の人にとって善光寺は遠く、江戸の人々が谷汲山での結願後に中山道を通って有名な善光寺参りをするためであろう。 また、の奥の院、の根本中堂、奈良のの二月堂、大阪のをお礼参りの対象、あるいは番外霊場に含んでいる場合もあり、お礼参りは善光寺を含め5か所の中から一つを選べばよいとする説もある。 もちろんこれらの2つ以上の寺院(これらのすべての寺院に参拝することも含む)にお礼参り、あるいは番外霊場として巡礼する場合もある。 ただし、これらの寺院は、公式の番外寺院と異なり、番外 札所ではなく番外 霊場とされる。 西国写し霊場 [ ] 西国霊場巡礼が盛んになると、地方の大名などが自分の居住する周辺に西国霊場を勧請して新たな観音巡礼を作るようになった。 これを 「西国写し霊場」という。 最も早期の西国写し霊場は創建と伝えるであるが、これは鎌倉時代の天福2年(1234年)以前には既にあったという確実な史料 があり、かなり古いものである。 室町時代になると秩父にも創建され、西国・坂東・秩父を合わせて「百観音」というようになり、百観音巡礼をする修験者なども増加した。 西国三十三所札所寺院の一覧 [ ] - - -• 山号、 寺号、 通称・別称の欄は50音順ソート。 開扉時期の欄は頻度順ソート。 なお、札所本尊と寺院全体の本尊とは異なる場合もある。 たとえば、4番施福寺では札所本尊は千手観音であるが、寺本尊は弥勒菩薩であり、21番穴太寺では札所本尊は聖観音であるが、寺本尊は薬師如来である。 観音菩薩(観世音菩薩、観自在菩薩)の像には、一面二臂の聖観音(しょうかんのん)の他に、十一面観音、千手観音など、さまざまな超人間的性質をそなえた変化観音(へんげかんのん)がある。 西国三十三所の札所本尊を像種別にみると、以下のとおりで、千手観音像がもっとも多い。 千手観音 15か寺• 十一面観音 7か寺• 聖観音 4か寺• 如意輪観音 6か寺• 馬頭観音 1か寺• 准胝観音 1か寺• 不空羂索観音 1か寺 上記の合計は33ではなく35になっている。 これは、31番長命寺において千手観音、十一面観音、聖観音の3体を本尊とし、「千手十一面聖観音三尊一体」と称しているためである。 文化財として貴重なものも多く、5番の千手観音像、9番南円堂の不空羂索観音像は何れも に指定されている。 札所本尊の秘仏化 [ ] 西国三十三所の札所本尊はとなっているものが多く、秘仏でないのは6番南法華寺(壺阪寺)の千手観音、7番岡寺(龍蓋寺)の如意輪観音、8番長谷寺の十一面観音、25番播州清水寺の千手観音、32番観音正寺の千手観音の5箇所のみとなっている。 これらの秘仏の中には、月1回、年1回など定期的に開扉されるものと、数十年に1回しか開扉されないものとがある。 2008年が西国巡礼の中興者とされる花山院の一千年忌にあたることから、同年から2010年にかけて、全札所において順次「結縁開帳」が行われ平素厳重な秘仏として公開されなかった札所本尊も開扉された。 以下は、今回の「結縁開帳」にて開扉された札所本尊のうち、前回の公開から半世紀以上を経ていたものである。 10番三室戸寺(千手観音)前回開扉は1925年、18番頂法寺(如意輪観音)前回開扉は1872年、29番松尾寺(馬頭観音)前回開扉は1931年、31番長命寺(千手観音・十一面観音・聖観音)前回開扉は1948年、33番華厳寺(十一面観音)前回開扉は1955年 なお、3番粉河寺の本尊千手観音像は絶対の秘仏で、今回も公開されず、本堂の隣にある千手堂の千手観音像であった。 西国三十三所草創1300年記念事業として、2016年、御開帳された本尊がある。 御詠歌 [ ] 先達用の軸装納経帳 当霊場には先達になる制度がある。 先達の称号は、先達、中先達、大先達、特任先達、特任権中先達、特任中先達、特任権大先達、特任大先達の8階級ある。 一度巡拝し申し込むと新先達、先達になって2回巡拝で中先達、中先達で3回巡拝で大先達、大先達で5回巡拝で特任先達に、その後は、6回巡拝するごとに、特任権中・特任中・特任権大・特任大先達となる。 なお、経年制限がないので巡拝するほどに昇進できる。 