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次の「長崎港図」 左左側に扇形をした出島の姿が確認できる 出島(でじま)は、の外人流入防止政策の一環としてに築造された。 型で、面積は3,969(約1. 日本初の本格的な人工島である。 からまで対貿易、からまで(AVOC、アムステルダムに本部のあるVereenigde Oostindische Compagnie)を通して対貿易が行われた。 出島全体は1922年(大正11年)10月12日、「出島和蘭商館跡」として国のに指定されている。 以降は、長崎港の港湾整備に伴う周辺の埋立等により陸続きとなり、扇形の人工島であった頃の面影は失われた が、1996年(平成8年)より、江戸当時の姿への復元を目指す 出島復元整備事業計画がにより進められている。 歴史 [ ] 建設 [ ] 出島は幕府によって(寛永11年)から1636年にかけて人を管理する目的で建設された。 当初は単に「築島」とも呼ばれていた。 築島の建設費銀200貫目(約4,000両)を今のお金に換算すると約4億円となる (これに建物の建造を含めた費用は300貫目と記録されている )。 建設当初の面積は約15,000m 2だった。 なお、江戸中期に長崎貿易を調査したの『崎陽群談』には、面積3924坪船着き場45坪と記載されている。 築造費用は、門・橋・塀などは幕府からの出資であったが、それ以外は、などの長崎の25人の有力者()が出資した。 ポルトガル人は、彼らに土地使用料を毎年銀80支払う形式となっていた。 居住者がオランダ人になってからは借地料は銀55貫となった (初代のオランダ出島商館長()となったが交渉し、現在の日本円で約1億円に引き下げられた)。 鎖国 [ ] 川原慶賀「唐蘭館図 蘭船入港図」 の春に幕府は、とのの百姓が起こしたを鎮圧した。 それ以降幕府は、キリシタンの摘発をより強化し、禁教の徹底のために国であるポルトガルとの関係を断絶しようとした。 しかし、現実には、ポルトガルがからもたらす中国産の生糸などが当時の日本にとって必要不可欠であり、への信頼に不安を感じていたため、幕府は、1638年にはポルトガルとの貿易の断絶に踏み切れず、その代わり、から江戸に派遣されたの将軍への謁見を拒否するだけにとどまった。 、のが江戸に参府し、ポルトガルとの関係の断絶を幕閣に訴え、オランダがポルトガルに代わって、日本が求める輸入品を確実に提供できることを主張した。 幕閣はカロンから、やから渡航する中国人が、直接長崎に来航することが問題ないことや、オランダがスペインとポルトガルに妨害されず長崎に来航できること、台湾に渡航する中国人を通じて、オランダが日本が求める輸入品を確保でき、かつ、台湾に渡航する中国人がの渡航証明書を持っていることなどを確認し、ポルトガルとの関係を断絶しても支障がないと判断した。 その結果として、同年、幕府はや九州地方の大名に「第5次鎖国令」を発布して、ポルトガル人を出島から退去させた。 翌年のには、からのポルトガルの使節が、貿易再開を要求して長崎に渡来した。 これに対して幕府は、ポルトガルの使節を処刑することで、ポルトガルとの貿易を改めて再開しない意思を示した。 その後、出島は無人状態となり、貿易利潤の損失だけでなく土地使用料も入らなくなったために、長崎の町は困窮した。 幕府は出島築造の際に出資した人々の訴えを踏まえ、1639年に建設された倉庫の破風に西暦年号が記されているのを口実として、に(ひらど、現在の)のオランダ東インド会社のを出島に移すように求めた。 オランダ側にはこれに反対する意見もあったが、商館長カロンはこれを受け入れた。 こうしてオランダ商館は平戸から出島に移設された。 以後約200年間、出島には武装と宗教活動を規制されたオランダ東インド会社社員等が居住することになり、それまでのポルトガル人同様にオランダ人も幕府の監視下に置かれることとなった。 通常、長崎には毎年2隻のオランダ船がを利用して(現在の)を出港し、バンカ海峡、台湾海峡などを経て、女島諸島、さらに野母崎をめざしてやってきた。 例年7 - 8月ごろ来航し、その年の11 - 12月に帰路につくまでの約4ヶ月の滞在であった。 