2014年夏イベントと共に実装され、今やイベント海域では恒例となった連合艦隊の概要と具体的な編成方法についてご紹介します。 今後もイベント海域では連合艦隊での出撃が予想されるためイベント攻略を目指すには必須です。 連合艦隊とは 連合艦隊はその名の通り、第一艦隊と第二艦隊を合わせた最大12隻の艦娘を一つの艦隊として編成、出撃して戦闘を行うシステムです。 編成には戦艦・重巡などの高火力艦を中心とした水上打撃部隊と、航空母艦(空母)を基幹とした空母機動部隊があり、それぞれ編成条件が異なります。 連合艦隊編成の操作方法• 編成画面で第2艦隊を表示、左上の艦隊番号「2」をドラッグして「1」に重ねる• 「水上部隊」または「機動部隊」を選択• 第1艦隊と第2艦隊が囲まれ「combined」と表示されたら編成完了 連合艦隊の注意事項 連合艦隊には通常の艦隊と異なる以下の特徴があります。 連合艦隊専用のマップにのみ出撃可能• 第一、第二艦隊とも潜水艦を旗艦にすることはできない• 第1艦隊・第2艦隊旗艦のどちらかが中破以上だと出撃できない• 戦闘後のMVP判定、取得経験値は第一艦隊、第二艦隊それぞれ別で判定、計算される• 航空戦への参加は第一艦隊のみ• 防空には第一、第二艦隊ともに参加するため対空カットインの判定は両方ともあり、敵の航空攻撃も両方受ける• 雷撃戦、開幕雷撃への参加は第二艦隊のみ• 第一艦隊は敵味方双方いずれかに戦艦系がいると砲撃戦が2巡する• 第二艦隊は戦艦の有無問わず砲撃戦は1巡のみ• 夜戦への参加は第二艦隊のみ• 夜戦でも潜水艦へのダメージがまともに通る 水上打撃部隊 戦艦・重巡洋艦などの高火力艦を中心とした連合艦隊です。 火力・装甲の高い艦を多く編成することができるため装甲の厚い敵が出現する海域に適しているほか、 砲撃戦が第一艦隊から始まるため装甲の薄い第二艦隊への被害を抑えやすく、戦闘回数が多くなってしまう海域も比較的有利に戦うことができます。 空母機動部隊 空母の航空戦力を基幹とした連合艦隊です。 航空戦を担当する第一艦隊に最大4隻の空母を入れることができるため制空値の上限が非常に高く、水上打撃部隊に比べて戦艦が少ないため消費燃料・弾薬が少なめです。 砲撃戦が第二艦隊から始まるため一撃大破などの事故は起こりやすくなっています。 輸送護衛部隊 第一艦隊 必須条件:駆逐艦最低4隻 艦種 下限 上限 備考 駆逐艦 4 6 軽巡洋艦 0 2 航巡 0 2 航空戦艦 0 2 水母 0 2 揚陸艦 0 1 補給艦 0 1 その他 0 0 投入不可 第二艦隊 必須条件:軽巡or練巡1、駆逐3 投入不可:低速戦艦、正規空母、航空戦艦 艦種 下限 上限 備考 軽巡、練巡 1 3 旗艦軽巡必須 駆逐 3 5 重巡・航巡 0 2 その他 0 0 投入不可 陣形 連合艦隊では選択できる陣形が通常艦隊のものとは異なります。 各陣形の効果は明らかになっていませんが、それぞれ通常艦隊の陣形のいずれかに対応していると考えられています。 基本的には第四警戒航行序列 戦闘隊形 、敵が潜水艦隊の時のみ第一警戒航行序列 対潜警戒 で良いかと思います。 また、連合艦隊での陣形は第二艦隊の艦娘の数が選択条件となっています。 そのため後述する護衛退避などで艦数が減った場合は一部の陣形が選択できなくなる場合があります。 