そして、特任大先達よりさらに上の階級である喜達特任大先達、真達特任大先達、普明特任大先達、妙寿特任大先達の4階級を新設し33回巡拝するごとに一階級ずつ昇進する制度が2020年3月1日より創設される。 その他 [ ]• 「西国三十三箇所」(さいごくさんじゅうさんかしょ)とする表記もあるが、近世以前にはもっぱら「三十三所」と称され、や各種の文献でも同じく「三十三所」の表記を採る。 また、「西国」は「さいこく」と清音で読む場合もある。 例えば、行尊伝に見られる寺院が行尊が巡礼を行ったと見られる年代には巡礼を集められるほど確立した寺院ではなく、また、行尊の巡礼記も前後の記事とのつながりが不自然であることから、史実と認めない立場をとる速水侑の所説を吉井[1990; 1996]は紹介している。 しかしながら、寺院の成立年代の推定の誤りや、そもそも行尊伝における記事の配列の不自然さが史料全体にわたるものであることを見落としているといった速水の説の弱点を指摘する吉井は、行尊伝を確実な史料とし、その三十三所巡礼を史実と判断している。 以上、吉井[1990; 1996]による。 例えば、奈良県内の三十三所6番壷阪寺・7番岡寺と、新西国9番・新西国10番などのように、霊場自身が隣接しているため、同じ観音霊場としてひとまとめに扱われることもある。 地球の歩き方編集室『御朱印でめぐる奈良の古寺』(2012)。 前述のように江戸期から三十三所以外の観音奉安寺院も参拝するケースはあった。 では西国三十三所の内数箇所と、番外としてツアーにより近隣の寺院数箇所とを組み合わせた巡礼ツアーを定番コースとして開催している。 善光寺に加え、同じ信州のをも参拝するケースも有る。 安宅夏夫『坂東三十三ヵ所 秩父三十四ヵ所めぐり』JTBキャンブックス• 2008年に落雷により准胝堂が焼失したため、再建までの間、札所は下醍醐の大講堂(観音堂と改称)に移されている。 正月三が日にも開扉される。 2022年以降は秘仏として開扉を取りやめる予定。 播州清水寺では、根本中堂本尊の十一面観音像は秘仏であるが、札所本尊である大講堂の千手観音像は拝観可能である。 ただし、西国三十三所の御詠歌のほとんどは作者・作期不明であり、現在のように整えられたのは室町時代頃と推定されている。 参考文献の和田、1998、pp16 - 22参照。 出典 [ ]• 三石[2005: 30]• ASGORRA紀伊民報、2019年05月20日• 「伝承」の節全体にわたって次の文献およびサイトを参照した。 戸田 芳実、1992、「西国巡礼の歴史と信仰」、『歴史と古道』、人文書院 pp. 265-271• 白木 利幸(監修)西国三十三所札所会(協力)、2008、『西国三十三所観音巡礼の本』、学習研究社〈エソテリカ別冊〉• 西国三十三所札所会 2007年. 西国三十三所札所会. 2011年7月1日閲覧。 吉井[1990: 15]• 吉井[1990: 3、15]• 吉井[1990: 3、18]• 吉井[1996: 51-53]• 吉井[1996: 53]• 戸田[1992: 269]• 吉井[1990: 17-19]• 戸田[1992: 270]• 戸田[1992: 270]• 戸田[1992: 269-270]• 吉井[1996: 53-54]• 吉井[1996: 54-55]• 吉井[1996: 55]• 吉井[1990: 20]、戸田[1992: 271]• 吉井[1996: 48]。 以下、三十三所寺院の分類について、吉井[1996]に従う。 吉井[1996: 55-57]• 吉井[1996: 59]• 下坂[2003: 431]、太田[2008: 160-161]• 下坂[2003: 217]• 大田[2008: 177-179]• 吉井[1990: 21-22]• 吉井[1996: 60]• 吉井[1996: 58-59、63]• 吉井[1996: 63]• 白木[2008]• 太田[2008: 230-232]。 庄司 千賀、1987、「熊野新宮の本願庵主とその活動」(『熊野誌』第33号、熊野地方史研究会)をも参照。 