37件中、空前の31件の出品が実現 京都国立博物館で 10月 13日(日)、特別展「流転 100年 佐竹本三十六歌仙絵(さたけぼんさんじゅうろっかせんえ)と王朝の美」が始まった。 台風 19号の接近で会期初日の 12日(土)は臨時休館を余儀なくされ、 1日遅れのスタート。 今から 100年前の 1919年(大正 8年)、 2巻の絵巻物が分割されて巻頭の「住吉大明神」と「三十六歌仙」を描いた計 37の断簡が売却されて以来、美術館の展覧会としては最多となる 31件(会期中の展示替えを含む)の出品が実現した展覧会に多くの観客が訪れている。 「三十六歌仙」とは、平安時代中期の歌人・学者の藤原公任(きんとう)が飛鳥~平安時代のすぐれた歌詠みから選んだ柿本人麻呂、大伴家持、小野小町、在原業平、紀貫之など 36人。 彼らはスターとして崇められ、個人歌集(家集)などが編まれて流布し、姿を想像して描いた肖像画(歌仙絵)も江戸時代に至るまで盛んに描かれた。 「佐竹本三十六歌仙絵」は鎌倉時代・ 13世紀に作られた絵巻物。 縦 37cmほどの大ぶりの料紙に一人ずつ歌仙の名前と和歌を記し、広い余白を取って肖像画(歌仙絵)を添える。 詞の筆者は後京極(ごきょうごく)良経、絵は藤原信実(のぶざね)と名うての人物が伝えられてきたが、いまだに特定されていない。 「佐竹本」の名称は江戸時代~幕末に入手したとみられる旧秋田藩主・佐竹侯爵家にちなみ、その前は京都の下鴨神社が所蔵していたらしい。 佐竹侯爵家は明治維新で境遇が大きく変わった旧大名家の多くがそうであったように、家伝来の重宝を維持できなくなり、 1917年(大正 6年)に大規模な売立を行った。 その目玉となった歌仙絵は「船成金」「虎大尽」の異名を取った実業家・山本唯三郎が高額で購入したが、すぐに財産を失い、手放すことになった。 しかしあまりに高額であることから、実業家・茶人の益田孝 号・鈍翁 らが発起人となり、絵巻を分割して財界人、古美術商などが個別購入することを申し合わせた。 分配は 1919年(大正 8年 12月、東京・御殿山の益田邸「応挙館」(現在は東京国立博物館に移築保存)で行われたクジ引きによって決定。 その日までに歌仙絵の糊付けをはがして分割されたが、「切売」「切断」などのショッキングな表現で報じられた。 当時の読売新聞が「この名品の散逸の前提ともいふべき分割の擧(挙)は惜しみても餘(余)りある事と云はなければなるまい」 1919年 12月12日付 と憂えたように、この事件はやがて文化財保護のための法律整備につながっていく。 「身売り三十六歌仙の行き先が定った」とクジ引きの結果を伝える読売新聞(1919年12月21日付) 歌仙絵を入手した人々は、それぞれに凝った表装を施して(「おべべを着せる」という言い方があるという)茶席で披露し、あるいは秘蔵した。 その後、戦争や財閥解体、高度成長や不況などの荒波の中でほとんどの歌仙絵が持ち主を替え、個人から法人に所管が移ったものも数多い。 1983年には歌仙絵のその後を追った NHK番組「絵巻切断~秘宝 36歌仙の流転~」が放送されて反響を呼び、翌年にはドキュメント本も出版された。 今日、所在が判明している「佐竹本」の歌仙絵の大半は重要文化財に指定されている。 しかし、行方が分からなくなったり、所蔵者が門外不出としたりするものもあり、 1986年にサントリー美術館(当時は東京・赤坂)が「佐竹本」の展覧会を開いた時には 29の所蔵者に出品を要請し、 20件しか集められなかったという。 今回は 2月に京都国立博物館がを開いた時点で 28件の出品が決まっていたが、開幕までに 3件を追加。 開幕時点で 24件が一堂に会した。 まずは国宝「三十六人家集」と平安古筆から 展示は平成知新館の3階から1階まで、全館をフルに使用。 3階の会場入り口の壁には「もう、会えないと思っていた」「あの日からやっと会える」という言葉が掲げられ、離散した歌仙絵たちが久しぶりに相まみえる奇跡への期待を否が応でも高める。 