推し 担当 違い。 17ライブの推しマークとは?意味や使い方、推しマーク一覧まで|ライブ配信.net

推し・推し事・推し活・自担…とは?【初めてのジャニーズ】

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同担の友達は多い方ですか??? わたしはたぶんどちらかというと多い方だと思います。 何をもって多いとするか、とかまあ色々あると思いますし、わたしはいかんせん推しているところが3つあるので、またちがったりするのかもしれません。 今回、同担云々の話を書こうと思ったのは、「同担に晒されたり色々して降りた」という俳優ファンの方のをRTからお見かけしたところから始まっているわけなんですが、わたしに特別何かあったというわけではないのですが、今回はこれについて考えてみました。 しかも下書き書いてからしばらく放置してしまったので、ターさに欠ける…。 さて、タイトルの話ですが、 わたしは同担拒否でも推し被りNGでもありません。 でも担当によったり、推しによったりで同担の友人の割合って結構変わるよなあと思い、ちょっと考えてみました。 あとは相方とかにもよるのかもしれません。 ほぼ同担。 3番目に多い。 感覚的には「相方と同担」の友人が多い。 それまでは同担の友人とは、遊んだり、鑑賞会したり、ジャニショ行ったり、自担の出ている映画を観に行ったり、という経験はあるのですが、ライブ、イベントなどに行ったことはありませんでした。 また、同担の友人と、エイトのメンバーの舞台に行ったことがあるのですが、その子ともエイトでは同担ではありませんでした。 また、ライブに頻繁に行き始めた頃から相方が固定されていたことも関係あるかもしれません。 で、です。 推し被りと推しを見に行くと何が起きるか。 ここが最近一番変な感じがしているところなのですが、 本当に同じ人と同じものを見ていたんだよね????? と言いたくなるような顕著な違いがあります。 もちろん同じ推しを、同じライブを見ているのです。 ただ、 「かっこいい」と思って見ている人と、 「かわいい」と思って見ている人では、見ているものは同じでも、見えているものが違ってくるようです。 あ、云々の話は一度置いておいてください。 性格が、歌が、など好きな理由は色々あるとはいえ、 その担当や推しを形容する言葉が「かっこいい」か「かわいい」に偏っている場合、同じようには見えていないのです。 たとえば。 「ぺろってしたかわいい!」と「舌なめずりしたかっこいい!」とか。 「無邪気に走ってるかわいい!」と「足速いかっこいい!」とか。 ちょっとよくわからない例ですが、 もうなんでも見え方が変わってしまうわけです。 こんな感じなので、ライブ後に感想を言い合っても全然分かり合えなかったり 笑 その結果、相方がたどり着いた表現が 「最高」でした。 これなら共感できますが、たぶん実際は違うように感じていることでしょう… 笑 実際のところ、 「かっこよくてかわいい」を形容させている共存層がかなりの数いるのでその場合は、「わかる」となったりもするのでしょう。 わたしの周りの友人たちサンプルで考えると、エイトの場合、わりとかっこいい派とかわいい派にぱっかり分かれがちなのは、大倉担というイメージです。 共存層の最大派閥は安田担でしょうか? 同担の友達だから、分かり合えることがあるというのはもちろんあるのですが、同担の友達だから分かり合えないというのもまた真なり、です。 担当語りとかではないあたりの話だと、同担や推し被りとライブとかに入って思ういいことは、 お互いの優先順位が合致することですね!! たとえば、の場合、ライブでの立ち位置が上手・下手・センターで固定のため、座席指定ではないフェスなどで観る場所も推しが被っていれば、その点は悩む必要がありません。 その中でどこが、を言い始めれば揉めるかもしれませんが。 ジャニーズの公演でも立ち位置で席を選んだりする方はここ重要だったりするのかもしれません。 担当の動線が同行者の担当と全然違うからチケット探しづらいと言っていた友人もいました。 あとは、担当や推しのソロ活動のときに一緒に全力で申し込みができるところとかもよいことだと思います。 相方が担当外で行かない公演の申し込みをお願いする申し訳なさや、担当外だけど行きたいみたいな場合の気まずさみたいなものもありません。 もちろん同担だから、推し被りだから、優先順位がズレたり、全力に差が出ることもあるでしょう。 些細なはなしですが、同担、推し被りの場合、くじやガチャ系の交換とかがなかなかできなかったりもしますね。 エイトは最近無縁ですが、以前のセブンくじだったりは相方と交換したり、引き取ってもらったりもできていましたが、推し被りだとグッズが被ったりがなければなかなか交換できません。 の発達した社会ではあまり問題ではないですかね。 まあ、でるまでやればいいんでね!問題ないです。 実際はそうもいかないこともあったりしますけどね! でのファン対象で自担についてのアンケートを行なっている方がいらっしゃいました。 結果がどのように公開されるのかわかりませんが、自担かっこいいorかわいい問題などについても言及されたアンケートだったので、結果が楽しみです。 まあなんだかんだ色々あったりはしますが、結局のところ、 自担も推しも最高!ですよね?.

