「第二次世界大戦」の勃発である。 この4年に及ぶ消耗戦はアメリカだけでなく世界のコーラ情勢の大きな転機となる。 当時コカ・コーラはすでに創業50年以上の老舗で、名実ともにアメリカ飲料業界のトップの座に君臨していた。 海外進出も積極的に推し進めていたが、カナダ・キューバ・ドイツ以外の地域では苦戦を強いられそのブレイクスルーを模索していた。 一方ペプシコーラは16オンスボトルのヒットで会社の建て直しに成功、コカ・コーラのライバルとして急速に台頭していた。 またRoyal CrownやRED ROCK COLAなどの第三勢力も大不況を乗り切り、シェア拡大のチャンスを窺っていた。 戦争が起こったのはそんな時代であった。 コカ・コーラの決断 「戦争」という大変化にいち早く対応したのはコカ・コーラの社長、ロバート・ウッドラフであった。 彼は開戦直後に次のような特令を発している。 「我々は軍服を着た全ての兵士が, どこで戦っていようと, また我が社にどれだけ負担がかかろうと, 5セントの瓶入りコカ・コーラを買えるようにする。 」 これにはウッドラフの計算があった。 コーラの命である砂糖は重要な戦略物資であり、ひとたび戦争がはじまればその流通は政府によって厳しく制限されてしまう。 これまでどおりコカ・コーラを生産するには、コカ・コーラが戦争に必要だと政府に認知させるしかないと考えたのである。 そこで彼はワシントンに有能な部下を派遣して、様々なかたちで政治家たちにコークの必要性をアピールした。 陸軍でのコカ・コーラ人気も追い風になり、1941年1月に政府はコカ・コーラを軍需品として正式に認可する 註2。 ただし対象は軍に納める製品に限られ、一般向けのコークは他の飲料と同様厳しい砂糖の規制下に置かれることになった。 このため戦争が激化するにつれ、アメリカ国内でのコカ・コーラの入手はどんどん困難になっていったのである。 アイゼンハワーとT. O 当初政府はアメリカの工場ら前線へコカ・コーラを輸送していたが、費用がかさむことから1942年3月には現地で生産する方法に転換した。 前線の後方には政府出資による工場が建設され、そこにコカ・コーラ社の社員が派遣され生産にあたった。 この戦地の工場で働く社員は軍から技術顧問 T. O としての地位を与えられ, "Coca-Cola Colonel コカ・コーラ大佐 "の愛称で親しまれた。 かくしてコカ・コーラは兵士達の間で圧倒的な支持を得たが、その中でも特に熱狂的だったのが北アフリカ戦線の連合国軍最高司令官、ドワイト・D. アイゼンハワーであった。 コカ・コーラが兵士の士気の維持に必要不可欠と考えた彼は43年6月、米国政府に次のような要求をしている。 「コカ・コーラ300万本を送れ。 また一日20000本コカ・コーラを生産できる規模の工場を10箇所に建設してもらいたい」 これを聞いたウッドラフは辣腕のT. アルバート・トムフォードを現地に派遣、同年12月には北アフリカ戦線にコカ・コーラを供給するシステムを完成させたのである。 この様子はLIFE 1943年12月号に掲載されたコカ・コーラの一風変わったクリスマスの広告からも覗う事ができる(上写真)。 この年コカ・コーラは題材に恒例のサンタクロースではなく戦場のクリスマスの光景を採用している。 サンタに変装する兵士の様子を生き生きと描き出したHandbomの名作の一つであるが、その奥に見える白亜の建物と12月には眩しすぎる太陽は北アフリカの光景である。 広告キャンペーン 戦争で大きな利益を上げたコカ・コーラは、アメリカ国内で積極的な宣伝活動を開始する。 ただその内容はこれまでのような購入を促すものでなく、コカ・コーラと兵士達との繋がりを強調したものとなった。 当時国内ではコカ・コーラが品薄状態で、販売数も制限されていたのだからこれは当然といえる。 広告のトピックは戦争の進展とともに変化した。 1943年10月には中国に展開していた義勇軍「Flying Tiger」 註3 をモチーフにしたものが登場、連合国軍の一員である中国との友好関係を強調した。 実際はフライングタイガーは日米開戦の直後に解隊されているが、当時彼らは国民的英雄として扱われていた。 太平洋地域での本格的な反撃が始まった1944年には海軍の兵士を扱ったものが掲載された。 