文武天皇 大宝律令とは701年に文武天皇を中心に制定された日本初の本格的な律令のことです。 律令というのは律と呼ばれる刑法などの犯罪に関する取り決めと、令と呼ばれる行政に関する取り決めの事を総称したものの事です。 つまり今の法律みたいなものだと思ってくれればオッケーですね。 この当時、日本では壬申の乱と呼ばれる古代日本の中では最大規模とも言える内乱に勝利した 天武天皇は日本を近代化させるために自ら政治を行い始めます。 そして天武天皇は妻の持統天皇とともにかつて天智天皇が目指そうとした大化の改新を成し遂げるためにちょうど大宝律令が制定される20年前の681年に 飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)と呼ばれる法令を発布しました。 こうして律令の令の部分が制定されましたが、 この飛鳥浄御原令は余りにも唐の性質に偏りすぎてしまったため余り浸透せずに終わってしまいます。 そして、「今度こそ!」と決心を決めた天武天皇の息子である 刑部親王 おさかべしんのう は20年後に大宝律令と呼ばれる律令を発表。 日本初の律令がようやく完成して、日本は律令国家として認められる結果となったのです。 大宝律令の制定は唐などに舐められないような 天皇中心の中央集権国家の建設の集大成とも言える出来事だったのですね。 年号 大宝律令が制定されたのは 701年。 ちなみに、 大宝律令の大宝は日本でしっかりと制定された初めての元号。 大化などの元号は以前からあったものの、ここから継続的に日本で元号が使用されることになりました。 原文 こうして制定された大宝律令なんですが、悲しいことに原文は今では全て現存していません。 しかし、のちに作られる律令である養老律令において大宝律令の復元が一部なされており、また続日本記や令集解などの文献に一応残っています。 語呂合わせの覚え方 大宝律令の年号の覚え方は色々あるのですが、その中でも特にいいと思うのが「 なおい 701 い国へと大宝律令」です。 大宝律令の制定によって日本は一気にいい中央集権国家へと向かっていきました。 余りにも覚える量が多すぎて挫折してしまう人が続出していくのですが、じっくりと解説していきたいと思います。 まずは律令の律の部分なんですが、これに関するルールが 五刑と 八虐。 五刑というのは犯罪を犯した時に犯人に対してどのようなことを行うというのを決めたもので、• 笞刑 細い竹の棒で叩く刑罰。 10回から50回まで10回刻みで別れています• 杖刑 太い木の杖で叩く刑罰。 60回から100回の10回刻みなんだが、普通に考えて死ぬほど痛いのは確実• 徒刑 今の懲役みたいな刑罰。 1年から3年まで半年刻みとなっている。 流刑 要するに島流し。 当時都が置かれていた奈良県から近い近流、中流、遠流の3つに別れていました。 死刑 名前の通り。 絞首刑の絞と斬首刑の斬に別れていました。 の 5つの刑罰のことを指します。 でも、この五刑は貴族の場合であったら贖銅といって大量の金銭を政府に納めると罪が許されることがありました。 「これじゃ不平等じゃないか!」と思うかもしれませんが、それとは別に• 謀大逆• 大不敬• 不義 これら八虐と呼ばれる 8つの重罪が決められていました。 これらは例えば親を殺したとかだったり、天皇に対して歯向かったり、反乱を起こした時に対する罪などですが、この罪を犯すとどんだけ金を積んだとしても否が応でも死刑になるのは確実だったそうです。 親やおじいちゃんには優しくしましょうね! さてさて、次は律令の令の部分なんですが、天皇中心の国家を作るためには国の制度を整えるのが最優先。 そのためこの 大宝律令では中央政府と地方区分について決められました。 まず、中央政府の方では 二官八省と呼ばれる体制が築かれました。 二官というのは太政官と神祇官のことを指すのですが、太政官が政治担当、神祇官が祭事担当。 今の時代で表すと太政官が内閣で、神祇官が神社本庁といえば適切ですかね。 太政官には上から太政大臣、左大臣、右大臣、大納言などの役職がありました。 