「悪い子だ……それ以上抵抗するなら、手ではなく、キスで塞いでやろう」 立ち読み 「ギイッ!! 」 相変わらずの唐突な神さまの訪問だったが、私はずっとこのときを待っていたのだ。 逃すまいとばかりにギイに飛びかかる。 幸い猫ではなく、人の姿であったため簡単に捕まえることに成功した。 「……熱烈歓迎だな」 「本当にね! ずっと待ってたんだから!! 」 「私をか?」 「そうよ! この前だって、勝手に消えちゃって!! どれだけ不安だったか!! 」 猫の姿にさせるだけさせて、人が寝ている間にフラッと消えてしまった恨みを忘れてはいない。 私はぎゅっとギイの服の袖を握りしめる。 「……すまなかったな」 「いいの、それはもう解決したから……でも……」 「でも?」 「どうしても教えて欲しいことがあるの」 私は覚悟を決めてギイを見上げた。 「なんだ? 私で答えられることならなんでも答えよう」 「ちょっ、神さまがそんな簡単に約束しちゃっていいわけ? 私が次のロト6の当たり番号とか聞いたらどうするわけ?」 「翠が邪な心根の持ち主でないことは、私が一番知っている」 「……そっか、ありがとう。 そんなこと言ってくれる人、ここではギイだけだよ」 久しぶりにきちんと私自身を見てくれる人がいることに、思わず目に涙が浮かんだ。 「人でも神でもないがな」 「もうそれはいいから……」 相変わらずのギイの返答に、久しぶりに心からの笑いがれた。 「で、何が聞きたい?」 「シリルさまが……」 事実を口にするのを躊躇い途切れてしまう。 だが知らねばならない、そう思って口にする。 「シリル・ラディスラス・ラヴァル陛下がエスメラルダ・アナ・イニエスタ王女を嫌っている理由を」 私の言葉にギイはわかった、と頷くと、どこからか分厚い本を取り出した。 いや、本と呼ぶには大き過ぎるかもしれない。 縦三十センチ、横六十センチはありそうなサイズで、しかも厚みは二十センチ以上。 いったいそんなに何が書かれているのかと、つい覗き込みたくなる大きさだった。 カバーは重厚な感じの黒い革でできており、内容を示す文字は一切ない。 その巨大な本をギイは平然と片手で持ち、パラパラと紙をる。 やっぱり人間離れしているな、なんて思いつつも黙って見守ることにした。 「ああ、あった」 ギイがそんな呟きを発したのは、およそ五分後だった。 「何があったの?」 「しばし待て」 そう言うと、ギイは再び黙って本を読んだあと、パタリとそれを閉じ服の中へしまう。 ……服の中、どうなってるんだろう? そんな疑問がふと湧いたが、それは今はどうでもいい。 じっとギイを見つめて、ギイがしゃべるのを待った。 「エスメラルダとシリルの出逢いは、今から十三年前に開かれた、エスメラルダのデビュタントのパーティーだったようだ」 「十三年ってことは……エスメラルダは十二才ね」 「そうだ、当時十七才でまだ王太子だったシリルに一目れをしたらしい」 まあエスメラルダがシリルさまに惚れたとしても驚かない。 シリルさまは男前だし、それに十代の頃は年上に憧れるものだ。 五才上なんてすごく大人に感じて魅力的だろう。 「でも皆、初めての顔合わせって言っていたわ」 「婚約してからは会うのが初めてだからだろう?」 その説明に私はふうんと頷いた。 政略結婚だとシリルさまが強調していたけど、親が決めたのではなく、エスメラルダ自身が強く望んで成立したのかもしれない。 「で、肝心のお前が……いや、エスメラルダが嫌われている理由だが……」 私は緊張で身を固くした。 「シリルは公にする前ではあったが、当時すでに婚約者がいたらしい。 「勘違いするなよ。 シリルにとっても相手の婚約者にとっても完全なる政略結婚だ。 そのときの政治的情勢によって婚約者が変わることなんて、王族にはよくあることだ。 そのことで恨んではいないはずだ」 ギイの言葉に私は謎が深まる。 「じゃあどうして? 他に理由があるの?」 私の質問にギイはため息交じりに言う。 「……とりあえず私の話を最後まで聞け、いいな?」 はやる気持ちを抑え、私は黙って頷いた。 「王太子の婚約者になる女性だ。 身分もそれなりだったのだろう。 当然エスメラルダのデビュタントパーティーにも出席していたらしい。 ラヴァル王国からも大勢の出席者がいたようだからな」 確かにそうだろう。 一貴族ではなく王族のデビュタントなのだ。 自国の貴族に加え、海外の貴族の主だった人たちも招待したはずだ。 王太子の婚約者なら事情を知っていたエスメラルダの両親が、今後の付き合いも考えて内々に招待した可能性もある。 でも、これまでのエスメラルダの評判を聞く限り、期待できそうもない。 「そうだ。 大勢の招待客の前で辱め、め、いびり、そして婚約者を奪い取った」 「うわっ……最低」 思わずぼそりと呟くが、ではない。 ……これは完璧に人間性を嫌われている。 そりゃ、そんな最低な人間、誰だって嫌だわ。 納得した。 シリルさまの中では、きっと私はゴキブリ以下だろう。 「……どうしてそんな嫌っているなら、婚約を?」 「前ラヴァル王とイニエスタ王の取り決めだ。 王族の結婚に一番必要ないものは愛だそうだ」 私は足元がふらつくのを必死でえ、もうひとつの質問をする。 「エスメラルダは動物をめていた?」 シリルさまは、私が猫に当たっているのを見たと言っていたが……本当なのだろうか。 私がじっと見つめる中、ギイは本を開くことなく答えた。 「先ほどと同じページに記載があったのを覚えている。 自分の足元にすり寄って来た猫を蹴りつけていたのを、シリルが目撃している。 念のため付け加えておくと、エスメラルダは極度の猫嫌いだったらしい。 なんでも猫が近くにいると、くしゃみや鼻水が止まらなくなるらしい」 「くしゃみ……猫アレルギーだったのかしら? でも、蹴りつけるなんて、ひどい!! 」 エスメラルダの色々な話を聞いてはいたが、こうして神さまから事実を知らされると沈んだ。 好き勝手に流れる噂とは違う、すべてが真実だからだ。 「……翠とは真逆な性質の者の中に入ったとは皮肉だな。 