フランス革命後に、ナポレオン・ボナパルトを中心に展開された一連の戦争を「ナポレオン戦争」と呼びます。 おおむね1803年5月の「アミアンの和約破棄」から、1815年11月に締結された「第二次パリ条約」までとするのが一般的ですが、1796年から1797年にかけておこなわれた「第一次イタリア遠征」や、1798年から1801年まで続いた「エジプト遠征」を含める場合もあります。 「ナポレオン戦争」は当初、フランス革命を他国の干渉から守るための防衛戦争として始まりました。 当時はイギリスを中心とするヨーロッパ諸国が、フランス第一帝政を倒すために「対仏大同盟」を結成していたのです。 やがて戦争の目的は、革命の理念を拡大するものへと変容していきます。 それは他国からしてみれば侵略戦争にほかならず、大規模な戦いへと進展していくことになりました。 フランス側には、デンマーク王国とワルシャワ公国。 対仏大同盟側には、イギリス、オーストリア、ロシア、プロイセン、スウェーデン、ポルトガル、オスマン帝国、サルデーニャ王国、教皇領が参戦。 そのほかスペインやオランダ、スイス、ナポリ王国、ライン同盟諸邦はその時によって立場を変えながら戦争に関ることになります。 「ナポレオン戦争」の大きな特徴として、劇的な戦術の変化が挙げられます。 それまでのヨーロッパでは、傭兵を主体として軍隊が構成されていましたが、フランス革命後のフランスでは、一般の国民が自国を守ろうと立ち上がる国民軍を結成。 これによって、ロシアに次いでヨーロッパ第2位の人口を誇っていたフランスは、最大で300万人ともいわれる大兵力を動員することができました。 1756年から起こった「七年戦争」時の兵力が約20万人だったことを考えると、その兵力が他国に与えた衝撃の大きさがわかるでしょう。 また「最良の兵隊とは、戦う兵隊よりもむしろ歩く兵隊である」というナポレオンの言葉に示されるとおり、フランス軍は早く、長く歩くことによる機動力を重視していました。 分散している敵を個別に攻撃したり、敵の背後から攻め込んだりと、巧みな戦略とともに有利な状況を作りだしていきます。 戦いを通じて他国もフランス軍のやり方を取り入れ、その結果戦争は大規模なものになり、第一次世界大戦以前では最多といわれる約490万人の死者が出たそうです。 1789年に「フランス革命」が勃発すると、これを脅威と感じたイギリスやオーストリア、プロイセン、スペインなどが1793年に「第一次対仏大同盟」を結成します。 一方のナポレオンは、1796年3月にイタリア方面軍の司令官に抜擢され、イタリア遠征を開始。 わずか1ヶ月でサルデーニャ王国を降伏させ、オーストリア軍の拠点になっていたマントヴァを包囲し、「カスティリオーネの戦い」「アルコレの戦い」「リヴォリの戦い」で撃破。 4月になるとオーストリアが停戦を申し入れ、「レオーベンの和約」が締結されて「第一次対仏大同盟」は崩壊しました。 次にナポレオンは、イギリスとインドの連携を絶つために遠征を開始。 1798年7月にエジプトに上陸し、「ピラミッドの戦い」で勝利。 カイロに入城します。 しかし8月の「ナイルの海戦」でイギリス海軍に敗北して、制海権を喪失。 ナポレオンはエジプトで孤立することになってしまいました。 12月になると、イギリス、オーストリア、ロシア、オスマン帝国が「第二次対仏大同盟」を結成。 オーストリアが北イタリアを奪い返し、フランスは再び危機に陥りました。 これを聞いたナポレオンは、自軍を残してエジプトを脱出。 フランスに戻り、1799年11月に「ブリュメールのクーデター」を起こして総裁政府を打倒し、自ら第一統領となって独裁権を得ました。 1800年になると、北イタリアへ出発。 6月の「マレンゴの戦い」でオーストリアに勝利し、「リュネヴィルの和約」を締結。 その後1802年にはイギリスと「アミアンの和約」を結び、ヨーロッパは一時的に平和を取り戻しました。 しかし1803年、たび重なるフランスの違反行為に腹を立てたイギリスが、和約を破棄します。 1804年5月、フランスでは元老院決議によってナポレオンが皇帝に即位することが決定。 11月の国民投票でも過半数を獲得し、12月に皇帝ナポレオン1世の戴冠式がおこなわれました。 「ナポレオン戦争」の主な流れ:第三次対仏大同盟からロシア遠征まで 1805年、ナポレオンはイギリスへの上陸を計画します。 イギリスはこれに対抗して、オーストリアやロシアなどと「第三次対仏大同盟」を結成しました。 