陣形 対応通常陣形 用途 第二艦隊の数 第一警戒航行序列 対潜警戒 単横陣 対潜水艦隊 3隻以上or制限なし 第二警戒航行序列 前方警戒 複縦陣 敵が水上艦&潜水艦の混合編成 第四選択不可時 制限なし 第三警戒航行序列 輪形陣 輪形陣 対空特化戦闘 5隻以上 第四警戒航行序列 戦闘隊形 単縦陣 対水上艦、ボス戦 4隻以上 護衛退避 第1艦隊旗艦が装備品『艦隊司令部施設』を装備している場合のみ、第1艦隊、第2艦隊ともに旗艦以外が戦闘中に大破した際、小破未満の駆逐艦1隻を護衛につけて、大破艦と護衛艦を以降の戦闘から退避させることができます。 退避した艦娘は両方とも赤疲労(正確にはcond22と帰投時のcond-15によりcond7)となり、燃料も0になります。 以下注意点とよくある勘違い。 護衛退避は護衛艦にできる駆逐艦がいる限り1出撃中に何度でも使用可能ですが、 『1度の戦闘につき退避できる大破艦は1隻まで』。 1度の戦闘で2隻以上大破艦が出ても大破艦を2隻以上退避させることはできない。 大破艦・護衛艦ともに自動選択されプレイヤーが選ぶことはできない。 第1艦隊・第2艦隊ともに『旗艦』は大破艦、護衛艦共に離脱できない。 大破艦の『退避』と艦隊の『撤退』は勘違いしやすいので要注意。
次の戦争: 年月日:- 場所:・・(メレヨン) 結果:アメリカ軍の勝利 交戦勢力 指導者・指揮官 戦力 1, 5 8, 2 2, 補助艦船多数 航空機 約270 11, 戦艦 6 巡洋艦 15, 駆逐艦 48 9 航空機 約700 損害 沈没・擱座 駆逐艦 1, 哨戒艇 1 駆潜艇 1, 小型艇 16 支援艦 9, 輸送船 16 損傷 戦艦 1, 哨戒艇 1 駆潜艇 1, 支援艦 1ほか 撃墜・全損 航空機 147 沈没 潜水艦 1 損傷 潜水艦 1 撃墜・全損 航空機 25• パラオの地図。 パラオ本島(コロール島・バベルダオブ島)に艦隊泊地、ペリリュー島に主要飛行場があった。 1944年(昭和19年)2月のにより、日本艦隊は、それまでの前進根拠地だったトラック泊地の使用継続が困難となった。 そこで、3月8日に発令された新たな作戦計画のでは、パラオ泊地(パラオ本島=・)がトラック泊地に代わる前進根拠地となった。 連合艦隊司令長官の古賀峯一は、連合艦隊であるに座乗して自らパラオに進出し、主力(軍隊区分では遊撃部隊と呼称)の5隻(愛宕、高雄、鳥海、妙高、羽黒)・3隻を率いて作戦に備えた。 空母部隊であるは日本本土やで再建中だった。 艦隊の後方支援のためやなどの支援艦船もパラオに集まった。 また、パラオはニューギニアや(当時の日本軍呼称はメレヨン島)方面への補給の中継地でもあったことから、多数の陸海軍徴用輸送船も寄港していた。 なお、パラオ近くの有望泊地としてもあったが、日本海軍は観測所を置いた程度で本格利用はしていなかった。 パラオ方面にいる日本の基地航空隊は、編成間もない隷下の部隊が中心で、で消耗して再建中の第6空襲部隊(第26航空戦隊)に属する31機・20機などがに駐留していたほか、第2空襲部隊(第22航空戦隊基幹)のうち戦闘機30機・陸攻4機がウォレアイ環礁およびにいた。 またの戦闘機約100機・陸攻34機・約12機などが、各地に展開していた。 本空襲に対応するための陸攻がなどからも飛来しており、以上を合計するとパラオ大空襲時の日本側航空兵力は海軍機約270機であった。 連合軍のホーランジア反攻計画 [ ] 太平洋方面での連合軍の対日反攻経過。 太平洋方面の連合軍は、海軍を司令官とする太平洋正面からの経路と、陸軍を司令官とするニューギニア伝いの経路の、2方向から対日反攻作戦を実施していた。 1944年2月下旬、マッカーサー大将は次のによる攻略目標としてニューギニア北岸の(現在の)および()を選び、4月15日(その後22日に延期)を上陸日と計画した。 