さらに、太政官の下には• 中務省(天皇の命令である勅書の作成や戸籍をまとめる担当 ここが一番偉い)• 式部省(貴族の人事などを担当)• 大蔵省(朝廷の財政担当 今の財務省みたいな役所)• 民部省(戸籍や税の管理・国の財務管理担当 今の国税庁みたいな役所)• 宮内省(朝廷のお世話役担当 今の宮内庁みたいな役所)• 兵部省(軍事などの担当 今の防衛省みたいな役所)• 刑部省(法律の執行担当 今の法務省のような役所) ちなみに、ランクは卿、大輔、少輔、大丞、少丞、大録、少録に分かれていました の 8つの省が置かれて、日本の政治を動かしていました。 また、そのほかにも• 朝廷の護衛や仕事をちゃんとしているかのチェックをする五衛府• 警察みたいな役職である弾正台• 九州を管理する太宰府• 摂津国を管理する摂津職 が置かれました。 一方の地方では、国郡里制が制定され、政府から全国に国司が派遣。 これがいわゆる旧国名に繋がるのですが、さらに東海道・中山道・北陸道・山陽道・山陰道・南海道・西海道の 七道と呼ばれる地域と大和・摂津・和泉・山背 のちの山城 ・河内などの比較的都から近い 五畿に分けられていました。 大宝律令の税の仕組み 国にとってとても大事なものの一つに税金があります。 例えどれだけ国の制度を整えても国の運営に必要な資金がなければ何もできませんからね。 そのため大宝律令では税制度も制定していきました。 まず、日本は天皇を中央集権国家となりましたので、全ての土地は天皇の物としました。 そして農民たちにはこの天皇の所有している土地の一部を口分田という形で貸し与えてそこで農作業をさせたのです。 また、政府は20歳以上の国民に対して布やお米を収めるか都で一定期間中働かせるかのどちらかをさせるようになりました。 これを 庸といいます。 さらに、17歳以上の国民には自分が住んでいる土地の特産品を収めるようになります。 これを 調といいます。 大宝律令ではこの 租庸調制と呼ばれる税金のシステムによって政府は成り立っていたのでした。 大宝律令は天皇が誰の時? 藤原不比等 大宝律令が制定された時の天皇は 文武天皇。 この人は草壁皇子と持統天皇の間に生まれた息子です。 ただ、大宝律令の知名度の割にはこの人が制定したということを知っている人はあまりいません。 実はこの大宝律令は文武天皇が直接制定したのではなく、その親族である刑部親王や藤原不比等などが中心として制定していたのです。 この中でも藤原不比等という人は文武天皇を擁立したことや大宝律令を制定したことによって政治的な権力基盤を築くことになり、のちに続く藤原家の基礎を作っていくことになるのでした。 それではまとめに入りましょう! まとめ それではまとめに入ります。 大宝律令とは701年に制定された日本初の律令のこと• 大宝律令では原文は存在していないが、養老律令や書物に記録されている• 大宝律令では五刑八虐などの法律や、二官八省などの政治システムが作られた• 大宝律令では班田収授制が成立して、国民は租庸調と呼ばれる税を納めた• 大宝律令が制定された時の天皇は文武天皇だったが、実際には刑部親王や藤原不比等が中心として作られた 最後になりましたが、この大宝律令によって大化の改新以来から天皇達が目指してきた中央集権国家の設立がついに達成されることとなります。 そして、日本の歴史はここからしばらくの間朝廷が政治を行う時代へと変わり、奈良時代や平安時代の律令の基礎となります。 大宝律令は日本の新たなる歴史の幕開けとなった律令でもあったのでした。
次の職種のるつぼ 外国からも 現代の都市は、人口が多いほど、あるいは人口密度が高いほど、大きな都市とみなされます。 奈良県最大の都市である奈良市の人口は、現在36万人です。 では、奈良時代最大の都市、平城京の人口は何万人だったのでしょうか。 古くは20万人と推定されましたが、最近では5~10万人と考えられています。 その住民構成は、貴族や役人とその家族、一般庶民、商人や僧侶、物づくりの工人など、さまざまな身分や職業の人々からなっていました。 また、諸国から納税のために上京した人々や、工事に駆り出された人夫などの短期居住者や、はるばる海を越えてやってきた外国の人々も滞在しました。 さて、平城宮には二官八省と呼ばれる中央官庁と、それに付属するたくさんの役所がありました。 平城宮に勤務する役人の数は、実に1万人と推定されます。 そのうち、五位以上の「貴族」は150人、六位以下でもよいポストについていた中・下級役人は600人ほどでした。 官位をもち、よい役職についていた「お役人」はごく一握りで、大多数の人は、下働きなどだったようです。 早朝、日の出前に、ぞろぞろと通勤する役人たち。 彼らが平城宮の中に吸い込まれていく姿は、現代の通勤の光景とそう変わらないものだったのかもしれません。