9月から10月にかけての「ウルム戦役」、12月の「アウステルリッツの戦い」で両者は衝突。 結果はフランスの完勝で、オーストリアとの間に「プレスブルクの和約」を締結します。 しかし陸上での戦いには勝てたものの、10月の「トラファルガーの海戦」ではイギリス艦隊に敗北。 イギリスへの上陸は頓挫してしまいました。 プロイセンはこれまで中立的な立場を維持してきましたが、その後フランスの勢力がドイツ中部にまでおよんでくると、1806年にイギリス、ロシア、スウェーデンなどと「第四次対仏大同盟」を結成。 10月にフランスに宣戦布告をします。 しかし開戦直後の「イエナ・アウエルシュタットの戦い」でプロイセン軍はほぼ壊滅し、フランス軍はベルリンに入場しました。 ナポレオンは11月になると、イギリスを経済的に孤立させることを狙い、イギリスと大陸諸国間の貿易を禁じる「大陸封鎖令」を発令します。 その後1807年に、プロイセンを救援しようとやってきたロシア軍と「アイラウの戦い」「フリートラントの戦い」で衝突。 ロシア軍を壊滅させて、「ティルジットの和約」を結びました。 ロシアが大陸封鎖令に参加することで、フランスとロシアの間には協調関係が構築。 またプロイセンはエルベ川以西の領土を失い、賠償金を被ることになりました。 1808年、ナポレオンの求めに応じてロシアがスウェーデンに侵攻。 「第二次ロシア・スウェーデン戦争」が勃発します。 敗れたスウェーデンも大陸封鎖令に参加することになりました。 さらにナポレオンの部下であるベルナドットがスウェーデン国王カール13世の養子になり、関係を強固にします。 この頃、もともとフランスの同盟国だったスペインでは、国王カルロス4世と息子のフェルナンド7世が対立していました。 ナポレオンはこれに介入して両者を幽閉、かわりに自分の兄であるジョゼフを王に即位させます。 これに対して民衆が反発。 イギリスが彼らを支援すると、ナポレオンは自ら大軍を率いてスペインに侵攻しました。 「スペイン独立戦争」となり、泥沼化して1814年まで続くことになります。 この状況をチャンスとみたオーストリアは、イギリスと「第五次対仏大同盟」を結成。 1809年にバイエルンへ侵攻を始めます。 しかしオーストリアは「エックミュールの戦い」で敗北。 首都ウィーンが陥落してしまいました。 その後フランスは、「アスペルン・エスリンクの戦い」で負けを喫するものの、「ヴァグラムの戦い」でオーストリアに勝利。 「シェーンブルンの和約」を結ぶことになりました。 1810年になるとナポレオンは、皇后ジョゼフィーヌと離婚をして、オーストリア皇女のマリー・ルイーズと再婚。 この頃が、ナポレオンの絶頂期といわれています。 しかしこの状態は、長くは続きません。 イギリスの経済的孤立を狙って発令した大陸封鎖令によって、他のヨーロッパ諸国が困窮。 耐えられなくなったロシアがイギリスと貿易を再開し、これに怒ったナポレオンは約70万人の大群を率いて、1812年に「ロシア遠征」を開始しました。 ロシアはフランスとの決戦を避け、退却を重ねて領内深くに誘い込み困窮させる焦土戦術をとります。 フランス軍は、飢えに加えて厳しい冬の寒さで37万人もの死者を出し、撤退を余儀なくされました。 これまでの数々の戦いで多くの兵士を失ったフランス。 それを見たイギリス、オーストリア、ロシア、プロイセン、さらにはナポレオンの部下だったベルナドットがいるスウェーデンも加わって「第六次対仏大同盟」が結成されます。 1813年8月に宣戦布告し、10月には「ナポレオン戦争」最大の戦いとなる「ライプツィヒの戦い」が起こりました。 フランス軍19万人、対仏大同盟軍36万人が衝突し、フランスは敗北。 戦場はさらにフランス国内へと移り、1814年3月31日にパリが陥落。 ナポレオンは退位し、地中海のエルバ島に追放されました。 「ナポレオン戦争」の主な流れ:ウィーン会議、「ワーテルローの戦い」、ナポレオンの島流し 1814年9月1日からは、戦後の体制について議論する「ウィーン会議」が開かれます。 しかし各国の利害が絡みあい、話し合いはなかなか進みません。 その様子を風刺した「会議は踊る、されど進まず」という言葉が有名でしょう。 その間、ナポレオンが退位したフランスでは王政復古が起こり、国王にはルイ18世が即位。 しかし国民の間には不満が溜まっていました。 1815年2月、ナポレオンは追放先だったエルバ島を脱出し、フランスに帰国。 国民は彼を歓迎し、ルイ18世は逃亡。 