は列挙するだけでなく、などを用いてしてください。 記事のにご協力をお願いいたします。 ( 2017年3月) 判例 事件名 損害賠償請求上告、同附帯上告事件 事件番号 平成10(オ)1081 2000年(平成12年)2月29日 判例集 裁判要旨 医師が、患者が宗教上の信念からいかなる場合にも輸血を受けることは拒否するとの固い意思を有し、輸血を伴わないで肝臓の腫瘍を摘出する手術を受けることができるものと期待して入院したことを知っており、右手術の際に輸血を必要とする事態が生ずる可能性があることを認識したにもかかわらず、ほかに救命手段がない事態に至った場合には輸血するとの方針を採っていることを説明しないで右手術を施行し、患者に輸血をしたなど判示の事実関係の下においては、右医師は、患者が右手術を受けるか否かについて意思決定をする権利を奪われたことによって被った精神的苦痛を慰謝すべく不法行為に基づく損害賠償責任を負う。 第三小法廷 裁判長 陪席裁判官 意見 多数意見 全員一致 意見 なし 反対意見 なし 参照法条 民法709条、民法710条 エホバの証人輸血拒否事件(エホバのしょうにん ゆけつきょひじけん)とは、宗教上の理由でを拒否していたの信者が、の際に無断で輸血を行った医師、病院に対してを求めた事件。 やについて争われた法学上著名なである。 概要 [ ] 輸血拒否 [ ] 宗教・思想の禁忌・戒律・価値観、または医療上の主張その他の理由により、を拒否する人は少なからず存在する。 彼らの主張は、生命の危機に陥る可能性がある場合も含め、いついかなる状況でも輸血を拒否するとする絶対的輸血拒否(絶対的無輸血)と、生命に危機がある場合など、身体に重大な影響を与える場合は輸血を容認する相対的輸血拒否(相対的無輸血)の2つに分けられる。 であるエホバの証人は、に「血を避けなさい」とする言葉が何度も出てくることを理由として、絶対的輸血拒否の立場をとっている。 そして、エホバの証人の信者であった女性Aは、この教義に従い生命の危機があるときも含めていかなる場合においても輸血を拒否するという固い信念を持っていた。 入院から手術まで [ ] 1992年(平成4年)7月6日、Aはにおいて、悪性の血管腫であるとの診断を受けた。 Aは輸血をせずに手術をすることを望んだものの、同病院の医師から不可能であるとして拒否されたため、11日に同病院を退院した。 そのため、退院後Aは輸血なしで手術が可能な医師・病院を探していた。 医師Bは、エホバの証人の教義に協力的である医師を紹介するエホバの証人の医療機関連絡委員会(以下連絡委員会)の間で、輸血をせずに手術を行った経験があることで知られていた。 Aが輸血なしで手術を行える医師・病院を探していることを知った連絡委員会は、7月27日にBに対してAの病状ならびに輸血を拒否する意向を伝え診療を依頼した。 依頼を受けたBは、がんが転移さえしていなければ輸血なしで手術が可能である旨を伝え、すぐに検査するよう述べた。 8月18日、AはBが所属する(以下医科研)に入院した。 医科研では医師C、Dの2名がAのとなった(以下B・C・Eを医師Bら)。 同日、CがAに対してごく少量の血液や、の可否を問うたのに対して、Aは「できません」と答えた。 9月7日、Dが「手術には突発的なことが起こるので、そのときは輸血が必要です」「輸血しないで患者を死なせると、こちらはになります。 やくざでも、死にそうになっていて輸血をしないと死ぬ状態だったら、自分は輸血します」と言ったところ、Aは「死んでも輸血をしてもらいたくない、そういう内容の書面を書いて出します」と言ったが、Dは「そういう書面をもらってもしょうがないです」と答えた。 同月10日、Aは医科研の指示ででを受け、同月11日、検査結果をCに渡した。 その際にCは、再び輸血の可否を問うたが、Aも前回同様「できません」と答えた。 検査の結果を受けて、手術に関わる医師らは手術についての術前検討会を行った。 検討会の結果、Aのは不測の事態から大量のに至る可能性があるとされ、基本的に輸血を行わないとしても、生命が危険な事態に備えてあらかじめ血液を準備する必要性があるという意見が出されたため、血液を準備することになった。 これは、医科研は患者の輸血拒否の意志を尊重して極力輸血を行わないようにはするが、輸血以外には救命手段がない場合は患者およびその家族の許諾の有無にかかわらず輸血を行うという方針(相対的輸血拒否)をとっていたためである。 9月14日、BはAの夫ならびに息子に手術の説明を行った。 