お前を利用してやろう。 人は1人でも究極的には生きていけるんですが、「自立」を履き違えるとけっこうしんどくなるかもしれませんね。 人間として人間関係を築きながら生きているぼくらですので、他人と関わりまくっています。 そんな中、他人を「頼りにする」「あてにする」ってなんとなくニュアンスが違う感じがしませんか? 辞書的な意味合いとぼくが勝手に感じているところなどを共有しつつ、スピリチュアル的な視点から頼りにするとあてにするの波動やエネルギーを文字にしてみます。 人から頼られ過ぎるとそれはぼくのイメージするところの重い優しさやエネルギー交換をしているかもしれません。 他人を「頼りにする」と「あてにする」の違いは? 辞書的な意味合いの「頼りにする」・「あてにする」の違いをみつつ、なんとなくぼくがニュアンス的に使っているところを共有していきます。 あてにする(当て)にする意味とは? あてにするは、2つの意味があるようです。 物事を行ううえでの見込み。 目当て。 頼りにすること。 旺文社辞典より。 まあ、簡単にいえば、「利益」や「利害」を目的として使われる頼るですね。 頼りにするの意味とは? 一方で頼りにする。 という言葉は、助詞の使い方で意味合いが異なってくるようです。 主には3つに分かれます。 依存する。 世話を受けに行く。 援助をもらって行動する。 Yahoo知恵袋では、当てにすると頼りにするの違いは、ちなみに、人に対して使うか、モノに対して使うかと言っていました。 あてにするのエネルギーは重いかも? 「あてにする」は、ちょっと人間的にいやらしい、 利益や損得勘定を含む表現であり、重い言葉のエネルギーを感じます。 自分ではなにもしないで、あらかじめ 自己放棄したうえでの他者依存。 そんなイメージです。 頼りにするのエネルギーは少し軽め? こちらも、もちろん、使われ方にもよるんですが、ぼくは自分で精いっぱいやったけどなんもならんやったから頼りにしてもよいかね?的に 自分を中心に据えた上での他人の意見や技量やアイディアを借りる。 そんなイメージを感じています。 同じ言葉でも、同じ意識でもそこのテーマは 自立と 依存になってくると感じています。 前者は頼りにするちょっと軽めのイメージで、後者は少し重いこすいイメージです。 みなさんはどう感じているでしょうか? 自立と依存は人間関係でどう働くのか? 今回のテーマの重きは頼りにする。 ですので、自立とはなにか?依存とはなにか?ということは少し隅においておきます。 また、ここでいう自立or依存は、経済的うんぬんよりも精神的な意味合いの方が大きいと思っておいてください。 依存を前提にした人間関係は辛いかも ぼくは、依存し合った人間関係は 重くてしんどいと感じています。 そして、これは「あてにする」人間関係になっていくイメージがとてもあります。 まあ、遅かれ早かれぼくはそういう人間関係を築いた場合、プツンと切れちゃいます。 相手にとって心地いい自分を演じる。 自分にとって心地いい相手の側面を切り取る。 そうすることでしか、信頼関係が築けないからですね。 依存していた場合は、他人もですが、主には自分をあまり信じられていない感情や感覚が強すぎるときに多くありそうですね。 ぼくは地方出身でいまは田舎に住んでいるのでよくわかりますが、田舎のスクールカーストってオトナになっても続きませんか?イケてるグループとイケてないグループみたいな構造を大人が適用させて、公務員なら勝ち組みたいな。 要するに外的要素(職業や肩書、結婚しているかどうかも含む)を重視しながら、独自ルールで人付き合いをしていくような感じです。 家族においては、利害、嫉妬、役割、そういった「暗黙のルール」をかなりの文脈で重視していくのかもしれません。 まあ、ぼくがそう感じているだけで、色々な側面はもちろんあるとは思いますよ。 自立を前提にした人間関係は楽かも 一方で、自立を前提にした人間関係は、ぼくはめっちゃ楽だなと感じています。 こちらは、 本当に必要であれば「頼りにする」という人間関係に自然となっていくのではないでしょうか。 心を開けっぴろげにして、ノーガードで相手と話したり、相手の嫌な部分、こすい部分も見えたうえで付き合えるので、自然体でいられます。 これは、家族に関しても、友人に関してもいえることでしょう。 ぼくは何が自立で何が自立でないかはよくわかりませんが、少なくとも見えない部分、精神面でいえば、自分の心に従っているとか、自分の軸をもっているとかそういう部分になりそうですね。 だから、相手がどういう肩書でどういう役職で、どういう生い立ちだったのかというのはたいして重要ではなくて、信頼足るかどうかみたいな部分により焦点が自然とあってくるのではないでしょうか? スピリチュアル的なことに言及すれば、マインドよりもハートで付き合うひとは本音を出しやすいし、あてにされる・するの関係にはならなそうですね。 