駅伝の産みの親とも言える「」はこの頃は朝日新聞社にいる。 政治は面接で「好きなスポーツは何か」と問われると、我が意を得たりとばかりに水泳について大演説をぶつ。 曰く、• 日本の水泳はまだまだ遅れている!• 水泳は夏場しか練習が出来ないから!• 欧米列強と同じく温水プールが必須! 社長の村山と政治部長の緒方はあっけに取られる。 「・・・なら志望は運動部・・・?」 「いや!志望は政治部!!!」 「!」 政治は「政治部」が志望ではあるが、水泳は続けると言いたいことを言いきると意気揚々と引き上げていく。 口だけは一人前・・・いや三人前位だが、どうも言っている事は支離滅裂。 しかし、社長の村山が政治を気に入ったこともあり無事朝日新聞社へ入社が決まる。 怒り いよいよ目前に迫った巴里オリンピック。 新聞では巴里オリンピック出場選手の特集が組まれる。 「これはいったいどういう事だ!」 運動部へと怒鳴り込んで来たのは政治である。 陸上選手ばかりが取り上げられていて水泳選手の扱いが小さい事に不満なのである。 「そりゃ、陸上は人気もあるし花形だからね」 火に油を注ぐようなことをサラリと言ってのけたのは河野一郎。 河野は早稲田出身で箱根駅伝にも出場経験がある。 政治は益々ヒートアップする。 「ストックホルムから三大会メダルを逃すなんて恥さらしも良い所!」 三十半ばの金栗四三がメダルなど取れるワケがない。 政治は怒りを爆発させるのであった。 いだてんのあらすじ第25話中巻~田畑政治の活躍~ 図らずも三度目のオリンピックへの出場となった金栗四三。 しかし、政治の言葉の通りやはりいだてんと言えども既に三十半ば。 途中32キロ地点で倒れてしまい棄権という結果に終わる。 スポンサードリンク 一本背負い 「競技人生に悔いはありません」 図らずも出場することになった巴里オリンピック。 四三は途中棄権に終わったものの、帰国後の報告会では晴れやかな表情で胸を張る。 しかし、色々とご不満な男が一人。 「陸上は出場選手が多い割りには成果が全く奮わないのは如何に!!!」 政治は体協の「陸上贔屓」を糾弾する。 体協の主事となっていた野口は報告会の壇上で土下座して詫び責任を取って辞職すると言うが・・・。 「あんたじゃ話にならなん!名誉会長の嘉納治五郎を出せ!」 報告会は騒然となる。 当の嘉納治五郎は報告会にも出席しているのだ。 嘉納治五郎は初めて見る政治の剣幕を面白がっている様子だ。 それに気付いた政治が掴みかかって来るが・・・ 「あーれー」 見事に一本背負いを決められてしまう。 「バカ!この人が嘉納治五郎先生たい!」 四三の言葉に政治も一瞬たじろぐが、これから水泳は自分達でやると息巻いて退出するのであった。 水連発足 この年、政治は東京帝大で水泳部顧問を務める松澤一鶴と「大日本水上競技連盟」を発足させる。 名前は立派で仰々しいが、本部は帝大工学部倉庫の一部を間借りである。 「温水プールは必須・・・」 政治も日本泳法でその人ありと言われる松澤も温水プールの必要性は痛感している。 夏場しか練習が出来ないようではとても世界とは戦えないのだ。 しかし、そんなモノを造るカネも場所も・・・。 「これは・・・」 帝大工学部の倉庫には船舶の水流実権用の巨大な水槽が設置されている。 二人は水槽を見つめ同じ事を思う。 「温水プールに流用出来ないか・・・」 この水槽は20メートル程度の広さはありそうだった。 いだてんのあらすじ第25話下巻~アムステルダムオリンピック~ 政治は本業の「政治部記者」としては鳴かず飛ばずであった。 しかし、上司の緒方は彼を可愛がりよく馴染みのバー「ローズ」へと連れて来ていた。 ローズのママ「マリー」は占いもやるのだが、政治の運命を「30歳までの命」と喝破。 代々、早死にが多い政治家系である。 