ホーランジアは既存の連合軍拠点から遠いため、ニミッツ配下の高速空母機動部隊であるアメリカ海軍(司令官:)が航空支援に協力することとなった。 第58任務部隊には上陸当日の航空支援に加え、パラオ周辺に集結中の日本海軍の艦隊を事前に排除する任務が与えられた。 アメリカ軍は、パラオ所在の日本艦隊がホーランジア攻略作戦にとって深刻な脅威になると考えていた。 このパラオ攻撃は、日本海軍の水上戦力及び航空戦力の撃滅そのものも目的としていた。 第58任務部隊によるパラオおよびヤップ島・ウォレアイ環礁・ウルシー環礁への空襲作戦は、ディセクレイト・ワン作戦(: Operation Desecrate One)と命名された。 作戦参加兵力は、大型空母5隻(、、、、)・小型空母6隻(、、、、)を中心に、戦艦6隻(アイオワ、ニュージャージー、ノースカロライナ、サウスダコタ、マサチューセッツ、アラバマ)などの強力な護衛部隊が随伴することになった。 なお、上陸直接援護のためのホーランジア空襲はディセクレイト・ツー作戦(: Operation Desecrate Two)と命名されている。 また本作戦の支作戦としてインド洋でイギリス海軍によりが行われた。 戦闘経過 [ ] 機動部隊の接近 [ ] メジュロ環礁に集結したアメリカ海軍空母機動部隊。 1944年の撮影だが、本作戦時の写真かは不明。 第58任務部隊は、3月22日に集結地点のを出撃し、パラオへと向かった。 途中3月26日に給油艦9隻と会合して洋上補給を受けた。 28日にも給油艦4隻を含む第50. 15任務群(その他に護衛空母4隻・重巡3隻・駆逐艦12隻)から洋上給油を受けた後、第58任務部隊は3つの任務群に分かれ、攻撃隊の発進地点へと向かった。 アメリカ海軍は、不時着した友軍パイロットの救助と脱出する日本艦船の撃破のため、部隊も展開した。 パラオ周辺に7隻、ヤップ島とウォレアイ環礁近海に1隻ずつが配置された。 このうち、パラオ沖にいたが3月26日夜にパラオに入港しようとする日本のを襲撃したが、発射したの自爆により沈没してしまった。 日本海軍は、アメリカ機動部隊の行動を早くから察知していた。 第58任務部隊のメジュロ出撃翌日には、輸送任務中の潜水艦によって偶然に発見していた。 連合艦隊司令部は、トラック基地航空隊による3月25日・26日の敵艦隊発見報告、の結果をふまえ、パラオへの空襲の公算が大きいと判断した。 28日にはパラオまで750(1389km)のウォレアイ南方に迫っているのが航空偵察で確認されたが、連合艦隊司令部はまだ時間的余裕があると見ていた。 他方、パラオ守備隊であるは独自の判断を採り、輸送船団の一部を29日に繰り上げ出航させた。 3月29日朝、ペリリュー島から発進した日本軍偵察機が、第58任務部隊を発見した。 連合艦隊司令部は急遽パラオの陸上に移動し、旗艦武蔵と船団護衛任務で寄港中の第17駆逐隊(、、、)などを遊撃部隊に編入してへの退避を命じた。 夕刻にパラオを出た遊撃部隊(武蔵、愛宕、鳥海、高雄、春雨、白露、満潮、藤波、浦風、磯風、谷風、浜風 )は、待ち伏せていたアメリカの潜水艦の襲撃を受けた。 武蔵が1発を受けて損傷し、駆逐艦3隻(白露、満潮、藤波)を連れて修理のためへと向かうことになってしまった。 他方、同じ連合艦隊所属でも支援艦船は港内待機を命じられた。 その他の一般輸送船は第30根拠地隊が緊急出港させようとしたが、準備が間に合わず30日未明出港となった。 