ここに集められた古筆も見どころで、「継色紙」「升色紙」「寸松庵色紙」の「三色紙」にはじまり、「高野切」(第三種)、国宝「本阿弥切『古今和歌集』巻第十二残巻」、京都・本願寺が所蔵する国宝「三十六人家集」=躬恒(みつね)集・素性(そせい)集・重之集・興風(おきかぜ)集を展示替え=などの名品が惜しみなく並ぶ。 国宝の手鑑「藻塩草」は奈良~室町時代の経文、和歌、消息などの断簡を貼り込んだもの。 「三色紙」も本来の姿は冊子で、巻物や冊子をバラバラにして鑑賞の対象とする伝統が古くから存在していた事実を教えられる。 また、茶の湯とともに古筆や絵巻の断簡を表装して茶席に飾る趣向が生まれ、「佐竹本」を分割購入した益田鈍翁ら近代数寄者(すきしゃ)にもそれが受け継がれていったことが理解できる。 脇息にもたれて体を傾けたり、紙と筆を手にしたりするおなじみのポーズの系譜を紹介している。 現存最古かつ平安時代の遺物として唯一という 重要文化財の硯箱「州浜鵜螺鈿硯箱(すはまうらでんすずりばこ)」(平安時代・12世紀)も見のがせない。 益田鈍翁邸で行われたクジ引きを振り返るコーナーの入り口。 写真は「応挙館」 「佐竹本三十六歌仙絵」と対面。 益田鈍翁邸「応挙館」の写真が掲げられた最初の展示室に入ると、応挙館の名前の由来となった円山応挙筆の襖絵や、佐竹侯爵家が絵巻物を納めていた蒔絵の箱、クジ引きに使われた道具などが並んでいる。 解体前に古筆研究家の田中親美が木版刷りで制作し、各購入者や皇室などに贈られたという「佐竹本」の摸本は、絵巻物だった時の姿を伝える貴重な資料だ。 また、この展示室には「佐竹本」のクジ引きから10年後の1929年(昭和4年)、京都・本願寺が所蔵する「三十六人家集」から分割・売却された「貫之集下」「伊勢集」の断簡も並ぶ。 この時もやはり益田が相談役となり、応挙館とは別の建物が会場に使われたという。 今日ならコストカッターならぬ「絵巻カッター」「古筆カッター」などという異名が益田に奉られそうだ。 「佐竹本」2巻を納めていた蒔絵の箱。 左奥はクジ引きに使われた竹筒を仕立て直した花入 開幕時点で24件。 圧巻の展示空間 いよいよ「佐竹本三十六歌仙絵」と対面。 巻頭の「住吉大明神」(東京国立博物館 全期間展示)と歌仙絵は、1件ずつ茶室を思わせる落ち着いた色調の壁に掛けられている。 絵巻物としては大きい部類なので、ガラス越しでもよく観察できるが、混雑していなければ単眼鏡で拡大して眺めることをおすすめする。 なぜなら「佐竹本」の歌仙絵の見事さは、歌仙の肖像表現の細やかさにあるからだ。 顔の表情、まなじり、朱を点じた唇など、生々しいほどにリアル。 展覧会を担当した京都国立博物館の井並林太郎研究員は、報道内覧会に先立つ説明会で「佐竹本は歌仙絵の最高峰と言われるが、歌の詠まれた心とか情というものが肖像表現の中に巧みに描かれているのが他の歌仙絵と一線を画しているところだと思う」と指摘した。 たとえば藤原敏行。 古今和歌集の有名な一首「秋来(き)ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」の内容そのままに、ふと振り向いたさまを描いている。 井並研究員は「冠の垂纓(すいえい=冠の後ろに垂らした部分)が大きく揺れ動き、肩も上下に動く。 佐竹本の歌仙絵の中でも動きのある一幅。 この和歌を詠んだ敏行の心に近づける表現がなされている」と解説した。 右:重要文化財「佐竹本三十六歌仙絵 紀貫之」 広島・耕三寺博物館 全期間展示 左:重要文化財「佐竹本三十六歌仙絵 藤原元真」 文化庁 全期間展示 所蔵者が美意識を注いだ表具も見どころ 展示室に並んだ歌仙絵を見渡すと、表装の美しさも目を引く。 作品を入手した人物は、それぞれに趣向を凝らして掛け軸に仕立てた。 古い裂(きれ)を使い、とりわけ坂上是則の「み吉野の山の白雪積もるらしふるさと寒くなりまさりゆく」は、吉野の山に積もる白雪を想像した歌の内容に合わせ、室町時代の作と思われる雪山の絵を切り取って歌仙絵の表装に用いている。 今回の展覧会図録は、表装も含めて撮影した画像と、断簡の本紙だけの画像を2種類掲載。 