生きている内に何事かを為したいと強く思うのであった。 温水プール 大正が終わり昭和2年(1927年)。 ようやく復興も進みつつあった東京に翌年に迫ったアムステルダムオリンピックへの招待状が届く。 選手選考に関しては水泳は「水連」が陸上についてはほぼ同時期に発足した「陸連」が行う。 しかし、ストックホルムの時代から比較すれば体協も大きくなったとはいえ、まだまだ、潤沢な資金があるとは言えなかった。 陸連と水連は渡航させるメンバーで鋭く対立。 この己の立場のみ主張する生産性のない応酬に体協会長の岸は怒りを爆発させる。 「渡航費を持って来れば何人でも連れて行く!」 政治の人生は残りあと僅か(だと信じていた)である。 そんな時に政治に嬉しい知らせが入る。 東京帝大に温水プールを造ったと松澤が知らせて来た。 元々あった実験用水槽に医学部で使うスチームも引いたのだ。 俄然、やる気が出ていた政治は資金集めにある作戦を立てる。 渡航費確保 「どうも、水連ですが・・・少々お裾分けに・・・!」 体協の誰もが驚いた。 政治は6万円もの渡航費を時の大蔵大臣高橋是清から引き出していたのだ。
次のNHKの大河ドラマ「いだてん(韋駄天)」に登場する田畑政治(たばた・まさじ)の実在のモデルの家系図と経歴を紹介します。 田畑家は明治時代・大正時代の典型的な地方の名士で、田畑家の家系図的には特筆するべきところは無いが、田畑政治の従兄弟に水野成夫が居る。 水野成夫はニッポン放送の鹿内信隆とともにフジテレビの創業して、フジテレビの初代社長を勤め、テレビ・新聞・ラジオを傘下に収め、フジテレビホールディンスの基礎を築き、「財界四天王」の1人に数えられた人物である。 下の経歴の方で詳しく紹介するが、田畑政治は水泳界だけでは無く、朝日新聞東京本社の代表取締役を務めており、長男・田畑和宏はNHKに勤務し、NHKの理事にまで出世しており、従兄弟にフジテレビ社長の水野成夫も居ることから、メディア系に強い家系となっている。 NHK大河ドラマ「いだてん」に、フジテレビの社長・水野成夫が登場するとは思えないが、こういう家系図を知っていれば、大河ドラマ「いだてん」がより楽しめると思うので、紹介しておく。 一方、水泳の経歴の方は、父と祖父が結核で早死にしていたことから、母・田畑うらが子供たちの健康を気遣ったようで、田畑政治は夏休みや冬休みは浜名湖にある弁天島の別荘で過ごしており、小学校に入る前から、浜名湖で水泳をしていた。 浜名湖は水泳の盛んな場所で、「遠州学友会水泳部」という水泳クラブがあり、泳ぎの得意な田畑政治は「遠州学友会水泳部」でもエースとして活躍していた。 ただ、この頃の水泳は西洋式の水泳ではなく、日本泳法(古式泳法)であり、早さよりも、泳法の型や技が重視されていた。 しかし、浜松一中の4年生の時に、慢性盲腸炎と大腸カタルを併発したため、医者から水泳を禁じられ、水泳を断念。 その後は、浜松一中を日本一にするため、指導者という道を選んだのだった。 そして、浜松一中を卒業後も休みの度に浜名湖に戻ってきて、後輩の指導に励み、周辺の水泳部を統合して「浜名湾流泳協会」を発足した。 また、浜名湾にクロールの採用を決め、東京帝国大学時代に全国大会を企画し、地物と有力者を説得して弁天島の一角を木枠で囲った海水プールを作り、大正10年に全国の強豪を招いて、全国競泳大会を開催した。 全国競泳大会の大阪の強豪・茨木中学に優勝をさらわれたが、翌年の大正11年に浜松一中が茨木中学を押さえて勝利し、日本一に輝いた。 そして、大正13年に東京帝国大学を卒業して朝日新聞に入社し、政治部の記者として政友会を担当して、鳩山一郎(鳩山由紀夫の祖父)に気に入られた。 その一方で、田畑政治は記者時代に1本も記事を書いたことが無いと冗談を言われるほどで、暇を見つけては浜名湖に帰るのはもちろん、仕事をずる休みして、浜名湖の水泳を指導していた。 