私はお前に拾われ、助けられた」 「そう思うなら……どうして、どうして、彼女の中に私を入れたの? 私に何をさせたいの?」 感情を抑えきれずに、ギイに詰め寄る。 「何も、ただあいている身体が他になかった」 「何その理由!! ひどい!」 「仕方ないだろう。 転生にも様々な規定があり、すべてをパスしなければ器として成り立たない。 翠の場合はたまたま器として候補にあがったのがエスメラルダだったんだ」 「なら今からでも他に転生先を選べないの? 王女さまじゃなくていい。 可愛くなくたっていい、平凡な普通の人でいいから……」 せめて周りの人から愛されたい。 そう思うのは贅沢なのだろうか? 「無理だ。 記憶を残したままで魂を動かせるのは一度限り。 それ以上の移動は魂に傷をつけ、心を病む原因となってしまう」 「そんな……」 ついに堪えきれず涙が零れた。 ギイが申し訳なさそうに私を見つめる。 「すまない翠、私も知らなかったのだ。 「八十年? なんで? 調べれば何でも教えてくれる本なんでしょ?」 「そうだが……あの厚さを見ただろう? この大地が弱っているとか、この種が絶滅しそうだなんて重要なことばかりでなく、どこそこの猫が恋をした、なんてつまらんことまで逐一載るんだぞ?」 そう言ってギイは天を仰ぐ。 「じゃあ、約束して。 ここで私が頑張る間はサポートしてくれるって」 周りがみんな私をそういう目で見ている中、一人でも真実の私を知ってくれている人がいる……味方がいるというのは私に力をくれるだろう。 「もちろんだ」 「ありがとう……色々無茶言ってごめんなさい。 ギイは本当なら日本で車にはねられて死んでしまう私に第二の人生をくれたんだもんね。 二度目のチャンス、無駄にしないで頑張らなきゃね」 「それでこそ、私の知る翠だ」 そう言って微笑むギイに私は頷いてみせる。 「あ、それと、これから先転生してくる人がいたら、必ず器の人生を調べるって約束して」 「……あの本でか?」 私はジトリとギイをむ。 「わかった、睨むな。 約束しよう。 次からは、こまめに本に目を通し、必ず調べてフォローを入れることにする」 「ありがとう」 妙に人間っぽいところもあるギイの姿に、私は微笑んだ。 するとギイは真剣な眼差しで私を見つめ言う。 「ならば翠も約束してくれ。 その姿でも決して幸せになることを諦めないと。 最近の翠は、部屋にってばかり、それに逃げ出してばかりだ」 私は痛いところをつかれ、ドキリとした。 思わず目を逸らした私の頭を、ギイはそっと撫でる。 「翠はそんな弱虫ではないだろう? 私をい大家に立ち向かったときのことを思い出せ」 ギイの言葉に、私は苦笑を浮かべる。 「なんか大家さんが悪い人みたいじゃない? ルールを破ったのは私だって……でも、ありがと」 このとき初めて弱気になっていた自分に気がついた。 そうだ、ずっとエスメラルダらしく生きようとしていたからダメなのだ。 エスメラルダが嫌われていると知った以上、彼女の真似をするのはやめだ。 折角ギイが与えてくれた二度目の人生なのだ。 悲観して過ごすなんてもったいない! 私は私らしく生きていこう。 王女さまらしくないと言われてもいいじゃない。 むしろそうすることで、誰かがエスメラルダの中にいる私に気がついてくれるかもしれない。 遅れてしまって申し訳ございませんでした」 聞き覚えのある声だった。 それよりもレノ、ご苦労だったな。 院長と話はできたか?」 やはりレノらしい。 院長とは先日私がお邪魔した孤児院のマティア院長のことだろう。 「はい。 ですが、新たに陛下へご報告すべきことは聞けませんでした」 いったい何を聞きに行っていたの? 私はしっぽを落ち着かなげに動かした。 「……そうか。 突然孤児院に行きたいなどと言うものだから、てっきり何か企んでいると思い、あえて院長と彼女が二人きりになる時間を作ったりもしたんだが……今回は様子見だったということか?」 私はピクリと耳が動き、しっぽの揺らぎが止まる。 ……猫の姿は不便だ。 人間と違って、考えていることがダイレクトに身体に出てしまう。 それにしても私は随分と疑われているようだ。 まあ無理もないが……こっそりと落ち込んでいると、レノの声が聞こえた。 「ながら、私には王女殿下が噂通りの悪人には思えませんでした」 私を撫でるシリルさまの手が止まる。 そして大きなため息を吐いた。 私が見上げると、シリルさまは目を閉じ、何かを考えているようだった。 やがて目を開けたシリルさまは、ゆっくりと話し出す。 「それは俺も感じていたことだ。 噂では孤児院などに興味を持つような女ではないし、あんな平民みたいなドレスを嬉しそうに着るとも思えない。 子供たちと遊び回り、料理をする。 別人かと疑いたくなるほどの変わりようだ。 まだ彼女の皮を被った別人だと言われたほうが信じられる」 大正解だ。 「王女殿下に関する噂は……噓なのでしょうか?」 「噓とは言いがたい。 かなり昔になるが実際に俺自身が体験し目撃している……だが、『人は変わるもの』か、もしそうならば……」 そう言いかけて、シリルさまは自嘲気味に笑った。 「いや、やめておこう……」 すっごい気になるんですけどっ! 「また彼女が孤児院に行くときは、お前も必ずついて行くんだ。 ほらほらっ! 私は鼻でフンと笑い、しっぽでシリルさまの手をべしべしと殴る。 「……どうした? 急に機嫌が悪くなったな?」 「は? 私ですか?」 レノは意味がわからないとばかりに、困惑している。 「いや、なんでもない、こっちの話だ」 私がジロリとシリルさまを見上げると、苦笑しながら私を見下ろしている彼と目が合った。 だがすぐに真っ直ぐ前に向き直ると、話を続ける。 「とにかくレノ、お前は彼女から目を離すな。 なによりも最優先事項だ」 「わかりました……次はシリルさまは行かれないのですか?」 「俺は、どうだろうな……考えておく」 考え込むように黙り込んでしまったシリルさま。 レノは「失礼します」と挨拶して退室して行った。 