頼りにされるのは嬉しいけどあてにされるのはうっとおしいかも これは、あくまでぼくの感覚ですが、互いに認め合っている意味合いでの頼りにされるのはけっこう嬉しいというか不快な感じはしませんが、ちょこっとこすい意味合いでたいして仲良くもないのにあてにされるのは必要ないような気がしています。 たいして、仲良くもないのにとかはちょっと毒舌ですけどね笑 あてにされても心から応援できない? 利害関係や、損得勘定で人間関係、家族・パートナー関係で依存しあって、仮にあてにされる立場だったら、心から応援できない自分に会う人が多いのではないでしょうか。 行きつく先は、利用する・利用されるの関係になりそうです。 友人関係であれば、それを切っちゃうのは簡単ですが、家族だと、(親は敬えてきな意味合いから)それが難しいこともありますね。 深くは言及しませんが、あー、この人肩書とかお金でしか人付き合いできないんだなって言う人はわりとマイノリティではなさそうですね。 頼りにされると信頼できる? 一方で、自立を軸に成り立った関係は、嬉しく感じるときもあります。 少なくとも悪い意味で、嫌だなあ。 と感じるときは少ないかもしれませんね。 ぼくらがじゃっかん誤解しがちなのは、例えば、Aという疑問に、 1-10まで答えることが優しさであり、信頼と思っている節があるところかもしれません。 ぼくの体験的にいえば、ヒーリングセッションの難しさだと感じているんですが、例えば、それ自分で気が付いたほうが(長期的にもエネルギー的にも)いいで。 というところまで、みえているけど言うか言わないか的なところになります。 人間関係で悩んでいる方の原因がBだとして、AとCにひっかかりがあるからBになって解決するにはDとEがあり、Fの部分で苦労するかもしれないけど、Gすればいいで。 と手取り足取りするのが信頼なのか。 自立っぽい関係なのかと言われれば、ぼくはそうでないと感じています。 これは、まあ、好みだし、人それぞれ価値観に大きくよるところだとは思います。 まとめ:頼りにするのもあてにするのもハートと自立を意識したらいいかも 今回は頼りにするをテーマに少しだけ思うところをシェアしてみました。 人間と人間のかかわりって色々な意味で複雑に交差しているように思えるんですが、ぼくはそんなに複雑にはとらえていません。 もっとシンプルにハートの部分、自分の本音を出しながら、交友していきたいとおもえる相手に出会えるのが一番楽です。 そういう文脈からすると、それは人をあてにするという発想や意識は生まれず、足りない部分を無意識的に、そうしたいから補っていけるような軽い人間関係になっていくイメージがぼくにはあります。 まあ、あんまりこういうこと考えて、理屈っぽく話しているとたぶん女の子からはモテませんし、豪快なムッシュやマダムからは毛嫌いされそうですけどね笑 もっと動物的で本能的であっていい部分だともおもいます。 みなさんは、人を頼るときどんなことを意識しているでしょうか? いつも読んでくださってありがとうございます!.
次のスポンサーリンク アテの意味とは 「アテ」とはおつまみのことです。 飲み屋で「何かアテ頼んで」と言われたら「つまみを頼んで下さい」という意味になります。 その語源は「酒に【あてがう】食べ物」からきていると言われています。 呼び方は違いますが、意味としては 「つまみ」と全く同じ意味で違いはありません。 ちなみに「おつまみ」という名称の由来も「つまみもの」から来ています。 手でつまんで食べるものが多かったことから、こう呼ばれるようになったと言われています。 2つの由来を考えるとどちらも似たような由来ですね。 アテの漢字は? 「肴」みたいに、「専門的で特別な感じ」がありそうですよね。 でも・・・ 「あてがう以上の漢字は無い」ようです。 『あてがう=宛てがう/充てがう』ということから、お酒のアテも無理矢理に漢字へするのであれば、「宛て」か「充て」が正解と言えるのかも知れません。 まぁ、普通に「あて」か「アテ」と書いた方が意味は伝わりやすそうです。 スポンサーリンク おつまみの他の呼び方 おつまみにはアテ以外にも呼び方があります。 その中で、最も歴史が古い呼び方は 【さかな】です。 現在では「つまみ、おつまみ」が一般的になっていますが、本来は「さかな」という呼び方が本家本元です。 字は「魚」ではなく「 肴」です。 肴の由来 では、肴の由来は何かと言うと「酒菜 さかな 」からだと言われています。 「菜」の字は、食べ物を意味しています。 