また、東海地方代表として大日本水泳競技連盟の設立に加わり、大正13年に大日本水泳競技連盟の理事に就任する。 当時は昭和不況という厳しい時期だったが、田畑政治は鳩山一郎に気に入られていたので、このコネを使って大蔵大臣・高橋是清に面会して補助金を取り付けることに成功し、昭和3年の年アムステルダム・オリンピックに日本水泳を派遣し、金メダルを取得した。 この成功により、田畑政治は大日本体育協会の理事に就任したほか、日本水上競技連盟の名誉主事などの要職を歴任するのであった。 そして、田畑政治は昭和7年のロサンゼルス・オリンピックで水泳の監督を務め、日本競泳は金メダル5個、銀メダル5個、銅メダル1個という輝かしい成績を収めた。 さらに、昭和11年のベルリン・オリンピックでは本部役員を務め、日本競泳は金メダル4個、銀メダル2個、銅メダル5個を取得した。 水泳女子200m平泳ぎに出場した前畑秀子に対して、「前畑ガンバレ、前畑ガンバレ」を連呼した実況が生まれたのは、昭和11年のベルリン・オリンピックである。 昭和15年に開催予定の東京オリンピックは日中戦争の影響で返上されたが、田畑政治は2度に渡るオリンピックで華々しい成果を上げており、昭和14年に日本水上競技連盟の理事長に就任し、日本水泳界の頂点にたった。 一方、朝日新聞の政治記者としては、政友会と親しくしていたことから、五・一五事件や二・二六事件の時に政治家側の主張を記事にして、朝日新聞が右翼の標的になるなど、新聞記者としても活躍していた。 このため、田畑政治は戦後、いち早く「日本水泳連盟」を発足して理事長に就任して水泳界を再建すると、昭和22年には日本オリンピック委員会の総務主事に就任して、昭和23年のロンドン・オリンピックを目指した。 そうした一方で、朝日新聞の村山長挙ら経営陣が公職追放で去り、政治部長の長谷部忠が昭和22年の選挙で朝日新聞の取締役に就任し、昭和24年に社長に就任した。 田畑政治は、先輩の長谷部忠から頼まれ、昭和22年に朝日新聞東京本社の代表取締役に就任し、昭和24年に朝日新聞の常務取締役に就任した。 さて、戦後初となる昭和23年のロンドン・オリンピックは、開催国のイギリスから参加を拒否されたため、出場することができなった。 日本水泳界では古橋廣之進が好記録をたたき出していたので、田畑政治はなんとかして水泳だけでも出場できないかとコネを使ってイギリス側に接触しようとしたが、失敗に終わる。 そこで、田畑政治は、日本水泳の実力を世界に示すため、ロンドン・オリンピックと同じ日に、神宮プールで日本選手権を開催した。 このとき、古橋廣之進や橋爪四郎の記録は、ロンドン・オリンピックの優勝者の記録や世界記録を上回っており、水泳大国日本の健在を世界にアピールすることに成功したのである。 その結果、国際オリンピック委員会は、日本の復帰条件として、各競技の国際連盟に復帰することを勧告した。 田畑政治は、戦前から日米対抗水泳大会を開催するなどして、アメリカ代表の水泳監督キッパスと良好な関係を築いていたので、キッパスの協力もあって、日本水泳連盟は、いちはやく国際水泳連盟へ復帰する。 さらに、田畑政治はマッカーサー元帥の激賞を得て、ロサンゼルスで開催された全米選手権に参加。 古橋廣之進や橋爪四郎が世界新記録を連発。 古橋廣之進は「フジヤマのトビウオ」として全米を恐れさせた。 こうした日本水泳選手の活躍によって、世界の世論が一転し、日本の各競技は続々と世界連盟への復帰を果たし、日本は国際オリンピック委員会に復帰して、オリンピック出場権を得たのである。 その一方で、村山長挙が公職追放が解除されて朝日新聞の社主に復帰し、現経営陣を追放したため、昭和27年に田畑政治は朝日新聞を退社した。 