浅野[1990:26]• 吉井[1990: 26-27]• 白木[2008]• 『四国遍路の近現代』創元社• 西国三十三所札所会HPを参照 参考文献 [ ]• 浅野清編 『西国三十三所霊場寺院の総合的研究』 中央公論美術出版、1990年。 太田直之 『中世の社寺と信仰 - 勧進と勧進聖の時代』 〈久伊豆神社小教院叢書6〉、2008年。 西国三十三所札所会編 『西国三十三所結縁御開帳公式ガイドブック』 、2008年。 下坂守 『描かれた日本の中世 - 絵図分析論』 、2003年。 『西国三十三所観音巡礼の本』、白木利幸(監修)西国三十三所札所会(協力) 〈エソテリカ別冊〉、2008年、20-34頁。 三石学「西国三十三所巡礼」『』第70巻第5号、、2005年、 30-38頁、。 奈良国立博物館・NHKプラネット近畿編 『西国三十三所観音 霊場の祈りと美 - 特別展』 、2008年。 吉井敏幸 「西国三十三所の成立と巡礼寺院の庶民化」、浅野清編 『西国三十三所霊場寺院の総合的研究』 中央公論美術出版、1990年、14-29頁。 吉井敏幸 「西国巡礼の成立と巡礼寺院の組織化」、真野俊和編 『本尊巡礼』 〈講座日本の巡礼 第1巻〉、1996年、46-67頁。 和田嘉寿男 『御詠歌の旅 西国三十三札所を巡る』 和泉書院、1998年。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 : 日本の八十八箇所巡礼一覧• 外部リンク [ ]• (西国三十三所草創1300年記念事業特設サイト)• (西国三十三所札所会公式サイト).
次の2006年 西国三十三ヶ所 霊場巡り 心得帖 2006年4〜5月 西国三十三ヶ所 徒歩巡礼 心得帖 ここには西国三十三ヶ所霊場巡りのノウハウやそれに関連する色々なことを集めていますが、 四国八十八ヶ所霊場巡りや秩父・坂東の霊場巡りの「心得帖」と一部重複する処もあります。 霊場巡りのノウハウに関しては四国八十八ヶ所霊場巡りのに 詳しく書かれておりますので、そちらの方もぜひ参考にして下さい。 西国三十三ヶ所霊場巡りは、紀伊半島南部から日本海側、そして岐阜県西部の広範囲に渡ります。 その全巡礼道を歩くに際して、自分に対して下記の様な最低限のルールを作り実行しました。 今回の巡礼道の選択は西国三十三ヶ所霊場巡りのバイブルとも言える、 アリの会編集・発行の「西国三十三所古道徒歩巡礼地図」に書かれた道からとる事にしました。 大きく変わっている所は琵琶湖の竹生島から 長命寺港への船が無くなっている事で、竹生島からは彦根へ渡り、南下することにしました。 四国などでは歩く日数を減らすために夜でも歩いている人がおり、その様な記録を見ますが、 徒歩巡礼は、原則として日没前には終らせる方が良いでしょう。 昔の旅人や巡礼者などは、 日の出前の薄暗い時から歩く人は多いですが、何かの理由が無い限り夜道は歩きませんでした。 従って行動時間は明るくて安全な、日の出前後から日没頃までという事にしました。 四国八十八ヶ所を歩いた時もそうでしたが、どんなに天気が悪くても、どんなに足が痛くても、 距離は短くても構わないから、絶対に休まずに毎日歩き続け前進することを目標にしました。 余程の高熱でもない限り、身体の故障や足の痛みは歩きながら自然に治して行けるものです。 1日の行程が終ると、野宿で無い限り、近くにせよ遠くにせよ宿泊施設へ移動しますが、 翌日は必ず前日歩き終えた場所まで戻って歩き始めることにしました。 これは通し打ちだけでなく、区切り打ちでも、徒歩巡礼の原則で絶対に守るべき事です。 今回の霊場でのお参りの方法は、百観音用に秩父札所巡りの時に作り上げた方法で行いました。 そのお参りの仕方 参拝作法 の次第は下記の通りです。 この作法は四国八十八ヶ所霊場巡りの 参拝作法を参考にして、自分なりに組み立てたもので、ひとつの事例として参考にして下さい。 お参りの仕方は、各自が自分の好きなように、適当に組み立てて良いと思います。 自分は御詠歌は歌わないし、鐘も撞きませんが、その他色々と取り入れても良いでしょう。 普通の人は山門の出入で一礼する人は少ないですが、札所巡りの巡礼の時はしたいものです。 