扉が閉まったあとも無言で私を撫で続ける。 私は盗み聞きをしてしまった罪悪感よりも、ショックのほうが大きかった。 「エスメラルダ……」 「ッニャ!」 急に名を呼ばれ反射的に返事をしたが、シリルさまは私を見ていなかった。 もしかして、今呼んだのは……人間の私? ……まさかね? 人間の私は、シリルさまから汚物のように嫌われているはずだ。 名前を呼ばれるはずがない。 「孤児院へついて行ったのは果たして正解だったのか……だがレノの報告だけでは、到底信じられなかっただろう。 自分の目で見てもまだ信じられないんだからな」 どうやらシリルさまは、以前の私と今の私のギャップに戸惑っているようだった。 「だが簡単に信じることはできない。 彼女が何を考えて行動しているのか、その目的がはっきりするまでは油断はできないんだ」 まだまだ疑われているが、これはいいことなのだ。 私は少し元気を取り戻した。 そんな願いを込めて、シリルさまの手をペロリと舐めた。 「なんだ? 甘えてるのか?」 「にゃあ」 ……駄目だ、伝わらない。 私はため息を吐いた。 「お前くらい、彼女が素直でわかりやすい女だったら良かったんだがな」 ちょ! わかってないくせに! わかったような口利かないで! ……ってなんか、痴話ゲンカみたいだな。 レノなんて素直に受け止めてくれているのに! 恨みを込めてシリルさまの手をカジカジする。 ……もちろん怪我をさせないように気をつけてだけど。 「どうした? お腹が空いてるのか?」 私は脱力感に襲われた。 言葉が通じないってすごく不便だ。 動かなくなった私を、シリルさまは抱っこすると、スタスタと部屋を歩き、奥の部屋へ。 気がついたときには、抱えられたままベッドの中に潜り込んでいた。 「にゃっ」 「どうした? 眠いんだろう?」 どうやら動かなくなった私を、眠たくなったものと勘違いして、一緒に寝ようとしているらしい。 ……確かに夜だけど、猫って夜行性じゃなかったっけ? 「今日はあまり相手をしてやれなくてすまなかったな。 明日は遊んでやるからな」 シリルさまはそう言うと、私のおでこにキスを落とす。 」 カチンと固まった私を見て、シリルさまは笑った。 明け方、ようやくシリルさまの腕の中から抜け出すことに成功した私は、抜き足差し足といった具合に起こさないよう万全の注意を払って部屋からの脱出を試みる。 というのも、さすがに猫の姿とはいえ抱きつかれたまま眠れはしなかった。 シリルさまの匂いや気配、息遣いを動物さながらの敏感さで、余計に強く感じてしまい、眠るどころか目はえる一方だったのだ。 一緒にお風呂の次は一緒に寝るなんて……猫姿とはいえ、私はドキドキしっぱなしで、このままでは心臓が持ちそうもない。 私はシリルさまが寝た頃を見計らってベッドから抜け出そうとしたが、思ったよりも強く抱きしめられていたようで、腕から抜け出すのに手間取ってしまった。 なんとか出たときには、結構な時間がかかってしまっていたことでシリルさまが起きてしまった。 「エスメラルダ……どこに行くんだ? 寒いから戻って来い」 そう言って連れ戻されたときの絶望感ときたら……。 明け方になってようやく抜け出せたのだ。 もう同じは踏むまい……。 起きないように細心の注意を払って外に通じるドアに近づく。 外の気配を窺うと、衛兵が立っているようだ。 私は傷つけないようにそっとドアを引っ搔く。 二人いるうちの一人の衛士が、私のたてるカリカリ音に気がついてくれたようだ。 「なあ、なんか音がしないか?」 「んあ? 音? ……確かに……あ! あれじゃないか、陛下の猫」 「ドアを引っ搔いているってことは、出たいのかな?」 そうです! 早く開けてください。 「ニャアン」 開けてもらったドアからスルリと出る。 城で情報を集める予定が、まさかの朝帰りになるとは……ヒルダが起こしに来る前に自室に戻らなくては面倒なことになってしまう。 急いで帰る私の背後から、衛士の呑気な声が聞こえた。
次の「悪い子だ……それ以上抵抗するなら、手ではなく、キスで塞いでやろう」 立ち読み 「ギイッ!! 」 相変わらずの唐突な神さまの訪問だったが、私はずっとこのときを待っていたのだ。 逃すまいとばかりにギイに飛びかかる。 幸い猫ではなく、人の姿であったため簡単に捕まえることに成功した。 「……熱烈歓迎だな」 「本当にね! ずっと待ってたんだから!! 」 「私をか?」 「そうよ! この前だって、勝手に消えちゃって!! どれだけ不安だったか!! 」 猫の姿にさせるだけさせて、人が寝ている間にフラッと消えてしまった恨みを忘れてはいない。 私はぎゅっとギイの服の袖を握りしめる。 「……すまなかったな」 「いいの、それはもう解決したから……でも……」 「でも?」 「どうしても教えて欲しいことがあるの」 私は覚悟を決めてギイを見上げた。 「なんだ? 私で答えられることならなんでも答えよう」 「ちょっ、神さまがそんな簡単に約束しちゃっていいわけ? 私が次のロト6の当たり番号とか聞いたらどうするわけ?」 「翠が邪な心根の持ち主でないことは、私が一番知っている」 「……そっか、ありがとう。 そんなこと言ってくれる人、ここではギイだけだよ」 久しぶりにきちんと私自身を見てくれる人がいることに、思わず目に涙が浮かんだ。 「人でも神でもないがな」 「もうそれはいいから……」 相変わらずのギイの返答に、久しぶりに心からの笑いがれた。 「で、何が聞きたい?」 「シリルさまが……」 事実を口にするのを躊躇い途切れてしまう。 だが知らねばならない、そう思って口にする。 「シリル・ラディスラス・ラヴァル陛下がエスメラルダ・アナ・イニエスタ王女を嫌っている理由を」 私の言葉にギイはわかった、と頷くと、どこからか分厚い本を取り出した。 いや、本と呼ぶには大き過ぎるかもしれない。 縦三十センチ、横六十センチはありそうなサイズで、しかも厚みは二十センチ以上。 いったいそんなに何が書かれているのかと、つい覗き込みたくなる大きさだった。 