その際Bは、再出血があった場合の再手術の可能性について触れ、その際は「医師のに従って治療を行う」と輸血の可能性について言外に示そうとした。 説明後、Aの息子は、Aが輸血を受けられないこと、輸血をしなかったために生じたに関して医師および病院職員などの責任を問わない旨とAのを記載した免責証書をBに手渡したところ、Bはこれを「わかりました」と受け取り、同席していたCまたはDに渡した。 9月16日、Aに対する手術がB、C、D、肝臓であるE、であるF、Gら(以下Bら)によって行われたが、患部の腫瘍を摘出した時点で出血が多量となったため、Bらは輸血をする以外にAの命を救うことができないと判断して輸血を行った。 その結果、手術は成功した。 医師Bらは、輸血の可能性を伝えることでAが治療を拒否することを恐れ、最後まで相対的輸血拒否の方針をAに説明しなかった。 提訴 [ ] Aは医科研を退院したあと、絶対的輸血拒否特約に反して輸血を行った国(医科研が国立であったため)の、輸血の可能性についての違反によって、Aの輸血に関する自己決定権を侵害したことに対する医師Bらの、医師Bらの不法行為に対する国のを主張し、国、医師Bらを相手取り合計1,200万円の損害賠償を求め提訴した。 下級審判決 [ ] 第一審 [ ] 判決 [ ] 1997年(平成9年)3月12日、は、の請求をいずれもした。 債務不履行責任 [ ] 輸血を行わないとする特約に反して、病院がAに対して輸血を行ったことによる国の債務不履行責任については、絶対的に輸血を拒否する契約がに反して無効であることを理由として認めなかった。 公序良俗違反にあたる理由としては、医療が患者の治療、救命を第一の目的としていることや、人の生命が崇高なものであること、医師に救命義務があることに反していることなどが挙げられた。 不法行為責任 [ ] 医師Bらの輸血の可能性についての説明義務違反による不法行為責任については、医師に救命義務があることに加え、エホバの証人である患者に輸血の可能性を伝えると輸血を拒否するおそれがあり、その結果死に至るが高いことなどを考慮すると、輸血の可能性について説明しなかったことがただちに違法であるとは言えないとして認めなかった。 控訴 [ ] 原告は、このを不服としてを行った。 8月13日にAが死去したため、Aの夫と息子がを承継した。 控訴審 [ ] 判決 [ ] 1998年(平成10年)2月9日、は、判決を変更し控訴人の請求を一部認め、B、C、Dおよび国に対して55万円の支払いを命じる判決を下した。 債務不履行責任 [ ] 国の債務不履行責任については、Aと病院との間で成立していた特約は相対的輸血拒否に留まり、絶対的輸血拒否ではないとして認めなかった。 そのように判断された理由は、Aと病院との間で絶対的輸血拒否の申し込みと承諾が成立していなかったためである。 裁判所は、過去にエホバの証人の信者が輸血を容認した例を挙げ、エホバの証人の信者の輸血拒否が一概に絶対的輸血拒否であるとは言えないとした。 そして、Aの口頭での輸血拒否の申し込みは一度も明確に承諾されておらず、Bに渡された免責証書も「損傷」という文言が死をも許容しているかが明確でないとした。 ただし、仮に絶対的輸血拒否の契約が成立していた場合の有効性については、輸血の拒否が他人の権利を侵害しないこと、過去の輸血拒否による死亡例でが行われていないこと、輸血なしで手術を行うの存在などを理由に、公序良俗違反により無効とした第一審判決を覆し有効であるとした。 不法行為責任 [ ] 医師の不法行為責任については、B、C、Dの説明義務違反によるAの自己決定権の侵害および、国の使用者責任を認めた。 判決では、「本件のような手術を行うについては、患者の同意が必要であり、(中略)この同意は、各個人が有する自己の人生のあり方(ライフスタイル)は自らが決定することができるという自己決定権に由来するものである」と自己決定権を認め、さらに「人はいずれは死すべきものであり、その死に至るまでの生きざまは自ら決定できるといわなければならない(たとえばいわゆるを選択する自由は認められるべきである)」と死に関する自己決定権についても認めた。 説明義務違反については、「医師は、エホバの証人患者に対して輸血が予測される手術をするに先立ち、同患者がを有する成人であるときには、輸血拒否の意思の具体的内容を確認するとともに、医師の無輸血についての治療方針を説明することが必要であると解される」としたうえで、B、C、Dには、絶対的輸血拒否を行わない方針が確定した時点でAに対してそのことを説明する機会を設けるべきであったとした(E、FはAおよびその家族と接触する機会がなかったことから説明義務違反はないとされた)。 