8月に掲載されたこの作品は「geedunk stand」と呼ばれた戦艦内のソーダファウンテンの様子を描いたものである。 (この施設の存在により海軍の兵士はコカ・コーラに関しては陸軍よりずっと恵まれた環境にあったという)手前にはファウンテンで働くT. の姿も描かれており、当時の機材や実際の活動の様子を知ることのできる貴重な資料にもなっている。 またNational Geographid1945年8月号には"Checkmate"と題された広告が掲載された。 説明によると日本の降伏直後に出版されたこの作品は、戦争が終わり出撃のなくなった兵士達がチェスに興じている姿とある。 しかしこれは同時に日本に対する「チェックメイト」であると深読みすることもできる これが8月中旬に発行されているということは、少なくとも7月には絵の原案は完成しているはずである。 いずれにせよコカ・コーラは広告は市井の関心を見事に映し続けたのである。 ウォルター・マックの戦い 政府とともに戦争を乗りきったのがコカ・コーラであれば、政府と対立しながら道を切り開いたのがペプシであった。 軍事物資に認められたコカ・コーラと違い、ペプシには開戦まもなく砂糖合理化の波が襲いかかってきたのだ。 砂糖がなければペプシは作れない。 新鋭の社長ウォルター・マックは砂糖を求めて文字通りアメリカ中を東奔西走する。 開戦直後、マックは国内の様々な業者を通じて砂糖86,000トンを購入した。 しかし砂糖の合理化が始まると政府はこれに介入し、そのうち半分を持っていってしまった。 国内での砂糖供給の目処が立たないと分かるやマックは今度はキューバに目をつける。 キューバは当時から砂糖のプランテーションで知られ、そこの農場を買い取って砂糖を供給しようと考えたのである。 しかしここでもアメリカ政府が立ちはだかる。 政府は合理化を理由に、砂糖の輸出入を全面的に禁止してしまったのである。 これで万事休すかと思われたペプシだが、マックは諦めなかった。 彼はメキシコに飛ぶと、米国との国境の町にシロップ工場を設立したのだ。 当時砂糖の輸出入は禁止されていたが、シロップまでは規制されていなかった。 彼はこの盲点を突いて、ペプシのボトラーへ砂糖を供給するシステムを作り上げたのである。 このメキシコ産のシロップは「El Masquo」 註4 と呼ばれた。 これが実際どのようなものであったかは不明だが、PEPSI発行の"PEPSI 100 Years"の中に「ペプシが不味くなったという人もいた」という記載があるところを見ると質は決して高くなかったようである。 「高カロリーのペプシを飲もう!」 コカ・コーラと同様ペプシも戦時中に宣伝の手を緩める事は決してなかった。 むしろ彼らは以前にまして大々的に広告を掲載している。 右は1943年に雑誌に掲載されたものである。 この"American Energy will win"と題された広告は当時の一般的な手法で描かれたているが、アプローチがなかなか興味深い。 「エネルギーは戦艦や爆撃機や戦車を作るのに必要。 高カロリーの ペプシは士気を高めます」 つまりこの広告ではペプシのウリは「カロリーが高いこと」なのだ。 説明の横には様々な食べ物とのカロリー比較がなされており、ペプシのエネルギーがいかに高いかを強調している。 Diet PEPSIがもてはやされる昨今では考えられない戦略だが、当時はこれがごく普通に受け入れられたのだろう。 比較対象が牛肉でなく羊肉なのがポイントだ 註5。 この頃PEPSIは新聞にも積極的に進出している。 漫画家Otto Soglowは1942年から46年にかけて新聞にペプシの広告用の4コマ漫画を書いている。 また彼らは一枚のイラスト もちろんPEPISが入っている の面白いタイトルを募集するという懸賞キャンペーンも行っている。 当時政府は戦費調達のため戦争債を積極的に売り出しており、コカ・コーラも「勝利のために戦争債を買おう!」という広告を打ち出している。 また戦時中のペプシのアクションで忘れてはいけないのが「PEPSI CENTER」である。 マックはコカ・コーラの独壇場であった軍の飲料市場に喰い込むため、ニューヨーク・ワシントン・サンフランシスコに大規模なカフェ「PEPSI CENTER」を設立したのだ。 