西国三十三ヶ所霊場巡りをする時、通し打ちの場合は1日の行程を何処で終らせるか、 区切り打ちで行う場合はどこで区切るかが、徒歩巡礼の場合には重要な問題に成りますが、 これは四国、坂東、秩父など、どの札所巡りにも共通して言える問題です。 巡礼道にある宿に泊まる場合は、その日の宿が出発点になり、終点に成りますが、 区切り打ちや、別の場所に宿泊している場合は、鉄道の駅やバス停で区切ることになります。 田舎のバスは需要と供給の関係で1日の本数が2〜6本と少ないことが多く、 しかも早朝や夕方遅くには走っていないことの方が多いので要注意です。 従って、余程のことが無い限り、バス停よりも鉄道の駅で区切ることをお勧めします。 バスを利用する場合は、バス停の時刻表や行先に気を付けながら歩くと良いでしょう。 西国の札所はどちらかというと、他の札所巡りに比べて比較的に区切りやすく、 どの札所も鉄道の駅に出られやすく成っています。 従って、札所で区切るよりも、鉄道の駅で区切って行くのが1番便利で現実的でしょう。 鉄道の駅で区切ると1日の行程が長くなったり、短くなったりすることが起こりますが、 長い目でコース全体を見ますと、意外と平均が取れて来るものです。 その日の行程が短いからといって焦る事は有りません。 目先だけを見ないで長い目で見る事です。 行程が短く1日の行動が早く終ったら、余った力は翌日の為に大切に温存しておきましょう。 四国八十八ヶ所霊場巡りの徒歩巡礼を行った時もそうでしたが、全行程の日程を立てて歩くのは、 その時の体調や天候などで大きく変わってきますので、なかなか難しいでしょう。 全コースを歩いた経験が有り、健康に自信のある人ならばある程度可能でしょうが、 綿密なスケジュールを組み立て、事前の計画通りに歩くということは諦めた方が良いでしょう。 日帰りですと距離や交通機関を考えて、「今日はここからここまで」と予定を立てられますが、 通し打ちや、数日間に渡る、まとまった区切り打ちの場合は、長い先の事などは考えずに、 当日か、せいぜい翌日までを考えて、そのつどコース配分を修正して行く方が現実的です。 したがって宿の予約なども当日の午前中か、せいぜい前日に予約を入れると良いでしょう。 食事を付けないビジネスホテルやユースホステル、ゲストハウスなどの場合は、 当日の午後や夕方、あるいは飛び込みでも、空きベッドさえあれば問題なく泊まれます。 日本旅館や民宿でも、食事を付けない素泊まりの場合は当日の午後の予約でも可能でしょう。 徒歩巡礼における1日の行動時間ですが、日帰りで1日だけ歩くのでしたら、 体力が続く限り何時間歩いても構いません。 しかし数日間連続して歩く場合は、 1日の行動時間は、季節やその人の体力にも寄りますが、8〜10時間以内が良い処でしょう。 無理をして歩くと翌日に前日の影響が出てきて、結果的には平均すると同じ様な数字になります。 朝は5〜6時頃に起きて、遅くとも7時頃 理想的には6時頃 からは歩き始めたいものです。 そして16〜17時には目標としている宿、駅、バス停に到着しておく方が良いでしょう。 四国の遍路宿や宿坊などでは、朝食は6時、夕食は18時とほぼ決まっておりますが、 西国の普通の旅館や民宿、ユースホステルなどでは、朝食は早くても7時に成りますので、 出発時間を遅らせるか、朝食を無しにして早く出るかを選んだ方が良いでしょう。 夕食は何処でもほぼ18〜19時に成っておりますので食べられる場合が多いでしょう。 素泊まりや野宿、日帰りの場合は、時間を気にせずに、歩き出しの時間が自由に決められます。 また日没まで歩くことができますし、朝早くから歩き始めて夕方早くに歩き収める事も出来ます。 歩き出しの時間が前後に動いても、1日の行動時間は8〜10時間に収めることをお勧めします。 体力のある人でも1日の行動時間はせいぜい12時間が限界でしょう。 西国三十三ヶ所霊場巡り 他の札所巡りでも に適している時期はやはり春が1番といえます。 次が残暑の無くなった秋で、真夏と冬は歩くのには余り適していません。 札所の置かれている場所にもよりますが、3月上旬から11月上旬までが適した季節でしょう。 明るい時間が長くて、歩く時間が多く取れるのは3月下旬から10月中旬までです。 