貴重な文化財の分割という痛恨の出来事とともに、「佐竹本」を入手した人物がみずからの美意識を賭けて表装をほどこし、いつくしんできた行為もあえて排除せず伝えている。 ところで今回、所蔵者の意向を尊重して報道内覧会における撮影はもちろん、メディアに掲載する画像を提供することも不可とされた歌仙絵が、開幕時点における展示24件中、10件にのぼった。 ミュージアムショップで買える絵葉書も、図像の使用が許可されたわずかなものに限られる。 しかし展覧会図録(税込み3000円)には、出品が実現した31件すべての画像を掲載。 井並研究員は「分割から100年経った2019年時点の状況が、かなり正確に記録されているのではないか。 50年、100年と(研究などに)使っていただける図録になったと思う」と述べた。 左:重要文化財「佐竹本三十六歌仙絵 源公忠」 京都・相国寺 全期間展示 右:重要文化財「佐竹本三十六歌仙絵 壬生忠峯(みぶのただみね)」 東京国立博物館 全期間展示 右:重要文化財「佐竹本三十六歌仙絵 清原元輔」 東京・五島美術館 展示期間:~11月4日 左:重要文化財「佐竹本三十六歌仙絵 藤原兼輔」 全期間展示 所蔵者が変わらなかった歌仙絵も 数奇な流転に目が向けられがちな「佐竹本」だが、最初にクジ引きで購入した時から所蔵先が変わらなかったものもある。 十五代住友吉左衛門友純(ともいと)が入手した「源信明(さねあきら)」は住友家に受け継がれ、現在は住友コレクションを保存展示する泉屋博古館(京都市)が所蔵。 野村徳七が入手した「紀友則」は野村美術館(京都市)に所蔵されている。 この2件は2人の写真、愛蔵した茶道具とそれぞれセットにして展示し、その審美眼も紹介している。 重要文化財「佐竹本三十六歌仙絵 紀友則」 京都・野村美術館 全期間展示 また、戦後まもなく「藤原仲文」を入手した実業家・茶人の北村謹次郎が1964年(昭和39年)、自身の還暦記念の茶事で一度だけ用いた際に取り合わせたという、景徳鎮窯の「青花高砂花入」(重要文化財)を再現した一画も。 どちらも現在は北村美術館(京都市)に所蔵されている。 第4章「さまざまな歌仙絵」では「佐竹本」と並ぶ歌仙絵の名品とされる「上畳(あげだたみ)本三十六歌仙絵」(鎌倉時代・13世紀)をはじめ、鎌倉~室町時代の代表的な歌仙絵の類例を紹介。 第5章「鎌倉時代の和歌と美術」では、武士が台頭した時代にもなお絢爛たる文学・美術作品を生み出した王朝文化を重要文化財「西行物語絵巻」(展示は11月10日まで)、西行筆の国宝「一品経和歌懐紙」(同)などの名品によって示す。 最後の第6章「江戸時代の歌仙絵」は土佐光起、鈴木其一(きいつ)などの筆による三十六歌仙の屏風3件(全期間展示)を並べ、江戸時代に至っても画題として好まれ続けていたことを伝える。 報道内覧会だけではとても時間が足りず、早々に買っておいた前売り券で開幕初日に再び訪れた。 午前11時過ぎに入館し、閉館時間の午後6時ぎりぎりまで。 昼食や休憩を除いても、展示室にたっぷり5時間いた計算になる。 こんなに長居をする観客は主催者にとって迷惑かもしれないが、展示替えを待ってぜひもう一度、眼福を得るために秋の京都まで出かけたい。 その代替として、休館日の11月18日(月)を特別に開館。
次の佐竹本「三十六歌仙絵巻」切断事件! 『高蒔絵三十六歌仙額』 共著者の了解による。 転載禁止 現在も「佐竹本・三十六歌仙絵巻切断事件」が、なぜ話題になるのでしょう・・・? 有名な「佐竹本三十六歌仙絵巻」の切断・切り売りを報じた 大正8年( 1919 )12月21日の『東京朝日新聞』 の記事です。 現在では、絵師は「信實が有力」と言われていますが、この当時は断定して書かれています。 (『秘宝 三十六歌仙の流転』・日本放送協会刊より転載) (上の記事の原文をそのまま、現代仮名遣い・当用漢字などに改め、読みやすくしたものです。 ) 「佐竹本・三十六歌仙絵巻」は、「なんとなく、そんな話を聞いたことがある。 」という風に記憶されている方もいるのではないのでしょうか? 高校時代に文学史で聞いたような・・習ったような・・・ なぜ、佐竹本・三十六歌仙絵巻は、「有名」なのでしょうか? 