ナポレオンは再び皇帝となりました。 これを受けて、イギリス、オーストリア、プロイセン、ロシア、スウェーデンなどは「第七次対仏大同盟」を結成。 6月の「ワーテルローの戦い」でフランスは敗北することになります。 ナポレオンの復活はわずかな期間で、「百日天下」といわれました。 退位したナポレオンは、今度は南大西洋の孤島であるセントヘレナ島へ追放されることになりました。 その後彼は、1821年5月5日にこの島で亡くなっています。 フランス革命以降、およそ20年間にわたり続いた「ナポレオン戦争」は、1815年11月20日に締結された「第二次パリ条約」でようやく終結しました。 ナポレオンの時代は、ネルソンやウェリントンなどの指揮官や戦術家が活躍し、世界の軍事史の転換点ともいえる時代でした。 本書は「戦闘技術の歴史」シリーズの4巻で、まさにこの時代を扱っています。 「歩兵の役割」「騎兵の戦闘」「指揮と統率」「火砲と攻囲戦」「海戦」とジャンルごとに章立てして解説しているのが特徴。 イラストや図版も多く、各国の武器や装備を比較しながら読み進められるのも嬉しいでしょう。 指揮系統や戦術がどのように進歩していったのか、またそれぞれの戦いの勝因、敗因は何だったのかもわかりやすくまとめられているので、「ナポレオン戦争」の戦い自体に興味がある方におすすめです。 「ナポレオン戦争」時代に活躍した3人の偉人たち.
次の古今東西さまざまな英雄がいますが、ナポレオン・ボナパルトの名前が挙がらないことはまずないでしょう。 貧乏貴族の息子にすぎなかったナポレオンは、フランス革命という時代の流れにのって、皇帝の地位にまでのし上がります。 そしてフランス革命の思想とともに、ヨーロッパ全域に力を及ぼしました。 革命の思想をバックにしつつも自らを皇帝としたナポレオンの行動は矛盾していますが、同時に 絶対王政を「解体」し、ヨーロッパ全土に革命の精神を近代共和制国家の礎を「創造」する大きな役割を果たしたのです。 そんな「解体」と「創造」の英雄、ナポレオンを簡単にご紹介します。 フランス革命の混乱とナポレオンの台頭 1789年に起こったフランス革命は絶対王政を打倒しましたが、けして順風満帆とはいえませんでした。 革命の動きを危険視した周辺各国の軍事的な圧力だけでなく、国内でもヴァンデーの反乱といった反革命の暴動が起こるなど、非常に不安定な政情が続きます。 さらに1793年に実質的な権力を握ったロベスピエールを代表とする急進派(ジャコバン派)は、反革命派を弾圧する恐怖政治を行い、民衆の気持ちは革命よりも安定を望むようになっていきました。 1794年に起こったテルミドールのクーデターによってロベスピエールが捕らえられ、穏健派であるテルミドール派が総裁政府を樹立します。 しかし、なおも各派閥が暗躍し、フランス国内は不安定の極みに達しました。 そこに現れたのが、ナポレオンだったのです。 1796年のイタリア遠征でオーストリア軍を破り、さらにカンポ・フェルミオ条約を結んでイタリア北部の領土など莫大な国益をもたらしたナポレオンは、事実上、周辺各国の干渉を食い止めた英雄でした。 革命よりも生活の安定を望んだブルジョワや農民にとって、力と利益を形で示したナポレオンは、国内を安定させることができる期待の星だったのでしょう。 1799年、再び国内外の危機が高まるなか、ナポレオンはブリュメール18日のクーデターによって総統政府を倒し、新たに統領政府を立ち上げて第一統領の地位につきます。 この軍事クーデターによって、市民の力によって行われたフランス革命は終わり、英雄による独裁が始まることになりました。 ナポレオンの改革と皇帝への道 第一統領ナポレオンは、国外に対しては戦争と外交を使い分けて諸国の対応を沈静化させ、国内はさまざまな改革を行い、制度の安定化と経済の活性化を志します。 税制改革に産業復興、銀行の創設による通貨の安定化、そして世界中に影響を与えたフランス民法典(ナポレオン法典)を制定したのもこの頃です。 ローマ教会や貴族、急進派とも和解を目指しながらも、反体制活動は徹底的に弾圧しました。 そのせいもあり、ナポレオンをねらった暗殺計画は増加の一途をたどります。 さらに、国力を高めつつあったフランスを警戒したイギリスとの関係が悪化し、再び戦端が開かれてしまいます。 ナポレオンは自身の生命とフランスの利益を守るために、独裁を強める方向に進みました。 終身統領を経て、最終的に皇帝の座につくことを選択したのです。 1804年5月の皇帝就任は、国民投票を行い圧倒的な投票を得た上でのことでした。 