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アニメ「推し武道」エンディング曲の桃色の片思いを歌ってるのは誰?原曲と違いについても

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多くの人が挑戦したであろう、「自担」と「推し」の違いについて挑戦したいと思う。 私の語彙力は周りのブロガーに比べるとゼロに近いが、それでもやりたい。 のでやる。 「自担」について ジャニオタ用語の「自担」。 内のにはこう書いてある。 ジャニーズ用語。 自分が担当、すなわち好きな、または応援しているメンバーの事。 女性アイドルで言えば「推しメン」。 自分が 「好き」で 「応援している」メンバー メンバー、ということだからこの場合この「自担」と言われている人は複数人いるなんらかの所属していることになる。 だから自担は そのグループ内で一番応援している人、ということになる。 「推し」について だとしたら推しはなんなのか。 女性アイドルでいう「推しメン」がジャニーズ界隈でいう「自担」と定義付けられている。 でも私は「自担」と「推し」は別の枠で語られている。 なので、自分なりに推しについて考えていく。 まず、「推す」という言葉だが、デジタルにはこう書いてある。 人や事物を、ある地位・身分にふさわしいものとして、他に薦める。 推薦する。 なので、「推せる」というのには、他人に薦められる、ことを指すから 、「他人に薦めても恥ずかしくない、むしろ他人に知って欲しい」という意味が「推し」には含まれている。 「推し」についての自論 推し増しという言葉がある。 推し増しは、ある人を推す状態を変えずに別の人も推すことを指す。 推しは増える。 確かに増える。 そして元から複数いる場合もいる。 この、推し増しが今回のキーワードとなる。 「推し」に対してどういうことを考えているのか。 ということに今回はスポットを当てていく。 ある人に対してはかっこいい、付き合いたい。 ある人に対しては可愛い、応援したい。 ある人に対しては歌が上手い、だから聴きたい。 ある人に対しては声が好き、だからもっと聴きたい。 ある人に対しては演技が好き、だからもっと色んな演技を見たい。 かっこよくて、歌もうまいし演技ができる人は推しになる。 かと言って、顔も歌も微妙だけど演技と声が好きな人も推しになる。 別にさほど他の推しに比べて興味が無くても、その日パフォーマンスが良かったり、対応が良かったら推しになる。 推しに対しての求めている「ハードル」が低いのだ。 ちょっとでも、「良い」と思うと、「好き」に繋がる。 「好き」と言う言葉には様々な重みがある。 この、「推せる」にはフランクな好きな意味がある。 ただここから重くなって行くパターンもある。 そして、もっと見たい、もっと聞きたい、もっと知りたい、そうなって深入りしていく。 この深入りすることに関してはまた後日で。 この推しとハードルについて言及する。 推しへのハードルが低いということは求めているハードルも低いということである。 ライブが始まる前などに「こういうことをして欲しい」という期待値が低い。 これは悪い意味ではないし、求めていないというわけではない。 ただ、「会える!やったー!」くらいのフランクな気持ちで行って「今日もかっこよかった!ハッピー!」で帰れる。 求めていることがないということは、期待値が0であるが故に少しでも良いパフォーマンスをしてくれると「ハッピー」に繋がる。 そして各推しに求めているものは違う。 だから推しが増える=推し増しに関して私は悪いと思わない。 推しは偶像であり、彼氏であり、神である。 そして推しの前では私はファンであり、彼女であり、神の前に祈る聖職者であるのだ。 私の日常生活を華やかにしてくれるのが推しなのである。 軽い気持ちで会いに行ける、好きでいられるのが「推し」なのだ。 自担についての自論 ここからが本日の本題となる「自担」 自担に関しては上記で述べたハードルの話を持ち出そうと思う。 自担に対して求めているハードルが高い。 それはなぜかと言うと、 「自担は人生」だからである。 自担とはその人を一番応援しているという意味がある。 