絵巻は切断されて、今ではそれぞれの歌仙絵は「一片の切れ」になってしまったのに・・・。 それは、上の記事に書かれているような衝撃的な 「事件」があったからではないのでしょうか。 【新首都・東京へ】 江戸幕府が崩壊した後、各大名家は所蔵してきた美術工芸品を、次々に売り出していました。 この背景となった一つの要因は「神仏分離」でもありました。 仏像も錦絵も屏風絵も、外国人にとっては「日本土産」でしかありませんでした。 徳川家をはじめとして、大名や公家は「貴族院議員」になり、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の地位を得て、新首都・東京に集まりました。 それまでの「所領地」は新政府に召し上げられ、政治の中心へ集まっていったのです。 当然、所蔵していた「優品・名物品」は、東京に集まり、悲劇的な事態にあいました。 それが 「関東大震災」です。 どれほどの 「名物」が失われたのか、今となっては知る由もありません。 大正3年 1 2月 東京駅開業 【大名家の名物大売立】 伊達家の2回の「大売立」に続いて、大正6年 11 月5日、佐竹家の「大売立」が開かれ、 空前の高値・ 35 万 3 千円で道具商6人の共同入札の手におちたのが、この佐竹本・三十六 歌仙絵巻でした。 現在の1億円が当時の1万円相当と考えると、大変な高額になるわけで すから、一人で買い付けることは、難しかったのでしょう。 6人の道具商は、佐竹本・三 十六歌仙絵巻切断や2巻の離散を恐れ、あえて落札したということです。 その頃、道具商や数奇者たちの間には、佐竹本・三十六歌仙絵巻の切断が、密かに噂され ていたとか・・・。 【切断された佐竹本・三十六歌仙絵巻の流転が始まる】 この時から、佐竹本・三十六歌仙絵巻の「流転の歴史」が始まります。 まず、虎大尽と異名をとった松昌洋行社長・ 山本唯三郎 が6人の道具商から、2巻を簡単に買い入れたのですが、大正7年 11 月第一次世界大戦が終るとともに、山本は事業に失敗して没落、再び佐竹本・三十六歌仙絵巻は、2巻ともに売りに出されました。 そして、 佐竹本・三十六歌仙絵巻の切断が行われたのです。 【茶席の必需品 「名物」と益田鈍翁 ますだどんのう 】 では、何故、そんなにも佐竹本・三十六歌仙絵巻切断に、財界一流の 「茶人」が集まったのか・・それは 益田孝(鈍翁) 「茶席」 が特別な外交交渉の場として、古くから利用されていたことにも、からんでくるのです。 茶席では、人は身分の隔てなく、茶席の亭主と客、招く側と招かれた側しかいない、 本来は 「侘び、さび」 をともに愉しむのが「茶席」 でした。 しかし、茶室は密談するために、絶好の場となってしまったのです。 (『徳川実紀』参照) 『秘宝 三十六歌仙の流転』の記事にある主役の 益田孝(号・鈍翁)のもとには、多くの財界人がひし めくように集まり、益田鈍翁は、その中でもまさに「ドン」であった古美術品の名だたる収集家で、茶人 でもありました。 同時に、鈍翁は、日本の伝統的な文化遺産の海外流出を独力で防ぎ、奈良・興福寺の仏像 77 点を買い上げ、友人たちに買わせたりもしていたということです。 「茶席」には、招いた客が見たことも無い、珍しい逸品 「名物」が必要です。 それも、人目には触れていない 「目垢」のついていない優れた「名物」でなければなりません。 その品々によって、「茶席の亭主」の品格や財力が試されるものといっても、過言ではないでしょう。 佐竹本・三十六歌仙絵巻切断は、格好の「名物切れ」所望だったのではないのでしょうか・・。 【佐竹本・三十六歌仙絵巻切断】 左の写真は、佐竹本・三十六歌仙絵巻切断が行われた 応挙館内部。 (秘宝『三十六歌仙の流転』より転載) 現在は、 東京国立博物館の裏庭に移築 されて、一般に開放され、 茶会や落語の高座などに利用されています。 この佐竹本・三十六歌仙絵巻 「処分世話人」の益田鈍翁・高橋箒庵・野崎幻庵は、三名連記で「三十六歌仙引受申合規定」なるものを作り、鈍翁らは 田中親美 古筆=鑑定家 と協議して、それぞれの値段を決めることを申し合わせていました。 