ねじ まき 鳥。 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」を読む

「ねじまき鳥クロニクル」書評②

ねじ まき 鳥

村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」を読む 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」を読む 村上春樹の小説は「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」あたりから長くなる傾向を強め、「ノルウェイの森」、「ダンス、ダンス、ダンス」を経て「ねじまき鳥クロニクル」にいたってひとつの頂点を示した。 この小説は実に三巻計1400ページに上る大長編小説であり、日本の小説としては型破りに長いものとなった。 村上春樹の小説が長くなるのには、それなりの内在的な要因がある。 ひとつには、村上自身が告白しているように、あらかじめ用意したプランにしたがって計画的に書き進めていくのとは異なり、書きながら筋立てを展開させていくという方法をとっているために長くなるということがある。 こういう方法だと、筋の展開には寄り道が多くなり、したがって遊びの部分が多くなるから、必然的にボリュームも増える。 それ以上に、村上の小説を長くさせる要因として指摘しなければならないのは、テーマの多層性だ。 村上の小説は一人称のものが多いところから、テーマもあまり拡散しないように受け取れるようだが、実際には、ひとつの小説に多くのテーマが盛り込まれている。 一人称の場合にも、話題を多層的にすることによって、テーマがもつれ合うような構成をとっているものが多い。 「ねじまき鳥クロニクル」の場合、メインテーマとそれに順ずるサブテーマがいくつもあって、それらが相互に絡み合うという構造をとっている。 それのみならず、テーマというには大げさだが、単なる逸話というにはあまりにも規模の大きい話題がまとまりのある物語として展開し、しかもこれらの物語が相互に響きあうような構造を持っている。 前者を時間軸に沿った縦軸とするなら、後者はそれに絡みつつ物語全体を多層的なものに織り成す横軸といってよい。 この小説は、縦軸と横軸が複雑な模様を織り成す壮大でしかも精緻な構造を備えた総合文学ともいうべき体裁をとっているわけだ。 縦軸はいくつかの物語軸から成っている。 一番太くて長い軸は、主人公と彼の妻をめぐる物語軸だ。 ある日突然、主人公の理解を超えた事情から、彼の妻が蒸発してしまう。 主人公はその事実を前に様々に懊悩しながら、基本的には失った妻を取り戻す方向に向かって自分自身を導いていく。 この小説の最大のテーマはだから、失ったものを取り返すための、回復の旅なのだ。 主人公は妻を取り戻すためにこの世を突き抜けてあの世まで行かねばならない。 あの世とは光の国であるこの世とは異なった闇の国である。 主人公は自分の念力によってその闇の国に赴き、そこでであった妻をこの世に連れ戻そうと努力する。 つまりこのテーマは、死んだ妻を取り返しに行くという点で、オルフェウス神話からイザナキの黄泉訪問神話に通呈する、あの深遠な遍歴のテーマに通じるものだ。 この小説で村上が提示しているのは、神話的なイメージなのである。 失ったものを取り戻すというテーマは、サブテーマの中でも小規模な形で反復される。 主人公の家の近くに済んでいる少女笠原メイは、自分の不注意で事故を起こし、男友達を死なせてしまったことで、自分自身を見失ってしまった。 そんな彼女が主人公との心のふれあいを通じて少しずつ自分自身を取り戻していく。 これはだから自己回復の物語だ。 加納クレタは娼婦となることで自分を粗末に扱い、その挙句綿谷昇に陵辱されたことで回復不能なまでに自分自身を失ってしまった。 そんな彼女も主人公との心のふれあいを通じて次第に自分自身を取り戻し、主人公に抱かれることによって自己回復を完成させるばかりか、子どもという新しい命まで獲得する。 いなくなってしまった猫とその帰還の物語も、些細なようではあるが、喪失と回復というメインテーマを反復したものだ。 些細とはいえ、この小説はいなくなった飼い猫を探すところから始まるのである。 以上が時間軸に沿って展開するテーマ群だとすれば、それに絡み合う形で展開する物語群は、メインテーマを豊に肉付けするサブプロットといえる。 小説の長さに応じて、サブプロットの数も多いが、それらの多くに共通するのは暴力と、暴力に内在するものとしての死である。 