船がいる間は多くのオランダ人を中心にした欧州人、マレー人が滞在していたが、それ以外の期間は商館長(カピタン)、次席商館長()、倉庫長、書記役(1 - 3人)、 商館医、商館長の補助員数人、調理師、大工、召使(マレー人)など15人前後の人が住んでいた。 翌年夏にオランダ船が入港するまでの間には、貿易に関する仕事や江戸参府などを行っていた。 オランダ商館長は、歴代、通商免許に対する礼として江戸に下り、将軍に謁見して貿易の御礼を言上して贈り物を献上している。 これを「」といい、毎年、定例として行うようになったのは1633年(寛永10年)からであり、商館が平戸から長崎に移されて以後も継続された。 1790年(寛政2年)以降は4年に1度と改められたが、特派使節の東上は1850年(嘉永3年)まで166回を数えた。 江戸の、京の海老屋は「」として使節の宿泊にあてられた。 町並 [ ] マクシミリアン・ル・メールの1641年6月10日の『平戸オランダ商館日記』によると、出島を初めて見た印象について、一般に倉庫が小さいとしつつ、住居7棟、倉庫8棟を商館として取り仕切ることができると記述している。 平戸商館は石造の建物だったが、出島の建物はすべて木造建築だった。 幕府は石造の平戸商館の要塞化をおそれてオランダ商館の長崎移転の前後に破却している。 なお、幕末期には出島にも石造の洋風建築がみられるようになった。 管理 [ ] 出島はの管理下にあり、その下にさまざまな人が出島で働いていた。 「出島乙名(おとな)」は出島の責任者で、貿易についての監督や、出島内で働いている日本人の監督、指専や、出島に出入するための門鑑(通行許可書)の発行などを行った。 「オランダ」はオランダ語の通訳をする役人で、大通詞、小通詞、稽古通詞などの階級に分かれていた。 大通詞は大体4名で交代で年番通詞を勤め、オランダ人の江戸参府に同行したり、風説書や積み荷の送り書きの翻訳をした。 そのほかに日行使 にちぎょうし 、筆者、小使、火用心番、探番 門番 、買物使、料理人、給仕、船番、番人、庭番など、100人以上の多くの日本人が働いていたといわれる。 が「国立の監獄」と表現したように、原則として日本人の公用以外の出入りが禁止され、オランダ人も例外を除いて狭い出島に押し込められた(医師・学者としての信頼が厚かったなどは外出を許されていた)。 出島表門には、制札場があって「定」と「禁制」の2つの高札がたてられていた。 「定」というのは、日本人、オランダ人で悪事を企む者(抜荷(ぬけに)・密貿易等)があったら、すぐ告訴せよ、告訴すれば賞金を与えるという趣旨の高札である。 「禁制」としては次のように書かれていた。 禁制 出嶋町• 一、之外女入事• 一、之外出家山伏入事• 一、諸之者並ニ乞食入事• 一、出島廻リ傍示木杭之内船乗リ廻ル事 附橋之下船乗通事• 一、断ナクシテ阿蘭陀人出島ヨリ外江出ル事• 右ノ条々堅可相守モノ也• 卯 十月 つまり以外の女、高野聖のほかの山伏や僧侶、勧進や乞食の出入り、出島の外周に打ってある棒杭の中、橋の下への船の乗り入れ、そして、オランダ人は許可なく出島からの外出が禁じられていた。 にが勧請造営され、祭礼も始められると、と共にも桟敷席での観覧が許された。 1797年(寛政9年) - オランダがフランスに占領されてしまったため、数隻のアメリカ船がオランダ国旗を掲げて出島での貿易を行う。 1809年(文化6年)までに13回の来航が記録されている。 詳細は「」を参照 1798年4月3日(寛政10年3月6日)、出島に大火が発生し西側半分を焼失。 カピタン部屋も焼けた。 他の建物は間もなく復旧したが、カピタン部屋は、オランダ商館の費用で建てることになっていたため、商館の財政難のため10年ほど再建されることはなかった。 商館長によって建てられた新しいカピタン部屋は1809年1月に完成。 1804年(文化元年)9月にロシアからが出島に来航し、ロシアとの国交樹立、通商を要求した。 だが、レザノフたちは半年間出島に留め置かれ、翌年に長崎奉行所において、通商の拒絶を通告され釈放された。 文化5年8月(1808年10月)、といわれるイギリス軍艦侵入事件が発生。 武装ボートによって出島のオランダ商館員2名が拉致され、フェートン号に連行された。 その後、食料や飲料水とひきかえに商館員は釈放された。 