冬季は雪の積もる山岳地帯だけでなく、平野部でも日本海側は冷たくて強い北風が吹き、 とても寒くなり、向かい風や横風を受けるとバランスが崩れて、歩くのがとても困難になります。 従って冬は四国などと違って、余り歩くのには適していません 特に日本海側 ので、 12月中旬から2月下旬までの約2ヶ月間は出来るだけ歩くのは避けた方が良いでしょう。 また冬季 12月から3月中旬 は琵琶湖のフェリーも休業しますので要注意です。 梅雨明けの7月下旬から9月末までは出来るだけ避けた方が良いでしょう。 結果的には、徒歩巡礼を行う最も理想的な期間は少し暖かく成ってきた3月下旬から、 暑くならず梅雨が始まる前の5月下旬の約2ヶ月と言えます。 「花へんろ」という言葉が昔から有りますが、梅や菜の花、スミレから始まり、 モモ、桜、ツツジ、ボタン、アヤメ、フジの花の季節が巡礼旅には適しているでしょう。 国道や大きな県道を歩く時は、出来るだけ歩行者専用のスペースを歩くことです。 歩行者専用部分は車道部分の両側に在ることはとても少なく、片側しかないことの方が多いです。 歩道部分が対面に変わったら、面倒でも、そのつど車道を横断して たいてい横断歩道がある 、 歩行者専用部分を歩いた方が結果的には安全です。 歩行者専用部分が無い道路では、出来るだけ右側を歩いた方が良いでしょう。 ただし、蓋のある側溝などがある場合は、そちら側を歩いた方がスペースが広くて安全です。 白装束とか明るい色や派手な色の服装をしている方が運転手には目立つので安全です。 金剛杖は車の通る側に持つと、杖が無いときよりも車は大きく避けて通ってくれます。 路面や私有地が高く、歩道部分が斜めに成っている所 関西は四国や坂東に比べて特に多い は、 斜めの部分を歩くと足首が捻れてとても歩きにくく草臥れますので、 側溝の蓋の上が水平なので、側溝の上を歩くと歩きやすくて良いでしょう。 大きな国道や県道などと平行して旧道が残っている所では、出来るだけ旧道を歩いた方が、 交通量が少なく静かで良いでしょう。 同じ国道でも、人間を無視した車専用に作られた様な バイパスは極力避けましょう。 バイパスは車が高速で走るため、うるさいし風にあおられます。 高速で走る大型トラックには特に気を付けましょう 特に関西は運転が乱暴です。 利用する宿の種類は「ビジネスホテル」と「日本旅館」、「ユースホステル」が主に成るでしょう。 「宿坊」を持っている寺院は四国に比べてとても少ないし、「民宿」の在る所も限られています。 「国民宿舎」や「かんぽの宿」など公共の宿もコース上に在りますが、宿坊同様にこれらの施設は 団体や家族連れなどのグループを相手にしており、個人の客は総体的に嫌われ断られます。 宿泊に食事を付けると夕方 夕食は大体18〜19時が多い の到着時間が拘束されますし、 朝 何処でも朝食は7時以後が多い の出発時間がかなり遅れてしまいますので、 夕食はともかく、朝食はどちらかというと付けない方が良いでしょう 食後は歩きにくい。 自分は食事時間に左右されないビジネスホテル、ユースホステル、ゲストハウスを多用しました。 西国で宿を見付けるのに大変な所は熊野古道中辺路と姫路から天橋立へのコースでしょう。 どちらも歩いて4日は掛かるので、途中で3泊する必用があります。 中辺路では宿舎の選択の余地や、宿の定員数が少なく、そのうえ世界遺産になったので、 春から秋の旅行シーズンは満員になることが多く、事前に予約しておく必要があります。 これはゴールデン・ウイークやお盆休みなどの京都や奈良の宿泊施設にも言えることです。 中辺路の巡礼道上に宿があるのは小口、本宮、野中、近露の4ヶ所だけです。 姫路より天橋立へのコースは遍路道に適当な宿泊施設が無い所があり、1日の行程を考えて、 駅やバス停で区切り、路線バスや列車で最寄の宿のある大きな町へ行って泊まると良いでしょう。 自分は和歌山、奈良、京都、大阪、姫路などの大きな町に拠点を置き連泊して通いましたが、 安い宿を見付ければ、歩き終わった所から拠点を置いた町へ往復する交通費を考えても得です。 1ヶ所に2〜3泊ほど連泊することには下記の様な大きなメリットがあります。 