村上自身がこの小説では暴力の問題と意識的に取り組んだといっているとおり(河合隼雄との対話など)、サブプロットの多くの場面で暴力シーンが展開する。 そのもっとも露骨な描写は、究極の暴力である戦争である。 村上はこの小説の中でノモンハン事件を取り上げているが、それは暴力の人間らしい側面を描き出すのにもっとも適した素材だと感じたからに違いない。 ノモンハンでは日本軍はソ連の圧倒的な火力の前で粉砕された。 日本軍の兵士たちは戦車によってひき殺されるばかりか、ソ連の捕虜となって死に至る暴力を蒙る。 こうした暴力のグロテスクな非日常性を、村上は映画のクローズアップを思わせるような手法で描き出している。 日本兵はロシア人との関係では暴力を受ける側だったが、中国人との関係では暴力を振るう側に立った。 そんな日本兵が中国人をバットで殴り殺すシーンなどは、呼んでいて鳥肌が立つほど迫真性に満ちている。 以上は人間が人間に加える暴力だが、村上は人間が動物たちに加える不条理な暴力についても描き出している。 動物への暴力は人間と違って殺すことだけが目的となっているため、暴力性がむき出しの形で現れる。 どんな読者もそれを読めば戦慄を覚えないではいられないだろう。 このほかにも暴力のシーンはいくつか出てくる。 札幌で出会った男に東京で再会し、その男との間で壮絶な殴り合いを演じたり、闇の国に迷い込んだ主人公が不気味な相手の頭をバットで叩き割るシーンなど、なぜここでこんなにも暴力にこだわるかと、不思議に思えるほどのこだわり方だ。 暴力と並んで村上がこの小説の中でこだわったのはセックスだ。 村上は比較的初期の頃からセックス描写を積極的に取り入れていたが、この小説の中ではセックスは戦略的な性格さえ持たされている。 主人公たちのセックスは単に肉体的な行為であることを越えて、人間的な意味合いを持たされているのだ。 終りに近い場面で、主人公ははじめ加納クレタとセックスしているが、知らず知らず他の女とセックスしていることに気づく。 それを主人公は過去に自分がしたセックスの記憶をもとに判断している。 つまりセックスは相手を理解するための重要な回路としての正確を持たされている。 セックスはだから全人格的な行為であるといっているわけだ。 消えた妻のほうも、セックスを仲立ちにして主人公と深いつながりを持ち続ける。 彼女がいなくなった前後に、正体不明の女が主人公に電話をかけてくるシーンが幾度かあるが、それはあとでいなくなった妻からの信号であることが明らかにされる。 その彼女が夫である主人公に語りかける内容は、セックスの親密さについてなのである。 男女が本当に分かり合えるのはセックスを通じてだけだと、いっているようなのだ。 主人公が、自分の上に乗って自分のペニスを股間にくわえ、腰を動かしている女が自分の妻に違いないと決定的に判断する場面がある。 このことで村上がいっているのは、二人の間のセックスの結びつきが、どんな境遇にあっても互いを弁別させるキーになりうるのだ、ということなのである。 こうしてセックスと暴力を中心にして、この小説に登場する人々は様々な因縁によって相互に結びつき合っている。 その結びつきを主人公は次のように解きほぐす。 「僕と客たちはこの顔のあざによって結びついている。 僕はこのあざによって、シナモンの祖父(ナツメグの父)と結びついている。 シナモンの祖父と間宮中尉は、新京という街で結びついている。 間宮中尉と占い師の本田さんは満州と蒙古の国境における特殊任務で結びついていて、僕とクミコは本田さんを綿谷ノボルの家から紹介された。 そして僕と間宮中尉は井戸の底によって結びついている。 間宮中尉の井戸はモンゴルにあり、僕の井戸はこの屋敷の庭にある。 ここにはかつて中国派遣軍指揮官が住んでいた。 すべては輪のようにつながり、その輪の中心にあるのは戦前の満州であり、中国大陸であり、昭和14年のノモンハンでの戦争だった。 」 この結びつきの糸が織り成す物語群は互いに深く結びつき、強く絡み合っている。 しかもそれらの物語は時間軸にしたがって整然と継起するのではなく、時間とは無関係に生起したり消滅したりする。 多くの物語が平行して語られるかと思うと、時間の順序を飛び越えて逸脱し、不調和な和音を立てているような印象を読者に与える。 そうなると小説の構造全体は、重層的な物語群が、互いに響きあっていることをのぞけば、大した計画性を持たずに、勝手に進行していく雑多な共同体のような印象を与える。 それをポリフォニーといってよいかもしれない。 そう、ミハイル・バフチーンがドストエフスキーの小説を特徴付けていった言葉だ。 検 索.

