目次 ひめゆりの塔 生徒、教師だけでなく病院職員も多数亡くなった悲劇の地 沖縄の平和学習の地といえば、真っ先に思い浮かぶのが 「ひめゆりの塔」ではないでしょうか。 ひめゆりの塔は、 ひめゆり学徒隊最期の戦跡の地の一つ、伊原第三外科壕の上に建てられた慰霊碑です。 沖縄陸軍病院第三外科勤務の職員やひめゆり学徒隊が南部撤退後に避難した壕で、1945年6月19日朝 米軍の攻撃により多くの生徒や教師、病院の職員たちが亡くなりました。 ひめゆり平和祈念資料館 ひめゆり平和祈念資料館は、1989年6月23日、戦争の悲惨さや平和の大切さを後世に語り継ぐために開館されました。 ひめゆり学徒の遺品、写真、生存者の証言映像、南風原の陸軍病院壕の一部や伊原第三外科壕内部を再現したジオラマなどを見ることができます。 体験記 ひめゆりの塔を選んだ理由 私は3回沖縄旅行の経験がありますが、戦跡関係の場所には行ったことがありませんでした。 沖縄の歴史を見ていくうちに、こういう場所もちゃんと見ておかなければならないと思い、今回の旅行の日程に入れました。 ひめゆりの塔への行き方 バス: 那覇から 糸満市行きのバスで約30分、さらに 糸満市から 82・107・108のバスで約15分、 ひめゆりの塔前下車。 ひめゆりの塔 敷地内は公園のようになっています。 入口前では献花用の花が売られていました。 ひめゆりの塔敷地内に入ります。 ひめゆり平和祈念資料館 1989年設立の ひめゆり平和祈念資料館。 2004年に全体的に改装され、新しく綺麗な建物でした。 パンフレットには、展示室の内容が詳しく書かれています。 館内は撮影禁止なので、自分の記憶を頼りに印象に残っていることを書いていきたいと思います。 第1展示室 ひめゆりの青春 沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒たちを総称して「ひめゆり」と呼ばれていたそうです。 ここでは、女生徒たちの顔写真や持ち物を展示しており、 平和だった頃の彼女たちの何気ない日常や、時代が戦時色に染まっても忘れない少女らしい明るいけなげな気持ちなどが伝わってきました。 少女たちのあどけなさの残る顔写真、大事に使っていたであろう勉強道具が印象に残っています。 第2展示室 ひめゆりの戦場 ひめゆりの女生徒たちが看護要員として動員された後の様子が展示されています。 病院壕のジオラマがリアルで、さっき旧海軍司令官壕を見た後だったので想像しやすかったです。 手鏡が展示されていて、 「怪我で顔がぐじゃぐじゃになった患者から鏡を見せてくれと言われて困った」という女生徒の証言が忘れられません。 第3展示室 解散命令と死の彷徨 米軍が間近に迫った1945年6月18日夜、 解散命令が出され、生徒たちは米軍の包囲する戦場に放り出されたそうです。 民間人を使うだけ使って、いざとなったら守ってくれない日本軍って酷すぎますよね。 ここで印象的だったのは 生存者の証言映像です。 「先生に殺してと頼んだ」「友達に殺してと頼んだ」などという話が何度も出てきて戦慄を覚えました。 第4展示室 鎮魂 沖縄戦で亡くなったひめゆり学徒と教師の遺影227名が壁一面に飾られています。 また、 生存者の証言本もたくさん設置されており、どの話も目が離せませんでした。 多くの犠牲者が出た 井原第三外科壕を再現した穴があったのですが、怖くてあまり直視できませんでした。 第5展示室 回想 中庭の花壇を眺められる場所です。 ここでやっと平和な現実に戻り、さっきまで見た展示をゆっくり回想することができます。 第6展示室 平和への広場 2004年に新しく増設されたゾーンだそうです。 世界中の人々と平和交流している様子の写真、世界各地にある平和博物館の紹介などがありました。 himeyuri. html 終わりに 「ひめゆり=女生徒」のイメージが強いですが、 ここでは女生徒や教師だけでなく病院関係者も亡くなっている ことを行ってみて初めて知りました。 ひめゆりの悲劇だけでなく、 一緒に亡くなった人々のことも広く伝えていくべきなのではないかと思いました。 終戦から時間が経ち生存者も高齢化を迎えている今、 戦争の悲惨さを若い人たちが知って後世に伝えていかなければいけないと強く思います。 修学旅行で行ったことある人も、大人になってから行ってみたらまた違う視点で見ることができるのではないでしょうか。 次回は、をお送りします。
次のこの記事の目次• ひめゆりの塔ってどんなところ? 今では多くの方が旅行に訪れる人気観光地の沖縄県。 しかし、第二次世界大戦時には多くの犠牲者を出し、戦争の傷跡を残した場所でもあります。 沖縄県糸満市にある観光地「ひめゆりの搭」は、第二次世界大戦時に兵士の治療にあたり亡くなった 「ひめゆり学徒隊」をとむらう目的で建てられた慰霊塔です。 慰霊碑や防空壕も見られる 戦争の傷跡を後世に残す観光地である沖縄の「ひめゆりの搭」。 搭の奥には当時ひめゆり学徒隊が兵士の治療にあたっていた「 沖縄陸軍病院第三外科壕」があり、さらにその奥には納骨堂となっている「 慰霊碑」が建てられています。 そのほかにも戦争の犠牲となった医療従事者や、ひめゆり学徒隊のように兵士の看護にあたった学生の慰霊塔などが点在している場所です。 実際にイメージしている慰霊塔とは異なり、とても小さな「ひめゆりの搭」。 当時は物資難の時代であったことやアメリカの統治下であったことが影響し、数十cmほどの高さでしか作れなかったと言われています。 