次の文武天皇 大宝律令とは701年に文武天皇を中心に制定された日本初の本格的な律令のことです。 律令というのは律と呼ばれる刑法などの犯罪に関する取り決めと、令と呼ばれる行政に関する取り決めの事を総称したものの事です。 つまり今の法律みたいなものだと思ってくれればオッケーですね。 この当時、日本では壬申の乱と呼ばれる古代日本の中では最大規模とも言える内乱に勝利した 天武天皇は日本を近代化させるために自ら政治を行い始めます。 そして天武天皇は妻の持統天皇とともにかつて天智天皇が目指そうとした大化の改新を成し遂げるためにちょうど大宝律令が制定される20年前の681年に 飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)と呼ばれる法令を発布しました。 こうして律令の令の部分が制定されましたが、 この飛鳥浄御原令は余りにも唐の性質に偏りすぎてしまったため余り浸透せずに終わってしまいます。 そして、「今度こそ!」と決心を決めた天武天皇の息子である 刑部親王 おさかべしんのう は20年後に大宝律令と呼ばれる律令を発表。 日本初の律令がようやく完成して、日本は律令国家として認められる結果となったのです。 大宝律令の制定は唐などに舐められないような 天皇中心の中央集権国家の建設の集大成とも言える出来事だったのですね。 年号 大宝律令が制定されたのは 701年。 ちなみに、 大宝律令の大宝は日本でしっかりと制定された初めての元号。 大化などの元号は以前からあったものの、ここから継続的に日本で元号が使用されることになりました。 原文 こうして制定された大宝律令なんですが、悲しいことに原文は今では全て現存していません。 しかし、のちに作られる律令である養老律令において大宝律令の復元が一部なされており、また続日本記や令集解などの文献に一応残っています。 語呂合わせの覚え方 大宝律令の年号の覚え方は色々あるのですが、その中でも特にいいと思うのが「 なおい 701 い国へと大宝律令」です。 大宝律令の制定によって日本は一気にいい中央集権国家へと向かっていきました。 余りにも覚える量が多すぎて挫折してしまう人が続出していくのですが、じっくりと解説していきたいと思います。 まずは律令の律の部分なんですが、これに関するルールが 五刑と 八虐。 五刑というのは犯罪を犯した時に犯人に対してどのようなことを行うというのを決めたもので、• 笞刑 細い竹の棒で叩く刑罰。 10回から50回まで10回刻みで別れています• 杖刑 太い木の杖で叩く刑罰。 60回から100回の10回刻みなんだが、普通に考えて死ぬほど痛いのは確実• 徒刑 今の懲役みたいな刑罰。 1年から3年まで半年刻みとなっている。 流刑 要するに島流し。 当時都が置かれていた奈良県から近い近流、中流、遠流の3つに別れていました。 死刑 名前の通り。 絞首刑の絞と斬首刑の斬に別れていました。 の 5つの刑罰のことを指します。 でも、この五刑は貴族の場合であったら贖銅といって大量の金銭を政府に納めると罪が許されることがありました。 「これじゃ不平等じゃないか!」と思うかもしれませんが、それとは別に• 謀大逆• 大不敬• 不義 これら八虐と呼ばれる 8つの重罪が決められていました。 これらは例えば親を殺したとかだったり、天皇に対して歯向かったり、反乱を起こした時に対する罪などですが、この罪を犯すとどんだけ金を積んだとしても否が応でも死刑になるのは確実だったそうです。 親やおじいちゃんには優しくしましょうね! さてさて、次は律令の令の部分なんですが、天皇中心の国家を作るためには国の制度を整えるのが最優先。 