そして、説明義務を怠った結果、Aが「絶対的無輸血の意思を維持して医科研での診療を受けないこととするのか、あるいは絶対的無輸血の意思を放棄して医科研での診療を受けることとするかの選択の機会(自己決定権行使の機会)を奪われ、その権利を侵害された」と説明義務違反と自己決定権違反の因果関係も認めた。 上告 [ ] B、C、Dおよび国は、この判決を不服としてした。 最高裁判決 [ ] 2000年(平成12年)2月19日、は、上告を棄却した(判タ1031号158頁)。 理由は以下の通りである。 「患者が、輸血を受けることは自己の宗教上の信念に反するとして、輸血をともなう医療行為を拒否するとの明確な意思を有している場合、このような意思決定をする権利は、の一内容として尊重されなければならない。 そして、Aが、宗教上の信念からいかなる場合にも輸血を受けることは拒否するとの固い意思を有しており、輸血をともなわない手術を受けることができると期待して医科研に入院したことをB医師らが知っていたなど、本件の事実関係の下では、B医師らは、手術の際に輸血以外には救命手段がない事態が生ずる可能性を否定しがたいと判断した場合には、Aに対し、医科研としてはそのような事態に至ったときには輸血するとの方針をとっていることを説明して、医科研への入院を継続したうえ、B医師らの下で本件手術を受けるか否かをA自身のにゆだねるべきであったと解するのが相当である」 「ところが、B医師らは、本件手術に至るまでの約1か月の間に、手術の際に輸血を必要とする事態が生ずる可能性があることを認識したにもかかわらず、Aに対して医科研が採用していた右方針を説明せず、同人および被上告人らに対して輸血する可能性があることを告げないまま本件手術を施行し、右方針に従って輸血をしたのである。 そうすると、本件においては、B医師らは、右説明を怠ったことにより、Aが輸血をともなう可能性のあった本件手術を受けるか否かについて意思決定をする権利を奪ったものといわざるを得ず、この点において同人の人格権を侵害したものとして、同人がこれによって被った精神的苦痛を慰謝すべき責任を負うものというべきである」 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• - 京都産業大学• - 京都産業大学• - 京都産業大学.
次のエホバの証人輸血拒否事件 エホバの証人輸血拒否事件 日本でインフォームド・コンセントが注目されるきっかけになった事件に「エホバの証人輸血拒否事件」があります。 1992年に東大付属病院で起きた事件で、患者の了解を得ないまま、担当医が手術の際に一方的に輸血をおこなった行為をめぐって、民事訴訟で最高裁まで争われました。 今回はこの「エホバの証人輸血拒否事件」を考えたいと思います。 女性は「エホバの証人」という宗教団体の信者で、肝臓ガンを患っていました。 エホバの証人というのは、アメリカに本部のあるキリスト教系の宗教団体で、聖書に記されていることを文字通りに実践することを説いています。 その教えの中には、進化論の否定、軍隊への入隊拒否、暴力や格闘技の否定といったことの他に「輸血の禁止」があります。 聖書の中に輸血を誤った行為として批判する記述があるため、輸血をしないことは、エホバの証人の信者が守らねばならない決まりのひとつになっています。 この女性はすぐにでも手術が必要な状態でしたが、信仰上の理由から手術の際に輸血ができません。 そこで、同じような肝臓ガンのケースで、輸血せずに生理食塩水の点滴のみで手術を成功させた実績のある東大病院に転院し、そこで手術を受けることにしました。 彼女は担当医に自分の信仰を説明し、どんな事態になっても輸血だけはしないでほしいと訴え、たとえ輸血をしなかったことで命を落としたとしても病院側の責任は一切問わないという内容の文書を記し、それを病院に提出しました。 一方、担当医はこの女性に「わかりました、できるだけ患者さんの信仰は尊重します」と応じましたが、もし手術中に輸血しなければ生命を救えない状況になったら、その場合には輸血するという相対的な治療方針をたてていました。 担当医は輸血が必要になる大手術になる可能性も十分予測していましたが、手術中の状況しだいでは輸血するという治療方針については、患者の女性に説明しませんでした。 