戦争の悲劇を語り継ぐための場所 第二次世界大戦では日本中で多くの戦死者を出しました。 原爆が投下された広島県や長崎県だけでなく、アメリカ軍との戦いが激化した沖縄県も無実の人たちが多く命を落としています。 糸満市にある「ひめゆりの搭」もまた、当時10代の女子高校生と教師たちが多数亡くなった場所です。 ひめゆりの搭を訪れることで 戦争で起こった事実や悲劇を深く知り、またそのことを 後世に語り継ぐ場所としての意味を持っています。 ひめゆりの塔基本情報 住所 沖縄県糸満市伊原671-1 電話番号 098-997-2100 ひめゆりの塔の歴史 【出典:】 1953年には史実を基に映画化した『ひめゆりの搭』が公開され、多くの観光客が訪れる場所になった「ひめゆりの搭」。 搭の名前の由来となった「 ひめゆり学徒隊」とは、 沖縄陸軍病院に配属された沖縄師範学校と沖縄県立第一高等学校に通う 女子生徒222名と教師18名に付けられた名前です。 ひめゆり学徒隊の「ひめゆり」とは、当時それぞれの学校についていた呼び名「白百合」と「乙姫」から取られたと言われています。 病院に配属されたひめゆり学徒隊は、病院の三つの防空壕にそれぞれ配置され、ひめゆりの搭が建てられた「沖縄陸軍病院第三外科壕」にもひめゆり学徒隊が負傷した兵士の看護にあたっていました。 多くの犠牲者を出したのは、1945年6月19日の朝。 防空壕はアメリカ軍の攻撃に遭い、ひめゆり学徒隊を含む96名の死者を出しました。 また生き残った8名も銃殺により3名が亡くなっています。 翌年の 1946年、防空壕の遺骨を回収した村民の手によって建てられたのが「 ひめゆりの搭」です。 2009年にひめゆりの搭は改修され、犠牲となった18名の生徒の名前が新たに記された慰霊碑が修復されました。 ひめゆりの塔へのアクセス方法• バスでのアクセス方法 那覇バスターミナルで34・89番のバスに乗車し「糸満バスターミナル」で下車。 82・107・108番のバスに乗車し「ひめゆりの塔前」で下車。 レンタカー(車)でのアクセス方法 沖縄自動車道「豊見城IC」で下車し、約30分 ひめゆりの塔には駐車場はある? ひめゆりの搭には、 200台の駐車場があります。 駐車場はひめゆりの搭を訪れる方だけでなく、併設する平和祈念資料館の利用客も駐車するスペースです。 ひめゆりの塔周辺観光情報 ひめゆりの搭の周辺にある観光スポットについて、いくつかご紹介します。 資料館は学徒隊の同窓生や募金により、1989年6月23日に設立しました。 資料館内は 6つの展示室と、当時の 防空壕(ガマ)を再現したジオラマで構成されています。 展示室はひめゆり学徒隊の戦争前の様子から戦時中~戦後の様子が順に紹介され、学生の所持品や当時の様子を再現したジオラマやムービーを鑑賞することも可能です。 沖縄戦終焉の地の土地に建てられた祈念公園は 40haの広大な敷地面積を誇り、 公園内は4つのエリアで構成されています。 ひめゆり学徒隊が犠牲になった沖縄戦の資料や証言などが展示された「 沖縄平和祈念資料館」では、ひめゆりの搭共に戦争の悲劇を忘れないために訪れておきたい場所です。 また、平和への願いと追悼を目的に建てられた高さ12mの「 沖縄平和祈念堂」では、堂内の美術館や蝶園を鑑賞することもできます。 24万人の戦没者の名前が記された「 平和の礎」や全国の戦没者の名前を記した「 霊域参道」には全国から観光客や遺族が訪れ、犠牲となった人たちへ思いをはせる場所となっています。 当時 4,000人の兵士が収容されていた全長450mの地下壕は、すべて人の手で掘られました。 1970年には指令室や医療室などを含む300mの地下壕が修復され、 実際に地下壕の中を見て回ることが可能です。 地下壕周辺は公園として整備されており、海軍の戦没者を慰霊する「 慰霊塔」や、地下壕内の遺品や旧日本海軍の資料が展示された「 旧海軍司令部壕資料館」もあります。 伝統工芸の体験コーナーでは、沖縄県の伝統織物「ミンサー」でコースターを作る体験やシーサーの色付け体験など複数の体験を選択可能。 ひめゆりの搭や周辺の施設を訪れることで、日本が平和であることの意義や戦争について考える良い機会になることでしょう。
次のひめゆりの塔 みんなといっしょにひめゆりの塔におまいりして、おねえさまがたがくるしい生活をして、最後におねむりになった岩あなを見学しましたが、下はまっくらでみるなり体ぜんたいがかたくなって目の前にあのおそろしい戦争がふたたびやってくるような気もちになりました。 たてふだにとりすがり泣くおかあさんらしい人や、また弟らしい人がただ一人ふだの前にぼんやりうつむいているすがたが見うけられました。 それに両方の目をうしない碑(ひ)にもたれながら、いもうとの名をよんではなきさけぶ人もありました。 あのいやな戦争! なんのつみもない人民をくるしめ、それから今から成長していくという人たちの、とうといいのちをうばいとったにくい戦争。 人命だけではありません。 家や木はやけて、はたけもあれはててしまいました。 もう二度といやな戦争はしてはいけないと思います。 国と国とがおたがいに手をとりあっていくことです。 わたしはこのことを心に感じながら、おねえさまがたの霊にたいし、さようならを心の中でもうしあげました。 (首里市・首里中3年・仲尾根敏子) 昭和20年代の中学生の綴り方(作文)です。 きょう75年目の沖縄慰霊の日を迎えました。
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