日本の基地航空隊は、ペリリュー島に一航艦から増援を送るなどして迎撃態勢を整えた。 29日夕刻に陸攻10機・艦爆5機による先制の攻撃隊が出撃し、重巡1隻撃沈や空母・戦艦各1隻撃破などの戦果を報じたが、アメリカ側の記録によれば被害はない。 日本側は陸攻6機・艦爆3機を失った。 3月30日の空襲 [ ] 炎上するペリリュー島の日本側地上施設。 3月30日午前6時30分、パラオ南方90海里(約167km)の地点に到達した第58任務部隊は、パラオに向けて第一次攻撃隊を発進させた。 空襲開始時のパラオ本島では、などが護衛するネ003船団(あさしほ丸以下加入船3隻)がへ 、駆逐艦やなどが護衛するパタ07船団(五洲丸以下加入船7隻)がへ脱出しようとしていたが、泊地の内外で攻撃を受けてしまい 、いずれもほぼ全滅した。 連合艦隊司令部から残留指示を受けていた船舶は、第30根拠地隊の指導で攻撃困難と思える地点に隠れたが、これもほとんどが碇泊したまま撃沈された。 でも小型艇9隻が撃沈された。 アメリカの空母、、から発進した航空隊は、艦船や地上施設に対する攻撃に加え、パラオの港内や周辺への投下を行った。 これは、実戦においては史上初の空母搭載機による機雷敷設であった。 同様の航空機雷敷設は、4月1日まで通常の空襲と並行して行われた。 対する日本側航空部隊は第58任務部隊に対する攻撃を計画していたが、離陸時の事故で中止となった。 日中は戦闘機30機以上が迎撃戦闘に従事したが、ほぼ全滅した。 地上での損害も続出し、ペリリュー島駐留の26航戦は壊滅状態に陥った。 一航艦や22航戦などは、サイパン・グアムから約70機の攻撃隊を発進させて、攻撃後にペリリュー島へ着陸する薄暮攻撃を実施した。 巡洋艦1隻撃沈や戦艦1隻・巡洋艦2隻撃破などの戦果を報じたが、アメリカ側に該当記録はない。 攻撃隊は敵戦闘機の迎撃を受け、空中戦や着陸事故で約25機が使用不能となった。 連合艦隊司令部は、第58任務部隊に反撃するため、トラック島や本土にいる潜水艦部隊に出撃を命じた。 また、第三艦隊に対してもへの出動準備を命じるとともに、その空母搭載機部隊であるに訓練を打ち切ってダバオへ進出するよう命じた。 この日の夕刻、福留繁連合艦隊参謀長は、連合艦隊司令部のパラオからの移動を決めた。 午後6時に、迎えの3機をダバオへ待機させるよう命令を発している。 3月31日の空襲 [ ] 3月31日も、第58任務部隊はパラオへの空襲を続けた。 ただし、第58. 1任務群だけは、ヤップ島およびウルシー環礁に向けて攻撃隊を発進させた(を参照)。 残っていた艦船の多くがとどめを刺され、特設第5日正丸、2隻や輸送船4隻などがこの日に沈没ないし擱座した。 ペリリュー島にはマリアナ諸島から一航艦の戦闘機46機が応援に到着していたが、正午までの迎撃戦闘で全滅した。 日本側航空隊は少数機の索敵攻撃で逆襲を試みたが戦果は無く、陸攻6機などが未帰還となった。 アメリカ軍の空襲終了後の午後8時、連合艦隊司令部移動用の二式大艇2機がダバオから到着した。 古賀司令長官以下の司令部要員は2機の二式大艇に分乗して、午後10時にあわただしくダバオへ向かって発進した。 しかし悪天候のため2機ともし、消息不明となってしまった。 周辺島嶼への空襲 [ ] 3月31日、第58任務部隊のうち第1群(第58. 1任務群)は、ヤップ島およびウルシー環礁の空襲を担当した。 この攻撃でヤップ島では地上施設や市街地の大部分が焼失した。 ウルシーでは観測所が炎上したほか、碇泊中の特設監視艇第1亀宝丸が擱座した。 