兵士であればここでは無料でペプシコーラが飲め、サンドイッチとハンバーガーを5セントで買う事ができた。 当時ジュースが1本5セントだから、これはマクドナルドの平日並だ。 この他にもシャワーや談話室、家族への代筆など様々なサービスが揃っており、当時かなりの兵士がここを訪れたようである。 これら様々な戦略が奏効して42,43年と売上をなんとか維持したペプシだったが、長引く戦争の影響は思いのほか深刻で44年以降は大幅な減収に転じる。 しかしウォルター・マックの尽力によりペプシはボトラーを一社も倒産させる事なく戦争を乗り切るという快挙を成し遂げたことも強調されるべきである。 平常心のRC 戦争中ペプシのように積極的に行動して苦境を打破した企業は稀で、多くの清涼飲料会社は嵐が通り過ぎるのをじっと待っていたようだ。 当時から米国で第三位のコーラシェアを持つRoyal Crown Cola などはその典型で、同社発行の社史「Our Story」はこの時期を次のように述べている。 「何千人もの従業員が軍に加わり、製造に必要な材料のほとんどが不足した。 会社もボトラーも行動を控えた時期であった」 つまりRCは、じっと我慢して嵐をやり過ごしたのである。 困難な状態が続いたRC社でも、雑誌の広告だけは掲載しつづけた。 これも他社と同様売上を伸ばす目的ではなく、人々に忘れられないための策だったのだろう。 ただRCが他社と違うのは、その広告の中に「戦争臭さ」を積極的に取り入れなかった点である。 戦前RCは著名な俳優や女優を広告に起用しており、戦争中もその路線を貫いたのである。 右は1943年に掲載された同社の広告である。 これは兵士が登場する数少ない作品の1つだが、ここでの主役は彼らではなく女優マリア・モンテズである。 説明によると彼女はスタジオで"shutter-bugs カメラフリーク の兵士にポーズを取っているところらしい。 この非常事態に何してんねんっ! とツッコミを入れてしまいそうな腰砕け作品である。 このほかにもマリアがコーラの比較テストでRCコーラを選んだとか、映画撮影 註6 のあいまにRCを飲んでるとかなどが色々と書かれていて、コカ・コーラで主役を演じた兵士達の存在意義は限りなく低い。 唯一戦争に関連しているのは一番下に書かれた戦争債購入を促すメッセージだけである。 この広告に宣伝効果はあったのだろうか・・・・。 神話の完成 ここに興味深いデータがある。 戦争の終わった45年から49年にかけてコカ・コーラが急激に売上を伸ばし、逆にペプシの業績が落ち込んでいるのである。 砂糖の規制は終戦と同時に解除されており、コカ・コーラの優位が既に失われているこの時期に何故コカ・コーラだけが売れたのだろうか。 この原因は1000万人とも言われる帰還兵である。 彼らにとってコカ・コーラは共に戦った「戦友」であり、すでに一飲料を越えた存在になっていたのである。 兵士の中には配給されたコカ・コーラを飲まずに持ち歩いていたものも多かったし、従軍記者は手記の中で「コカ・コーラを握って死んでいるG・Iをたくさん見た」と述べている。 また先述のアイゼンハワーは、後に大統領になっても公の場でコカ・コーラをボトルで飲んでいたという。 1945年12月にNational Geographicを飾った広告"Christmas Together クリスマスを共に "には、クリスマスを家で過ごす帰還兵の姿が描かれている。 家、愛する妻と子供、そこには彼が命をかけて守ったものの姿がある。 そして銀のトレーに載せられたコカ・コーラが、戦争が終わったことを告げている。 コカ・コーラとは、戦場という「非日常」と、守るべき「日常」との絆であったのかもしれない。 またコカ・コーラ以外で唯一健闘したペプシはコークの単独ライバルの地位を不動のものとし、反攻のへむけて着々と準備を整えていた。 戦後のコーラ史はこの2人の勝者達によって綴られていくことになる。 参考文献• "For Fod, Country and Coca-Cola" Mark Pendergrast著• "THE FIRST HUNDRED YEARS" Coca-Cola編• "PEPSI; 100 Years" Bob Stoddard著 PEPSI編• "Royal Crown Company, Our Story" Royal Crown Co. "コカ・コーラの秘密" 田口 憲一 著• その他、各社の広告など 註1 続くといいですね、この企画。 