最推しと言っても過言ではない。 でも何か違うのだ。 最推しと自担は決定的に違う。 なぜなら自担に対して期待しているからだ。 私は自担にはある一定以上のことを求めている。 1つはビジュアル 1つはライブなどのパフォーマンス 1つは歌唱力や演技など実力 そのほか日常とか女関係とか諸々あるが、とりあえずこれ。 かと言ってこれら全て完璧でなきゃいけないわけではない。 「前髪切りすぎ!」と怒ったりするし、「キャラ忘れてる」と演技についてケチつけたりもする。 でも仕方ない。 だって相手は人間だし、私も人間だからだ。 私は自担に対して常にモンペになれない。 確かに、確かに、すごくかっこいいライブの後とかはモンペになる。 なってしまうよ、かっこよかったから。 常にモンペではなのはただの全肯定厨だ。 かと言って貶し愛というわけでもない。 この二つにおいては過去のブログを参考にしてもらいたい。 話を戻そう。 なぜ、自担が人生なのか。 それは自担に対して全てを捧げる覚悟を自分の中で決めているからである。 これから先、担降り、担替えなど様々なことがあることはわかっている。 でも今この時、この瞬間、優先順位の一番は自担なのだ。 かと言って全てにおいて優先する訳では無い、一個人としての予定や金銭的都合など様々な理由で彼を応援できない瞬間がある。 けれどもその瞬間は推しに比べてかなり少ない。 そういうことなのだ。 自担が最推しと似て非なる理由としてもうひとつ挙げるとしたら、彼らに対して勝手に、私が、人生を救われているというところもある。 例えば嫌なことがあったり、死にたいた思ったことがあった時、生きようという理由になった人だったりする。 この人に会うまで死ねない、このイベントがあるからまだ生きないと、と超絶勝手に理由をつけて生きているのだ。 私の場合、受験失敗して落ち込んでる時にたまたま聞いたラジオが面白くて元気貰ったとか、 死にたいと思った時に聞いたその言葉が刺さったとか。 これはもうどのオタクでもある事だと思う。 現に周りでもある。 自担に対しては「恩」を感じているのだ。 生きる理由をくれたこと、好きでいる幸せも辛さも教えてくれたこと、自分の生活に意味を与えてくれたこと。 全部自担がくれたのだ。 自担を応援するのには理由がない。 好きなのだ。 純粋に自担が好きなのだ。 好きだからこそ嫌なところに目がつくから文句も言ってしまう。 それは許して欲しい、だって私は全肯定ではない。 推しに比べて自担を好きになるきっかけは明確である場合が多いと思う。 みんな自分の胸に手を当てて考えて欲しい。 話をまとめよう。 自担は自分の人生に意味を見出し、輝かせてくれる人 推しは自分の生活を華やかにしてくれる人 それが私の結論である。

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推しと自担の違いについての自己解釈

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「三国志」と「三国志演義」の違いとは? 第一人者による2冊の事典でまるわかり 文:北林のぶお 写真:斉藤順子 三国志には2種類ある。 一つは、3世紀に書かれた『三国志』で、正史(国家の正統を示す史書)とされる。 魏・呉・蜀の三国を彩る英雄たちの記録は、他の史料や説話も加えてストーリーを形成しながら伝えられ、明代に『三国志演義』が成立した。 歴史書の「正史」と小説の「演義」は、さまざまな解釈が議論のテーマになるだけでなく、文学や映像などの新たな作品を生み出してきた。 その内容の違いをわかりやすく示し、名場面や資料などをまとめた『三国志演義事典』(大修館書店)。 著者の2人、三国志研究の第一人者である渡邉義浩さんと、三国志演義研究者の仙石知子さんに話を聞いた。 中国・天津にある名門大の南開大学中文系を卒業し、大東文化大学大学院で中国学、早稲田大学大学院で文学の学位を取得。 専門は明清時代の小説。 著書『毛宗崗批評『三國志演義』の研究』で第一回三国志学会賞を受賞した。 最近は渡邉教授と三国志関連の講演をする機会が多く、それぞれ正史と演義を担当。 推しメンは劉備。 今回は演義の事典になります。 渡邉 前回は、自分が今までやってきた三国志の研究を総まとめにしたいという気持ちもあって、一人で事典を執筆させていただきました。 