形式的でしたが国民の総意に基づいた形をとったのは、ナポレオン自身がフランス革命の思想を背景に地位を手にしたからでしょう。 ナポレオン1世の存在は、他国にとって脅威でした。 イギリスを中心に3回目となる対仏同盟が結成され、フランスとヨーロッパの対立が決定的になります。 しかしナポレオンは、オーストリア・ロシア連合軍、プロイセン軍、ロシア軍を次々撃破し、ヨーロッパの大半を支配しました。 この時期がナポレオンの絶頂期といえます。 この権勢が傾くきっかけは、 他でもない彼自身が全ヨーロッパに広げた自由と平等の精神でした。 反ナポレオン運動の活性化とナポレオンの没落 ナポレオンは征服した国に親族を送りこみ、血縁による専制君主的な統治を行いました。 これが、ナポレオン没落の遠因となったのです。 民衆の味方だったはずの皇帝が、前時代と同じ専制君主だった。 このことに反発した民衆は各地で反乱を起こします。 また、フランス革命の精神に喚起され民族の独立を掲げた運動も多発しました。 ヨーロッパ大陸各地で起こる反乱を抑えるため、フランス軍は並々ならぬ負担を強いられることになります。 そして、決定的な転機が訪れました。 最大の敵国イギリスへの支援を続けていた ロシアを討つために1812年に行った遠征は、ロシア軍の後退戦略と冬将軍によってフランスの大敗北という結果に終わります。 この敗戦がきっかけとなり、各地の反ナポレオン勢力がその勢力を増加させました。 続く1813年のライプツィヒの戦いでも、オーストリア、プロイセン、ロシア、スウェーデンの連合軍に敗北し、パリが占領されてしまいます。 この結果、ナポレオンは1814年に退位し、エルバ島に島流しにされました。 翌年、エルバ島を脱出し再度帝位につくも、同年ワーテルローの戦いで敗戦し、セントヘレナ島で監禁されます。 さすがのナポレオンも3度めの再起はなく、1821年に帰らぬ人となりました。 ナポレオンが絶対君主制を「解体」し、近代共和制政治の土台を「創造」した ナポレオンの業績は一言では語れせんが、古い時代を「解体」し、新しい時代を「創造」する役割を果たしたことは確実です。 なかでももっとも大きな影響は、 フランス革命の精神をヨーロッパ全土に広めたことでした。 本人が皇帝になり、親族による大陸統治という絶対君主制的な政治をしたにもかかわらず、歴史の大きな流れの中では、ナポレオンは確かに近代共和制国家の種を各地に植えて回っていたのです。 ナポレオン亡き後、欧州各国は絶対君主制を復活させようとウィーン体制と呼ばれる前時代的な支配を試みますが、一度芽吹いた自由と平等の精神は、弾圧に屈することはありませんでした。 ウィーン体制は1830年にフランスで起こった七月革命、1848年の二月革命、同年ベルリンとウィーンでおこった三月革命によって幕を閉じます。 ナポレオンという英雄は自ら皇帝になりつつも、結果的には絶対君主制を「解体」し共和制を「創造」するべく、ヨーロッパの地ならしをしていたのかもしれません。 ・鶴岡聡(2004)『いっきに読める世界の歴史』中経出版. ルードウィッヒ著 金沢誠訳(1966)「ナポレオン伝」角川文庫. ・世界史の窓「ナポレオン/ナポレオン=ボナパルト/ナポレオン1世」.
次のナポレオンの名言 古来より、人は自らの教訓を言葉で残し、「名言・格言」として伝わってきました。 その中から、時を超えて現代においても、人生に様々な示唆を与えてくれる「名言・格言」を独断と偏見で選んでみました。 きっとビジネスだけでなく、人生においても参考になるでしょう。 今回は、ナポレオンの名言集として ナポレオンの名言・格言をまとめてみます。 ナポレオンの生涯 ナポレオン・ボナパルト(1769年8月15日〜1821年5月5日:享年51歳)は、フランス革命期に活躍した軍人であり政治家です。 フランス革命後、天才的な戦略と戦術によりヨーロッパ大陸のほとんどを支配下に収めました。 最後は、プロイセン・イギリスなどの対仏包囲網によって破れ、大西洋の孤島セントヘレナ島で病死しましたが、歴史上における著名な戦術家の一人と言って良いでしょう。 そんなナポレオンですが、今の世でも色あせない数多くの名言・格言を残しています。 今回は、その中から、現代でも役立つ ナポレオンの名言・格言をピックアップしてみました。 ナポレオンの名言集 26選.
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