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村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」を読む

ねじ まき 鳥

村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」を読む 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」を読む 村上春樹の小説は「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」あたりから長くなる傾向を強め、「ノルウェイの森」、「ダンス、ダンス、ダンス」を経て「ねじまき鳥クロニクル」にいたってひとつの頂点を示した。 この小説は実に三巻計1400ページに上る大長編小説であり、日本の小説としては型破りに長いものとなった。 村上春樹の小説が長くなるのには、それなりの内在的な要因がある。 ひとつには、村上自身が告白しているように、あらかじめ用意したプランにしたがって計画的に書き進めていくのとは異なり、書きながら筋立てを展開させていくという方法をとっているために長くなるということがある。 こういう方法だと、筋の展開には寄り道が多くなり、したがって遊びの部分が多くなるから、必然的にボリュームも増える。 それ以上に、村上の小説を長くさせる要因として指摘しなければならないのは、テーマの多層性だ。 村上の小説は一人称のものが多いところから、テーマもあまり拡散しないように受け取れるようだが、実際には、ひとつの小説に多くのテーマが盛り込まれている。 一人称の場合にも、話題を多層的にすることによって、テーマがもつれ合うような構成をとっているものが多い。 「ねじまき鳥クロニクル」の場合、メインテーマとそれに順ずるサブテーマがいくつもあって、それらが相互に絡み合うという構造をとっている。 それのみならず、テーマというには大げさだが、単なる逸話というにはあまりにも規模の大きい話題がまとまりのある物語として展開し、しかもこれらの物語が相互に響きあうような構造を持っている。 前者を時間軸に沿った縦軸とするなら、後者はそれに絡みつつ物語全体を多層的なものに織り成す横軸といってよい。 この小説は、縦軸と横軸が複雑な模様を織り成す壮大でしかも精緻な構造を備えた総合文学ともいうべき体裁をとっているわけだ。 縦軸はいくつかの物語軸から成っている。 一番太くて長い軸は、主人公と彼の妻をめぐる物語軸だ。 ある日突然、主人公の理解を超えた事情から、彼の妻が蒸発してしまう。 主人公はその事実を前に様々に懊悩しながら、基本的には失った妻を取り戻す方向に向かって自分自身を導いていく。 この小説の最大のテーマはだから、失ったものを取り返すための、回復の旅なのだ。 主人公は妻を取り戻すためにこの世を突き抜けてあの世まで行かねばならない。 あの世とは光の国であるこの世とは異なった闇の国である。 主人公は自分の念力によってその闇の国に赴き、そこでであった妻をこの世に連れ戻そうと努力する。 つまりこのテーマは、死んだ妻を取り返しに行くという点で、オルフェウス神話からイザナキの黄泉訪問神話に通呈する、あの深遠な遍歴のテーマに通じるものだ。 この小説で村上が提示しているのは、神話的なイメージなのである。 失ったものを取り戻すというテーマは、サブテーマの中でも小規模な形で反復される。 主人公の家の近くに済んでいる少女笠原メイは、自分の不注意で事故を起こし、男友達を死なせてしまったことで、自分自身を見失ってしまった。 そんな彼女が主人公との心のふれあいを通じて少しずつ自分自身を取り戻していく。 これはだから自己回復の物語だ。 加納クレタは娼婦となることで自分を粗末に扱い、その挙句綿谷昇に陵辱されたことで回復不能なまでに自分自身を失ってしまった。 そんな彼女も主人公との心のふれあいを通じて次第に自分自身を取り戻し、主人公に抱かれることによって自己回復を完成させるばかりか、子どもという新しい命まで獲得する。 いなくなってしまった猫とその帰還の物語も、些細なようではあるが、喪失と回復というメインテーマを反復したものだ。 些細とはいえ、この小説はいなくなった飼い猫を探すところから始まるのである。 以上が時間軸に沿って展開するテーマ群だとすれば、それに絡み合う形で展開する物語群は、メインテーマを豊に肉付けするサブプロットといえる。 小説の長さに応じて、サブプロットの数も多いが、それらの多くに共通するのは暴力と、暴力に内在するものとしての死である。 