高野山 延暦寺。 アクセス

高野山真言宗とはなんですか?高野山真言宗の意味

高野山 延暦寺

弘法大師が高野山で一番最初に建立に着手したのがこの根本大塔でした。 現在のこの大塔は昭和十二年に完成したものです。 この内陣の本尊は胎蔵界大日如来です。 高さ約五十メートルで朱色が眩しい大塔は、真言密教のシンボルとして高野山の中心となっています。 ポインターを当てると出てくるのはすぐ傍の御影堂の前にある、三鈷の松です。 弘法大師が中国から投げた三鈷がこの松に引っかかっていたと伝えられています。 松の葉が三葉にまとまっているのが珍しいと言うことで、落ち葉を拾う人が多かったですよ。 金 堂・ 結縁灌頂開壇中 「結縁灌頂開壇中」とありました。 仏様との縁を結ぶ儀式なのでしょうね。 よくわかりませんが、沢山の善男善女とおぼしき人々が参加しているようでした。 下の小坊主さんたちはそのお手伝いで、何か儀式用のものを作成しているようでした。 可愛らしい、ま だ中学生くらいの子供もいました。 高野山町には高野山中学・高校・大学とありますから、それなりにお坊さんになる修行をしているのでしょうね。 お坊さんの格好はしていましたが、にこにこ と笑っている顔は、好ましかったです。 大 門 弘法大師はご母堂が住んでおられた慈尊院までの約24キロの山道を、一月に九度上り下りして訪ねられたと言うことです。 それで九度山と言う名がついたとドライバーが言いました。 ここは古くは高野山への表参道登り口だったそうです。 伽藍の金堂を起点として、この24キロの道に約1町ごとに卒塔婆を建てて標としたのだそうです。 初期の木造の卒塔婆が1270年頃から石のものに建て替えられ、今も数基が残っています。 5輪卒塔婆の形をしていて、それぞれに仏をあらわす梵字と寄進した人の名が彫られています。 車時代となり、この道は通らなくなりましたが、遊歩道として残されている部分があり、車から降りて少し横道に入ると、林の中の細道の傍らにこれが見られました。 石 上 神 宮 橋本から奈良へ行く途中、天理市で下車し、崇神天皇の時代に創祀された石上神宮に立ち寄りました。 楼門・拝殿は文化財指定建造物です。 昔からの名前である布留と言う地域にあり、静かで、敬虔な気持にさせられる佇まいです。 七支刀をはじめとして、国宝、重要文化財が社宝として多数収蔵されています。 柿本人麻呂の万葉集歌碑がありました。 「をとめらが袖布留山の瑞垣の 久しき時ゆ思ひきわれは」 奈良公園・猿沢の池 お能の「采女」の舞台になったところですね。 帝の寵愛を失って悲しみ、入水自殺した采女(うねめ)の霊を哀れみ、旅の僧が弔っていると、采女の亡霊が現れてこれを謝し、舞を舞い、再び池に消えていくと言うのです。 澄まず、濁らず、出ず、入らず、蛙はわかず、藻は生えず、魚が七分に水三分。 と言うのがありますね。 何となく知っているだけで最後の「魚が七分に水三分」なんかことにわかりません。 昔は周辺にももっと風情があったと思いますが、すっかり変わってしまいました。 昔っていうのは結婚前、五〇年くらい前のことですから仕方がありませんね。 締めくくりは国立博物館 福井の永平寺にはじまって、比叡山延暦寺、高野山金剛峯寺と強行軍でお寺まわりをしました。 信仰心に篤いと言うのではありませんが、一度は見てみたいところでした。 最後は奈良国立博物館で開催されている御遠忌八百年記念の大勧進・重源の特別展です。 1180年、平重衡による南都焼き討ちで東大寺の大仏殿が焼け落ち大仏が大破し、堂塔伽藍が灰燼に帰したのですが、その再興に力を尽くしたのが、この俊乗坊重源でした。 すでに60歳を超えていたそうです。 鎌倉時代の佛教復興と言うか、独特の美意識をもった形式の仏像や工芸品などがあらわれる基礎を造ったのがこの重源でした。 運慶、快慶などの仏師による鎌倉彫刻などがあらわれることになったのです。 それにしても、今回の旅はたった4日間でしたが、内容的にはかなり厳しかったと思います。 疲れました。

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世界遺産も?!近畿のおすすめ宿坊8選!朝のお勤めに精進料理!