まもなく、彼女の様態が急変しため、緊急手術が必要になりました。 手術は肝臓の多くを取り除く大手術となり、患者の女性は出血からショック状態に陥ったため、担当医は生命を救うことを優先し、輸血をして手術をつづけました。 手術自体は成功し、女性の生命は救われました。 しかし、彼女にとって、なんの説明もなく一方的に輸血をしたことは自分への裏切り行為です。 どうか輸血だけはしないでほしいと何度も頼み、担当医も「わかりました」と応じていたにもかかわらず、患者をだますようなやり方で輸血したのは、あまりにもひどいのではないかと考えました。 結局、この女性は担当医と病院への不信感から、再度転院し、翌年の1993年、担当医と東大病院に対して、信仰の自由と自己決定権の侵害により1200万円の損害賠償を請求する民事訴訟を起こすことにしました。 【課題】 もしあなたが裁判官だったら、この「エホバの証人輸血拒否事件」をどう判断しますか。 ポイントや双方の主張や新聞記事をよく読んで、あなたの考えを述べなさい。 【ポイント】 ・患者の女性は肝臓ガンを患っていた。 ・患者は「エホバの証人」の信者であり、信仰上の理由から輸血を拒んでいた。 ・患者は自分の信仰をあらかじめ医師に説明し、輸血せずに手術を行うよう担当医に依頼した。 ・患者は輸血をしなかったことでたとえ命を落としたとしても、医療機関の責任を問わないという文書も病院に提出していた。 ・担当医は輸血をしないでほしいという患者の要望に同意した。 ・担当医は、患者の要望を尊重して可能な限り輸血を行わないが、輸血以外に救命手段がない場合には、輸血の選択肢も残しておくという相対的な治療方針をたてていた。 また、緊急手術になった場合、輸血が必要になる大手術になる可能性も予測していた。 ただし、その方針を患者には説明しなかった。 ・患者の容体が急変し、緊急手術となった。 ・手術中、患者は出血からショック状態に陥り、担当医は患者の生命を救うために輸血を行った。 ・手術自体は成功し、患者は命をとりとめた。 【原告・患者の女性の主張】 医療によってあつかわれる「生命」とは患者の生命であり、どのような医療を受けるかを最終的に判断するのは、医師ではなく、患者本人でなければならない。 日本の医療現場では、医師が一方的に治療方針を決め、患者はそれに従っていればいいとするパターナリズムによる上下関係が長年続いてきたが、このような患者本人の意志を無視した医療のあり方はまちがっている。 患者は医師から十分なインフォームド・コンセントを受け、納得した上で、自ら治療方針を決める自己決定権をもっているはずである。 ところが、この事件では、担当医は「輸血しないでほしい」という患者の信仰を知り、それに同意していたにもかかわらず、緊急手術では一方的に輸血をおこなった。 これは患者の自己決定権と信仰の自由を踏みにじるごう慢な行為といえる。 また、患者の女性は重症の肝臓病だったため、輸血が必要な緊急手術になる可能性があることも医師はあらかじめ予測していた。 それにもかかわらず、その対応について、患者にまったく説明せず、一方的に医師の判断で輸血をおこなったのは、あきらかにインフォームド・コンセントが不十分である。 よって、担当医と病院は患者の自己決定権と信仰の自由を侵害しており、損害賠償を請求する。 【被告・担当医と病院側の主張】 医療の役割は患者の生命を救うことであり、医師には患者の生命を救う義務がある。 この事件の患者は重い肝臓病であり、手術では輸血をすることでしか患者の生命を救えない状況だった。 医師は、できるかぎり患者の意思を尊重するが、もしも輸血をするしか救う手段がない場合には、輸血をおこなうという方針をたてていた。 この方針は、生命を救うという医療の役割に基づいたものであり、きわめて合理的な判断といえる。 実際、この治療方針によって、手術は成功し、患者の生命も救われたのである。 出血多量による生死の境にある状況で、なお輸血を拒否するというのは自殺行為であり、すべての輸血を拒否するという患者の信仰自体、非常識で反社会的なものといえる。 そうした患者の信仰に医師や病院が同調し、患者を死亡させる危険をおかしてまで無輸血で手術をするとしたら、それは治療を放棄するのと同じであり、生命の尊重という医療の本質に反する行為である。 したがって、手術の際に輸血をおこなった担当医と病院には、なんら過失は見られない。 【判決】 第一審 東京地裁 1994 どのような場合でも輸血を拒否するという患者の信仰は「公序良俗」に反するもので無効。 