村上自身がこの小説では暴力の問題と意識的に取り組んだといっているとおり(河合隼雄との対話など)、サブプロットの多くの場面で暴力シーンが展開する。 そのもっとも露骨な描写は、究極の暴力である戦争である。 村上はこの小説の中でノモンハン事件を取り上げているが、それは暴力の人間らしい側面を描き出すのにもっとも適した素材だと感じたからに違いない。 ノモンハンでは日本軍はソ連の圧倒的な火力の前で粉砕された。 日本軍の兵士たちは戦車によってひき殺されるばかりか、ソ連の捕虜となって死に至る暴力を蒙る。 こうした暴力のグロテスクな非日常性を、村上は映画のクローズアップを思わせるような手法で描き出している。 日本兵はロシア人との関係では暴力を受ける側だったが、中国人との関係では暴力を振るう側に立った。 そんな日本兵が中国人をバットで殴り殺すシーンなどは、呼んでいて鳥肌が立つほど迫真性に満ちている。 以上は人間が人間に加える暴力だが、村上は人間が動物たちに加える不条理な暴力についても描き出している。 動物への暴力は人間と違って殺すことだけが目的となっているため、暴力性がむき出しの形で現れる。 どんな読者もそれを読めば戦慄を覚えないではいられないだろう。 このほかにも暴力のシーンはいくつか出てくる。 札幌で出会った男に東京で再会し、その男との間で壮絶な殴り合いを演じたり、闇の国に迷い込んだ主人公が不気味な相手の頭をバットで叩き割るシーンなど、なぜここでこんなにも暴力にこだわるかと、不思議に思えるほどのこだわり方だ。 暴力と並んで村上がこの小説の中でこだわったのはセックスだ。 村上は比較的初期の頃からセックス描写を積極的に取り入れていたが、この小説の中ではセックスは戦略的な性格さえ持たされている。 主人公たちのセックスは単に肉体的な行為であることを越えて、人間的な意味合いを持たされているのだ。 終りに近い場面で、主人公ははじめ加納クレタとセックスしているが、知らず知らず他の女とセックスしていることに気づく。 それを主人公は過去に自分がしたセックスの記憶をもとに判断している。 つまりセックスは相手を理解するための重要な回路としての正確を持たされている。 セックスはだから全人格的な行為であるといっているわけだ。 消えた妻のほうも、セックスを仲立ちにして主人公と深いつながりを持ち続ける。 彼女がいなくなった前後に、正体不明の女が主人公に電話をかけてくるシーンが幾度かあるが、それはあとでいなくなった妻からの信号であることが明らかにされる。 その彼女が夫である主人公に語りかける内容は、セックスの親密さについてなのである。 男女が本当に分かり合えるのはセックスを通じてだけだと、いっているようなのだ。 主人公が、自分の上に乗って自分のペニスを股間にくわえ、腰を動かしている女が自分の妻に違いないと決定的に判断する場面がある。 このことで村上がいっているのは、二人の間のセックスの結びつきが、どんな境遇にあっても互いを弁別させるキーになりうるのだ、ということなのである。 こうしてセックスと暴力を中心にして、この小説に登場する人々は様々な因縁によって相互に結びつき合っている。 その結びつきを主人公は次のように解きほぐす。 「僕と客たちはこの顔のあざによって結びついている。 僕はこのあざによって、シナモンの祖父(ナツメグの父)と結びついている。 シナモンの祖父と間宮中尉は、新京という街で結びついている。 間宮中尉と占い師の本田さんは満州と蒙古の国境における特殊任務で結びついていて、僕とクミコは本田さんを綿谷ノボルの家から紹介された。 そして僕と間宮中尉は井戸の底によって結びついている。 間宮中尉の井戸はモンゴルにあり、僕の井戸はこの屋敷の庭にある。 ここにはかつて中国派遣軍指揮官が住んでいた。 すべては輪のようにつながり、その輪の中心にあるのは戦前の満州であり、中国大陸であり、昭和14年のノモンハンでの戦争だった。 」 この結びつきの糸が織り成す物語群は互いに深く結びつき、強く絡み合っている。 しかもそれらの物語は時間軸にしたがって整然と継起するのではなく、時間とは無関係に生起したり消滅したりする。 多くの物語が平行して語られるかと思うと、時間の順序を飛び越えて逸脱し、不調和な和音を立てているような印象を読者に与える。 そうなると小説の構造全体は、重層的な物語群が、互いに響きあっていることをのぞけば、大した計画性を持たずに、勝手に進行していく雑多な共同体のような印象を与える。 それをポリフォニーといってよいかもしれない。 そう、ミハイル・バフチーンがドストエフスキーの小説を特徴付けていった言葉だ。 検 索.