高野山 延暦寺

弘法大師が高野山で一番最初に建立に着手したのがこの根本大塔でした。 現在のこの大塔は昭和十二年に完成したものです。 この内陣の本尊は胎蔵界大日如来です。 高さ約五十メートルで朱色が眩しい大塔は、真言密教のシンボルとして高野山の中心となっています。 ポインターを当てると出てくるのはすぐ傍の御影堂の前にある、三鈷の松です。 弘法大師が中国から投げた三鈷がこの松に引っかかっていたと伝えられています。 松の葉が三葉にまとまっているのが珍しいと言うことで、落ち葉を拾う人が多かったですよ。 金 堂・ 結縁灌頂開壇中 「結縁灌頂開壇中」とありました。 仏様との縁を結ぶ儀式なのでしょうね。 よくわかりませんが、沢山の善男善女とおぼしき人々が参加しているようでした。 下の小坊主さんたちはそのお手伝いで、何か儀式用のものを作成しているようでした。 可愛らしい、ま だ中学生くらいの子供もいました。 高野山町には高野山中学・高校・大学とありますから、それなりにお坊さんになる修行をしているのでしょうね。 お坊さんの格好はしていましたが、にこにこ と笑っている顔は、好ましかったです。 大 門 弘法大師はご母堂が住んでおられた慈尊院までの約24キロの山道を、一月に九度上り下りして訪ねられたと言うことです。 それで九度山と言う名がついたとドライバーが言いました。 ここは古くは高野山への表参道登り口だったそうです。 伽藍の金堂を起点として、この24キロの道に約1町ごとに卒塔婆を建てて標としたのだそうです。 初期の木造の卒塔婆が1270年頃から石のものに建て替えられ、今も数基が残っています。 5輪卒塔婆の形をしていて、それぞれに仏をあらわす梵字と寄進した人の名が彫られています。 車時代となり、この道は通らなくなりましたが、遊歩道として残されている部分があり、車から降りて少し横道に入ると、林の中の細道の傍らにこれが見られました。 石 上 神 宮 橋本から奈良へ行く途中、天理市で下車し、崇神天皇の時代に創祀された石上神宮に立ち寄りました。 楼門・拝殿は文化財指定建造物です。 昔からの名前である布留と言う地域にあり、静かで、敬虔な気持にさせられる佇まいです。 七支刀をはじめとして、国宝、重要文化財が社宝として多数収蔵されています。 柿本人麻呂の万葉集歌碑がありました。 「をとめらが袖布留山の瑞垣の 久しき時ゆ思ひきわれは」 奈良公園・猿沢の池 お能の「采女」の舞台になったところですね。 帝の寵愛を失って悲しみ、入水自殺した采女(うねめ)の霊を哀れみ、旅の僧が弔っていると、采女の亡霊が現れてこれを謝し、舞を舞い、再び池に消えていくと言うのです。 澄まず、濁らず、出ず、入らず、蛙はわかず、藻は生えず、魚が七分に水三分。 と言うのがありますね。 何となく知っているだけで最後の「魚が七分に水三分」なんかことにわかりません。 昔は周辺にももっと風情があったと思いますが、すっかり変わってしまいました。 昔っていうのは結婚前、五〇年くらい前のことですから仕方がありませんね。 締めくくりは国立博物館 福井の永平寺にはじまって、比叡山延暦寺、高野山金剛峯寺と強行軍でお寺まわりをしました。 信仰心に篤いと言うのではありませんが、一度は見てみたいところでした。 最後は奈良国立博物館で開催されている御遠忌八百年記念の大勧進・重源の特別展です。 1180年、平重衡による南都焼き討ちで東大寺の大仏殿が焼け落ち大仏が大破し、堂塔伽藍が灰燼に帰したのですが、その再興に力を尽くしたのが、この俊乗坊重源でした。 すでに60歳を超えていたそうです。 鎌倉時代の佛教復興と言うか、独特の美意識をもった形式の仏像や工芸品などがあらわれる基礎を造ったのがこの重源でした。 運慶、快慶などの仏師による鎌倉彫刻などがあらわれることになったのです。 それにしても、今回の旅はたった4日間でしたが、内容的にはかなり厳しかったと思います。 疲れました。