カバーは重厚な感じの黒い革でできており、内容を示す文字は一切ない。 その巨大な本をギイは平然と片手で持ち、パラパラと紙をる。 やっぱり人間離れしているな、なんて思いつつも黙って見守ることにした。 「ああ、あった」 ギイがそんな呟きを発したのは、およそ五分後だった。 「何があったの?」 「しばし待て」 そう言うと、ギイは再び黙って本を読んだあと、パタリとそれを閉じ服の中へしまう。 ……服の中、どうなってるんだろう? そんな疑問がふと湧いたが、それは今はどうでもいい。 じっとギイを見つめて、ギイがしゃべるのを待った。 「エスメラルダとシリルの出逢いは、今から十三年前に開かれた、エスメラルダのデビュタントのパーティーだったようだ」 「十三年ってことは……エスメラルダは十二才ね」 「そうだ、当時十七才でまだ王太子だったシリルに一目れをしたらしい」 まあエスメラルダがシリルさまに惚れたとしても驚かない。 シリルさまは男前だし、それに十代の頃は年上に憧れるものだ。 五才上なんてすごく大人に感じて魅力的だろう。 「でも皆、初めての顔合わせって言っていたわ」 「婚約してからは会うのが初めてだからだろう?」 その説明に私はふうんと頷いた。 政略結婚だとシリルさまが強調していたけど、親が決めたのではなく、エスメラルダ自身が強く望んで成立したのかもしれない。 「で、肝心のお前が……いや、エスメラルダが嫌われている理由だが……」 私は緊張で身を固くした。 「シリルは公にする前ではあったが、当時すでに婚約者がいたらしい。 「勘違いするなよ。 シリルにとっても相手の婚約者にとっても完全なる政略結婚だ。 そのときの政治的情勢によって婚約者が変わることなんて、王族にはよくあることだ。 そのことで恨んではいないはずだ」 ギイの言葉に私は謎が深まる。 「じゃあどうして? 他に理由があるの?」 私の質問にギイはため息交じりに言う。 「……とりあえず私の話を最後まで聞け、いいな?」 はやる気持ちを抑え、私は黙って頷いた。 「王太子の婚約者になる女性だ。 身分もそれなりだったのだろう。 当然エスメラルダのデビュタントパーティーにも出席していたらしい。 ラヴァル王国からも大勢の出席者がいたようだからな」 確かにそうだろう。 一貴族ではなく王族のデビュタントなのだ。 自国の貴族に加え、海外の貴族の主だった人たちも招待したはずだ。 王太子の婚約者なら事情を知っていたエスメラルダの両親が、今後の付き合いも考えて内々に招待した可能性もある。 でも、これまでのエスメラルダの評判を聞く限り、期待できそうもない。 「そうだ。 大勢の招待客の前で辱め、め、いびり、そして婚約者を奪い取った」 「うわっ……最低」 思わずぼそりと呟くが、ではない。 ……これは完璧に人間性を嫌われている。 そりゃ、そんな最低な人間、誰だって嫌だわ。 納得した。 シリルさまの中では、きっと私はゴキブリ以下だろう。 「……どうしてそんな嫌っているなら、婚約を?」 「前ラヴァル王とイニエスタ王の取り決めだ。 王族の結婚に一番必要ないものは愛だそうだ」 私は足元がふらつくのを必死でえ、もうひとつの質問をする。 「エスメラルダは動物をめていた?」 シリルさまは、私が猫に当たっているのを見たと言っていたが……本当なのだろうか。 私がじっと見つめる中、ギイは本を開くことなく答えた。 「先ほどと同じページに記載があったのを覚えている。 自分の足元にすり寄って来た猫を蹴りつけていたのを、シリルが目撃している。 念のため付け加えておくと、エスメラルダは極度の猫嫌いだったらしい。 なんでも猫が近くにいると、くしゃみや鼻水が止まらなくなるらしい」 「くしゃみ……猫アレルギーだったのかしら? でも、蹴りつけるなんて、ひどい!! 」 エスメラルダの色々な話を聞いてはいたが、こうして神さまから事実を知らされると沈んだ。 好き勝手に流れる噂とは違う、すべてが真実だからだ。 「……翠とは真逆な性質の者の中に入ったとは皮肉だな。 私はお前に拾われ、助けられた」 「そう思うなら……どうして、どうして、彼女の中に私を入れたの? 私に何をさせたいの?」 感情を抑えきれずに、ギイに詰め寄る。 「何も、ただあいている身体が他になかった」 「何その理由!! ひどい!」 「仕方ないだろう。 転生にも様々な規定があり、すべてをパスしなければ器として成り立たない。 翠の場合はたまたま器として候補にあがったのがエスメラルダだったんだ」 「なら今からでも他に転生先を選べないの? 王女さまじゃなくていい。 可愛くなくたっていい、平凡な普通の人でいいから……」 せめて周りの人から愛されたい。 そう思うのは贅沢なのだろうか? 「無理だ。 記憶を残したままで魂を動かせるのは一度限り。 それ以上の移動は魂に傷をつけ、心を病む原因となってしまう」 「そんな……」 ついに堪えきれず涙が零れた。 ギイが申し訳なさそうに私を見つめる。 「すまない翠、私も知らなかったのだ。 「八十年? なんで? 調べれば何でも教えてくれる本なんでしょ?」 「そうだが……あの厚さを見ただろう? この大地が弱っているとか、この種が絶滅しそうだなんて重要なことばかりでなく、どこそこの猫が恋をした、なんてつまらんことまで逐一載るんだぞ?」 そう言ってギイは天を仰ぐ。 「じゃあ、約束して。 ここで私が頑張る間はサポートしてくれるって」 周りがみんな私をそういう目で見ている中、一人でも真実の私を知ってくれている人がいる……味方がいるというのは私に力をくれるだろう。 「もちろんだ」 「ありがとう……色々無茶言ってごめんなさい。 ギイは本当なら日本で車にはねられて死んでしまう私に第二の人生をくれたんだもんね。 二度目のチャンス、無駄にしないで頑張らなきゃね」 「それでこそ、私の知る翠だ」 そう言って微笑むギイに私は頷いてみせる。 「あ、それと、これから先転生してくる人がいたら、必ず器の人生を調べるって約束して」 「……あの本でか?」 私はジトリとギイをむ。 