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「ねじまき鳥クロニクル」書評②

ねじ まき 鳥

村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」を読む 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」を読む 村上春樹の小説は「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」あたりから長くなる傾向を強め、「ノルウェイの森」、「ダンス、ダンス、ダンス」を経て「ねじまき鳥クロニクル」にいたってひとつの頂点を示した。 この小説は実に三巻計1400ページに上る大長編小説であり、日本の小説としては型破りに長いものとなった。 村上春樹の小説が長くなるのには、それなりの内在的な要因がある。 ひとつには、村上自身が告白しているように、あらかじめ用意したプランにしたがって計画的に書き進めていくのとは異なり、書きながら筋立てを展開させていくという方法をとっているために長くなるということがある。 こういう方法だと、筋の展開には寄り道が多くなり、したがって遊びの部分が多くなるから、必然的にボリュームも増える。 それ以上に、村上の小説を長くさせる要因として指摘しなければならないのは、テーマの多層性だ。 村上の小説は一人称のものが多いところから、テーマもあまり拡散しないように受け取れるようだが、実際には、ひとつの小説に多くのテーマが盛り込まれている。 一人称の場合にも、話題を多層的にすることによって、テーマがもつれ合うような構成をとっているものが多い。 「ねじまき鳥クロニクル」の場合、メインテーマとそれに順ずるサブテーマがいくつもあって、それらが相互に絡み合うという構造をとっている。 それのみならず、テーマというには大げさだが、単なる逸話というにはあまりにも規模の大きい話題がまとまりのある物語として展開し、しかもこれらの物語が相互に響きあうような構造を持っている。 前者を時間軸に沿った縦軸とするなら、後者はそれに絡みつつ物語全体を多層的なものに織り成す横軸といってよい。 この小説は、縦軸と横軸が複雑な模様を織り成す壮大でしかも精緻な構造を備えた総合文学ともいうべき体裁をとっているわけだ。 縦軸はいくつかの物語軸から成っている。 一番太くて長い軸は、主人公と彼の妻をめぐる物語軸だ。 ある日突然、主人公の理解を超えた事情から、彼の妻が蒸発してしまう。 主人公はその事実を前に様々に懊悩しながら、基本的には失った妻を取り戻す方向に向かって自分自身を導いていく。 この小説の最大のテーマはだから、失ったものを取り返すための、回復の旅なのだ。 主人公は妻を取り戻すためにこの世を突き抜けてあの世まで行かねばならない。 あの世とは光の国であるこの世とは異なった闇の国である。 主人公は自分の念力によってその闇の国に赴き、そこでであった妻をこの世に連れ戻そうと努力する。 つまりこのテーマは、死んだ妻を取り返しに行くという点で、オルフェウス神話からイザナキの黄泉訪問神話に通呈する、あの深遠な遍歴のテーマに通じるものだ。 この小説で村上が提示しているのは、神話的なイメージなのである。 失ったものを取り戻すというテーマは、サブテーマの中でも小規模な形で反復される。 主人公の家の近くに済んでいる少女笠原メイは、自分の不注意で事故を起こし、男友達を死なせてしまったことで、自分自身を見失ってしまった。 そんな彼女が主人公との心のふれあいを通じて少しずつ自分自身を取り戻していく。 これはだから自己回復の物語だ。 加納クレタは娼婦となることで自分を粗末に扱い、その挙句綿谷昇に陵辱されたことで回復不能なまでに自分自身を失ってしまった。 そんな彼女も主人公との心のふれあいを通じて次第に自分自身を取り戻し、主人公に抱かれることによって自己回復を完成させるばかりか、子どもという新しい命まで獲得する。 いなくなってしまった猫とその帰還の物語も、些細なようではあるが、喪失と回復というメインテーマを反復したものだ。 些細とはいえ、この小説はいなくなった飼い猫を探すところから始まるのである。 以上が時間軸に沿って展開するテーマ群だとすれば、それに絡み合う形で展開する物語群は、メインテーマを豊に肉付けするサブプロットといえる。 小説の長さに応じて、サブプロットの数も多いが、それらの多くに共通するのは暴力と、暴力に内在するものとしての死である。 村上自身がこの小説では暴力の問題と意識的に取り組んだといっているとおり(河合隼雄との対話など)、サブプロットの多くの場面で暴力シーンが展開する。 