宿をとるのが難しい熊野古道中辺路や丹後道、そしてゴールデン・ウイークに掛かる奈良では、 野宿をすることを覚悟してその用意をしました。 野宿の装備は荷物になるので、 寝袋と、薄い小さなビニールシート、そして薄くてコンパクトなレスキューシートにしました。 屋根のある所に寝れば、4月中旬から10月中旬に掛けては、テントは必要ありません。 荷物になるのでガスコンロなど調理用具などは一切持たない方が良いでしょう。 野宿はキャンプとは性質の違うもので、キャンプ用具は持たない方が良いでしょう。 野宿をする最大のメリットは宿泊施設に行動を左右されないので、自由に動けることです。 夕方は暗くなる前 大体日没時間 まで歩けるし、朝は薄明るくなった 日の出前約30分 頃から 歩くことが出来、行動時間が長く取れます 宿泊施設に泊まる場合よりも2時間以上。 人家が近くにある所では土地の人に一言声を掛けておいた方がトラブルが起こらず良いでしょう。 自分は出来るだけ人家の無い所 山や林の中 で野宿をするようにしました。 野宿の出来そうな所のリストはに書いてあります。 徒歩巡礼では、トイレの有無は大きな問題です 特に女性の場合は。 トイレが気軽に利用できる所は、札所の寺院、鉄道の駅、市町村の役場、公園、 道路の公衆トイレ、道の駅、大型スーパーや量販店、トイレ表示のあるコンビニ等でしょう。 そして有名観光地の大きな駐車場には、トイレが設置されている所が多いはずです。 非常時には警察署、交番 駐在所 、消防署、郵便局など公的な所に頼むと貸してもらえます。 西国三十三ヶ所霊場巡りの札所になっているお寺には必ずトイレが設置されております。 内容の良し悪しは有りますが、必ずありますので着いた時か出る前に利用すると良いでしょう。 JRの駅には必ずトイレが有ります 私鉄は無い所も有る ので確実に利用できます。 総体的に駅のトイレは、無人駅でない限り、清掃されているのでかなり綺麗なものです。 大きなスーパーやホームセンター、大型量販店などにはトイレが有るので、 誰でも気兼ねなく使えます。 公園にはトイレが備わっている所とそうでない所がありますが、 これはその町の行政の問題で、セキュリティや管理などその地方自治体の考え方で決まります。 西国霊場巡りで利用できるトイレはに書き出して有りますが、 必ずトイレのある札所、スーパーと大型量販店、市町村役場、コンビニは外してあります。 最近はコンビニやスーパー、自動販売機などで水やお茶、ジュースなど飲み物類が 手軽に手に入りますが、そのようなものが無い所では普通の水を飲むことに成ります。 水は公園、駅、神社仏閣など公共性のある所にある水道が利用できますし、 山などで自然の水が飲めるようにしてある所の水も飲めます。 札所等の神社仏閣の手水鉢で、水道を利用している所では手水鉢の水も飲めます。 この様な水の出所が保障されていない所の水を飲むのは止めましょう。 西国霊場巡りは山の中を歩くことが多く、特に熊野古道中辺路では山の水を飲む事があります。 山の水を飲む時は、大きな沢の本流の水は出来るだけ飲まない様にして、 山腹や細い枝沢から流れる水を飲むようにしましょう。 その沢の上流に人家や畑が無ければまず問題なく安全な水といえます。 上流や水源に人家や畑、ゴルフ場などが在る場合は飲まないようにしてください。 山の水は総体的にまろやかで美味しく、自分はそのような水を見付けると必ず飲んでみますし、 美味しいと水道の水は捨ててしまい、山の水を入れるようにしています。 自分は軽くて丈夫な 500ccのペットボトルを何時も水筒の代わりに利用しています。 これ以上大きな容量ですと嵩張って重く成りますので、巡礼旅にはこの大きさが限界でしょう。 飲料水を見付けたらそのつど、古い水を捨ててそこの水を満タンにしておくと良いでしょう。 歩いていて休憩所となる場所は札所の寺院の他に、巡礼道に沿って在る神社やお寺の境内が、 ホコリが少なく静かで適しています しかし、座れるベンチを置いている所は少ない。 熊野古道中辺路にはある一定間隔に休憩所が作られており利用できます。 兵庫県北部や京都府北部では、地蔵堂にベンチが作られており休憩所として利用できます。 