註2 これは特別珍しい事ではなく、チョコレート"HERSHEY'S"もこの時期同様に軍需品として認められている。 註3 日中戦争時に中国に展開していた志願兵による航空部隊。 彼らの戦闘機は鮫の口がデザインされていることで有名である 絵参照。 日米開戦直後に零戦によって蹴散らされてしまった。 註4 本によっては「El Masco」とするものもある。 どういう意味かは知らない。 註5 一般的に羊肉は牛肉よりもカロリーが低い 註6 「COBRA WOMAN」という映画に出ていたらしい - Copyright C 1997-2001 Shinsuke Nakamoto, Ichiro Nakahashi.
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次の日本コカ・コーラ株式会社 6月17日(月)から全国でスタート あなたもオリンピック聖火ランナーになれるチャンス!! 日本コカ・コーラ株式会社(本社:東京、代表取締役社長:ホルヘ・ガルドゥニョ)は、東京2020オリンピック聖火リレープレゼンティングパートナーとして、同大会の聖火ランナーやコカ・コーラオリジナル オリンピック応援グッズに応募できる「東京2020オリンピック 応援キャンペーン」を6月17日(月)から全国でスタートします。 本キャンペーンでは、スマートフォンアプリ「Coke ON」を使ってたまる「コカ・コーラ オリンピック応援ポイント」で、どこよりも早くオリンピック聖火ランナーに応募いただけます。 聖火リレーは多くの方が参加できるオリンピックならではの特別な体験です。 アムステルダム1928大会以来、90年以上にわたりオリンピック大会を支援してきたコカ・コーラ社は1992年のバルセロナ大会から初めて公式にオリンピック聖火リレーに参加し、これまでオリンピック聖火リレーのプレゼンティングパートナーを11回務めてきました。 オリンピック聖火ランナーの応募開始に合わせ、東京2020オリンピックの聖火ランナー体験ツアーのイベントを全国で開催するなど、東京だけでなく、日本全国津々浦々にオリンピックの特別な体験をお届けします。 「コカ・コーラ オリンピック応援ポイント」は、スマートフォンアプリ「Coke ON」を使ってためることができます。 PR ためたポイント数に応じて、「東京2020オリンピック聖火ランナーになろう」コースの他、抽選で合計5万名様に当たる「コカ・コーラ オリジナル オリンピック応援グッズ」コースに応募することができます。 さらに、「コカ・コーラオリジナル オリンピック応援グッズ」コースに外れた方へのWチャンスとして、「Coke ON」で使える「オリジナルデザインスタンプ」が、抽選で合計200万個当たります。 詳細は、チーム コカ・コーラ 東京2020公式サイト()をご参照ください。 さらに、6月10日(月)に東京2020を盛り上げるコカ・コーラ社公式ソーシャルアカウントとして、Twitter teamcocacola とTEAM Coca-Cola YouTubeチャンネル )を開設し、東京2020オリンピックにむけて、さまざまな情報を発信していきます。 対象製品にあるマークをスキャンすると、1ポイントたまります。 対象製品の中には、販売状況により、「コカ・コーラ オリンピック応援マーク」が掲載されていない場合がありますので、あらかじめご了承ください。 「Coke ON」対応自販機で販売されているすべてのコカ・コーラ社製品 PR 2. 「Coke ON」対応自販機でコカ・コーラ社製品を購入してためる 「Coke ON」アプリを対応自販機に接続した状態で、コカ・コーラ社対象製品を購入いただくと、製品1本購入ごとに通常の「Coke ON」スタンプの獲得と同時に「コカ・コーラ オリンピック応援ポイント」1ポイントがたまります。 ・選考は、プレ選考、本選考の2段階に分けて行います。 ・志望理由をはじめとした応募者の情報を、審査委員会が厳正に審査し、聖火ランナーを選びます。 (聖火ランナーに決定した方への告知は2019年12月中旬ごろを予定) PR 臨場感あふれる動画を気軽に撮影できる小型アクションカメラ。 