そのもっとも露骨な描写は、究極の暴力である戦争である。 村上はこの小説の中でノモンハン事件を取り上げているが、それは暴力の人間らしい側面を描き出すのにもっとも適した素材だと感じたからに違いない。 ノモンハンでは日本軍はソ連の圧倒的な火力の前で粉砕された。 日本軍の兵士たちは戦車によってひき殺されるばかりか、ソ連の捕虜となって死に至る暴力を蒙る。 こうした暴力のグロテスクな非日常性を、村上は映画のクローズアップを思わせるような手法で描き出している。 日本兵はロシア人との関係では暴力を受ける側だったが、中国人との関係では暴力を振るう側に立った。 そんな日本兵が中国人をバットで殴り殺すシーンなどは、呼んでいて鳥肌が立つほど迫真性に満ちている。 以上は人間が人間に加える暴力だが、村上は人間が動物たちに加える不条理な暴力についても描き出している。 動物への暴力は人間と違って殺すことだけが目的となっているため、暴力性がむき出しの形で現れる。 どんな読者もそれを読めば戦慄を覚えないではいられないだろう。 このほかにも暴力のシーンはいくつか出てくる。 札幌で出会った男に東京で再会し、その男との間で壮絶な殴り合いを演じたり、闇の国に迷い込んだ主人公が不気味な相手の頭をバットで叩き割るシーンなど、なぜここでこんなにも暴力にこだわるかと、不思議に思えるほどのこだわり方だ。 暴力と並んで村上がこの小説の中でこだわったのはセックスだ。 村上は比較的初期の頃からセックス描写を積極的に取り入れていたが、この小説の中ではセックスは戦略的な性格さえ持たされている。 主人公たちのセックスは単に肉体的な行為であることを越えて、人間的な意味合いを持たされているのだ。 終りに近い場面で、主人公ははじめ加納クレタとセックスしているが、知らず知らず他の女とセックスしていることに気づく。 それを主人公は過去に自分がしたセックスの記憶をもとに判断している。 つまりセックスは相手を理解するための重要な回路としての正確を持たされている。 セックスはだから全人格的な行為であるといっているわけだ。 消えた妻のほうも、セックスを仲立ちにして主人公と深いつながりを持ち続ける。 彼女がいなくなった前後に、正体不明の女が主人公に電話をかけてくるシーンが幾度かあるが、それはあとでいなくなった妻からの信号であることが明らかにされる。 その彼女が夫である主人公に語りかける内容は、セックスの親密さについてなのである。 男女が本当に分かり合えるのはセックスを通じてだけだと、いっているようなのだ。 主人公が、自分の上に乗って自分のペニスを股間にくわえ、腰を動かしている女が自分の妻に違いないと決定的に判断する場面がある。 このことで村上がいっているのは、二人の間のセックスの結びつきが、どんな境遇にあっても互いを弁別させるキーになりうるのだ、ということなのである。 こうしてセックスと暴力を中心にして、この小説に登場する人々は様々な因縁によって相互に結びつき合っている。 その結びつきを主人公は次のように解きほぐす。 「僕と客たちはこの顔のあざによって結びついている。 僕はこのあざによって、シナモンの祖父(ナツメグの父)と結びついている。 シナモンの祖父と間宮中尉は、新京という街で結びついている。 間宮中尉と占い師の本田さんは満州と蒙古の国境における特殊任務で結びついていて、僕とクミコは本田さんを綿谷ノボルの家から紹介された。 そして僕と間宮中尉は井戸の底によって結びついている。 間宮中尉の井戸はモンゴルにあり、僕の井戸はこの屋敷の庭にある。 ここにはかつて中国派遣軍指揮官が住んでいた。 すべては輪のようにつながり、その輪の中心にあるのは戦前の満州であり、中国大陸であり、昭和14年のノモンハンでの戦争だった。 」 この結びつきの糸が織り成す物語群は互いに深く結びつき、強く絡み合っている。 しかもそれらの物語は時間軸にしたがって整然と継起するのではなく、時間とは無関係に生起したり消滅したりする。 多くの物語が平行して語られるかと思うと、時間の順序を飛び越えて逸脱し、不調和な和音を立てているような印象を読者に与える。 そうなると小説の構造全体は、重層的な物語群が、互いに響きあっていることをのぞけば、大した計画性を持たずに、勝手に進行していく雑多な共同体のような印象を与える。 それをポリフォニーといってよいかもしれない。 そう、ミハイル・バフチーンがドストエフスキーの小説を特徴付けていった言葉だ。 検 索.

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