ただ、横山光輝さんの漫画でも、吉川英治さんの小説でも、日本で三国志と呼ばれているものはほとんどが『三国志演義』なんですよね。 読者の方々からも「演義の事典は出ないの?」とよく言われました。 みなさんが演義の方も読みたいのはわかっているんですが、『三国志演義』は口語体で書かれた白話小説で、僕が読めないところも多い。 事典という形にするのは、プレッシャーがあります。 そこで、専門家の仙石さんに共著をお願いしました。 渡邉 正史の『三国志』は、紀伝体で書かれていて、皇帝の伝記と臣下の伝記から成り立っています。 だから、部分的に読んでも時代的な流れはつかめないし、65巻を読むのも大変です。 一般の人でも読みやすくしてハードルを下げたのが『三国志演義』ですが、1000年も経つと語彙も違ってきます。 さらに、主人公も変わっています。 『三国志』を陳寿に書かせた西晉は魏の正統を受け継いでいるので、曹操が中心になっています。 『三国志演義』ができる時代には朱子学が国家の学問で、その創始者である朱熹は僕と同じ諸葛亮マニアなんです。 当然のように蜀漢を正統とした物語が描かれるわけですよ。 正史にもある部分は通常の書体を使って、どの記述が正史で、どこが演義なのかが分かるようになっています。 渡邉 実はこの作業が一番大変でした。 章学誠という清の学者が、演義を「7分の真実、3分の虚構」と言っているものの、どの部分がフィクションなのかは、専門家でもなかなかわかりにくい。 それをちゃんと見やすくしたものがあれば便利だと思ったんですが…。 自分で作ると、こんなに苦労するとは(笑)。 文学的にどう表現されているのか、当時の社会背景とどう密接にかかわっているのかをまとめていただき、この本の白眉(特に優れたもの)でもあります。 そもそも白眉の語源が、馬良(劉備に仕えた人物)なんですが(笑)。 仙石 『三国志演義』の中にもいくつかバリエーションがあって、実は日本と中国で読まれているものは違うんです。 中国で演義といえば17世紀後半に成立した「毛宗崗本」ですが、日本で翻訳されたのはその前に出回った「李卓吾本」です。 毛宗崗という人は、李卓吾本からどう修正したかの説明や、この場面で登場人物がなぜそう行動したかなどについて、批評を加えています。 その部分は非常に面白く、日本で三国志マニアを自負する方々にとっても興味深いのではないかと思います。 渡邉 演義はいろんな物語を組み合わせてできたもので、成立するまでの過程ではさまざまな矛盾がありました。 それを史実との整合性を高めて細部をつくりあげたのが毛宗崗本です。 たとえば、曹操が関羽を「漢寿亭侯」にしたという話が、正史にもあります。 日本では、「寿亭侯」の印鑑をもらった関羽が喜ばなかったので、漢の臣下であることを明確にする一文字を加えたと知られています。 ですが、そもそも「漢寿」というのは地名なので、毛宗崗本では、漢の文字を後から加えたのは削除されています。 とてもいいフィクションなんですけどね。 仙石 漢の字があったぐらいのことで喜ぶような関羽では、中国の人々が考える関羽の人物像として望ましくない、という理由もあったのではないでしょうか。 最近では、小説は読んでいなくてもゲームで武将の名前をよく知っている若い人も多いので、そういう方がいろいろ調べるために使ってもらえれば面白いかなと。 渡邉 周瑜(呉の重臣)は正史で「美周郎」と述べられていて、ゲームでも彼の顔のグラフィックで売れ行きが変わるぐらい人気だそうです。 小説だろうがゲームだろうが、三国志を楽しむときのお供にしていただくのが、事典の一番正しい使い方でしょう。 それと、三国志にはたくさんの人物が登場してきて、専門家でも錯綜することが多い。 吉川英治でも、張コウ(合におおざと)という魏の武将を3回殺してしまったと指摘されているぐらいですから。 それらの人物を、原則として正史で書かれた順に整理できたことは意義深いと思います。 劉備は仁の人というイメージで、かっこ良くて憧れました。 18歳のときに中国の大学の文学部に入ると、周りの中国の学生は子どもの頃に『三国志演義』を原文で読んでいて、みんな劉備よりも曹操が好きなんです。 