酒菜とは「酒の食べ物」と言う意味になります。 対して「肴」という漢字の由来は「交ぜる、組み合わせる」という意味の「爻 コウ 」と、「魚や獣の肉」を表す「月 ニクヅキ 」を合わせたものです。 つまり、「肴」という字は、料理そのものを指していることになります。 これらをまとめると、 酒菜 さかな という響きを、料理を意味する肴と言う字に充てたことが、肴という言葉の語源であると言えます。 肴と魚の違い この「肴」と同じ響きの「魚 さかな 」は、片方がもう一方の語源となっています。 実は、肴の語源が魚ではなく、魚の語源が肴です。 ややこしいですね 笑 もともと、魚は『さかな』ではなく、『うお』と呼ばれていました。 しかし、おつまみに「魚 うお 料理」が多かったことから、うお料理を「肴 さかな 」と呼ぶようになり、それが転じて「魚 さかな 」と呼ぶようになったと言われています。 元々は 『生き物としてのfishを「ウオ」』、 『食べ物としてのfishを『サカナ』と呼んでいたようです。 これが 『今では全部ひっくるめて「サカナ」』と呼ぶようになっていますね。 ちなみに私自身もよく使ってしまいますが、「酒の肴」という使い方は間違っています。 「頭痛が痛い」と同じように、意味が二重に重なってしまいます。 とはいえ、今じゃ常用語みたいなもので、多くの方が使う言葉ですけどね。
次のお前を利用してやろう。 人は1人でも究極的には生きていけるんですが、「自立」を履き違えるとけっこうしんどくなるかもしれませんね。 人間として人間関係を築きながら生きているぼくらですので、他人と関わりまくっています。 そんな中、他人を「頼りにする」「あてにする」ってなんとなくニュアンスが違う感じがしませんか? 辞書的な意味合いとぼくが勝手に感じているところなどを共有しつつ、スピリチュアル的な視点から頼りにするとあてにするの波動やエネルギーを文字にしてみます。 人から頼られ過ぎるとそれはぼくのイメージするところの重い優しさやエネルギー交換をしているかもしれません。 他人を「頼りにする」と「あてにする」の違いは? 辞書的な意味合いの「頼りにする」・「あてにする」の違いをみつつ、なんとなくぼくがニュアンス的に使っているところを共有していきます。 あてにする(当て)にする意味とは? あてにするは、2つの意味があるようです。 物事を行ううえでの見込み。 目当て。 頼りにすること。 旺文社辞典より。 まあ、簡単にいえば、「利益」や「利害」を目的として使われる頼るですね。 頼りにするの意味とは? 一方で頼りにする。 という言葉は、助詞の使い方で意味合いが異なってくるようです。 主には3つに分かれます。 依存する。 世話を受けに行く。 援助をもらって行動する。 Yahoo知恵袋では、当てにすると頼りにするの違いは、ちなみに、人に対して使うか、モノに対して使うかと言っていました。 あてにするのエネルギーは重いかも? 「あてにする」は、ちょっと人間的にいやらしい、 利益や損得勘定を含む表現であり、重い言葉のエネルギーを感じます。 自分ではなにもしないで、あらかじめ 自己放棄したうえでの他者依存。 そんなイメージです。 頼りにするのエネルギーは少し軽め? こちらも、もちろん、使われ方にもよるんですが、ぼくは自分で精いっぱいやったけどなんもならんやったから頼りにしてもよいかね?的に 自分を中心に据えた上での他人の意見や技量やアイディアを借りる。 そんなイメージを感じています。 同じ言葉でも、同じ意識でもそこのテーマは 自立と 依存になってくると感じています。 前者は頼りにするちょっと軽めのイメージで、後者は少し重いこすいイメージです。 みなさんはどう感じているでしょうか? 自立と依存は人間関係でどう働くのか? 今回のテーマの重きは頼りにする。 ですので、自立とはなにか?依存とはなにか?ということは少し隅においておきます。 また、ここでいう自立or依存は、経済的うんぬんよりも精神的な意味合いの方が大きいと思っておいてください。 依存を前提にした人間関係は辛いかも ぼくは、依存し合った人間関係は 重くてしんどいと感じています。 そして、これは「あてにする」人間関係になっていくイメージがとてもあります。 まあ、遅かれ早かれぼくはそういう人間関係を築いた場合、プツンと切れちゃいます。 相手にとって心地いい自分を演じる。 自分にとって心地いい相手の側面を切り取る。 そうすることでしか、信頼関係が築けないからですね。 依存していた場合は、他人もですが、主には自分をあまり信じられていない感情や感覚が強すぎるときに多くありそうですね。 ぼくは地方出身でいまは田舎に住んでいるのでよくわかりますが、田舎のスクールカーストってオトナになっても続きませんか?