田畑政治は、朝日新聞の初代社主・村山龍平の「あの顔は良さそうだから、採ってやれ」と言う鶴の一声で朝日新聞に採用され、その婿養子の村山長挙によって朝日新聞から追放されたのである。 朝日新聞を去った田畑政治は三島製紙の取締役となり、昭和27年7月のヘルシンキ・オリンピックでは、日本選手団長を務めたが、日本競泳は銀メダル3個という結果に終わった。 さらに、昭和31年のメルボリン・オリンピックでも、日本選手団長を務めたが、日本競泳は金メダル1個、銀メダル4個という結果に終わり、戦前の栄光は見る影も無かった。 こうした水泳界の低迷に、大阪支部長の高石勝男が日本水泳連盟の会長選に立候補して、会長の田畑政治と対立し、水泳界を二分するお家騒動が勃発した。 田畑政治はなんとか会長選で再選を果たしたものの、水泳界を混乱させた責任をとって日本水泳連盟の会長を辞任した。 こうした一方で、田畑の古巣である朝日新聞から、ある国家プロジェクトが生まれていた。 昭和30年3月に朝日新聞の記者・矢田喜美雄は、国際地球観測年特別委員会(CSAGI)が各国に南極観測事業を呼びかけている情報を入手し、朝日新聞が学者を支援して南極観測を行う「南極学術探検」を提唱した。 こうして朝日新聞が支援する南極学術探検計画が始まったのだが、協議を重ねていく内に、想定していた予算2億円では南極に行けないことが判明したため、国家事業へと発展した。 このとき、文部省が「探検には予算は出せない」と言ったので、「南極学術探検」は「南極観測隊」へと改称したのである。 そして、昭和31年11月8日、第1次南極観測隊や樺太犬タロ・ジロら22頭や南極越冬猫タケシなどを乗せた砕氷船「宗谷」が、晴海埠頭から出発したのである。 この第1次南極観測隊が、樺太犬タロ・ジロで有名な「南極物語」へとつながるのである。 なお、南極物語の実話は「」をご覧ください。 さて、日本が南極観測隊の話題で盛り上がっている一方で、田畑政治は東京でもオリンピックが開催できるという自信を強めていた。 そして、田畑政治は、国際オリンピック委員のフレンケルから「オリンピックを開催すれば、観光収入が増える。 オリンピックは金になる」と背中押され、東京都知事や政府を巻き込んで、国家事業として、東京オリンピックの誘致に動いていた。 そのようななか、国際オリンピック委員会の会長ブランデージから、「昭和35年のオリンピックに立候補して開催の意思を示し、昭和39年のオリンピックを狙いなさい」と助言を受ける。 田畑政治は、この助言に従い、昭和35年のオリンピックに立候補して、日本にオリンピックを開催する意思があることを示し、昭和39年開催のオリンピックを狙い、各方面の努力もあって、昭和39年の東京オリンピック開催を勝ち取ったのである。 こうして、東京オリンピックの開催が決まると、田畑政治は昭和34年に東京オリンピック組織委員会を発足して事務総長に就任し、オリンピック開催に向けて活動。 昭和36年には日本水連盟の名誉会長に就任した。 そして、田畑政治は、丹下健三の設計で念願の屋内水泳場(国立代々木競技場)を建設することを決定し、難問だったオリンピック村問題も解決する。 さらに、田畑政治は、NHKの協力を得て、オリンピック前年に予行演習として「東京国際スポーツ大会(プレオリンピック)」の開催を企画した。 このようななか、昭和37年(1962年)にインドネシアの首都ジャカルタで開催された第4回アジア大会で、インドネシアのスカルノ大統領が親中国や親イスラムだったことから、台湾とイスラエルの参加を拒否するという事件が発生する。 (注釈:タレントのデビ夫人は、スカルノ大統領の第2夫人だった。 ) このような政治的差別は大会憲章に違反しており、大会憲章に違反した第4回アジア大会に出場すれば、日本は国際オリンピック委員会から除名され、東京オリンピックが中止になるのでは無いかという議論が、日本国内で起きた。 