「わかった、睨むな。 約束しよう。 次からは、こまめに本に目を通し、必ず調べてフォローを入れることにする」 「ありがとう」 妙に人間っぽいところもあるギイの姿に、私は微笑んだ。 するとギイは真剣な眼差しで私を見つめ言う。 「ならば翠も約束してくれ。 その姿でも決して幸せになることを諦めないと。 最近の翠は、部屋にってばかり、それに逃げ出してばかりだ」 私は痛いところをつかれ、ドキリとした。 思わず目を逸らした私の頭を、ギイはそっと撫でる。 「翠はそんな弱虫ではないだろう? 私をい大家に立ち向かったときのことを思い出せ」 ギイの言葉に、私は苦笑を浮かべる。 「なんか大家さんが悪い人みたいじゃない? ルールを破ったのは私だって……でも、ありがと」 このとき初めて弱気になっていた自分に気がついた。 そうだ、ずっとエスメラルダらしく生きようとしていたからダメなのだ。 エスメラルダが嫌われていると知った以上、彼女の真似をするのはやめだ。 折角ギイが与えてくれた二度目の人生なのだ。 悲観して過ごすなんてもったいない! 私は私らしく生きていこう。 王女さまらしくないと言われてもいいじゃない。 むしろそうすることで、誰かがエスメラルダの中にいる私に気がついてくれるかもしれない。 遅れてしまって申し訳ございませんでした」 聞き覚えのある声だった。 それよりもレノ、ご苦労だったな。 院長と話はできたか?」 やはりレノらしい。 院長とは先日私がお邪魔した孤児院のマティア院長のことだろう。 「はい。 ですが、新たに陛下へご報告すべきことは聞けませんでした」 いったい何を聞きに行っていたの? 私はしっぽを落ち着かなげに動かした。 「……そうか。 突然孤児院に行きたいなどと言うものだから、てっきり何か企んでいると思い、あえて院長と彼女が二人きりになる時間を作ったりもしたんだが……今回は様子見だったということか?」 私はピクリと耳が動き、しっぽの揺らぎが止まる。 ……猫の姿は不便だ。 人間と違って、考えていることがダイレクトに身体に出てしまう。 それにしても私は随分と疑われているようだ。 まあ無理もないが……こっそりと落ち込んでいると、レノの声が聞こえた。 「ながら、私には王女殿下が噂通りの悪人には思えませんでした」 私を撫でるシリルさまの手が止まる。 そして大きなため息を吐いた。 私が見上げると、シリルさまは目を閉じ、何かを考えているようだった。 やがて目を開けたシリルさまは、ゆっくりと話し出す。 「それは俺も感じていたことだ。 噂では孤児院などに興味を持つような女ではないし、あんな平民みたいなドレスを嬉しそうに着るとも思えない。 子供たちと遊び回り、料理をする。 別人かと疑いたくなるほどの変わりようだ。 まだ彼女の皮を被った別人だと言われたほうが信じられる」 大正解だ。 「王女殿下に関する噂は……噓なのでしょうか?」 「噓とは言いがたい。 かなり昔になるが実際に俺自身が体験し目撃している……だが、『人は変わるもの』か、もしそうならば……」 そう言いかけて、シリルさまは自嘲気味に笑った。 「いや、やめておこう……」 すっごい気になるんですけどっ! 「また彼女が孤児院に行くときは、お前も必ずついて行くんだ。 ほらほらっ! 私は鼻でフンと笑い、しっぽでシリルさまの手をべしべしと殴る。 「……どうした? 急に機嫌が悪くなったな?」 「は? 私ですか?」 レノは意味がわからないとばかりに、困惑している。 「いや、なんでもない、こっちの話だ」 私がジロリとシリルさまを見上げると、苦笑しながら私を見下ろしている彼と目が合った。 だがすぐに真っ直ぐ前に向き直ると、話を続ける。 「とにかくレノ、お前は彼女から目を離すな。 なによりも最優先事項だ」 「わかりました……次はシリルさまは行かれないのですか?」 「俺は、どうだろうな……考えておく」 考え込むように黙り込んでしまったシリルさま。 レノは「失礼します」と挨拶して退室して行った。 扉が閉まったあとも無言で私を撫で続ける。 私は盗み聞きをしてしまった罪悪感よりも、ショックのほうが大きかった。 「エスメラルダ……」 「ッニャ!」 急に名を呼ばれ反射的に返事をしたが、シリルさまは私を見ていなかった。 もしかして、今呼んだのは……人間の私? ……まさかね? 人間の私は、シリルさまから汚物のように嫌われているはずだ。 名前を呼ばれるはずがない。 「孤児院へついて行ったのは果たして正解だったのか……だがレノの報告だけでは、到底信じられなかっただろう。 自分の目で見てもまだ信じられないんだからな」 どうやらシリルさまは、以前の私と今の私のギャップに戸惑っているようだった。 「だが簡単に信じることはできない。 彼女が何を考えて行動しているのか、その目的がはっきりするまでは油断はできないんだ」 まだまだ疑われているが、これはいいことなのだ。 私は少し元気を取り戻した。 そんな願いを込めて、シリルさまの手をペロリと舐めた。 「なんだ? 甘えてるのか?」 「にゃあ」 ……駄目だ、伝わらない。 私はため息を吐いた。 「お前くらい、彼女が素直でわかりやすい女だったら良かったんだがな」 ちょ! わかってないくせに! わかったような口利かないで! ……ってなんか、痴話ゲンカみたいだな。 レノなんて素直に受け止めてくれているのに! 恨みを込めてシリルさまの手をカジカジする。 ……もちろん怪我をさせないように気をつけてだけど。 「どうした? お腹が空いてるのか?」 私は脱力感に襲われた。 言葉が通じないってすごく不便だ。 動かなくなった私を、シリルさまは抱っこすると、スタスタと部屋を歩き、奥の部屋へ。 気がついたときには、抱えられたままベッドの中に潜り込んでいた。 「にゃっ」 「どうした? 眠いんだろう?」 どうやら動かなくなった私を、眠たくなったものと勘違いして、一緒に寝ようとしているらしい。 ……確かに夜だけど、猫って夜行性じゃなかったっけ? 「今日はあまり相手をしてやれなくてすまなかったな。 