鉄道の駅の待合室、道の駅、バスターミナル、公園などが休憩所としての王道でしょうが、 大型スーパーの前、街中の商店街などにはベンチが置かれている所もあり利用できます。 路線バスのバス停にもベンチや椅子 これには公的なものと私的なものがある が、 僅かですが置かれている所がありますので、バス停も休憩所として利用できます。 田舎へ行きますとバス停に待合室が作られている事が多々ありますので利用できます。 ベンチなど何も無い所では道端に座ることに成りますが、コンクリートやブロックの縁石、 大きな自然石、材木や切り株などが座るのに適しているでしょう。 そのような所へ座るときは、出来るだけ地上よりも20〜30cmほど高い所が良いでしょう。 出来れば椅子の高さが理想的です 座ったり、立ち上がったりする時に身体が楽。 休憩を取る場所としての、寒い時期には、風の当らない所を選ぶべきです。 寒風に吹かれますと体感気温がとても下がりますの長い時間座っていられません。 日は当たるが吹きさらしの所と、日陰だが風の当らない所のどちらを取るかという場合は、 日陰でも風の全然当たらない所の方が結果的には暖かです。 暑い時期は、出来るだけ日陰を選ぶべきです。 そこが風の通り道だったら最高です。 たとえ座るのに条件の良いベンチが有っても、日が当たる所では、休むのは止めましょう。 日の当る所でじっとしていますと、体温が上がり熱射病を誘発します。 雨が降っている時に休むには屋根になる物が必要で、休憩する場所がとても限られてきます。 人家がある集落や街中の場合は比較的雨を避けることの出来る場所が多いのですが、 田畑の中の道や、河川敷、山道、海岸線などでは殆ど絶望的で歩き続けなけば成りません。 鉄道の駅の待合室、道の駅、バスターミナル、待合室のあるバス停、神社、お寺、大型スーパー、 ホームセンター等は休むのに最適な場所といえますが、頻繁に巡り合える所ではありません。 休憩場所の裏わざとして、街中ではコインランドリーが良い休憩所と成ります。 たいていの処が椅子やベンチを置いてありますので座れますし、雨風が避けられ暖かです。 もう一つは街中ではなく、田舎を歩いていますと無人の精米所がほぼ集落にひとつはありますが、 ここがやはり雨風を避けられて良い休憩所に成ります。 地図など確認するのに濡れずに済みます。 比較的小さな建物なので、椅子などは置いていませんが、たまには置いてある処もあります。 電話ボックスは地図やガイドブック等をチョッと調べる時などに利用できます。 どうしても都合の良い所が無い場合は、道路に面した大きな庇を持つ商店や公民館、民家の軒下、 空いている車庫、作業場の軒下、橋やガードの下などで立って小休止をとると良いでしょう。 雨宿りが出来る所を探しながら歩くと、色々と見付かるもので、周りを注意して歩きましょう。 朝から夕方まで1日中歩きますと、歩き始めた朝方、お昼前後、午後遅くから夕方に掛けてと、 1日を三分割しますと、歩くスピードが違ってきます。 午後に成ると疲労が溜まってくるので、 どうしても歩くペースが遅くなり平均速度が下がってきます。 休憩の取り方は、午前中の体力があるうちは1時間に1回10分前後でも良いでしょうが、 午後になり、疲れてきたら45分とか30分とか、歩いている時間を短くして、 休憩の回数を多くし、休む時間も長めにしますと良いでしょう。 疲れているのに無理をして、余り休憩を取らずに歩くと、翌日に筋肉の疲労が残ります。 暑い時期には朝早くから歩き、気温の上がる昼頃から午後に掛けて長時間の休憩や昼寝をとり、 少し涼しくなってから日没まで歩くという、1日を二分割して歩く方法が効率的です。 平地と坂道では休憩の取り方が違ってきます。 登坂 特に急傾斜 の時は平地よりも、 小まめに短時間 2〜3分立ち止まり呼吸を整える の休憩を多く取った方が効率的に歩けます。 午後に1時間前後の長い休憩を取ります 昼寝をしても良い と、リフレッシュされ、 その後は体力がかなり回復し、新鮮な感覚で暗くなるまで快適に歩けます。 或は2〜3時間に1回20分以上の休憩を取りますと足がリフレッシュされます。 