1810年、オランダが皇帝の率いるされ、翌11年にはバタヴィアがイギリスの占領下に置かれたため、1810年から3年間、出島には1隻のオランダ船も入港しなかった。 この間、食料品などの必需品は、幕府が無償で提供し、長崎奉行は毎週2、3回、人を遣わして不足品があるかないかを問い合わせていた。 その他の支払いについては、長崎会所の立て替えを受けてしのいでいたが、それでも文化9年(1812年)には、その総額が8万200両を超えた。 この間、オランダ商館は商館長ドゥーフの所蔵している書籍を売るなどして財政難をしのいだ。 その後、1815年にはネーデルランド王国が成立。 つまりこの5年間、世界中でオランダ国旗がひるがえっていたのはここ出島だけだった。 1817年7月、が妻ティティアと子ジョンや乳母・召使いを同伴して商館長として着任した。 幕府は女性を出島に入れる事を拒んだが、町の絵師達はこぞって彼女を題材に絵を描き、または人形を制作するなどした。 家族は16週間の出島滞在の後、同年12月ドゥーフと共にオランダに帰国した。 11年()9月、付の医師であるが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていたなどが見つかり、それを贈った・のほか十数名が処分され、景保は獄死した。 シーボルトは文政12年()に国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けた()。 開国 [ ] 1870年頃の出島。 出島のある長崎港は、明治以降埋め立て等の改修・改良工事が度々実施されており、その中でも明治時代の二度の大規模な港湾改修事業は、出島の姿を大きく変えることになった。 1882年(明治15年)から始まった最初の港湾改修(第一次長崎港港湾改修事業)では、(明治19年)から実施された中島川の変流工事に伴う川幅拡張により北側の敷地(出島全体の4分の1に相当 )が削り取られ 、1888年(明治21年)には東側の護岸部分から築町との間が埋め立てられ、陸続きとなった。 次いで、1897年(明治30年)に始まった港湾改修(第二次長崎港港湾改修事業)では南側の埋め立てが進められ、1904年(明治37年)の竣工時には完全な陸続きとなり、往時の扇型の姿は完全に失われた。 1922年(大正11年)に高島秋帆旧宅、シーボルト宅跡、平戸和蘭商館跡とともに長崎県で初めて国の史跡に登録された。 ただし、当初、出島は史跡登録の候補には含まれていなかった。 また、敷地内も時が経つにつれて住宅や医院、商店が建ち並ぶようになっており、出島が国の史跡として登録された1922年(大正11年)時点では、道路を除くすべての土地が民有地となっていた。 なお、1937年に出島があった範囲を示すための鋲が道路に打ち込まれた。 復元への動き [ ] オランダ・所蔵の「ブロムホフの出島模型」 19世紀に日本で作られたこの模型は、復元事業において貴重な資料となった 終結後、オランダは駐日大使を通じて首相のに出島の復元を強く要求したとされている。 出島を抱える長崎市は、オランダ側の働きかけもあり(昭和26年)頃より出島の整備計画に着手。 翌1952年(昭和27年)からは出島史跡内の民有地を用地買収する公有化事業に着手し、事業開始から半世紀が経過した2001年(平成13年)に完了した。 1969年(昭和44年)からは1978年(昭和53年)には出島史跡の整備方針を検討する「長崎市出島史跡整備審議委員会」を設置しているが、この時点で後の復元事業に繋がる 19世紀初頭の出島を復元するという指針が示された。 (昭和59年)から2年にわたって、かつての出島の範囲を確認する調査を行った。 その調査によって東側・南側の石垣が発見されている。 また、当時の出島との境界がわかるように道路上に鋲を打った。 歴史的意義 [ ] 鎖国によって閉ざされたにとって、出島は唯一欧米に開かれた窓であった。 にとして赴任したケンペル(—滞日、主著『日本誌』)、(—滞日、主著『日本植物誌』)、およびシーボルト(—および—滞日、主著『日本』『日本植物誌』)らは、西洋諸科学を日本に紹介するいっぽう日本の文化や動植物を研究しヨーロッパに紹介した。 上記3人は、「」と称されている。 