4月1日には、第58任務部隊の全力でウォレアイ環礁を攻撃した。 日本側の損害はレーダーや通信設備が破壊されたほか、備蓄燃料の多くを焼失した。 飛行場も滑走路が穴だらけとなったが、翌日午後には復旧した。 第58任務部隊は4月2日に洋上給油を受けた後、4月6日にメジュロ環礁へ帰着した。 なお、は、第58任務部隊が北上して日本本土へ襲来することをおそれ、指揮下の部隊や本土方面所在の航空部隊に迎撃準備を指示していた。 警戒態勢は4月6日に解除された。 結果と影響 [ ] 本空襲で撃沈された工作艦の戦前の艦影。 (1939年撮影) 日本軍は、水上戦闘艦こそ事前退避で多くが難を逃れたものの、碇泊中の多数の支援艦船・輸送船の大部分が撃沈された。 主な水上戦闘艦では駆逐艦・哨戒艇各1隻が沈み、支援艦では工作艦2隻・給油艦6隻など9隻が沈没、給油艦1隻が損傷、徴用輸送船も陸海軍合わせて15隻が沈没または擱座した。 支援艦・輸送船として徴用中の商船損害は、戦史叢書によると計21隻で8万4千総トンに達する。 各種支援艦の中でも、日本唯一の本格的工作艦であった明石の撃沈が、日本海軍の艦船整備能力を著しく低下させる最大級の痛手だった。 また、7隻もの給油艦の損害により連合艦隊の機動力は激減し、以後のなどにおいて日本海軍にとって厳しい足かせになった。 航空部隊の損害も計147機喪失と大きく、26航戦の再建は保有機をほぼ全損して振り出しに戻り、次の決戦の主役に予定された一航艦も実動兵力の半数を失ってしまった。 一方、アメリカ軍の損害は航空機25機喪失のほか、支援のため行動中だった潜水艦のタリビーが沈んだのと、友軍機の誤爆で潜水艦のタニーが軽微な損傷を負っただけであった。 撃墜された航空機の搭乗員44人のうち、26人までは友軍によって無事救助された。 パラオの基地機能は、支援艦や航空部隊の壊滅により失われた。 日本軍はウルシー泊地の使用も断念し 、ダバオへ逃れていた遊撃部隊は、4月5日にはるか西方のまで後退した。 アメリカ軍は日本艦隊主力の捕捉にこそ失敗したものの、遠く追い払ったことでホーランジア攻略の妨害を予防するという戦略目的を十分に達成したといえる。 この後第58任務部隊は4月22日のホーランジア攻略に参加した()。 アメリカ軍機の置き土産である機雷は容易に処理できず、パラオの基地機能喪失を長引かせた。 パラオ泊地に出入りする主要水路であった西水道とマラカル水道は放棄され 、ヨオ水道と港内だけが4月23日にようやく掃海完了と判定された。 この間、4月9日に病院船が触雷により擱座している。 アメリカ軍が使用したのは接触により作動する旧式機雷ではなく、磁気変化に反応して起爆する感応機雷で、日本軍は適切に対応できなかった。 パラオ空襲は、日本の連合艦隊司令部の遭難という事態も引き起こした。 古賀司令長官は殉職し、を巡る大混乱が生じた。 福留参謀長は生還したものの、連合軍側により一時拘束されて、新Z号作戦の作戦要領や暗号書など重要機密書類を奪われてしまった。 ( 詳細はを参照。 ) このほかのパラオ大空襲の影響としては、日本軍にパラオまたはフィリピン南部攻略の可能性が高いとの誤った予想を抱かせ、による緊急防備強化が決定されたこと。 その反動としてマリアナ諸島の防備強化の優先順位が下げられたこと。 再建中の第三艦隊第601航空隊に反撃のための移動命令が出され、訓練が中断されてしまったことなどが挙げられる。 いずれもその後の戦局に重大な影響であった。 