日本選手団を率いてジャカルタ入りしていた田畑政治は、日本が出場しなければ、ジャカルタで暴動が起きるような状況だったことから、日本選手団の出場を決定するが、帰国後、記者に「国際大会としてではなく、親善試合として出場した」と話したことから、責任問題に発展してしまう。 田畑政治に恨みを持つオリンピック大臣・川島正次郎が、このチャンスを逃さず、財界からの批判をあおり、背金問題に発展させ、東京オリンピック組織委員会の会長・津島寿一と事務総長の田畑政治が、責任をとる形で辞任した。 さらに、オリンピック大臣・川島正次郎が、田畑政治に恨みを持っており、田畑政治から東京オリンピックに関するすべての肩書きを奪い、オリンピックの運営から追放したのである。 こうして、田畑政治は、東京にオリンピックを呼び、東京オリンピックの地ならしを全て終えて、開催への道筋をつけたにもかかわらず、無念にも、東京オリンピックの運営から外されてしまったのである。 唯一の心残りは、映画監督の黒澤明に、東京オリンピックの記録映画を撮ってもらことができなかったことだ。 以降、田畑政治は東京オリンピック組織委員会の委員として残ったが、東京オリンピックの運営には口を出さず、手弁当で選手を激賞して回り、東京オリンピックの本番は、応援席から身を乗り出して選手を応援した。 朝日新聞の記者・矢田喜美雄も、南極観測隊(南極学術探検)を提唱して国家事業へと発展させたのだが、隊員内の派閥争いがあったため、第1次南極観測隊に入れず、昭和31年11月8日に晴海埠頭から第1次南極観測隊を乗せて出発する南極観測船「宗谷」を見送っている。 さて、田畑政治は東京オリンピック後、東京スイミングセンターを建設して水泳選手育成に励み、札幌冬季オリンピック組織委員会の顧問を務めたり、中国の国際オリンピック委員会の復帰に尽力したりした。 また、スポーツ振興資金財団の顧問、国際スポーツ連絡協議会の議長、日本オリンピック委員会の委員長や名誉委員長などの要職に務めた。 晩年はパーキンソン病を発病して車椅子生活を送り、病室のテレビでロサンゼルス・オリンピックを観戦し、閉会式の2週間後の昭和59年(1984年)8月25日に死去した。 享年87。 田畑政治はオリンピックに関する数々の功績が認められ、「朝日賞」「オリンピックオーダー銀賞」「勲二等瑞宝章」「正四位勲二等旭日重光章」が贈られている。 なお、大河ドラマ「いだてん」の実在のモデル一覧は「」をご覧ください。
次の駅伝の産みの親とも言える「」はこの頃は朝日新聞社にいる。 政治は面接で「好きなスポーツは何か」と問われると、我が意を得たりとばかりに水泳について大演説をぶつ。 曰く、• 日本の水泳はまだまだ遅れている!• 水泳は夏場しか練習が出来ないから!• 欧米列強と同じく温水プールが必須! 社長の村山と政治部長の緒方はあっけに取られる。 「・・・なら志望は運動部・・・?」 「いや!志望は政治部!!!」 「!」 政治は「政治部」が志望ではあるが、水泳は続けると言いたいことを言いきると意気揚々と引き上げていく。 口だけは一人前・・・いや三人前位だが、どうも言っている事は支離滅裂。 しかし、社長の村山が政治を気に入ったこともあり無事朝日新聞社へ入社が決まる。 怒り いよいよ目前に迫った巴里オリンピック。 新聞では巴里オリンピック出場選手の特集が組まれる。 「これはいったいどういう事だ!」 運動部へと怒鳴り込んで来たのは政治である。 陸上選手ばかりが取り上げられていて水泳選手の扱いが小さい事に不満なのである。 「そりゃ、陸上は人気もあるし花形だからね」 火に油を注ぐようなことをサラリと言ってのけたのは河野一郎。 河野は早稲田出身で箱根駅伝にも出場経験がある。 