イケてるグループとイケてないグループみたいな構造を大人が適用させて、公務員なら勝ち組みたいな。 要するに外的要素(職業や肩書、結婚しているかどうかも含む)を重視しながら、独自ルールで人付き合いをしていくような感じです。 家族においては、利害、嫉妬、役割、そういった「暗黙のルール」をかなりの文脈で重視していくのかもしれません。 まあ、ぼくがそう感じているだけで、色々な側面はもちろんあるとは思いますよ。 自立を前提にした人間関係は楽かも 一方で、自立を前提にした人間関係は、ぼくはめっちゃ楽だなと感じています。 こちらは、 本当に必要であれば「頼りにする」という人間関係に自然となっていくのではないでしょうか。 心を開けっぴろげにして、ノーガードで相手と話したり、相手の嫌な部分、こすい部分も見えたうえで付き合えるので、自然体でいられます。 これは、家族に関しても、友人に関してもいえることでしょう。 ぼくは何が自立で何が自立でないかはよくわかりませんが、少なくとも見えない部分、精神面でいえば、自分の心に従っているとか、自分の軸をもっているとかそういう部分になりそうですね。 だから、相手がどういう肩書でどういう役職で、どういう生い立ちだったのかというのはたいして重要ではなくて、信頼足るかどうかみたいな部分により焦点が自然とあってくるのではないでしょうか? スピリチュアル的なことに言及すれば、マインドよりもハートで付き合うひとは本音を出しやすいし、あてにされる・するの関係にはならなそうですね。 頼りにされるのは嬉しいけどあてにされるのはうっとおしいかも これは、あくまでぼくの感覚ですが、互いに認め合っている意味合いでの頼りにされるのはけっこう嬉しいというか不快な感じはしませんが、ちょこっとこすい意味合いでたいして仲良くもないのにあてにされるのは必要ないような気がしています。 たいして、仲良くもないのにとかはちょっと毒舌ですけどね笑 あてにされても心から応援できない? 利害関係や、損得勘定で人間関係、家族・パートナー関係で依存しあって、仮にあてにされる立場だったら、心から応援できない自分に会う人が多いのではないでしょうか。 行きつく先は、利用する・利用されるの関係になりそうです。 友人関係であれば、それを切っちゃうのは簡単ですが、家族だと、(親は敬えてきな意味合いから)それが難しいこともありますね。 深くは言及しませんが、あー、この人肩書とかお金でしか人付き合いできないんだなって言う人はわりとマイノリティではなさそうですね。 頼りにされると信頼できる? 一方で、自立を軸に成り立った関係は、嬉しく感じるときもあります。 少なくとも悪い意味で、嫌だなあ。 と感じるときは少ないかもしれませんね。 ぼくらがじゃっかん誤解しがちなのは、例えば、Aという疑問に、 1-10まで答えることが優しさであり、信頼と思っている節があるところかもしれません。 ぼくの体験的にいえば、ヒーリングセッションの難しさだと感じているんですが、例えば、それ自分で気が付いたほうが(長期的にもエネルギー的にも)いいで。 というところまで、みえているけど言うか言わないか的なところになります。 人間関係で悩んでいる方の原因がBだとして、AとCにひっかかりがあるからBになって解決するにはDとEがあり、Fの部分で苦労するかもしれないけど、Gすればいいで。 と手取り足取りするのが信頼なのか。 自立っぽい関係なのかと言われれば、ぼくはそうでないと感じています。 これは、まあ、好みだし、人それぞれ価値観に大きくよるところだとは思います。 まとめ:頼りにするのもあてにするのもハートと自立を意識したらいいかも 今回は頼りにするをテーマに少しだけ思うところをシェアしてみました。 人間と人間のかかわりって色々な意味で複雑に交差しているように思えるんですが、ぼくはそんなに複雑にはとらえていません。 もっとシンプルにハートの部分、自分の本音を出しながら、交友していきたいとおもえる相手に出会えるのが一番楽です。 そういう文脈からすると、それは人をあてにするという発想や意識は生まれず、足りない部分を無意識的に、そうしたいから補っていけるような軽い人間関係になっていくイメージがぼくにはあります。 まあ、あんまりこういうこと考えて、理屈っぽく話しているとたぶん女の子からはモテませんし、豪快なムッシュやマダムからは毛嫌いされそうですけどね笑 もっと動物的で本能的であっていい部分だともおもいます。 みなさんは、人を頼るときどんなことを意識しているでしょうか? いつも読んでくださってありがとうございます!.
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