しばらくは三国志以外の研究をやっていたのですが、演義に登場する貂蝉(「連環の計」で知られる女性)をテーマに論文を書いてみると、昔読んだときにはなかった感動があって。 あらためて演義の世界にのめりこみました。 日本では西郷隆盛が近いでしょうか。 特に今の中国だと、前に出ていかないと埋もれてしまう社会ですから、曹操のように自ら変革していく人物が人気なんです。 諸葛亮もそんなに流行らない。 僕に言わせれば『三国志演義』は、読んだ人が諸葛亮ファンになるように書かれているはずなんですけどね。 徐庶は劉備が諸葛亮に出会う前にようやく見つけた軍師で、母親を捕らえた曹操によって偽の手紙で呼び出されます。 親孝行な徐庶は母親の元へと行きますが、母はそんな我が子に怒って自害してしまうんです。 この話は、初めて読んだ頃にはそこまで印象に残りませんでしたが、自分が母親になって感じるものがあります。 忠よりも孝が大事だと考えて徐庶を送り出す劉備にも、グッと来ますね。 渡邉 高校2年のときに吉川英治の三国志を読んで、諸葛亮の悲運にひきつけられたんです。 そのまま入れ込んで、三国志の勉強をしようと理系から転向して、今に至ります。 だから、好きな場面は五丈原しかありえません。 流れ星が落ちてきて、諸葛亮が「あれが私の将星だ」と言う場面があるのですけども。 衝撃的なのは、五丈原に行くとその隕石があるんです(笑)。 特に案内もされていないので、観光客は誰も気付かないのですが、諸葛亮好きにとってはたまりません。 今回の事典にも、私が撮った写真を載せました。 渡邉 東京と福岡で開催される特別展「三国志」では、曹操のお墓「曹操高陵」の出土品が展示されていますが、曹操高陵のほかにも、彼の孫かひ孫世代のものとされる同じ形式の墓も見学させてもらいました。 そちらの墓の写真も貴重かもしれないです。 これは、川本喜八郎作の人形を再現した関羽のフィギュア。 渡邉 関羽が持っている青龍偃月刀は、重さが50キロあるんですよ。 東大で授業をしたときに、青龍偃月刀を振り回すためには700キロの握力が必要というレポートを提出した学生がいて。 関羽の握力は700キロだと(笑)。 誰が一番強いとか。 渡邉 強いのは、もちろん呂布ですよ。 正史でも演義でも圧倒的です。 ただし、当時は武将が一騎打ちすることは基本的にないので、個の強さはあまり意味がないかもしれません。 軍を率いて強いのは曹操でしょうね。 仙石 演義からすると、自業自得な人物だと思いますよ。 吉川英治の三国志では、呂布の愛した女性である貂蝉が自殺するストーリーになっていますが、呂布は彼女のことを忘れられず、似ている女性を愛人にして「貂蝉」と呼んでいるんですよ。 そういう男性は、女性からは支持されないと思います(笑)。 渡邉 2010年のテレビドラマ「三国志 Three Kingdoms」では、ピーター・ホー演じる呂布が女性に優しい男で、彼を支えていく貂蝉の姿も描かれています。 正史だと貂蝉は登場せず、呂布も単に武勇伝が残っている人物ですが、現代の視聴者にはそういうストーリーの需要が生まれているということでしょうね。 だって、首が180度回るんですよ。 中国では今、司馬懿が人気で、彼が主人公のドラマが2017年に放映されたんです。 諸葛亮を差し置いて、許せない(笑)。 渡邉 民間説話のようなものはけっこうあります。 関羽の顔が赤くなった過程を描いたり、諸葛亮が気球を作ってみたり…。 たとえば1920年代に中華民国で書かれた『反三国志』は、蜀が三国を統一するというフィクションですが、個人的には文学として楽しめない。 そこには、僕の好きな諸葛亮の悲運がないから。 渡邉 話にブレがあった方が面白いという人もいれば、文学としての完成度が優れていた方が良いという人もいる。 人によって好みや解釈が違うからこそ、三国志について議論をするのは楽しいのでないかと思います。 仙石 劉備が死ぬ際、諸葛亮に後を託す場面でも、先生と私では解釈が違いますし。 渡邉 それについては『三国志事典』と『三国志演義事典』を読み比べていただくとして。 みなさんにも、三国志を話題にするときの有効な武器として、2つの事典を使ってほしいですね。

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