年間、8代将軍がを奨励して関係以外の洋書を解禁した結果、出島からもたらされる書物は、、などの研究を促進させた。 出島は医学・植物学・物理学・天文学などのの窓口となり、各藩から長崎への遊学者は2000名に及んだといわれている。 長崎市による復元整備事業 [ ] 第1期整備事業 [ ] (平成8年)からは第1期整備事業として本格的な復元事業に着手。 発掘調査と石垣の修復 と、敷地西側の建造物5棟(商館長次席が住んだ「 ヘトル部屋」、商館員の食事を作った「 料理部屋」、オランダ船の船長が使用した「 一番船船頭部屋」、輸入品の砂糖や蘇木を収納した「 一番蔵」・「 二番蔵」)の復元が実施され、後者は2000年(平成12年)4月に完成した。 カピタン部屋 第3期以降 [ ] のホームページによれば、中央、東部分の計15棟を復元したのち、周囲にを巡らし、扇形の輪郭を復元する予定である。 現在、筆者部屋他6棟の復元のため、発掘調査中である。 市出島史跡整備審議会は2050年を目標に、かつて水に囲まれた扇形の島を完全復元するよう長崎市長に提言している。 、において出島が「」をテーマとする暫定リストに掲載されたことがにより報道された。 江戸時代中期に当地に滞在し研究活動を行った同国の植物学者の事跡に関連する遺産としての掲載であるとされている。 2017年には、出島と対岸を結んでいた橋が130年ぶりに同じ位置に架け直された。 橋の名称は「」で、歩行者がいないときは出島側に負担がかからない工法が取られている。 これは出島が国の史跡であり、橋を支える橋台を設置できないことから考案された。 橋は2017年に架設され 、同年にオランダ王室紀や夫妻ら出席のもと完成記念の式典が執り行われ、翌日より供用を開始した。 扇形の理由 [ ] 出島が扇形をしている理由としては、以下のような諸説がある。 長崎に新しく作る島の形について、当時の将軍であるに伺いを立てたところ、自らの扇を示し、見本にするように言ったという説。 これは、シーボルトの著書である『日本』に書かれている話である。 の河口に土砂が堆積し、弧の形をした砂州がもともとあった。 それを土台として、埋め立てたという説。 海側の岸壁を弧状にすることによって、波浪の影響を少なくするために扇形としたという説。 交通アクセス [ ]• (路面電車)から徒歩すぐ。 写真 [ ]• , p. 160. , p. 2020年7月9日閲覧。 長崎市役所サイドより• , p. 10-11. , p. 12-13. 長崎ん町. 2014年5月19日時点の [ ]よりアーカイブ。 2014年5月19日閲覧。 , p. 160-161. 出島370年物語より• 2014年5月20日時点のよりアーカイブ。 2014年5月20日閲覧。 出島 Dejimaより• , p. , p. 164. , p. 11-12. , p. 160-163. , p. 13-14. , p. , p. 14-15. , p. , p. 15-16. 2017年5月15日. 2017年5月20日閲覧。 2017年2月27日. の2017年5月20日時点におけるアーカイブ。 2017年5月20日閲覧。 101. リクナビNEXT. 2020年5月26日閲覧。 , p. 2017年11月24日. 2018年10月12日閲覧。 , p. 参考文献 [ ]• 赤瀬浩『「株式会社」 長崎出島』(選書メチエ、2005年)• 、鳥井裕美子、川嶌眞人編『九州の蘭学』(思文閣出版、2009年)• 越中哲也『越中哲也の長崎ひとりあるき』長崎文献社〈長崎おもしろ草〉、1978年4月。 『開かれた鎖国 長崎出島の人・物・情報』(、1997年)• 片桐一男『出島 異文化交流の舞台』(、2000年)• 長崎市教育委員会 発行・編集『出島』(長崎市、2001年改訂版)• 長崎市出島復元整備室 監修『出島生活 恋も仕事も事件もあった』(長崎市、2001年)• <出島の科学>刊行会 編著『出島の科学 長崎を舞台とした近代科学の歴史ドラマ』(出版会、2002年)• 西和夫『長崎出島オランダ異国事情』(、2004年)• 西和夫 編『復原オランダ商館 長崎出島ルネサンス』(、2004年)• 森岡美子、監修 『世界史の中の出島』 (長崎文献社、2005年)• 山口美由紀『長崎出島 甦るオランダ商館』 (<日本の遺跡>、2008年)• 山口美由紀「失われた出島と復元整備」『長崎文化 第70号記念』、NPO法人長崎国際文化協会、2012年11月。 