日本軍の敗因 [ ] 日本軍が1月半前のトラック島空襲の二の舞ともいうべき大損害を出した原因については、せっかく事前に敵機動部隊の接近に気付いていながら迅速な対応を行わなかったことや、戦闘艦以外の支援艦船や輸送船の退避が徹底しなかったことなどが指摘されている。 初動が遅れた点に関して、は敵艦隊が750海里まで迫っているのに福留連合艦隊参謀長は余裕があると判断していた事実を問題視し、低速な戦艦中心時代の感覚が身に染みており、高速の空母中心時代に対応できていなかったのではないかと評している。 また、船舶の避難が徹底しなかった点に関して、当時の軍令部次長は、(1)陸軍徴用船を管理するが反対したこと、(2)船長が第30根拠地隊の命令に服従する義務があるのか疑問を持っていたこと、(3)出航準備の進捗が遅く夜間となってしまい、船団指揮官が出港を断念したことを指摘している。 そして、「連合艦隊は避難に関して熱心でないように思う」とまとめている。 これに対し、吉田俊雄は、連合艦隊司令部が陸上に移動したり戦闘艦艇は避難させていることを指摘し、避難に熱心でなかったという評は不正確だと主張する。 吉田は、福留連合艦隊参謀長らの感覚が近代的な総力戦に合っておらず、工作艦や輸送船の価値を二義的なものと認識していたことが問題なのだと主張している。 船舶に対する退避命令の権限が問題になったことに関しては、その後、海上護衛総司令部が連合艦隊管理地域でも独自の退避命令権を有すると明確化された。 このほか、日本海軍による調査では、輸送船の船長らが出港を嫌った背景として、すでに手遅れであるから港内にとどまることで人命だけでも救おうと考えたという事情が指摘されている。 また、乗員がすぐに陸上に避難してしまったため、が十分にできなかったことも沈没船を増やした一因と分析している。 日本側艦船損害一覧 [ ] 沈没・擱座 擱座したものの一部は後に復旧。 戦闘艦艇• 正規艦艇 - 駆逐艦、、• 特務艇 - 、 、• その他 - 特設駆潜艇第5昭和丸 、特設第5日正丸、第2勢栄丸 、同第1亀宝丸• 支援艦船• - 、特設工作船浦上丸• - 、、、特設給油船あまつ丸、同あさしほ丸、同あけぼの丸• 特設神風丸• 輸送船• 海軍徴用 - 五洲丸(特設航空機運搬艦)、呉山丸、雷山丸、隆興丸、那岐山丸、第18真盛丸• 陸軍徴用 - 第2運油丸(タンカー)、北泰丸、てしお丸、備中丸、吉備丸(日之出汽船) 、吉備丸(栃木汽船) 、忠洋丸、昭勢丸、松栄丸• 小型艇(アンガウル島で沈没 ) - No. 3 Akita Maru、Chichibu Maru、Yae Maru、Toku Maru、Kiku Maru、Hinode Maru、Yamato Maru、Ume Maru、Akebono Maru 損傷 擱座に至らない損傷のうち主要なもののみを挙げる。 戦闘艦• 正規艦艇 - 戦艦、 、• その他 - 特設監視艇八紘丸• 支援艦• 特設給油船第2菱丸 脚注 [ ] 注釈 [ ]• ただし、によれば沈没または擱座した陸軍輸送船は全部で8隻であり 、同名船2隻がいたとすると計算が合わない。 日本語表記不明。 機銃弾により船体破孔150か所、爆雷装填台破損など。 出典 [ ]• Smith 1996 , pp. 19-20, 23. Smith 1996 , p. 129-130. 365. 木俣滋郎 『敵潜水艦攻撃』 朝日ソノラマ〈新戦史シリーズ〉、1991年 第2版、105-107頁。 防衛庁防衛研修所戦史室(1968年)、195頁。 防衛庁防衛研修所戦史室(1968年)、198頁。 