政治は益々ヒートアップする。 「ストックホルムから三大会メダルを逃すなんて恥さらしも良い所!」 三十半ばの金栗四三がメダルなど取れるワケがない。 政治は怒りを爆発させるのであった。 いだてんのあらすじ第25話中巻~田畑政治の活躍~ 図らずも三度目のオリンピックへの出場となった金栗四三。 しかし、政治の言葉の通りやはりいだてんと言えども既に三十半ば。 途中32キロ地点で倒れてしまい棄権という結果に終わる。 スポンサードリンク 一本背負い 「競技人生に悔いはありません」 図らずも出場することになった巴里オリンピック。 四三は途中棄権に終わったものの、帰国後の報告会では晴れやかな表情で胸を張る。 しかし、色々とご不満な男が一人。 「陸上は出場選手が多い割りには成果が全く奮わないのは如何に!!!」 政治は体協の「陸上贔屓」を糾弾する。 体協の主事となっていた野口は報告会の壇上で土下座して詫び責任を取って辞職すると言うが・・・。 「あんたじゃ話にならなん!名誉会長の嘉納治五郎を出せ!」 報告会は騒然となる。 当の嘉納治五郎は報告会にも出席しているのだ。 嘉納治五郎は初めて見る政治の剣幕を面白がっている様子だ。 それに気付いた政治が掴みかかって来るが・・・ 「あーれー」 見事に一本背負いを決められてしまう。 「バカ!この人が嘉納治五郎先生たい!」 四三の言葉に政治も一瞬たじろぐが、これから水泳は自分達でやると息巻いて退出するのであった。 水連発足 この年、政治は東京帝大で水泳部顧問を務める松澤一鶴と「大日本水上競技連盟」を発足させる。 名前は立派で仰々しいが、本部は帝大工学部倉庫の一部を間借りである。 「温水プールは必須・・・」 政治も日本泳法でその人ありと言われる松澤も温水プールの必要性は痛感している。 夏場しか練習が出来ないようではとても世界とは戦えないのだ。 しかし、そんなモノを造るカネも場所も・・・。 「これは・・・」 帝大工学部の倉庫には船舶の水流実権用の巨大な水槽が設置されている。 二人は水槽を見つめ同じ事を思う。 「温水プールに流用出来ないか・・・」 この水槽は20メートル程度の広さはありそうだった。 いだてんのあらすじ第25話下巻~アムステルダムオリンピック~ 政治は本業の「政治部記者」としては鳴かず飛ばずであった。 しかし、上司の緒方は彼を可愛がりよく馴染みのバー「ローズ」へと連れて来ていた。 ローズのママ「マリー」は占いもやるのだが、政治の運命を「30歳までの命」と喝破。 代々、早死にが多い政治家系である。 生きている内に何事かを為したいと強く思うのであった。 温水プール 大正が終わり昭和2年(1927年)。 ようやく復興も進みつつあった東京に翌年に迫ったアムステルダムオリンピックへの招待状が届く。 選手選考に関しては水泳は「水連」が陸上についてはほぼ同時期に発足した「陸連」が行う。 しかし、ストックホルムの時代から比較すれば体協も大きくなったとはいえ、まだまだ、潤沢な資金があるとは言えなかった。 陸連と水連は渡航させるメンバーで鋭く対立。 この己の立場のみ主張する生産性のない応酬に体協会長の岸は怒りを爆発させる。 「渡航費を持って来れば何人でも連れて行く!」 政治の人生は残りあと僅か(だと信じていた)である。 そんな時に政治に嬉しい知らせが入る。 東京帝大に温水プールを造ったと松澤が知らせて来た。 元々あった実験用水槽に医学部で使うスチームも引いたのだ。 俄然、やる気が出ていた政治は資金集めにある作戦を立てる。 渡航費確保 「どうも、水連ですが・・・少々お裾分けに・・・!」 体協の誰もが驚いた。 政治は6万円もの渡航費を時の大蔵大臣高橋是清から引き出していたのだ。
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