大正8年 12 月に益田鈍翁の品川御殿山にあった応挙館に集まった人々は、江戸幕府崩壊と第一次世界大戦で成功した人々、そうそうたる財界のメンバーです。 例えば、 益田鈍翁 三井物産創始者 ・ 團琢磨 三井合名理事長 ・ 原富太郎(号・三渓・富岡製糸・生糸王)・ 馬越恭平(号・化生・大日本麦酒社長・ビール王)・ 藤原銀次郎(製紙王)・ 住友吉左衛門(住友財閥創始者)・ 野村徳七(野村證券) 岩原謙三(号謙庵・芝浦電気社長・ NHK 会長)・ 高橋義雄(号箒庵・三越初代社長・『大正名器鑑』)・・・といった人々、つまり、益田鈍翁の 「メガネにかなった 一流のコレクター・茶人」達だったのです。 (参考文献・秘宝『三十六歌仙の流転』絵巻切断・日本放送協会刊) 【 佐竹本・三十六歌仙切れの流転は続く】 このような時代背景の中で、ボストン美術館における日本美術買い入れの責任者は、 フェノロサの影響をうけた 岡倉天心でした。 皆様も、アメリカ・ボストン美術館に、膨大な日本の文化遺産が所蔵されていることは、ご存知でしょう。 その後の昭和大恐慌・第二次世界大戦をへて、「佐竹本・三十六歌仙切れ」は、次々に持ち主を変えて、財界人や法人・個人 匿名 が所蔵しています。 佐竹本・三十六歌仙絵巻は、もはや一片の「切れ」の寄せ集めでしかありません。 「佐竹本・三十六歌仙絵巻」という名前も「幻」となりました。 そして、このような事件は、今日でも起こりうることなのです。 文化財保護法 は、昭和 25 年( 1950 )に公布・施行されました。 法隆寺金堂壁画の焼失を契機とし , 山本有三ら参議院議員によって提案された文化財保護に関する基本法です。 しかし、離島・対馬の一宗教法人である神社の修復のための負担は、容易なことではありません。 共著者一同は、対馬の 「高蒔絵三十六歌仙額」が、佐竹本三十六歌仙絵巻と同様な運命をたどらないようにと切に願っていました。 それは、この中の1面の額でも、紛失・破損・火災・盗難など等の被害にあった場合には、同じ「流転の運命」を避けられない、と危ぶんでいたからです。 幸い、全国各地の皆様のご支援をもって、2008年3月31に「高蒔絵三十六歌仙額」は、対馬市指定文化財となりました。 さらに国指定重要文化財として認められるよう、続けて皆様のご支援をお願い致します。 もどる (こままきえ).
次のこのまま引き止めたい思いと、夜が明けて容姿がすべてさらされる不安。 これからも関係が絶えないようにと願う、いじらしい女心が感じられます。 最初の所有者は原三渓。 華やかな十二単をまとう女性の歌仙絵には、コレクターたちの人気が集中しました。 岩橋の夜の契りも 絶へぬべし 明くるわびしき 葛城の神 【現代語訳】葛城の神が岩橋を架け渡したのは、その容貌を恥じたのか、夜の間ばかりを選んでのこと。 私も葛城の神のような容貌を、朝の明るさの中で知られてしまっては、夜の契りも絶えてしまうのではないかと心配です。 「そんな人がいた。 恋があった。 千年を超えて伝わる女性の思い」 「佐竹本」に登場する女性は髪と装束の違いで見事に描き分けられていて、造形美に驚かされます。 小大君はあまり位の高い人ではなかったようで顔もしっかり描かれていて、存在感がリアルです。 歌人としてもそんなに大きな人ではないけれど、やっぱりこの歌、非常に鮮やかです。 当時の女性の社交術がよくわかる。 こういう言葉の力で男性を引き留めようとした、そういう女の人が確かにいたよねって思わせるような面白さがある。 しかも切なさも伝わってくる、いい歌だと思います。 歌仙ひとりひとりに集中できるのも「佐竹本」ならでは。 展覧会ではそれぞれの線、色、空間、人物像を歌と合わせて味わいたいですね。 早稲田大学第一文学部在学中より、短歌結社「かりん」に参加。 毎日新聞歌壇選者。 これまでに、角川短歌賞、現代歌人協会賞、迢空賞など受賞多数。
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