持ち運びに便利な軽量・コンパクトモデルで、自転車やヘルメットなどへの取り付けパーツや防水ケースも付属しており、さまざまなシーンでご利用いただけます。 「Coke ON」スタンプは、15個ためると1枚の無料ドリンクチケットと交換できます。 ギリシャのアテネで採火された火が開催国に運ばれ、国中に希望の火をともしながら、来るオリンピックの開催への期待を全国に届けるリレーです。 東日本大震災から10年目の被災地を訪れ、新しい時代の希望のオリンピック聖火リレーとして、復興に力を尽くされている方々にも、元気や力を届けます。 また、震災当時世界中から寄せられた支援や励ましに対し、震災から10年目の日本の姿を感謝の気持ちとともに発信し、困難を乗り越える人々の力・不屈の精神を伝えます。 PR コカ・コーラ社が初めて公式に参加したオリンピック聖火リレーはバルセロナ1992大会です。 それまではオリンピック開催国だけで聖火をリレーするのが一般的でしたが、バルセロナ1992大会からは、開催国だけでなく、世界各国から選出された人も聖火ランナーとして参加できる「オリンピック聖火ランナー国際プログラム」が始まり、50カ国以上から150人の参加者が集まり、近代オリンピックの聖火リレーの歴史におけるターニングポイントとなりました。 東京2020オリンピックで、コカ・コーラ社がオリンピック聖火リレーのプレゼンティングパートナーとなるのは12回目で、アトランタ1996大会、長野1998冬季大会、ソルトレーク2002冬季大会、アテネ2004大会、トリノ2006冬季大会、北京2008大会、バンクーバー2010冬季大会、ロンドン2012大会、ソチ2014冬季大会、リオ2016大会、平昌2018冬季大会に続いています。 コカ・コーラ社が参加したオリンピック聖火リレーの総距離は408,768kmで、12万6231人の聖火ランナーが1152日間走りました。 PR 日本で開催された大会でもオリンピック聖火リレーを支援してきました。 1992年に公式にオリンピック聖火リレーに関わるようになる以前の東京1964大会でも、日本全土にわたって聖火を歓迎し、聖火ランナー一行を先導・追行する車両の運行や「コカ・コーラ」のサンプリング、聖火歓迎用の小旗を沿道の人たちに配るなど、賛助と協力を惜しみませんでした。 また、札幌1972冬季大会はもちろん、プレゼンティングパートナーとなった長野1998冬季大会では、オリンピック聖火リレーをコーヒーブランド「ジョージア」で支援し、全国で545人の聖火ランナーおよび575人のエスコートランナーと2300人のサポートランナーを選出し、たくさんの方にオリンピックならではの特別なひとときを体験いただきました。 それ以来、コカ・コーラ社は、オリンピックが世界で注目度が高く、意義あるスポーツイベントへと発展する過程をともに歩み、支援してきました。 現在コカ・コーラ社は、IOCのワールドワイドパートナーで、オリンピック大会を支援してから92年となります。 ミュンヘン1972大会では、初めて「公式清涼飲料」の協賛企業として認定。 また、カルガリー1988冬季大会では、初めて「コカ・コーラ オリンピック ピントレーディングセンター」を開設し、それ以降大会ごとに趣向を凝らしたピン交換が言葉や文化を超えた交流として楽しめるようになりました。 その他にも、オリンピックを目指してトレーニングに励む多くの選手やオリンピック参加選手などに対する援助を行いながら、大会運営も支援しています。 PR こうして90年もの間、コカ・コーラ社は、大会拡大や選手育成をはじめ、ピントレーディングやオリンピック聖火リレーなど、数々の特別な体験を提供し、オリンピックで繰り広げられる感動と興奮を世界中に届けてきました。 2020年に向けてコカ・コーラ社は、オリンピックのワールドワイドパートナーとして、そして東京2020オリンピック聖火リレープレゼンティングパートナー、東京2020パラリンピックゴールドパートナーとして、東京2020を日本と世界にとってこれまで以上に忘れられない特別な大会にできるよう取り組んでいきます。
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