明日は遊んでやるからな」 シリルさまはそう言うと、私のおでこにキスを落とす。 」 カチンと固まった私を見て、シリルさまは笑った。 明け方、ようやくシリルさまの腕の中から抜け出すことに成功した私は、抜き足差し足といった具合に起こさないよう万全の注意を払って部屋からの脱出を試みる。 というのも、さすがに猫の姿とはいえ抱きつかれたまま眠れはしなかった。 シリルさまの匂いや気配、息遣いを動物さながらの敏感さで、余計に強く感じてしまい、眠るどころか目はえる一方だったのだ。 一緒にお風呂の次は一緒に寝るなんて……猫姿とはいえ、私はドキドキしっぱなしで、このままでは心臓が持ちそうもない。 私はシリルさまが寝た頃を見計らってベッドから抜け出そうとしたが、思ったよりも強く抱きしめられていたようで、腕から抜け出すのに手間取ってしまった。 なんとか出たときには、結構な時間がかかってしまっていたことでシリルさまが起きてしまった。 「エスメラルダ……どこに行くんだ? 寒いから戻って来い」 そう言って連れ戻されたときの絶望感ときたら……。 明け方になってようやく抜け出せたのだ。 もう同じは踏むまい……。 起きないように細心の注意を払って外に通じるドアに近づく。 外の気配を窺うと、衛兵が立っているようだ。 私は傷つけないようにそっとドアを引っ搔く。 二人いるうちの一人の衛士が、私のたてるカリカリ音に気がついてくれたようだ。 「なあ、なんか音がしないか?」 「んあ? 音? ……確かに……あ! あれじゃないか、陛下の猫」 「ドアを引っ搔いているってことは、出たいのかな?」 そうです! 早く開けてください。 「ニャアン」 開けてもらったドアからスルリと出る。 城で情報を集める予定が、まさかの朝帰りになるとは……ヒルダが起こしに来る前に自室に戻らなくては面倒なことになってしまう。 急いで帰る私の背後から、衛士の呑気な声が聞こえた。
次の「悪い子だ……それ以上抵抗するなら、手ではなく、キスで塞いでやろう」 立ち読み 「ギイッ!! 」 相変わらずの唐突な神さまの訪問だったが、私はずっとこのときを待っていたのだ。 逃すまいとばかりにギイに飛びかかる。 幸い猫ではなく、人の姿であったため簡単に捕まえることに成功した。 「……熱烈歓迎だな」 「本当にね! ずっと待ってたんだから!! 」 「私をか?」 「そうよ! この前だって、勝手に消えちゃって!! どれだけ不安だったか!! 」 猫の姿にさせるだけさせて、人が寝ている間にフラッと消えてしまった恨みを忘れてはいない。 私はぎゅっとギイの服の袖を握りしめる。 「……すまなかったな」 「いいの、それはもう解決したから……でも……」 「でも?」 「どうしても教えて欲しいことがあるの」 私は覚悟を決めてギイを見上げた。 「なんだ? 私で答えられることならなんでも答えよう」 「ちょっ、神さまがそんな簡単に約束しちゃっていいわけ? 私が次のロト6の当たり番号とか聞いたらどうするわけ?」 「翠が邪な心根の持ち主でないことは、私が一番知っている」 「……そっか、ありがとう。 そんなこと言ってくれる人、ここではギイだけだよ」 久しぶりにきちんと私自身を見てくれる人がいることに、思わず目に涙が浮かんだ。 「人でも神でもないがな」 「もうそれはいいから……」 相変わらずのギイの返答に、久しぶりに心からの笑いがれた。 「で、何が聞きたい?」 「シリルさまが……」 事実を口にするのを躊躇い途切れてしまう。 だが知らねばならない、そう思って口にする。 「シリル・ラディスラス・ラヴァル陛下がエスメラルダ・アナ・イニエスタ王女を嫌っている理由を」 私の言葉にギイはわかった、と頷くと、どこからか分厚い本を取り出した。 いや、本と呼ぶには大き過ぎるかもしれない。 縦三十センチ、横六十センチはありそうなサイズで、しかも厚みは二十センチ以上。 いったいそんなに何が書かれているのかと、つい覗き込みたくなる大きさだった。 カバーは重厚な感じの黒い革でできており、内容を示す文字は一切ない。 その巨大な本をギイは平然と片手で持ち、パラパラと紙をる。 やっぱり人間離れしているな、なんて思いつつも黙って見守ることにした。 「ああ、あった」 ギイがそんな呟きを発したのは、およそ五分後だった。 「何があったの?」 「しばし待て」 そう言うと、ギイは再び黙って本を読んだあと、パタリとそれを閉じ服の中へしまう。 ……服の中、どうなってるんだろう? そんな疑問がふと湧いたが、それは今はどうでもいい。 じっとギイを見つめて、ギイがしゃべるのを待った。 「エスメラルダとシリルの出逢いは、今から十三年前に開かれた、エスメラルダのデビュタントのパーティーだったようだ」 「十三年ってことは……エスメラルダは十二才ね」 「そうだ、当時十七才でまだ王太子だったシリルに一目れをしたらしい」 まあエスメラルダがシリルさまに惚れたとしても驚かない。 シリルさまは男前だし、それに十代の頃は年上に憧れるものだ。 五才上なんてすごく大人に感じて魅力的だろう。 「でも皆、初めての顔合わせって言っていたわ」 「婚約してからは会うのが初めてだからだろう?」 その説明に私はふうんと頷いた。 政略結婚だとシリルさまが強調していたけど、親が決めたのではなく、エスメラルダ自身が強く望んで成立したのかもしれない。 「で、肝心のお前が……いや、エスメラルダが嫌われている理由だが……」 私は緊張で身を固くした。 「シリルは公にする前ではあったが、当時すでに婚約者がいたらしい。 「勘違いするなよ。 シリルにとっても相手の婚約者にとっても完全なる政略結婚だ。 そのときの政治的情勢によって婚約者が変わることなんて、王族にはよくあることだ。 そのことで恨んではいないはずだ」 ギイの言葉に私は謎が深まる。 「じゃあどうして? 他に理由があるの?」 私の質問にギイはため息交じりに言う。 「……とりあえず私の話を最後まで聞け、いいな?」 はやる気持ちを抑え、私は黙って頷いた。 「王太子の婚約者になる女性だ。 