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「最澄」の天台宗、ライバル「空海」の高野山で初の法要

高野山 延暦寺

日本三大霊山とは 比叡山は、日本三大霊山のうちの一つです。 日本三大霊山 ・青森県の 恐山 ・滋賀・京都にまたがる 比叡山 ・和歌山県の 高野山 この三大霊山は、それぞれ、お寺があります。 恐山・・・恐山菩提寺。 862年に天台宗の慈覚大師 円仁により開かれた。 (現在は曹洞宗の寺院)• 比叡山・・・延暦寺(えんりゃくじ)。 788年に天台宗の開祖である伝教大師 最澄(さいちょう)により開かれた。 日本天台宗の総本山。 高野山・・・金剛峯寺(こんごうぶじ)。 816年に真言宗の開祖である弘法大師 空海(くうかい)により開かれた。 高野山真言宗の総本山。 最澄と空海は、学校で習いましたね。 伝教大師「最澄」と、弘法大師「空海」 二人は同じ時代(平安時代初期)の僧侶です。 最澄は大津市生まれで、父方の先祖は後に日本に帰化した後漢の孝献帝(こうけんてい)の子孫である登万貴王(とうまんきおう)。 母は藤原鷲取朝臣(ふじわらのわしとりあそん)の娘で、藤原藤子(とうし)。 空海は香川県善通寺市で生まれで、父は郡司・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母は阿刀大足の娘(あるいは妹)だといわれ、父母共に豪族。 最澄の方が空海よりも8歳ほど年上でした。 最澄は非常に優秀な人物として注目されており、唐(中国)への 留学費用は全て国が負担しました。 金銭面では圧倒的に有利なのですが、留学は短い期間しかなかったため(1年だけと決められていた)、法華経や密教の一部を6ヶ月学び、日本に持ち帰りました。 一方、空海はといいますと、謎の7年間の後(この期間の空海の足跡はなぜだか不明)、 全額私費で唐へ留学。 (空海は豪族の子供なので、助力してくれる人がいた?) 私費留学なので留学期間は20年まででしたが、恵果和尚(けいかおしょう)に大変気に入られて密教の全てを授けられ、1年8ヶ月後に帰国しました。 スーパーエリートで国から全額補助が出て唐に渡った最澄と、謎の7年間の活動の後、全額私費で唐に渡った空海・・・、面白いですね。 今でこそ海外へ行くとなると、安全な旅ができるのですが、この時代、隣の中国へ渡るのは命がけの渡航でした。 お二人とも、 自分の命を懸けて唐へ新しい仏教を学びに行き、日本に持ち帰り、広めたのです。 密教をもっと学びたかった最澄 このころ、桓武天皇(かんむてんのう)は病に臥せっており、「この病は怨霊からくるものだ」と思っていましたので、加持祈祷(かじきとう)で病を払う密教を最澄が学んできたのを大変喜びましたが、最澄は「もっと密教を学びたい」と思っていました。 最澄は一か月ほどしか、密教を学ぶことができなかったのです。 そこで、唐にて密教のすべてを授けられて帰国した空海に「弟子にしてほしい」と申し出、空海もこれを受け、最澄は空海の弟子となり、密教を学ぶことになりました。 それから4年後、最澄は「密教の大事な経典を貸してほしい」と空海に求めましたが、断られます。 というのも、当時、仏教ではタブーだった「男女の性愛」でさえ清いと説く経典だったので、空海は「間違ったふうに解釈されてはいけない」と懸念し、「時間をかけて、私の所へ学びにきてください」と最澄に要請したのですが、最澄は長期間比叡山を空けることができなかったため、応えられませんでした。 両者の交流は、ここで絶たれたのだそうです。 この「経典の貸し借りが元で疎遠になった説」の他、「弟子が原因で疎遠になった説」などがあるので、興味のある方は調べてみてはいかがでしょうか。 (結局、当事者同士にしかわからない問題だとは思いますが) 天台宗と真言宗は、 以降1,200年にわたり交流が無かったのですが、2009年に和解したようです。 (朝日新聞の記事より抜粋) 天台宗(総本山・比叡山延暦寺)トップの半田孝淳(はんだ・こうじゅん)座主(ざす)が、和歌山県高野町の高野山真言宗総本山金剛峯寺を訪れた。 天台宗開祖の最澄は晩年、経典の貸し借りをめぐって空海と疎遠になったとされ、 両宗派の開宗以来1200年間で初めての公式参拝となった。 最澄と空海は唐(中国)での留学仲間だったが、晩年に最澄が経典を借りようとしたところ空海が拒み、疎遠になったとされる。 弘法大師空海が開いた高野山は以前取り上げましたので、からご覧ください。 大門、壇上伽藍、金剛峯寺、奥の院と、4つに分けて書いてあります。 で書きましたが、「高野山」という名前の山はありません。 高野山は、八葉の峰(今来峰・宝珠峰・鉢伏山・弁天岳・姑射山・転軸山・楊柳山・摩尼山)と呼ばれる峰々に囲まれた、盆地状の平地の地域を指しています。 一方、比叡山も「比叡山」という名前の山はありません。 大津市と京都市左京区の県境に位置する大比叡と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ)の二峰から成る双耳峰の総称を、比叡山と呼びます。 高野山も比叡山も共にユネスコの世界遺産に登録されており、高野山は「紀伊山地の霊場と参詣道」の一つで、比叡山は「古都京都の文化財」の一つです。 桓武天皇が恐れた祟り 先程にも書きましたが、最澄が「もっと密教を学びたい!」と思ったきっかけが、桓武天皇(かんむてんのう)の病。 桓武天皇は「この病は、怨霊から来ている」と恐れていました。 一体誰の怨霊に悩んでいたのか・・・というと、桓武天皇の弟の早良親王(さわらしんのう)です。 早良親王は、長岡京の造営責任者であった藤原種継暗殺の首謀者としての疑いがかけられたことに抗議し、乙訓寺に幽閉された後、絶食して命を絶ちました。 (憤死して怨霊になった?) その翌年の延暦5(786)年から、桓武天皇の身内に不可解な出来事が次々と降りかかります。 まず、桓武天皇の妻の母が死に、その翌年には妻が死亡。 さらに天皇の母と、皇后が死亡し、桓武天皇の息子である安殿(あて)親王が重病となりました。 極めつけに天然痘の流行や洪水といった災難が相次ぎ、陰陽師に原因を聞いたところ、出てきたのが「早良親王」の名前だったそうです。 最澄は唐から帰国して、学んだ密教で桓武天皇に祈祷したものの、桓武天皇は病で亡くなってしまいました。 桓武天皇の後を継いだ息子の平城天皇は、弟の伊予親王を謀反の疑いで服毒自殺に追い込み、伊予親王の怨霊に祟られたせいか身体の不調を訴えて、弟に皇位を譲ります。 しかし、皇位を譲った弟の嵯峨天皇と対立して、平城天皇は失脚し、恨みを持って死んだせいか、平城天皇も怨霊となった(?)そうな・・・。 以前、の記事で、最大の怨霊「崇徳天皇」について書きましたので、興味のある方はご覧下さい。 「怨霊というのは人が認識してこそ、初めて怨霊となる。 怨霊は生者が作り出す」と、明治天皇の玄孫である竹田さんは著書で書かれていますが、争いで相手に非業の死を遂げさせてしまった者はその罪悪感からか「怨霊」を意識するようで、それを鎮めるために仏教や陰陽道などが力を持って行った背景がよくわかります。 私は宗教に疎いのですが、• 人を恨むような生き方をしない• 人から恨まれるような生き方をしない ことは、大切だなぁと思います。 では、次の記事で、比叡山延暦寺のまわり方を書きたいと思います。

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