山口美由紀『出島 つながる架け橋』長崎文献社〈長崎文献社ブックレット〉、2018年4月。 関連項目 [ ]• 長崎商館長• (元本拠地。 アウェー側のゴール裏がホーム側と直接通り抜けできないため、この地名にちなみ「出島」と呼ばれている)• 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - 長崎市による観光情報など•
次の19世紀初頭の出島の復元 現在の復元整備事業は、19世紀初頭、和蘭商館長ブロムホフや商館医シーボルトたちが活躍した時代の出島の復元を目指しています。 すでに、カピタン部屋を始め16棟の建物の復元が完了しています。 このほか出島では、古くは、築造当初ポルトガル人が住んでいた時代の護岸石垣や、坂本龍馬達が活躍した幕末、開国後の出島の石倉、更には明治期の貴重な木造洋風建物など、異なる時代の遺構を見ながら出島の変遷をたどることができます。 出島が歩んだ歴史は日本の近代化の歴史でもありました。 ごゆっくりお楽しみください。 南蛮貿易時代 1571年ポルトガル船の長崎港への来航から出島が完成する1636年までの65年間、ポルトガル人をはじめスペイン人、イタリア人など、いわゆる南蛮人との貿易の時代が続きました。 かれらは市中に住まい様々な交流から南蛮文化が長崎のくらしに溶け込んでいくこととなりました。 出島では、発掘調査の結果築造当時の出島の護岸石垣が出土し、これを修復し公開しています。 一度は埋め立てにより陸地に埋没した出島が100年の時を越え、再び目の前に現れました。 和蘭貿易時代 1637年、島原の乱がおきると、徳川幕府は大きな衝撃を受けます。 その後、1639年ポルトガル人は国外へ退去を命じられ、完成まもない出島は一時その住人を失い、長崎の商人たちを落胆させました。 しかし、幕府は1641年平戸の和蘭商館を出島へ移すよう命じます。 長崎におけるオランダ貿易の幕開けです。 現在、復元が進んでいる建物の時代設定は、商館長ブロムホフや、商館医シーボルトたちが活躍した19世紀初頭1820年代ごろの出島です。 幕末開国後 1859年江戸幕府はついに開国し外国との通商が横浜、函館でも開始されます。 長崎の出島が218年に及ぶオランダ貿易における独占的な地位を占めた時代は終わりを告げます。 開国後は、オランダ以外の西洋の商人も長崎に進出してきます。 こうして幕末の出島には新しい洋館や倉庫が立ち並びました。 復元された旧石倉は、幕末に坂本龍馬率いる海援隊が取引に訪れたハットマン商会の倉庫でした。 その後も出島は外国人居留地として新しい役割を果たしてゆきます。 明治時代以降 出島には明治期の洋館、旧出島神学校と旧長崎内外クラブが残っています。 旧出島神学校は、日本に残る最古のプロテスタントのキリスト教神学校です。 また、旧長崎内外クラブは、T.グラバーの息子倉場富三郎が設立に尽力した長崎在住の主だった政財界人からなるインターナショナルクラブの建物でした。 旧長崎内外クラブの完成と時を同じくして、出島の周辺の埋め立て工事は完成し、その後、時代とともに出島の面影は消えてゆきました。 出島周辺に飲食店はありますか? 東側ゲート(旧出島神学校)方面からは、徒歩2~3分で新地中華街に、同じく徒歩5~10分で浜の町アーケードに着きます。 西側ゲート方面からは、徒歩4~5分で港に面した出島ワーフに着きます。 また、出島電停から路面電車で5分ほど行くと長崎駅前に到着します。 出島内ミュージアムショップで販売している書籍を郵送で購入したいのですが。 書籍の代金を前払いしていただければ、着払いで郵送いたします。 詳しくは出島内ミュージアムショップにお問い合わせください。 出島内ミュージアムショップ(ヘトル部屋1階) tel. 出島内にレストランはありますか? 旧長崎内外クラブ一階でレストランを営業しています。 喫茶メニューの他、トルコライス等の食事もございますので是非ご利用ください。
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