原告の訴えを棄却。 控訴審 東京高裁 1998 患者の自己決定権は保障されるべきものであり、医師は患者に治療方針を十分に説明しておらず、インフォームド・コンセントをおこたっている。 損害賠償として55万円の支払い命令。 上告審 最高裁・小法廷 2000 高裁判決を支持。 インフォームド・コンセントをおこたっており、55万円の損害賠償の支払い命令。 稲葉威雄裁判長は「医師には、ほかに救命手段がない事態になれば輸血する、という治療方針の説明を怠った違法がある」と述べた。 こうした判断に基づき、原告敗訴の一審判決が変更され、病院を運営する国と医師の3人が合わせて約55万円の支払いを命じられた。 この裁判は、輸血拒否者への輸血をめぐり、患者が医師の責任を問う初めてのケースとして注目された。 高裁判決は、エホバの証人の信者が輸血を承諾した治療ケースがあることや、この主婦と担当医のやりとりなどを踏まえ、「絶対に輸血はしない」という合意はなかったと判断した。 ただし、こうした合意があった場合の効力については、「公序良俗に反して無効」とした一審判決とは反対の判断を示した。 判決はさらに、医師の説明義務違反の有無について検討。 「今回のような手術を行うに際しては、患者の同意が必要であり、それは尊厳死を選択する自由も含めて、各個人が有する自己の人生のあり方は自らが決定するという自己決定権に由来する」との判断を示した。 そのうえで、「医師団は場合によっては輸血をして手術を行う必要が出てきたと判断した時点で、輸血を行うことを説明すべきだった」と結論づけた。 被告側は「輸血の必要性を説明すれば、手術を拒否されると思ってあえて説明しなかっただけで違法性はない」と主張していたが、稲葉裁判長は「被告の主張は患者の自己決定権を否定するものだ」と退けた。 判決によると、この主婦は悪性の肝臓血管腫と診断された1992年6月、エホバの証人の信者の医師から、東大医科研を「無輸血手術をする病院」として紹介された。 この主婦と家族は同年9月に手術を受けるに際して、信仰上の理由から輸血はできないと医師に伝えたが、医師は手術時に出血性のショック状態にあったことを理由に輸血を行った。 当時余命1年とみられていた主婦は、手術後約5年たった昨年8月に死亡した。 主婦は93年6月に提訴し、昨年3月に東京地裁が請求を退ける判決を言い渡し、控訴していた。 医療現場で築かれてきたインフォームド・コンセント(十分な説明に基づく同意)の考え方を、司法の場で正面から取り上げ、患者の側に立って後押しする意味を持つと言える。 一審判決は「生命を救うためにした輸血は、(同意がなくても)社会的に正当な行為で違法性がない」という立場をとった。 しかし、こうした考えは、「救命のためという口実さえあれば、医師の判断を優先させることで、患者の自己決定権を否定することになる」(高裁判決)ともいえる。 専門家の間では「インフォームド・コンセントの考え方を大きく後退させる」との批判があった。 医療現場では、「どんな場合でも輸血を受けない」というエホバの証人の信者への対応が、患者側に立って進められてきた経緯がある。 日本医師会の生命倫理懇談会は1990年、輸血をしないことを条件にした手術を行うこともやむを得ないとする見解を示した。 患者の意思を尊重して緊急時でも輸血しないとの見解を発表した医療機関も、少なからずあった。 今回の高裁判決は、こうした医療現場の動きに沿うものと言える。 患者の自己決定権から同意の必要性を導き出した判決は、さらに踏み込んで、「人はいずれは死すべきものであり、その死に至るまでの生き様は自ら決定できる」として、「尊厳死を選択できる自由をも持つ」との判断も示した。 医療現場への影響が注目される。 その上で、医師らの説明義務違反を認定、国や病院側に計55万円の支払いを命じた2審判決を支持し、上告を棄却する判決を言い渡した。 これにより、女性信者側の勝訴が確定した。 【資料】 子供の治療を拒む親達 TBS「CBSドキュメント」1998 キリスト教原理主義といわれる宗教団体の中には、輸血だけでなく、すべての医療行為を否定している宗派も存在する。 このレポートで紹介されているアメリカ・ペンシルベニア州にあるフェイス・タバナクル教会もそうした宗派のひとつで、信者はインタビューで次のように述べている。 「私たちはたとえアスピリンでも薬を体に取り入れることができません、私たちの肉体は神様の宿る神殿なのです、神殿を汚すことはゆゆしき問題だからです」。 