防衛庁防衛研修所戦史室(1968年)、214頁。 19『 宛略 YB機密第〇二一二二五番電 YB〔4S 摩耶欠 5S 2sd 27dg 春雨白露 24dg 満潮 藤波武藏17dg〕ヲ率ヰ「パラオ」発途上武藏満潮藤波白露ヲ呉ニ向ケ分離 三日午前着ノ予定 爾余「ダバオ」着』• 防衛庁防衛研修所戦史室(1968年)、203-204頁。 『第三十六号哨戒艇大東亜戦争戦時日誌』、画像11・18枚目。 『昭和十九年三月三十日パラオ島付近戦闘詳報』、画像50-53枚目。 防衛庁防衛研修所戦史室(1968年)、205-207頁。 防衛庁防衛研修所戦史室(1968年)、200頁。 C08050010000、画像45-46枚目。 防衛庁防衛研修所戦史室(1968年)、208-209頁。 C08030270800• 防衛庁防衛研修所戦史室(1968年)、202頁。 大井(2001年)、221-222頁。 吉田(1984年)、226頁。 吉田(1984年)、227頁。 第三十根拠地隊 第二十二号駆潜特務艇 『第二十二号駆潜特務艇戦闘詳報 自昭和十九年三月三十日 至三月三十一日 西カロリン方面対空戦』JACAR Ref. C08030270400• 第三十根拠地隊 第三十六号駆潜特務艇 『第三十六号駆潜特務艇戦闘詳報 自昭和十九年三月三十日 至三月三十一日 西カロリン方面対空戦』JACAR Ref. C08030270400• 第三十根拠地隊司令部付 第五十三号駆潜特務艇 『自昭和十九年三月三十日 至昭和十九年三月三十一日 戦闘詳報』JACAR Ref. C08030269800• 第三十根拠地隊 特設駆潜艇 第五昭和丸 『特設駆潜艇 第五昭和丸 戦闘詳報 自昭和十九年三月三十日 至三月三十一日 西カロリン方面対空戦』JACAR Ref. C08030270200• 第三十根拠地隊 特設監視艇 第二勢栄丸 『第二勢栄丸戦闘詳報 自昭和十九年三月三十日 至三月三十一日 西カロリン方面対空戦』JACAR Ref. C08030270300• 『第三十六号哨戒艇大東亜戦争戦時日誌』、画像19-20枚目。 参考文献 [ ] 公刊書籍• 『海上護衛戦』 学習研究社〈学研M文庫〉、2001年。 戦史室 『マリアナ沖海戦』 〈〉、1968年。 『四人の連合艦隊司令長官』 文藝春秋〈〉、1984年。 Carter, Worrall Reed. , Washington DC : Department of the Navy, 1953. Roscoe, Theodore. United States Submarine Operations in World War II, Annapolis MD : Naval Institute Press, 1949. Smith, Robert Ross. United States Army in World War II: The War in the Pacific. Washington DC: United States Army Center of Military History, 1996. 公文書類 (JACAR)のウェブサイトで閲覧可能。 『昭和十九年三月三十日パラオ島付近戦闘詳報』 JACAR Ref. C08030622600、画像45枚目以降。 『自昭和十九年三月一日 至昭和十九年三月三十一日 第三十六号哨戒艇大東亜戦争戦時日誌』 JACAR Ref. C08030625200• 第10戦隊 『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌 5 』 JACAR Ref. C08030050400.