身分もそれなりだったのだろう。 当然エスメラルダのデビュタントパーティーにも出席していたらしい。 ラヴァル王国からも大勢の出席者がいたようだからな」 確かにそうだろう。 一貴族ではなく王族のデビュタントなのだ。 自国の貴族に加え、海外の貴族の主だった人たちも招待したはずだ。 王太子の婚約者なら事情を知っていたエスメラルダの両親が、今後の付き合いも考えて内々に招待した可能性もある。 でも、これまでのエスメラルダの評判を聞く限り、期待できそうもない。 「そうだ。 大勢の招待客の前で辱め、め、いびり、そして婚約者を奪い取った」 「うわっ……最低」 思わずぼそりと呟くが、ではない。 ……これは完璧に人間性を嫌われている。 そりゃ、そんな最低な人間、誰だって嫌だわ。 納得した。 シリルさまの中では、きっと私はゴキブリ以下だろう。 「……どうしてそんな嫌っているなら、婚約を?」 「前ラヴァル王とイニエスタ王の取り決めだ。 王族の結婚に一番必要ないものは愛だそうだ」 私は足元がふらつくのを必死でえ、もうひとつの質問をする。 「エスメラルダは動物をめていた?」 シリルさまは、私が猫に当たっているのを見たと言っていたが……本当なのだろうか。 私がじっと見つめる中、ギイは本を開くことなく答えた。 「先ほどと同じページに記載があったのを覚えている。 自分の足元にすり寄って来た猫を蹴りつけていたのを、シリルが目撃している。 念のため付け加えておくと、エスメラルダは極度の猫嫌いだったらしい。 なんでも猫が近くにいると、くしゃみや鼻水が止まらなくなるらしい」 「くしゃみ……猫アレルギーだったのかしら? でも、蹴りつけるなんて、ひどい!! 」 エスメラルダの色々な話を聞いてはいたが、こうして神さまから事実を知らされると沈んだ。 好き勝手に流れる噂とは違う、すべてが真実だからだ。 「……翠とは真逆な性質の者の中に入ったとは皮肉だな。 私はお前に拾われ、助けられた」 「そう思うなら……どうして、どうして、彼女の中に私を入れたの? 私に何をさせたいの?」 感情を抑えきれずに、ギイに詰め寄る。 「何も、ただあいている身体が他になかった」 「何その理由!! ひどい!」 「仕方ないだろう。 転生にも様々な規定があり、すべてをパスしなければ器として成り立たない。 翠の場合はたまたま器として候補にあがったのがエスメラルダだったんだ」 「なら今からでも他に転生先を選べないの? 王女さまじゃなくていい。 可愛くなくたっていい、平凡な普通の人でいいから……」 せめて周りの人から愛されたい。 そう思うのは贅沢なのだろうか? 「無理だ。 記憶を残したままで魂を動かせるのは一度限り。 それ以上の移動は魂に傷をつけ、心を病む原因となってしまう」 「そんな……」 ついに堪えきれず涙が零れた。 ギイが申し訳なさそうに私を見つめる。 「すまない翠、私も知らなかったのだ。 「八十年? なんで? 調べれば何でも教えてくれる本なんでしょ?」 「そうだが……あの厚さを見ただろう? この大地が弱っているとか、この種が絶滅しそうだなんて重要なことばかりでなく、どこそこの猫が恋をした、なんてつまらんことまで逐一載るんだぞ?」 そう言ってギイは天を仰ぐ。 「じゃあ、約束して。 ここで私が頑張る間はサポートしてくれるって」 周りがみんな私をそういう目で見ている中、一人でも真実の私を知ってくれている人がいる……味方がいるというのは私に力をくれるだろう。 「もちろんだ」 「ありがとう……色々無茶言ってごめんなさい。 ギイは本当なら日本で車にはねられて死んでしまう私に第二の人生をくれたんだもんね。 二度目のチャンス、無駄にしないで頑張らなきゃね」 「それでこそ、私の知る翠だ」 そう言って微笑むギイに私は頷いてみせる。 「あ、それと、これから先転生してくる人がいたら、必ず器の人生を調べるって約束して」 「……あの本でか?」 私はジトリとギイをむ。 「わかった、睨むな。 約束しよう。 次からは、こまめに本に目を通し、必ず調べてフォローを入れることにする」 「ありがとう」 妙に人間っぽいところもあるギイの姿に、私は微笑んだ。 するとギイは真剣な眼差しで私を見つめ言う。 「ならば翠も約束してくれ。 その姿でも決して幸せになることを諦めないと。 最近の翠は、部屋にってばかり、それに逃げ出してばかりだ」 私は痛いところをつかれ、ドキリとした。 思わず目を逸らした私の頭を、ギイはそっと撫でる。 「翠はそんな弱虫ではないだろう? 私をい大家に立ち向かったときのことを思い出せ」 ギイの言葉に、私は苦笑を浮かべる。 「なんか大家さんが悪い人みたいじゃない? ルールを破ったのは私だって……でも、ありがと」 このとき初めて弱気になっていた自分に気がついた。 そうだ、ずっとエスメラルダらしく生きようとしていたからダメなのだ。 エスメラルダが嫌われていると知った以上、彼女の真似をするのはやめだ。 折角ギイが与えてくれた二度目の人生なのだ。 悲観して過ごすなんてもったいない! 私は私らしく生きていこう。 王女さまらしくないと言われてもいいじゃない。 むしろそうすることで、誰かがエスメラルダの中にいる私に気がついてくれるかもしれない。 遅れてしまって申し訳ございませんでした」 聞き覚えのある声だった。 それよりもレノ、ご苦労だったな。 院長と話はできたか?」 やはりレノらしい。 院長とは先日私がお邪魔した孤児院のマティア院長のことだろう。 「はい。 ですが、新たに陛下へご報告すべきことは聞けませんでした」 いったい何を聞きに行っていたの? 私はしっぽを落ち着かなげに動かした。 「……そうか。 突然孤児院に行きたいなどと言うものだから、てっきり何か企んでいると思い、あえて院長と彼女が二人きりになる時間を作ったりもしたんだが……今回は様子見だったということか?」 私はピクリと耳が動き、しっぽの揺らぎが止まる。 ……猫の姿は不便だ。 人間と違って、考えていることがダイレクトに身体に出てしまう。 