そのためこの 大宝律令では中央政府と地方区分について決められました。 まず、中央政府の方では 二官八省と呼ばれる体制が築かれました。 二官というのは太政官と神祇官のことを指すのですが、太政官が政治担当、神祇官が祭事担当。 今の時代で表すと太政官が内閣で、神祇官が神社本庁といえば適切ですかね。 太政官には上から太政大臣、左大臣、右大臣、大納言などの役職がありました。 さらに、太政官の下には• 中務省(天皇の命令である勅書の作成や戸籍をまとめる担当 ここが一番偉い)• 式部省(貴族の人事などを担当)• 大蔵省(朝廷の財政担当 今の財務省みたいな役所)• 民部省(戸籍や税の管理・国の財務管理担当 今の国税庁みたいな役所)• 宮内省(朝廷のお世話役担当 今の宮内庁みたいな役所)• 兵部省(軍事などの担当 今の防衛省みたいな役所)• 刑部省(法律の執行担当 今の法務省のような役所) ちなみに、ランクは卿、大輔、少輔、大丞、少丞、大録、少録に分かれていました の 8つの省が置かれて、日本の政治を動かしていました。 また、そのほかにも• 朝廷の護衛や仕事をちゃんとしているかのチェックをする五衛府• 警察みたいな役職である弾正台• 九州を管理する太宰府• 摂津国を管理する摂津職 が置かれました。 一方の地方では、国郡里制が制定され、政府から全国に国司が派遣。 これがいわゆる旧国名に繋がるのですが、さらに東海道・中山道・北陸道・山陽道・山陰道・南海道・西海道の 七道と呼ばれる地域と大和・摂津・和泉・山背 のちの山城 ・河内などの比較的都から近い 五畿に分けられていました。 大宝律令の税の仕組み 国にとってとても大事なものの一つに税金があります。 例えどれだけ国の制度を整えても国の運営に必要な資金がなければ何もできませんからね。 そのため大宝律令では税制度も制定していきました。 まず、日本は天皇を中央集権国家となりましたので、全ての土地は天皇の物としました。 そして農民たちにはこの天皇の所有している土地の一部を口分田という形で貸し与えてそこで農作業をさせたのです。 また、政府は20歳以上の国民に対して布やお米を収めるか都で一定期間中働かせるかのどちらかをさせるようになりました。 これを 庸といいます。 さらに、17歳以上の国民には自分が住んでいる土地の特産品を収めるようになります。 これを 調といいます。 大宝律令ではこの 租庸調制と呼ばれる税金のシステムによって政府は成り立っていたのでした。 大宝律令は天皇が誰の時? 藤原不比等 大宝律令が制定された時の天皇は 文武天皇。 この人は草壁皇子と持統天皇の間に生まれた息子です。 ただ、大宝律令の知名度の割にはこの人が制定したということを知っている人はあまりいません。 実はこの大宝律令は文武天皇が直接制定したのではなく、その親族である刑部親王や藤原不比等などが中心として制定していたのです。 この中でも藤原不比等という人は文武天皇を擁立したことや大宝律令を制定したことによって政治的な権力基盤を築くことになり、のちに続く藤原家の基礎を作っていくことになるのでした。 それではまとめに入りましょう! まとめ それではまとめに入ります。 大宝律令とは701年に制定された日本初の律令のこと• 大宝律令では原文は存在していないが、養老律令や書物に記録されている• 大宝律令では五刑八虐などの法律や、二官八省などの政治システムが作られた• 大宝律令では班田収授制が成立して、国民は租庸調と呼ばれる税を納めた• 大宝律令が制定された時の天皇は文武天皇だったが、実際には刑部親王や藤原不比等が中心として作られた 最後になりましたが、この大宝律令によって大化の改新以来から天皇達が目指してきた中央集権国家の設立がついに達成されることとなります。 そして、日本の歴史はここからしばらくの間朝廷が政治を行う時代へと変わり、奈良時代や平安時代の律令の基礎となります。 大宝律令は日本の新たなる歴史の幕開けとなった律令でもあったのでした。
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