次のレイテ沖海戦もそうですが、その後の一連のレイテ戦役全体で、日本艦隊は大損害を受けてます。 例えば重巡の青葉はレイテ沖海戦そのものは生き延びたものの、多号作戦(陸軍の輸送作戦)で大破。 軽巡や駆逐艦も多く失われています。 さらに多くの乗務員も失われ、燃料も枯渇し、物資とドックの不足から損傷艦の修理もままならない状況です。 要するに、満足に稼動できる艦が激減しています。 例えば戦艦で見ると、レイテ戦役の後に健在だった戦艦は、大和、長門、榛名、伊勢、日向くらいですよね。 この内、長門と榛名は損傷で要修理、伊勢と日向は航空戦艦(実質的に補助空母)になっているので、そのまま戦艦として行動できるのは大和だけです。 (長門と榛名は事実上の修理放棄) 空母にしても、すぐに稼動可能な中型以上の空母はほとんどなく、あっても航空隊は陸上基地航空隊に転用済みです。 巡洋艦も似たような状況で、少なくとも英米の主力艦隊と戦えるような状況ではないわけです。 これって、壊滅と言われても不思議ではないですよね。 これには裏があり、日本海軍はマリアナ戦後から、艦隊を捨て始めています。 艦隊の維持には膨大な重油等の物資が必要なわけで、それは航空隊や輸送任務に振り替えた方が得なのです。 レイテ戦や沖縄戦で、艦隊が自殺的な任務を強要されているのは、既に維持するつもりのない戦力を最大限に活用して使い捨てるつもりだったからです。 この時期の日本海軍にとって、戦力とは陸上基地航空隊であって、艦隊は無用の長物でした。 まとめると、レイテ沖海戦直後の状況なら、それなりに生き残り艦はありますが、損傷艦も多いです。 そのまま輸送/補給などの一連の作戦が始まり、米軍の空襲も激化、損害は拡大していき、燃料などの不足もたたって、艦隊は実質的に壊滅してしまったわけです。 同時に、日本海軍も艦隊が壊滅するに任せたのも事実です。 偏差値70が艦隊について御答えさせていただきます。 貴方のおっしゃる通り残存艦艇は戦艦も空母も残っていますよね。 まず連合艦隊とは第一艦隊第二艦隊、航空艦隊、特務艦隊、方面艦隊、などの艦隊群の総称ですよね? それぞれの艦隊はそれぞれの任務や攻撃目標に合わせた編成がなされています。 例えばレイテ海戦において各作戦艦隊は壊滅し、各艦隊の残存艦艇の寄せ集めしか残されてない場合、新たな目標に向けた最適な艦隊編成を組む事が不可能になりますのでまず、作戦行動が可能な編成が可能な艦隊が存在しない時点で連合艦隊の艦隊が存在しませんので壊滅となるんです。 複数の艦隊行動というのも一理あるわけですが、レイテによる連合艦隊の事実上の壊滅は、もはや残存艦艇の寄せ集めでは目的に対する最適な作戦行動が可能な艦隊編成がもはやできないという意味での事実上の連合艦隊の壊滅という意味合いが強いのです。 まあ現実的にいえば空母あっても乗せる航空機もほとんどない状態でした。 またあっても、その空母を護衛する巡洋艦も適数存在せず。 ということであの残存艦艇はただ戦艦、空母がまだあったという程度で、艦隊を編成できるレベルにはありませんでした。 事実上の完全なる艦隊がもはや存在しない事による連合艦隊の壊滅ということです まー長門をはじめ内地にいた空母も修理中ですし、レイテ生き残りも損傷だらけでしたしね。
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