この時は靴を脱ぎ、出来れば靴下も脱いで素足になり、足のマッサージをすると良いでしょう。 この様な休憩を取る時は、椅子のように座る所ではなく、足の伸ばせる所が良いでしょう。 ある程度長い時間休む時は、靴を脱いでおくと足が楽ですし、靴の中が少しは乾きます。 短時間の休憩でも、靴を脱いで足の裏や腿などをマッサージすると後が楽です。 そして、短時間でも、休む時はリュックを下ろした方が肩や背中が楽に成ります。 たとえ荷物が軽くても、長時間リュックを背負っていますと肩が痛くなって来ます。 自分は、昔から長時間歩く時は「朝食」とか「昼食」などという「食事時間をとる」という事はせず、 食べ物や飲み物は10分程度の短い休憩の時にとり、昼間は正式な食事時間はとりません。 これは若い頃から冬山登山や縦走登山などハードな登山をしてきた経験から得た食事の方法で、 1日に長時間長距離を歩く巡礼旅には登山同様にかなり有効な食事方法です。 10分程の休憩が有れば、おにぎりやパンなどが食べられます。 少量ずつ数回に分けて食べると、 胃の負担にも、歩く負担にも成りません 歩く時に満腹状態に成るのは絶対に避けるべきです。 したがって昼間食べる食料は、箸など使わず手で直接食べられる物を選ぶと良いでしょう。 今回の巡礼旅では朝から夕方まで4〜5回に分けて、おにぎりか調理パンを1個か、 非常用のビスケット、乾パンなどを、牛乳や飲むヨーグルト、水などを飲んで食べるだけでした。 徒歩巡礼では歩いている時は小まめに食べ 完全に空腹に成るのはペースが落ちて良くない 、 まとまった食事は夕方にとる様にすると1日中快調に歩けます。 水分は多くとるべきです。 特に暑い時期は純粋な水分として1日に4リットル前後は必用です。 水もやはり一度に大量に飲まず、休憩のたびに少しずつ採るようにしましょう。 歩いている時は量を抑え目にして 特に登坂では飲まず、登り切って休む時に飲む 、 1日の行程を歩き終えた夕方から夜に掛けては大量に水分を補給しておきましょう。 自分は今回のように、汗をよくかいた暑い日には歩き終えて宿舎へ着くと、寝るまでに、 必ず2リットルくらいの日本茶やコーヒー、紅茶、牛乳などの水分を採っていました。
次の一般に寺院を巡って参拝する人のことや参拝することそのものを「巡礼(じゅんれい)」と呼び、日本には観音様をおまつりしたお寺を巡礼する習慣が室町時 代ごろから伝えられています。 その最古のものが、主に近畿地方一円に点在する「西国三十三所(さいごくさんじゅうさんしょ)」への巡礼です。 他に、関東地方の秩父三十四ヶ所・坂東(ばんどう)三十三ヶ所が全国的に有名で、この西国・秩父・坂東の札所を全部お参りすると、その数が100になることから、 百観音の巡礼として、多くの人々から信仰を集めています。 西国三十三所巡礼が日本遺産に登録されました。 西国三十三所めぐりで巡礼前に知っておきたい知識• 西国三十三所めぐり用の御朱印用品は巡礼前に考えておこう 西国三十三所めぐりするにあたって、まず考えておきたいのが御朱印をいただくか、いただかないかです。 巡礼を始めて何ヶ寺かお参りしてから、やっぱり御朱印をいただきたいなって思っても、 御朱印は直接寺院へお参りしたときでないといただけません。 御朱印をいただくか、いただかないか、いただく場合は何にいただくのかを巡礼前に決めておきましょう。 札所0番スタッフが考える 西国三十三所めぐりの車での回り方(巡り方) この西国三十三所めぐりのドライブコースは、札所0番スタッフで経験を踏まえて考えた京阪神地区を起点としたドライブ巡礼コースでの回り方(巡り方)を掲載しています。 京阪神地区以外にお住まいの方へは、出来る限りご参考になればと、起点はインターチェンジにしてある場合がほとんどです。 起点の場所への所要時間をお考えの上ご参考にしていただければ幸いです。 【全コースで巡礼できる寺院】 第1番・青岸渡寺~第33番・華厳寺の33ヶ寺 番外:元慶寺、法起院、花山院、高野山金剛峰寺、善光寺、四天王寺の6ヶ寺• 西国三十三所各地札所の天気予報•
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