アメリカではほとんどの州で、信仰に基づいて自らが医療を拒否する権利だけでなく、信仰に基づいてこどもを医師に診せない親の権利も認められている。 しかし、フェイス・タバナクル教会信者の家庭では、十数名のこどもが、十分な医療を受けられれば治ったはずの病気で死亡している。 そのうちの五人は麻疹であった。 こうした事態を受けて、ペンシルベニア州は四組の夫婦をこどもの過失致死罪で起訴した。 裁判では夫婦の信仰が考慮され、彼らを刑務所へ送ることはしなかったが、ただし、五歳の息子を中耳炎で亡くし、つづけて十六歳の娘を糖尿病で亡くした夫婦については、その後の裁判で二度目の過失致死という点が重視され、懲役五年の判決とされた。 父親はそれについて次のように話している。 「治療を受けるかどうかは娘が決めることです、私たちじゃなくね、娘はすべてを神様におまかせしていたのです、神様が治してくださるとね」「人間は寿命を延ばすことはできません、治療はただ命をもてあそぶだけです」。 今後、州当局は、フェイス・タバナクル教会信者のこどもが生死にかかわる病気になった場合には、強制的に治療を受けさせる方針を出している。
次のスポンサーリンク エホバの証人とは エホバの証人は、キリスト教系統の新しい宗教です。 しかし 他の教派とは一線を画した存在としてとらえられることが多いようです。 例えば、彼らは聖書に書いてあることを読み解き、実践することを重要視しています。 キリスト教とは違い、聖書に基づいた厳しい戒律があるのです。 ゲームやギャンブルは禁止。 派手なメイクや服装もダメ。 なんと、 クリスマスを楽しむことまで禁止されているんです。 その代わりに彼らは、熱心な布教活動を行っています。 多くの人が、一度はエホバの証人と言葉を交わしたことがあるかもしれませんね。 エホバの証人輸血拒否事件とは? エホバの証人は、聖書から 「血を避けるべき」という教えを読み取りました。 そのため、 輸血することが禁止されているのです。 しかし、命を救うためにはどうしても輸血が必要な場面がありますよね。 輸出拒否事件は、まさにそういった状況下で起こりました。 事件の概要と結果 エホバの証人輸血拒否事件は、エホバの証人が輸血を拒否したにもかかわらず、医師が輸血してしまったため、 病院に対して損害賠償を求めた事件です。 事件は最高裁まで争われ、2000年2月19日に エホバの証人側の主張が認められました。 最高裁は、患者の自己決定権を尊重し、 医師が行った輸血の措置を違法としたのです。 判決で、医師は55万円の賠償金を支払うよう命じられました。 事件の顛末を詳しく見ていきましょう。 事件の流れをくわしく解説 事件は1992年に東大附属病院で起こりました。 肝臓ガンを患っていた、エホバの証人の女性が病院を訪れました。 もちろん彼女は宗教上の戒律を守るため、輸血を避けたいという立場にいます。 そこで、以前に同じような肝臓ガンの患者を、生理食塩水の点滴のみで手術した実績のある、東大附属病院を選んだのです。 彼女は信仰の説明をし、「どうしても輸血だけは避けたい」旨を医師に話しました。 その上で、もしも輸血をしないことにより命を落としたとしても、病院側の責任は一切問わないという内容の文書を作成し、手渡したのです。 この女性のように、たとえ命を落としたとしても、輸血はしないという態度のことを 「絶対的無輸血」といいます。 一方で、医師は 「相対的無輸血」の立場をとっていました。 もし手術中に、輸血しなければ命を救えない状況になった場合は、輸血するという考え方です。 医師は女性に対して「できるだけ信仰心を尊重します」という風に応じていました。 ところが、医師は「手術の状況次第では輸血する」という旨を患者に伝えませんでした。 ここが後から争われるポイントとなる部分ですね。 その後、患者の様態が急変。 緊急手術が行われました。 手術は肝臓の大部分を取り除く大手術となり、女性は大量の出血からショック状態に陥りました。 命を救うためには輸血が必要な状況になったのです。 「相対的無輸血」の立場をとる医師は、女性の生命を救うことを優先し、輸血を行い手術しました。 結果、手術は成功。 女性は救われましたが、彼女は輸血されたことに対してひどくショックを受けてしまいました。 そして翌年1993年、医師と病院に対して、「信仰の自由」と「自己決定権」の侵害により、1200万円の損害賠償を請求する訴訟を起こしたのです。
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