それにしても私は随分と疑われているようだ。 まあ無理もないが……こっそりと落ち込んでいると、レノの声が聞こえた。 「ながら、私には王女殿下が噂通りの悪人には思えませんでした」 私を撫でるシリルさまの手が止まる。 そして大きなため息を吐いた。 私が見上げると、シリルさまは目を閉じ、何かを考えているようだった。 やがて目を開けたシリルさまは、ゆっくりと話し出す。 「それは俺も感じていたことだ。 噂では孤児院などに興味を持つような女ではないし、あんな平民みたいなドレスを嬉しそうに着るとも思えない。 子供たちと遊び回り、料理をする。 別人かと疑いたくなるほどの変わりようだ。 まだ彼女の皮を被った別人だと言われたほうが信じられる」 大正解だ。 「王女殿下に関する噂は……噓なのでしょうか?」 「噓とは言いがたい。 かなり昔になるが実際に俺自身が体験し目撃している……だが、『人は変わるもの』か、もしそうならば……」 そう言いかけて、シリルさまは自嘲気味に笑った。 「いや、やめておこう……」 すっごい気になるんですけどっ! 「また彼女が孤児院に行くときは、お前も必ずついて行くんだ。 ほらほらっ! 私は鼻でフンと笑い、しっぽでシリルさまの手をべしべしと殴る。 「……どうした? 急に機嫌が悪くなったな?」 「は? 私ですか?」 レノは意味がわからないとばかりに、困惑している。 「いや、なんでもない、こっちの話だ」 私がジロリとシリルさまを見上げると、苦笑しながら私を見下ろしている彼と目が合った。 だがすぐに真っ直ぐ前に向き直ると、話を続ける。 「とにかくレノ、お前は彼女から目を離すな。 なによりも最優先事項だ」 「わかりました……次はシリルさまは行かれないのですか?」 「俺は、どうだろうな……考えておく」 考え込むように黙り込んでしまったシリルさま。 レノは「失礼します」と挨拶して退室して行った。 扉が閉まったあとも無言で私を撫で続ける。 私は盗み聞きをしてしまった罪悪感よりも、ショックのほうが大きかった。 「エスメラルダ……」 「ッニャ!」 急に名を呼ばれ反射的に返事をしたが、シリルさまは私を見ていなかった。 もしかして、今呼んだのは……人間の私? ……まさかね? 人間の私は、シリルさまから汚物のように嫌われているはずだ。 名前を呼ばれるはずがない。 「孤児院へついて行ったのは果たして正解だったのか……だがレノの報告だけでは、到底信じられなかっただろう。 自分の目で見てもまだ信じられないんだからな」 どうやらシリルさまは、以前の私と今の私のギャップに戸惑っているようだった。 「だが簡単に信じることはできない。 彼女が何を考えて行動しているのか、その目的がはっきりするまでは油断はできないんだ」 まだまだ疑われているが、これはいいことなのだ。 私は少し元気を取り戻した。 そんな願いを込めて、シリルさまの手をペロリと舐めた。 「なんだ? 甘えてるのか?」 「にゃあ」 ……駄目だ、伝わらない。 私はため息を吐いた。 「お前くらい、彼女が素直でわかりやすい女だったら良かったんだがな」 ちょ! わかってないくせに! わかったような口利かないで! ……ってなんか、痴話ゲンカみたいだな。 レノなんて素直に受け止めてくれているのに! 恨みを込めてシリルさまの手をカジカジする。 ……もちろん怪我をさせないように気をつけてだけど。 「どうした? お腹が空いてるのか?」 私は脱力感に襲われた。 言葉が通じないってすごく不便だ。 動かなくなった私を、シリルさまは抱っこすると、スタスタと部屋を歩き、奥の部屋へ。 気がついたときには、抱えられたままベッドの中に潜り込んでいた。 「にゃっ」 「どうした? 眠いんだろう?」 どうやら動かなくなった私を、眠たくなったものと勘違いして、一緒に寝ようとしているらしい。 ……確かに夜だけど、猫って夜行性じゃなかったっけ? 「今日はあまり相手をしてやれなくてすまなかったな。 明日は遊んでやるからな」 シリルさまはそう言うと、私のおでこにキスを落とす。 」 カチンと固まった私を見て、シリルさまは笑った。 明け方、ようやくシリルさまの腕の中から抜け出すことに成功した私は、抜き足差し足といった具合に起こさないよう万全の注意を払って部屋からの脱出を試みる。 というのも、さすがに猫の姿とはいえ抱きつかれたまま眠れはしなかった。 シリルさまの匂いや気配、息遣いを動物さながらの敏感さで、余計に強く感じてしまい、眠るどころか目はえる一方だったのだ。 一緒にお風呂の次は一緒に寝るなんて……猫姿とはいえ、私はドキドキしっぱなしで、このままでは心臓が持ちそうもない。 私はシリルさまが寝た頃を見計らってベッドから抜け出そうとしたが、思ったよりも強く抱きしめられていたようで、腕から抜け出すのに手間取ってしまった。 なんとか出たときには、結構な時間がかかってしまっていたことでシリルさまが起きてしまった。 「エスメラルダ……どこに行くんだ? 寒いから戻って来い」 そう言って連れ戻されたときの絶望感ときたら……。 明け方になってようやく抜け出せたのだ。 もう同じは踏むまい……。 起きないように細心の注意を払って外に通じるドアに近づく。 外の気配を窺うと、衛兵が立っているようだ。 私は傷つけないようにそっとドアを引っ搔く。 二人いるうちの一人の衛士が、私のたてるカリカリ音に気がついてくれたようだ。 「なあ、なんか音がしないか?」 「んあ? 音? ……確かに……あ! あれじゃないか、陛下の猫」 「ドアを引っ搔いているってことは、出たいのかな?」 そうです! 早く開けてください。 「ニャアン」 開けてもらったドアからスルリと出る。 城で情報を集める予定が、まさかの朝帰りになるとは……ヒルダが起こしに来る前に自室に戻らなくては面倒なことになってしまう。 急いで帰る私の背後から、衛士の呑気な声が聞こえた。
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